1017日目・・・何かを「記録」していくと言う事は色々な方法があるのだが「歴史」と言う「記録内容」が「事実」なのか「モノガタリ」なのかは「判然」としないのは「記録」が「文字」でなされているので「当然」である。もっとも「事実的」な「記録部分」は「年月日時」の「数字」であろう。その「数字」も当てにならないのは「年代の起点・始点」である過去の各々の支配領域の支配者の「暦」がそれぞれ「独自」な「数字」で記されていたのだから当然である。各地域の「暦」の数え方が「統一」されてくるのには「時間」が必要であった。通信情

 西暦を「基準」に各国の過去的な「出来事・事件」の年代、月日時を「統合」出来るのは「理屈」で可能であるのだが、記録するのは「人間がやるコト」である・・・個人的な「出来事・事件」でも利害関係が絡んでくれば「虚偽のアリバイ=出来事のWho=誰・Where=何処・Why=何故・What=何」、「時間的アリバイ=When=何時」を作り出すに違いない。自分自身の「日記の中」にも「ウソ」をつくコトも・・・
 先ずは「記録」された「When=何時」の「年代の年月日時の数字」が目に付いて「?」である・・・その「When=何時」が「記録内容」に関わっているハズなのだが歴史記録に於いて「ム」から「ユウ」の「虚偽」を捻出するのには苦労がいるであろう・・・空想、妄想、事実入り乱れてのモノガタリにはその「制約」は無い・・・だろう・・・それでも「歌舞伎(ミュージカル)」、「文楽浄瑠璃( puppeteer=手操り人形劇・棒遣い人形劇・糸操り人形劇=マリオネット=仏語→ Marionnette・英語→Marionette)は、人形劇でよく使われる操り人形の一つであり、特に糸で操るもの)」、「物語本」は「制約・規制・禁止」された・・・「情報」は「事実」であろうが「虚偽」であろうが、「制約・規制・禁止」されるか「歪曲」される。
 そして、「事実を伝えたい人間」が「記録の中にヒント」を遺して去って逝く・・・「浄瑠璃」がナゼ「文楽」なのかは・・・ブログで調べたら「浄瑠璃御前物語(十二段草子)」のタイトルで「人形劇」を指したコトバではなく、「牛若丸(源義経)と遊女屋の長の娘、浄瑠璃御前との恋愛物語で琵琶法師の語り物」だったらしい。「浄瑠璃」という名前は、「薬師如来」に願って子を授かった長者が、薬師如来の浄土である「浄瑠璃世界」に因んでつけたもので仏教物語であるらしい。また「瑠璃」とは「梵語=vairyaの音写→吠瑠璃(べいるり)の略・七宝の一・青色の美しい宝石・赤・緑・紺・紫色などもある・ラピスラズリ・瑠璃色の略・青い羽色のオオルリコルリルリビタキ」とある。
 「浄瑠璃」の「人形遣い」は「夷かき」、「傀儡子(くぐつし・かいらいし)」ともいわれた。「吠瑠璃」が梵語の単なる「音写」とも思われない。「吠える瑠(王+留)璃(王+离)」は蒼い月(チャンドラ)に犬が吠えている絵柄はタロットにあったし、漢字分解からは「王が留まったり(戴冠在位)、王が離れたり(譲位・退位)の事態を犬が吠える」・・・「月に吠える(第1詩集・1917年(大正6)刊・詩56編」とは「萩原朔太郎」の詞だが、古代インドの「チャンドラグプタ(Chandragupta・旃陀羅堀(掘)多・月護王)」は「月を護る王」である。同名の王には「チャンドラグプタ一世」、「チャンドラグプタ二世(超日王)」が存在した。アメリカの地名、推理作家にも「チャンドラ」の名前を有する人間がいたけれど・・・
 そして「文楽」の由来は「寛政の頃(1789-1800)、淡路の興行師で、素人浄瑠璃太夫だった植村文楽軒(1751-1810)」の名前だった。初代文楽軒が死んだ翌年の文化8年(1811)、二代目文楽が博労町の稲荷神社境内(現・中央区博労町4丁目、難波神社。俗に「博労町稲荷」と呼ばれていた)に進出して、常打ちの人形浄瑠璃小屋で興行したから・・・
 以上も以下も、例の如く「ウイッキペデア」からの参照、参考の抜粋記事を若干改作したモノです・・・
ーーーーー
 紀伝体
ーーー
 本紀(ほんぎ)
 皇帝や王などの支配者に関した出来事を年毎に記述する。
 『史記』の「高祖本紀」「秦始皇本紀」など。
 本来は必ずしも正統の天子についてのみの項ではなく、その勢力が天下を覆う者についても立てられた。
 『史記』の「項羽本紀」などがその例である。『漢書』は「帝紀」と「后紀」の二本立てになっている。
ーーー
 世家(せいか)
 諸侯に関する記述。
 「趙世家」「魏世家」など。
 「世々家録を受ける者」という意味だが、
 本来は諸侯のみならず「時代をこえて祭祀を受ける者」についても立てた。
 『史記』の「孔子世家」や「陳勝呉広世家」がその例である。
ーーー
 列伝(れつでん)
 個々の人物、特に国に仕えた官僚の一生を記したもの。
 また周辺の異民族の風習などを書き並べたものもこう呼んだ。
 本来は「列侯(爵位を持った家臣)の伝」という意味でこの名称となったのではないかと考えられている(『史記』の「淮陰侯列伝」や「呂不韋列伝」など)。
 列侯は初め徹侯と言っていたが、漢の武帝のときにその諱(劉徹)を忌避して通侯と改められ、その後さらに列侯と改められた。
 ちょうど司馬遷が『史記』を書いた時代は武帝の時代で、列侯と呼ばれはじめていた時期と一致するからである。
 しかし『史記』の中ですでにその原則は崩れており、「匈奴列伝」や「朝鮮列伝」、さらには「酷吏列伝」など、人物でも列侯でもない記事内容をもつ列伝がいくつも立てられており、その詳細は判然としない。
ーーー
 志(し)
 天文・地理・礼楽・制度など、分野別の歴史。
 『史記』では書としているほか、
 典、略、考など歴史書によっていろいろな言い方がされている。
ーーー
 表(ひょう)
 各種の年表や月表。
ーーー
 載記(さいき)
 各地に割拠した自立諸勢力の記述。
 天子に公然と反旗を翻して自立したり、自ら帝位を僭称したりした点で世家に似るが、
 世家で記述される群雄はかつて天子によって
 各地に封建された正統な諸侯の出自であるのに対し、
 載記で記述される群雄は戦乱に乗じて各地で武装蜂起した反乱勢力の出自である点が異なる。
 『晋書』からはじまったもので、司馬遷は秦末の反乱の首謀者陳勝呉広の事績を「陳勝呉広世家」としているように、当初はこれを区別する意図はなかったと考えられる。
ーーー
 修史詔(しゅうし しょう)
 その歴史書が奉勅公撰であることを公示すために、編纂を命じた詔勅の写しを付録したもの(『晋書』)。
ーーー
 四夷(しい)
 列伝から異民族出身の人物に関する記述を独立させたもの(『晋書』)。
ーーー
 国語解(こくご かい)
 異民族王朝の場合、彼らに固有の民族語が頻出するため、特にその解説を添えたもの(『遼史』『金史』)。
ーーー
 同じ事柄が重複する事もよくあるが、
 個人や一つの国に関しての情報がまとめて紹介されるためにその人物や国に関しては理解しやすい。
 これに対して
 全てを
 年毎に並べていく方法を
 「編年体・紀年体」といい、こちらは全体としての流れがつかみやすいと言う利点がある。
 中国では『春秋』と言う名作があったために
 最初は
 編年体が主流だったが、
 司馬遷の『史記』以降は
 紀伝体が主流になり、
 二十四史は全て紀伝体である。
 また、
 日本の
 『大日本史』も紀伝体で書かれている。
 一方、
 編年体の代表としては春秋の他に
 司馬光の『資治通鑑』がある。

 「紀伝体」と「編年体=紀年体」の
 他には、
 紀事本末体(きじほんまつたい)、
 国史体(こくしたい)がある。
ーーー
 紀事本末体
 ストーリー展開を追って事件の筋がわかりやすいようにまとめ直したもの。
ーーー
 国史
 日本独自のもので、
 編年体を基本としながらも人物の死亡記事があった場合にその人物の列伝を付載するものである。
ーーー
 国史体から発展して後に
 漢文伝という
 漢文の伝記が書かれるようになった。
 なお、日本には記紀が成立する以前に
 『古事記』の序文などに記されている
 『帝紀』と『旧辞』のような
 二つの史書を組み合わせた
 「日本式の紀伝体」とでもいうべき形態が存在したのではないかとする説もある
ーーーーー