2656日目・・・2019年1月1日・・・「戊戌・甲子・戊戌」・・・紀元前219年(壬午・始皇28年)・・・

 始皇帝の命で
 屠睢・・・・屠=尸+者
         ほふる・さく・ト・ド・ヅ
         家畜を殺す・屠殺・屠所
         きる・さく・屠腹
         狗屠(クト・コウト)・浮屠(フト)
         屠牛(トギュウ)・屠殺(トサツ)
       睢=目+隹
         異体字「𤕚・眭・𥉖・𥍋」
         みあげる・キ・ケイ・ケ・スイ
 と
 趙佗・・・・趙=趙=走+肖=土+龰+肖=土+ト+人+小+月
 ↓↑      およぶ・こえる・チョウ
         ゆっくり歩く・歩くことのおそいさま
         超える・及ぶ
       佗=ィ+它
         ほか・になう・わびる・わびしい・わび
         タ・イ
         ほか・他・になう・背負う・佗負
         わびる・ひっそりと暮らす
         みだす・佗髪
         わびしい・わび・さび
         よこしま(邪)・おふ(負)
         になふ(荷)・馱・うるはし(美)
         委佗
         它=宀+匕
           異体字「他・牠・蛇」
           それ・あれ・かれ(彼)・ほか・別の
           蛇(毒蛇)
 ↓↑      ↓↑
 が嶺南(ベトナム北部)に侵攻
 始皇帝が泰山で封禅の儀式・・・封泰山、禅梁父山
 ↓↑
 第四次シリア戦争
 第二次ポエニ戦争
 ルキウス・アエミリウス・パウル
 マルクス・リウィウス・サリナトル
 が共和政ローマの執政官に就任
 ローマが
 イリュリアに侵攻した
 第二次イリュリア戦争終結
 ↓↑
 紀元前219年(壬午・始皇28年)・・・
 紀元前220年(辛巳・始皇27年)・・・
 紀元前221年(庚辰・始皇26年)・・・
 紀元前222年(己卯・始皇25年)・・・
ーーーーー
 姓は嬴(エイ)
 氏は趙(チョウ)
 諱は政
 趙の首都
 邯鄲で生まれたため・・・「趙政」
 実父は
 韓の商人 呂不韋
 実母は  趙姫(子楚の妾)
 ↓↑
 秦始皇帝
 在位期間 紀元前247年五月丙午朔
      〜
      紀元前210年七月丙寅朔
 都城   咸陽
 姓・諱 嬴政
 生年 前259年(正月1月)
 没年 前210年9月10日(秋七月二十二日丙寅朔)
 ↓↑  辛卯年丁酉月乙亥日
 ↓↑
 紀元前 247年五月丙午朔(一日)
 干支=甲寅年
    己巳月・・・・己=よこしま・おのれ・キ・つちのと
           巳=蛇・蝮・へび・ミ
    丙午日
 日本
 皇紀 四百十四年・・・・・・・・414年
 孝霊天皇四十四年・・・・第七代・孝霊天皇44年・・・?
             大日本根子彦 太 瓊天皇(書紀)
             大倭 根子日子賦斗邇命(古事記
             皇女は倭迹迹日百襲姫命
 中国
 秦 - 荘襄王  3年
 楚 - 考烈王 16年
 斉 - 斉王建 18年・・・斉の王の建・・・十の八の年
 ↓↑  ↓↑    蛇(巳)をペットにしていた?
               巳→冲←亥
               白猪→伊吹山←建⇔小碓・大臼
                  吹雪・有珠=うす=渦?
             母親は「君王后」
             ↓↑
              始皇帝死後
              田斉
              斉王建の弟である
             「田仮」が秦に反旗するが
             「田栄」との内紛で殺され
             「田横」が斉に登場し自殺
 ↓↑  ↓↑  ↓↑
       「史記世家
        戦国策(鮑本には
            后勝は君王后の一族)」
       「斎王の
        建
        は、助命されて
        共の松柏の間に幽閉・戦国六国が滅ぶ」
       「東周列國志」
       「后勝は王賁によって斬首」・・・
       「齊王建用后勝計,絕秦使,欲為亂,
        今幸將士用命,齊國就滅。
        本當君臣俱戮,念建四十餘年恭順之情,
        免其誅死,可與妻子遷於共城,
        有司日給斗粟,畢其餘生。
        后勝就本處斬首」
        王賁奉命誅后勝。
 ↓↑  ↓↑
   趙
       趙王遷(幽繆王)は投降し
        河南の房陵に流刑
        ↓↑
 魏
 魏王假は投降して捕虜
 遭處死(資治通鑑
        ↓↑
 韓
 韓王安は捕虜
 領国は
 秦の
 潁川郡になった
        ↓↑
 BC226年
 旧韓貴族が叛乱し鎮圧され
 王安は処刑
        ↓↑
 襄王(ジョウオウ)
 生年不詳〜紀元前265年
 戦国時代の斉の君主
 名は法章
 湣王の子
 紀元前284年
 湣王が
 淖歯に殺害され
 法章は姓名を変えて
 莒県の
 太史敫の家の雇い人になった
 太史敫の娘(君王后)は
 法章の
 衣食の世話をし
 恋仲となった
 淖歯が莒県を去ると
 莒県の人と斉の亡臣たちは
 湣王の子を探し求め
 法章を立てようとしたが
 法章は殺されるのを恐れていたが
 意を決して
 「わたしは湣王の子である」と名乗り
 莒県の人は
 法章を斉の王に擁立し
 襄王となった
        ↓↑
 紀元前279年
 田単が
 即墨で
 燕を撃破し
 襄王を
 臨淄に迎え
 斉の旧領をすべて回復
        ↓↑
 紀元前270年
 秦に剛寿を攻撃され
 紀元前265年
 襄王は死去
 在位19年
        ↓↑
 君王后
 姓は太史后(敫)
 紀元前310〜300年・・・
 紀元前256年
 秦が周王室を滅ぼした
        ↓↑
 紀元前249年
 斉王建時代の16年
 出身地 莒県(山東省莒県)
 父親 太史敫(太史后)
 夫 田法章(斉の襄王)
 息子 田建(斉の最後の王)
  建の弟は、 田仮
 舅は 田地(斉の閔王)
      曾孫 田安(斉王建の孫)
      項羽に降伏するが
      田栄に殺される
      后勝(斉王建の宰相)
      建に秦への降伏を進言
      田単 恩人
 ↓↑  ↓↑
 燕 - 燕王喜  8年
 趙 - 孝成王 19年
 魏 - 安釐王 30年
 韓 - 桓恵王 26年
ーーーーー
 月の十二支
 X月甲寅朔(X月の1日=朔は甲寅の日)
ーーーーー
 神武 元年1月 1日…辛酉・庚寅・庚辰・(丙子・丁丑・戊寅〜)
 紀元前660年2月11日(グレゴリオ暦
 紀元前660年2月18日(ユリウス 暦)・ユリウス日=1480407
ーーーーー
 月の十二支
 X月甲寅朔(X月の1日=朔は甲寅の日)
 月の干支の決定は・・・・時間の決定は同法で日によって決定
    甲 乙 丙 丁 戊⇔甲 乙 丙 丁 戊
    己 庚 辛 壬 癸⇔己 庚 辛 壬 癸
    年 年 年 年 年 日 日 日 日 日
    ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
 寅月=丙 戊 庚 壬 甲⇔丙 戊 庚 壬 甲=寅時干
 干  寅 寅 寅 寅 寅⇔寅 寅 寅 寅 寅 午前3〜5
 節入り日〜
ーーーーー
 干支
 臨沂県(リンギケン)から出土した
 銀雀山漢墓竹簡
 および
 武帝七年(元光元年、紀元前134年)
 暦譜竹簡の例が最古・・・
 ↓↑
 太初(タイショ)
 前漢
 武帝元号
 紀元前104年〜紀元前101年
 元年夏五月に太初暦への改暦
 元封七年を太初元年とした
 太初暦で
 顓頊
 暦の十月歳首を
 正月歳首に改めた
 太初元年は
 前年の十月〜十二月までの
 15月間
 存在することになった
 それに
 干支をあてはめた
 以下の4種がある
 丙子=『漢書
 甲寅=『史記
 丁丑=紀元前67年から
 単純に
 60年サイクルの
 逆算=戊寅=『史記
ーーーーー
 紀元前221年
 干支=庚辰
 日本
 皇紀440年・・・・・・・四百四十=四百四拾
 孝霊天皇   70年・・・七拾=漆足
 中国
 秦 - 始皇  26年・・・二十六=念陸
 斉 - 斉王建 44年・・・四十四=肆拾肆=肆足肆・・・建
 ↓↑
 紀元前221年
 ローマ暦(キリスト生誕前〜後退年数)・・・(-Ⅹ年)
 ↓↑
 「アシナ
  と
  ルフス
  レピドゥス
  共和政ローマ執政官に就任した年」
 「ローマ建国紀元535年」
 「仏滅紀元=326年」
 ↓↑
 カルタゴ
 カルタゴの将軍
 ハスドルバルが
 ヒスパニアの植民地を
 増やすための遠征中に
 ケルト人によって暗殺される
 カルタゴの将軍
 ハミルカル・バルカの息子
 ハンニバル
 司令官として軍に推挙され
 カルタゴ政府から承認
 ハンニバル
 カルタゴ
 ヒスパニアの支配を強固にするため
 ヒスパニアの王女
 「Imilce(イミリス)」と結婚
 ヒスパニアの様々な部族を征服
 オルカデス族と戦い
 その首都
 アルタイアを占領
 北西の
 ウァカエイ族を平定
 カルタゴ・ノウァ
 (カルタゴヒスパニア植民地の首都、カルタヘナ)
 に港を築く
 タグス川一帯の
 カルペタニ族に勝利
 ↓↑
 エジプト・プトレマイオス朝
 プトレマイオス3世が死亡
 プトレマイオス4世が即位
 ソシビオスが
 大宰相
 ソシビオスの讒言により
 プトレマイオス4世は次々に
 おじの
 リュシマコス
 や弟の
 マガス
 母の
 ベレニケ2世を殺害
 ↓↑
 スパルタ王
 クレオメネス3世は
 エジプトに亡命
 プトレマイオス4世は
 陰謀を疑い彼を軟禁
 ↓↑
 セレウコス朝
 メディア総督(サトラップ)の
 モロンと兄弟で
 ペルシス総督の
 アレクサンドロス
 宰相
 ヘルメイアスは
 アンティオコス3世に反乱し
 モロンはチグリス川東部にある
 セレウキアの領地の支配者に・・・
 アンティオコス3世の軍は
 彼が川を越えを防ぎ
 アンティオコスの将軍
 クセノエテスが
 モロンに対し大軍とともに派遣され
 モロン軍の奇襲にあって、全軍が崩壊
 クセノエテスは殺され
 モロンは
 チグリス川を渡り
 チグリス川沿岸の
 セレウキア
 と
 全バビロニア
 と
 メソポタミア
 の支配者となる
 ↓↑
 ギリシア
 アンティゴノス3世
 イリュリアの諸都市との戦闘中に死亡
 従兄弟の
 ピリッポス5世が
 マケドニア王位を継ぐ
 ↓↑
 共和政ローマ
 ガイウス・フラミニウス・・・・亥(猪子)臼(碓)?
                附羅(等)見似兎州?
 が
 ローマの
 2番目の競馬場
 フラミニウス競技場を建設
 ↓↑
 中国
 秦の将軍
 王賁
 は
 李信
 蒙恬
 と共に
 斉を攻め
 斉都の
 臨淄を包囲
 斉王
 建・・・・建(ケン)は「たける」か?
 は
 后勝・・・后の勝・・・皇后の勝ち?
 の言に従い
 無抵抗降服
 秦は
 斉を滅ぼし
 秦王
 嬴政は
 魏を滅ぼし
 中国統一
 戦国時代終焉
 ↓↑
 嬴政
 始皇帝を名乗り
 絶対君主制を開始
 始皇帝
 中央集権を採用
 郡県制を全国に施行
 六国を滅ぼし征服したので
 中国領域をその
 六倍の
 三十六の郡に分け
 郡に守、尉、監
 を置く
 ↓↑
 秦は
 武器を
 咸陽に集め・・・刀狩り
 溶かして
 鐘と
 十二金人・・・仏像=仏はその身体に三十二相と八十種好
        という超人間的美点をそなえ
        仏像はその説にしたがって造られ
        仏は中国では「金人」などとよばれた・・・
        金の人・・・金さん・・・
 を造る
 重さはそれぞれ千石
 宮廷の中に設置
 度量衡を統一
 天下の富豪十二万戸を
 咸陽に移住させる
 ↓↑
 中国の青銅器時代の終焉・・・
 ↓↑
 死去
 プトレマイオス3世
 プトレマイオス朝
 第3代国王ベレニケ2世
 プトレマイオス3世の后
 アンティゴノス3世
 アンティゴノス朝
 マケドニアの王(紀元前263年〜)
 ハスドルバル、カルタゴの将軍
 ルキウス・カエキリウス・メテッルス
 共和政ローマの執政官(紀元前290年〜)
 ↓↑
 紀元前220年
 干支=己卯
 日本
 皇紀四百三十九年
 孝霊天皇六十九年
 中国
 秦 - 始皇政  25年
 斉 - 斉王建  43年
 燕 - 燕王喜  33年
 趙 - 代王嘉   6年
 仏滅紀元   325年
 ↓↑
 共和政ローマ
 ウィリドマルス
 に率いられた
 ガリア人の
 ガエサタエと
 インスブレス族に
 執政官
 マルクスクラウディウス・マルケッルス
 の率いる
 ローマ軍が
 クラスティディウムの戦いで勝利
 マルケッルスは
 ウィリドマルスを殺害
 マルケッルスは
 ローマ史上3人目
 最後の
 スポリア・オピーマ
 となった
 もう一人の執政官
 グナエウス・コルネリウススキピオ・カルウス
 と共に
 メディオラヌム(ミラノ)を陥落させた
 ↓↑
 ギリシア
 スパルタの
 クレオメネス3世は
 セラシアの戦いで
 アンティゴノス3世と
 アカイア同盟
 パロスのデメトリオス率いる
 イリュリア
 プトレマイオス3世率いる
 エジプトからなる同盟軍に敗れた
 アンティゴノス3世の軍は
 他国の軍として史上初めて
 スパルタを占領
 ギリシアのほぼ全土が
 マケドニア王国の宗主権の下に置かれ
 アンティゴノス3世は
 首長としてヘレニズム同盟を再建した
 ↓↑
 セレウコス朝
 将軍
 アカエウスの率いる
 セレウコス朝の軍は
 6年前に奪われた
 アナトリアの領土を
 ペルガモン王国から奪取
 ポントス王
 ミトリダテス2世は
 娘の
 ラオディケ3世を
 セレウコス朝の王
 アンティオコス3世に嫁がせた
 別の娘を同時に
 アンティオコス3世の
 従兄弟
 アカエウスに嫁がせた
 ↓↑
 秦の
 王賁が
 遼東に逃亡した
 燕軍・・・・・つばめの戦
 を殲滅し
 燕王喜
 を捕虜にした
 秦は
 燕を征服
 王賁が
 代(趙の亡命政権)
 ↓↑  ・・・代=人+弋(ヨク・イキ)
           弋=いぐるみ・とる・くろい・うかぶ
             獲物をからめとる
             杙(くい)や繳(いぐるみ)のこと
            (矢に糸をつけ、射たときに鳥を
             くるんで落とすようなしかけ)
         かわる・かえる
         代表・代理・代用
         かわりになるもの
         商品や労力にみあう金額
         代価・代金
         よ(世)
         歴史上の区分
         上代・王朝
         天子や家長がその地位にある期間
         年齢や年号の範囲
         しろ・田地・苗代
         かわりのもの
         代案・代議・代行・代打・代替・代表
         代用・代理・城代・総代
         名代 (みょうだい)
         人の一生涯
         田代(たしろ)・八代
         田=それを測る単位
           稲一束を得る田の面積とされ
           律令制においては一段の1/50
           1代=稲1束
             (当時の5升,現在の2升にあたる)
 ↓↑          を収穫しうる面積
 を攻め
 代王嘉
 を捕虜とし
 代郡(河北省蔚県西南)
 と
 遼東郡(遼寧省遼陽市老城区)
 を設置
 秦の
 王翦
 が
 楚の江南の地を平定
 百越の君を降伏させ
 会稽郡を設置
ーーーーー
 ・・・???・・・会稽、トウヤ(トウジ)のヒガシ・・・
 会稽東冶(治)・・・
 冶金・・・鍛冶(タンヤ)・鍛冶屋(かじや)
      冶=冫+ム+口
        なまめく・なまめかしい
        陶冶・艶冶(エンヤ)
 治安・・・治=氵+ム+口
      退治(タイジ)・湯治(トウジ)・統治( トウチ)
      不治(フジ)・法治(ホウチ)・療治(リョウジ).
      灸治・湯治・難治・不治・療治・主治医・治癒・治療
      治水
ーーーーー
 ・・・???・・・氷と水の境界・・・
 固液臨界点、6個の確認・・・
 氷と水の区別がなくなる新たな臨界点(固液臨界点)が存在・・・
 「通常の水(a)では、
  液体と気体の間の境界線は臨界点で途切れるが、
  固体(Ice IからIce X)の液体の境界線には臨界点がない」
 (岡山大学)・・・

 2655日目・・・2018年12月31日22:30・月曜日・・・

 2018年12月31日22時56分 2019年1月1日
 戊戌(辛 丁 戊)           戊戌(辛 丁 戊)
 甲子(壬  癸)          甲子(壬  癸)
 丁酉(庚  辛)…G・2458484・・・戊戌…G・2458485
 辛亥(戊 甲 壬)
ーーーーー
 ・・・2018~2019年2月節入り前まで・・・まだ「戊戌」の歳・・・
 ↓↑
 庚申(戊 壬 庚)
 戊子(壬  癸)
 丁丑(癸 辛 己)Y(1/1/1)⇔紀元前1/12/30…1721424
 ↓↑
 己卯(甲  乙)G(1/1/1)⇔Y(1/1/3)…1721421
ーーーーー
 もしも、アシタになったなら・・・

 2654日目・・・「月世界旅行(A Trip to the Moon・1865年)」・・・「地軸変更計画(Sans dessus dessous・1889年」)・・・「知字句変更計画」?・・・「ジュール・ヴェルヌのSF小説」・・・「ナント(Nantes)生まれ」・・・「フランス王アンリ4世によりナントの勅令が出された=1598年4月13日、ユグノーなどのプロテスタント信徒に対してカトリック信徒とほぼ同じ権利を与え、ユグノー戦争を終結・初期近代のヨーロッパでは初めて個人の信仰の自由を認めた・87年後の16

ーーーーー
 ジュール・ガブリエル・ヴェルヌ
 (Jules Gabriel Verne)
 1828年2月8日    1905年3月24日 ナント(Nantes)生まれ
 戊子(壬・ ・癸)⇔乙巳(戊・庚・丙)
 甲寅(己・丙・甲)⇔己卯(甲・ ・乙)
 甲午(丙・ ・丁)⇔壬戌(辛・丁・戊)
  辰巳=空亡
ーーーーー

 ・・・肉、舟、冃、字句倭鴉留土侶行・・・
 ・・・知字句変更計画・・・

 2653日目・・・「漢字=カンジ=貫地・完治・幹事・監事・寛治=かんじ・感じ」だけが根拠の「コジキ」・・・しかじか(云々・然々・如かじか・呵じか・敷かじか)、うんぬん(云々)・・・かれこれ(彼此)、トウゼン(当然・當然・当前・陶然・洞禅・堂前・東漸・東禅・等膳)・・・「とおせんぼう=通せん坊=両手を広げて道をふさぎ、人が通れないようにする遊び・とおせんぼ・通路をふさいで、行く先や交通をさえぎること」、「通るのを邪魔する子供の遊び・通路をふさぎ、通れなくすること」・・・

 「一本足の高下駄を履き、松明を持ったトウセン坊の大男・・・おっかぁ〜、ッ・・・オレはどうして?マグマの崖ッ淵ちなんかで海に落とされるんダょうッ!」・・・東仙坊・・・?・・・東尋坊(とうじんぼう)・・・?
 ・・・唐を尋ねる十一の方・・・亥の北々西・・・S&NのKの政治屋と、それらの海寇賊組織・・・醜く足搔(あが)いているな・・・
 「あがく」って=「悪い状態から抜け出そうとして、もがく」?
         「良い状態から抜け出そうとして、もがく」?
 「とおせんぼう」しているのは「己(ム・自)の根性」だろう・・・?
 あのSKのオンナ報道官、「C 賢の洙、57〜」、NKの「R 春の姬、1943年7月8日〜」や、CKの「H 春の瑩、1970年4月?日〜」、NAの「Sarah Elizabeth Huckabee Sanders、1982年8月13日〜)」・・・共通項は「おんな」ダケレド・・・+αのノイズが被る・・・
 ↓↑ ↓↑
 とおせんぼう
 とうせん棒=「当選・当籤・投扇・陶仙・刀銭・冬川」防・・・
 「陶潜」・・・トウセン・・・
 「唐船」・・・ジャンク・・・
  長崎に来航した中国船
 沙船(シャセン)、鳥船(チョウセン)
 沙船=船体の内部を水密隔壁で仕切った
    平底の船・長さ30メートル
    通常、大小3本の帆柱
    船尾が船首より高く
    積量50トンほど
    ポルトガル人が「ジャンク(junco)」といった船
 鳥船=船首から船尾にかけて竜骨を通し
    竜骨に組み合わせて
    多数の肋(ろく)材を配列し船底を尖せた船
    長さ30〜50メートルほど
    3本の帆柱、船尾と船首の高さが平均し
    積量100〜450トンほど
    ポルトガル人が「ソマ(soma)」といった船
    1723年(享保八年)
    清国政府は船首の両わきを
    地域別に塗り分け
    来航唐船のうち
    南京(ナンキン)船(上海出航)は藍(あい)色
    浙江(セッコウ)船(乍浦(サクホ)出航)は白色
    福建船(厦門(アモイ)出航)は緑色
    広東(カントン)船(広州出航)は赤色
    に塗った
    中国語の「船(チュアン)」が転訛し
    マライ語の「jōng」
    更に
    スペイン語ポルトガル語の「junco」に転訛
 ↓↑ ↓↑
 「陶潜」・・・
 「帰去来の辞」・・・歸去來兮・・・記虚来経?
          (キキョライケイ)
          (かえんなんいざ)
           田園・・・・・伝縁・傅圓
           將蕪・・・・・尚武・踵部・塩生・菖蒲
                  蕪=日+下+無
                    かぶ・株・下部
           胡・・・・・・えびす・ウ・コ
                  胡=古+肉
           不歸・・・・・付記・不起
                  歸=自+止+ヨ+ワ+巾
                    自+ト+人+ヨ+ワ+巾
           田園は
           将(まさ)に
           蕪(あ)れんとするに
           胡(な)んぞ
           不帰らざる           
 陶淵明・・・陶=阜(阝)+勹+缶(午凵)
            ・・・缶=𠂉+一+山・・・缶詰め
       異体字「𡍒・𨹋・𨺃」 
         すえ・トウ(タウ)
         焼き物・陶器・陶工・陶土・彩陶・製陶
         人格を練りあげる・教え導く
         陶冶 (トウヤ)・薫陶
         うちとけて楽しい
         陶酔・陶然
         もやもやして晴れない
         鬱陶 (ウットウ)
    ・・・陶器、日月の圓の淵
    ・・・陶磁器=トウジキ=問う時期・問う字記・冬至
    ・・・陶の邑=オオタタネコの所在地
           意富多多泥古(古事記
           大田 田根子(日本書紀
       河内 之美努 村(古事記
      (かふちのみののむら)
       茅渟県の   陶邑(日本書紀
      「茅渟
       (ちぬのあがた)陶邑(トウのムラ)に
       於(おい)て大田田根子(たねこ)を
       得て之(これ)を貢(たてまつ)る」
    ・・・「西陶器、東陶器の地名の堺市泉北丘陵」
    ・・・陶晴賢(すえはるかた)=陶隆房(たかふさ)
       天文二十年(1551年)
       主君・大内義隆を討ち
       大友晴英(後の大内義長)を当主に据え
       弘治元年九月二十一日(1555年10月6日)
       厳島の戦い前に出家し・・・毛利元就に敗北
       辞世の句
      「何を惜しみ 何を恨みん
       元よりも この有様に 定まれる身に」?
      ・・・ナルようにしかナラン、ってか・・・
 ↓↑      ↓↑
 ↓↑      淵=氵+𣶒
         ふち・エン
         水を深くたたえている所
         海淵・深淵
         物事の出てくる根源
         淵源
         物の多く集まる所
         淵藪 (エンソウ)
        「渊・渕」は俗字
       異体字「渊・𢏮・𠀯・𣶒・𠝃・囦・𡆼・𡇋
           𣴺・𣴸・渁・渆・㴊・𣷬・𣾬・𤀵
           灁・㶜・渕」
       簡体字「渊」
 ↓↑
 (365年(興寧三年)〜427年(元嘉四年)11月)
 魏晋南北朝時代六朝期)
 東晋末〜南朝宋の文学者
 字は元亮
   陶潜
   淵明
 死後友人からの
 諡にちなみ
 「靖節先生」
 「五柳先生」
 尋陽柴桑(江西省九江市柴桑区)の人
 「隠逸詩人」「田園詩人」
 祖先
 三国呉の
 揚武将軍・陶丹
 陶丹の子で東晋
 大司馬・長沙郡公の
 陶侃は曾祖父
 祖父の陶茂は
 武昌郡太守・・・武⇔「神武・天武・文武・聖武桓武天皇
        は昌(あきらか)に
         郡(こほり)の
         太(おほ・おお)の
         守(まもり・かみ・シュ)
 「寒門(単家)」と
 呼ばれる下級士族の出身
 427年、死去。享年63
 その誄(追悼文)は
 顔延之・・・顔(彦+頁)を延(のばす)之(これ・シ)
 が書いた・・・
 ↓↑
 顔延之(ガン エンシ・384年〜456年)
 宋の文学者
 字は延年・・・延(のば)す年
 本貫は
 琅邪郡臨沂県
 宋の
 文帝や
 孝武帝
 宮廷文人として活躍
 謝霊運・鮑照
 らと「元嘉三大家」に総称
 謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる・・・
 ↓↑
 トウセン
 「桃仙(桃の神)=意富加牟豆美命
         (おおかむづみのみこと・古事記)」・・・
 「伊邪那美」の「黄泉(よみ)の国」から
 「伊邪那岐」の帰還を助けた「意富加牟豆美命」・・・
 ↓↑


 白村江の海戦・・・海鮮・・・会戦・・・廻船・・・改選・・・
ーーーーー
 ・・・「郭(くるわ・カク)」とその関連の名の探索・・・?
 ↓↑
 列伝第三十一・・・郭祚
           ↓↑
           祚=示+乍(ながら・サ・ジャ)
             さいわい・しあわせ・天祚
             くらい・天子の位・皇祚
             とし(年)・年祚
          皇祚(コウソ)・践祚(センソ)
          天祚(テンソ)・福祚(フクソ)
 列伝第三十七・・・朱瑞
          叱列延慶・・・叱る延慶(慶喜・慶応)の列?
          斛斯椿
          賈顕度・樊子鵠・侯深
          賀抜允・・・賀(くに)を抜いて允(あて)る?
          侯莫陳悦
          念賢・・・・・賢瑜?
          梁覧・・・・・梁史(リョウシ)をミ(覧)る
          雷紹
          毛遐・・・・・毛人=蝦夷
          乙弗朗
 列伝第四十 ・・・斉宗室諸王下
          河南王孝瑜・広寧王孝珩・河間王孝琬
          蘭陵王長恭・安徳王延宗
          漁陽王紹信・・・漁の陽(楊)王の紹信?
                    煬帝の紹信?
          太原王紹徳・范陽王紹義・西河王紹仁
          隴西王紹廉・楽陵王百年・汝南王彦理
          南陽王綽
          琅邪王儼・・・琅邪の王の儼(イの厳)
          斉安王廓・・・斉安王の「廓=くるわ=郭」
          東平王恪
 列伝第四十一・・・万俟普・・・・万俟普・・・太安万侶の俟普
          可朱渾元・劉豊
          破六韓常・・・六(陸)韓は常に破れる
          金祚・・・・・金の祚(示+乍)
          劉貴・蔡儁
          韓賢・・・・・韓の賢
          尉長命・・・・尉の長の命
          王懐・任祥
          莫多婁貸文・・・莫多の婁の貸す文
          厙狄迴洛
          厙狄盛・張保洛・侯莫陳相・薛孤延
          斛律羌挙
          張瓊・・・張の瓊
          宋顕・・・宋書に顕(あら)われる
                  日並の頁=草壁皇子
          王則・・・王の規則
          慕容紹宗
          叱列平・・・叱る列平
          歩大汗薩・・・歩く大汗の薩(薩摩)
          薛修義・慕容儼・潘楽・彭楽
          暴顕
          皮景和・・・皮の景の和
          綦連猛・・・綦が連なる猛(建)
          元景安・・・元は景の安
          独孤永業・鮮于世栄
          傅伏・・・・傅伏=センプク・潜伏・船腹
                イは専ら伏す
 列伝第四十二・・・孫騰・・・孫の騰
          高隆之・・・高の隆しの之
          司馬子如・・・司馬の子の如く
          竇泰
          尉景・・・尉の景(景行天皇高橋景保
          婁昭・厙狄干
          韓軌・・・韓の軌跡・軌道
          段栄・・・段の栄(さかえ)
          斛律金
 列伝第五十八・・・韓褒・・・韓の褒(褒美・褒章)
          李彦・・・李の彦(木ノ子の彦=比古)・諺
          郭彦・・・郭の彦(クルワの彦=比古)・諺
 列伝第五十九・・・隋宗室諸王・秦王俊・・・秦の王の俊
 列伝第六十四・・・段文振・・・段の文を振る
 列伝第六十九・・・儒林上・郭遵・・・郭の遵(遵法)
 列伝第七十三・・・節義
          于什門
          段進・・・・段を進める
          石文徳・・・石の文の徳
 列伝第八十・・・・郭秀・・・・郭の秀
ーー↓↑ーー
 義慈王・・・・・・擬似負う・疑似王・擬餌押
 (599年〜660年)
 百済
 第三十一代・・・・三十一巻=日本書紀
 最後の王
 (在位641年〜660年)
 ↓↑
 唐からは
 「柱国・帯方郡王・百済王」
 に封ぜられた
 諱は
 義慈
 第三十代
 武王
 の嫡男
 母は不詳
 (新羅の真平王の娘
  善花公主という説
  百済貴族出身の
  沙宅-王后という説)・・・沙宅=砂宅・・・砂上の楼閣
 『旧唐書』に
 扶余-義慈・・・扶余(アマリのタスケ)-義慈(擬似・記事・生地)
           阿毎王朝の援護
 と記録
 高句麗と共同し
 新羅を攻めていたが
 唐・新羅同盟軍に
 660年・・・・・・・六百六拾=陸百陸例(令)
 唐に滅ぼされた・・・
ーー↓↑ーー
 孝、泰、隆、演
 豊璋・・・・・・・・・豊国(ぶんご・大分)の王の章
 勇(百済王善光)・・・長野県の善光寺
 の6人の王子
 王子の
 豊璋王
 禅広王(善光王・勇)
 を倭の人質した
 庶子41人
ーー↓↑ーー
 642年
 7月
 新羅に親征
 獼猴・・・おおざる・ビコウ=備考・尾行・・・
 など40城余りを下した
 8月
 将軍の
 允忠
 に兵1万を率いさせて派遣
 大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃し大勝
 降伏した城主を妻子ともども斬首
 男女1千人を捕虜とし
 百済の西部に移住
 斬首にされた城主の妻は
 金春秋(武烈王)の娘
 古陀炤公主・・・
 ↓↑
 643年
 高句麗と同盟(麗済同盟)し
 新羅
 党項城(京畿道華城市)を奪おうとしたが
 新羅が唐に救援を求め
 新羅攻撃は中止
 ↓↑
 この間も唐に朝貢を続けたが
 新羅と唐との接触を招く
 唐からは
 百済新羅
 両国に対して和平を進めた
 ↓↑
 644年〜649年
 新羅との間で戦争
 金庾信・・・金の庾の信
 ↓↑      庾=广+臾
         異体字「㔱・𢈔・㢏・斔・斞・𣂂」
           くら・ユ・・・
           屋根なしのモノ置き場
           臾=𦥑+人
           ひきとめる・しばらく・ユ・ヨウ
           わずかの意の「須臾(シュユ)」
           すすめる・そそのかす・「縦臾(ショウユ)」
 ↓↑        異体字「㬰・𠒍・蕢・䕚・蒉・𤆂・𧂟・𧸋」
 の新羅軍に
 649年8月
 道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗
 ↓↑
 651年
 高宗から
 新羅との和睦を進める璽書を送られたが
 655年
 高句麗・靺鞨
 と組んで
 新羅の30城を奪った
 驕慢になった
 義慈王
 は酒色に走り
 諫めた
 佐平の
 成忠(浄忠)
 を投獄
 ↓↑
 660年
 唐の高宗は
 蘇定方に
 大軍13万を率いて
 海路より進ませ
 新羅
 武烈王(金春秋)
 金庾信・・・532年に新羅に併合された
       金官-伽倻の王族
       妹は
       武烈王(金春秋)に嫁いだ
       文明夫人
       その長子は
       第三十代
       文武王
       後に
       武烈王の三女を
       智炤夫人
       として娶った
 ↓↑    647年
 ↓↑    善徳女王
       の死後
       金春秋
       と共に
       真徳女王
       を立て補佐し
       女王の死後
       金春秋(武烈王)を即位させた
       新羅
       648年
       高句麗-百済同盟
       に対抗
       唐に救援
       660年
       唐-新羅の同盟で
       黄山伐の戦い
       百済の将軍
       階伯を破り、百済を滅ぼした

       663年
       白村江の戦い
       で
       倭と百済の残党勢力を排除
       668年
       高句麗に出兵し
       滅ぼした
 ↓↑
 の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)し
 百済を攻めることとなった
 ↓↑
 百済
 白江(錦江の支流)に引き込んで
 迎撃することとなり
 大敗
 唐・新羅軍が首都の
 泗沘城(忠清南道公州市)まで迫ると
 義慈王
 いったん
 太子
 とともに北方へ逃れた
 ↓↑
 王の第2子の
 泰
 が自ら王を名乗って
 泗沘城を固守
 太子の子の
 文思・・・文の思?
 が
 隆
 に相談し
 唐軍が去ったとしても
 自立した
 泰に害せられることを恐れて投降
 泰も開城して投降
 義慈王も諸城をあげて降伏
 百済は滅んだ
 ↓↑
 義慈王は妻子とともに
 長安に送られ
 その年のうちに
 唐で病死
 「金紫-光禄大夫・衛尉卿」
 の爵号を贈られた・・・ナゼ?
 ↓↑
 641年3月
 死去した30代
 武王(余璋)にも
 唐の太宗は「哭泣の儀礼」を以て悼み
 「光禄大夫」の爵号が追贈されていた
 ↓↑
 武王(580年?〜641年)
 百済の第30代の王(在位600年〜641年)
 第29代
 法王の子(『北史』に第27代威徳王の子と記録)
 諱は璋
 『三国遺事』の王暦に
 武康
 献丙
 の別名が記録
 『隋書』に
 余璋
 の名
ーー↓↑ーー
 大佐平
 673年
 天武天皇
 百済人の
 沙宅昭明に
 大佐平の位を賜わった「日本書紀
 「大佐平」=百済王が臣下に授ける最高位
 ↓↑
 沙宅-紹明(サタク-ショウメイ)
 「才思頴拔、文章冠世」
 藤原鎌足の碑文を作った
 天武2年閏6月
 大錦下の位で没
 外少紫・大佐平を贈
 塔本春初(とうほんしゅんしょ)
 百済滅亡により渡来した百済の軍人
 ↓↑
 618年(推古二十六年)
 隋、滅亡
 『日本書紀』では裴世清
 『隋書』では編纂された時期が
 唐太宗の時期であったので
 太宗の
 諱・世民を避諱して
 裴清となっている・・・世民=裴世清?
 ↓↑
 655年
 斉明元年
 唐の高宗は倭国に国書を送り
 新羅に味方して出兵するよう求めている
 (『新唐書』)
 ↓↑
 655年
 新羅は唐に援軍
 新羅本紀
 武烈王
 二年春正月
 伊飡の
 金剛
 を拜(め)し
 上大等と爲し
 波珍飡(はちんさん)の
 文忠(ぶんちゅう)
 を
 中侍と爲す
 ↓↑
 高句麗
 百濟・靺鞨は連兵し
 我が北境を侵軼し
 三十三城を取る
 王は使を遣はし
 入唐し援を求む
 ↓↑
 三月
 唐は
 營州都督(ととく)
 程名振(ていめいしん)
 を遣はし
 右衛中觔將
 蘇定方(そていほう)を
 左(たす)け、
 兵を發し高句麗を撃つ
 元子(長男)の
 法敏(ほうびん)
 を立て太子と爲す
 庶子
 文王を
 伊飡と爲し
 老且(ろうしょ)を
 海飡(かいさん;波珍飡)と爲し
 仁泰(じんたい)を角飡と爲し
 智鏡(ちきょう)
 緂元(がいげん)
 の各(それぞれ)を
 伊飡とす
 ↓↑
 冬十月
 牛首州が白鹿を獻ず
 屈弗郡が白猪を進(たてまつ)る
 一首にして二身、八足
 ↓↑
 王女の
 智照は
 大角飡の
 庾信に下嫁す
 ↓↑
 鼓樓を
 月城内に立つ
 蘇定方は
 左衛勲一府中郎将の時
 程名振
 と高句麗を攻め、これを破り、
 右屯衛将軍に任ぜられ
 臨清県公に封ぜられた
 ↓↑
 660年
 熊津道大総管
 軍を率いて
 熊津口より
 百済に上陸し
 百済主力軍を破る
 ↓↑
 660年
 斉明天皇六年七月
 ↓↑
 高句麗
 道顕の記事
 天智天皇二年八月二十七日〜八月二十八日
ユリウス暦)663年10月4日〜10月5日

ーー↓↑ーー
 ・・・
 宇文化及・・・宇の文化に及(およぶ)?
        宇は文化を普及させる?
 は
 反煬帝勢力を糾合し
 618年
 謀反
 煬帝を縊り殺し
 煬帝
 甥、
 煬帝の弟の
 秦孝王・・・秦の孝王の
 楊俊の子
 秦王
 楊浩
 を皇帝に擁立
 江都の隋軍を率いて
 北へと帰還しようとしたが
 王世充・李淵・李密
 らの勢力に阻まれて
 大興城を恢復することはできなかった
 ↓↑
 宇文化及は
 皇帝
 楊浩を毒殺し
 国号を
 許
 として自ら皇帝に即位するが
 宇文化及は
 天寿二年(619年)
 竇建徳との決戦に大敗して殺害
 許は崩壊
 ↓↑
 朝鮮王朝国家
 『申句發』の
 遠征軍
 高場雨が
 隋に侵攻
 その後、
 『申句發』
 の滅亡により
 新たにできた
 『高句麗新羅国家連合』
 による新外交政策により
 隋
 と
 高句麗
 新羅
 国家連合は
 同盟関係
 ↓↑
 恭帝 侗(きょうてい とう)
 隋の第4代皇帝
 唐の高祖
 李淵に擁立された
 異母弟の
 楊侑とは異なり
 唐を正統とする立場から
 後世からは
 正統な皇帝とみなされていない
 元号を皇泰としたため
 皇泰主とも史称
 ↓↑
 元徳太子
 楊昭の次男
 大業3年(607年)
 祖父の煬帝から
 越王に立てられた
 煬帝が巡幸に出る度
 東都洛陽の留守を任され
 大業9年(613年)
 楊玄感の乱が起こると
 戸部尚書
 樊子蓋とともに洛陽を守備
 乱後
 東都留守のまま
 高陽郡太守
 大業13年(617年)
 煬帝が江都に下ると
 段達・元文都・韋津・皇甫無逸
 らとともに洛陽を守った
 洛口倉に拠った
 李密が攻勢をかけ
 王世充らを派遣して
 一進一退を繰り返した
 大業14年(618年)
 煬帝
 宇文化及らに殺され
 段達らに擁立されて即位
 ↓↑
 段達が
 礼部尚書・右翊衛大将軍
 王世充が
 吏部尚書・左翊衛大将軍
 元文都が
 内史令・左驍衛大将軍
 盧楚が
 内史令
 皇甫無逸が
 兵部尚書
右武衛大将軍・・・・・武衛
 郭文懿が・・・・・・・郭の文の懿
 内史侍郎・・・・・・・内史
 趙長文が・・・・・・・長文
 黄門侍郎・・・・・・・黄門
 になった
 朝廷を牛耳る
 段達らを
 「七貴」と称した
 ↓↑
 元文都
 盧楚
 郭文懿
 趙長文
 ↓↑
 は
 王世充・・・・・・・・王の世に充(あてる)
 に殺害
 ↓↑
 皇甫無逸・・・・・・・皇の甫(補)は逸脱、無
 は
 長安に逃れて
 唐に帰順
 ↓↑
 王世充が
 李密
 を破って実権を掌握すると
 皇泰二年(619年)五月
 恭帝
 王世充
 に禅譲
 潞国公
 に封ぜられ
 翌月
 王世充
 によって
 服毒自殺を命じられ
 楊侗
 は
 「生まれ変わっても
  皇帝の家には生まれ変わらぬように」
 と遺言し服毒
 死ななかったために
 縊り殺された・・・
ーーーーー
 ↓↑
 霅=雨+言
   音読み=トウ
   霅霅=いなずまのきらめくさま
 霣=イン・おちる・雷・落雷
 古代中国で
 赤い蛇のような体を持ち
 体長が千里におよぶとされる
 燭陰という神が信じられていた
 何新
 は
 大地の最北極に住む
 燭陰=オーロラ
 徐明龍
 は
 燭陰=祝融・・・炎帝の子孫・火の司
      火災にあう事を「祝融に遇う」と喩える
      『山海経(海外南経)』
      南の神で、姿は獣面人身
      『史記(三皇本紀)』
      共工と戦って共工
      不周山に頭を激突させた
      『墨子非攻・下)』
      天帝の命令を受け
      商の成湯が
      夏を滅ぼす際に
      夏の都城に火を降らせた・・・旧約「ソドム」
      『山海経(海内経)』
      天帝に許可を得ずに
      洪水を防いだ
      「鯀(コン)=魚+系」を
      天帝の命令で祝融が殺した
 と同一神とする
ーーーーー
 ・・・???・・・

 2652日・・・世間はクルシミマスの準備?も終わったようだが・・・前回のツヅキ・・・あまりにも、あまりにも「重複」が多すぎる日常生活の「繰り返し」だが・・・除雪もトイレもシンドいが、同じではない・・・証明不可能なコピペの「主観的な整合性」もズレる・・・?

 ・・・意富留申す徒烏(almost)話意・媒(by) wikipedia・・・
オールモォゥストゥ    バイ
 ・・・天空のスペクタクル・・・オーロラ・四季の絶景・・・
 ・・・龍神とは北方のオーロラ・・・
 SKのレーダー照射ですか・・・NKの砲撃(延坪島砲擊・2010年11月23日)や潜水艦で軍船を真っ二つにされ撃沈(コルベット天安が2010年3月26日)されてもロクな反撃もできなかったのに・・・サッカー会場なんかでのファンの挑発とは次元が違うのに・・・弱い奴と主観的に思って仮想、妄想の敵を探してはガン付けイチャモン・・・
 穏和なJ地域島国住民も怒るがな・・・でも「クジラ」を喰うって、か?・・・捕鯨、必要あるのか・・・
 櫛羅(くじら)・・・供尸羅(くじら)・・・区施羅(古事記)・・・久治良(日本書紀)・・・
 ・・・共存って、横縞のクジラの捕獲はだダレのタメの?
 牛や豚、鶏、様々な生き物を殺して喰う意味って・・・
 鯨波(とき・ゲイハ・勝鬨=合戦の合図)・・・鯨呑・・・渤海を囲む山東、遼東、朝鮮半島西の黄海の地形は鯨の口には見えないけれど・・・突き出た両半島、牙というより、咽喉チンコにはみえる・・・音声の調節器官・・・
 櫛羅藩(くじらはん)、幕末に大和国奈良県御所市櫛羅)に存在した藩・・・慶長十一(1606)年の桑山氏1万 6000石に始り、天和一(1681) 年に入封した「永井直円 (直圓・なおみつ・1万石)」 のときは新庄藩・・・「直円=直圓」・・・七代直幹のとき、陣屋を南方の櫛羅に移して櫛羅藩とした・・・
 北海道の「釧路(くしろ)」って語源はクジラ()の文字訛りかも・・・でも「クッチャロ(屈斜路)はアイヌ語で咽喉」らしい・・・
 前年(延宝八)6月、四代将軍徳川家綱法会の際、永井尚長(なおなが)(丹後宮津城主)が内藤忠勝(志摩鳥羽城主)に殺害されている・・・

ーーー↓↑ーーー
 ・・・???・・・
 新羅(しらぎ・しんら・シルラ・前57年〜935年)
 朝鮮半島南東部にあった国家
 当初は
 「辰韓(シンカン)」
      ・・・紀元前2世紀〜356年
      朝鮮半島南部の
     「帯方」郡・・・東に濊、南に韓、その南端に倭
             204年〜313年の109年間
             朝鮮半島に存在した
             漢代の地方行政組織
      の南
      日本海に接し、後の新羅と重なり
      南の「弁韓」と接し6国であったが
      後に分かれて12国になった
 辰韓十二ヶ国(三國志・卷三十)
 ↓↑
 已柢国
 不斯国
 勤耆国
 弁辰-彌離-彌凍国・・・弁辰
 弁辰-楽奴国・・・・・ 弁辰
 冉奚国
 軍彌国
 如湛国・・・湛(はなはだしい)の如(ごとく)
 ↓↑    湛=氵+甚・・・
           甚=ジン=尽・・・・・筑紫
                盡=つくす=悉くす
                  通句素・儘=コトゴトク
       異体字「沈・浸・淫・潭・㴴」
         たたえる・あつい・ふける・しずむ・ふかい
         タン・チン
         湛然・湛湛・甚大(ジンダイ)
         厚い・ゆたか・ふける・おぼれる
 ↓↑      しずむ
 戸路国
 州鮮国(=馬延国)
 斯盧国・・・斯盧国⇔斯蘆=新羅(シンラ)
 優由国
 ↓↑
 「秦韓(シンカン)」=「辰韓
 「真番郡の語源」⇒「真」が「辰韓」、「番」が「弁韓
  真番郡(シンバン郡)=漢の武帝が元封三(前108) 年
             衛氏朝鮮を滅ぼし、そこに設置した
             漢四郡の一
             真番郡楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡

 鶏林州-都督府(けいりんしゅう-ととくふ)
 唐朝が新羅に設置した統治機関
 都督府制度は唐が周辺諸国を征伐後
 そこの領域に設置した統治制度
 高句麗百済が唐朝により滅亡すると
 旧高句麗に安東 都護府・・・守護・・・主体的軍事組織
 旧百済 に熊津 都督府・・・監督・・・行政指導
 新羅  に鶏林州都督府・・・監督・・・行政指導
 を設置し
 朝鮮半島全域を
 藩属国から
 羈縻州へと変更・・・
 ↓↑
 「斯蘆(シロ)」=「新羅(しらぎ)」・・・領域には
   蘆(あし)=艹+虍+田+皿
 ↓↑      日下(艹)部の
         虎の伝(田)の沙羅(皿・沙良・讃良)
         草壁の虎の子=珂瑠皇子(文武天皇
         草壁皇子の父親=翼虎=天武天皇
         鍔(金+咢)狭の拠(據=扌豦)
         扌(手)+処(豦)・・・処=豦?
         豦=虍+豕
         異体字「𤢓」
 ↓↑      ↓↑
豦(やめない・キョ・ゴ)
         盧=めしびつ・くろい・ロ
           めしびつ・めし入れ
           すびつ・火入れ
           くろい・くろいもの
           酒場
           あし・よし・イネ科の多年草
         慮(おもう・思慮・考慮)
         盦(ふた・オウ・アン・オン)=酓+皿
         廬(いおり)
         蘆(あし)
         濾(こす・濾過・濾紙)
         瀘壚爐籚瓐
 ↓↑   蘆=あし草・あし・よし・ロ・ル・リョ=芦・葦
 ↓↑   蘆角・ 蘆荻 (ロテキ)・葫蘆 (コロ)
 「弁韓」人とは互いに雑居し
     風俗や言語は類似(三国志・魏書巻30辰韓伝)・・・
 「弁韓」人とは城郭や衣服は同じだが
     風俗と言語は異なっていた(後漢書巻85辰韓伝)・・・
     韓のコトバをワキマエル
     韓を弁(わき)まえて護る?
     韓人を弁別する・韓人とは弁(バブル・シリンダー)
     cylinder=円筒・bubble=膨張・膨らみ
     バブルヘッド. bubblehead
     ・・・おめでたい奴・潜水夫・潜水艦員
     弁=厶+廾=辧・辯・辨・辦・瓣・𧩵
     異体字「𠮽・卞・𠭛・𢍍・𢍙・㝸・𥿋・覍・麰
         𢍘・䛒・办・辩・𠷊・𡭪・𦌽・𦭷・𧪔
         𨐾・𪌸・𪍓・𪍘・𪍫」
    「韓=𠦝+韋」
       𠦝(旱・乾く)+韋(なめしがわ)
       𠦝=十+日+十・・・日照り=旱・旱魃・乾燥
       韋=なめしがわ・そむく=ユ+礀+口+ヰ
         ヰ=「丅(下)+十」=「丄(上)+十」
           上下を組む・・・十+十=井桁
           干=一+十・・・・・・干支
           年=𠂉+ヰ=午+丄・・・年齢
           舛=夕+ヰ・・・桝=木+舛
             夊(スイ・右足)+ヰ(カ・左足)
            =そむく・たがう・ます(升・枡・桝)
 ・・・「辰韓人は常に馬韓人を主(あるじ)とした」
 ・・・「辰韓(秦韓)人は秦からの逃亡難民、移民」
 ・・・「以秦人,故名之曰秦韓。其言語名物,有似中國人
     (北史・巻94新羅伝)」
 ・・・「真番莫」=「真莫番」=辰韓(秦韓)・馬韓弁韓
 「新羅」を正式な国号
 ↓↑
 羈縻政策(キビセイサク)
 中国の王朝によっておこなわれた
 周辺の異民族に対する統御政策
 領域化=内地化・本土並み・・・
 羈縻 =キビ=占領地は国家官僚組織で異民族支配
 冊封 =土地の行政支配権を現地人に君主、領主として与える
 などの形態の一
 羈縻(キビ)
 中国に
 友好的な国王・首長を選び
 「都督」・刺史・県令などに任じ
 彼らがもともと有していた
 統治権
 中国の政治機構における
 官吏であるという名目で行使させた
 羈縻州の長官は
 唐の一地方官吏であるが
 現地の部族内部から見れば
 王または首長であった
 「都護府」はほとんど・・・「都護府
 唐王朝
 太宗・高宗の時代に置かれ
 羈縻政策の元に置かれた
 国王・首長は
 「都護府」の下の
 「都督」・刺史・県令・・・都の監督官
  ・・・都=者+阝(邑)=都=ツ・ト・みやこ
 ↓↑    すべて
       都=漆塗りの器・・・?
              ・・・首都(Capital city)≒都
              周代
              行政上の区画で
              君主の
              宗廟のある場所を都(ト・ツ)
       「都」=全て寄せ合わせ、残らず集める意=都合
        京師=都⇔鄙
        天子の居ますみやこ
        京は大、師は衆
        大衆のおる所の意
        春秋成十三「公如京師」
       「京都」は晋の時代
        景王の諱を避けて
        京師を京都とした
        魏志帝紀「任城王薨於京都」
 ↓↑    ↓↑
        都=者+阝(邑)=者口巴(塒・蜷局・渦)
        =者(耂+曰+丶)+阝
        =者(土+ノ+曰+丶)+阝
         耂=老いかんむり・老いがしら
           おい(老・耂)
        =者(十+一+ノ+曰+丶)+阝
       ・・・「焚火のため木の枝を集めた形象」?
          「煮の原字・近称指示語・主語を示す助辞」
          「耂=交差させ集めた木の枝で
             (老・考の部首とは異なる)」?
             ・・・土を掘る棒(ノ=道具・鍬・鋤)
           +
          「曰=祝詞を入れる器、函、箱」で
           盛った土塁の中に段差を造って
           煮物容器に点火する形象?
           者=「土に埋めた呪いの言葉の入った函」?
             と
          「丶=主(ぬし・あるじ)」
             丶=灯・ともし火=灯火=燈火・ぽち
               チユ・しるし・點
               主宰(組織の中心)の主の古字
               主人・あるじ
       都=京=亠+口+亅+八=宮拠(寓所・寓処)
         ・・・「国城曰都・言国君所居・人所都会也」
       都=京=亠+口+亅+八=宮拠(寓所・寓処)
         ・・・「全部・全て・集合=聚集・巨大市場」
            「拠点・依拠・割拠・準拠・占拠」
             足場・よりどころ
            「原拠・根拠・典拠・本拠・論拠」
        「京」=みやこ(帝都)・切り立った高い場所
            丘、高い、多い
            くじら(鯨=京)などの意
       異体字「都・𨜞・𨛷・𨜁・𨟞」
       邑=大里⇔阜=小里
 などに任命された

ーーーーー
 581年
 建国された
 隋は
 中国大陸を統一し
 文帝・煬帝の治世に
 4度の高句麗遠征(隋の高句麗遠征)
 を行って失敗
 後、隋は国内の反乱で
 618年
 煬帝が殺害されて滅んだ
 建国された
 唐は
 628年
 国内を統一
 唐は
 二代、太宗・高宗の時に
 高句麗
 3度(644年,661年,667年)に渡って
 侵攻を重ねて征服・・・
 663年には・・・「白村江の戦い
ーーーーー
 ↓↑ ↓↑
ーーーーー
 鶏足山城・・・鶏の足跡は「蒼頡」漢字発明の切っ掛け
 鶏足山の上にある
 山城(山頂を囲んで築いた城)
 百済の甕山城と比定
 百済復興軍がこの山城を根拠とし
 新羅軍の進路を遮断した
 この山城は
 下に
 犬頭城と同じ堡塁があり・・・尾張の「犬山」と関係あるか?
 付近に
 迭峴城・陵城・内斯只城・雨述城・真峴城・沙井城
 があった
 ↓↑
 善徳女王(632年〜647年)
 のもとで
 金春秋(太宗-武烈王)は
  ・・・金の春(雪解け)と秋(豊穣・収穫)?
 唐化政策を採用
 654年
 武烈王(〜661年)に即位
 唐への忠誠を示し
 648年頃から
 唐による
 百済侵攻が画策
 649年
 新羅
 金春秋に代わって
 金多遂を
 倭国へ派遣
 ↓↑
 百済
 642年から
 新羅侵攻を繰り返し
 654年
 飢饉が半島を襲ったが
 百済
 義慈王
 飢饉対策をとらず
 655年2月
 皇太子の
 扶余隆
 のために
 宮殿を修理するなどで国を疲弊させ
 656年3月
 義慈王を諌めた
 佐平の
 成忠(浄忠)を投獄、獄死させた
 百済の退廃について
 「この禍を招けり」と日本書紀に記録
 657年4月
 旱魃発生
 唐はすでに
 643年9月
 「海の険を負い、兵械を修さず
  男女分離し相い宴聚するを好む(冊付元亀)」
 防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を得ていた
 659年4月
 唐は秘密裏に出撃準備
 「国家
  来年必ず
  海東の政あらん
  汝ら
  倭客
  東に帰ることを得ず」
 として倭国が送った遣唐使
 洛陽にとどめ
 百済への出兵計画を秘密にした
 ↓↑
 大化の改新(645年)最中の
 倭国内部でも警戒感
 大化改新期の外交
 唐が
 倭国からは離れた
 反唐の
 高句麗ではなく
 親唐(?)であった
 百済を海路から攻撃・・・可能性の計画
 ↓↑
 倭国外交政策
 友好関係にあった
 中国王朝(唐)
   ・・・「唐王朝」の
       敵は百済倭国
       逃散し残存した
      「隋王朝水軍」・・・?髄・膸
       膸=月+遀=⺼+遀
       異体字「𦢪・髓・髄・隨・隨・髓」
       膸=物事の中心部分
       膸・膸・・・随所に存在する・・・ナにが?
 と
 百済との間で
 二者択一を迫られる
 「一貫した親百済路線説」・・・「膸王朝水軍」?
 ↓↑
 「孝徳天皇=親百済派・・・?
  中大兄皇子=親唐・新羅派」・・・?
 ↓↑
 「孝徳天皇=親唐・新羅
  中大兄皇子=親百済派」・・・?
 など・・・
 ↓↑
 新羅征討進言
 白雉二年(651年)
 左大臣
 巨勢
 徳陀子が
 倭国の実力者の
 中大兄皇子天智天皇)に
 新羅征討を進言したが
 採用されなかった・・・
 ↓↑
 白雉四年(653年)
 白雉五年(654年)
 と2年連続で遣唐使が派遣された・・・情報収集?
 ↓↑ 
 蝦夷・粛慎討伐
 斉明天皇
 越国守
 阿倍比羅夫
 658年(斉明天皇四年)4月
 659年(斉明天皇五年)3月
 に蝦夷を討伐・・・?・・・ナゼ?
 660年(斉明天皇六年)3月
 に粛慎の討伐・・・?・・・ナゼ?
 ↓↑
 660年
 百済
 唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡
 後、
 鬼室福信
 らによって
 百済復興運動が展開
 救援を求められた
 倭国
 663年
 白村江で敗戦
 ↓↑
 660年3月
 新羅からの救援要請を受け
 唐は軍を起こし
 蘇定方
 を
 神丘道行軍大総管に任命
 劉伯英
 将軍に
 水陸13万の軍を率いさせ
 新羅にも従軍を命じた
 唐軍は水上から
 新羅は陸上から
 攻撃する
 水陸二方面作戦
 唐13万
 新羅5万
 の合計18万の大軍
 ↓↑
 百済王を
 諌めて獄死した
 佐平
 成忠(セイチュウ)
 は唐軍の侵攻を予見
 陸での
 炭峴(大田広域市西の峠)・・・大田?
 海での
 白江の防衛を進言
 が、百済王はこれを顧みなかった
 古馬弥知(こまみち)県に
 流されていた
 佐平
 興首(コウシュ)
 も同様の作戦を進言していたが
 王や官僚はこれを
 流罪の恨みでの
 誤った作戦を進言したとして
 唐軍が
 炭峴と白江を通過したのちに
 迎撃すべきと進言
 百済
 の作戦が定まらぬうちに
 唐軍はすでに
 炭峴と白江を超えて侵入
 ↓↑
 百済
 階伯将軍の
 決死隊5000兵が
 3つの陣を構えて待ちぶせ
 新羅側は
 太子
 金法敏(文武王)
 欽純(キンジュン)将軍・・・欽(金を欠く)純(糸も屯)
 品日(ヒンジツ)将軍・・・品の日?
 らが兵5万を3つにわけて
 黄山を突破しようとしたが
 百済軍にはばまれた
 7月9日の
 黄山の戦いで
 階伯ら百済軍は
 新羅軍をはばみ
 四戦を勝ったが
 戦死
 戦いで
 新羅軍にも多大な損害
 唐との合流の
 約束期日
 7月10日に遅れ
 唐の
 蘇定方
 はこれを咎め
 新羅
 金文穎・・・金の文の穎
   穎=ヒ+禾+頁=「かひ・エイ」・植物の穂・稲穂
     稲の穂先・穎果
     錐(きり)や筆など、とがった物の先
     穎脱・毛穎
     才知が鋭い
     穎悟・穎才
 を斬ろうとしたが
 金は
 黄山の戦いを見ずに
 咎を受けるのであれば
 唐と戦うと言い放ち
 斬られそうになったが
 蘇定方の部下が取り成し
 罪を許された
 ↓↑
 唐軍は白江を越え
 上陸し
 熊津口の防衛線を破り王都に迫った
 ↓↑
 7月12日
 唐軍は王都を包囲
 百済王族の投降希望者が多数でたが
 唐側はこれを拒否
 7月13日
 義慈王
 熊津城に逃亡
 太子隆が降伏
 7月18日
 義慈王が降伏
 百済滅亡
ーーーーー

 660年(斉明天皇六年)8月
 百済滅亡後
 唐は
 百済の旧領を
 羈縻支配
 唐は
 劉仁願将軍に
 王都
 泗沘城を守備させ
 王文度(オウブンタク)
 を
 熊津都督として派遣
 唐は戦勝記念碑
 「大唐平百済国碑銘」を建て
 戦前の百済の退廃について
 「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ
  刑罰の及ぶところただ忠良にあり」
 と彫られた
 大唐平百済国碑銘は
 現在も
 扶餘郡
 定林寺
 五重石塔
 に残っている
 ↓↑
 唐の戦略
 高句麗征伐
 百済討伐は
 障害要因の戦術除去
 唐軍の主力は
 高句麗に向かうと
 百済遺民
 鬼室福信・黒歯常之
 らが
 百済復興運動展開
 8月2日
 百済残党が小規模の反撃を開始
 8月26日
 新羅軍から
 任存(ニンゾン・忠南礼山郡大興面)
 を防衛
 9月3日
 劉仁願将軍が
 泗沘城に駐屯
 百済残党が侵入を繰り返し
 撃退されるが
 泗沘の南の山に
 4、5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した
 百済遺民に呼応して
 20余城が百済復興運動に応じた
 熊津都督
 王文度は・・・・王の文の度
 着任後急死・・・?
 ↓↑
 唐軍本隊は
 高句麗に向かって救援できず
 新羅軍が
 百済残党の掃討
 10月9日
 ニレ城を攻撃
 18日
 攻略後
 百済の20余城は降伏
 10月30日
 泗沘の南の山の
 百済駐屯軍を殲滅し
 1500人を斬首
 ↓↑
 百済遺臣の
 西武恩卒
 鬼室福信
 僧侶
 道琛(ドウチン)
 黒歯常之
 らの
 任存城や
 達率
 余自信の
 周留(スル)城
 などで抵抗
 ↓↑
 百済滅亡(660)の後
 百済の遺臣は
 鬼室福信
 黒歯常之
 らが
 復興の兵をあげ
 倭国に滞在していた
 百済王の太子
 豊璋王
 を擁立しよう
 倭国に救援要請
 ↓↑
 中大兄皇子
 承諾、百済難民を受け入れ
 唐・新羅との対立
 ↓↑
 661年
 斉明天皇は九州へ出兵
 邦の津にて急死
 斉明天皇崩御
 皇子は即位せずに称制
 朴市秦造田来津・・・朴市秦-造-田来津
 (造船責任者)を    秦-造=造船責任者
             秦(秦=新羅)⇔帰化隋王朝残党?
 司令官に任命して
 全面的に支援
 後
 倭国軍は三派に分かれて
 朝鮮半島南部に上陸・・・
 ↓↑
 軍事力
 唐・新羅連合軍
 660年
 百済討伐の
 唐軍13万
 新羅5万の兵力・・・
 唐軍は
 百済の役(660年)の際よりも増強
 唐の水軍
 その主力は
 靺鞨で構成・・・靺鞨人?
ーー↓↑ーー

 日本書紀
 白村江の戦い
 663年〜666年にかけて
 「唐国の使人
  郭務悰
  等
  六百人
  送使
  沙宅・・・百済人の官位
  孫登・・・「孫が登る」・・・天孫の降臨(上陸)?
  等
  千四百人
  総合べて
  二千人が
  船四十七隻に・・・2000÷47=42.55
  乗りて倶に
  比知嶋・・・比(くらべる)知(しる)嶋(しま・山鳥
  に泊りて相謂りて
  曰わく
  「今吾輩が人船、数衆し。
   忽然に彼に到らば、
   恐るらくは
   彼の防人
   驚きとよみて
   射戦はむといふ。
   乃ち
   道久
   等を遣して、
   預めやうやくに
   来朝る意を披き陳さしむ」
 と、合計2千人の
   唐兵や百済人が上陸・・・進駐軍
 ↓↑
 水軍
 7,000名
 170余隻の水軍・・・7000÷170=41.17
 指揮官は
 劉仁軌
 杜爽
 元
 百済太子の
 扶余隆・・・余(アマ)りの
       隆(さかん・たかい・隆起)を
       扶(たすける・扶助・扶養)
 ↓↑
 唐
 陸軍
 陸軍指揮官は
 孫仁師
 劉仁願
 新羅王の
 金法敏(文武王)
 ↓↑
 倭国
 第一派
 1万余人
 船舶170余隻
 ↓↑・・・舟の大きさの規模は
   10000÷170=58.8235
   およそ、一隻に60人の乗船規模?
   60人乗れる船の大きさは?
   造船技術はダレから・・・
   遣唐使の船は奈良時代の資料に
   約600人を4隻の船で派遣した
   一隻に150人程度乗船
   150人が数日寝泊り出来る船
   約300トンくらいの船・・・
   150÷60=2.5
 ↓↑約120トンくらいの軍船・・・
 ↓↑
 指揮官は
 安曇-比羅夫
 狭井-檳榔・・・檳榔(ビンロウ)=ヤシ科の植物
         噛みタバコに似た使われ方
 朴市-秦造-田来津
 ↓↑
 第二派
 2万7千人。軍主力
 指揮官は
 上毛野-君-稚子
 巨勢-神前臣-譯語・・・通訳
 阿倍比羅夫
 (阿倍-引田-比羅夫)
 ↓↑
 第三派
 1万余人
 指揮官は
 廬原-君臣
 (いおはらのきみおみ)
 (廬原国造の子孫
  静岡県静岡市清水区を本拠)
 ↓↑
 661年5月
 第一派
 倭国軍が出発
 指揮官は
 安曇比羅夫
 狭井檳榔
 朴市秦造田来津
 豊璋王・・・・・豊の璋(王章)の王
 を護送する先遣隊
 船舶170余隻
 兵力1万余人・・・
 ↓↑
 662年3月
 主力部隊
 第二派倭国軍が出発
 指揮官は
 上毛野-君-稚子
 巨勢-神前-臣-譯語(おさだ・ヤクゴ)
 阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)
 ↓↑
 663年(天智二年)
 豊璋王
 は
 鬼室福信
 と対立し
 鬼室福信
 を斬る
 倭国の援軍を得
 百済復興軍は
 百済南部に
 侵入した新羅軍を駆逐
 ↓↑
 唐は
 劉仁軌
 率いる
 水軍7,000名を派遣
 唐・新羅軍は、水陸併進し
 陸上部隊
 唐の将
 孫仁師
 劉仁願
 新羅王の
 金法敏(文武王)
 が指揮
 ↓↑
 劉仁軌
 杜爽
 及
 元百済太子の
 扶余隆
 が率いる
 170余隻の水軍は
 熊津江に沿って下り
 陸上部隊と会合して
 倭国軍を挟撃
 ↓↑
 倭国百済連合軍は
 鬼室福信の事件の影響により
 白村江への到着が
 10日遅れ
 唐・新羅軍のいる
 白村江河口に対して突撃、海戦
 倭国軍は
 三軍編成をとり
 4度攻撃した
 火計、干潮の時間差などにより
 663年
 唐・新羅水軍に大敗
 ↓↑
 唐・新羅の軍は
 倭国百済の軍を破り
 百済復興勢力は崩壊
 ↓↑
 白村江の戦い(663年8月28日)
 天智天皇二年八月二十七日〜八月二十八日
 (ユリウス暦
 663年10月4日〜10月5日)
 に集結し
 1,000隻余りの・・・1,000隻余りの倭船?
       ・・・造船調達⇔残存隋王朝の水軍?
 倭船のうち・・・・倭船?
 400隻余りが炎上・・・
 白村江の戦い唐王朝vs隋王朝
             の倭国への亡命水軍?
             残存遺族?
 ↓↑
 九州の豪族
 筑紫-君-薩夜麻・・・薩=艹+隆(阝夂生)
           夜=亠+イ+攵+丶
           麻=广+木+木
 土師
 富杼
 氷老
 大伴-部-博麻
 が唐軍に束縛
 8年間
 捕虜として唐に抑留され
 後、釈放帰国・・・
 大敗した
 倭国水軍は
 転戦中の
 倭国
 百済遺民
 を船に乗せ
 帰国
 ↓↑
 唐が
 666年から
 高句麗へ侵攻
 3度の攻勢によって
 668年
 高句麗を滅ぼし
 安東都護府・・・安東の都護府高句麗の領内
 を設置
 百済
 豊璋王は
 高句麗へ亡命していたが
 捕らえられ幽閉
 ↓↑
 渤海の建国
 698年
 靺鞨
 粟末部は
 高句麗遺民などと共に
 満州南部で
 渤海国を建国
 ↓↑
 唐と対立し
 後に
 唐から冊封を受け臣従
 日本は
 新羅との関係が悪化する中
 渤海からの朝貢を受け
 遣渤海使をおこなう
 渤海とは
 新潟や北陸などの
 日本海側沿岸で交流
 ↓↑
 唐は
 百済高句麗の故地に
 「羈縻州」を設置
 新羅にも
 「羈縻州」を設置する方針・・・
 新羅
 旧高句麗の遺臣らを使って
 669年
 唐に対して蜂起させ
 670年
 唐が西域で
 吐蕃と戦っている隙に
 新羅
 唐の
 熊津都督府を襲撃
 唐の官吏を多数殺害
 他方で
 唐へ使節を送って
 降伏を願い出
 硬軟両用で唐と対峙
 新羅
 再び唐の冊封を受け
 唐は
 清川江以南の領土を
 新羅に管理させるという形式をとって
 和睦が成立
 唐軍は
 675年
 撤収
 新羅によって半島統一
 ↓↑
 敗戦した
 倭国
 朝鮮半島の領地・権益を失い
 外交政策・国防体制・政治体制など
 統治の基礎部分を変革
 唐との友好関係樹立
 国家体制の整備・改革
 近江令法令
 飛鳥浄御原令
 の制定
 律令国家の建設
 倭国
 「日本」と国号を変えた
 ↓↑
 665年
 唐の
 朝散大夫
 沂州
 司馬
 上柱国の
 劉徳高
 が戦後処理の使節として来日
 3ヶ月後に・・・3ヶ月の間、駐留
 劉徳高は帰国
 唐使を送るため
 倭国側は
 守大石らを
 送唐客使(遣唐使)として派遣
 ↓↑
 667年
 唐の
 百済鎮将
 劉仁願
 が
 熊津「都督府」
 (唐が百済占領後に置いた5都督府の一)
 の役人に命じ
 日本側の捕虜を
 筑紫
 「都督府」・・・「都督府」=「唐の占領出先機関」?
 ↓↑      九州博多近辺は唐の領土化
         都督府⇔都護府・・・?
          督 ≠ 護
         監督 ≠守護
         ↓↑
         都護府(トゴフ)=中国の漢、唐王朝の時代に
         辺境警備・周辺諸民族統治などのために
         置かれた
         軍事機関
        「都護府」の長官は「都護」
 ↓↑      ↓↑
         唐王朝
         安東、安北、単于、北庭、安西、安南
         の
         六都護府を設け
        「羈縻」政策を開始した
        「羈縻(キビ)」政策・・・???・・・
 ↓↑      ↓↑
       唐の羈縻(キビ)州
       初期には辺境の
      「都督府」・・・「都督府」⇔「都護府
       が管掌し
       漢人官僚の下に首長など
       辺外部族の有力者が組織された
       領域が広がるにしたがって
       新たに
      「都護府」・・・「都護府」⇔「都督府」
       が設置
       これによって
       統括されるようになった
      「都護府」では
       長官である「都護」をはじめ
       主要な職員はすべて
       漢人あるいは
       漢化(帰化・臣従)した異民族が当てられた
       これらの
      「都護府」はほとんど
       太宗・高宗の時代に置かれ
      「羈縻(キビ)」政策の元に置かれた
       国王・首長は
      「都護府」・・・「都護府
       の下の
 ↓↑   「都督」・刺史・県令
 ↓↑    などに任命された・・・
 筑紫
 「都督府」
 に送ってきた・・・「筑紫」の「都督府」は
          「日本」の政治機関組織ではない・・・?
          「筑紫」は
           唐王朝支配下の「都督府⇔都護府」・・・?
 ↓↑
 天智天皇
 669年
 河内鯨・・・くじら
 らを
 遣唐使として派遣
 百済の影響下の
 耽羅も戦後・・・耽羅=トラ=虎・彪・寅・禽=済州島
         耽牟羅(たんむら)、忱弥多礼(とむたれ)
         耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記
         天武天皇大海人皇子=羽の生えた虎
                    羽の付けた虎
 唐に使節を送った・・・?
 日本にも派遣してきた・・・
 670年頃
 唐の倭国侵略の風聞
 天武期・持統期に
 一時的な中断
 遣唐使は長らく継続され
 唐からの使者も来訪・・・来日要請された律宗
             鑑真=天平勝宝五年十二月十二日
                (754年1月9日)
 ↓↑
 684年(天武十三年)
  猪使   連  子首
 (いつかいのむらじこびと)
  筑 紫 三宅  連  得 許
 (つくしのみやけのむらじとくこ)
 が、遣唐留学生であった
  土師 宿 禰甥
 (はじのすくねおい)
  白 猪 史  宝然
 (しらいのふびとほね)
 らとともに
 新羅経由で帰国・・・ナゼ、新羅経由なのか?
 最初の
 白村江(663年)の戦い
 における捕虜帰還・・・捕虜を奴隷とはせずに
            釈放帰還させるとは?
            劉仁軌なら理解できるが・・・
            則天武后なら、ドウするか?
            郭務悰とは何者か?
ーーーーー
 天智天皇三年(664)
 郭務悰は
 白村江の戦い(663)の
 戦後処理のため
 唐の百済鎮将
 劉仁願
 の命で来日
 天智天皇から
 正式の唐使とみとめられず帰国
 ↓↑
 天智天皇四年(665)
 郭務悰は
 唐使
 劉徳高とともに来日
 ↓↑
 天智天皇十年(671)
 郭務悰は
 百済の難民
 二千余人をひきいて来日したが
 ↓↑
 天智天皇十一年(672)
 筑紫(つくし)で
 天智天皇の死を知らされ帰国
ーー↓↑ーー
 郭務悰は・・・郭・務・悰=心+宗(宀示)
            ・・・心はウを示す
               鸕(ウ)野讃良=持統天皇
 朝散大夫
 上柱国
 ↓↑
 664年
 旧百済領占領軍の
 鎮将
 劉仁願の命により
 百済
 禰軍
 らとともに
 戦後処理の交渉のため来日
 表函と献物を進める
 朝廷は
 郭務悰を
 鎮将の私使と認めて
 大宰府で交渉させ
 入京を許さなかった
 ↓↑
 665年
 劉徳高とともに表函を携えて
 再び来日し
 入京を許される
 ↓↑
 669年
 に来日
 ↓↑
 671年
 百済
 沙宅-孫登・・・沙(沙良・沙羅)=宇之沙羅
            鸕野讚良(うののさらら・うののささら)
            に宅す-孫(まご)の登(登場)
 らとともに
 総勢2000人で来日
 ↓↑
 672年
 天智天皇の死後
 甲冑・弓矢
 絁・布・綿
 を与えられて帰還
 ↓↑
 秋八月
 遣達率(ダチソチ)
 答㶱春初(トウホンシュンソ)
 築城
 於長門国
 遣達率
 憶礼福留(オクライフクル)
 達率
 四比福夫(シヒフクブ)
 於筑紫国
 築大野
 及
 椽(キ)二城。
 耽羅(タムラ=済州島
 遣使來朝。
 九月庚午朔壬辰、
 唐国遣
 朝散大夫
 沂州(キシュウ)
 司馬
 上柱国
 劉紱高
 等。
 (等謂、右戎衞(ユウジュウエイ)郎將
     上柱国
     百濟禰軍(クダラノネグン)
     朝散大夫
     柱国
     郭務悰、
       ・・・郭(くるわ)の
          務(つとめ)の
          悰(忄の宗=立身弁のムネ=ウのす)
          悰=たのしむ・ソウ・ズ
            enjoy, amuse, please, joy
            縁女意・編む施・振れ施・序意?
            鳶如意?
          宗=教義・教理・信仰の組織団体
            宗教・宗門
            みたまや・祖先をまつる所
            宗廟(ソウビョウ)
            おおもと・いえもと・祖先
            宗家・宗主
            かしら・おさ・中心人物
            宗匠・詩宗
            中心となる考え・むね
     凡
     二百五十四人。
     七月廿八日
     至于
     對馬、
     九月廿日
     至于
     筑紫、
     廿二日
     進
     表函(フミヒツ)焉。)
 冬十月己亥朔己酉、
 大閲
 于
 菟道(ウジ=京都府宇治市)。・・・宇治・氏・蛆
          うじ=得字・鸕字・鵜字・卯字・兎字・烏字
 十一月己巳朔辛巳、
 饗賜
 劉紱高
 等。
 十二月戊戌朔辛亥、
 賜物
 於
 劉紱高
 等。
 是月、
 劉紱高
 等
 罷歸。
 是歲、
 遣小錦守-君-大石
 等
 於大唐、云々。
 (等謂、小山坂合部-連-石積
     大乙吉士岐彌(キシノキミ)
       吉士針間(キシノハリマ)。
     蓋送唐使人乎。)
     吉士は新羅の官名・・・新羅の吉士舞いは阿部の管轄
ーーーーー
 ↓↑
 690年(持統四年)
 持統天皇
 筑後国
 上陽竎郡(上妻郡)の住人
 大伴部博麻
 に対して
 「唐の抑留捕虜」とされ
 「土師- 連- 富杼
 (はじのむらじほど)」
 「氷- 連- 老
 (ひのむらじおゆ)」
 「筑紫-  君-薩 夜麻
 (つくしのきみさちやま)」
 「弓削- 連- 元 宝
 (ゆげのむらじげんぽう)」
 の児の四人が
 唐で日本襲撃計画を聞き
 朝廷に奏上したいが
 帰れないことを憂えた
 その時あなたは、
 富杼らに
 『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』
 と言った
 そのため
 筑紫君
 薩夜麻
 富杼
 らは日本へ帰り奏上できたが
 あなたは三十年近くも
 唐に留まった後にやっと帰ることが出来た
 わたし(持統天皇)は、あなたが
 朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ」
 と詔して
 表彰し
 大伴部博麻の一族に
 土地などの褒美を与えた
 ↓↑
 幕末の
 文久年間・・・万延の後、元治の前・1861年1864年まで
 大伴部博麻
 を顕彰する碑が
 地元(福岡県八女市)に建てられた
 ↓↑
 707年
 讃岐国
  錦 部  刀良
 (にしこりのとら)
 陸奥国
  生王 五百足
 (みぶのいおたり)
 筑後国
  許勢部 形 見
 (こせべのかたみ)
 らも帰還
 696年に報賞を受けた
  物  部 薬
 (もののべのくすり)
  壬生 諸 石
 (みぶのもろし)
 の例があえう・・・
 ↓↑
 白村江(663年)敗戦
 天智天皇
 防衛網の構築、強化
 百済帰化人の協力の下
 対馬
 北部九州の
 大宰府の水城(みずき)
 瀬戸内海沿いの
 西日本各地(長門、屋嶋城、岡山)
 に
 朝鮮式・・・ナゼ、朝鮮式なのか?
    ・・・土木技術者は半島難民・・・だった
            ・・・徴用民ではなく亡命、難民
 古代山城の防衛砦を築き
 北部九州沿岸に
 防人(さきもり)配備
 667年
 都を
 難波から
 近江京
 へ移し
 防衛体制を敷いた
 ↓↑
 671年
 天智天皇が急死
 大友皇子弘文天皇・伊賀皇子)
      ・・・母は伊賀采女-宅子娘
          (いがのうねめ-やかこのいらつめ)
 と
 大海人皇子
 が皇位で対立
 672年
 壬申の乱
 勝利した
 大海人皇子
 天武天皇(生年不詳〜686年)
 として即位
 ↓↑
 天武天皇
 専制的な統治体制を備え
 遣唐使は廃止
 新羅からは新羅使が来朝
 倭国からも新羅遣新羅使を派遣
 その数は天武治世だけで
 14回に上る
 天武天皇没(686年)後
 両国の関係は悪化
 ↓↑
 持統天皇
 701年
 大宝律令制定
 日本と国号
 中央集権国家を完成
 702年以後
 文武天皇によって
 遣唐使の再開
 粟田真人を派遣
 唐との国交回復
 ↓↑
 百済遺民の四散
 天智十年(670年)正月
 佐平(百済の1等官)
 鬼室福信の功により
 縁者の
 鬼室集斯
 が
 小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)
 ↓↑
 百済王の一族
 豊璋王の弟
 善光(禅広)は
 百済王(くだらのこにきし)
 という姓氏が与えられ、朝廷に仕える
 後、陸奥において金鉱を発見し
 奈良大仏の建立に貢献した功により
 百済
 敬福
 は従三位を授けられた
ーーーーー
 ・・・???・・・
 狭井 檳榔(さい の あじまさ)
 姓は連
 狭井氏(佐為氏)
 饒速日命の子孫
 ↓↑
 物部氏が改氏した
 石川朝臣と同祖
 ↓↑
 『播磨国風土記』に
 仁徳天皇の記事に
  狭井  連   佐夜
 (さい の むらじ さや)
 が掲載
 『続日本紀』巻第一に
 文武天皇
 700年
 刑部親王忍壁皇子
 以下19人とともに
 大宝律令の撰定者
  狭井  宿禰  尺麻呂
 (さい の すくね さかまろ)
 の名が記録
 ↓↑
 大山下(だいせんげ)
  狭井  連   檳 榔
 (さゐ の むらじ あぢまさ)
 小山下(せうせんげ)
  秦   造    田来津
 (はだ の みやつこ たくつ)
 を使(つかは)して
 百済を守護(まも)らしむといふ
 ↓↑
 『書紀』
 巻第二十七
 中大兄皇子
 九月に長津宮から
 百済の王子(せしむ)
 余豊璋に
 冠位十九階の
 織冠(おりものこうぶり)を授け
 太安安万侶の祖父の
 多   臣  蒋 敷
(おお の おみ こもしき)の
 同母妹と結婚させている
 ↓↑
 乃(すなは)ち
 大山下狭井連檳榔
 小山下秦造田来津
 を遣(つかは)して
 軍(いくさ)
 五千余
 (いつちぢみあまり)
 を率(ゐ)て
 本郷(もとつくに)を
 衛(まも)り送らしむ
 ↓↑
 (兵5000を率いて
  百済の王子
  余豊璋(よほうしょう)を
  本国に護送した)・・・本郷は誰の「本郷」?
 ↓↑
 この年の12月
 高句麗
 唐軍の侵入があったが
 逆に2つの城を奪還
 ↓↑
 播磨国
 狭夜郡(さよぐん)・・・佐夜
 から
 祟りの魔剣が朝廷に献上
 662年
 天智天皇元年3月(大陸の記録では2月)
 新羅軍が高句麗に侵入
 大和政権軍は
 高句麗の要請を受け
 援軍派遣
 新羅
 唐軍の援助を得られず
 攻略は失敗
 ↓↑
 5月
 阿曇比羅夫
 等は
 船師(ふないくさ)
 170艘を率いて
 豊璋
 途中で加わった
 鬼室福信
 らを百済に送り
 豊璋を百済王位につけた
 ↓↑
 同年12月
 豊璋と
 福信
 狭井連(檳榔)
  朴市  田来津
 (えち の たくつ=秦田来津)
 とともに論議
 ↓↑
 「州柔(つぬ、周留城・山岳)〜避城(へさし・平野)」
 拠点(都の選定論議
 田来津らは州柔
 豊璋らは避城
 ↓↑
 翌月
  上毛  野 君  稚子
 (かみつけ の きみ わかこ)
  巨勢 神 前   臣  訳語
 (こせのかむさき の おみ おさ)
  阿倍 引 田  臣  比羅夫
 (あべのひけた の おみ ひらふ
 の率いる日本からの援軍
 2万7千人が到着し
 新羅を討った
 唐側も増援軍
 7千が到着
 ↓↑
 鬼室福信に謀叛の疑い
 として
 豊璋は福信を処刑
 ↓↑
 白村江の戦い
 朴市秦田来津が戦死
 檳榔は消息不詳
 狭井連氏
 天武天皇十三年(684年)
 八色の姓制定により
 「宿禰
 の姓を得た
ーーーーー
 ・・・???・・・

 2651日目・・・冬至なのに「郭公」・・・布由の由来は「一反=イッタン=一旦・一端」・・・「一段物」って道行 (みちゆき) ・景事 (けいごと) などを集めたものを「段物集」・・・浄瑠璃、歌舞伎の段物・・・名詞の「歌舞伎」は漢字で意味がワカルけれど、「浄瑠璃」って、洗浄した硝子(ガラス・瑠璃)じゃぁ、漢字から人形芝居の意味やイメージもワカナイが・・・「浄瑠璃世界= 薬師如来の浄土・地は瑠璃から成り、建物・用具などがすべて七宝造りで、無数の菩薩が住む・薬師浄土」のモノガタリって、ガラス瓶に薬が入っている浄


 「一反=一旦=イったん=言ったん」って?・・・
 「Already said・I already told you.
  I might have told you this already」・・・
 既に遅い、手遅れだ・・・
 「Already late, too late.・Now it's too late.」・・・
 国家の独裁化、権力の腐敗化・迷走化・組織の崩壊化・・・
 「唐の高宗が権力を失い、則天武后の垂簾政治を許したワケ」・・・
 「高宗」って・・・嫁には苦労したんだろう・・・
 近代の隣国も・・・
 「オクニョ(獄女・獄中花・玉女)」は面白いけれど・・・
 「卵(玉子)の女」・・・波乱の女カモ・・・
 卵から生まれたのは「あかる(阿加流比売)姫」だけれど・・・
 難波の比売語曽社(ひめごそのやしろ)・赤留比賣命神社
 住吉の阿迦留姫命・豊国の比売語曾社
 旦那は隣国の暴力亭主・・・
 ヒメに逃げられ、未練がましく倭国までストーカー・・・
 挙句の果てに領土まで掠めるって・・・
 失礼・・・単なるモノガタリだから・・・
 人間ってナンなんだか・・・誤差逆伝播・・・ディ・プラーニング・・・?・・・day planning・・・die planning・・・?
 「DIE HARD =HARD TO DIE」・・・?
 Tomorrow never dies.
 Die another day.
 You only live twice.
 Live and let die.
 「ダイ・・・金型全体を示す→型、金型(Die)」
 「厚紙や金属板などを打ち抜くための型
  →ダイカット・パッケージ化される前の
  シリコンチップの小片」
 「サイコロという意味の同音異義語(dice の単数形) 」
 アレレレッ・・・
 「ディープ・ラーニング」・・・ですか・・・
 深層学習(deep learning)=狭義には4層以上の
 多層のニューラルネットワーク(deep neural network)
 による機械学習手法・・・
 生物の新陳代謝(metabolism・renewal・replacement)・・・
 metabolism=「meta(超える)」+「ballein(投げる)」
 meta=「over・after」+「bol(投げる)」
 Metabolism の語源はギリシャ語の「metabole」
 「meta-」は「変化して」
 「メタボレー(μεταβολή)」・・・
ーーーーー


 イったんが・・・トンだ・・・
 ↓↑
 高宗
 唐の第三代皇帝
 太宗の第九子・・・大層、大苦・・・大喪の大工・・・
 母は唐の名臣
 鮮卑の・・・・・・先妣・先非・船比・戦費・撰比・戦比
 ↓↑       先の妣(はは)って、死んだ母・亡き母
          イザナミ
         (伊弉冉伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥
          は死んで黄泉の国で「妣」だけれど
          先の考(かんがえ)って、亡き父?ですか
          先考が亡父って?・・・ナンで?
 ↓↑       先考先妣(センコウセンピ)
 拓跋出自に持つ・・・卓抜・択伐
 長孫無忌の妹の・・・長の孫の武記
 長孫皇后
 ↓↑
 唐王朝
 高宗
 姓・諱 李治
 字  為善
 小字  稚奴
 諡号  天皇大聖大弘孝皇帝
 貞観2年6月15日    弘道元年12月4日
 (628年7月21日)      (683年12月27日)
 戊子(壬 癸)偏印傷官 死⇔癸未
 己未(丁乙己)印綬印綬冠帯⇔甲子
 庚寅(戊丙甲)  偏財 絶⇔丁巳
 ↓↑
 新羅が唐との同盟を破棄
 676年
 朝鮮半島全土を統一を達成(唐・新羅戦争)
 朝鮮半島経営を放棄
 朝鮮半島支配は
 明の成立まで途絶
 ↓↑
 外戚の長孫氏が
 皇后武氏の一派によって追放
 武后が政治の実権を掌握
 高宗は武后廃立を計画したが、失敗
 のちに
 丹薬による・・・漢方で、練り薬・道教で、不老不死の薬
 ↓↑      魏志倭人伝に「倭は丹を出す」
         「丹波・丹後」って薬草領域だった?
          水銀か、漆か・・・
         「吉利支丹・鬼理死丹・切死丹」
         「反魂は、死者の魂を呼び戻すこと」
         「反魂丹=魂胆に反する・復活・再生・蘇生」?
         「堺の商人
          万代 掃部  助
         (もず かもんのすけ)
          が中国人から反魂丹の処方を学んだ」
         「越中富山藩主・前田正甫が腹痛を起こし
          万代の反魂丹が効いたので
          正甫は1683年(天和三年)
          万代家十一代目
          万代常閑(まんだい じょうかん)
          を富山に呼び寄せ処方を学んだ」
         「越中富山の反魂丹、鼻糞丸めて萬金丹
 ↓↑       それを呑む奴あんぽんたん」・・・
 中毒で
 眼病を患い
 健康をそこなった皇帝のもとで
 実権は武后により掌握され
 683年に死去
 病気がちであった
 高宗は
 政治主導権を発揮することはなく
 最初は外戚
 長孫無忌
 その後は
 皇后の
 武則天
 に実権を掌握された・・・
ーーーーー


ーーーーー
 龍朔二年(662)
   七月
   丁巳
  熊津都督・劉仁願、
   帯方州刺史・劉仁軌
   が熊津にて百済軍を大破
   真峴城を抜く
   初め
   劉仁願
   劉仁軌
   らは熊津城へ屯営
   高宗皇帝はこれへ敕書を与えた
 ↓↑
 龍朔三年(663)
   二月
   燕然都護府ウイグルへ移し
   瀚海都護と改名
   瀚海都護は
   雲中の古城へ移し
   雲中都護と変名
   磧を境とし
   磧北の州府は全て
   瀚海へ隷属させ
   磧南は
   雲中へ隷属させた
 ↓↑
  右相
  河間郡公
  李義府
  が官吏を選ぶ
  李義府
  右司議郎
  李津を使いにして
  長孫無忌の孫の
  長孫延を呼び寄せ
  その銭七百緡を受け取って
  長孫延を
  司津監へ任命
  右金吾倉曹参軍の
  楊行穎
  がこれを告発
 ↓↑
  四月
  高宗皇帝
  李義府を獄へ下した
  司刑太常伯
  劉祥道
  と御史や詳刑を派遣し、共に詰問させる
  司空の
  李勣
  に監督を命じた
  告発は、全て事実だった
  五日
  李義府を除名し
  雟州へ流し
  李津を除名し
  振州へ流し
  諸子及び婿を除名して
  庭州へ流すと詔があった
  朝野はこぞって慶賀した
  ある者は、
  「河間道行軍元帥
   劉祥道
   が銅山の大賊
   李義府を破る」
  という幟を作って、通りの傍らに立てた
  李義府は、大勢の人間を取って奴婢としていた
  敗れるに及び
  各々実家へ帰してやったので
  その幟には
  「奴婢に混じって乱を放つ。
   各々家を識っていて、競って入った」
  と書かれていた。
 ↓↑
  龍朔三年(663)
  三月
  十二日
  新羅国・・・新羅=しらぎ=斯
  を併合
  鶏林・・・・ニワトリのハヤシ・・・
  大都督府・・・大都護府
  を設置
  金法敏
  をその都督・・・都の監督・・・都の行政指導者
  とした
 ↓↑
  五月
  吐蕃・・・「吐=口+十+一」の「蕃(艹+番)」
  と
  吐谷渾・・「谷(八+𠆢+口)」の「渾=氵+軍(冖+車)」
                  渾然・渾沌・渾濁・渾身
        渾天儀
        天球儀(Armillary sphere)・アーミラリ天球儀
  は互いに攻め合い
  各々唐へ使者を派遣して
  曲直を上表し、・・・曲直・・・是非・・・
  救援を求めた
  高宗皇帝は
  どちらも許さなかった・・・喧嘩両成敗?
  吐谷渾の臣の
  素和貴・・・素は和の貴=元の和記(ワケ・訳・和気・捌)
  が罪を犯し
  吐蕃帝国へ逃げ込み
  吐谷渾の虚実を
  具に語った
  吐蕃軍は兵を発して
  吐谷渾を撃ち、大いにこれを破る
  吐谷渾可汗
  曷鉢と・・・曷=日+匃
        鉢=金+本
  弘化公主は国を棄て
  数千帳を率いて涼州へ逃げ込み
  内地への居住を請願
  高宗皇帝は
  涼州都督
  鄭仁泰
  を
  青海道行軍大総管とし
  右武衛将軍
  独孤卿雲・・・独の孤の卿雲
  辛文陵・・・辛い文陵(ブンリョウ)
  を率いて
  涼、鄯州へ分屯させ、吐蕃軍に備えた
 ↓↑
  六月
  二十六日
  左武衛大将軍
  蘇定方・・・・蘇の定方?
  を
  安集大使、節度諸軍とし
  吐谷渾の援軍とした
 ↓↑
  吐蕃帝国の
  禄東贊
  が青海に屯し、使者
  論仲螬
  を派遣して入見させ
  吐谷渾の罪を上表して
  和親を請うた・・・和の親?
  高宗皇帝は
  これを許さない
  左衛郎将
  劉文祥
  を
  吐蕃へ派遣し
  璽書を降してこれを責めた
  ・・・璽書=天子の印の押してある文書・親勅
     古代中国で、諸侯・大夫の封印の押してある文書
     秦・漢以後は、御璽を押した天子の詔書
 ↓↑
  9月
  8日
  熊津道行軍総管
  右威衛将軍の
  孫仁師・・・孫の仁の師(𠂤+帀)・・・阜・岐阜
              重なった丘を巡る
              𠂤の一の巾
              重なった丘の=双子山・二上山
              始めの巾(はば・キン)
           天孫?・・・天津⇔隋王朝
                    宮殿内の川と橋
  らが
  龍朔三年・・・朔=屰+月
  干支=癸亥
  天智天皇二年
  663年・・・大津皇子誕生・・・
 ↓↑     (おおつ・ダイシン)・・・大審・太秦
                  碓秦・他意審・対新
         663年
        (天智天皇二年)
         〜
         686年10月25日
        (朱鳥元年十月三日)
   大津皇子の和歌
   ももづたふ・・・・・百伝う⇔百済伝?
   磐余(いわれ)の池に・・・磐余=神武
   鳴く鴨を
   今日のみ見てや
   雲隠りなむ・・・「くも=句摸」に隠れているんだろう
 ↓↑ ↓↑
   大津皇子漢詩
   金烏臨西舎 (金烏 西舎に臨み)・・・金烏=加羅
   鼓声催短命 (鼓声 短命を催す)
   泉路無賓主 (泉路 賓主無し)
   此夕離家向 (この夕 家向に離れる)
 ↓↑ ↓↑
   大津皇子 二上山墓・・・二上山=𠂤?=重なる丘
        鳥谷口古墳(大津皇子墓説)
         ↓↑
         川島(河島)皇子の密告
         天智天皇の「第二皇子」
         母が「忍海色夫古娘」
         妃は
         泊瀬部皇女=天武天皇の皇女
 ↓↑      ↓↑    母は
               宍人臣大麻呂の娘
               カジ媛娘
 ↓↑           「カヂ=木+穀」
           木+穀=木+𥞤+殳・・・「殼(殻)」
             穀=士+冖+一+禾+殳
             穀=士+冖+  禾+殳
           穀木=カズノキ
              梶の木・白膠木(ぬるで)
              の古称
 ↓↑      ↓↑    ↓↑
              「擬媛娘(釈日本紀)」    
           擬=扌+疑
           簡体字「拟」
           異体字「𣝆・懝・譺・儗・㘈・拟・𧭐
             なぞらえる・はかる・まがい
             もどき・まねる・にせる・ギ
             擬音・擬声語・模擬
             雁擬(ガンモドキ
             はかる・おしはかる
             擬議・擬度・擬制・擬製
             擬勢・擬態・擬古文・擬人法
 ↓↑      ↓↑    ↓↑
              「木+疑(書紀集解)」
           𣝅=木+疑
           異体字「礙・碍」・・碍子(ガイシ)
 ↓↑      ↓↑    ↓↑
               同母兄弟姉妹
               忍壁皇子
               磯城皇子・託基皇女
 ↓↑      ↓↑
         の
         川島(河島)皇子
        (斉明天皇三年(657年)
         〜
         持統天皇五年九月九日
         (691年10月6日薨去
         が
         大津皇子
         謀反計画
         を密告をし・・・「懐風藻」の記事?
         ↓↑
         大津皇子
         磐余(いわれ)の
         訳語田(おさだ)の自邸で自害?
         享年二十四
         ↓↑
         大津皇子
         天武天皇の第三子or長男
         母は
         天智天皇の皇女の
         大田皇女
         同母姉に
         大来皇女
         ↓↑
         大津皇子
         妃は
         天智天皇の皇女の
         山辺皇女
 ↓↑      ↓↑    ↓↑
  白村江にて
  百済の余衆及び
  倭兵を破った・・・

 ↓↑     倭国の敗北のプロセス
        3月阿倍比羅夫ら、新羅征討へ出発
        6月百済の余豊璋
          謀反の
          鬼室福信を斬り首級を塩漬け
        10月4日〜5日
    天智天皇二年八月二十七日〜二十八日
    白村江の戦い
    唐・新羅連合軍vs百済・日本連合軍
             百済・日本の敗北
    劉仁軌・文武王vs上毛野君稚子
    劉仁願      阿倍比羅夫
    孫仁師      扶余豊璋
        10月13日
    天智天皇二年九月七日
    百済が降伏、人民が相次いで日本へ逃亡・難民
 ↓↑
  唐が
  単于都護府
  雲中に設置
 ↓↑ ・・・山西省大同市地方の古名
 ↓↑    北方の遊牧民族に対する拠点
       唐代ここを雲中県と称し
       雲州、雲中郡の行政中心
       遼代には大同県がおかれ
       行政区域を大同府という
       古く雲中というのは
       戦国時代の趙国の西部をさし
       陰山山脈南方の広い地域
       秦・漢時代
       その南西部を雲中郡
       行政中心を雲中県においた
       今の内モンゴル自治区
 ↓↑    トグト(托克托)県・・・
  その
  周留城を抜く・・・周りに留る城(しろ)
  経緯は
  大唐軍の
  劉仁願
  劉仁軌
  が
  真峴(シンケン)城攻略で勝った後
  高宗皇帝は
  孫仁師へ
  艦隊を率い
  海上から助けるよう詔
 ↓↑
  百済
  豊璋は
  倭人の援軍で
  唐軍を拒んだが
  孫仁師は
  劉仁願
  劉仁軌
  と合流し
  諸将は
  加林城
  水陸の要衝なので
  これを攻めるよう欲したが
  劉仁軌は
  「加林は険固だ
   急攻したら士卒を傷つけ
   ゆっくり攻めたら持久戦に持ち込まれる
   周留城は虜の巣窟で群凶が集まっている
   悪を除くには、元から絶つこと
   まずこれを攻めよう
   周留に勝てば、諸城は自ら下る」
 ↓↑
  ここにおいて
  孫仁師
  劉仁願
  金法敏
  は陸軍を率いて進んみ
  劉仁軌
  杜爽
  扶余隆
  は
  大唐艦隊及び糧船を率いて
 ↓↑
  熊津から
  白村江へ入り
  陸軍と共に
  周留城へ向かった
 ↓↑
  倭軍と
  白村江口にて遭遇
  四戦して全勝
  倭軍舟
  四百艘を焼く
  煙炎、天を焦がし
  海水、朱に染まる
 ↓↑
  百済
  豊璋は単身で脱出
  高句麗へ逃亡
  王子の
  忠勝
  忠志
  らは衆を率いて降伏
 ↓↑
  別帥の
  遅受信・・・遅(おくれる)受信・・・?
  だけは
  任存城・・・任の存の城
  へ據って降伏せず
  百済西部の人
  黒歯常之・・・黒い歯、常の之・・・お歯黒は女性?
         酷使  襄氏?
  という名将
  身長七尺余
  驍勇で謀略があった
  百済へ仕え
  達率兼郎将・・・中国の「刺史」のような職務
  となったが
  蘇定方・・・・・・蘇(よみがえる)定の方
             蘇我氏の一族?
  が
  百済を征服(600年)した時
  黒歯常之は
  手勢を率いて降伏した
  ところが
  蘇定方は
  王と王子を束縛
  唐兵には掠奪をさせ
  壮者が大勢死んだ
 ↓↑
  黒歯常之は懼れ
  左右十余人と
  本部へ逃げ帰り
  亡散者をかき集めて
  任存山を保ち
  柵を結んで守備を固め
  旬月の間に3万人が集結
 ↓↑
  蘇定方はこれを攻めたが
  黒歯常之は拒戦し、戦況膠着
  黒歯常之らは
  各々険に據り
  鬼室福信に応じたが
  百済が敗北すると
  部下を率いて降伏
 ↓↑
  劉仁軌は
  黒歯常之
  相如
  とその部下達へ
  任存城を取らせようと
  兵糧を与えてこれを助けた
 ↓↑
  孫仁師は
  「こいつらは獣心だ・・・こいつらッて
              黒歯常之、相如
   何で信じられるか!」
 ↓↑
  劉仁軌は言った
  「私の観るところ
   この二人
   黒歯常之
   相如
   は忠勇で謀略もあり
   信に厚く義を重んじる人間だ
   ただ、前回は
   託した者が・・・・・ダレが託したのか?
             百済王族or鬼室福信
   悪人だっただけ
   今、まさに感激して
   功績を建てる時
   嫌疑は不用」・・・?・・・劉仁軌は
                調略者なんだ・・・?
         帝国日本占領のマッカーサー元帥か?
 ↓↑
  遂に糧杖を配給
  兵を分けてこれに従う
  大唐軍は
  任存城を抜き
  百済の遺臣
  遅受信・・・?コレの姓名の漢字が
            ナマエとは思えないが・・・
  は妻子を棄てて
  高句麗へ逃げた
 ↓↑
  劉仁軌は兵を率いて
  百済を鎮守し
  孫仁師
  劉仁願
  には帰還の詔が降りた
 ↓↑
  百済は戦乱後
  家などは焼け落ち
  屍は野に満ちていた
  劉仁軌は
  屍を埋葬させ
  戸籍を作り
  村へ人を集め
  官長を一時代行
  道路を開通
  橋梁を建て
  堤防を補強
  陂塘を復旧し
  耕桑を勧め
  貧乏へ賑給し
  孤老を養い
  大唐の社稷を立てて
  正朔と廟諱を頒布
  百済人は
  大いに悦び
  皆、生業に安んじた
  劉仁軌は
  その後に
  屯田を修め
  兵糧を蓄え
  士卒を訓練
  高句麗を図った
ーーー↓↑ーーー
 ・・・まるで、帝国日本に併合された後の
        大韓帝国・・・?
 「百済の支配者」が裏切るの古墳時代からなのカモ・・・
 現今の祖国を
 「鬼室福信」、「黒歯常之」は、残念無念かも・・・?
 「劉仁軌」の思想の源泉は何処にあるのか?・・・墨塗り?
ーーー↓↑ーーー
  劉仁願が
  京師へ至ると
  高宗皇帝はこれへ尋ね
 「卿が海東で前後して上奏した事は
  皆、機宜に合っており文理も備わっている
  本は武人なのに
  どうしてそんな(そのよう)にできたのだ?」
  劉仁願は
 「これは皆
  劉仁軌のやったこと
  臣の及ぶところではありません」
  高宗皇帝は悦び
  劉仁軌へ六階を加え
  帯方州
  の正式な刺史とし
  長安
  弟を招き・・・?
  その妻子へ厚く賜った
  使者を派遣して
  璽書を賜り
  これを慰労して励ました
  上官儀が言った。
  「劉仁軌は
   白衣・・・古く中国で、無位無官の人・雑兵
   として従軍したのですが
   よく忠義を尽くしました
   劉仁願は
   節制を持ち賢人を推挙しました
   皆、君子と言うべきです」
ーーー↓↑ーーー
 ・・・???・・・水軍の軍船を造船出来る技術と国力・・・倭国にあったのか?・・・隋王朝の船大工・・・

 2650日目・・・十二月二十二日・・・明日は友人のW・Mさんの誕生日・・・「One Flew Over the Cuckoo's Nest」・・・「郭公」・・・「閑古鳥」・・・「カッコウの巣」って、他人の家の居候の癖に・・・大食い・・・あれが「自然環境」・・・深海の鯨の屍・・・大勢の生き物の生命を養って、最期の最後には骨の髄まで食いちぎられてしまう・・・子豚をペットにしている女性・・・アレって、「非常食」らしい・・・

ーーーーー
 カッコウ(郭公、Cuculus canorus)
 閑古鳥
 ↓↑
 托卵(たくらん)
 卵の世話を他の個体に托する動物
 代わりの親は仮親
 鳥類のそれを指したが
 魚類や昆虫類でも見られる
 托卵は、巣作りや抱卵
 子育てなどを仮親に托す行為
 一種の寄生
 ↓↑
 托卵では
 カッコウなどカッコウ科の鳥類が
 オオヨシキリホオジロ、モズ
 等の巣に托卵する
 ↓↑
 マザー・グース (Mother Goose)
 カッコーの巣の上で
 「One Flew Over the Cuckoo's Nest」
 「カッコウの巣の上に」
 Vintery, mintery, cutery, corn,
 Apple seed and apple thorn;
 Wire, briar, limber lock,
 Three geese in a flock.
 One flew east,
 And one flew west,
 And one flew over the cuckoo's nest.
 ↓↑
 「マザー・グース (Mother Goose) 」
 フランス語
 「マ・メール・ロワ(Ma Mère l'Oye)」
 の英語訳
 『昔ばなし(フランス語版)』(1697年)が
 ロバート・サンバーによって
 英訳されイギリスに紹介されたが
 この本の口絵では
 「コント・ド・マ・メール・ロワ
 (ガチョウ母さんのお話)という文字が
 壁にかかった額のようなものの中に
 書かれていた。
 英訳ではこの部分を
 「マザー・グースィズ・テイルズ」
  (Mother Goose's Tales)
 とし、本の副題として採用
 ↓↑
 郭公
 《鳴き声から》カッコウカッコウ科の鳥
  全長約35 センチ
  頭部と体の上面は灰青色
  胸と腹は白く暗灰色の横縞
  尾羽は黒灰色で
  白い横縞が入り
  先端も白い
  雌には赤褐色型もある
  全体に灰色
  腹に黒い横斑がある・・・腹黒いって?
 カッコウ
 ノビタキ、モズ科、ホオジロ科、オナガ
 などに托卵
 腹のしま模様はツツドリより細く薄い
 雄は体を横にして翼を下げ
 尾を左右に振りながら鳴く
ーーーーー
 『古事記
 名古屋にある
 北野山
 真福寺宝生院
 真福寺
 第二代
 信瑜の命令で
 賢瑜が書写した
 ↓↑
 1371〜1372年
 真福寺の僧
 賢瑜(ケンユ)が書き写した
 『古事記
 三巻揃いの
 現存最古の「古事記」写本
 ↓↑
 尾張藩
 本居宣長の門人
 稲葉通邦
 (イナバ・ミチクニ)
 が調査、発見
 「粘葉装」
 奥書に
 「執筆-賢瑜-俗老-廿八歳」
 「(同)廿九歳」は
 糊付けの中にある
 同じ賢瑜が写した
 仏書
 『秘蔵宝鑰』(ヒゾウホウヤク)
 から
 応安三年(1370)は27歳
 本書の書写が
 応安四年(1371)・・・建徳二年(1371)〜(1372)
            賢瑜が師
            信瑜の命を受けて書写した
 五年と判明したのは
 寛政十年春
 通邦は自分で書写した
 『古事記』の奥書だけに記す
 このことが一般に知れ渡るのは
 明治十六年以後・・・
 ↓↑
 『兼永-筆本-古事記』(1522)
 と共に、古事記写本の祖本
 ↓↑
 「古事記写本」は
 真福寺本系
 と
 「道果本-古事記」の
 兼永本系・・・『真福寺古事記』の約9年後
 の2種
 ↓↑
 鎌倉時代の写本で
 「卜部兼永」・・・1467〜1536 戦国時代の神道
          応仁元年生まれ
          吉田兼倶(かねとも)の次男
          平野神社神職
          卜部兼緒(かねお)の養子となる
          父の兼倶と不仲で絶縁
          吉田氏と対立
          大永(たいえい)三年(1523)
          神祇大副(じんぎのたいふ)
          天文(てんぶん)五年
          丹波権守(ごんのかみ)
          同年七月二十七日
          天文法華の乱で戦死・70歳
          著作に
         「延喜式神名帳秘釈」など
 が所持
 「兼永本」
 ↓↑
 吉田兼倶(かねとも)
 1435〜1511
 吉田神道唯一神道)の事実上の創始者
 本姓は卜部氏
 初名は兼敏
 父は兼名
 代々神祇権大副として
 吉田神社
 平野神社の神官
 神儒仏
 三教混合のうえに立って
 唯一神道 (吉田神道) を大成
 文明十六(1484) 年
 京都神楽岡に宮を創設
 神祇斎場所として
 天神地祇のすべてを祀り
 明応一(1492)年
 神祇官復興の勅許を得
 神祇管領長上と称する
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 足利義政の知遇を受け
 神祇道を総管する野望をもって
 日蓮宗徒と結んで
 神道説を権威づけ
 伊勢神宮からは
 神敵とされ
 神祇伯(じんぎはく)
 白川家と対抗し
 朝廷、室町幕府
 神道界に君臨
 主著
 『神道大意』
 『唯一神道名法要集』
 『日本書紀神代抄』
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 道果=道捗=みちはか
   =旅程、道行きのはかどりぐあい
    どうか・さとり
    阿羅漢果→阿羅漢
    さとりの位
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 太宗=李世民
    唐
    在位
    626年9月4日〜649年7月10日
    姓・諱
    李世民
    諡号
    文武大聖大広孝皇帝
    開皇17年12月16日(598年1月28日)
    〜
    貞観23年5月26日(649年7月10日)
    父  高祖
    母  太穆皇后 竇氏
    后妃 長孫皇后
    唐朝の第2代皇帝
    高祖
    李淵の次男
    李淵と共に唐朝の創建者
    兄の
    李建成を殺害
    父の
    高祖を幽閉(626年「玄武門の変」)
    第二代の皇帝
    太宗(在位626〜649年)となった
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