745日目・・・昨日、一昨日は東京に新幹線で豪華な旅をしてきた・・・新幹線が出来た当時、東京から大阪まで片道5000円ぐらいだったと思う。当時の安いアルバイトの金を手に握り締めたボクの思いは新幹線なんかに何時、乗れるチャンスがあるんだろうか、な、と思った。今回、名古屋ー東京間が片道10000万円+アルファーである。行きも帰りも富士山を観ることが出来た。やはり、富士山の姿が「異様」で素晴らしく感じるのは、場所と周囲の山々の光景から抜きん出ているデッかさと「優雅な形」にあるらしい。あの「優雅」さが一変、怒り

 「太平洋戦争」で、「大日本帝国の軍隊」は「アメリカ軍」に「軍事力・軍事作戦」に負けたと思っているのは「タカジン」、「シンボウ」、「アベちゃん」や「カツヤ」や「ミヤケ」、オマケに「キンばぁ」であるらしい。

 国家の「支配階級」の「国内政治」も「外交」も「駆け引き技術=政治技術=マキャベリズム」で、「事実的状況」が「マキャベリスト」でない「マキャベリ」の時代も、現在の「タカジン番組制作一族郎党」がオワライ番組モドキで高視聴率を狙っているマスコミ産業も「日本的状況」を公平、客観、中庸を装って「国家主義」に先導、煽っているのは「時代背景」が要請しているモノに違いない。

 結果、自分自身の「情報産業」の首を真綿で〆ているのかも・・・

 「大日本帝国の敗戦」、「国力の差」は歴然だったが、負けたのは「日本帝国の日本明治国家の促成民族精神」が「アメリカ式国家の民主主義・自由主義思想」にも負けたのだ。

 その結果の敗戦から現在の「民主主義国家(?)日本」なのである。この「日本的民主主義」が、たとえ、GHQの占領政策であったとしても、若いアメリカの「ニューデリアン(労働課)」の賜物である。

 「日本国憲法」が「日本国民」に「アメリカ政府」から押し付けられて「当時の日本閣僚が泣いて受け入れた」とハゲの「ミヤケ」や伍長の「カツヤ」が喚き、「アベ」は当時の事情を「日本国民」は知らされていない、とか危機感も無く、温泉で酒をチビリながら言っていた。そして、時たま朝まで深酒する「タカジンの虚しさ」が「日本国憲法」が「改正」になってこなかったコトらしい・・・中途半端なアルチュウ漫談は視聴者にウケて面白かろうが・・・「左」の知識人やアカ新聞と同じく、「右」と誤解されるのは心外らしいが、自分自身で銃を持つ「極右の本気さ」も無いらしい。

 かっては権力の座にいた、おカルチックな「アベ」と、カネで買収したサクラを動員してのなんとか討論会なんかワラッちゃう・・・あれも「政治技術」なんだろう。下痢で権力を放棄する奴が「国家」を護れるはずがない。何のことは無い「アベの政治技術」って、あの「モリ」のやっていたような親分子分の「小細工・懐柔・恫喝」のコトらしい・・・から、哂っちゃう・・・

 それに「民主主義」が大切らしい「伍長」にはナゼ、現在の「日本」で「軍事クデター」が起こらんのか、ワカランらしい。今現在の中東のチュニジア、エジプト、イエーメンの「大衆的な精神的」状況と、その「暴動」を「軍事クーデター」で収拾を画策し、利用しようとしている「支配階級」と、今現在の「日本支配階級」と「日本的民衆意識」は違うのである。
 モチロン、「2・26」の青年将校の「思想」とも違う。なんせ、「青年将校」たちは、「天皇=(国家機構)機関」であることに異存が無かった「立憲君主」で、国際的資本主義経済の中で「財閥(日本資本主義)」に支えられていた「天皇陛下」をアマリにも信じすぎた。
 そして「日本民衆」の殆ども「明治促成民族主義の頂点」に存在する天皇を、幻想としての「水戸黄門物語」のように「絶対君主=神格」として「愛」し、「信じて」いたのだ。・・・他人が、「天皇」が何とかしてくれると思っていたのだ。精神的な「他力本願」の依存症は「日本の伝統」である。そして「責任」を他者になすりつけるのも・・・
 昭和維新の「磯部」は、「大塩平八郎」以上に、実体分析と状況分析に疎く、具体的な「国家支配機構人事」の未来的ビジョンを有せず、「北一輝」のマニュアルと、「天皇親政」だけであった。
 そして、「磯部」は、その「信念」に賭ける決定的な実行決断力に欠けたのである。獄中で「天皇陛下」に罵詈雑言の恨み辛みをカミの上に文字化しても「後の祭り」であった。
 明治維新の「志士」たちは、国際情勢を踏まえ、「天皇」を新たな「階級国家」としての「支配階級機構」のビジョンを具体的に実現、構築するタメにしたたかに「利用」したのである。結果、それは決して政治的にも経済的にも「四民平等」の「法治国家」ではなかった。もちろん、「民主主義」でもなかった。

 「日本国憲法」、当時の内閣が「悔しくて泣いた理由」はナンだったのか?・・・あるいは、「感激して泣いた理由」はナンだったのか?・・・「立憲君主明治国家天皇制」が護れなかった、からなのか。あるいは欧米並みの「国家主義的民主主義体制」を「日本国憲法」として受け入れた、からなのか?・・・「ミヤケ」はいつのころの「新聞記者」だったんだか・・・それにNHKで知られるようになった「白州」の物語は彼の立場としては当然であるが、「国民一般の立場」ではないなッ・・・

 「タカジンの番組」を「右より番組」から「左より番組」にするらしいが、「左・中・右」の立場の根拠とはナニか?・・・あいつらが「レッド=左色」が嫌いといっても、ボクは色彩感覚として「ジャパン・レッド」は好きである。鮮やかで美しいからな・・・
 「左・中・右」・・・右や左の旦那様・・・真ん中で物乞いしているのはコジキ・・・いずれも、「私的所有=私有財産」の多寡を追求する精神的意識、カネ(資本主義)の幻想枠内で踊らされているだけ・・・カネの本質は「ホリエモン」が鋭く突いている・・・「儲かったカネ」が「彼の理想=宇宙旅行会社」を、そして高級マンションで、高級なバーでネーちゃんとイチャ、イチャできる「実現システム=自由選択」なのだから。「カネ」は「権力」である。そして、印刷されたカミが「使用価値=交換価値=保存価値」がアルと思い込んでいる「幻想」である。「カミの価値」を信用していない証拠に国際為替相場は一分一秒で数字が「変化」しているんだから、「信用=幻想」である。その「信用=幻想」を操っているのは「人間」である。操られているのも「人間」である。「経済学」とは「人間心理学の分野」である。
 そして、その「幻想の実体」は「人間の労働」である。「個々人の身体(脳ミソも含む)の労働が源泉」でもある。「資本」はその「労働のアマリ」である。「アマリの価値」は「市場(交換)価格に含まれている部分(利益・儲け)」なのである。アマリにも、アマリにも「人間労働のアマリ」なのである。
 さて、この個々人の「労働」能力には「生産格差」があるのだけれど、そして、「アマリ(損得=赤字・黒字)」にも格差があるのだけれど、「集めた黒字のアマリ」をどうするのか?、「赤字のアマリ」をどうするのか?・・・アマリの「アマリ」の部分は「国家が集めているアマリ」で「税金」と言うものである。「階級国家」ではこの「アマリ」をどのように「管理・分配・使用」するのか・・・「階級秩序関係」を維持するタメに「基本ルール=法律」に則って決めるのだ。「階級」とは「意識」の問題である。ダレでも、みんなが「自由に儲けることが出来る」と言う精神構造、意識である。儲けるもヨシ、儲けないのもヨシ、金持ちになるのもヨシ、貧乏人になるのもヨシ。選択はアンタ個人の「自由」である、と言う根性である。「モウケ」は、一体全体どこから出てくるのか・・・あの中国の、あのアメリカの、そしてこの日本の大富豪の「モウケのカラクリ」はナンなのか・・・選択出来ない「自由」なのである。
 取り敢えずは「日本国憲法(第25条・生存権、国の社会的使命)」には
 「①すべての國民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
 「②國は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生上の向上及び増進に努めなければならない」
 と記されている。・・・「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とはなにか?・・・取り敢えずは、人間生命体維持の「衣食住」の確保の「権利」である。この「権利」は現実的には、「生きているすべての國民」は「衣食」しているだろうけれども、着るか着ないか、食うか食わないか、住むか住まないか「自由選択」だけれど、「衣」は寒空に薄着、「食」は空腹でも一食、「住」はまったく保証されてはいない人もいる。最低限の生命活動の「衣食住」を確保したいが「職」がない。「職」がなければ「カネ」がない。三食昼寝つきにはアコガレてしまう。

 で、ハナシは跳んだが、「日本国憲法・第二章戦争放棄・第9条(戦争の放棄、軍備、及び交戦権の否認)=条文・文字約束」だが、その信念、信条を護るタメに「国家」ではなく、「人間の生きる道」として究極的には「暴力」を内外を問わず行使するのだ。「交戦権」とは「国」と「国」の「戦争開戦宣言と発動、実力行使」である。「国家」を前提にしなければ「戦争」ではない。では「戦争」、「国家」を前提にしない「暴力行使」とはなんぞや?・・・個々人の「暴力行使」は許されるのか?・・・「正当防衛」である。「日本国家憲法の正当防衛」は「暴力行使」として許されるのか?・・・当然である。
 「問答無用」で襲い掛かってくる相手には、精神(憲法)も、それを担っている肉体も破壊されるのである。護るベキものが危ういときは、逃げるのさ。逃げる場所が無いときは自衛手段として、当然、「暴力行使」で護るのさ。リング上のルールは通用しない。
 この「暴力行使」とは「日本国」と言われている「階級国家」の「戦争」でもなければ、「交戦」でもない。
 その「非国家的憲法」、「日本国憲法条文」に記載されている「憲法死守」の「日本地域居住民の意識的な暴力行使」である。

 人間が作り出した「法」があろうが、なかろうが、外でアレ、内でアレ、「暴力行使」も、あらゆる「抵抗手段行使」も、「人道を否定」する理不尽な相手次第である。

 「日本国憲法=非国家的憲法」を護るためには、その「思想」に「武器・暴力」で「命」をかけるのが「自然」と言うもんだ・・・

 自分のモノは自分で護るのが「鉄則」である。

 「日本国憲法改正論者」・・・「自衛隊」が「日本国憲法」の「自衛隊」とは考えていないからである。その「信念・信条」は日本国支配階級の「軍隊」ではない。

 「自衛隊」は「日本支配階級」のモノでは無く、国家を超えている「日本国憲法」は「世界人類の基本的思想的精神」としての「守護神」なのである。「日本国憲法下の自衛隊」は、「日本人の生命財産」だけでは無く、任務として護るべきものはスベテの「地球人類」なのである。

 「日本国憲法」に「殉教死」するのではなく、その「意味内容」を護るために、「地球規模に拡大」するタメに戦うのさ、相手がダレでアレ、命を賭けて・・・アタリマエで自然である。