2615日目・・・キリシタン弾圧・・・「霧隠才蔵=霧隠歳蔵」・・・「猿飛佐助」・・・「福田善之」・・・1962年(昭和37年)初演、伝説の作品「真田風雲録」・・・

 福田 善之
 1931年(昭和6年)10月21日〜
 辛未(丁・乙・己)
 戊戌(辛・丁・戊)
 己酉(庚・ ・辛)
  寅卯=空亡
 ↓↑
 日本の劇作家、脚本家、演出家、俳優
 父は福田利三郎
 母は鴻巣以知
 本名
 鴻巣 泰三
 1962年(昭和37年)
 「真田風雲録」
 ↓↑
 むささびのお霧=渡辺美佐子
 霧隠才蔵
 渡辺 美佐子(わたなべ みさこ)
 1932年10月23日〜
 壬申(己・壬・庚)
 庚戌(辛・丁・戊)
 丁巳(戊・庚・丙)
  子丑=空亡
 ↓↑
 寛文十二年(1672年)
 軍記物
 『難波戦記』
 『真田三代記
 ↓↑
 明治後期の講談
 神田伯龍
 『難波戦記』(1899年)
 などの口演速記本
 講談師たちは
 『真田三代記』にはない
 忍術つかいの
 「猿飛佐助」
 「霧隠才蔵
 ら真田家の
 英雄豪傑として物語を膨らませた
 ↓↑
 1911年
 立川文庫
 講談師
 玉田玉秀斎
 らが中心となって
 講談を読み物として
 再編集した
 立川文庫
 1911年(明治44年)〜1924年大正13年
 196篇刊行
 ↓↑
 『知謀 真田幸村』(第5編)に続き、
 『真田三勇士忍術名人猿飛佐助』(第40編、1914年)
 『真田三勇士由利鎌之助
 『真田三勇士忍術名人霧隠才蔵』(第55編)
 江戸以前の資料では
 『真田三代記』に
 「霧隠鹿右衛門
 渡辺 美佐子(わたなべ みさこ)
 1932年10月23日〜
 ↓↑
 福田善之
 1962年(昭和37年)初演
 「真田風雲録」
 1951年(昭和26年)に締結
 日本国とアメリカ合衆国との
 安全保障条約(日米安保条約
 1960年(昭和35年
 強行採決で改定
 「60年安保闘争
 全学連の国会突入
 「真田風雲録」
 徳川が保守勢力
 豊臣は左翼勢力
 真田十勇士新左翼
 ↓↑
 霧隠才蔵
 石川五右衛門の兄弟弟子
 「真田幸村」の大阪城-真田丸の死守・・・
 フクダはフクダだが・・・
 「福田 恆存
  1912年・大正元年8月25日
  〜
  1994年・平成6年11月20日
 壬子(壬・ ・癸)⇔甲戌(辛・丁・戊)
 戊申(己・壬・庚)⇔乙亥(戊・甲・壬)
 癸酉(庚・ ・辛)⇔庚戌(辛・丁・戊)
  戌亥=空亡
 「一匹と九十九匹と」・・・
 「成る程、人殺しの気持ちでも学生の気持ちでも、
  何でも彼でも解つてしまふから先生といふ訳か…
  黙れ、原罪野郎、
  手前等に俺の気持ちが解ってたまるか…!」・・・

ーーーーー
 粟=あわ・ゾク・ショク・ソク・・・阿波尾(美・毘=へそ)
   覀+米・・・西の亜米利加・亜墨利加・米国
   異体字は「𠧼・䅇・𥟫・𥸫・𥹟・𥻆・𥾄」
   覀=異体字は「襾・西」
     おおい冠・にし・かなめの頭
       (襾・西 ・覀)
     粟・栗・要・覆・票・標・賈・価・・・睪
     賈=襾+貝=覀+貝
       あきない・あきなう・あたい・うる・かう
       カ・コ   
       売り買いする・商売する
       あきんど・あきうど・商人・商売人
       売る・買う
       あたい・値段・価値
ーー↓↑ーー
 井上筑後守・・・井(い・セイ)
         上(うえ・ジョウ)
         筑(こと・チク)
         後(しり・ゴ)
         守(まもり・シュ)
 1652〜1662年
 契利斯督記
 キリストキ
 北条安房守氏長(正房)編集・・・?
      ・・・あわのかみ
         憐 れみのカミ?=忄+米+舛
         哀 れみ=亠+口+𧘇(ノ𠄌乀ノ)
         愍  み=うれえる・ミン・ビン
              敃(民攵)+心
              湣・慜
             異体字=「㥸・𢞰・慜・緡・緍」
         怜 れみ=さとい・レイ
              忄+令
             異体字=「憐・㦭・㥕・𢠴・𢣶」
 福山藩
 太田全斉・・・・・・・・太の田の全の斉
 寛政九年(1797年)発表
 続々群書類従第十二冊
 ↓↑
 切支丹
 伴天連=神父=破天連・馬天連
 伊留満=修道士
 ↓↑
 目明し
 岡本三右衛門=キアラ神父
 黒川三郎右衛門・・・水野日向守勝成家人?
 ↓↑
 フェレイラ神父=沢野忠庵・1633年転び伴天連・乾坤弁説
         仮名天文抄
 ↓↑
 不干斉ハビアン・・・破提字子
 ↓↑
 シドッチ=イタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ
      ヨワン・バツテイスタ・シローテ
 ↓↑
 長助
 はる
 ↓↑
 新井白石が幕府に
 本国送還を上策として具申
 ↓↑
 幕府は
 シドッティを
 茗荷谷(文京区小日向)の
 切支丹屋敷へ幽閉
 切支丹屋敷
 寛永二十年(1643年)
 筑前国に不法入国し、江戸に送られ
 伝馬町の牢に入れられた
 イタリアの宣教師
 ジュゼッペ・キアラ
 ペトロ・マルクエズ
 ら10人を収容
 鎖国と禁教政策の結果
 シドッティが
 収容(1709年・宝永六年)されるまで
 六十六(66)年間・・・1709-1643=66
 誰も収容者がいなかった
 ↓↑
 囚人としての扱いを受けることもなく
 二十両五人扶持の待遇で軟禁
 シドッティの監視役で世話係
 長助・はる
 老夫婦
 切支丹の親を持ち、親が処刑され
 子供のころから
 切支丹屋敷ですごしていた
 ある日、
 木の十字架をつけていることを
 役人により発見された
 2人は
 シドッティに感化され、
 洗礼を受けたと告白
 シドッティは2名とともに
 屋敷内の地下牢に移され
 その10ヶ月後の
 1714年(正徳四年)10月21日
 46歳で衰弱死
 ↓↑
 阿瑪港=マカオ澳門・瑪港・阿媽港・亜媽港・天川
     中国語=澳門
     室町末期から江戸初期にかけて
     日本では中国広東省
    「マカオ澳門)」を
    「アマカワ・アマコウ」と呼んだ
     アマカワ・アマコウ=Macao
ーーーーー
 ???・・・天高(あまこう)・・・
ーーーーー
 井上筑後守・・・」1652〜1662年
 契利斯督記
 北条安房守氏長(正房)編集・・・あわのかみ
 福山藩
 太田全斉
 寛政九年(1797年)発表
 続々群書類従・第十二冊
 ↓↑
 切支丹=吉利支丹=キリシタン・・・喜理死担?
     耶蘇教・天主教・景教
 伴天連=バテレン=神父=破天連・馬天連
    (バテレン=パードレ・Padre =宣教師)
 伊留満=イルマン=修道士
 ↓↑
 目明し
 岡本三右衛門=キアラ神父
 黒川三郎右衛門
 ↓↑
 沢野忠庵=フェレイラ神父=1633年転び伴天連
      乾坤弁説
      仮名天文抄
 ↓↑
 不干斉-ハビアン・・・破提字子
    ハビアン(Fucan Fabian)
 1565年
 永禄八年
 〜
 1621年
 元和七年一月
 安土桃山時代〜江戸時代初期の人物
 禅僧を経てイエズス会に入門
 修道士(イルマン)として活動
 後に棄教し
 キリスト教徒弾圧に協力
 僧名は
 恵俊・恵春・雲居
 号は
  不干 斎  巴鼻庵
 (ふかんさい はびあん)
ーーーーー
 ハビアン(Fucan Fabian)
 1565年
 永禄八年
 〜
 1621年
 元和七年一月
 安土桃山時代〜江戸時代初期の人物
 禅僧を経てイエズス会に入門
 修道士(イルマン)として活動し
 後に棄教して
 キリスト教徒弾圧に協力
 号は
  不干 斎  巴鼻庵
 (ふかんさい はびあん)
 ↓↑
 1565年(永禄八年)
 加賀国または越中国にて誕生
 母の
 「ジョアンナ(洗礼名)」は
 北政所(おね、高台院)の侍女
 始めは
 大徳寺の禅僧
 恵俊または恵春と称した
 1583年(天正十一年)
 京都で母(ジョアンナ)とともに受洗
 高槻神学校、セミナリオに入学
 洗礼名ハビアン
 1586年(天正十四年)
 イエズス会に入会して修道士
 臼杵修練院
 ノビシアドに移る
 豊臣秀吉バテレン追放令を逃れ
 山口、長崎、加津佐などを経て
 天草のコレジオで
 日本語を教える傍ら
 『天草本-平家物語』を編纂
 また自身の経験により
 『仏法』を著し
 キリスト教を擁護し
 仏教を批判
 1588年(天正十六年)
 千々松、有家高等神学校コレジオに移る
 1590年(天正十八年)
 加津佐高等神学校コレジオに移る
 第二回日本イエズス会総協議会に参加
 追放令受けての方針検討
 1592年(文禄元年)
 天草神学校コレジオで日本語教師
 来日宣教師のテキストとして
 「平家物語要約版」の翻訳編纂
 1593年(文禄二年)
 「イソップ(伊曽保)物語」翻訳
 1597年(慶長二年)
 長崎トードス・オス・サントス教会に移る
 仏教儒教神道の解説書
 「BUPPO」編集
 1603年(慶長八年)
 京都に戻る
 1605年(慶長十年)
 護教論書『妙貞問答』を著す
 2人の
 尼の対話形式で記され
 キリシタンである
 幽貞が
 神道儒教・仏教を批判し
 キリスト教の教理を説いて
 妙秀を入信に導くという内容
 1606年(慶長十一年)
 林羅山と論争
 黒田如水の3回忌法要で
 遺族・有力者・僧侶・キリスト教
 らの参列を前に説教
 キリスト教団の行方を左右する重な式典
 フランチェスコ会の報告書に大成功の記述
 僧侶らは激怒
 地球球体説と地動説を主張
 1608年(慶長十三年)
 外国人長上者への反発の末
 修道女と駆け落ちして棄教
 1612年(慶長十七年)
 博多に現れ
 長崎に移り
 キリスト教徒取り締まりで行政と協力
 1619年(元和五年)
 キリスト教取締の重要人物として
 江戸に呼ばれ
 徳川秀忠と面会
 1620年(元和六年)
 キリスト教批判書
 「破提宇子」を出版
 『破 提 宇子
 (は・だいうす=デウスを破却する意)』
 日本イエズス会は即座に禁書とし
 「地獄のペスト」と評した
 反論書の用意、
 ポルトガル語版(現存せず)を
 教団中枢に送付
 1621年(元和七年)
 死去
 (wikipedia.org/wiki/ハビアン)
ーーーーー
 ↓↑
 シドッチ=イタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ
      ヨワン・バツテイスタ・シローテ
 長助
 はる
 ↓↑
 新井白石がシドッチを訊問
 幕府に本国送還を上策として具申
 幕府は
 シドッティを
 茗荷谷(文京区小日向)の
 切支丹屋敷へ幽閉
 切支丹屋敷
 寛永二十年(1643年)
 筑前国に不法入国し、江戸に送られ
 伝馬町の牢に入れられた
 イタリアの宣教師
 ジュゼッペ・キアラ
 ペトロ・マルクエズ
 ら10人を収容
 鎖国と禁教政策の結果
 シドッティが収容されるまで
 誰も収容者がいなかった
 ↓↑
 囚人としての扱いを受けることもなく
 二十両五人扶持の待遇で軟禁
 シドッティの監視役で世話係
 長助・はる
 老夫婦
 切支丹の親を持ち、親が処刑され
 子供のころから
 切支丹屋敷ですごしていた
 ある日、
 木の十字架をつけていることを
 役人により発見された
 2人は
 シドッティに感化され、
 洗礼を受けたと告白
 シドッティは2名とともに
 屋敷内の地下牢に移され
 その10ヶ月後の
 1714年(正徳四年)10月21日
 46歳で衰弱死
 ↓↑
 阿瑪港=マカオ澳門・瑪港・阿媽港・亜媽港・天川
     中国語=澳門
     室町末期から江戸初期にかけて
     日本では中国広東省
    「マカオ澳門)」を
    「アマカワ・アマコウ」と呼んだ
     アマカワ・アマコウ=Macao
ーーーーー
 キリシタン目明かし?
      目を明かす・・・「目覚めさせる・覚醒させる
      開眼させる    悟らせる・自覚させる」者?
 ↓↑   ↓↑
 岡っ引き=目明し
 ↓↑   岡っ引きは
      ・・・岡場所(非公認の売春宿)から
 ↓↑   ↓↑ 女を検束し公認の
         吉原の廓(遊郭)に引き渡すこと
        「岡から街娼・私娼(夜鷹)を
         ひっぱってくる」
        「傍目八目の傍(おか)」
         岡目八目=他人の囲碁を傍で見ていると
         対局者よりも冷静に
         八目も先の手が読める意
         第三者のほうが
         物事の是非得失を判断できるということ
         町人で
         犯罪者・虞犯者などの
 ↓↑   ↓↑ 怪しい奴をひっぱってくる、という説
     「下っ引き」の子分を雇っていた
      江戸時代の町奉行
      火付盗賊改方
      などの
      警察機能の末端を担った非公認の協力者
      江戸では御用聞き
      関八州では目明かし
      関西では手先・口問い(くちとい)
      両立しえない仕事を兼ねる
 ↓↑   ↓↑
     「二足の草鞋・鞋(わらじ)」の語源
      与力・同心の配下で
      犯罪捜査と犯人逮捕のために働いた者
      犯罪人を釈放して「目明し」とした
      やくざ者や、親分と呼ばれる
      顔役が岡っ引になることが多く
      両立しえない仕事を兼ねるの語源
 ↓↑   ↓↑
     「目明し=目証=めあかし」
      犯人を証明する意
      軽犯罪を犯した者に
      仲間の情報を密告させた
 ↓↑   ↓↑
     「岡っ引き=目明し」
     「おか」は
     「傍(側・そば・かたわら)」
      で手引きをする者
     「めあかし」
     「目明かし=目灯し」
     「供え物」
     「燭台に火を灯す」
     「良い方法で注意を喚起する」
 ↓↑   ↓↑
      宝永・正徳期(1704年〜1716年)
      京都で
      罪人に共犯者を密告させ
      その犯罪を証明させた
ーーーーー
 キリシタン目明し
 ころび伴天連の
 沢野忠庵(クリストバン・フェレラ)
 ↓↑
 キリシタン目明し
 後藤了順
 荒木了伯
 ↓↑
 オランダの
 デ・リーフデ(博愛)号が
 慶長五年(1600)
 臼杵湾(大分)に漂着
 ・・・「臼(うす)と杵(きね)」のワン
 日本とオランダの交流が始まった
 オランダに対し
 敵愾心を抱いていた
 スペインのイエズス会士らは
 徳川家康
 オランダの
 デ・リーフデ(博愛)号を
 海賊船と進言したが
 海賊船の嫌疑が晴れ
 家康は漂着したオランダ船の
 乗組員の
 アダムス(三浦按針・日本人お雪と結婚)
 ヤン・ヨーステン
 (耶楊子・日本人と結婚・八代洲に住む)
 らに
 幕府相談役の地位を与え
 航海術・造船・物理学・医学
 西洋諸国の情報を得た
 慶長十四年(1609年)
 幕府から発行された朱印状に基づき
 平戸(長崎)に
 オランダ商館が設置され、通商関係が始まった
 島原・天草の乱
 ポルトガル人の追放
 ポルトガル船の入港が禁止
 オランダ・中国のみが
 日本との貿易継続
 ↓↑
 ころび
 キリシタンを捨てて仏教に転宗すること
 ころび証文
 転宗した事を神仏に誓う誓詞(起請文)
 この中で
 デウス、サンタ・マリア、諸天使、聖人
 等にも誓っている
 キリシタン目明し
 ころび伴天連
 沢野忠庵(クリストバン・フェレラ)
 キリシタン目明し
 後藤了順
 荒木了伯
 の誓書が書きそえてある
 正保二年(1645)
 乙酉の年号も記録
 東上町の隣町は
 茣蓙町=茣蓙町は筑後方面より
     茣蓙(ゴザ)を加工する人達が開いた町
     西勝寺の創建に協力した
 ↓↑
 光源寺.
 柳川藩瀬高町下庄田代
 光源寺の二世
 十時松吟(とときしょうぎん)は
 寛永十四年(1637年)
 長崎に出て浄土真宗の布教活動
 長崎奉行
 馬場三郎左衛門
 に認められ一寺を建立
 瀬高の
 光源寺を弟に譲り
 銀屋町(晧台寺前の天満宮付近)に
 巍巍山
 光源寺(西本願寺派)を創建
 延宝四年(1676年)
 火災で銀屋町の寺地が類焼
 光源寺の墓地が有った
 伊良林に移転
 松吟の著書
 長崎で穴吊りの拷問に耐えきれず
 キリスト教
 棄教した
 イエズ科会司祭
 「クリストファン・フェレイラ
 が
 「澤野忠庵」の名と妻をあてがわれ
 キリシタン目明し
 としてキリシタン弾圧に協力
 「ころび伴天連バテレン=澤野忠庵」
 が口述した
 天文書を記述
 フェレイラは日本人に
 南蛮医学を伝え
 娘婿の
 杉本忠恵は
 フェレイラ門下の医師
 幕医
 光源寺の墓地に
 慶長九年(1604年)
 中国語の通訳の職に任命された
 唐通事(中国語通訳)
 馮六(ほうろく)
 坂本龍馬暗殺後
 亀山社中を切り盛りしていた
 二宮又兵衛
 寛永十七年(1640年)
 阿蘭陀通詞
 横山ン又兵衛から
 十一代
 又之丞まで
 阿蘭陀通詞を勤めた
 横山家などの墓がある
 ・・・横(よこしま・オウ)の
    山(やま・サン)の
    家(いえ・カ)?
 ↓↑
 オランダ語を日本語に借用
 長崎港図(蘭唐船入港)
 ビール(bier)、オルゴール(orgel)
 おてんば(ontembaar)、ランドセル(ransel)
 ポン酢(pons・柑橘類)
 病院、盲腸、炭酸
 などは
 オランダ語の意味を漢字転換した
 ↓↑
 ポルトガル語を日本語に借用
 柳川方面
 縁台=バンコ(banco)
 南瓜=かぼちゃ=ボーブラ(abóbora)
 歌留多=カルタ(carta)
 コップ(copo)
 フラスコ(frasco)・メリヤス(meias)
 シャボン(sabão)
 煙草=烟草・莨=タバコ(tabaco)
 天婦羅=天婦羅=天ぷら(tempêro)
 ザボン(zamboa)
 トタン板(tutanaga)
 ジョウロ(jarro)
 ビイドロ(vidro)
 ブランコ(balanco)
 チャルメラ(charamela)
 キリシタン(cristao)
 おんぶ(背負う・ombro=オンボロ)
 木乃伊=ミイラ(mirra)
ーーーーー
 ・・・???・・・