740日目・・・「与謝野晶子」って偉いと思うョな・・・「あぁ、弟よ、きみ、死にたもうなかれ」って、ね。死んでもらいたくないのは「自分の家族としての弟」だけのハナシじゃないんだろうけれど・・・時代的な背景、詩(うた)のベースは「実弟」の「実姉」、「家族中心」からの発想だ・・・でも読んだ人は「私の弟」だって、「俺の弟」だって「人を殺せと教えしや」って「戦場での無益な死」を望んではいなかった。そして、当時の「国家支配階級」にとっては「弟の死」は「無益」ではなかった。「明治促成民族国家の存亡」がかけられていたか

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 離党届提出の与謝野氏
 「首相のお手伝いしたい」
 読売新聞1月13日(木)11時6分
 記者会見で離党を表明するたちあがれ日本の与謝野共同代表
 たちあがれ日本与謝野馨共同代表は13日午前、国会内で記者会見し、同党を離党する意向を表明した。
 すでに平沼代表に離党届を提出した。
 記者会見で与謝野氏は、離党理由について「(ほかの議員と)考え方が一致しなかった」と説明した。
 菅首相から入閣の打診は受けていないとしつつも、「税制抜本改革とTPP(環太平洋経済連携協定)でお手伝いできれば(首相を)お手伝いしたい」と述べた。
 与謝野氏は昨年末、首相が、たちあがれ日本に連立政権参加を含む協力を打診したのに対し、応じるべきとの考えを党内で主張していたが、ほかの議員の賛同を得られなかった。
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 「民主党政権」になって「自民党」が曖昧にしていた「国家=反日本国家(憲法)」をガッチリ造ろうとしているのは「日本国居住民」にとってキッと「自由」と言う意味でアリガタ(蟻型)迷惑かも・・・本来、護るべきモノを削いでいっているのが「民主党政権」かも・・・
 モンテスキューの「共和国の徳性」って「政治的徳性」、「祖国愛と平等」であるらしいが、「平等」は「祖国の枠内での平等」であるらしいから「人間・人類」の「平等」ではない。「国家間戦争」を孕む「国家」には「敵国の人間に平等」ではないのはアタリマエ、「国家間の平等」もないのがアタリマエだ。初めから「平等」ならば「戦争」もないから・・・そして「祖国愛」は「祖国支配階級の利害関係に於ける人間愛」だから「一国内」の「国民相互諸関係」に於ける「愛」でもない。
 以下、モンテスキューの「法の精神」の「はしがき(彼の死後、この著作の刊行1757年に初めてつけられた)」からの抜粋だけれど・・・
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 ・・・一言にしていえば、名誉は共和制に存在するが、共和制の発条はあくまでも政治的徳性なのであり、政治的徳性は君主制存在するが、君主制の発条はあくまでも名誉なのである。
 最後に、第三篇第五章において問題とされている有徳の人とは、キリスト教的な有徳の人ではなく、私の述べた政治的な徳を持っている政治的な有徳の人である。それは、おのれの国の法を愛し、おのれの国の法への愛により行動する人間である。私は、これらのことがらについて、この版では、観念をさらに明確にし、新たな解明を与えておいた。そして、徳性なる語を用いていた大部分の箇所は、政治的徳性に代えた。
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 「政治的徳性」を有する人間は「おのれの国の法を愛し、おのれの国の法への愛により行動する人間である」で、彼の「政治論」は国家単位の「枠内」での「政治的徳性」で、世界規模、地球規模の「人間、人類としての政治的徳性」ではない。
 そして今現在の「日本国家の政治家、官僚」、そして「ジャーナリスト」や「日本国民(?)」のある人々も「日本国家の憲法」を「愛してはいないらしい?」のである。  「日本国家憲法」から外れていく人間が増殖中であるらしい。
 理由は簡単である「日本国憲法」がモンテスキューの言う「国家」を、「共和国」の条件を「保証・保障」していないからである。「日本国憲法を愛するコト」には無理があるのさ・・・「日本国の支配者階級」はね。そして、その太鼓もちの「政治屋」も「官僚屋」も、「情報屋」もね。
 「日本国憲法」は「国家枠」からはみ出した「世界憲法」、あるいは「地球憲法」とでも云うモノだから、当然である。そして「日本」の「政治的」状況は「他力本願」であって、この「日本国憲法」を「自力本願」として肝に銘じていないし、この「憲法の力」を信じていないからである、なッ。
 「法」の「精神」が「政治的徳性」であるわけがない。「政治」は現実的でアルゆえに「徳性」なんかではないのさ・・・この「現実」っていうのが「階級間の妥協、強制」という事で、決して「平等」な「協力・和合」ではない、と言うことだ・・・国家間戦争もこの「一国内の妥協、あるいは強制」が無ければ無理と言うもんである。