2656日目・・・2019年1月1日・・・「戊戌・甲子・戊戌」・・・紀元前219年(壬午・始皇28年)・・・
始皇帝の命で
屠睢・・・・屠=尸+者
ほふる・さく・ト・ド・ヅ
家畜を殺す・屠殺・屠所
きる・さく・屠腹
狗屠(クト・コウト)・浮屠(フト)
屠牛(トギュウ)・屠殺(トサツ)
睢=目+隹
異体字「𤕚・眭・𥉖・𥍋」
みあげる・キ・ケイ・ケ・スイ
と
趙佗・・・・趙=趙=走+肖=土+龰+肖=土+ト+人+小+月
↓↑ およぶ・こえる・チョウ
ゆっくり歩く・歩くことのおそいさま
超える・及ぶ
佗=ィ+它
ほか・になう・わびる・わびしい・わび
タ・イ
ほか・他・になう・背負う・佗負
わびる・ひっそりと暮らす
みだす・佗髪
わびしい・わび・さび
よこしま(邪)・おふ(負)
になふ(荷)・馱・うるはし(美)
委佗
它=宀+匕
異体字「他・牠・蛇」
それ・あれ・かれ(彼)・ほか・別の
蛇(毒蛇)
↓↑ ↓↑
が嶺南(ベトナム北部)に侵攻
始皇帝が泰山で封禅の儀式・・・封泰山、禅梁父山
↓↑
第四次シリア戦争
第二次ポエニ戦争
ルキウス・アエミリウス・パウルス
マルクス・リウィウス・サリナトル
が共和政ローマの執政官に就任
ローマが
イリュリアに侵攻した
第二次イリュリア戦争終結
↓↑
紀元前219年(壬午・始皇28年)・・・
紀元前220年(辛巳・始皇27年)・・・
紀元前221年(庚辰・始皇26年)・・・
紀元前222年(己卯・始皇25年)・・・
ーーーーー
姓は嬴(エイ)
氏は趙(チョウ)
諱は政
趙の首都
邯鄲で生まれたため・・・「趙政」
実父は
韓の商人 呂不韋
実母は 趙姫(子楚の妾)
↓↑
秦始皇帝
在位期間 紀元前247年五月丙午朔
〜
紀元前210年七月丙寅朔
都城 咸陽
姓・諱 嬴政
生年 前259年(正月1月)
没年 前210年9月10日(秋七月二十二日丙寅朔)
↓↑ 辛卯年丁酉月乙亥日
↓↑
紀元前 247年五月丙午朔(一日)
干支=甲寅年
己巳月・・・・己=よこしま・おのれ・キ・つちのと
巳=蛇・蝮・へび・ミ
丙午日
日本
皇紀 四百十四年・・・・・・・・414年
孝霊天皇四十四年・・・・第七代・孝霊天皇44年・・・?
大日本根子彦 太 瓊天皇(書紀)
大倭 根子日子賦斗邇命(古事記)
皇女は倭迹迹日百襲姫命
中国
秦 - 荘襄王 3年
楚 - 考烈王 16年
斉 - 斉王建 18年・・・斉の王の建・・・十の八の年
↓↑ ↓↑ 蛇(巳)をペットにしていた?
巳→冲←亥
白猪→伊吹山←建⇔小碓・大臼
吹雪・有珠=うす=渦?
母親は「君王后」
↓↑
始皇帝死後
田斉
斉王建の弟である
「田仮」が秦に反旗するが
「田栄」との内紛で殺され
「田横」が斉に登場し自殺
↓↑ ↓↑ ↓↑
「史記世家
戦国策(鮑本には
后勝は君王后の一族)」
「斎王の
建
は、助命されて
共の松柏の間に幽閉・戦国六国が滅ぶ」
「東周列國志」
「后勝は王賁によって斬首」・・・
「齊王建用后勝計,絕秦使,欲為亂,
今幸將士用命,齊國就滅。
本當君臣俱戮,念建四十餘年恭順之情,
免其誅死,可與妻子遷於共城,
有司日給斗粟,畢其餘生。
后勝就本處斬首」
王賁奉命誅后勝。
↓↑ ↓↑
趙
趙王遷(幽繆王)は投降し
河南の房陵に流刑
↓↑
魏
魏王假は投降して捕虜
遭處死(資治通鑑)
↓↑
韓
韓王安は捕虜
領国は
秦の
潁川郡になった
↓↑
BC226年
旧韓貴族が叛乱し鎮圧され
王安は処刑
↓↑
襄王(ジョウオウ)
生年不詳〜紀元前265年
戦国時代の斉の君主
名は法章
湣王の子
紀元前284年
湣王が
淖歯に殺害され
法章は姓名を変えて
莒県の
太史敫の家の雇い人になった
太史敫の娘(君王后)は
法章の
衣食の世話をし
恋仲となった
淖歯が莒県を去ると
莒県の人と斉の亡臣たちは
湣王の子を探し求め
法章を立てようとしたが
法章は殺されるのを恐れていたが
意を決して
「わたしは湣王の子である」と名乗り
莒県の人は
法章を斉の王に擁立し
襄王となった
↓↑
紀元前279年
田単が
即墨で
燕を撃破し
襄王を
臨淄に迎え
斉の旧領をすべて回復
↓↑
紀元前270年
秦に剛寿を攻撃され
紀元前265年
襄王は死去
在位19年
↓↑
君王后
姓は太史后(敫)
紀元前310〜300年・・・
紀元前256年
秦が周王室を滅ぼした
↓↑
紀元前249年
斉王建時代の16年
出身地 莒県(山東省莒県)
父親 太史敫(太史后)
夫 田法章(斉の襄王)
息子 田建(斉の最後の王)
建の弟は、 田仮
舅は 田地(斉の閔王)
曾孫 田安(斉王建の孫)
項羽に降伏するが
田栄に殺される
后勝(斉王建の宰相)
建に秦への降伏を進言
田単 恩人
↓↑ ↓↑
燕 - 燕王喜 8年
趙 - 孝成王 19年
魏 - 安釐王 30年
韓 - 桓恵王 26年
ーーーーー
月の十二支
X月甲寅朔(X月の1日=朔は甲寅の日)
ーーーーー
神武 元年1月 1日…辛酉・庚寅・庚辰・(丙子・丁丑・戊寅〜)
紀元前660年2月11日(グレゴリオ暦)
紀元前660年2月18日(ユリウス 暦)・ユリウス日=1480407
ーーーーー
月の十二支
X月甲寅朔(X月の1日=朔は甲寅の日)
月の干支の決定は・・・・時間の決定は同法で日によって決定
甲 乙 丙 丁 戊⇔甲 乙 丙 丁 戊
己 庚 辛 壬 癸⇔己 庚 辛 壬 癸
年 年 年 年 年 日 日 日 日 日
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
寅月=丙 戊 庚 壬 甲⇔丙 戊 庚 壬 甲=寅時干
干 寅 寅 寅 寅 寅⇔寅 寅 寅 寅 寅 午前3〜5
節入り日〜
ーーーーー
干支
臨沂県(リンギケン)から出土した
銀雀山漢墓竹簡
および
武帝七年(元光元年、紀元前134年)
暦譜竹簡の例が最古・・・
↓↑
太初(タイショ)
前漢
武帝の元号
紀元前104年〜紀元前101年
元年夏五月に太初暦への改暦
元封七年を太初元年とした
太初暦で
顓頊
暦の十月歳首を
正月歳首に改めた
太初元年は
前年の十月〜十二月までの
15月間
存在することになった
それに
干支をあてはめた
以下の4種がある
丙子=『漢書』
甲寅=『史記』
丁丑=紀元前67年から
単純に
60年サイクルの
逆算=戊寅=『史記』
ーーーーー
紀元前221年
干支=庚辰
日本
皇紀440年・・・・・・・四百四十=四百四拾
孝霊天皇 70年・・・七拾=漆足
中国
秦 - 始皇 26年・・・二十六=念陸
斉 - 斉王建 44年・・・四十四=肆拾肆=肆足肆・・・建
↓↑
紀元前221年
ローマ暦(キリスト生誕前〜後退年数)・・・(-Ⅹ年)
↓↑
「アシナ
と
ルフス
レピドゥスが
共和政ローマ執政官に就任した年」
「ローマ建国紀元535年」
「仏滅紀元=326年」
↓↑
カルタゴ
カルタゴの将軍
ハスドルバルが
ヒスパニアの植民地を
増やすための遠征中に
ケルト人によって暗殺される
カルタゴの将軍
ハミルカル・バルカの息子
ハンニバルは
司令官として軍に推挙され
カルタゴ政府から承認
ハンニバルは
カルタゴの
ヒスパニアの支配を強固にするため
ヒスパニアの王女
「Imilce(イミリス)」と結婚
ヒスパニアの様々な部族を征服
オルカデス族と戦い
その首都
アルタイアを占領
北西の
ウァカエイ族を平定
カルタゴ・ノウァ
(カルタゴのヒスパニア植民地の首都、カルタヘナ)
に港を築く
タグス川一帯の
カルペタニ族に勝利
↓↑
エジプト・プトレマイオス朝
プトレマイオス3世が死亡
プトレマイオス4世が即位
ソシビオスが
大宰相
ソシビオスの讒言により
プトレマイオス4世は次々に
おじの
リュシマコス
や弟の
マガス
母の
ベレニケ2世を殺害
↓↑
スパルタ王
クレオメネス3世は
エジプトに亡命
プトレマイオス4世は
陰謀を疑い彼を軟禁
↓↑
セレウコス朝
メディア総督(サトラップ)の
モロンと兄弟で
ペルシス総督の
アレクサンドロスは
宰相
ヘルメイアスは
アンティオコス3世に反乱し
モロンはチグリス川東部にある
セレウキアの領地の支配者に・・・
アンティオコス3世の軍は
彼が川を越えを防ぎ
アンティオコスの将軍
クセノエテスが
モロンに対し大軍とともに派遣され
モロン軍の奇襲にあって、全軍が崩壊
クセノエテスは殺され
モロンは
チグリス川を渡り
チグリス川沿岸の
セレウキア
と
全バビロニア
と
メソポタミア
の支配者となる
↓↑
ギリシア
アンティゴノス3世
イリュリアの諸都市との戦闘中に死亡
従兄弟の
ピリッポス5世が
マケドニア王位を継ぐ
↓↑
共和政ローマ
ガイウス・フラミニウス・・・・亥(猪子)臼(碓)?
附羅(等)見似兎州?
が
ローマの
2番目の競馬場
フラミニウス競技場を建設
↓↑
中国
秦の将軍
王賁
は
李信
蒙恬
と共に
斉を攻め
斉都の
臨淄を包囲
斉王
建・・・・建(ケン)は「たける」か?
は
后勝・・・后の勝・・・皇后の勝ち?
の言に従い
無抵抗降服
秦は
斉を滅ぼし
秦王
嬴政は
魏を滅ぼし
中国統一
戦国時代終焉
↓↑
嬴政
始皇帝を名乗り
絶対君主制を開始
始皇帝は
中央集権を採用
郡県制を全国に施行
六国を滅ぼし征服したので
中国領域をその
六倍の
三十六の郡に分け
郡に守、尉、監
を置く
↓↑
秦は
武器を
咸陽に集め・・・刀狩り
溶かして
鐘と
十二金人・・・仏像=仏はその身体に三十二相と八十種好
という超人間的美点をそなえ
仏像はその説にしたがって造られ
仏は中国では「金人」などとよばれた・・・
金の人・・・金さん・・・
を造る
重さはそれぞれ千石
宮廷の中に設置
度量衡を統一
天下の富豪十二万戸を
咸陽に移住させる
↓↑
中国の青銅器時代の終焉・・・
↓↑
死去
プトレマイオス3世
プトレマイオス朝
第3代国王ベレニケ2世
プトレマイオス3世の后
アンティゴノス3世
アンティゴノス朝
マケドニアの王(紀元前263年〜)
ハスドルバル、カルタゴの将軍
ルキウス・カエキリウス・メテッルス
共和政ローマの執政官(紀元前290年〜)
↓↑
紀元前220年
干支=己卯
日本
皇紀四百三十九年
孝霊天皇六十九年
中国
秦 - 始皇政 25年
斉 - 斉王建 43年
燕 - 燕王喜 33年
趙 - 代王嘉 6年
仏滅紀元 325年
↓↑
共和政ローマ
ウィリドマルス
に率いられた
ガリア人の
ガエサタエと
インスブレス族に
執政官
マルクス・クラウディウス・マルケッルス
の率いる
ローマ軍が
クラスティディウムの戦いで勝利
マルケッルスは
ウィリドマルスを殺害
マルケッルスは
ローマ史上3人目
最後の
スポリア・オピーマ
となった
もう一人の執政官
グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス
と共に
メディオラヌム(ミラノ)を陥落させた
↓↑
ギリシア
スパルタの
クレオメネス3世は
セラシアの戦いで
アンティゴノス3世と
アカイア同盟
パロスのデメトリオス率いる
イリュリア
プトレマイオス3世率いる
エジプトからなる同盟軍に敗れた
アンティゴノス3世の軍は
他国の軍として史上初めて
スパルタを占領
ギリシアのほぼ全土が
マケドニア王国の宗主権の下に置かれ
アンティゴノス3世は
首長としてヘレニズム同盟を再建した
↓↑
セレウコス朝
将軍
アカエウスの率いる
セレウコス朝の軍は
6年前に奪われた
アナトリアの領土を
ペルガモン王国から奪取
ポントス王
ミトリダテス2世は
娘の
ラオディケ3世を
セレウコス朝の王
アンティオコス3世に嫁がせた
別の娘を同時に
アンティオコス3世の
従兄弟
アカエウスに嫁がせた
↓↑
秦の
王賁が
遼東に逃亡した
燕軍・・・・・つばめの戦
を殲滅し
燕王喜
を捕虜にした
秦は
燕を征服
王賁が
代(趙の亡命政権)
↓↑ ・・・代=人+弋(ヨク・イキ)
弋=いぐるみ・とる・くろい・うかぶ
獲物をからめとる
杙(くい)や繳(いぐるみ)のこと
(矢に糸をつけ、射たときに鳥を
くるんで落とすようなしかけ)
かわる・かえる
代表・代理・代用
かわりになるもの
商品や労力にみあう金額
代価・代金
よ(世)
歴史上の区分
上代・王朝
天子や家長がその地位にある期間
年齢や年号の範囲
しろ・田地・苗代
かわりのもの
代案・代議・代行・代打・代替・代表
代用・代理・城代・総代
名代 (みょうだい)
人の一生涯
田代(たしろ)・八代
田=それを測る単位
稲一束を得る田の面積とされ
律令制においては一段の1/50
1代=稲1束
(当時の5升,現在の2升にあたる)
↓↑ を収穫しうる面積
を攻め
代王嘉
を捕虜とし
代郡(河北省蔚県西南)
と
遼東郡(遼寧省遼陽市老城区)
を設置
秦の
王翦
が
楚の江南の地を平定
百越の君を降伏させ
会稽郡を設置
ーーーーー
・・・???・・・会稽、トウヤ(トウジ)のヒガシ・・・
会稽東冶(治)・・・
冶金・・・鍛冶(タンヤ)・鍛冶屋(かじや)
冶=冫+ム+口
なまめく・なまめかしい
陶冶・艶冶(エンヤ)
治安・・・治=氵+ム+口
退治(タイジ)・湯治(トウジ)・統治( トウチ)
不治(フジ)・法治(ホウチ)・療治(リョウジ).
灸治・湯治・難治・不治・療治・主治医・治癒・治療
治水
ーーーーー
・・・???・・・氷と水の境界・・・
固液臨界点、6個の確認・・・
氷と水の区別がなくなる新たな臨界点(固液臨界点)が存在・・・
「通常の水(a)では、
液体と気体の間の境界線は臨界点で途切れるが、
固体(Ice IからIce X)の液体の境界線には臨界点がない」
(岡山大学)・・・