1549日目・・・さがみにカミにカミて・・・「相模」と「佐賀ハン」・・・「ブブ」を捜しにサガした(?)けれど・・・家に帰還しない「モモの子猫」の無残な「ブブ」の夢を視た・・・

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 以下、原文は「ウイッキペデア」、その他の「ブログ記事」など・・・
  ↓
 「名護屋城(なごやじょう)=(古くは名久野)」は、肥前国松浦郡名護屋佐賀県唐津市東松浦郡玄海町・旧東松浦郡鎮西町呼子町)にあった城。豊臣秀吉文禄・慶長の役に際し築かれた・・・「呼子町」・・・
 ↓
 対馬島主の
 宗義智
 (対馬島主・将盛の子・幼名は彦三,彦七)
 から交渉決裂を聞いた
 豊臣秀吉は、
 天正十九年(1591年)八月
 「唐(から・トウ・もろこし)入り」を
 天正二十年(1592年)
 春に決行宣言
 肥前
 「名護屋」に前線基地としての
 城築造を
 九州の大名に命じた
 秀吉は自分の
 地元
 「名古屋」と同じ
 ナゴヤ名護屋)という地名を
 奇遇とし、
 城の立つ山の名前が
 「勝男山」と縁起がいいと、
 この地で築城
 この地の領主であった
 「波多親」はこれに反対
 秀吉は
 甥の内大臣
 豊臣秀次に関白を譲渡し
 自らは
 太閤となり
 九月
 平戸城
 松浦鎮信に命じて
 壱岐
 「風本」に築城
 築城の担当は、
 平戸城松浦鎮信
 日野江城有馬晴信
 大村城主大村喜前、
 五島城主五島純玄であった
 (宇久純玄→姓を五島純玄に改名)
 ・・・城跡から出土した瓦に「天正十八年」の銘があるものが発見・・・
 十月上旬、
 全国の諸大名が
 名護屋へ到着し、城普請に取掛かった
 『松浦古事記
 によれば、
 20万5570あまりの兵が
 高麗へ渡り、
 名護屋在陣は
 10万2415兵で、
 総計30万7985兵で陣立
  ↓
 ・・・『松浦・古事記』・・・?・・・タイトルが「(松浦)古事記」と記録された「書物」とは?・・・
ーーー
  ↓↑
http://tamatorijisi.web.fc2.com/matuurakojiki3.html
 松浦古事紀に就て

一 本書は著者不明なるも、書中の記事より察するに、
  寛政元年の作なるものゝ如し。
   ↓↑
 寛政(かんせい)元年
 天明の後、享和の前
 1789年〜1801年までの期間
 時代の天皇
 光格天皇
 江戸幕府将軍は
 第十一代、
 徳川家斉
  ↓
 寛政元年
 蝦夷騒擾
 「国後・目梨の戦」
 アイヌ民族
 松前藩に対する
 近世最後の武力闘争
 「寛政蝦夷乱・国後騒動・寛政元年蝦夷騒擾」
 などと称された
 近代以降は
 「寛政元年の蝦夷騒乱
  寛政の乱
  国後・目梨の乱
  クナシリ・メナシ地方アイヌの蜂起」
 などとも称される
 「シャクシャインの戦」が敗北して以来
  アイヌ民族に対する
  松前藩の支配が一段と強化され
  とりわけ
  元禄・享保期(1688〜1736)に
  場所請負制が成立するや
  アイヌ民族
  交易相手から
  漁場の
  労務者へと変質させられていった・・・
   ↓
一 本書の上中二巻は
   松浦の史蹟傳説等を集輯したるものにして、
   虚構妄誕の箇処少からざるも、
   亦以て捨て難き
   貴重の記事の存するを認めざるを得ざるなり。
一 下巻は小瀬甫菴道喜撰の
   太閤記中より
   征韓役に関する部分を
   抜抄せられたるものにして、
   当時の松浦を知る重要の参考資料なり。
一 本書は再三転写せらるゝに当り、
   誤記脱字当字等愈多きを加へたるものゝ如く、
   何れを原據と定め難きも、
   牧川駒太郎氏所蔵のものを主とし、
   久間宇喜太郎氏、
   秀鳥與一郎氏所蔵のものと
   比較対照して
   訂正を加へたるものなり。
ーーー
  ↓
 加藤清正
 寺沢広高
 名護屋城の普請奉行
 九州の諸大名を中心に動員し、
 突貫工事で8か月後の
 文禄元年(1592年)3月に完成
 規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ
 「ルイス・フロイス」が
 「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した
 名護屋には、全国より大名衆が集結し、
 「野も山も空いたところがない」と
 「水戸の
  平塚滝俊」が書状に記している
  ↓
  名護屋城
  もともと
 「松浦党
  旗頭
  波多氏の一族である
  名護屋氏の居城、
  垣添城があった場所」・・・
  「カキゾエジョウ」である・・・「歴史上人為的に破却されたのが名護屋城」・・・「臣秀吉の死後、建物は寺沢広高によって唐津城に移築された」らしい・・・
 「石垣も江戸時代の
  島原の乱の後に
  一揆などの
  立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却」・・・
 「それ以前の一国一城令を受けての破却とも、
  名護屋城を破壊することで
  幕府が
  明国や朝鮮と関係を改善する意思表示」・・・?
 「大手門は
  伊達政宗に与えられ、
  仙台城に移築された」・・・?
 ・・・相模(さがみ)→佐賀(さが)←名護屋城肥前(佐賀)←豊前(大分)←中津←黒田長政黒田孝高(官兵衛・如水)←播磨(備前・福岡)から移封・・・→筑前・名島(福岡藩・藩庁は福岡城(福岡県福岡市)・・・2代・黒田忠之以降の歴代藩主に、松平の名字と将軍実名一字を授与した。江戸城大広間筆頭、松平黒田家として幕末に至る。極官は左近衛権少将・・・
  ↓
 黒田長政(くろだ ながまさ・ダミアン)
 筑前福岡藩初代藩主
 戦国武将、
 黒田孝高(官兵衛・如水・シメオン)の長男
 九州征伐の功績で
  ↓
 豊前
 中津の大名
 文禄・慶長の役などでも活躍
 関ヶ原の戦いでは東軍
 徳川家康より
  ↓
 筑前
 名島に
  ↓
 入府当初の居城は名島城
 慶長六年(1601年)当時、
 堺と並ぶ商人の街博多の隣に接する
 那珂(なか)川の西側、
 福崎の地を
 備前
 黒田氏故地、
 福岡と名を改め、築城に着工し、
 慶長十一年(1606年)に
 約6年をかけて広大な城郭は完成
 福岡城
 別名は
 舞鶴
  ↓
 52万3,000石の大封を受け、
 福岡藩を立藩
 初代藩主
 父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、
 棄教・・・
 三代
 黒田光之は、
 貝原益軒に命じて
 黒田家正史、
 『黒田家譜』を編纂
 保守的な重臣を遠ざけて
 新参の
 鎌田昌勝や
 立花重根を家老として新たに登用
 黒田騒動・・・「森鴎外」の小説『栗山大膳』・・・
 栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)とも
 伊達騒動
 加賀騒動、または仙石騒動
 とともに
 三大お家騒動の一
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E8%97%A9
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 佐賀藩
 肥前国
 佐賀郡にあった外様藩
 肥前藩(ひぜんはん)とも
 鍋島氏が藩主であったことから
 鍋島藩(なべしまはん)とも
 明治維新を推進した
 薩長土肥の一
 現在の
 佐賀県長崎県の一部
 藩庁は佐賀城(佐賀市
 藩主ははじめ
 龍造寺氏、
 後に
 鍋島氏
 石高は35万7千石
 支藩として
 蓮池藩小城藩鹿島藩
  ↓
 鍋島氏は龍造寺氏の家臣
 龍造寺隆信の戦死後、
 鍋島直茂が領地を継承
 藩の成立後も
 残存する龍造寺分家との対立(鍋島騒動)
 「佐賀化け猫騒動」
  ↓↑
 天正十二年(1584年)
 沖田畷の戦い
 龍造寺隆信が敗死し、後を継いだ
 龍造寺政家が病弱だったため、
 実際の国政は隆信の義弟で重臣である
 鍋島直茂が掌握
 天正十八年(1590年)には
 豊臣秀吉の命により、
 龍造寺政家は隠居
 嫡男の
 龍造寺高房が相続
 秀吉は高房に所領安堵の朱印状を与えたが、
 同時に
 鍋島直茂にも4万4000石、
 その嫡男である
 鍋島勝茂にも7000石の所領安堵
 鍋島氏は龍造寺氏の家臣でありながら、
 大名並の所領を秀吉から承認され、
 同時に国政の実権を握っていた
 秀吉の朝鮮出兵には
 直茂と勝茂は龍造寺軍を率いて渡海
 徳川家康
 龍造寺氏を無視し、鍋島氏の肥前支配を承認
 龍造寺高房はこの立場に絶望し、
 慶長12年(1607年)3月3日、
 江戸桜田屋敷で妻を刺殺し、自らも自殺未遂
 再度自殺を図り腹部の傷により
 9月6日に死去
 父の
 龍造寺政家
 10月2日に病死
 龍造寺氏の本家は断絶
 龍造寺の分家である
 多久氏
 須古氏
 諫早氏などが
 高房の後継者として
 鍋島直茂の嫡男・鍋島勝茂を推挙し、
 幕府も承認
 鍋島氏を
 肥前の国主とする
 佐賀藩が成立
 慶長十八年(1613年)
 鍋島直茂
 幕府から
 佐賀藩35万7000石の所領安堵の朱印状が交付
  ↓
 龍造寺高房の亡霊が白装束で馬に乗って現れては、夜中に城下を駆け巡るようになったという噂が立つ。
 この話が発展して、高房がかつて飼っていた猫が化けて出て直茂・勝茂に復讐を企て、鍋島氏の忠臣によって最終的には退治されるという化け猫騒動の筋書きとなる。
  ↓
 龍造寺本家は
 高房の子の
 龍造寺伯庵と
 高房の実弟
 龍造寺主膳が生き残っていた
 寛永十一年(1634年)
 伯庵と主膳は幕府に対して
 龍造寺家の再興を嘆願
 この訴訟は
 寛永十九年(1642年)まで続けられたが
 幕府は認めず、
 伯庵を
 会津藩
 保科正之に預け、
 主膳は
 大和郡山藩に預ける処分を下し、
 龍造寺家再興の道は絶たれた
 龍造寺から実権を奪った
 鍋島直茂
 元和四年(1618年)6月3日に81歳で死亡
 直茂は耳に腫瘍ができ、
 激痛での半ば悶死で
 龍造寺高房
 亡霊のしわざではないかと噂された
  ↓↑
 化け猫は
 「行灯(アンドン・ギョウトウ)の油を舐める」
 江戸時代の百科事典
 『和漢三才図会』に、
 「ネコが油を舐めることは怪異の兆候」
 「行灯に向かって二本足で立ち上がる姿」が
 妖怪視されたもの・・・
 ネコの神秘性は、
 江戸時代の
 遊郭に勤めていた
 遊女のイメージとも結びつき、
 当時の
 草双紙などで人気を博していた
 「化猫遊女」が生まれる元にもなった
 「猫又」が、
 「尻尾が二つに分かれる」ほど
 年を経たネコ
 老いたネコが
 化け猫になるという俗信が日本全国にある
  ↓
 化け「猫」が、化け「描」になうのだ・・・?
 「尻尾が二つに分かれる」は
 「尻=尸+九」と「尾=尸+毛」
 屍(尸)は「九州=隼人」、
 屍(尸)は「毛人=蝦夷
 更に、
 吉備(備前)と
 播磨(針間国・幡麻国)の境目の東西
 尾張の「名古屋」と
 筑前、佐賀の「名護屋
 「二つに分かれる」であろう・・・
 「豊後・豊前」・・・の「音」である・・・
 境目は「関が原・1600年」の東西である・・・
 「古事記」と「日本書紀」である
 そして
 「旧約聖書」と「新約聖書」である
 そして
 「史記」、
 「新・旧の唐書」、「前・後の漢書
  ↓
 茨城県や長野県では
 12年、
 沖縄県国頭郡では
 13年飼われたネコが化け猫になる
 広島県山県郡では
 7年以上飼われたネコは
 飼い主を殺すといわれる
 ネコの飼い始めに、
 あらかじめ
 飼う年数を定めておいたという地方も多い
 人間に残忍な殺され方をしたネコが
 怨みを晴らすため、
 化け猫になってその人間を呪う・・・
 化け猫のなす怪異
 人間に変化する
 手拭を頭にかぶって踊る
 人間の言葉を喋る
 人間を祟る
 死人を操る
 人間に憑く
 山に潜み、
 オオカミを引き連れて旅人を襲う
 宮城県
 牡鹿郡地島
 島根県隠岐諸島で、
 人間に化けたネコが相撲を取りたがった・・・
 ・・・「ネコが喋る」のはホントウです・・・
  ↓
 江戸時代には尾がヘビのように長いネコが化けるという俗信があり、尾の長いネコが嫌われ、尾を切る風習もあった。現在の日本のネコに尾の短いものが多いのは、尾の短い猫が好まれたことによる自然淘汰とする説もある・・・
 中国
 浙江省
 金華地方では、
 人間に
 3年飼われたネコは人間を化かす
 特に
 白いネコが化けやすいといって
 白いネコを飼うことを忌む風習もあり、
 人間を化かす能力を得る際には
 月から精力を取り込むといわれたことから、
 月を見上げるネコを見かけた者は、
 どんなに可愛いネコでも
 その場で殺した・・・
  ↓↑
 史実では、龍造寺氏は鍋島氏以前に肥前を治めていたが、龍造寺隆信の死後は彼の補佐だった鍋島直茂が実権を握った後、隆信の孫の高房が急死、その父の政家も自殺。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下の治安を乱したため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるため、天佑寺(佐賀市多布施)を建造した。これが騒動の発端とされ、龍造寺の遺恨を想像上のネコの怪異で表現したものが化け猫騒動だと考えられている。また、龍造寺氏から鍋島氏への実権の継承は問題のないものだったが、高房らの死や、佐賀初代藩主・鍋島勝茂の子が早くに亡くなったことなどから、一連の話が脚色され、こうした怪談に発展した。
 この伝説は後に芝居化され、
 嘉永時代には
 中村座
 『花嵯峨野猫魔碑史』として初上演
 題名の
 「嵯峨野(さがの)」は京都府の地名だが、
 実際には
 「佐賀」を
 もじ
 (モジ・文字・捩・錑・捩字・模字)ったモノ
 この作品は全国的な大人気を博したものの、
 鍋島藩から苦情が出たために
 間もなく上演中止に至った。
 しかし上演中止申請に携わった
 町奉行が鍋島氏の
 鍋島直孝だったため、却って化け猫騒動の巷説が有名になる結果となった。
 後年には
 講談
『佐賀の夜桜』、
 実録本
 『佐賀怪猫伝』として世間に広く流布
 講談では龍造寺の後室から怨みを伝えられたネコが小森半左衛門の母や妻を食い殺し、彼女らに化けて家を祟る。実録では龍造寺の一件は関係しておらず、鍋島藩士の小森半太夫に虐待された異国種のネコが怨みを抱き、殿の愛妾を食い殺してその姿に成り変わり、御家に仇をなすが、伊藤惣太らに退治されるという筋
 昭和初期にはこの伝説を原案とした
 『佐賀怪猫伝』
 『怪談佐賀屋敷』などの怪談映画が大人気となり、
 化け猫役を多く演じる
 入江たか子
 鈴木澄子といった女優が
 「化け猫女優」として知られることとなった
  ↓↑
 鎌倉時代の説話集
 『古今著聞集』には、
 奇妙な行動をとるネコを指して
 「魔の変化したものではないか」と疑う記述
 この頃の古い化け猫の話には、
 寺院で飼っていたネコが化けたなど、寺にまつわる話が多いことが特徴だが、これは当時の仏教の伝来にともない、
 経典を
 ネズミ(鼠・子)に齧られることを防ぐために
 ネコ(猫・根子)が一緒に輸入されたことが理由の一
 江戸時代に入ると、
 化け猫の話は各種の随筆や怪談集に登場するようになる。民間伝承のように
 ネコが人間に化ける話や人間の言葉を喋る話は
 『兎園小説』
 『耳嚢
 『新著聞集』
 『西播怪談実記』などに、
 ネコが踊る話は
 『甲子夜話
 『尾張霊異記』
 などに見られる
 『耳嚢』4巻によれば、
 どのネコも
 10年も生きれば言葉を話せるようになり
 キツネとネコの間に生まれた
 ネコは10年と経たずとも口がきける、
 と述べられている
 老いたネコが人間の老女に化けることが多い
 化け猫の怪談は
 江戸時代が全盛期
  ↓
 播磨国
 宍粟郡山崎町牧谷(兵庫県宍粟市内)
 辛川某なる人が化け猫を退治した話
 同様の話は同国の
 神西郡福崎村谷口(神崎郡福崎町谷口)
 金剛城寺で村人を困らせていた化け猫を寺侍が退治し、化け猫は茶釜の蓋や鉄鍋で矢や鉄砲玉を防いだという
 1909年(明治42年)に
 東京の
 本所の長屋でネコが踊り出したという記事が、
 『報知新聞』
 『萬朝報』
 『やまと新聞』に掲載
 猫の踊り場
 神奈川県横浜市
 泉区
 かつて東海道五十三次
 戸塚宿(神奈川県横浜市戸塚区)の
 醤油屋で、
 夜になると手拭が1本ずつなくなることがあった。ある夜に醤油屋の主人が仕事に出かけると、人のいないはずの寂しい場所から賑やかな音楽が聞こえた。見ると、そこには何匹ものネコたちが集まり、その中心では主人の飼いネコが手拭をかぶって踊っていた。主人は、手拭がなくなったのはあのネコの仕業かと納得したという。
 このネコの踊っていた場所は
 踊場と呼ばれ、後には
 泉区の踊場交差点や横浜市営地下鉄
 踊場駅の駅名などに地名として残されることとなった。
 踊場交差点には
 1737年(元文2年)に
 ネコの霊を鎮めるための供養塔が建てられており、
 踊場駅構内には随所に
 ネコをモチーフとしたデザインが施されている
  ↓
 お松大権現(おまつだいごんげん)
 徳島県阿南市加茂町
 江戸前期、加茂村(現・加茂町)の庄屋が不作にあえぐ村を救うために富豪に金を借りたが、すでに返済したにもかかわらず、富豪の策略で未返済の濡れ衣を着せられ、失意の内に病死。借金の担保になっていた土地は富豪に取り上げられてしまう。庄屋の妻のお松は奉行所に訴え出るも、富豪に買収された奉行は不当な裁きを下す。お松がそれを不服として藩主に直訴した結果、直訴の罪により処刑され、
 お松の飼っていた
 三毛猫が化け猫となり、
 富豪や奉行らの家を滅ぼしたという伝説に由来する。お松大権現は、命をかけて正義を貫いたお松の墓所を祀ったもので、お松の仇を討った三毛猫は猫塚として祀られており、境内には全国的にも珍しい
 ネコの狛犬もある。
 直訴によって悪人を倒したという伝説から、勝負事にもご利益があるといわれる
 猫大明神祠(ねこだいみょうじんし)
 佐賀県
 杵島郡
 白石町「鍋島の化け猫騒動」と同様、
 鍋島氏にまつわる怪異譚に由来する史跡
 化け猫が鍋島勝茂の妾に化けて勝茂の命を狙うが、勝茂の臣下の千布本右衛門がそれを退治する。しかしそれ以来、ネコの祟りのためか
 千布家に跡継ぎの男子が生まれなくなってしまったため、
 化け猫を大明神として
 秀林寺(白石町)の祠に祀った
 この祠には、
 7本の尾を持つネコが牙を向いた姿で刻まれている
 かつて
 白石を治めていた秀氏の秀伊勢守が、鍋島氏に尽くしたにもかかわらず、キリシタンの疑いをかけられて滅ぼされ、後に秀氏の残党が鍋島氏を怨んで抗ったことから、秀林寺では秀氏一派の暗躍が化け猫にたとえられたものと見ており、これが「鍋島の化け猫騒動」の原型になったとの説もある
  ↓
 関ヶ原の合戦後、徳川家康の傘下に入った
 龍造寺高房
 鍋島直茂の養女を妻したが
 徳川2代将軍・徳川秀忠に仕える
 龍造寺高房は、江戸で、
 慶長十二年(1607年)
 三月三日に、妻を殺害して、自らも自殺
  ↓↑
 天正十二年(1584年)、
 龍造寺隆信
 島原半島に於いて
 島津氏・有馬氏の連合軍との戦いで敗死した。
 その遺児である政家の補佐役として実権を握ったのが、重臣の一人であった
 鍋島直茂である。
 天正十八年(1590年)には政家を廃してその子の高房を擁立、直茂はその後見人として豊臣秀吉より認められた。以後、鍋島氏は主家を圧倒することとなる。
 秀吉の朝鮮出兵である
 文禄・慶長の役
 秀吉死後の
 関ヶ原の戦いにおいても
 鍋島直茂が大将として参戦した。
 関ヶ原では
 西軍に与したが、
 同じ西軍の
 立花宗茂を攻略することで
 徳川家康より所領を安堵された。
  ↓
 慶長十二年(1607年)、江戸において高房が急死。これには鍋島氏に実権を握られて憤慨し失望した高房が、妻を殺害し自らも死のうとしたが果たせず、そのときの傷がもとでのちに亡くなったという説がある。高房の死後わずか1ヶ月後には、肥前に隠居していた父政家も急死。高房には遺児の伯庵、実弟の信清(のちの村田安良)・主膳がいたが直茂の命で伯庵が出家するなどここに龍造寺本家が事実上絶え、隆信と義兄弟の関係にあった直茂が嫡男の勝茂に龍造寺家の家督を引き継がせる形で佐賀藩35万7千石を手にし名実ともに大名となった。政家の遺領は信清が継ぎ、佐賀藩では龍造寺本家として扱われたが、
 慶長十三年(1608年)四月四日付けで直茂・勝茂に忠誠を誓う起請文を提出。ここに鍋島氏による領国支配が確立した。
 ↓
 慶長18年(1613年)幕府より勝茂に領地安堵の沙汰が出たことで漸く安泰をみた。
 徳川将軍家は、勝茂の嫡子忠直以降の歴代藩主に、松平の名字と将軍実名一字を授与した
  ↓
 江戸時代の佐賀藩
 35万7千石の大封でありながらその実情は、
 3支藩(蓮池、小城、鹿島)・
 鍋島
 4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)と
 龍造寺
 4分家(多久、武雄、諫早、須古)の各自治領があったため、藩主の実質知行高は6万石程度であった。龍造寺氏の支配体制を引き継いだため、龍造寺一族の所領もそのまま安堵する必要があったのである。このため、幕府への普請役への出費などを理由に、家臣の領地3割を返上させる「三部上地」を2度(慶長16年(1611年)、元和7年(1621年))実施し、直轄領拡大を行っている。1度目は全家臣、2度目は龍造寺4分家が対象となった。また、龍造寺4分家に差し出させた知行を支藩に割り当てたり、龍造寺4分家に養子を送り込むなどして、徐々に藩全体の鍋島化を図っていった。
 当初は、鍋島氏の一族鍋島生三、鍋島氏の外戚家門である石井氏の鍋島(石井)茂里らが藩政を主導していたが、のちに多久、諫早、武雄、須古の龍造寺4家が藩政の実権を握ってゆく。これは、藩政を龍造寺4家に担当させる一方、財政面の責任も取らせようとした「勝茂の真に巧妙な統治策」の結果であるという。寛永11年(1634年)、高房の遺児・伯庵が幕府に龍造寺家再興を訴え、その後もたびたび訴訟を起こしたが、佐賀藩の大勢は鍋島氏の支配を支持しており、幕府も伯庵の訴えを取り上げることはなかった。
 2代・光茂に仕えた山本常朝の口述を著した
 「武士道とは死ぬことと見つけたり
 で知られる
 『葉隠聞書』は、
 後の佐賀藩の精神的支柱となった。
  ↓
 ・・・「葉隠」はコトバ道理の「コトバをカクス」であろう・・
  ↓
 佐賀藩は長崎に程近いため、幕府より福岡藩と1年交代での警備を命ぜられていたが、その負担は代々藩財政に重くのしかかっていた。
 文化五年(1808年)、ナポレオン戦争により、イギリスのフリゲート艦が長崎へ侵入してオランダ商館の引渡しを要求する
 「フェートン号事件」が起こったが、佐賀藩は無断で警備人員を減らしていたため必要な対策がとれず、その不手際を幕府から叱責される。また
 1828年
 「シーボルト台風」で死者1万人弱の被害を出し財政が破綻寸前に陥るなど、藩をとりまく状況は悪化した。
 十代藩主・直正(閑叟)以降、藩政改革や西洋技術の摂取につとめた。特に大がかりなリストラを行い、役人を五分の一に削減、農民の保護育成、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぎ藩財政は潤った。
  ↓
 鍋島直正は精錬方という科学技術の研究機関を創設し、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究・開発・生産を行い、幕末期における最も近代化された藩の一つとなった。長崎警備を共にしていた福岡藩と共にいち早く
 牛痘ワクチンを輸入し、
 嫡子直大に種痘施すことで普及に努め、当時は不治の病であった
 天然痘根絶を成し遂げる先駆けになった
 (因みに秋月藩藩医である
  緒方春朔が、
  ジェンナーの牛痘法成功にさかのぼること
  6年前に秋月の大庄屋・
  天野甚左衛門の子供たちに
  人痘種痘法を施し成功させている)。
 嘉永二年(1849年)に日本最初の製鉄所を完成させた。黒船来航の前年にあたる1852年には反射炉を稼動させる。黒船来航の半年前、プチャーチン率いるロシアの使節団が長崎に寄港し、模型蒸気機関車を披露する。この公開から得た情報を元に精錬方のトップエンジニアである石黒寛次、中村奇輔、田中久重らが蒸気機関車と蒸気船の製造を試みた(蒸気機関車模型は現在鉄道記念物に制定されている)。
 1853年に幕府が大船建造の禁を緩和するとオランダに軍艦を発注。領内に三重津海軍所を設置して安政年間には西洋式蒸気船の建造計画をたて、
 慶応元年(1865年)には
 日本最初の実用蒸気船「凌風丸」を進水させた。
 1855年長崎海軍伝習所が作られると、学生を派遣した。
 慶応二年(1866年)には当時の最新兵器であるアームストロング砲をほぼ自力で完成させたと称し、藩の洋式軍に配備した。ただし、アームストロング砲製造の事実については異論がある(アームストロング砲参照)。その他、四斤砲の製造と実用化に成功し、後に品川台場に施された砲台にも利用された。
 軍政改革について、
 文久三年(1862年)9月と10月に評議を行い、
 従来の
 「与私」・「備」体制を解体して
 洋式銃砲隊の編成を指向した。しかし第一次長州戦争で家臣団編成の不備を体験し、慶応元年(1865年)に実戦に即した以下の軍政改革を行った。
 大組体制を16大組体制から13大組体制へ移行し、長崎警備偏重の火術組中心の編成から、全大組の平均的増強を図った。
 直臣・陪臣の区別を無くし、全家臣団に火術練熟と銃陣法の採用を命じ、大組頭の相談役として組肝煎を各大組に設置して統制を強化した。
 領内在地の小身家臣について、伊万里・白石・三根・山辺に火術稽古場を設けて銃体訓練の充実を図った
 海軍について、船方・船手に分かれていた仕組を統合して実戦向きの体制とした。
 第二次長州戦争では筑前まで出陣したが、実戦を体験しなかった。慶応二年(1866年)から三年(1867年)にかけて兵力の増強を図ったが、これは
 長州藩などが農(商)隊を編成したのに対し、
 佐賀藩では侍・手明鑓・足軽の次男三男からの増強を図り、家臣団による統制力を保ったまま軍事力を高めたことに特徴があった。
 このように一貫して当時の日本における産業革命を推進してきた佐賀藩は、日本有数の軍事力と技術力を誇ったが、中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観を続けた。また、藩士の他藩士との交流を禁じ、国内でも珍しい「鎖国藩」といわれた。しかし1867年には藩主直大が新政府から北陸道先鋒に任命されて、佐賀藩兵も戊辰戦争に参加するために東上、江戸における上野戦争などで戦い、その結果、明治政府に多数の人物が登用された。明治維新を推進させた人物を輩出した藩を指す薩長土肥に数えられ、副島種臣江藤新平大隈重信大木喬任佐野常民らが活躍した。また田中久重等、他藩の有能な人材を積極的に重用し、日本の近代化に貢献した。
 江藤新平は明治七年(1874年)に
 佐賀の乱を起こし処刑されている。
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 明治4年1871年)、廃藩置県により佐賀県となった。藩主の鍋島家は明治二年に華族に列し、明治十七年(1884年)の華族令で侯爵に叙せられた。
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 歴代藩主
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 龍造寺(りゅうぞうじ)家
1.高房(たかふさ)〔従五位下駿河守〕
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 鍋島(なべしま)家
1.勝茂(かつしげ)〔従四位下信濃守、侍従〕
2.光茂(みつしげ)〔従四位下・丹後守、侍従〕
3.綱茂(つなしげ)〔従四位下信濃守、侍従〕
4.吉茂(よししげ)〔従四位下・丹後守、侍従〕
5.宗茂(むねしげ)〔従四位下信濃守、侍従〕
6.宗教(むねのり)〔従四位下・丹後守、侍従〕
7.重茂(しげもち)〔従四位下信濃守、侍従〕
8.治茂(はるしげ)〔従四位下肥前守、左近衛権少将〕
9.斉直(なりなお)〔従四位下肥前守、侍従〕
10.直正(なおまさ)〔従四位下肥前守、侍従〕
11.直大(なおひろ)〔従四位信濃守〕
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 家臣団
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 佐賀藩の家臣団の序列は、「御三家」・「親類」・「親類同格」・「家老」・「着座」・「独礼」・「侍」・「手明槍」・「徒歩」・「足軽」となっている。これ以外にも、上級家臣と主従関係を有する陪臣や被官といった身分が存在し、手明槍以下は、日常は農商業に従事して生活を営んでいた。
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 上級家臣団
1.御三家(蓮池鍋島家・小城鍋島家・鹿島鍋島家の三支藩
2.親類(白石鍋島家・川久保鍋島家・村田鍋島家・村田家)
3.親類同格:龍造寺四家(諫早家・多久家・武雄鍋島家・須古鍋島家)
4.家老(横岳鍋島家・神代鍋島家・深堀鍋島家・姉川鍋島家・太田鍋島家・倉町鍋島家・山代鍋島家)
5.着座(納富鍋島家・石井家・成富家・岡部家・坂部家・千葉家・岩村家・中野家・大木家・江副家・執行家・有田家・深江家など概ね18家前後)
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 御三家(三支藩
 蓮池藩(蓮池鍋島家)
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 蓮池藩(はすのいけはん)は立藩の時期は諸説ありはっきりしないが、江戸時代初期に初代佐賀藩主・鍋島勝茂の五男・直澄が佐賀藩領内の佐嘉郡・神埼郡杵島郡松浦郡藤津郡において5万2000石(肥前藩の内高)を与えられたことに始まる。当初、佐賀城3の丸に政庁を構えたが、後に蓮池(佐賀市内)に陣屋を構えた。
 小城藩と同じく参勤交代を行っていたが、享保十五年(1730年)、参勤交代の免除を願い出たが、佐賀藩より却下された。
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 明治四年(1871年)、廃藩置県により蓮池県となる。その後、伊万里県・佐賀県・三潴県・長崎県を経て佐賀県編入された。
 藩主の鍋島家は明治二年に華族に列し、明治十七年(1884年)の華族令で子爵に叙せられた。
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 歴代藩主
1.直澄(なおずみ)〔従五位下・甲斐守〕
2.直之(なおゆき)〔従五位下・摂津守〕
3.直称(なおのり)以後、官位は従五位下、官職は奇数藩主が甲斐守・偶数藩主が摂津守
4.直恒(なおつね)
5.直興(なおおき)
6.直寛(なおひろ)
7.直温(なおはる)
8.直与(なおとも)
9.直紀(なおただ)
 家老
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石井家、成富家、松枝家、峯家
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 小城藩(小城鍋島家)
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 小城藩(おぎはん)は立藩の時期は諸説ありはっきりしないが、江戸時代初期に初代佐賀藩主・鍋島勝茂の長男・元茂が肥前藩領内の佐嘉郡・小城郡松浦郡において7万3000石(佐賀藩の内高)を与えられたことに始まる。元茂は長男であるが勝茂の後添えの正妻(徳川家康の養女・菊姫)の子で四男の忠直が嫡子となった(忠直は早世したためその長男・光茂が第2代佐賀藩主となっている)。
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 佐賀城西の丸を当初、政庁としたが、第2代藩主・直能の時に小城(佐賀県小城市)に陣屋を構え政庁とした。なお、直能は文人大名として有名である。
 第三代藩主・鍋島元武は第五代将軍・徳川綱吉に重用されて幕政に参加した。しかし次第に藩財政が悪化し、第七代藩主・鍋島直愈の時代にはそのことで情けない逸話もあるほどで、幕府の怒りを買って処罰されている。
 第九代藩主・鍋島直堯は、文化十三年(1816年)に肥前藩から独立して城主格となることを望んだが、肥前藩より却下された。小城藩は便宜上は佐賀藩支藩であるが、本家や他の支藩とは仲が悪かったことを示すものでもある。
 明治四年(1871年)、廃藩置県により小城県となる。その後、伊万里県・佐賀県・三潴県・長崎県を経て佐賀県編入された。
 藩主の鍋島家は明治二年に華族に列し、明治十七年(1884年)の華族令で子爵に叙せられた。
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 歴代藩主
1.元茂(もとしげ)〔従五位下紀伊守〕
2.直能(なおよし)〔従五位下・加賀守〕
3.元武(もとたけ)〔従五位下紀伊守〕
4.元延(もとのぶ)〔従五位下・加賀守〕
5.直英(なおひで)〔従五位下・加賀守〕
6.直員(なおかず)〔従五位下紀伊守〕
7.直愈(なおます)〔従五位下・加賀守〕
8.直知(なおとも)〔従五位下紀伊守〕
9.直堯(なおたか)〔従五位下紀伊守〕
10.直亮(なおすけ)〔従五位下・加賀守〕
11.直虎(なおとら)〔従五位下紀伊守〕
 家老
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 西小路鍋島家、田尻家、三浦家、野口家、持永家
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 鹿島藩(鹿島鍋島家)
 鹿島藩(かしまはん)は鹿島(佐賀県鹿島市)周辺を領有した佐賀藩支藩佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂の弟・忠茂が慶長十六年(1610年)、佐賀藩より2万石分与され忠茂が元々領していた下総国香取郡内の5000石を加え、2万5000石で立藩し、常広城を拠点とした。寛永十九年(1642年)、第二代藩主・正茂の時、佐賀藩主・勝茂は自身の九男・直朝を嗣子の無い正茂の養子に据えようとしたが拒んだため、鹿島の領地2万石を返還させた。以後、正茂は下総香取5000石の旗本に帰した。同年に結局、勝茂は直朝にその領地2万石(肥前藩の内高となる)を与えた。9代藩主の直彜は文化四年(1821年)に鹿島城を築き、居城としている。
 明治四年(1871年)、廃藩置県により鹿島県となる。その後、伊万里県・佐賀県・三潴県・長崎県を経て佐賀県編入された。
 藩主の鍋島家は明治二年に華族に列し、明治十七年(1884年)の華族令で子爵に叙せられた。
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 陣屋は、赤門(正門)と大手門と土塀が現存する。また常広城城門が個人宅に移築されている。
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 歴代藩主
1.忠茂(ただしげ)〔従五位下・和泉守〕
2.正茂(まさしげ)〔従六位・布衣〕
3.直朝(なおとも)〔従五位下・和泉守〕
4.直條(なおえだ)〔従五位下備前守
5.直堅(なおかた)〔従五位下・和泉守〕
6.直郷(なおさと)〔従五位下備前守
7.直熙(なおひろ)〔従五位下・和泉守〕
8.直宜(なおよし)〔従五位下備前守
9.直彜(なおのり)〔従五位下丹波守〕
10.直永(なおなが)〔従五位下丹波守〕
11.直晴(なおはる)〔官位官職なし〕
12.直賢(なおかた)〔従五位下丹波守〕
13.直彬(なおよし)〔従五位下備前守
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 家老
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田中家、納富家、愛野家、原家
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 親類
 白石鍋島家(佐賀藩内2万0,277石(物成8,111石)・藩主一門)
 鍋島直弘(鍋島勝茂の八男)−直堯−直愈−直右−直昭−直賢−直章−直喬−直�媽川久保(神代)鍋島家(肥前川久保領1万石(物成4,000石)・藩主一門)
 神代家良(鍋島直茂の甥、神代長良養子)−鍋島常親−常利−常宣=直長(鍋島勝茂の十一男)=直利(鍋島光茂の次男、後の鍋島吉茂)=直堅(光茂の十五男、後の鍋島宗茂)=直方(光茂の十八男)−(直恭)−直贇−直興=直珍(鍋島治茂の十男)=賢在(鍋島斉直の三男)=利卿(諫早茂洪の子)=直寶(賢在の子)村田鍋島家(肥前藩内6,000石(物成2,400石)・藩主一門)維新後男爵
 鍋島茂英(鍋島(川久保)直長の子、鍋島光茂養子)−茂建−茂憲−洪図=茂徳(鍋島(川久保)直恭の子)−茂啓−茂生村田家(肥前久保田領1万0,770石(物成4,308石)・龍造寺一門) 
 村田安良(龍造寺政家の子)−氏久=政辰(鍋島(白石)直弘の子)=政盛(鍋島光茂の六男)=政式(鍋島(白石)直愈の子、不家督)−政賢−政致=政恒(鍋島(須古)茂偏の子)=政矩(鍋島茂辰の子)−政匡
 親類同格
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 鍋島氏の旧主筋である、龍造寺一門。当初は「親類」としていたが、1699年に村田家以外は新たに「親類同格」となり、「親類」とは差を付けた。
 諫早家(肥前諌早領2万6,201石(物成10,480石)・龍造寺一門)維新後男爵 
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 龍造寺家晴(龍造寺鑑兼の子)−諫早直孝−茂敬−茂真−茂門=茂元(茂門の弟)=茂晴(鍋島(白石)直堯の子、妻は茂元の娘)−茂行=行孝(茂行の弟)
=茂成(行孝の弟)=茂図(茂成の弟)−(敬輝)(病にて家督を継がず)−茂洪−茂喬=茂孫(茂喬の弟)=武春(茂喬の子)=一学(茂孫の弟)
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 多久家(肥前多久領2万1,735石(物成8,694石)・龍造寺一門)維新後男爵
 龍造寺長信(龍造寺隆信の弟)−多久安順=(茂富)(龍造寺家均の子)−茂辰−茂矩=茂文(鍋島光茂の四男)=茂村(小城藩主鍋島元武の子、妻は茂文の娘)
=茂明(鍋島(須古)茂清の子、須古鍋島家相続後多久家を相続、妻は茂文の娘)−茂堯−茂孝=茂鄰(茂孝の弟)−茂澄−茂族
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 武雄鍋島家(肥前武雄領2万1,600石(物成8,640石)・龍造寺一門)維新後男爵 
 後藤(龍造寺)家信(龍造寺隆信の子)−鍋島茂綱−茂和−茂紀−茂正=茂昭(茂正の弟)−茂明−茂順−茂義−茂昌
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 須古鍋島家(肥前須古領8,200石(物成3,300石)・龍造寺一門)
 龍造寺信周(龍造寺隆信の異母弟)−信昭−鍋島茂周−正辰−茂俊−茂清−茂明(須古鍋島家相続後、多久家を相続)=茂族(茂清の弟)−茂訓−茂倫−茂曹=茂臣(茂曹の弟)=茂真(鍋島斉直の十四男)−茂朝
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 家老
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 横岳鍋島家(肥前西郷領7,500石(物成3,000石)・重臣
 鍋島茂里(石井信忠の子、鍋島直茂の婿養子)-茂宗-武興-茂清=直朗(鍋島元茂の次男)-茂和-茂親=茂延(鍋島(倉町)敬文の子)-茂明
 神代鍋島家(肥前神代領6,263石(物成2,500石)・重臣
 鍋島信房(鍋島直茂の兄)-茂昌-茂貞-嵩就-茂樹-茂快-茂英-茂興-茂真-茂体-茂堯-茂蘇=茂坤(茂蘇の弟)=茂元(鍋島斉直の子)
 深堀鍋島家(肥前深堀領6,000石(物成2,400石)・重臣
 深堀純賢=鍋島茂賢(石井信忠の子、鍋島茂里の弟)-茂里-茂春-茂久-茂厚-茂陳-茂雅-茂矩-茂長-茂勲
 倉町鍋島家(佐賀藩内5,075石(物成2,030石)・重臣
 鍋島時重(鍋島清虎の子)-貞村-直広-茂村-茂敬-敬意=敬近(鍋島(川久保)直贇の子)-恒広-敬武-敬充-敬文-敬哉=文武(鍋島斉直の二十六男)
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 姉川鍋島家(肥前藩内5,051石(物成2,021石)・重臣
 鍋島清虎(鍋島直茂の従兄弟)-生三(道虎)-茂泰-清良-清長=清信(多久茂矩の子)=茂之(別名・茂喬、鍋島光茂の十六男)-茂親-茂徂-茂郷=清央(鍋島茂順の子)=清馨
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 太田鍋島家(佐賀藩内4,250石(物成1,700石)・重臣
 太田茂連(鍋島勝茂の義兄)-茂歳-鍋島茂貞-茂晴-茂道-貞由-茂長=貞長(茂長の弟)-茂能-茂恒=茂卿(多久茂堯の子)=茂矩(多久茂孝の子)=茂快(鍋島斉直の二十九男)
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 山代鍋島家(肥前芦原領・重臣
 鍋島茂貞(嵯峨源氏後裔・山代直の子)-方教-授-信賢-安-次-行-正
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 着座
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 納富鍋島家(譜代・1,500石)
 納富長昭(龍造寺信周の子)-孝顕-
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 石井家(譜代・1,250石)
 石井忠繁(鍋島直茂正室陽泰院の大叔父、直茂の義従兄)=茂利(行武長門守の子、鍋島直茂姪婿)-茂清-孝成-常辰―常尚-常与-孝澄-孝知-孝起-孝寛=孝祖(鍋島茂辰の子)-孝善
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 成富家(譜代・1,500石)
 成富茂安-長利(鍋島勝茂の甥)=茂陛(龍造寺茂敬の子)-種弘-
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 千葉家(譜代・1,000石)
 鍋島胤信(千葉胤連の子、鍋島直茂の義兄)-常貞(鹿江茂次の二男)-常治-常範=常成(常貞の子)

 家臣団の特質
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 旧主龍造寺一族の藩政への関与龍造寺政家・高房父子の没後も、龍造寺一族は健在であり、領内において広大な所領を有していた。それら一族は、鍋島家の藩政のもと、重臣として藩政を左右する枢要にあったが、鍋島家に遠慮して、龍造寺の姓を改めている。村田家・諫早家・多久家・武雄鍋島家・須古鍋島家はいずれも龍造寺一族である。手明槍龍造寺隆信の全盛期、北九州一帯の大小名を包括して家臣団がにわか形成されたが、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにおける隆信の横死により、龍造寺家の勢力が衰退し、支配地は大幅な減少を見せた。にも関わらず、初期の家臣団をそのまま維持していたため、大きな財政負担になりつつあった。そこで初代藩主鍋島勝茂は、知行50石以下の侍の知行地を召し上げ、無役とし、蔵米から禄を支給することにした。ただし、戦時の際には、槍一本具足一領で軍役を担うこととされた。後年に至っては、手明槍でも諸役に任じられるようになった。地方知行制佐賀藩では、戦国時代の領国支配の形態を色濃く残しており、幕末まで、家臣の多くは知行地を持ち、そこから独自に年貢を徴収し軍役の備えを行ない、家来を養っていた。上級家臣については、「大配分」と称され、本藩の統一支配ではなく、知行主の自治が行なわれていた。
 主な藩関係者・出身人物
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 古賀精里(学者、寛政三博士の一人、江戸昌平坂学問所教授)
古賀穀堂(学者)
石井鶴山(漢学者、第八代藩主鍋島治茂の相談役)
石井松堂(国学者
武富廉斎(儒学者
武富い南(国学者
大隈重信(元総理大臣・早稲田大学創設者・侯爵)
江藤新平(初代司法卿)
島義勇秋田県権令・侍従)
大木喬任(文部卿・東京市長・伯爵)
佐野常民(枢密院議長・日本赤十字社創設者・伯爵)
石井忠亮(逓信省電信局長、元老院議官、和歌山県知事)
久米邦武(歴史学者東京帝国大学教授、早稲田大学教授)
本野盛亨(読売新聞創業者、子爵)
本野一郎(外務大臣、子爵)
中牟田倉之助(海軍中将、初代海軍軍令部長、子爵)
田中久重東芝創始者)弓引き童子、萬年自鳴鐘の製作者 幕末〜明治期における日本の工業化の功労者
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 幕末の領地
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 佐賀藩
肥前国 三根郡 - 11村
佐賀郡のうち - 92村 
神埼郡のうち - 39村
養父郡のうち - 10村
小城郡のうち - 22村
杵島郡のうち - 50村
藤津郡のうち - 18村
松浦郡のうち - 36村
彼杵郡のうち - 6村
高来郡のうち - 39村
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 上記のほか、
 明治維新後に
 釧路国
 釧路郡川上郡厚岸郡
 千島国
 振別郡を管轄したが、
 後に
 振別郡
 仙台藩に移管された。
  ↓
 蓮池藩
肥前国 佐賀郡のうち - 2村
神埼郡のうち - 10村
杵島郡のうち - 8村
藤津郡のうち - 13村
松浦郡のうち - 1村
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 小城藩
肥前国 佐賀郡のうち - 4村
小城郡のうち - 46村
松浦郡のうち - 18村
  ↓
 鹿島藩
肥前国 藤津郡のうち - 11村
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 ・・・ナニを探索しているのか、理解できるだろう?・・・「天照大藭と須佐之男命(古事記・上三)」・・・
 爾速須佐之男命答白
 「僕者無邪心、唯大御藭之命以、問賜僕之哭伊佐知流之事。故、白都良久三字以音、僕欲往妣國以哭。爾大御藭詔、汝者不可在此國而、藭夜良比夜良比賜。故、以爲請將罷往之狀、參上耳。無異心。」
 爾天照大御藭詔
 「然者、汝心之芿明、何以知。」於是、
 速須佐之男命答白
 「各宇氣比而生子。」自宇以下三字以音、下效此。
 故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御藭、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇此八字以音、下效此振滌天之眞名井而、
  ↓
 佐賀美邇迦美(而自佐下六字以音、下效此)、
 サガミにカミ
  ↓
 於吹棄氣吹之
 狹霧所成藭御名、
 多紀理毘賣命
 此藭名以音、
 亦御名、謂
 奧津嶋比賣命。
 次
 市寸嶋上比賣命、
 亦御名、謂
 狹依毘賣命。
 次
 多岐都比賣命。
 三柱、
 此
 藭
 名以音。
 ・・・