2649日目・・・『則天武后』と「現存・古事記」・・・「托卵」しながら、アッチこっちに彷徨(さ迷)い歩いたボクの「HP」・・・「遊郭=廓=くるわ=来るわ・繰るわ・刳るわ」・・・「彠=尋+蒦」とは「彠=はかる・ものさし・のり・クワク・ワク・カク・キャク・ヤク」・・・反物を測るのに用いられてきた和裁用物差の単位・・・「鯨尺(一鯨尺 = 37.8787879 cm・鯨尺一尺=曲尺 (かねじゃく) の1尺2寸5分に相当・37.88cm)」・・・「もと鯨の鬚(ひげ)で作られた」・・・「1958年(昭和33)の尺貫

 「鯨=くじら=魚+京・異体字は𩼃・䲔・巨京」
 「雌は鯢(ゲイ)・女久治良」
 「久地良・久知良・久治良・久慈理・区施羅・屈支羅」
 「『クジンラ(九尋羅)』が変化」
 「イサナ・勇魚・伊佐那・伊佐難・伊沙那・鯨名・異舎儺」
 「クロシラ(黒白)=くじら」

 ↓↑
 「訳(ヤク)=言+尺」の
 「ものさし
 (ruler・(measuring) rule [rod]・straightedge・measure)」
 ・・・辞典・事典・字典・・・
 「規彠=キカク・おきて・法度」・・・
 「尋(ひろ)=古代の中国や日本で使われた長さの単位」
 「古代中国で8尺・日本で6尺または5尺」
 「両手を左右に伸ばしたときの
  指先から指先までの長さを基準にし
  一尋は5尺=約1.515メートル
  ないし6尺=約1.816メートル」
 「海神 所乘駿馬者 八尋鰐 也 是 竪其鰭背 而在 橘之小戸
  第十段一書(三)」
 とあり、海神の乗る駿馬は「八尋鰐(わに)」・・・王仁和邇
 「異体字は、彟・蒦=艹+隻・卝+隻」・・・
 「彠=ヨエロ寸艹(クサカンムリ)隹又」
   尋(たず・たづ)ねる 
   ヨエロ(与重侶・世慧鹵)を
   ョ=鼠(子・シ)の頭・・・ネズミのカシラ・・・則天武后
                ネコのカシラ・・・・王皇后
     猪(亥・ガイ)の頭・・・豚(ぶた)の頭・・褚遂良
     鯨(くじら)の頭は括れていない・・・
   寸(はか・スム・一亅丶)る
        ・・・初(一・はじめ・イチ)に
           釣(亅・かぎ・鉤・鈎・つる)る
           天(丶・てん・点・典・あま・あめ)
   日下(くさか・艹)の無理(ムリ)・・・久坂の無理
    ・・・草(艹・艸)冠=くさかんむり
   執り(取=耳+又・とり・隹・鳥・鶏・酉・禽) 
 ↓↑
 「篗=竹+隻=糸を巻き取る道具・榬」・・・イトまき
 「榬=木+袁=異体字、楥・𥰟・楦」・・・
       十八(拾捌)の
       長袖(ながそで・袁)=sleeves
      「グリーンスリーヴス=Greensleeves」
 「䈅=竹+或=〔集韻〕に籆」・・・
ーーーーー
 高宗・・・太宗(李世民)の第九子
      母   長孫皇后
      姓・諱 李治
      字   為善
      小字  稚奴
      諡号  天皇-大聖-大弘孝-皇帝
      廟号  高宗
 の
 皇后
 王氏
 と
 蕭淑妃
 が対立
 武照の入宮
 武照が昭儀(後宮上位5番目の地位)
 として後宮に入宮
 ↓↑
 永徽六年(655年)六月
 高宗は武照を
 昭儀から新たに設けた
 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが
 宰相
 韓瑗・・・韓の瑗(王の爰=エン・オン・ここに?)・・・どこに?
 と
 来済・・・来済(救済に来た?)
 が反対
 同年
 中書舎人・李義府などの側近が
 皇后廃立と
 武照
 擁立の
 意図を
 揣摩(シマ)し
 許敬宗・・・許す敬の宗
 崔義玄・・・崔(もよおし)の義は玄(くろ)
       崔=山+隹=高くて大きい
 袁公瑜・・・猿の公の瑜(ユ)
       瑜=玉+兪
          兪=中をくりぬいた丸木船
            木の中身をそっくり抜くの意
            不純な部分を取り除いた上質な宝玉
            美しい宝玉
       賢瑜=三巻揃いの現存最古の
          「古事記」を写本
          ・・・瑜=ユ=諭=喩
               福沢諭吉・比喩=たとえ(喩)
 らの大臣が結託
 高宗に
 武照
 立后の上奏文を送った
 ↓↑
 高宗は
 王皇后を廃し・・・・・・・王仁・王邇・和邇
 武照を皇后に立てることの
 是非を重臣に下問
 ↓↑
 太宗(李世民)の
 皇后
 長孫氏の兄で
 高宗
 の伯父にあたる
  ↓↑
  長孫無忌・・・長の孫、忌(いみ・嫌・厭)は無し
 (チョウソン ムキ)
  ↓↑ ↓↑  開皇十五年(595)頃〜顕慶四年(659)
         唐朝の外戚
         字は輔機
         黔州・唐初の重臣
         鮮卑の拓跋の
         鮮卑系貴族
         本貫は河南郡洛陽県
         凌煙閣二十四功臣第一位
         隋書は・・・随所・随処・髄書・瑞書
         長孫無忌
         と
         魏 徴(ギチョウ)
         らの編纂・・・
  ↓↑ ↓↑    ↓↑
          「俀国」
     在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居
     ・・・都於「邪靡堆」
     則魏志所謂「邪馬臺」者也
     開皇二十年
          「俀王」
         姓「阿毎」
         字「多利思北孤」
         號「阿輩雞彌」
  ↓↑  遣使詣闕
    ・・王妻 號「雞彌」・・・
  ↓↑
 太宗に信任、直言をしていた
 褚遂良(チョ スイリョウ)・・・
       596年〜658年
       書家・銭塘(セントウ)の人
       字は登善
       楷書に巧みで書風は王羲之の流れ
      褚=衤(衣)+者+丶⇔異体字「𧝙」
        わたいれ・さいふ・ためる・あか・あかい
        チョ・シャ
      遂=䒑+乑+辶=彖+辶=彑+𧰨+辶
             彖(垂れた・タン)・・・豚の垂れた腹
             縁(ふち)・縁(へり)=糸+彖
             縁側・縁談・縁日・縁故・因縁
             手づる・えにし
      良=丶+艮=白+レ+乂(乀′・乀ノ・⺊)
       =異体字「𣌩」
 ↓↑
 高祖と同じ
 北周八柱国出身の
 于志寧・・・こころざしを寧(ねんごろ)にまわす
 ↓↑
 太宗の下で
 突厥討伐の戦功者
 李勣・・・木の子、責(せめる)チカラ
 ↓↑
 の4人
 長孫無忌
 と
 褚遂良は反対
 于志寧は賛成も反対も言わず
 李勣が
 皇后の廃立を消極的に容認
 ↓↑
 十月十三日(11月16日)
 高宗は
 「陰謀下毒」の罪により
 王皇后
 蕭淑妃
 を庶民に落とし投獄
 同2名の親族は
 官位剥奪
 嶺南へ流罪
 その7日後
 高宗は
 武照を立后
 諫言した
 褚遂良を
 潭州都督へ左遷
 ↓↑
 十一月初旬
 皇后の武照は
 王氏(前皇后)
 蕭氏(前淑妃)
 を棍杖で百叩きに処した上
 処刑
ーーーーー
 以下はボクの「HP」・・・
 『則天武后』と - Wix.com
haa98940.wixsite.com/.../『則天武后』と「現存・古事記」1
 が原文で・・・少々、添付
 ・・・彠=尋+艸+隻
         尋ねる久坂玄瑞の隻眼?
  一つの目・片目・ものを見抜く眼識・すぐれた識見
 独自の見識・独眼・隻眼・・・
 伊達政宗=幼名梵天丸・法名から貞山公
      幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目失明
      「独眼竜」の異名
      隻眼の伊達政宗をあえて
      李克用になぞらえた
      後唐の太祖武帝
 柳生十衛兵=柳生 三厳(やぎゅう みつよし)
       別名 七郎・十兵衞
       戒名 長岩院殿-金甫-宗剛-大居士
 ↓↑
 則天武后の父親
 『武士彠(尋+艸+隻)』は・・・獲得?
        ヨエロ寸艹(クサカンムリ)隹又
        武士彠=幷州-文水(山西省汾陽県)の人
 『隋王朝』の
 『煬帝』の
 『鷹楊府隊正』の部隊長で
 当時の
 『李淵
 や
 『世民』
 親子と縁があり
 『隋王朝』滅亡の時には
 『李淵』の配下の
 『大将軍府・鎧曹参軍』
 の地位にあった
 彼の最初の夫人が
 『相里氏』で
 後に再婚した別の夫人が
 『楊氏』で
 『隋王朝』の
 『観王(楊雄)』の
 姪であった。
 この夫人が「三人娘」を産んだ
 ↓↑
 『韓国婦人』は長女
     ・・・「調序・重所・聴如」?
 『照(則天武后)』は次女
        ・・・「自序・次序・爾汝・自助」?
 『郭素慎婦人』は三女
      ・・・「纂序・纂所・蒜如・讃女」?
      ・・・則天武后の妹の夫は
        「郭素慎」⇔「郭務悰」は血縁?
 ↓↑
 郭公
 《鳴き声から》カッコウカッコウ科の鳥
  全長約35 センチ
  頭部と体の上面は灰青色
  胸と腹は白く暗灰色の横縞
  尾羽は黒灰色で
  白い横縞が入り
  先端も白い
  雌には赤褐色型もある
  全体に灰色
  腹に黒い横斑がある・・・腹黒いって?
 カッコウ
 ノビタキ、モズ科、ホオジロ科、オナガ
 などに托卵
 腹のしま模様はツツドリより細く薄い
 雄は体を横にして翼を下げ
 尾を左右に振りながら鳴く
 ↓↑
 楊玄琰の長女
 崔峋に嫁いでいた
 韓国夫人に封じられる
 皇子、皇孫の婚姻は
 韓国夫人や
 虢国夫人に
 賄賂を贈れば思い通りになった
 至徳元載(756年)
 楊国忠が殺された後
 陳玄礼率いる兵士たちに殺された
ーーーーー
 『則天武后』と - Wix.com
haa98940.wixsite.com/.../『則天武后』と「現存・古事記」1
 ↓↑
 『武士彠』は
 『隋王朝』の
 『煬帝』の
 『鷹楊府隊正』の部隊長で
 当時の
 『李淵
 や
 『世民』
 親子と縁があり
 『隋王朝』滅亡の時には
 『李淵』の配下の
 『大将軍府・鎧曹参軍』の地位にあった
 李淵(唐高祖)の挙兵に参加し
 利州(四川省広元県)都督を授けられた
 広元県にある
 皇沢寺が
 娘の
 則天武后(武照)の生地
 彼の最初の夫人が
 『相里氏』で
 後に再婚した別の夫人が
 『楊氏』で
 『隋王朝』の
 『観王(楊雄)』の
 姪であった。
 この夫人が「三人娘」を産んだ
 ↓↑
 『韓国婦人』は長女
     ・・・「調序・重所・聴如」?
 『照(則天武后)』は次女
        ・・・「自序・次序・爾汝・自助」?
 『郭素慎婦人』は三女
      ・・・「纂序・纂所・蒜如・讃女」?
ーーーーー
 玄宗朝の妃
 楊貴妃(名は玉環)
 ↓↑ 735年(開元二十三年)
    玄宗と武恵妃の間の息子
    寿王李瑁、第十八子」の妃となり
    737年(開元二十五年)
    武恵妃が死去し
    翌年
    宦官
    高力士・・・光宅元年(684年)
          〜
          宝応元年八月十八日(762年8月31日)
          唐の第六代皇帝玄宗の腹心
    の薦めで
    李璵・・・姓・諱
         李嗣昇→李浚→李璵→李亨
         諡号
         文明武徳大聖大宣孝皇帝
         廟号
         粛宗
         景雲二年九月三日(711年10月19日)
         〜
         宝応元年四月十八日(762年5月16日)
    が皇太子に冊立
    740年(開元二十八年)
    玄宗に見初められ
    長安の東にある温泉宮で
    「女冠(道号を太真)」となった
    息子から妻を奪う形になるのを避けるため
    実質は内縁関係
    後、宮中の太真宮に移り住み
    玄宗後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた
    後宮の人間からは
   「娘子(ニィァン ヅゥ・niáng z)」と呼ばれた
745年(天宝四載)、貴妃に冊立
    ・・・楊貴妃は後に「玄宗皇帝」の妃となる
           蜀出身・本籍は蒲州・永楽
           兄に楊銛
       叔父の楊玄珪は、光禄卿
       兄の楊銛は殿中少監
       従兄の楊贒は駙馬都尉
       に封じられ
       楊贒は玄宗の愛娘である
       太華公主と婚姻
 ↓↑
 「虢国」夫人
 (カクコクふじん)
 ?〜至徳元載(756年)
 名は不詳
 楊貴妃
 の姉
 姓は楊
 蜀州司戸の
 楊玄琰の二女
 裴氏に嫁ぎ
 子の
 裴徽と・・・後、延光公主と婚姻を結ぶ
 娘を一人産むが
 夫に死なれ寡婦
 天宝七載(748年)に虢国夫人
 楊国忠との密通の噂
 天宝十四載(755年)
 安史の乱の勃発
 至徳元載(756年)
 玄宗長安出奔後
 陳倉に赴いていたが
 楊国忠、韓国夫人、楊貴妃
 の死を聞き
 裴徽と娘、楊国忠の妻の裴柔を殺して
 自殺未遂
 後、のどに血が固まり死亡
 (虢
  河南省三門峡市上村嶺にある
  西周時代後期〜春秋時代前期の虢国
  虢は周と同姓の国であるが
  周の文王の弟
  虢仲が初めて封ぜられた西虢のほか
  文王の弟
  虢叔の封ぜられた東虢があり
  その後の移動によって
  南虢、北虢(山西省平陸県)がある)
 ↓↑
 姉の
 「韓国」夫人
 楊玄琰の長女
 崔峋に嫁いでいた
 韓国夫人に封じられる
 皇子、皇孫の婚姻は
 韓国夫人や虢国夫人に
 賄賂を贈れば思い通りになった
 至徳元載(756年)
 楊国忠が殺された後
 陳玄礼率いる兵士たちに殺された
 (韓
  戦国時代に存在した国
  戦国七雄の一国
  紀元前403年〜紀元前230年
  首都は陽翟
  地方名としての韓は
  河南省北部の一部
  山西省南部の一部
  陝西省東部の一部
  西は秦
  北は魏
  南は楚
  に挟まれた国)
  国姓 姫姓 韓氏
  爵位 侯爵
  国都 陽翟・・・翟=きじ・テキ・タク
            キジ(雉)の尾羽
            舞楽で舞人が右手に持つ
 ↓↑         雉の尾羽
 翟=羽+隹
   通仮字「挑・狄」
   耀
   翟・嬥・濯・趯・曜・藋・戳
   燿・躍・櫂・蠗・擢・䊮・𩱲
 (河南省禹州市)
 新鄭
 (河南省新鄭市)
 分封者 威烈王
 始祖  景侯
 存在時期 前403年〜前230年
 秦により滅亡
 ↓↑
 秦国夫人
 楊玄琰の三女
 楊貴妃の姉(排行は八番目・・・)
 柳澄という男に嫁いでいたが死に別れ
 子は
 柳鈞
 秦国夫人に封じられる
 天宝六載(747年)
 彼女が宮中に侍女の
 明珠を連れてきたことが
 楊慎矜失脚の原因の一
 天宝十三〜十四載頃に死去
 楊銛、楊贒、韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人
 の5家で楊氏五家
 楊国忠を含めて、楊氏六家という場合も・・・
ーーーーー
 『則天武后(武照)』は
 「貞観二年(628)」の
 生まれ年の干支は「戊子(ツチのエのネ)」?
 「戊子」は「ボシ」とも読む
 「古事記」や「日本書紀」の中では
 「ボシ」、「ホシ」、「ボジ」
 の同音異字に掛けられている・・・?
 「星」、「干」、「補詞」、「補史」
 「母子」、「母死」、「母字」、「母事」
 等の「模字」で、
 「母鼠」の誕生と「音図見とりの描写」・・・
 ↓↑
 『則天武后(武照)』
 は憎くっき「王氏」を
 「蟒(ボウ・モウ・うわばみ・おろち)」
 「蕭氏」を
 「梟(キョウ・シャオ・ふくろう・みみずく)」
 としてその記録上の
 「姓の漢字」を換えさせた
 後に
 「武氏」を
 「蝮(フク・まむし)」
 「李氏」を
 「キ(兀+虫=カイ・ケ)=まむし・とかげ・ひばかり」
 と凶悪な「字」をつけた
 「孝謙称徳女帝」が
 「和気清麻呂」を
 「汚麻呂」とした記録がある
 「キタナマロ」とは
 「記他名真賂」か、
 「企多名眞賂」・・・?
 「ヨゴレマロ」・・・
  世後例間ロ、予後例眞賂・・・
  余呉、余語、四語・・・
  等の例を萬慮と・・・
 『則天武后(武照)』は
 殺してしまった
 「王皇后」と「蕭淑妃」の
 亡霊、幽霊に悩まされて
 「竜朔三年(663)」に
 「西内の大明宮」から「蓬莱宮」に引越し
 さらには「長安」から
 「東都・洛陽」に住むようになった・・・
 唐王朝にとって
 「竜朔三年(663)」とは
 「白村江の海戦」での
 大勝利の年である・・・
ーーーーー
 以下、殆んど「by wikipedia.org/wiki/武則天」・・・
 ↓↑
 則天武后・・・「貞観二年(628)」生まれ?
 貞観二年(628年2月17日)〜   神龍元年(705年12月16日)
 ↓↑
 戊子(壬 癸)⇔正財印綬  病⇔乙巳
 甲寅(戊丙甲)⇔劫財正財 帝旺⇔戊子
 乙巳(戊庚丙)⇔  正財 沐浴⇔壬寅
  寅卯=空亡
 ↓↑
 武徳七年一月二十三日〜 神龍元年十一月二十六日
 (624年2月17日)Y ? (705年12月16日)Y
 ↓↑
 甲申(戊壬庚)比肩偏官 絶⇔乙巳
 丙寅(戊丙甲)食神比肩建禄⇔戊子
 甲午(丙 丁)--- 正財 死⇔壬寅
  辰巳=空亡
 ↓↑
 父 武士彠
 母 楊夫人
 少女期の
 媚娘は漆黒の髪
 切れ長で大きな瞳(目)
 雪のような肌
 桃色の唇
 薔薇色の頬
 大きな胸
 見る者を魅了する
 媚笑
 聡明な頭脳
 ↓↑
 出身県である
 文水県を
 武興県と改めた
 ↓↑
 武三思(ブ・サンシ・?〜707年)
 武則天
 異母兄弟である
 元慶の子(武則天の甥)
 右衛将軍
 武則天が政権掌握後
 夏官尚書に任命
 周朝(武周)が成立すると
 梁王に封ぜられ一千戸を賜る
 天官尚書を拝命
 695年(万歳登封元年)に
 春官尚書に転じ
 国史監修を担当
 698年(聖暦元年)
 検校内史
 699年
 特進
 太子賓客
 ↓↑
 懿安郭皇后=唐の憲宗の皇后
 郭子儀(カク シギ)
 神功元年(697年)
 〜
 建中二年六月十四日(781年7月9日)
 唐朝に仕えた軍人・政治家
 玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた
 客家人
 安史の乱で大功
 異民族の侵入を防いだ
 盛唐〜中唐期を代表する名将
 憲宗(在位805年〜820年)の
 皇后
 「郭」氏は
 子儀の孫
 ↓↑
 華州鄭県(陝西省渭南市華州区)の人
 字は諱に同じ
 諡号
 忠武
 後晋
 劉昫の撰した『旧唐書』に
 「子儀 長六尺餘」
 北宋・欧陽脩の撰した『新唐書』に
 「長七尺二寸」
 旧書の「六尺餘」は身長190cm
 父の
 郭敬之は
 綏州・渭州・桂州・寿州・泗州
 の刺史(地方長官)を歴任
  『新唐書』・百官志四下に
 「上州」刺史は「従三品」に当たり
 渭州・寿州などには
 中都督府が置かれ
 中都督は「正三品」であった
 府兵制が崩れる以前に
 都督・刺史の官は
 地方職(外官)としては高官
 「蔭官」(父祖の功によって官職に就くこと)
 ではなく
 武挙(科挙と同じく武官試験)で
 仕官を果た
 (『新唐書』本伝
  「武挙の異等なるを以て左衛長史に補さる」
   徐松 撰/孟二冬 補正『登科記考補正』巻27)
 後、単于副都護、振遠軍使に累進
 玄宗
 天宝八年(749年)
 木剌山に
 横塞軍
 と
 安北都護府を設置した際
 横塞軍使に命じられた
 李吉甫撰『元和郡県図志』巻4・天徳軍の条
 に
 「天宝八年、張斉丘
  又た西可敦城に横塞軍を置き
  又た中受降城より横塞軍を移して理む」
 呉廷燮撰『唐方鎮年表』巻1に
 天宝九年まで
 節度使
 張斉丘の配下
 後、
 節度使として赴任した
 安思順
 李林甫
 らに仕え
 天宝十三年(754年)に
 横塞軍の在所の地形が悪く
 耕作に向かず
 人口も少なく
 新たに
 永清柵の北側に築城して
 横塞軍と安北都護府とを移し
 横塞軍は
 「天徳軍」と改称
 子儀はあらためて
 天徳軍使となって
 九原太守を兼ね
 朔方節度右兵馬使に命じられた(新旧書)
 上司・節度使
 安思順は
 安禄山の従弟(姚汝能撰『安禄山事迹』上巻)
 ↓↑
 天宝十四年十一月
 安禄山の乱
 安思順は
 以前から禄山の叛心を進言し
 死罪は免れたが
 (新書・哥舒翰伝
  「始め、安思順 禄山の必ず反せるを度り
   嘗て帝が為に言はば、坐せざるを得」)
 中央に戻された
 後任として
 右兵馬使であった
 子儀が朔方節度使に昇格し
 衛尉卿(五監の一、衛尉寺の長官。従三品)
 に任ぜられ
 霊武郡太守を兼務し
 朔方郡の兵馬を率いて
 安禄山討伐に向うよう詔
 ↓↑
 粛宗の時
 安史の乱を平らげて
 国難を救う功
 衛尉卿、
 霊武郡太守、
 朔方節度使
 関内河東副元帥に任ぜられ
 汾陽王に封ぜられた
 ↓↑
 764年
 安史の乱の際に賊軍征伐をともに行った
 僕固懐恩が宦官との対立から叛乱
 太原に進攻したのを撃退
 ↓↑
 765年
 吐蕃ウイグルの叛乱を平定
 徳宗より
 尚父の号を賜り
 大尉・中書令に昇進
ーー↓↑ーー
 907年・・・唐王朝滅亡
 6月2日(天祐四年=開平元年四月十九日)
 朱全忠
 唐の
 哀帝から
 禅譲を受けて後梁を建国
 五代十国時代が始まる
 ↓↑
 延喜通宝を鋳造
 延喜格が完成
 ↓↑
 干支=丁卯
 中国
  唐=天祐四年
 五代
 後梁=開平元年
 十国
  呉=天祐四年(唐の元号を使用)
 前蜀=天復七年(唐昭宗の元号を使用)
  遼=太祖元年
 中国周辺
 渤海=大諲譔元年
 南詔=安国5年
 日本
 延喜7年
 皇紀1567年
 朝鮮
 新羅=孝恭王10年
 泰封=聖冊3年
 後百済=正開8年
 ↓↑
 朱 全忠
 ↓↑
 王朝 後梁
 在位期間
 907年6月1日〜912年7月18日
 都城 開封
 姓・諱 朱温→朱全忠→朱晃
 諡号  神武元聖孝帝・・・神武-元聖-孝帝
 廟号  太祖
 生年 大中六年十月二十一日
 (852年12月5日)
 没年 乾化二年六月二日
 (912年7月18日)
 父 朱誠
 母 王氏
 陵墓 宣陵
 年号 開平 907年〜911
    乾化 911年〜915年
 朱 全忠(シュゼンチュウ)
 五代後梁
 初代皇帝
 廟号は太祖
 諱は初め温
 黄巣の乱の際の功で
 唐朝より
 全忠の名が下賜
 皇帝即位後に
 晃と改めた
ーーーーー
 趁=走+㐱
     㐱=人+彡(たくさん)
   人の髪の毛がびっしりとつまっていること
   前の人にぴったりとついて追うこと
   追う
 ↓↑
  趁=おう・おもむく・ゆきなやむ・チン
    追う・おいかける
    おもむく・ゆきなやむ
    のる・のりこむ
    つけこむ
 ↓↑
 趁・趁着
 …のうちに・…に乗じて
 例
 趁热喝吧=熱いうちに飲みなさい
 趁好天气、我们快收割吧
 =せっかくよい天気だから
 ↓↑
 〜に乗じて
 持っている
 追いかける・追う
 異体字「趁・蹨・趂」
 趁乱・どさくさまぎれに・混乱に乗じて
 「趁著=thàn-tio̍h」=「〜のうちに」
 「…に乗じて・…のうちに・…を借りて」の意
 機会を利用する
 趁=おう・おもむく・ゆきなやむ
   チン
   走+㐱
   異体字「𢌝・趂・𧽃・跈・蹨」
   繁体字「趂」
 ↓↑
 㐱=𠆢+彡
 疹・沴の初文
 㐱=異体字「鬒」
 ↓↑
 㐱=人+彡
   鬒=镸(長)+彡+眞(真)
           眞=ヒ+目+乚+八
     人(𠆢)+彡=㐱
   髪が多い・髪が黒く美しい
   髟=ヒョウ・ヒュウ
   髟+α=髽髯髦髷髴髠
   α+彡=彭羏彩彲簓彫諺
       彦=立+丿+彡=亠+䒑+丿+彡
       彥=文+厂+彡=亠+乂+丿+彡
         文(模様)+厂(崖)+彡(模様)
「文+厂」→「产」で
         はっきり際立った模様
     彦=彥=顔立ちがはっきりした立派な男性?
 ↓↑
   𠘱=几+彡=シン⇔風・・・彡=空気の流れ
   𢒀=𢒁=乃+彡=𠘱
     羽が生えたばかりの鳥が飛ぶさま
 ↓↑
   𡯎=尢+彡=一丿乚彡=ナ(𠂇)乚彡=𡯎
     尤+彡
     尨(尢`彡)の異体字
     異体字「𡯎・狵・庬・𧱓・𧱦・𧳑
     むく・ボウ・モウ
     毛がふさふさとした犬
     雑色の
     大きい・入り乱れる=厖
 ↓↑
 曑・疹・診・駗・珍・胗・䪾・殄
 眕・趁・畛・袗・飻・沴・紾・軫
 抮・珍・殄・胗・昣・畛・袗・眕
 疹・紾・翏・參・聄・軫・趁・診
 跈・勠・摻・憀・慘・廖・滲
 㐱
 ↓↑
 翏(リョウ)
 「羽と㐱シンからなり高く飛ぶなり(説文解字)」
 「鳥の両翼と尾羽の形(字統)」
 㐱=尾羽
   髪飾り
 「羽かざりをつけた人のさま(角川新字源)」+「彡」
 ↓↑
 謬=言+羽+㐱
      㐱=𠆢+彡
        合+痕(あと・艮・傷痕・引掻き痕)
   誤謬(ゴビュウ・logical fallacy)
      ・・・言は
         呉(国)の
         言を
         羽(筆・pen)で
         𠆢(合わせるように)
         彡(引掻いた痕⇔文字痕・記録した痕)
      詭弁=詭辯≠誤謬
      キベン・σοφιστική・sophism
      意図的に欺く「すり替え論述」
      説明の関連性の不十分、
      弁証の欠陥性の
      誤謬とは区別される・・・
      ・・・言は
         危(国)の
         弁(辯)舌、弁(辯)言
 ↓↑
 蓼=艸(くさ)+翏(羽𠆢彡)
   たで・リョウ・リク
  「蓼国リョウコク」
   商=殷の時代から河南省にあった国
   紀元前622年に楚国により滅ぼされた
  「蓼科(たてしな・長野県の地名)」
 ↓↑
 寥=宀+翏(羽𠆢彡)
   さびしい・リョウ
   寂寥(セキリョウ)
   寥寥(リョウリョウ)
   静かなさま・空虚なさま
   うつろ・まばらなさま
 ↓↑
 勠=翏+力・・・羽𠆢彡力
   あわせる・リク・ロク
   ころす=戮(リク)
 ↓↑
 戮=翏+戈・・・羽𠆢彡戈
   リク・ころす・・・殲滅(センメツ)
   戈(ほこ)で殺す
   殺戮(サツリク)
   刑戮(ケイリク)
   戮辱(リクジョク)
   戮力(リクリョク)=勠力
 ↓↑
 眉毛(まゆげ・eyebrow)
 目の上部に弓状に生える毛・眉(まゆ)
 額から落ちる雨水や汗が
 目に入らないようにする機能
 雨水やほこりや小さなゴミが
 目にはいるのを避ける役割
 ↓↑
 眉墨=黛(まゆずみ)
 化粧品の一種
 眉の形を美しく見せるために
 眉を書き足すための化粧品、その化粧法
 アイブロウ
 ↓↑
 平安時代
 上流社会で、眉毛を抜いた上で
 「掃墨」という粉末状の墨で
 眉を描き
 引眉と呼ばれた
 江戸時代
 引眉の風習は既婚女性のものとなった
 引眉は
 明治三年(1870年)
 「お歯黒」とともに禁止令
 ↓↑
 眉唾(まゆつば)=騙されない心がけ
 眉唾物(まゆつばもの)=真偽不明の怪しいもの
 キツネに化かされないために
 眉に唾をつけるとよい
 キツネに化かされるのは
 眉毛の数を読まれるから・・・
 真偽の疑わしいものを
 「眉唾物(まゆつばもの)」
 イソップ
 鴉が大きな肉をくわえて高い木にとまった
 食べようとしたときに
 狐に声をかけられ
 容姿を褒められ
 鴉は肉を食べることを忘れ
 聞き入ってしまい
 狐が
 「きっと素晴らしい声をしているんだろうなあ
  ああ、声を聞いてみたい」
 と言うと、
 鴉は「カー」と高らかに鳴き
 くわえていた肉を落とし
 下にいた狐の口に収まってしまった・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

 2648日目・・・偏見とか、誤謬とか、誤解とか、詭弁とか・・・「かはむし=皮虫・烏毛虫=毛虫=加波牟之」・・・「虫(烏毛虫)愛づる姫君」をメ摺る「右馬佐(うまさ)の物語」・・・

?・・・ゲジゲジ眉毛の御ヒメさま・・・
 かわむし=皮虫・毛虫の古名
      十巻本和名抄(934頃)
      八「烏毛虫 兼名苑云髯虫 一名烏毛虫〈加波牟之〉」
      堤中納言(十一〜十三世紀)
      虫めづる姫君
     「かはむしは毛などはをかしげなれど」
ーーーーー
 ケムシ(毛虫)
 チョウ(蝶)やガ(蛾)の幼虫のうち
 毛や棘が生えているもの
 ガ(蛾)類の幼虫で毛が多いもの
 少々毛の生えた
 イモムシと明確な区別はない
 ↓↑
 有毒な種でも
 すべての毛に毒があるわけではなく
 毛の目立たないものにも有毒種がある

 ドクガ科でも
 マイマイガのように
 1齢幼虫の時期しか毒針毛を持たない種類や
 ヒメシロモンドクガ、 スギドクガ、エルモンドクガ
 ダイセツドクガ、カシワマイマイ
 などのようにドクガ科でありながら

ーーーーー
 兼愛
 兼(ひろ)く愛する・・・兼ねて愛す
 ↓↑
 「ムシ、めでる ヒメ」
 「無染、め出る 秘め」・・・?
 ↓↑
  堤  中  納言 物 語
 (つつみちゅうなごんものがたり)
 ↓↑
  藤 原    兼 輔・・・兼(ひろ)く
 (ふじわら の かねすけ) 輔(たすける)
               補(おぎなう)
               裨(おぎなう)
       裨益(ヒエキ) · 裨補(ヒホ)
              匡輔(キョウホ)・公輔(コウホ)
              宰輔( サイホ)・左輔(サホ)・師輔(シホ)
             唇歯輔車・・・輔車=頬骨と歯茎・上下の顎
                       車の添え木と車
           西周春秋戦国時代
           晋の献公が
           虢(カク)を
          ↓↑   「虢=寽+虎」の
            異体字「𣂭・郭・𧇛」
 ↓↑       ↓↑      ↓↑
          ↓↑      郭務悰=天武天皇
                  則天武后の縁者⇔
                  生年 武徳七年一月二十三日
                      (624年2月17日)
                  没年 神龍元年十一月二十六日
                      (705年12月16日)
                  姓・諱=媚娘→武照(武曌)
                  父 武士彠
                  母 楊夫人
          滅ぼすために  ↓↑
          虞(グ)に・・・虞=虍+呉
          ↓↑     虍+吴
                 虍+吳
                  通仮字「吴」
                  異体字「𠈌・𡑾」
                  蜈蚣(むかで・百足)
                  蜈=虫+吴=虫+吳
                  異体字「𧌀」
                  螻蛄(おけら)
 ↓↑       ↓↑     虞=おそれ・グ
                 おそれる・うれえる
                 おもんぱかる・あざむく
                 あやまる・のぞむ・たのしむ
                 心配・懸念・不虞・憂虞
                 善良な風俗を害する虞
 ↓↑       ↓↑     懼(ク)
          賄賂で通行許可を求めたが
          虞の賢臣が
         「虢と虞は一体であり、
          虢が滅びたら虞も滅びましょう
          諺にも"輔車相依り、
              唇亡ぶれば歯寒し"
          と申します」と虞公を諫めた・・・
 ↓↑       ↓↑   ↓↑ ↓↑
          郭務悰=天武天皇
          唐人、朝散大夫・上柱国
          唐の官吏・「白村江の戦い(663)」後
          処理のため唐の
          百済(くだら)鎮将
          劉仁願の命で
          天智天皇三年(664)来日
          朝廷から正式の唐使とみとめられず帰国
          翌年(665)
          唐使劉徳高とともに来日
          天智天皇八年(669)・・・???
          来日
          天智天皇十年(671)
          百済
          沙宅孫登らとともに総勢2000人で来日
          672年
          天智天皇十一年
          天皇の死後
          甲冑・弓矢
          絁・布・綿
 ↓↑       を与えられて帰還・・・?
 元慶元年(877年)
 〜
 承平3年2月18日(933年3月16日)
 平安時代中期の公家・歌人
 藤原北家
 右中将・藤原利基の六男
 ↓↑
 父  藤原利基
 母  伴氏
 妻  藤原定方の娘
 女子 藤原桑子(醍醐天皇の更衣)
 ↓↑
 賀茂川堤に邸宅があったので
 堤中納言と号
 外戚
 醍醐天皇
 義父の
 定方の庇護を得て高官に昇った
 ↓↑
 従兄弟で
 妻の父である
 三条右大臣
 藤原定方
 とともに当時の歌壇の中心的な人物
 紀貫之
 凡河内躬恒
 など多くの歌人が邸宅に集まった
 ↓↑
 小倉百人一首では
 中納言兼輔
 三十六歌仙の一人
 ↓↑
 みかのはら
 わきてながるる
 いづみがは
 いつみきとてか
 戀(こひ)しかるらむ
 ↓↑
 みかの原
 わきて流るる
 泉川
 いつ見きとてか
 恋しかるらむ
  『新古今和歌集』恋・996
   小倉百人一首  ・27番
 ↓↑
 みかの原から
 湧き出て
 流れる泉川
 一度も逢ったことがないのに
 こんなに恋しいのか
 ↓↑
 「瓶原(みかのはら)」=山城国京都府)南部
 相楽(そうらく)郡
 加茂町(かもちょう)を流れる
 木津川の北側の一部
 聖武天皇の時代
 恭仁京(くにきょう)が置かれた
 ↓↑
 「わき」=四段動詞「分く」の連用形
      「分けて」
      「分き」と「水が湧く」を掛けた
      「湧き」は「泉」の縁語
 「分けて流れる」と「湧き出て流れる」
 を兼ねた
 ↓↑
 「泉川」=木津川
 ↓↑
 「いつ見きとてか」
 「き」は過去の助動詞
 「か」は疑問の係助詞
 「いつ逢ったというのか
  逢ったことは無いのに」
 ↓↑
 「恋しかる」は形容詞「恋し」の連体形
 「らむ」は推量の助動詞
 「恋しいのだろうか」
 ↓↑ ↓↑
 平安時代後期以降
 (文永八年・1271年以前の成立)
 に成立した短編物語集
 編者は不詳
 十編の短編物語
 1編の断片
 成立年代や筆者はそれぞれ異なり
 遅いものは13世紀以後の作品・・・
 「堤中納言」という人物は登場しない
 ↓↑
 「逢坂越えぬ権中納言
 「花桜折る少将(中将)」
 「蟲愛づる姫君」
 「このついで」
 「よしなしごと」
 「はなだの女ご(花々の女ご)」
 「はいずみ」
   ・・・『古本説話集』第十九段「平中事」
       狂言「墨塗」
       大名と別れる女が
       水を目につけて泣くまねをするので
       太郎冠者が
       水を墨に入れ替えると
       女の目の縁が真っ黒になる
       墨塗=情報の封殺
       墨塗り教科書=記述の一部を
              墨で塗りつぶした教科書
       国家主義や戦意を鼓舞する
       内容を抹消させた
       全行に抹消線が引かれたものも
      「国防軍備等ヲ強調セル教材」
      「戦意昂楊ニ関スル教材」
      「国際ノ和親ヲ妨ゲル慮アル教材」
       などを削除したり
       黒く墨でぬりつぶしたりした
 「ほどほどの懸想」
 「貝合はせ」
 「思はぬ方にとまりする少将」
 未完断片
 ↓↑
 完全変態
 幼虫が成虫になる際
 動能力を著しく欠いた
 蛹(さなぎ)と呼ばれる形態をとり
 蛹から脱皮して

 成虫が現れる
 ↓↑
 卵→(孵化)→幼虫→(蛹化)→蛹→(羽化)→成虫
 ↓↑
 チョウ、ハチ、ハエ、甲虫などが該当
 昆虫類の中でも
 二畳紀以降に出現した
 進化の進んだ種族
 完全変態をする現生の昆虫の中では
 シリアゲムシが最も起源の古い分類群
 蛹は昆虫類独自の形態で
 他の動物には同様の形態は見られない
 ↓↑
 完全変態を行う種の幼虫は
 成体と全く異なった形態を持つ場合が多い
 イモムシ型
 ジムシ型
 などの幼虫
 節足動物の原初的な形態に近い
 幼虫と成虫では
 生活の場所や食物が全く違う場合も多
 幼虫は地中や木材中に住むが
 成虫は地表や樹上に住む
 幼虫は木や草の葉を食べるが
 成虫は花の蜜を吸う
 ↓↑ 
 蛹
 成虫の外観のみを象った鋳型のような姿
 裸蛹(らよう)
 ↓↑
 チョウ目の成虫の多くは
 胴体に比べて大きい
 前翅・後翅を持つが
 蛹のステージにおいては
 他の分類群のものと同様に
 翅が縮められて
 胴体の側面に密着した状態にあり
 蛹の形状を一見しただけで
 成虫の形状を知るのは難しい
 ハエ目の蛹の多くは
 成虫とまるで似ていないように見えるが、
 これは彼らが蛹化の際脱皮せず
 幼虫の外骨格がそのまま硬化して
 繭の代わりとなり
 その内側で実際の蛹化が行われる
 ↓↑
 蛹は短い糸を出して体を固定したり
 土・排泄物・自ら吐き出した糸などによって
 繭(まゆ)を作って
 その中に入ったりするものが多い
 全く動かず、休眠しているように見えるが
 体内では
 幼虫の体を構成していた
 諸器官が食細胞の働きにより
 一旦分解され
 幼虫期に摂取し備蓄した栄養分を用いて
 成虫の体を形作る基となる部位
 「成虫原基」を中心に
 新しく形態形成が行なわれる
 ↓↑
 蛹を経ず
 幼虫が
 直接成虫に変態することを
 不完全変態という
 昆虫の基本的な変態様式で
 この場合の幼虫は
 完全変態をするものと
 区別するため
 通常は
 「若虫(じゃくちゅう、わかむし)」
 と呼ばれ
 セミ(蝉・蟬・せみ)・・・世見
 カマキリ(蟷螂・螳螂・かまきり)
         ・・・鎌 切り・杜父魚
 トンボ(蜻蛉)・・・・秋津・安芸津阿木
 バッタ(飛蝗・蝗)・・貼った・張った
            場った・話った
 ゴキブリ(蜚蠊・御器噛(ごきぶり))
     「御器=ふたつきの椀嚙(かぶ)り」の転
      蜚=非+虫
      蠊=虫+廉=虫+广+兼
             ・・兼(か)ねる
・・兼(ひろ)く
            ・・・兼愛(ケンアイ)
 など
ーーーーー
 ・・・ムシ、「蜚蠊」を「兼愛する」って???・・・
 墨家主義・・・?
 ゴキブリ=芥虫(アクタムシ)=角虫(ツノムシ)・・・
 「御器所(ごきそ)」って名古屋だけれど・・・
 名古屋、大須の「ごきぶり」はデッカかった・・・
 「ネズミ」もネコぐらいデッカかった・・・
ーーーーー
 虫めづる姫君
 虫愛づる姫君を愛ずる右馬佐の物語
 ↓↑
 この姫君ののたまふこと、
 「人々の、花、蝶やとめづるこそ、
  はかなくあやしけれ。
  人は、
  まことあり、
  本地たづねたるこそ、
  心ばへをかしけれ」
 とて、
 よろづの虫の、恐ろしげなるを取り集めて、
 「これが、成らむさまを見む」
 とて、さまざまなる籠箱どもに入れさせたまふ。
 中にも
 「烏毛虫の、
  心深きさましたるこそ
  心にくけれ」
 とて、明け暮れは、
 耳はさみをして、
 手のうらにそへふせて、
 まぼりたまふ。」
 ・・・
 「人に似ぬ心のうちは
  烏毛虫の名を・・・かはむし=皮虫・烏毛虫=毛虫
  とひてこそ
  言はまほしけれ」
  右馬佐、
 「烏毛虫に
  まぎるる
  まゆの毛の末に
  あたるばかりの人は
  なきかな」
 と言ひて、笑ひて帰りぬめり。
 二の巻にあるべし。
ーーーーー
 ・・・???・・・「二の巻にあるべし」って?・・・
 ナイ・・・

 2647日目・・・人生の変遷、履歴・・・「戦争」って、殺戮と略奪のプロセスだが・・・ゴジラか、ロケットか・・・なぜ、ダブらせるんだか・・・今夜9:00・・・怖かったのは「アンギラスの声」、そして炭鉱内での「ラドン (Rodan)の餌の古代トンボの幼虫・メガヌロン(Meganuron・メガドロン)の鳴き声」・・・やご・・・


ーーーーー
 「怨恨=エンコン=縁今」と言うコトバはあったカモ
 「愛=アイ」と言うコトバはなかったカモ
 「愛憎・憎愛」と言うコトバを発明した
 奴らは「愛」と「憎」を
 存在環境、生活状況として
 それらを「必要」としていた・・・
 「アイ」が「ゾウ」が
 それらのコトバが
 「必要」とされる「人間社会」は
 「幸福領域」ではなく、
 「災厄領域」なんだろう・・・
 「無知」は「サイワイなり」・・・
 敢えて知る必要もないから・・・・
 それがアイ
 それがゾウ
 と言うコトバが無くても
 それらの「行為自体」はあった・・・
 理屈としての
 「愛・憎」のコトバを必要とされてない
 感性としての
 「喜怒哀楽」は
 人間諸関係、人間諸生活
 生物として「底存在」していた・・・
 ↓↑
 三船敏郎のオーデション・・・
 審査員が「笑ってみてください」と
 窓の外から「早く笑え!」と囃され
 三船は
 「面白くもないのに笑えません」
 と答えた
 「笑え、と言われても、可笑しくないのに
  笑えるか」
 役者志望じゃなかったから当然だった・・・
 谷口千吉
 「俳優にはならない
  男のくせに
  面で飯を食うのは好きではない」・・・と答えた・・・
 ↓↑
 本名 三船 敏郎
 1920年4月1日〜1997年12月24日(77歳没)

 庚申 (己・壬・庚)     ⇔丁丑(癸・辛・己)
 傷官⇔(比肩・正財・傷官)沐浴⇔偏印

 己卯 (甲・ ・乙)     ⇔壬子(壬・ ・癸)
 比肩⇔(正官・  ・偏官)病 ⇔正財

 己丑 (癸・辛・己)     ⇔庚子(壬・ ・癸)
 比肩⇔(偏財・食神・比肩)墓 ⇔傷官
  午未=空亡     大運丁亥⇔偏印 81
 ↓↑
 膠州湾租借地(中国山東省青島市)出生地
   ・・・膠=にかわ・コウ
        動物の皮や骨などを
        煮つめて作った接着剤
        膠化・膠漆・にかわする・にかわで接合
        つく・ねばりつく・かたくくっつく
        膠着(コウチャク)
        かたい・質がかたい
        もとる・あやまる
        膠膠=動き乱れるさま
 後
 「俳優は人間の屑ではない。
  人間の宝石が俳優になるのだ。
  何故なら神なくして人間を創造するには
  人間の屑では出来ないはずだ」
 と俳優業を・・・
 「私は日本と日本人のために
  これからも
  正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく」
 「シュークリームをつくること」
 「同じ日本人なのに何でいじめるんだ。
  俺は俺の階級を忘れる。
  お前もお前の階級を忘れて俺と勝負しろ」
 「男は黙ってSビール」
 世界の三船の出演を決断させる要素は
 「日本人を茶化さない」
 ・・・by wikipedia.org/wiki/三船敏郎・・・
 ↓↑
 「墨」=黒+土=鄢+土
     異体字「墨・默・㱄・嘿」
     墨翟水墨画
     石墨(セキボク)・白墨(ハクボク)・筆墨(ヒツボク)
 ↓↑
 油煙や松煙(しょうえん)を膠(にかわ)で練り固めたもの
 それを水とともに硯(すずり)で
 すりおろしてつくった黒色の液
 ↓↑
 「書画(毛筆で書いた文字と絵画)・書画を書く事
 「けがれる
  (清らかさ、純粋さ、神聖さなどが損なわれてる)」
 「よごれる」
 「だまる(黙)」
 「すみなわ(大工が直線を引くのに用いる道具)」
 「うらかた(占いに用いた亀の甲羅の割れ目)」
 「周代の長さの単位・五尺・約113センチメートル」
 「五刑の1つ・入れ墨の刑」
 「墨家(ボッカ・戦国時代の墨子の思想」
 「墨子(ボクシ・墨守)」
 「隅田川の墨堤、墨東」
 「墨西哥(メキシコ)」
 ↓↑
 「墨」=黒+土=鄢+土・・・黒土?・・・アフリカ
 墨魚(いか・烏賊)・・・異化・如何・医家・易化
 墨(すみ・炭・木炭)
 墨染め(すみぞめ)
 墨壺(すみつぼ)
 墨流し(すみながし)
 ↓↑
 墨子糸に泣く(ボクシいとになく)=墨子悲絲
    環境次第で
    人は善にも悪にもなると
    兼愛説と非戦論を唱えた
    墨子が嘆き泣いたという故事
    『淮南子(エナンジ)』
    「楊子(ヨウシ)
     道が幾筋にも分れているのを見て泣いた
     そこは南にも北にも行けて
     その踏み出しを誤れば
     大変な違いになるから
     ↓↑
     墨子
     まだ染まらない白の練り糸を見て
     悲しみ泣いた
     白い糸は染めようによっては
     黄色にも黒にもなり
     一旦染まってしまえば
     その色になってしまう・・・当然だが・・・
     ↓↑
     「『淮南子』注釈を施した
     高誘(コウユウ)は・・・高いところへ誘う?
     『本(もと・本)は同じなのに
      末が異なってくることを
      楊子(自利愛己・個人主義者?)
      墨子の二人は
      憐れんでいるのだ』
        ・・・ダレをアワレんでいるのか・・・?
     と述べている」・・・儒教=差別愛・・・?
     儒教は「協同体指導者の序列」ではないカラ・・・
     ・・・搾取秩序の序列・・・
     ↓↑
    「多岐亡羊(タキキュウボウ)・列子説符」
     「墨子泣絲(ボクシキュウシ)・淮南子
     「近墨必緇、近朱必赤
(墨に近づけば必ず黒く
 ↓↑ 朱に近づけば必ず赤くなる)」
 墨子兼愛(ボクシケンアイ)
 墨子薄葬(ボクシハクソウ)
 墨守(ボクシュ)
 墨汁(ボクジュウ)
 墨跡・墨蹟(ボクセキ)
 墨突黔まず(ボクトツくろまず)
      孔席暖まらず、
      墨突黔まず=多忙で落ち着かない
      (班固・文選・答賓戯)
 ↓↑
 墨名儒行(ボクメイジュコウ)
      主義主張と
      実際の実行が食い違っていること
      儒家を批判している墨家
      儒家孔子の教えに従って行動している
     (韓愈「送浮屠文暢師序」
 儒名墨行(ジュメイボクコウ)
 ↓↑
 墨客(ボッカク)
 墨痕(ボッコン)
 墨痕淋漓(ボッコンリンリ)
 墨西哥(メキシコ・Mekishiko・Mexico=メェヒィコォ
     Estados Unidos Mexicanos)
     ・・・墨(すみ)の西(にし)の哥(うた)
     哥=歌=哥+欠
       異体字「謌=言+哥=言+可+可」
       うた・うたう
       歌曲・歌劇・歌手
       やまとうた・わか(和歌)
       歌人・歌聖・詠歌
      「音調の強弱・遅速等の
       変化をつけて出す音声」
      「鳥が鳴く=鳥が歌う」
      「詩歌(和歌 ・俳句・詩など
       一定規則で書き表された文
       詩歌にリズム、抑揚をつけて読む(詠う)」
      「音律、音調をつけて音声の総称」
      「和歌・俳句・詩など
       一定規則で作られた感情表現文」
       うた=雅楽(ガガク)
      「和歌(日本固有の規則の詩歌の表現文
       長歌・短歌・旋頭歌
       うたう=歌・唄・詠・謡・謳」
       詩歌にリズムをつけて読む場合は
      「歌」の代わりに「詠」も使用
      「謡=能の台本(脚本)に
       節(区切り)をつけて声を出す」
      「謳=褒める・讃える・主張する
         讃歌・・・言は讃岐の歌
         (平和な世を謳う
          民主主義を謳う)」
 「歌=人が口をあけ大きな声でうたう」
    うた・うたう・カ
    欠(あくび(欠伸)・かける・けんづくり
    欠=缺=缶+夬=午+凵+ユ+人
          夬=わける・カイ・ケ
      異体字「㐸・𣣓・缺・缼・𡙇・𡚆・𥁍・𦈫」
    欠=缺=かける・かく・あくび・ケツ・ケン
      ユ=愉・愈・癒・諭・喩・楡・由・柚・油
      ユ=諛=へつらう・おもねる
      諛( ユ)=言+臾
      臾=ひきとめる・しばらく・ュ・ヨウ
        しばらく・わずかの
        須臾(シュユ)
        すすめる・そそのかす
        縦臾(ショウユ)
      臾=𦥑+人=臼人
        異体字「㬰・𠒍・蕢・䕚・蒉
            𤆂・𧂟・𧸋」
      謟(テン)=言+舀
           ・・・舀=爫+臼=くむ・ヨウ
           異体字「𦥝・抭・𤔘・𦥞
               𦥟・𥦶・𦥵・ 𦥨」
           𦥨⇔咽喉
      諂(テン)=言+臽
      謟・・・諂諛(テンユ)・讒諂(ザンテン)
     六韜三略・・・韜=革の矢袋
      稲=稻・水稲陸稲=米
      稲作・稲妻・稲光・稲穂
      稲荷(いなり)・稲熱病(いもちびょう)
      粳稲(うるしね)・陸稲(おかぼ)
      晩稲(おくて・おしね)
      税稲(ちからしね)・中稲(なかて)
      稲架(はさ)・早稲(わせ) 
 ↓↑
 「墨」
 すみ・すみでかいたもの
 墨汁・水墨
 きたない・むさぼる
 墨吏・墨子
 墨家墨守
 隅田(墨田)川
 墨堤
 墨西哥(メキシコ)
 米墨(アメリカ・亜墨利加・亜米利加・米利堅)
 遺墨(イボク)
 朱墨(シュボク)
 縄墨(ジョウボク)
 水墨(スイボク)
 石墨(セキボク)
 白墨(ハクボク)
 筆墨(ヒツボク)
ーーーーー
 水蠆=やご=陽侯⇔秋津・安芸津・蜻蛉・とんぼ・Dragonfly
  蠆=萬+虫

 ・・・???・・・
 墨子(ボクシ)
 紀元前470年〜紀元前390年頃?
 中国戦国時代の思想家
 魯の人
 墨家の始祖
 差別が無い博愛主義(兼愛)者
 「墨子十大」主張を説く
 諱は翟(テキ・羽+隹)
 儒学の仁の思想を差別愛とし
 墨家集団と呼ばれる学派
 ↓↑
 墨(すみ)を使う工匠
       入れ墨をした囚人などの諸説・・・
 司馬遷の「史記孟子荀卿列伝」
 墨子についての記述で
 「蓋し墨子は宋の大夫なり」
 (宋の高官)などと憶測
 著書『墨子』(53篇現存)
 大部分は墨子の弟子によって編まれた
 一部が散逸
 ↓↑
 第一構成
 「親士」「修身」「所染」「法儀」
 「七患」「辞過」「三弁」
 断想集
 ↓↑
 第二構成 「尚賢」「尚同」「兼愛」「非攻
 「節用」「節葬」「天志」「明鬼」「非楽」
 「非命」「非儒」「十論」
 墨子の主要論考
 ↓↑
 第三構成 「経上」「経下」「経説上」
 「経説下」「大取」「小取」
 論理学の文集
 「墨弁」
 哲学、幾何学、光学等を記した論文集
 ↓↑
 第四構成 「耕柱」「貴義」「公孟」「魯問」「公輸」
 言行録、説話集
 ↓↑
 第五構成 「備城門」「備高臨」「備梯」
 「備水」「備突」「備穴」「備蛾傅」「迎敵祠」
 「旗幟」「号令」「雑守」
 他に散逸して編名が分からないもの10編
 城(市街地)を守る為の詳細かつ具体的な技術論集
 主な思想
 兼愛・非攻
 諸侯からは敬遠
 兼愛
 兼愛とは
 「天下の利益」は平等思想
 「天下の損害」は差別思想
 非攻
 非戦論
 「人一人を殺せば死刑なのに、
  なぜ百万人を殺した将軍が
  勲章をもらうのか」
 ↓↑
 墨子の没後
 墨家集団は三墨、三つの集団に分裂
 秦帝国成立後
 各種文献から墨家集団の記述は
 歴史上から消滅
 焚書坑儒秦帝国思想統制
 一気に消滅
 漢代
 墨家と対立していた儒家が一大勢力となり
 墨家は思想排斥
 後、清末の動乱期に
 墨子思想は
 キリスト教の思想に酷似
 「墨弁」の科学的な内容
 孫詒譲、清末の学者らによって
 墨子の思想は再評価
 ↓↑
 墨子の出身地
 濫邑(山東省棗荘市滕州市)
 or
 魯陽(河南省平頂山市魯山県)
 ↓↑
 墨家
 諸子百家の一
 博愛主義(兼愛交利)を説き
 武装防御集団として各地の守城戦で活躍
 秦の中国統一ののち勢威が衰え消滅
 ↓↑
 基本思想(墨家十論)
 実用主義的で
 秩序の安定や労働・節約を通じ
 人民の救済と国家経済の強化をめざす
 論の展開方法として比喩や反復を多用
 兼愛、非攻の思想は稀有な思想
 兼愛
 兼(ひろ)く愛する・・・兼ねて愛す
 全ての人を
 公平に隔たり無く愛せよという教え
 儒家の愛は
 家族や長たる者のみを
 強調する「偏愛」として排撃
 非攻
 戦争による
 社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難
 他国への侵攻を否定
 ただし防衛のための戦争は否定しない
 墨家は土木、冶金といった
 工学技術と
 人間観察という二面より
 守城のための技術を磨き
 他国に侵攻された城の防衛に
 自ら参加
 尚賢
 貴賎を問わず賢者を登用
 「官無常貴而民無終賤
 (官に常貴無く、民に終賤無し)」
 平等主義的・・・
 尚同
 賢者の考えに
 天子から庶民まで
 社会全体が従い
 価値基準を一つにし
 社会秩序を守り
 社会を繁栄させること
 節用
 無駄をなくし
 物事に費やす金銭の節約
 節葬
 葬礼を簡素にし
 祭礼浪費を防ぐこと
 儒家の祭礼重視と対立
 非命
 宿命論を否定
 主体性論
 非楽
 悦楽、舞楽は否定
 音楽自体は肯定も否定もしない
 天志
 上帝(天)を絶対者として設定し
 天の意思は
 人々が正義をなすことだとし
 天意にそむく
 憎み合いや争いを抑制
 明鬼
 善悪の賞罰を与える鬼神の存在を主張し
 争いなど悪い行いを抑制
 鬼神否定の儒家対立
 組織
 墨家集団は
 鉅子(キョシ)と言う指導者の下で
 強固な結束
 『呂氏春秋』によれば
 楚において
 守備していた城が落城した責任をとって
 鉅子の孟勝以下、墨者400人が集団自決
 城から脱出して孟勝の死と鉅子の引継ぎを
 田襄子に伝えにいった使者の墨者二人も
 楚に戻って後追い自殺・・・
 墨家集団は宗教集団的・・・
 歴代鉅子
 墨子呂氏春秋等の鉅子の名前
 『荘子』・天下篇
 墨家
 相里氏
 と
 訒陵氏の二派に分れ
 互いに「別墨」と非難した・・・
 『韓非子』・顕学篇
 前二派に加え
 相夫氏もある・・・
 墨子…初代
 禽滑釐(キンコツリ)…二代目
     ・・・禽=𠆢+离
         =𠆢+亠+凶+禸
         =𠆢+亠+凵+乂+ム+冂
          とり・とらえる・いけどる
          とりこにする・キン
          鳥類の総称・家禽・猛禽・鳥や獣類の総称
          禽獣・小禽・水禽・鳴禽・猛禽・野禽
          禽獲・擒(キン)
      説文解字⇔走獸の緫名也
           厹に従ひ・・・厹=九+ム=蹂の正字
                  狐狸の類の足迹
                  厹=禸
                  厹矛=三叉の矛
                  圧倒する?
           今(キン)を聲とす
           禽、离(リ)、兕(ジ)は
           頭相ひ似たり
        滑=氵+冎+冃(月・肉)
           冎=骨・削る・穴にはまりこむ関節の骨
           異体字「剮・叧」・関節・骨・肩甲骨
           冎+口=咼=拐・骨
      説文解字⇔冎=剔人肉置其骨也・頭隆骨也
             凡冎之屬皆从冎
      段注⇔剔當作𩮜・解也
         其周禮膊之、焚之、辜之之㓝與。
      列子(湯問)⇔曰、炎人之國、其親戚死、
         冎=其肉而棄之・刀部無剔字・冎俗作剮
         冎+α=渦・過・禍
         まるい・めぐる・渦・カ
         水中のうずまきめぐっている所
         渦中(うずまきの中・もめごと・ごたごた)
         蝸牛=蝸牛・蝸=かたつむり
        滑
        異体字「猾・抇・磆・㹟・狤・狯・獪」
        すべる・なめらか・ぬめる
        カツ(クヮツ)・コツ
        なめらかで滞りがない
        円滑・潤滑・平滑・円転滑脱
        滑空・滑降・滑車・滑走・滑落
        秩序を乱す・まぜ返してすべる
        釐
        釐=𠩺+里=未+攵+厂+里(田十一)
          おさめる・ あらためる・たまう・あたえる
          やもめ・リ
          釐正・釐定
          リン=単位の名・分(ブ)の十分の一
          きわめてわずか・毫釐(ゴウリ)
 孟勝…三代目
 田襄子…四代目
ーーーーー
 ・・・???・・・墨子=ボクシ=牧師・牧之・牧史・朴子・・・
 墨=囗(くに・囲い・エ・イ)の中の十(十字架)で
   烈火に焼かれる
   十(十字架・磔刑)の一(はじめ)
 子=了と一=終始・始終
 ・・・

 2646日目・・・忠臣蔵・・・播州赤穂浪士、吉良屋敷へ討ち入り・・・恨みではない理屈(儒教?)での集団テロ殺人事件・・・「復讐の連鎖」の規制・・・「問題を武力で解決(故戦防戦)しようとしたら双方を処分」・・・観応三年(1352年)九月十八日に室町幕府が定めた「建武式目追加第六十条」・・・「不論理非(理非を論ぜず)」双方喧嘩両成敗?の片手落ち・・・「元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)未明に本所・吉良邸への討ち入り」・・・「nearly(ni(ə)rlē・ニアリー)=似蛙理意」=「Hotondo

 以下も以上も「These are nearly Wikipedia」・・・???
ーーーーー
 It's nearly half past six.
 ほとんど・ほぼ・大体
the person most nearly concerned.
 最も関係の深い人…?…nòt néarly
 We are nearly there.
 目的地までもうすぐダ・・・
 It's about right [finished].
 いいかげん・ちょっと
 I'm about tired of their talk.
  彼の話にいいかげんうんざりだ

 「most(mōst)」=Mottomo
  数・量・程度など
 もっとも多い・最大多数の・最大量の・最高の
 Most→おおよその〜・大抵の〜・大概の〜
 Most of→限定された
     〜のほとんど・〜の大部分・〜の大半
 (米略式)ほとんど
  almostの短縮形で
  時にmostとも書く
    all, always, any, every
  などの語を修飾する
    most everyday
    ほとんど毎日
    most anybody
    ほとんどだれでも
 almost=副・ほとんど、九分どおり、大体
     一種の、匹敵する、いまいち
     もう少しで完全に至る状態
     ɔ́ːlmoust=オールモーストゥ
 almost' の後に続けて
  'all' のような程度を表す形容詞が必要
 Almost all Japanese people

 「ほとんど〜ある」= all,every,always など
 「ほとんど〜ない」= no,none,nothing,never など
 Almost no one knows about it.
 「それについてはほとんど誰も知らない」
 almost(副詞)は名詞と一緒に使えない・・・
ーーーーー
 寇抄
 寇
 あた あだ あだする
 外から侵入して害を加える賊
 外寇・元寇倭寇(わこう)
 外から攻めこむ・あだする
 侵寇・入寇・ 来寇

 三別抄(サンベツショウ)
 高麗王朝の軍事組織
 崔氏政権(武臣政権)において
 林衍(イム・ヨン)ら
 時々の実権を握った者の
 私兵として
 しばしば政敵の暗殺やクーデターの
 ための武力として用いられた
 「別抄」とは、別に組織された「抄」という意味
 「抄」とは没収すること
    反乱を起こした地域へ派遣され
    反乱を鎮圧したのち
    没収した財産を分け与えられる
    臨時の軍組織
    国内の反乱鎮圧などのための
    臨時編成される組織
    侵寇=他国や他の領土に侵入し
       害加えること
 「抄(すくう・すく・ショウ・セウ)」
  長い文章などの一部を書き出すこと
  ぬきがき
 「かすめる(すばやく盗む)」
 「さじですくい取る」
 「うつす(写)」、「書き写す」
 「書き写したもの」
 「長い文章などの一部を書き出す事 

 すくい取る・かすめ取る・抄掠 (ショウリャク) 
 書き写す・手抄
 抜き書きする・抜き書き
 抄出・抄本・抄訳・抄録・詩抄
 注釈書・抄物 (ショウもの) 
 紙をすく・抄紙・抄造
 「鈔」と通用
ーーーーー
 安帝=東アジアの皇帝の諡号の一
 ↓↑
 孝安天皇(日本足彦国押人尊・第六代天皇
 ↓↑   日本足彦国押人天皇
     (やまとたらし
         ひこくにおしひと)『日本書紀
      大倭帯日子国押人命
     (おおやまとたらし
         ひこくにおしひと)『古事記
      孝昭天皇の第二皇子
      母は
      尾張連祖の
      瀛津世襲(奥津余曽)の妹の
      世襲足媛
      同母兄は
      和珥臣祖の
      天足彦国押人命
     (あめたらしひこくにおしひとのみこと
      天押帯日子命)
      在位紀元前392年〜紀元前291年)
                 大彦命…阿部
 ↓↑              ↓↑
 6孝安天皇→7孝霊天皇→8孝元天皇→9開化天皇
            ↓↑
            倭迹迹日百襲姫命
            吉備津彦命
            稚武彦命
           (わかたけひこ)
 ↓↑         ↓↑
 安帝 (漢・劉祜、在位106年〜125年)
    後漢
    第六代皇帝
    諡号 孝安皇帝
    第三代皇帝
    章帝の孫
    父は清河孝王劉慶
    母は側室の左小娥
 ↓↑
 『後漢書
 「和帝紀」・・・倭帝紀・話提起?・・・話綴記?
  ↓↑↓↑
 和帝(ワテイ)
 ↓↑ 後漢
    第四代皇帝
    諱は劉肇
    章帝の・・・第三代皇帝(第二代明帝の子)
    ↓↑    ↓↑    建武四年五月四日
          ↓↑     (28年 6月15日)
    四男    劉炟
          諡号 孝章皇帝
          ↓↑
          建武中元二年(57年)
          〜
          章和二年二月三十日
    ↓↑     (88年4月9日)
    母は梁貴人 ↓↑
    平原
    懐王
    劉勝    ↓↑
    殤帝の・・・殤帝
    父     後漢の第五代皇帝
 ↓↑ ↓↑    後漢の第四代皇帝和帝の
          多くの皇子は夭折
          宦官、外戚による謀殺の
          疑惑を抱いた和帝は
          皇子を民間で養育
          元興元年(105年)十二月
          和帝が崩御
          長子の劉勝は病気で
          即位が見送られ
          劉隆が宮廷に迎えられて
          皇帝に即位
          劉勝は殤帝即位と共に
          平原王に立てられた
          殤帝は生後100日余りであり      
          朝政は外戚
          蠟氏(和帝の皇后だった蠟綏と
             その兄の車騎将軍蠟騭)
          により掌握され
          翌延、平元年(106年)八月辛亥
          病気により崩御
          夭折を意味する
         「殤」を諡号に贈られた・・・
          中国歴代皇帝の最年少の皇帝だった
 ↓↑ ↓↑    ↓↑
    建武中元(ケンブチュウゲン)
    後漢
    光武帝・劉秀の治世
    2番目の元号・56年〜57年
   『後漢書』の光武帝紀では
   「中元」
    祭祀志・東夷伝(倭伝)では
   「建武中元」
   「中元」は「建武中元」の省略・・・
    元年二月
    泰山で封禅の儀
    四月
    建武三十二年を
    建武中元元年と改元
    ↓↑
    建武二年一月
    倭奴国王の使者が来朝
    印綬を授ける
    建武二年二月
    光武帝崩御
    明帝、劉荘が即位
ーー↓↑ーー
 「建(たける)と武(たけし)」
 ・・・日本武尊
 ・・・ α+武天皇
 中国
 元号の考察
 ↓↑
 始元(シゲン)
 前漢元号・昭帝-劉弗陵の初元
 ↓↑
 本始(ホンシ)
 前漢・宣帝・劉詢の最初の元号
 紀元前73年(戊申)〜紀元前70年(辛亥)
 ↓↑
 建昭(ケンショウ)
 前漢元帝・劉奭(リュウセキ)の三番目の元号
 紀元前38年(癸未)〜紀元前34年(丁亥)
 ↓↑
 建始(ケンシ)
 前漢・成帝・劉驁の最初の年号
 紀元前32年(己丑)〜紀元前29年(甲午)
 ↓↑
 建平(ケンペイ)
 前漢哀帝・劉欣の最初の年号
 紀元前6年(乙卯)〜紀元前3年(戊午)
 ↓↑
 始建国(シケンコク)
 新の王莽の最初の元号
 9年(己巳)〜13年(癸酉)
 前年の漢の
 初始元年12月を正月として始められた
 漢字3文字の元号の初出
 ↓↑
 更始(コウシ)・・・更(さら)が始(はじめる)
          ・・・沙羅・讃良=持統天皇
 新王朝末、後漢
 劉玄(更始帝・淮陽王)が建てた元号
     ・・・淮(ワイ)陽(ヨウ)王(オウ)・・・和意・濊
 劉玄の更始朝は統一政権ではないが
 更始の年号は
 『後漢書』などの紀年に使用
 23年(癸未)〜25年(乙酉)
 ↓↑
 建武(ケンブ)・・・兼務の中古得・・・建武中興(1334年)
 後漢光武帝・劉秀の最初の元号
 25年(乙酉)〜56年(丙辰)
 建武三十二年(56年)は
 四月に改元
 建武中元元年・・・兼務の忠言・中間?
 となった
 ↓↑
 建武中元(ケンブチュウゲン)
 後漢光武帝・劉秀の2番目の元号
 56年(丙辰)〜57年(丁巳)
 ↓↑
 建初(ケンショ)
 後漢の章帝・劉炟の最初の元号・・・章帝=ショウテイ=章綴
 76年(丙子)〜84年(甲申)
 ・・・丙(火)の子(鼠)・甲(木)の申(猿)
 建初九年は、八月に改元され
 元和元年となった
 ↓↑
 建光(ケンコウ)
 後漢の安帝・劉祜の4番目の元号
 121年(辛酉)〜122年(壬戌)
 ↓↑
 永建(エイケン)・・・・英検・映研・嬴縣
 後漢の順帝・劉保の最初の元号    ↓↑
 126年(丙寅)〜132年(壬申)    ↓↑
 ↓↑ 桧枝の虎・・・・壬申の乱天武天皇
檜枝・日野江・・壬辰・人身・人神・人臣
    陵所 檜隈大内陵      ↓↑
    諱 大海人(おおあま)  ↓↑
    別称 天渟中原瀛真人天皇・・瀛
        浄御原天皇
 ↓↑ ↓↑  ↓↑
    秦始皇帝
    初代(31代)皇帝(秦王)
    在位 前247年五月丙午〜前210年七月丙寅
              丙午〜 丙寅
    都城 咸陽
    姓   嬴
    諱 政
 ↓↑
 建康(ケンコウ)
 後漢の順帝・劉保の5番目の元号
 144年(甲申)
 ↓↑
 本初(ホンショ)・・・本初=ホンショ=本書・本所・本史和
 後漢の質帝・劉纘の元号・・・質帝=質綴?
 146年(丙戌)
 ↓↑
 建和(ケンワ)
 後漢桓帝・劉志の最初の元号・・・・桓帝桓武天皇
 147年(丁亥)〜149年(己丑)
 ↓↑
 和平(ワヘイ)・・・平安時代の平和?
 後漢桓帝・劉志の2番目の元号
 150年(庚寅)
 ↓↑
 建寧(ケンネイ)
 後漢霊帝・劉宏の最初の元号
    ・・・霊帝=宮殿内で商人のまね
          熹平石経の作成
          売官・宦官       
 168年(戊申)〜172年(壬子)
 建寧五年は五月に改元され
 熹平元年となった
 ↓↑
 建安(ケンアン)・・・懸案・検案?
 後漢献帝・劉協の3番目(永漢を除く)の元号
 196年(丙子)〜220年(庚子)
 建安二十五年は三月に改元され
 延康元年となった
 ↓↑
 蜀漢では
 次の元号
 延康の正統性を認めず
 建安を二十六年(221年・辛丑)まで使った
ーー↓↑ーー
 光武帝25〜57
  ↓
 →明帝57〜75
 →章帝75〜88
 →和帝88〜105
 →殤帝105〜106
 →安帝106〜125
 →少帝懿125
 →順帝125〜144
 →沖帝144〜145
 →質帝145〜146
 →桓帝146〜167
 →霊帝167〜189
 →少帝弁189
 →献帝189〜220
ーー↓↑ーー
 和帝
 幼少時は継母の
 竇太后と・・・竇=穴+賣=穴+𧶠
        (あな・あなぐら・
         くぐり戸・みぞ・トウ)
        通仮字「瀆」
        異体字「窦・𥩐・𤅋・𥥨・𥥷・𤀨」
        簡体字「窦」
 竇憲(トウケン・?〜92年)ら
 竇一族の専横を許していたが
 成長し
 実権を自らの元に取り戻そうと考えたが
 竇憲らは和帝を害そうと画策
 察知した和帝は
 に竇氏誅滅を
 宦官の
 鄭衆・・・鄭の衆
 ↓↑・・・鄭=奠+阝=酋+大+阝=八+酉+大+阝
       =ねんごろ・かさねる・ていねい
        テイ・ジョウ
        奠鄭擲躑磸䥖㞟橂㽀
        酋=丷+酉=八+酉
          おさ・かしら・シュウ
          通仮字「就」
          異体字「醔・篘・𥬠・𥭛・𥮢・𨡲」
          酋+α=「𡞜・緧・遒・猶・趥・揂
             蝤・鰌・猷・輶・楢・𧤕・𪓰」
             ・・・猶太
      衆=血+乑
       =おおい・シュ・シュウ
        簡体字「众」
        異体字「乑・㐺・𠍸・𠱧・𡿻
 ↓↑         眾・𥅫・众」
 を用いて計画
 92年(永元四年)
 竇憲を宮廷内におびき出し
 大将軍の印綬を取り上げ
 実権を剥奪、領地において自殺を命じた
 和帝は政治の実権を取り戻し
 鄭衆は
 鄲郷侯に封じられ
 大長秋の官を授けられた
 和帝はその後も鄭衆を信任
 以後
 宦官が政治に深く関わるようになった・・・
 ↓↑
 和帝が若くして死去
 幼帝の補佐として
 和帝の皇后
 蠟氏の一族が
 外戚として政治の実権を握る
 幼帝が続き
 外戚勢力と宦官勢力との間で
 争った
 西域で
 永元六年(94年)
 50余国が後漢に従う
 西域都護である
 班超個人の力量に拠る
 班超が中央に召喚され
 後漢の西域における影響力は衰えたが
 匈奴の内紛に助けられ有利に進めた
 ↓↑
 班固
 班昭
 兄妹による
 『漢書』の編纂(永元4年(92年)
 班固の死後、班昭が完成
 永元十七年(105年)
 蔡倫による製紙法の改良
 ↓↑
 和帝の
 生母の
 梁貴人
 は宮廷内での争いの中で
 章帝の皇后
 竇氏によって殺され
 建初七年(82年)
 3歳で皇太子
 ↓↑
 章和二年(88年)春二月
 章帝が崩御
 和帝は
 9歳で即位
 3月に
 郡と国の変更
 それぞれの諸王が
 別の封地を与えられた
 ↓↑
 和帝が幼少で
 竇太后が臨朝し
 兄である
 竇憲らと政権を握った
 ↓↑
 冬10月
 侍中であった
 竇憲を車騎将軍に任命
 北匈奴を征伐
 安息国が使者を送ってきた
 ↓↑
 永元元年(89年)夏六月
 竇憲は
 度遼将軍の
 蠟鴻
 や
 南匈奴単于と協力し
 北匈奴
 稽落山で破り
 北匈奴単于を降伏
 9月
 竇憲は大将軍に任命
 中郎将の
 劉尚が後任の車騎将軍となった
 ↓↑
 永元二年(90年)春二月
 西河と上郡の属国都尉の官が再び設置
 夏五月
 諸王の封地が変更
 北匈奴に副校尉の
 閻槃が追討に赴いた
 月氏クシャーナ朝)が
 西域長史の
 班超を攻撃し
 班超は撃退した
 秋七月
 竇憲は涼州に出兵
 九月
 北匈奴が使者を送ってきた
 冬十月
 行中郎将の
 班固が
 南匈奴単于に命令を報じ
 河雲北で
 北匈奴が破られた
 ↓↑
 永元三年(91年)春正月
 和帝は元服
 2月
 竇憲は左校尉の
 耿夔を遣わし
 金微山において
 北匈奴単于を包囲し破り
 単于の母の
 閼氏を捕虜とした
 冬十月
 和帝は長安行幸
 十二月
 西域都護、騎都尉、戊己校尉
 の官職を復活させた
 ↓↑
 永元四年(92年)春正月
 北匈奴で政変
 新たに立った単于が降伏を申し出てきた
 左校尉の
 耿夔が出向き璽綬を受け取った
 三月
 司徒の袁安が死去
 太常の丁鴻が司徒
 夏4月
 竇憲が京師に帰還
 ↓↑
 六月
 日食と地震の災害
 和帝は
 竇憲の一党を排除しようとし
 宦官の鄭衆らと策をめぐらした
 和帝は詔勅を出して
 竇憲に謀反の罪があるとし
 その与党である
 射声校尉の
 郭璜とその子である
 侍中の
 郭挙
 衛尉である
 蠟畳
 とその弟である歩兵校尉の
 蠟磊
 を捕らえ、みな獄死させた
 謁者僕射を使者におくり
 大将軍の印綬を没収し
 竇憲とその弟の
 竇篤、竇景を封国に赴かせ
 そこで自殺させた
 ↓↑
 秋七月
 太尉の
 宋由が
 竇憲に与したとして自殺させられた
 八月
 司空の
 任隗が死去
 大司農の
 尹睦が太尉・録尚書事となった
 冬1十月
 宗正の
 劉方が司空となった
 十二月
 武陵と零陵の
 漊中蛮が反乱
 焼当羌が
 金城に侵攻
 ↓↑
 永元五年(93年)春二月
 太傅の
 蠟彪が死去
 匈奴単于
 於除鞬が叛いた
 中郎将の
 任尚が派遣され討滅
 冬十月
 太尉の尹睦が死去
 十一月
 太僕の張酺が太尉
 武陵郡の蛮族の反乱は
 郡により鎮圧
 護羌校尉の
 貫友が
 焼当羌を討ち追い払った
 南匈奴単于
 反乱、敗れて斬られた
 ↓↑
 永元六年(94年)春正月
 永昌徼外の
 夷が使者を送り
 犀牛、大象を献上
 司徒の丁鴻が死去
 二月
 三河、兗、冀、青州貧民に食糧が貸し与えた
 許陽侯の馬光が自殺
 司空の劉方が司徒
 太常の張奮が司空
 夏四月
 蜀郡徼外の
 羌が使者を送ってきた
 ↓↑
 秋七月
 西域都護の
 班超は
 焉耆、尉犁を破り、その王を斬り
 西域の多くの国を降伏させた
 南匈奴単于が叛いて
 胡亡出塞
 九月
 光禄勲の
 蠟鴻が車騎将軍の代行に任命
 越騎校尉の馮柱
 度遼将軍代行の朱徽
 使
 匈奴中郎将の
 杜崇を送り南匈奴を討たせた
 冬十一月
 護烏桓校尉の
 任尚が
 烏桓鮮卑を率いて
 逢侯を大いに破り
 馮柱は追撃を加えて
 再びこれを破った
 武陵の
 漊中蛮が反乱を起こし
 郡により平定された
 ↓↑
 永元七年(95年)春正月
 蠟鴻、朱徽、杜崇
 らは皆獄に下され死去
 夏四月
 日食
 和帝は天災が続くことを憂え
 公卿を引見して意見を募った
 秋七月には
 易陽で地裂
 九月
 京師で地震
 ↓↑
 永元八年(96年)春二月
 貴人の陰氏を皇后に立てた
 国内災害はやまず、対策に追われた
 南匈奴が反逆
 秋七月
 度遼将軍代行の
 龐奮と
 越騎校尉の
 馮柱が軍を引き
 南匈奴の反乱を鎮めた
 車師後王が叛き、車師前王を攻撃
 九月
 京師で蝗が発生
 広陽郡が再び設置
 冬十月
 北海王の劉威が罪を得て自殺
 十二月
 南宮宣室殿で火災
 ↓↑
 永元九年(97年)春正月
 永昌徼外の蛮夷と撣国が奉貢
 三月
 隴西で地震
 西域長史の
 王林
 車師後王を撃ち、これを斬った
 六月
 蝗と旱
 和帝は詔勅を出して被害の救済を行った
 秋七月
 蝗蟲が京師を飛び過ぎ去った
 八月
 鮮卑
 肥如に侵攻
 遼東太守の
 祭参が獄に下され死去
 閏八月
 皇太后
 竇氏が死去
 章徳皇后とされた
 焼当羌が隴西に侵略し、長吏を殺害し
 征西将軍代行の
 劉尚と
 越騎校尉の
 趙世らがこれを討ち破った
 九月
 司徒の
 劉方が免職となり、自殺
 和帝の生母の
 梁貴人に
 恭懐皇太后が追尊
 冬十月
 恭懐皇太后を西陵に改葬
 十一月
 光禄勲である河南の
 呂蓋が司徒に任命
 十二月
 司空の
 張奮が罷免
 太僕の
 韓稜が司空
 若盧獄の官を再び設置
 ↓↑
 永元十年(98年)春三月
 和帝は政治についての詔勅
 夏五月
 京師において大水
 秋七月
 司空の韓稜が死去
 八月
 太常の泰山の
 巣堪が司空
 九月
 廩犧の官を再び設置
 冬十月
 五州において雨水
 十二月
 焼当羌の
 迷唐らが貢物を送ってきた
 ↓↑
 永元十一年(99年)春二月
 各地の災害対策として
 各地の郡国に使者を送り
 刑罰を緩め、税を免じた
 夏四月
 大赦を行った
 右校尉の官を再び設置
 秋七月
 和帝は再び詔勅を出した
 ↓↑
 永元十二年(100年)春二月
 旄牛徼外の
 白狼
 貗薄夷が内属
 災害対策の詔が再び出た
 3月
 和帝は再び詔勅を出した
 夏四月
 日南で
 象林蛮夷が叛き
 郡の兵士がこれを討ち破った
 閏三月
 敦煌、張掖、五原民の貧者に
 穀を貸し振舞った
 秭帰山が崩れた
 六月
 舞陽で大水
 被災者への救済がなされた
 秋七月
 日食
 9月
 太尉の
 張酺が免職
 大司農の
 張禹が太尉となった
 冬十一月
 西域の
 蒙奇
 兜勒
 の二国が使いを送ってきたため
 その王に
 金印紫綬を与えた
 焼当羌が再び叛いた
 ↓↑
 永元十三年(101年)春正月
 和帝は東観に行った
 二月
 張掖、居延、朔方、日南
 の貧民や孤児や寡婦
 生活困窮者向けの政策が行われた
 秋八月
 詔を出し
 農耕民に穀物を貸し与えた
 北宮盛饌門閣で火災
 護羌校尉の
 周鮪は
 焼当羌を撃破
 荊州で雨水
 九月
 詔を出し荊州での
 被災者向けの政策を表明
 冬十一月
 安息国が使者を送ってきた
 和帝は詔を出し
 幽、并、涼州
 戸口率が減ったことによる
 政策の変更を表明
 鮮卑が右北平に侵略
 漁陽まで及んできた
 漁陽太守がこれを撃破
 司徒の
 呂蓋が罷免
 十二月
 光禄勲の
 魯恭が司徒となった
 巫蛮が叛き、南郡に侵攻
 ↓↑
 永元十四年(102年)春二月
 西海郡の
 旧郡治が修復され
 金城西部都尉が駐在する
 三月
 大赦
 夏四月
 使者を遣わして
 荊州兵を監督させ
 巫蛮を撃たせ降伏させた
 張掖、居延、敦煌、五原、漢陽、会稽
 の流民に穀物を振舞った
 五月
 象林将兵長史の官職を初めて設置
 六月
 皇后の陰氏を廃立
 陰氏の父で
 特進の
 陰綱は自殺
 陰氏が
 巫蠱の術を用いたため(「皇后紀」)
 秋七月
 詔を出し、象林県の更賦を復した
 秋に三州で雨水
 冬十月
 詔を出し
 兗、豫、荊州の水害対策の命令を出した
 貴人の
 蠟氏を皇后に立てた
 司空の巣堪を罷免
 十一月
 大司農の
 徐防が司空
 郡国上計補郎の官職を初めて復した
 ↓↑
 永元十五年(103年)春閏月
 詔を出し、救貧政策を命じた
 二月
 詔を出し
 潁川、汝南、陳留、江夏、梁国、敦煌
 の貧民に
 廩を貸すことにした
 夏四月
 日食
 五月
 南陽で大風
 六月
 詔令を出した
 秋七月
 涿郡故安鉄官の官職を再び設置
 九月
 南に巡狩をし
 清河王の劉慶
 済北王の劉寿
 河間王の劉開
 を並べて従わせ
 官吏にも財貨を振舞った
 秋
 四州で雨水
 冬十月
 章陵に行き
 雲夢に進み
 漢水まで行った
 十一月
 車駕を宮み還し
 周囲の者に財貨を振舞った
 ↓↑
 永元十六年(104年)春正月
 詔を出し
 貧民に田と種を貸し与えるよう命令
 二月
 詔を出し
 兗、豫、徐、冀の四州が
 雨で被害を受け
 その対策を命令
 夏四月
 三府の掾を分けて
 四州に遣わし
 貧民を農耕に従事させるように計らった
 秋七月
 旱
 詔を出し、再び貧民対策を命じた
 司徒の
 魯恭が免職
 光禄勲の
 張酺が司徒
 詔令を出し
 今年の田租、芻稾を半減させることにした
 八月
 司徒の
 張酺が死去
 冬十月
 司空の
 徐防が司徒
 大鴻臚の
 陳寵が司空
 十一月
 和帝は緱氏に行幸
 柏岯山の上り
 百官に布を与えた
 北匈奴が使者を送り貢納
 十二月
 遼東西部都尉の官職を再び置いた
 ↓↑
 元興元年(105年)春正月
 禁中において人材吟味
 高句麗が郡界を侵略
 夏四月
 大赦を出し
 元興に改元
 宗室で罪絶となった者を
 悉く属籍に復させた
 五月
 雍で地裂
 秋九月
 遼東太守の
 耿夔は
 貊人を撃ち、これを破った
 冬十二月
 和帝は
 章徳前殿において死去
 27歳
 皇子の
 劉隆を皇太子として
 即位させ(殤帝)
 蠟氏が皇太后として
 臨朝
 宗室
 后妃
 皇后陰氏 (廃)
 和熹皇后蠟綏
 ↓↑
 安帝 (東晋・司馬徳宗、在位396年〜418年)
 安帝(南朝梁の皇族・蕭歓、子の蕭棟により追尊)
ーーーーー
 ・・・???・・・

 2645日目・・・報復も「法」にのとって、人間を「拉致拘束」・・・不法侵入で拉致誘拐する「独裁国家」、盗人は束縛しても盗んだモノを元の持ち主に返さない「民主国家」・・・「高地を除いて世界で最も亜寒帯が南下している地域」・・・極東の大陸と半島・・・ウサギの形に見える・・・アメリカは・・・「亜米利加」・・・「メリケン」を漢字で「米利堅」・・・「亜墨利加」・・・中国語は、「亜美利堅(ya mei li jian)」・・・「美利坚合众国」・・・「美利堅合眾國」・・・

 現日本人の「ルーツ」って、少数外来人に混血され、その血統が支配者階級となり、土着の島国日本人は殆どが被支配階級で甘んじてきた・・・
 大陸も、半島も、島国も・・・その支配階級は「血縁・親戚」の近親者だろう・・・種族、民族としての純粋なルーツを探求し、辿って、その知ったところの意味はナンなんだか・・・近親ほど「愛憎の根源」だろう・・・近親が分離すれば、その権力序列は父母・兄弟姉妹・従兄弟・従姉妹・甥姪・そして親子の関係、教育での師弟関係は、そのプロセスで養育-非養育、指導-非指導、命令-被命令、支配-被支配と相対立、反発、そして協力していくのが「能力(知能、知識・技能、技術)・実力(暴力)」の格差に於いて自然であり、その立場の逆転もアタリマエだろう・・・
 問題は協同社会で得た生産物の「公平社会的分配」である・・・これは「社会的公平」であって、「個々人的な平等」ではない・・・
 人間社会、人間家族は組織分担の構成員の協同体、分業体であるから当然である。
 社会協同体の個々人は性別、体力、能力に於いて異なる。それらは、対等、平等ではないが、区別され、今現在、要、不用であっても、そのポジションでの「社会的公平」が「法治」に於いて要求されるのは、いま現代までの克取ってきた人間社会の知恵だろう・・・
 ・・・だから、ドウだって・・・
ーーーーー
 Almost=ɔ'ːlmoust
    =オールモォゥストゥ・・・?
    「オォルモウスト(以下、Almost by Wikipedia)」
     多 留申 素訳        媒 紀理八
 ↓↑
 朝鮮半島
 ↓↑
 櫛目文土器時代 8000 BC〜1500 BC
 無 文土器時代 1500 BC〜300 AD
 伝説 檀君朝鮮
 史前 箕子朝鮮
 ↓↑
 燕
 辰国 衛氏朝鮮
 ↓↑
 漢四郡・前漢武帝
     紀元前108年
     朝鮮半島の中・西北部の
     衛氏朝鮮国最後の国王
     衛右渠(エイユウキョ)
     滅ぼし設置
     楽浪郡
     真番郡
     臨屯郡
     紀元前107年
     玄菟郡設置
 周辺種族
 濊 貊 沃 沮

 中国王朝は
 313年まで
 朝鮮半島中部・北部を
 郡県により直接支配
 朝鮮半島南部を間接統制
 漢四郡に先立って
 紀元前128年
 蒼海郡を設置
 真番郡と臨屯郡は早く廃され
 玄菟郡
 朝鮮半島から西に移った
 204年
 新たに帯方郡が設置
 楽浪郡帯方郡
 313年まで存続
 高句麗の攻撃
 平壌の存在した楽浪郡
 高句麗の発展は
 玄菟郡への服属抵抗が大きい
 楽浪郡帯方郡
 漢人
 高句麗王権
 百済王権に取り込まれ
 発展に寄与
 楽浪郡帯方郡の故地に
 5世紀まで
 土着の漢人
 新移住者の漢人が住み続けた・・・
 ↓↑
 原三国
 辰韓 
 弁韓
 馬韓
 ↓↑
 三国
 伽耶   42〜562
 百済  前18〜660
 高句麗 前37〜668
 新羅  前57〜
 ↓↑
 南北国
 唐熊津・安東都護府
 ↓↑
 統一新羅
 鶏林州都督府 676〜892
 安東都護府  668〜756
 渤海     698〜926
 ↓↑
 後三国
  新羅    〜935
 後百済  892〜936
 後高句麗 901〜918
 遼 女真
 ↓↑
 統一王朝
 高麗   918〜
 金
 元遼陽行省
 (東寧・双城・耽羅
 ↓↑
 元朝
 高麗   1356〜1392
 李氏朝鮮 1392〜1897
 大韓帝国 1897〜1910
 ↓↑
 近代
 日本統治 1910〜1945
 現代
 連合軍軍政期 1945〜1948
 大韓 民国  1948〜?
 朝鮮民主主義
 人民共和国  1948〜?
ーーーーー
 ・・・???・・・
 2001年9月11日
 「アメリカ同時多発テロ事件

ーーーーー
 ・・・???・・・
 扶余(夫余)=「余(あま)って、たすける」って?
           天・海人・海女・海部
        「夫の余(あまり・鴉目里)って?
 ↓↑
 高句麗、東濊、沃沮、百済、濊貊
 の言語が含まれる
 夫余が建国以前
 この地には
 濊(ワイ)族が住んでいた
 濊=氵(水)+歳
   カイ・ケ・サイ・セ・ワイ
   甲斐 化 差異 施 倭意・和意・話意
 ↓↑
 松花江上流の
 弱水(奄利大水、現拉林河)を
 渡河南進して
 夫余を建国する以前の
 慶華古城
 「濊城」
 周囲約800m、前漢初期に存在、黒龍江省賓県
 ↓↑
 蒼海郡の設置
 元朔元年(紀元前128年)秋
 匈奴が遼西郡に侵入し
 その太守を殺害
 漁陽郡,雁門郡にも侵入し
 都尉を破り、3千人余りも殺害
 これに対し
 漢は将軍の
 衛青を
 雁門郡から
 将軍の
 李息を
 代郡から派遣し
 千人分の捕虜と首級を得た
 東夷濊(ワイ)の君主の
 南閭(ナンリョ)等
 28万人が漢に降った
 そこに
 蒼海郡を設置
 元朔三年(紀元前126年)春
 蒼海郡を廃止
 ↓↑
 建国神話
 『論衡』(『後漢書東夷伝、『魏略』)
 「昔、
  北夷に
  橐離国があった。
  国王が
  侍女を妊娠させてしまったので、
  殺そうとした。
  侍女は
  「以前、
   空にあった
   鶏の卵のような霊気が
   私に降りてきて、身ごもりました」
  と言い、王は騙された。
  その後、彼女は男子を生んだ。
  王が命じて
  豚小屋の中に放置させたが、
  豚が息を吹き掛けたので死ななかった。
  次に馬小屋に移させると、
  馬もまた息を吹き掛けた。
  それを王は神の仕業だと考え、
  母に引き取って養わせ、
  東明と名づけた。
  東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、
  凶暴だったため、
  王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、
  再び殺そうとした。
  東明は国を逃れ、南へ走り
  施掩水にやって来て、
  弓で川の水面を撃つと、
  魚や鼈が浮かび上がり、
  乗ることが出来た
  そうして
  東明は夫余の地に至り、
  王となった」
 という記述がある・・・
 ↓↑
 『魏書』や『三国史記』には
 高句麗の始祖
 朱蒙
 夫余の出身で
 衆を率いて
 夫余から東南に向かって逃れ
 建国したと記録
 『三国史記』や『三国遺事』には
 解夫婁が治めていたが
 のちに太陽神の
 解慕漱が天降ってきたので
 解夫婁は東に退去して
 別の国(東夫余)を建てた・・・
 神話に
 後に偉大な事蹟を残す人物が
 卵から生まれるという
 南方系神話に共通の
 卵生神話
 ↓↑
 夫余(フヨ・正字体は夫餘)
 中国東北部満州)に
 かつて存在した民族およびその国家
 扶余(扶餘)とも表記
 ↓↑
 漢代
 始建国元年(九年)秋
 王莽が
 新を建国
 異民族に対する蔑視政策
 周辺諸国は離反
 夫余も離反
 ↓↑
 建武年間(25年〜56年)
 東夷諸国が後漢に来朝し
 中国に方物を献上
 建武二十五年(49年)十月
 夫余王が遣使を送って朝貢
 光武帝はこれを厚くもてなした
 ↓↑
 安帝の永初五年(111年)三月
 夫余王は歩騎7〜8千人を率い
 玄菟郡
 寇抄し吏民を殺傷し
 間もなく再び帰附した
 ↓↑
 永寧元年(120年)
 夫余王は嫡子
 尉仇台
 を遣わして
 印闕貢献し
 安帝は
 尉仇台に
 印綬金綵を賜った
 ↓↑
 永寧二年(121年)
 高句麗が1万の兵を率いて
 漢の玄菟城を囲むと
 夫余王は嫡子の
 尉仇台に
 2万の兵を率いさせて
 援軍に遣り
 高句麗軍を壊滅させた
 翌122年(延光元年)
 高句麗
 馬韓、濊貊
 と共に遼東へ侵攻したので
 兵を派遣して打ち破り救った
 ↓↑
 順帝の
 永和元年(136年)
 夫余王は
 京師(洛陽)に来朝
 ↓↑
 桓帝
 延熹四年(161年)
 夫余の遣使が朝賀貢献
 ↓↑
 永康元年(167年)
 夫余王の
 夫台は
 2万余人を率いて
 玄菟郡を侵略したが
 玄菟太守の
 公孫琙によって撃破され
 千余名が斬首された
 ↓↑
 霊帝
 熹平三年(174年)
 夫余は再び
 冊封国として貢ぎ物を献じた
 ↓↑
 夫余は
 玄菟郡に属していたが
 献帝(在位189年〜220年)の時代に
 夫余王の
 尉仇台が
 遼東郡に属したいと申し出、遼東郡に属した
 玄菟郡、遼東郡は
 公孫氏の支配下
 東夷諸国は公孫氏に附属
 高句麗
 と
 鮮卑
 が強盛だったので
 公孫度
 その二虜の間に在る
 夫余と同盟を組み
 公孫氏の
 宗女(公孫度の娘とも妹とも)
 をもって
 尉仇台の妃とした
 ↓↑
 魏の
 黄初元年(220年)
 夫余が魏に朝貢した際
 その君主は
 「夫余単于」と呼ばれた
 ↓↑
 尉仇台が死ぬと
 簡位居が立った
 簡位居には適子がいなかったが
 孽子の
 麻余という者がいた
 位居が死ぬと
 諸加(諸大臣)は
 麻余を立てた
 牛加(ギュウカ:官名)の兄の子である
 位居は大使(タイシ:官名)となり
 善政をし
 国人はこれに附き
 年々中国に遣使を送って朝貢
 ↓↑
 正始年間(240年〜249年)
 幽州刺史の
 毌丘倹は高句麗を討伐し
 玄菟太守の
 王頎を
 夫余に遣わした
 大使の
 位居は
 大加(タイカ:官名)を遣わし
 王頎らを郊外で出迎えさせ
 軍糧を供えた
 季父(おじ)の
 牛加に二心があったため
 位居は
 季父父子を殺して
 財産を没収して帳簿に記録
 使者を派遣してその帳簿を官に送った
 麻余が死ぬと
 6歳である子の
 依慮が立って王になった
 夫余王の王印には
 「濊王之印」と刻まれており
 国内には
 「濊城という名の故城」がある
 ↓↑
 西晋時代
 武帝(在位265年〜290年)の時代
 夫余国は頻繁に西晋朝貢
 ↓↑
 太康六年(285年)
 鮮卑
 慕容部の
 慕容廆に襲撃され
 王の
 依慮が自殺
 子弟は
 沃沮に亡命
 武帝
 夫余を救援する詔を出したが
 護東夷校尉の
 鮮于嬰が従わなかったため
 彼を罷免して
 何龕をこれに代えた
 明年(286年)
 夫余後王の
 依羅が遣使を送って
 何龕に救援を求め
 何龕は
 督郵の
 賈沈を遣わして兵を送り
 遼寧省開原市に
 夫余国を再建させた
 賈沈は
 慕容廆と戦い、これを大敗させ
 夫余の地から
 慕容部を追い出し
 依羅を復国
 その後も
 慕容廆は夫余に侵入し
 その民衆を捕まえて
 中国に売りさばいた
 武帝
 夫余人奴隷を買い戻させ
 司州,冀州では
 夫余人奴隷の売買を禁止させた
 ↓↑
 東晋時代
 夫余は
 鹿山に住んでいたが
 百済の侵入に遭って部落が衰え
 西の
 前燕の近くに移住
 東晋
 永和二年(346年)正月
 前燕
 慕容皝は嫡男の
 慕容儁と
 慕容恪ら7千騎に
 夫余を襲撃させた
 夫余王の
 玄王
 と部落5万人余りが捕虜として連行されたが
 夫余王の
 玄王は
 鎮軍将軍を拝命し
 慕容皝の娘を娶る
 ↓↑
 滅亡
 夫余国は北魏の時代まで存在
 太和十八年(494年)
 勿吉に滅ぼされた
 ↓↑
 夫余族の
 苗裔(北夫余)は
 豆莫婁国
 と称して唐代まで続いた
 ↓↑
 地理
 夫余は長城の北にあり
 玄菟から千余里はなれている
 南は高句麗
 東は挹婁
 西は鮮卑
 と接し
 北には弱水
 国の広さは2千里四方
 戸数は8万戸、定住生活
 城郭や宮室、倉庫、牢獄があり
 山や丘や広い沢が多く
 東夷地域では
 最も広い平坦な所である(トンペイ平原)
 土地は五穀を育てるのに適しているが
 五果はできない
 ↓↑
 夫余
 吉林省
 第二松花江流域を中心とし
 西団山文化に続く
 泡子沿類型に相当・・・
 泡子沿類型に先行する
 西団山文化の範囲は
 吉林省
 吉林長春、四平の各地区
 遼寧省
 撫順地区
 境界としては
 北は拉林河
 東は咸虎嶺
 南は揮発河
 西は遼河
 で囲まれる範囲
 ↓↑
 習俗
 衣食住
 白の衣服を尊重
 白布の大きな
 袂の袍や袴を着て
 革鞜を履く
 国外に出るときは
 絹織物、繍、錦織、毛織物
 などを身につけ
 金銀で飾る
 大人は
 その上に
 狐、狸、狖(黒猿)、白貂、黒貂
 などの皮をまとい
 金銀で帽子を飾っている
 ↓↑
 食飲は
 俎豆(ソトウ:食器、作法)を用
 宴会で酒杯を受けたり酒杯を返すときも
 立ち居振舞いは謙虚
 ↓↑
 殷歴の正月
 天を祭り、国中で大会を開き
 連日飲食して歌舞
 この祭を
 「迎鼓」という
 この時には刑罰を行なわず、囚人を解放
 ↓↑
 政治体制
 国には統一的な君王がいる
 古い夫余の風俗において
 天候が不順で
 五穀の生育が順調でない時には
 その責任を王のせいにし
 王を替えるべきだと言い
 は王を殺すべきだとした
 ↓↑
 官職の名称はすべて
 六畜の名でよんで
 馬加
 牛加
 豬加
 狗加
 の諸加があり
 それぞれ
 四出道を守り
 勢力の大きな者は数千家
 勢力の小さな者は数百家を支配
 ↓↑
 諸加の下には
 大使,大使者,使者
 の諸使
 邑落には
 豪民と呼ばれる
 奴隷を持った豪農
 下戸と呼ばれる
 隷属農民や
 奴僕と呼ばれる奴隷がいる
 ↓↑
 夫余の生業
 主に農業
 遺跡では早い時代の層から
 大量の鉄製農具
 農業技術や器具は
 同時代の東夷の中で最も発達
 金銀を豊富に産出する土地で
 金属を糸状に加工して飾り付けるなど
 金銀の加工に関して高い水準だった
 紡績に関しても
 養蚕が営まれ
 絹や繍・綵など様々な種類の絹織物が作られ
 麻織物や毛織物が作られ
 東夷の中で最も発達していた・・・
 牲の牛を多く養い
 名馬と
 赤玉,貂,狖,美珠
 を産出し
 珠の大きなものは
 酸棗(やまなつめ)ほどもある
 『魏略』には
 国は賑わい富んでいるとある
 ↓↑
 武器
 弓矢,刀,矛を兵器
 家々には自分たちの
 鎧や刀剣類を所蔵
 刑罰
 人を殺せば死刑
 家族は奴婢にされる
 盗みは盗んだ物の12倍を償わせる
 男女が私通したり
 婦人が妬んだりすれば
 すべて死刑
 妬みによる罪をもっとも憎んでおり
 その罪により死刑にされると
 死骸は国の南の山上にさらされ
 腐爛するまで放置される
 死骸が腐爛したのち
 その婦人の家人がその
 死骸を引き取りたいと望んで
 牛馬を連れていけば、死骸を与える
 ↓↑
 婚姻
 兄が死んだ場合
 兄嫁を弟が妻とする
 匈奴と同じ習俗(レビラト婚)である
 ↓↑
 葬祭
 有力者が死ぬと
 夏期であればみな氷を用い
 人を殺して殉葬
 多い時には殉葬者が数百人に達する
 死者を厚葬し
 遺体を納める棺(ひつぎ)があるが
 槨(かく)はない
 槨=墓室内部の棺を保護するもの
   木槨・石槨・粘土槨
   礫槨(れきかく)・木炭槨など
   古墳の埋葬施設
   遺骸を納める棺が
   直接土に触れぬように
   棺の周りを囲む木の外箱
   中国では棺と槨が共存
 ↓↑
 喪
 停すること5月、久しきを以って栄
 その亡くなった者を祭るのに
 「生」と「熟」がある
 喪主は速やかなるを欲せず
 他人がこれを強制し
 常に諍引してこれを節とする
 男女は皆純白の喪服を着用
 婦人は布面衣(布製のベール)を着用
 環珮(腰に付ける環状の玉)を去らす
 大体中国と類似
 ↓↑
 風俗
 体格が非常に大きく
 性格は勇敢で、謹み深く親切で
 あまり他国へは侵略しない・・・?ドウ言う意味?
 ↓↑
 通訳が言葉を伝える時
 みな跪いて両手を地につけ
 小声で話をする
 ↓↑
 戦争を始めるとき
 天を祭り
 牛を殺して
 その蹄を見て開戦の吉凶を占う
 蹄が開いていれば「凶」
 蹄が合わさっていれば「吉」
 戦争になれば
 諸加はすすんで戦う
 下戸は食糧を担いで諸加に従い
 諸加は下戸の荷う食糧を飲食する
 ↓↑
 夫余語
 夫余の言語は高句麗と同じ
 沃沮と濊もほぼ同じ
 東の挹婁は独特の言語を使用
 夫余の言語と異なる
 ↓↑
 歴代君主
 夫余王国
 夫台(安帝の時代〜桓帝の時代)
 尉仇台(献帝の時代)…夫台の子
 簡位居…尉仇台の次
 麻余…簡位居の次
 依慮(曹芳の時代 - 285年)…麻余の次
 夫余後王国
 依羅王(285年 - ?)…依慮の次
 玄王 (? - 346年)
 蔚王
 孱王
 日本との関係
 扶余系騎馬民族
 南朝鮮を支配し
 その後
 弁韓から日本列島に入り
 大和朝廷の前身になった
 仮説を江上波夫が提唱
ーーーーー
 番頭を筆頭とした徒弟制度
 丁稚(でっち)→10年→手代(てだい)→
        →小番頭→中番頭→大番頭
 商家に年季奉公する幼少の者
 職人のもとでは弟子、子弟
 上方言葉で「丁稚」
 江戸言葉で「小僧」
 ↓↑
 番頭(バントウ)
 主人の代理
 店向き差配や仕入
 出納や帳簿の整理
 同業者の寄合への出席
 支配人としての重要な業務を任された
 ↓↑
 でっち上げ=捏造(ネツゾウ)
 「捏」の読み方は古くは「デツ」
          ・・・涅槃=ネハン=悟り・覚醒
 捏=扌+圼=扌+日+十+一
   異体字「掜・揑」
    ・・・日⇔臼・・・臼=うす=碓=有珠⇔渦
    ・・・土⇔儿⇔工     小碓命     
    ・・・掜=扌(手)+臼+儿
    ・・・揑=扌(手)+臼+工
   こねるこねて作りあげる・でっちあげる
   ネツ・デツ
   泥など柔らかい物を手でこねる
   捏 (ツクネ)=植物・ツクネイモ
          ヤマノイモ科の
          多年生つる(蔓)植物
 ↓↑
 金 完燮(キム・ワンソプ、1963年〜)
 ↓↑
 李 承晩(リ ショウバン=イ・スンマン)
 1875年=明治八年
 1875年3月26日〜1965年7月19日
 乙亥(戊 甲 壬)偏印正官胎⇔乙巳(戊 庚 丙)偏印
 己卯(甲  乙)食神偏印病⇔癸未(丁 乙 己)偏官
 丁亥(戊 甲 壬)  正官胎⇔甲戌(辛 丁 戊)印綬
  午未=空亡
 大韓民国の初代大統領
 (在任1948年〜1960年)
 本貫は全州李氏・6代前の李徴夏後、没落両班
 黄海道
 平山郡
 馬山面
 大慶里(黄海南道峰泉郡)で生誕
 号は「雩南(ウナム)」
 字は「承龍(スンニョン)」
 ↓↑
 1889年 (明治二十二年) 大日本帝国憲法発布
     10月7日海軍旗章条例(旭日旗軍艦旗
     11月11日米国でワシントンが42番目の州
     11月11日佐佐木茂索、小説家
         編集者。文藝春秋新社社長
         (〜1966年)
 ↓↑  ↓↑
     清 光緒14年11月30日〜光緒15年12月10日
     朝鮮・李氏朝鮮・高宗26年
 ↓↑
 1899年 逮捕され1904年まで獄中
 ↓↑  ↓↑
     日本(明治三十二年)
     清 光緒24年11月20日〜光緒25年11月29日
     朝鮮
     大韓帝国 光武三年
     11月10日進藤英太郎、俳優(〜1977年)
     11月11日奥野信太郎、中国文学者(〜1968年)
 ↓↑
 1910年(明治43年)8月29日
     韓国併合(Japanese annexation of Korea)
 ↓↑

 1911年(明治四十四年)アメリカに亡命
     朝鮮半島へ戻りソウルのキリスト教青年会
     宣教活動
     1年半後、寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件
    (朝鮮で「105人事件=朝鮮の独立運動
     約700人が検挙、翌年105人が一審有罪
     判決材料の多くが拷問による虚偽の自白で
     控訴審では99人が無罪
     抗日秘密結社新民会の壊滅を狙った内政問題
     容疑者にキリスト教徒が多く含ま
     米国人宣教師などから批判され
     日米問題にまで発展
     「宣川事件」「新民会事件」などの名称がある)
     の関与を疑われ
     再び渡米
     途中に日本本土の
     下関、京都、東京に観光滞在
     鎌倉市で開催された朝鮮人学生大会に参加
 1919年4月10日上海で結成された「大韓民国臨時政府」の
     初代大総理に就任
    9月11日からは臨時政府大統領
 1925年3月21日大統領職を追われてアメリカへ渡航
 ↓↑
 1933年(昭和八年)満州事変を討議する
     国際連盟総会に
     大韓民国臨時政府全権代表として出席
 1945年8月15日以後・・・反日民族派の金九による
     親日派粛清に恐れをなした
     日本統治時代の対日協力者が
     李の支持基盤となった・・・
 1948年4月3日南朝鮮単独での
     総選挙実施に反対する過程で
     済州島四・三事件が発生
     3万人の島民が虐殺
     日本に逃れた島民は
     在日韓国・朝鮮人・・・
 1948年8月15日の大韓民国南朝鮮
    9月9日の朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮
     の建国後
     南朝鮮の李大統領は「北進統一」
     北朝鮮金日成首相は「国土完整」
 1952年(昭和27年)1月18日海洋主権宣言
     李承晩ライン設定
 1959年(昭和34年)新潟日赤センター爆破未遂事件
 1960年(昭和35年)4月19日不正選挙
     デモ隊と警官隊が衝突・死者186人
     4月26日に下野
     5月29日にハワイへ亡命(四月革命)
ーー↓↑ーー
 笛吹(ふえふき・ふえぶき
    うすい・うずしき)
 ↓↑  ↓↑
 ・・・「うすい」?・・・薄い・臼井・雨水・薄井
             碓井・碓氷・臼居・笛吹
 ・・・「うづしき」?・・渦如き・鬱若き・宇津如き
 ↓↑
 笛吹市 - 山梨県の市・(ふえふきし)
 笛吹村 - 長崎県北松浦郡にあった村
      1926年、新設合併により小値賀村
      現・小値賀町・(ふえふきむら)
 ↓↑
 奈良県葛城市笛吹
      (ふえふき)
 長崎県松浦市志佐町笛吹免
    (しさちょうふえふきめん)
 長崎県北松浦郡小値賀町笛吹郷
           (ふえふきごう)
 福島県郡山市湖南町舟津字笛吹
 東京都西多摩郡檜原村にある地域名
 「うずしき」と読む
 檜原村#地理
 京都府木津川市山城町平尾笛吹
 京都府南丹市日吉町木住笛吹
 京都府南丹市日吉町殿田笛吹
 ↓↑
 笛
 文献上の初出は
 日本書紀
 「天之鳥笛」
 万葉仮名では
 「輔曳」
 と表記
 ↓↑
 虎落笛(もがりぶえ)
 冬の激しい風が柵や竹垣
 電線などに吹きつけて発する笛のような音
 気流の中に
 杭や電線などの障害物が有るとき
 その風下に
 カルマン渦が交互に発生する事で起こる
 冬の季語
 ↓↑
 魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)
 兵庫県姫路市網干区宮内193にある神社
 「津の宮」とも呼ばれている
 神功皇后三韓征伐のおり
 神託により創建された
 延喜式神名帳名神大社
 中臣印達神社の比定社の一
 ↓↑
 字(あざ)の起源
 日本の近世の村の下にあった
 平安時代以降の荘園文書などに字の名が記録
 小さな区画の領域単位
 大字・・・明治以後
 小字・・・明治以前
 大字は藩政村あるいは町の名を
 1889年
 (明治二十二年)に施行された
 市制・町村制(明治の大合併)
 施行に際して行われた
 市町村合併の時に残したもの
 ↓↑
 町丁
 市区町村内の住居表示に用いられる市街の区分
 丁目
 市町村(東京23区を含む)内の
 1個の町を数個の区域に分けるときの区域
 ↓↑
ーーーーー
 ・・・???・・・

 2644日目・・・情報宣伝部・広報課・・・「神祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ)=古代の日本の律令制で設けられた、 朝廷の祭祀を司る官庁名。長官は神祇伯(通常、じんぎはく・和訓、かみ(かん)づかさのかみ)。唐名から大常伯(たいじょうはく)、大常卿(たいじょうけい)、大卜令(たいぼく)・祠部尚書(しほうしょうしょ)とも呼ばれた」・・・律令以前の神社組織=中央政府の公報(広報)と地方行政(農業指導=季節の祭政行事=農業行事・人員徴用、徴税)の役所・・・「祭祀神事=農業指導」・・・

 「公地公民」=土地と人民はすべて「天皇国家」の所有
       ≠天皇の私有地・・・?
        私有を認めない
        大化の改新(645年)の際に打ち出され
        以後、日本の「律令制の原則」?
       「罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉
        及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘」
       戸籍・計帳に基づいて
       政府から
       受田資格を得た貴族や人民へ
       田が班給され・・・稲の苗(籾種)も供給・・・
       死亡者の田は政府へ収公
       班給された田は
       課税対象で
       その収穫から
       租が徴収された
 「神祇」とは・・・神=ネ(示)+申・・・さる・シン
          祇=  示 +氏・・・うじ・シ
        「氏」⇔「民」=冖+氏・・・ワ冠の氏
             =刃物で目を
              突き刺し潰(つぶ)された
              奴隷
             =先の鋭いさじの形象
              匙(さじ・シ)と同系
            氏=血統を同じくする集団
            氏=同一の
              先祖から出た
              血縁集団(姓)から
              分れ出た小集団
 「神」は天津神である「天神」を
         ・・・天津⇔隋王朝?・・・
            高天原(たかまがはら・コウテンゲン)
           「高麗
            高句麗」の「辿元(たどるもと)」?
            中国河北省東部の河港都市
 「祇」は国津神である「地祇」を表し
 その名の通り祭祀を司る
 諸国の官社を総轄
 「養老令の職員令」には
 太政官に先んじて筆頭に記載
 太政官よりも上位であり
 相並んで独立した一官で
 諸官の最上位とされた・・・諸官の農工産業の最高行政技官?
 ↓↑
 文書行政では
 太政官よりも下位・・・ではなく、同等
 神祇を祭り
 諸国の
 祝部(ほうりべ、
    神主や禰宜の下の神職
    神戸から選ばれた)
 の名帳(名簿)や神戸の戸籍の管理、
 大嘗祭・鎮魂祭の施行、
 巫(かんなぎ)や亀卜を司った・・・
         農耕、農業の行政技官だろう・・・

ーーーーー
 尾張国(おわりのくに=をはりのくに)
 尾州(びしゅう)
 『倭訓栞』に
 「尾張の國は、・・・・・・尾=尸+毛
              張=弓+長
             ・・・弓巴=弓弝(キュウハ)
             弓の籐頭(矢摺り籐の巻き始め
                  握り部と接している部分)
             と弦との距離
  南智多郡のかた、
  尾の張出たるが如し、・・・「尻尾、尾っぽ」が張り割れる?

 伊勢湾
 中部地方近畿地方
 太平洋(フィリピン海)側の
 境界の南側にある湾
 旧東海道の七里の渡し
 宮宿(愛知県名古屋市熱田区)から
 桑名宿(三重県桑名市)まで
 伊勢湾北部を通る海路
 中世には桑名(十楽の津)
 大湊などの港町が商業、海運の中心地
  一説に
  小墾の義也」
 『古事記傳』には
 「尾張國、名義未思得ず」
 「尾張」の発音が「終わり」と重なり
 大和政権の勢力圏の「端・東端」
 古代の東海道
 伊勢国から
 海路(伊勢湾)経由で
 三河国に伸びていた
 ↓↑
 尾張(おわり)は
 昔は
 「烏波利」・・・烏(ウ)=からす=鴉(ア)・雅=加羅
 と書いた
 「ヲ・ハリ(小針)」で
 「ハリ」は「墾」で土地を開くこと
 「ヲ」は接頭語で、「小」を意味
 「小さい開墾地」の意
 尾張は奈良からの
 移住者由来の地名
 大和国葛城郡に
 高尾張と言う集落があり・・・高の尾を張る⇔鷹の尾を張る
              「後尾・交尾・後備」を張る 
 今の愛知県に移住し
 尾張連(おわりむらじ)と呼ばれ地名にもなった
 尾張=開墾された土地と言う意味?
 ↓↑
 国名は、
 「開墾した土地」という意味の
 「大治」=おはり=「小治」
 大和国の豪族
 尾張氏が移住したことに因むなど・・・複数
 ↓↑
 「袁波里(古事記)」・・・長袖のように靡く波の里?
 「烏波利(日本書紀)」・・「雅・鴉・加羅州」の波の利?
 などと表記
 近世に
 春日井郡「小針(をばり)」村の地名が国名になった
 「万葉集(巻十三)」
 「小治田(おはりだ)之年魚道(あゆち)」
 をこの地方に比定し
 「小墾田(おはりだ)」に由来・・・という説
 年魚市潟=名古屋市熱田区辺りの海岸一帯
 「あゆ」=湧き出る
 「桜田へ鶴鳴き渡る
  年魚市潟(あゆちがた)潮干に
  けらし鶴鳴き渡る」
 「足結(あゆ)道(ち)」=東国へ向かう旅支度の場所
 「足結」=古墳時代の男性の服装の一部で
      動き易い様に
      はかまの膝の下の辺りを結ぶ紐
 ↓↑
 尾張氏
 素戔男尊スサノオノミコト)が
    ・・・素戔嗚・建速須佐之男命・須佐乃袁尊
       神須佐能袁命・須佐能乎命・素盞嗚
 ↓↑
 八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し
 尾を割って出現した
 草薙剣を管理していた一族・・・
 「尾を割る」
 ↓↑
 天之尾羽張の剣
 祅=亻+光
  =おおきい・さかん・かがやく・てらす・コウ
 ?=亻+牟
   ひとしい・そろう
   したがう・つとめる
   とる・はかる
   ボウ・厶
   通仮字「貿・牟」
   異体字「𠉖・件・牟・蟊」
 ↓↑
 東海道五十三次
 海路は
 宮宿〜桑名宿・・・七里の渡し
 の間
 ↓↑
 尾張氏の遠祖
 天香語山命・天牟良雲命・天背男命
 などは
 饒速日尊の東遷(185年頃)に従って
 筑紫から大和にやってきた・・・?
  尾張氏
 大和での本拠地は
 高尾張
 奈良県西部である
 葛城市の
 高台(葛城山の麓)
 ・・・高台=高い建物・たかどの
    茶碗・鉢・椀などの底にある輪状の基台
    二(代)二人称
    手紙などで相手を敬っていう語
    あなたさま・貴台
 ↓↑
 天火明命の後裔
 崇神朝頃までは
 大和国
 葛城郡
 高尾張邑が本拠地
 ↓↑
 高尾張侍 (高終侍)
 「タカオハリ(高終)を治める物部」
 熱田神宮の大宮司
 尾張氏で火明命の後裔
 大和国葛城郡高尾張邑に起こった
 14世孫乎止与命
 尾張国造として
 熱田大宮司職を世襲・・・
 後に
 藤原南家
 巨勢麿後胤の
 季兼が系嗣
 ↓↑
 『旧事』
 葛木彦命(カツラギヒコ)
 尾張連等の先祖・天忍男命の子
 池心朝=孝昭天皇の御世に大連
 天忍男命は
 葛木の
 剣根命の娘の
 賀奈良知姫(かならちひめ)を妻とし
 二男一女を生む
 尾張連の祖の
 瀛津世襲命 (葛木彦命)
 建額赤命 (タケヌカアカノミコト)
 世襲足姫命
 ↓↑
 『書紀』
 高尾張邑(たかおわりのむら)にいた土蜘蛛
 「高尾張」の邑の名を変えて「葛城」とした・・・
 ↓↑
 7世紀後半の木簡で
 尾張国
 と
 尾治国
 の二つの表記
 平安時代に作られた
 『先代旧事本紀天孫本紀)』の
 尾張氏の系譜にも
 「尾治」とある
 大宝四年(704年)に
 国印・・・令制国支配の象徴として神秘化
 ↓↑   各地の印鎰神社の神体
      印鑰=インヤク=印鎰
      印判・印判と鍵(かぎ)
      官府の長官の印と
      諸司・城門・蔵などの鍵
      天台座主の職印と延暦寺宝蔵の鍵
      僧綱(そうごう)の職印と僧綱所の鍵
       ↓↑
     「鑰・鎰」は錠の意
      鎰=金+益
        かぎ・イツ
      異体字「镒・洫・益・賹」
      金貨の重さの単位・二〇両・二四両・三〇両
      かぎ(鍵)
      鎰取(かぎとり)・鎰役(かぎヤク)
      主鑰=主鎰=律令制
      中務省の内蔵寮(くらりょう)、蔵省の職員で
      物品の出納をつかさどった役人
      典鑰 (てんやく)=神社の扉の鍵を預かり
               祭りをつかさどる家筋
     「鍵(かぎ・キー=Key・じざいかぎ)」は
     「錠前(ロック、鍵穴、Lock)」
      を解錠する(操作する)器具
 ↓↑    ↓↑
      印と蔵・門の鍵
      国府は中世には廃絶した国庁に
      付属した「惣社」や「印鎰社」は
      いくつかの国で今も存続
      国庁機能が失われた
      平安末期〜鎌倉初期には
      国庁のシンボルとしての
      印鎰を
      国庁跡地に設けた
      社祠に祭った
     「印鎰(インヤク・インニャク)」は
     「国守の権限である国印を納めた
      唐櫃を開閉するための鎰(かぎ)」
      新旧国守間での「鎰の授受」は
      国守交代の儀式
      国守
      引継ぎには
      引継書類、備品、官舎
      国印、倉印、文印
      駅鈴、鉤匙(かぎの形のかぎ)
 ↓↑   ↓↑
      印匙駅鈴=国印
           印鎰(インヤク・インニャク)
           匙(ひ・さじ・かぎ)・・・氏
           駅鈴(エキレイ)
 ↓↑   ↓↑
 が鋳造されたときに
 尾張と定められた
 ↓↑   ↓↑
 明治四年十一月・・・尾張
           名古屋県
           三河尾張知多郡
           額田県になる
 ↓↑
 名子屋
 平安時代
 荘園を土地の所有者に代わって
 耕す農民が暮らす家屋
 「名=名主」の「子」
 荘園領主に従属する者の家
 平安時代末期の荘園名
 「那古野荘」
 「那古野荘」の農民の家屋=「名子屋」
 「なごやかな(和やか)」土地
 ↓↑
 霧の多い原野
 霧=なご
   海から発生する霧の事
   霧(なご)の原野
 ↓↑
 根古屋
 山城の根(麓・ふもと)の小屋
 「根小屋(ねこや)」が・・・ねこや=猫家?
 「根古屋」
 「なごや」
 ↓↑
 魚子
 漁師を意味する「魚子(なご)」の屋
 ↓↑
 波越
 大波が越えた土地
 波(な)越(ご)え=津波
 なごや
 ↓↑
 名古屋市中区大須
 「那古野山古墳(五世紀頃)」
 「浪越山」と呼ばれていた
 津波大須
 那古野山古墳を超え
 「浪越山」と呼んだ
ーーーーー
 濊貊(ワイハク・カイハク)
 濊貊・沃沮・高句麗・夫余
 の四種族の祖
 韓国江原道にいた
 「東濊(濊貊)」は
 前漢代の中国東北部にいた
 濊の後裔
 濊貊系
 沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東濊
 貊と同音または近似音の
 貉・北發・白民
 など
 夫余の出自が濊
 貊を高句麗の別名、別種と記す
 晋の孔晁は
 高句麗
 高夷の子孫
 『後漢書』は
 濊・沃沮・高句麗
 元々
 衛氏朝鮮の地に居たと記す・・・
(by Wikipedia)
ーーーーー
 東沃沮
 在
 高句驪
 蓋馬大山之東
 東濱大海
 北與
 挹婁、夫餘、
 南與
 濊貊・・・濊と貊
 接。
 其地
 東西夾、南北長、
 可折
 方千里。
 土肥美、
 背山、向海、
 宜五穀、
 善田種、
 有
 邑落長帥。
 人性質
 直彊勇、
 便持矛歩戰。
 言語、食飲、居處、衣服
 有似
 句驪。
 其葬、作大木槨、長十餘丈、開一頭為戸、
 新死者先假埋之、令皮肉盡、乃取骨置槨中。
 家人皆共一槨、刻木如(主)〔生〕、
 隨死者
 為數焉。
 ↓↑
 武帝
 滅
 朝鮮、
 以
 沃沮地
 為
 玄菟郡
 後為
 夷貊所侵、
 徙郡於
 高句驪西北、
 更以
 沃沮為縣、
 屬
 樂浪東部都尉。
 至
 光武
 罷都尉官、
 後皆以封其
 渠帥、
 為
 沃沮侯。
 其土迫小、
 介於
 大國之輭、
 遂臣屬
 句驪。
 句驪
 復置其中
 大人(遂)為使者、
 以相監領、
 (貴)〔責〕其租税、貂布魚鹽、
 海中食物、
 發美女
 為
 婢妾焉。
 ↓↑
 又有
 北沃沮、
 一名置
 溝婁、
 去
 南沃沮
 八百餘里。
 其俗皆與南同。
 界南
 接
 挹婁。
 挹婁人
 ●乘船
 寇抄、
 北沃沮
 畏之、
 毎夏
 輒臧
 於
 巖穴、
 至冬
 船道不通、
 乃下居
 邑落。
 其耆老言、
 嘗於海中
 得
 一布衣、
 其形
 如
 中人衣、
 而兩袖長三丈。
 又於
 岸際
 見
 一人乘
 破船、
 頂中
 復有面、
 與語不通、
 不食而死。
 又説
 海中
 有
 女國、無男人。
 或傳
 其國
 有神井、
 闚之輒生子云。
ーーーーー
 ・・・???・・・
 浜田藩(はまだはん)
 石見国浜田(島根県浜田市
 周辺を領有した藩
 藩庁は浜田城に置かれた
 ↓↑
 石見国
 中国地方の大半を領有していた
 毛利家の所領
 慶長五年(1600年)
 関ヶ原の戦いに敗北
 周防国
 長門国
 の2国に減封
 後
 石見は徳川氏の直轄領
 津和野藩に
 坂崎直盛が入ると
 坂崎家の管理下に置かれた
 ↓↑
 元和五年(1619年)二月十三日
 伊勢松坂藩より
 古田重治が
 石見国の1部
 5万4000石を与えられて入封
 浜田藩が立藩
 藩庁の置かれた浜田城
 吉川家なども陣屋を置かれとされる
 鴨山で
 古田家が新たに築城
 築城の際
 鴨山は
 亀山に改名
 城の別称は亀山城
 ↓↑
 慶安元年(1648年)
 第2代藩主
 古田重恒は
 重臣を斬殺し
 お家騒動(古田騒動)を起こし
 嗣子が無く改易
 後、
 浅野長治
 と
 亀井茲政
 が浜田藩を管理
 ↓↑
 慶安二年(1649年)八月十二日
 播磨山崎藩より
 松平(松井)康映が5万石で入封
 後、5代にわたって在封
 第五代藩主
 松平康福時代の
 宝暦九年(1759年)一月十五日
 下総古河藩に転封
 ↓↑
 代わって同地より
 徳川四天王
 本多忠勝嫡流
 本多忠敞が5万石で入封
 本多一族の
 本多忠央が前年に
 郡上騒動による連座で改易
 本家もそれに連座する形で
 左遷されたもの
 第三代藩主
 本多忠粛時代の
 明和六年(1769年)十一月十八日
 三河岡崎藩へ移封
 ↓↑
 代わって
 古河藩から岡崎藩に転封されていた
 松平(松井)康福が
 再度5万5400石で再封
 康福は老中としての精勤を賞され
 1万石の加増を受けた
 ↓↑
 第三代藩主
 康任時代の
 天保七年(1836年)
 鬱陵島を仲介所とする
 李氏朝鮮
 清国
 との密貿易が
 間宮林蔵密偵により発覚
 康任は老中を罷免され蟄居
 (竹島事件)
 竹島事件
 石見浜田の
 廻船問屋
 会津
 八右衛門が
 竹島鬱陵島)に密航した事件
 幕府に探知され、1836年死刑
 ↓↑
 康任は失脚し
 強制隠居処分
 第四代藩主
 康爵は
 天保七年(1836年)三月十二日
 陸奥
 棚倉藩へ
 懲罰転封

 上野国
 館林藩より
 第六代将軍
 徳川家宣の弟
 清武を祖とする
 越智松平家
 松平斉厚が6万1000石で入封
 第十五代将軍
 徳川慶喜実弟
 水戸徳川家から養子に入った
 第四代藩主
 武聰は
 慶応二年(1866年)
 第二次長州征伐のとき
 浜田口を担当し
 長州藩側の
 大村益次郎が指揮する軍に撃破された
 浜田の街に
 長州軍が入ったときに
 武聰は戦わずして
 浜田城を放棄して松江城に逃亡
 武聰は
 美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ
 鶴田藩を興して明治維新を迎えた
 浜田の街は焼き払われ
 浜田城も灰燼に帰し
 浜田は長州藩が占領
 明治二年(1869年)
 版籍奉還により
 隣接して
 同じく
 長州藩の占領下にあった
 旧幕府領
 石見銀山領とともに
 大森県となり
 明治四年(1871年
 県庁が浜田へ移転され
 浜田県となった後
 島根県編入
ーーーーー
 ・・・???

 2643日目・・・大鴉(おおがらす・ダイア・The Raven・レイブン・渡りガラス・Big Crow・rook(ルク・ルック)・jackdaw(ジャックドー・コクマルガラス・塔などに巣を作る・おしゃべりな人・鳴き声がやかましい・盗癖で知られる)・・・「八咫烏」の鳴き声・・・「バブル(nozzle-bubble・調節器・バルブ(弁))・トランスミッション(transmission・ギアボックス(gear box)・駆動伝達器・動力伝達装置)」・・・「国産ロケット」・・・

 カラスの言語・・・「Nevermore」・・・???・・・「Never mind」じゃぁないのか?・・・「俺にとってたいしたことじゃない、気にするな、大丈夫だ」・・・「Never mind about it.」・・・「Don't worry.」・・・
 「お前はドウなんだか (Are you ok? Are you all right?)」・・・「Never you mind.」、「Don't mind me.」・・・
 「Never give up.」、「Don't give up.」・・・
 「It doesn't matter.」・・・「Nevermind」ってナニが?・・・
 「It's no nevermind of yours.」・・・余計なお世話だッ!・・・
 「It's none of your business=No thank you!
               =Leave me alone」・・・
 ドッチなんだか・・・???・・・
 親切は有難迷惑なんだろう・・・小さな親切、大きな迷惑・・・
 臭い、汚(きたな)い、ばっちい、濊・・・
 濊・貊(ワイハク・カイハク)
 中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から
 北朝鮮にかけ
 北西から南東に伸びる帯状の地域に存在した古代の種族
 濊と貊の2種族(周代以降の記録に濊・貊)・・・漢代に濊貊と記録
 夫余・高句麗(高麗)・百済の出自・・・病死者が出ると、旧い家屋を棄て新居を造り直す・・・
 沃沮(ヨクソ)
 文化や習俗は
 モンゴル系の
 東胡、ツングース系の粛慎
 朝鮮半島南部の
 韓族の何れとも異なる・・・
 寛政十一年頃(1799年)に描いた版画「長崎屋」・・・十一年?
 北斎
 寛政十一年頃(1799年)に描いた版画「長崎屋」

 長崎屋源右衛門(ながさきやげんえもん)
 とは江戸時代、日本橋に存在した
 薬種問屋長崎屋の店主が代々襲名した名前である
 本社所在地 江戸本石町三丁目
 (東京都中央区日本橋室町四丁目2番地)
 設立 17世紀初頭
 業種 卸売業
 事業 貿易商、薬種商
    外国人向け宿泊施設運営
 オランダ商館長(カピタン)が
 定期的に江戸へ参府する際の定宿所
 カピタンは館医や通詞などと共に
 この商家へ滞在し、多くの人々が
 彼らとの面会を求めて来訪
 この商家は「江戸の出島」と呼ばれた
 カピタン一行の滞在中に
 この商家を訪れた人物は
 平賀源内、前野良沢杉田玄白
 中川淳庵最上徳内高橋景保
 など、それに加え
 多くの庶民が野次馬となって
 オランダ人を一目見ようと
 この商家に群がり
 その様子を描いた
 葛飾北斎の絵・・・
 ・・・乞食のような「葛飾北斎(ホクサイ)」に絵を注文し、画料をネギった「シーボルト」・・・怒った「北斎」・・・150両の半分75両・・・「シーボルト」は謝罪・・・百五拾両を支払う・・・
 ↓↑
 文政十一(1828)年・・・十一年?
 「シーボルト事件」は隠匿された
 「日本地図
 (伊能 忠敬・
  延享二年一月十一日(1745年2月11日)
        十一・・・・・・・11・壱壱・壱拾壱・壹拾位地?
  〜
  文化十五年四月十三日(1818年5月17日)
    壱拾五・肆・壱拾参・壱八壱八・壱千八百壱拾八
                伍・壱拾七・壱拾漆?
  通称は三郎右衛門、勘解由
  字は子斉・・・ナゼ、「子斉」なのか?
  号は東河
  寛政十二年(1800年
  〜
  文化十三年(1816年)まで
  足かけ
  十七年かけ
  日本全国を測量し
  『大日本沿海輿地全図
  として完成させたモノ)」
 とともに
 「北斎(ホクサイ)の絵」も
     ・・・「北斎≠子斉≠子斎」
            子=鼠=北・・・北海道・蝦夷
 北海道(蝦夷)測量・・・
 「寛政十二年(1800年
  日本史上初めて
  日本の詳細な地形の計測をした伊能忠敬
  箱館を出発点として東海岸から根室まで蝦夷地の実測」
 「伊能忠敬の地図
  間宮林蔵が北海道全域測量か?
  伊能が1800年に北海道南岸を
  測量してつくった地図のデータと
  約20年後に完成した全国地図の画像を比べた。
  2つの地図を重ね合わせると、
  南部の海岸線は最大数キロ程度ずれていた
 (日経・共同・2014/8/18付)」
 「間宮林蔵・・・
  間宮海峡発見
  伊能忠敬から測量技術を教授され
  享和三年(1803年)
  西蝦夷地(日本海岸・オホーツク海岸)を測量
  ウルップ島までの地図を作製
 ↓↑
  文化四年四月二十五日(1807年6月1日)
  択捉場所
 (寛政十二年(1800年)
  クナシリ場所から分立・択捉島
 の紗那会所元に勤務していた際
 ニコライ・レザノフ(ロシア人)が
 復讐のため部下の
 ニコライ・フヴォストフ(ロシア人)たちに
 同島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた
 ↓↑
  文政十一年(1828年)・・・十一年
  勘定奉行・村垣定行の部下
  幕府の隠密として全国各地を調査
  石州浜田藩の密貿易の実態を掴み
  大坂町奉行
  矢部定謙に報告し検挙に至らせる
 (竹島事件)」・・・・竹島事件

 北斎の絵と伊能忠敬の日本地図は
 日本を去って
 オランダに渡った・・・
ーーーーー

 北斉=ホクセイ=北齊
    ・・・ホクサイ・・・北+斉(齊)???
 (550年〜577年)
 中国の南北朝時代
 高氏によって建国・・・「日本では
 ↓↑          高氏=高麗(高句麗)系渡来人
 ↓↑          が出身国の一字をとって
             高氏を名乗った
             後、
             高階氏が高氏と称する」
            「足利氏の根本被官、代々足利家の執事」
            「高氏一族=足利直義と対立した
             ↓↑   高師直の一族」
 ↓↑          ↓↑
       「吉良義央吉良上野介)は
        赤穂事件の
        高家旗本(高家肝煎=こうけきもいり
                  江戸幕府における
                  有職故実や礼儀作法
                  儀式や典礼を司る役職)」
         ↓↑
        寛永十八年九月二日(1641年10月5日)
        辛巳(戊 庚 丙)正官 食神 病
        丁酉(庚  辛)傷官 正官 胎
        甲戌(辛 丁 戊)   偏財 養
         申酉=空亡
        〜
        元禄十五年十二月十五日(1703年1月31日)
        壬午(丙 己 丁)偏印
        癸丑(癸 辛 己)印綬 三合金(辛)
        辛卯(甲  乙)正財  合火(丁)
         ↓↑
        三郎(幼名)→義央
        別名は左近
 ↓↑     号は卜一
 国号は単に「斉(齊)」
 春秋戦国時代の斉(齊)
 南朝の斉(齊)
 などと区別するために
 北斉・高斉と呼ぶ・・・斉=齊・⇔・齋=斎・・・差異
 ↓↑
 550年〜559年 文宣帝・武定八年/天保元年)
            高洋は北斉を建国
 559年〜560年 廃帝
 560年〜561年 孝昭帝
 561年〜565年 武成帝
 565年〜576年 後主
 576年〜576年 安徳王
 577年〜577年 幼主
 ↓↑
 北斉の皇帝
 高澄 東魏の斉王(549年)
    文宣帝により
    世宗 文襄帝と追尊
 高洋 東魏の斉王(549年〜550年)
 高歓 文宣帝により
 ↓↑ 太祖 献武帝
    後主の代で
    高祖 神武帝と追尊
        ・・・「神武帝」?
       北斉の高祖神武帝 - 高歓への追号
       北漢の世祖神武帝(劉崇、在位951年〜954年)
       西夏の太祖神武帝 - 李継遷への追号
       ベトナム李朝太祖
            神武帝 - 李公蘊への追号
       新羅の第45代王
            神武王(しんぶおう・?〜839年)
            姓は金
            諱は祐徴
           「閔哀王」を殺害し王位に就く
       張保皐(チョウホコ)
       統一新羅時期
       新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた
       張宝高とも記される
       朝鮮語でもどちらも「チャン ボゴ」と読む
       張保皐は漢名
       本名は弓福(弓巴)
       清海鎮大使から感義軍使を経て
       鎮海将軍・・・任務は奴隷貿易禁圧
           ・・・尾張の由来は?
           ・・・張政?張保皐
       全羅南道莞島に根拠地
       新羅南部の群小海上勢力を傘下
       唐・日本と手広く交易活動
       中国沿海諸港に居住する
       イスラーム商人とも交易
       836年
       興徳王が死去
       新羅の都・金城(慶州)で
       王族間の後継争いに敗れた
       金祐徴(神武王)が
       張保皐のもとに身を寄せ
       張保皐は金祐徴を支援
       友軍の
       鄭年に・・・・・鄭の年(歳)
       5千の兵を与えて
       閔哀王を討ち
       金祐徴を
      「神武王」として即位させた
        836年
        干支 丙辰
        日本 承和三年
        皇紀 1496年
        中国
        唐  開成元年
        5月 - 遣唐使、難波より出発
        7月 - 遣唐使遭難して肥前対馬に漂着
 ↓↑
 北斉の皇帝
 顕祖
 文宣帝(高洋、在位550年〜559年)
 廃 帝(高殷、在位559年〜560年)
 粛宗
 孝昭帝(高演、在位560年〜561年)
 世祖
 武成帝(高湛、在位561年〜565年)
 後 主(高緯、在位565年〜576年)
 安徳王(高延宗、在位576年)
     北周の侵攻の中で奮戦し
     後主が逃亡後の混乱の中で
     皇帝に即位するが
     北周に敗北して囚われた
     通例では
     皇帝の代数には加えられていない
 幼 主(高恒、在位577年)
 高 儼 後主により
     楚恭
     哀帝と追尊
ーー↓↑ーー
 斉=そろう・そろえる・斉唱・一斉
   ととのう・ととのえる・均斉
   ひとしい・斉一
   おさめる・斉家
   おごそか・つつしむ・斉聖
   中国の王朝名
   ものいみ・ものいみする・サイ
ーー↓↑ーー
 「斉=齊」⇔「斎=齋」
    二 ⇔ 示
    セイ⇔サイ
 ↓↑
 「斉」新字体=「齊」旧字体
 「一斉(イッセイ)・斉明(サイメイ)天皇
 ↓↑
 「斎」新字体=「齋」旧字体
 「書斎(ショサイ)・斎戒(サイカイ)沐浴(モクヨク)」
 ↓↑
 「齋藤=サイトウ=斎藤」
 ↓↑
 齋=亠+刀+丫+𠂎+丿+亅+示(二+亅+八)
      齋⇔齊
   丫(ア)⇔了(リョウ)
      (𠂎=ノレ乀(ノ⊥乁)
       卯=斤(斧・鉞)で
         半分に卩(たたき)割る
 ↓↑
 齋=亠+刀+丫+𠂎(卬=ノレ乀)+丿+亅+示(二+亅+八)
 ↓↑
 斎=齐+示
  =文+丿+亅+二+亅+八
  =亠+乂+丿亅+二+亅+八
    乂=かる・おさめる・ガイ・ゲ
    乄=しめす・〆る
   いむ・いつく・いわう・つつしむ・とき・サイ
   斎場
   異体字「齋・㪰・䄢・䬩・夈・斋・𠆈
       𠫱・𠮘・𥚪・𥜷・𩛚・𩝦
       𩱥・𩱳・𪗑・𪗒・𪗓」
 斎・・・斎=齋=齊=斉・・・?
        心身を清めること
        ものいみ・つつしむ・いつく・とき
        サイ
    「斎女(いつきめ)・心身を清めて神に仕える女」
    「斎王(いつきのみこ)
        伊勢神宮賀茂神社に仕えた
        未婚の内親王(皇族女子)、また女王」
    「斎宮(いつきのみや)
        伊勢神宮に奉仕した斎王の住まい」
    「いつき(斎)・いわう(祝う)」
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 葛飾北斎(ホクサイ)
    ・・・普段は汚れたキッたない格好で過ごし
    部屋も乱雑でモノが散らかれば引越しを繰り返し
    外を歩けばコジキのような格好・・・
    きたない(汚い・穢い)
    よごれていて、触れたくない気持ちを起こさせ
    不潔で、不快な感じを与えるさま・乱雑
    汚(きたな)かった・・・濊・穢・けがれる・・・
    汚(きたな)くなる
    汚(きたな)い
    汚(きたな)ければ
 ↓↑
 姓は川村氏
 幼名は時太郎(ときたろう)
 鉄蔵(てつぞう)
 春朗・宗理等三十余の別号
 通称は中島八右衛門
 明和元年(1764年)
 幕府御用達
 鏡磨師であった
 中島伊勢の養子
 のち、実子に家督を譲り、家を出る
 後
 貸本屋の丁稚
 木版彫刻師の従弟(とてい)
 貸本の絵に関心を持ち、画道を志す
 安永七年(1778年)
 浮世絵師・勝川春章の門下
 狩野派や唐絵、西洋画などの
 画法を学び
 名所絵(浮世絵風景画)
 役者絵を多く手がけた
 黄表紙の挿絵なども描いた
 用いていた号は
 「春朗(しゅんろう)」
 師・春章とその別号である
 旭朗井(きょくろうせい)から
 1字ずつもらい受けたもの
 ↓↑
 文化二年(1805年)
 「葛飾北斎」の号を用いる
 「北斎
 当初名乗っていた
 「北斎辰政」の略称・・・北の斎の辰の政
 これは
 北極星、北斗七星を神格化した
 日蓮宗系の
 北辰妙見菩薩信仰にちなむ・・・
 ↓↑
 「葛飾北斎」を名乗っていたのは
 戯作者の
 曲亭馬琴・・・曲亭の馬の琴・・・?
 ↓↑  曲亭馬琴
     明和4年6月9日(1767年7月4日)
     〜
     嘉永元年11月6日(1848年12月1日)
     読本作者・・・『南総里見八犬伝』の著者
     本名は
     滝沢興邦(たきざわ おきくに・瀧澤興邦)
     後に解(とく)と改める
 ↓↑  号は著作堂主人・飯台陳人
 ↓↑    玄同陳人・大栄山人
 ↓↑    信天翁
 ↓↑    蓑笠漁隠(さりつぎよいん)
 とコンビを組んだ一時期・・・?
 その間に
 『新編水滸画伝』
 『近世怪談霜夜之星』
 『椿説弓張月
 などの作品を発表し
 馬琴とともにその名を一躍不動のものとした
 挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われている
 北斎は一時期
 馬琴宅に居候(いそうろう)・・・
 ↓↑
 アイヌ語
 キムン・カムイ=ヒグマ=羆・日熊・氷熊
             樋熊・檜隈・日隈
 コタンコロ・カムイ=ふくろう・梟・蚯蚓・みみづく
 北海道=カイ・加伊・甲斐・蝦夷・華夷
 ↓↑
 クナシリ・メナシの戦い
 ↓↑


 夷酋列像・・・アイヌの十二人の肖像画
 作者は
 柿崎波響(はきょう)・・・・柳川天神
 松前藩移転…1824年・・・帰郷
 ↓↑
 伊勢参り
 旅人に手紙を実家に託す
 松浦武四郎
 長崎で病に倒れ
 寺で看病され
 出家
 ↓↑
 弘化
 天保の後、嘉永の前
 1845年〜1848年
 までの期間
 仁孝天皇
 孝明天皇
 江戸幕府将軍
 徳川家慶
 弘化二年
 蝦夷地探検
 ↓↑
 明治三年
 旧暦
 明治三年一月一日〜十一月十日まで
 1870年(2月1日〜12月31日まで)
 旧暦
 明治三年十一月十一日〜十二月二十九日まで
 1871年(1月1日〜2月18日まで)
 ↓↑
 松浦武四郎
 北海道開拓使
 辞任
 ↓↑
 明治 5年12月 2日
 (1872年12月31日)まで
 太陰太陽暦(旧暦)を採用
 ↓↑
 1845年
 干支=乙巳
 日本(天保暦
 弘化元年十二月二日〜弘化二年
 皇紀2505年
 中国
 清    道光二十五年
 朝鮮
 李氏朝鮮 憲宗十一年
 ↓↑

 1845年
 1月29日 - エドガー・アラン・ポー
     『大鴉(おおがらす、The Raven)』発表
   ・・・大カラス・・・「Nevermore」
   イギリスでの『大鴉』には挿画、
   有名イラストレータ
   『不思議の国のアリス』の
   ジョン・テニエル
   1875年の英語・フランス語対訳の
   フランス版にリトグラフを担当したのは
   印象派エドゥアール・マネ
   による挿画・・・マネの絵画には
   1860年代から流行した
   ジャポニスムの影響・・・
 2月7日 - 大英博物館
     「ポートランドの壺」が酔漢に破壊
 3月4日 - 米国
      ジェームズ・ポーク
      第11代大統領に就任
 3月29日(弘化二年二月二十二日)
     水野忠邦が老中を辞職
 10月2日(弘化二年九月二日)
     水野忠邦が隠居蟄居
 10月10日 - 米国で
       海軍学校(海軍兵学校)創立
 12月29日 - 米国でテキサスが28番目に州となる
 日付不詳 アイルランドでジャガイモ飢饉
      英国で
      ファラデー効果が発見される
      磁気旋光=磁場に平行な進行方向に
      直線偏光を物質に透過させたときに
      偏光面が回転する現象・・・?
 ↓↑
 誕生
 2月9日 - 馬建忠、思想家・外交官・言語学者
 ↓↑
 馬 建忠
 (バ ケンチュウ・Ma Jianzhong)
 1845年2月9日〜1900年8月14日
 清末の思想家・外交官・言語学者
 字は眉叔
 江蘇省
 鎮江出身
 馬建稃・馬相伯の弟
 カトリック教徒の家庭に生まれた
 ↓↑
 次兄の
 馬建稃は
 曽国荃
 に抜擢されて
 李鴻章の幕僚となり
 淮軍糧台を務めた
 四兄の
 馬相伯は教育家で
 震旦大学・・・上海にフランスのイエズス会
        設立した私立大学
        震旦=振旦・真丹
        古代インド人が中国を
        秦の土地 (チーナスターナ) と呼んだ
 や
 復旦大学・・・「日月光華、旦復旦兮(尚書・虞夏伝)」
         旦復旦・・・陽(煬)昇り、陽(煬)また昇る
                 煬=煬帝隋王朝・広)
                 隋朝の第二代皇帝
               在位 604年8月21日〜618年4月11日
         旦=「女形(おやま・オンナガタ
            歌舞伎の若い女性を演じる役者)」
        震旦大学と分離、独立させた
        中国上海市にある文理科総合大学
 の創設者
ーー↓↑ーー
 馬建忠は
 咸豊三年(1853年)
 太平天国軍が
 南京に入ると一家は
 上海に避難
 馬建忠と兄弟たちは
 イエズス会の設立した
 徐匯公学に入学
 フランス語やラテン語を学んだ
 アロー戦争で
 西洋の学問を学ぶ必要性を痛感し
 ラテン語・フランス語・英語・ギリシア
 の勉強を継続
 ↓↑
 同治九年(1870年)・・・同治=ドウジ・ドウチ
               =同字・同地・同値
 次兄の
 馬建稃の引き立てで
 李鴻章の幕僚となって
 文化の知識と語学力を認められた
 光緒四年(1878年
 郎中の資格で
 李鴻章によって
 国際法を学ぶために
 フランスに派遣
 同時に
 駐仏公使郭嵩蝱の通訳
 パリでは中国人として
 初めて
 バカロレア・・・フランスの国家学位の一
         中等普通教育の修了資格証明で
         大学入学資格証明
 をとり
 パリ政治学院で法学の学位を得た
 バカロレア・・・
 馬鹿賂例蛙?・・・秦の趙高(史記・秦始皇本紀)の策謀
 ↓↑
 馬建忠は
 光緒六年(1880年
 天津に戻り李鴻章のもとで
 洋務運動を推進
 ↓↑
 光緒七年(1881年
 アヘン(鴉片・阿片)専売と税収問題の解決のため
 イギリス領インド帝国に派遣
 光緒八年(1882年)
 李鴻章により朝鮮に派遣
 ↓↑
 朝鮮と
 イギリス・アメリカ・ドイツ
 との通商条約締結を推進(米朝修好通商条約など)
 「壬午事変」・・・1882年(明治十五年)7月23日
 ↓↑       光緒八年=高宗十九年六月九日
       興宣大院君らの煽動を受け
       朝鮮の首府漢城(ソウル)で起こった
       閔氏政権および日本に対する
       大規模な朝鮮人兵士の反乱
        ↓↑
       朝鮮国王
       高宗の王妃
       閔氏政権は
       開国後、日本の支援のもと
       開化政策を進めたが
       財政出費がかさんで
       旧軍兵士への俸給が滞って
       反乱のきっかけとなった
        ↓↑
       閔氏政権は近代的軍隊として
      「別技軍」を新設
       日本人教官を招致して教練を開始
       これに反発をつのらせた
       旧式軍隊が
       俸給の遅配・不正支給もあって暴動
       民衆も加わって
       閔氏一族の屋敷や官庁
       日本公使館を襲撃し
       朝鮮政府高官
       日本人軍事顧問
       別技軍の軍事教官
       堀本少尉、
       日本公使館員らを殺害
       前領議政(総理大臣)の
       李最応(興宣大院君の兄)
       も殺害
        ↓↑
       閔謙鎬
       前宣恵庁堂上の
       金輔鉉、閔台鎬、閔昌植
       ら閔氏系の
       高級官僚数名を惨殺
       別技軍の教練所長
       閔泳翊は重傷
        ↓↑
       暴徒は
       漢城在住の
       日本人語学生
       巡査らも殺害
       日本公使一行は
       仁川府を脱出
       済物浦から小舟で脱出し
       海上漂流し
       イギリスの測量船
       フライングフィッシュ号に保護
       7月29日
       在朝日本公使館弁理公使
       花房義質は
       長崎へ帰還
        ↓↑
       閔妃は王宮を脱出
       漢城市内の私邸に到着
       駕籠で忠州(忠清北道)付近の
       僻村へと逃亡、隠れ住んだ
       閔妃を運んだ
       駕籠かきの一人が
       水運びを生業とする
       貧しい庶民の出身で後の
       「李容翊」
        ↓↑
       興宣大院君が復権
        ↓↑
       日本は
       軍艦4隻と千数百の兵士を派遣
       清国もまた朝鮮の宗主国として
       属領保護を名目に
       軍艦3隻と兵3,000人を派遣
        ↓↑
       清国は反乱軍を鎮圧
       漢城府に清国兵を配置
       大院君を拉致、天津に連行
       閔氏政権を復活させた
        ↓↑
       日本は
       清の
       馬建忠+魚允中
        ↓↑ ↓↑
        ↓↑ 魚允中
          憲宗14(1848)〜建陽1(1896)
          朝鮮王朝 (李朝)の政治家
          字は聖執
          号は一斉
          梁山郡守,暗行御史 
          高宗 十八 (1881) 年
          日本視察の命を受け来日
          高宗 十九年
          朝米通商条約の条文作成に参加
          金弘集
          内閣の度支部(たくしぶ)大臣
          1896年親露派のクーデターで
          親日派であるという理由で
        ↓↑京畿道竜仁で殺害
       の斡旋の下
       閔氏政権と交渉し
       済物浦条約を締結
       賠償金支払い
       公使館護衛の日本陸軍駐留
       などを認めさせた
       清国は
       朝鮮政府に外交顧問を送り
       李鴻章を中心とする閣僚は
       朝鮮に
       袁世凱を派遣
       袁が事実上の朝鮮国王代理として
       実権を掌握
       袁世凱
       3,000名の清国軍を漢城に駐留させた
       朝鮮における
       親日勢力は大きく後退
 ↓↑ ↓↑ アメリカ合衆国も軍艦を派遣
    壬午の変(ジンゴのヘン)
    壬午事件などとも表記
    日本では
    朝鮮国事変
    朝鮮事変
    大院君の乱など
 ↓↑
 が発生し
 馬建忠は
 興宣
 大院君の連行にかかわった
 ↓↑
 馬建忠は
 光緒十年(1884年
 唐廷枢が管理する輪船商招局に入り
 光緒十六年(1890年)
 対外貿易の発展と民間産業の
 振興を説いた「富民説」を著し
 李鴻章に提出
 李鴻章から
 上海機器職布局総裁に任命
 経営難から辞職、故郷へ引退
 光緒二十一年(1895年)
 李鴻章に北京に呼ばれ
 日清戦争講和条約を結ぶために
 日本に赴く李鴻章を補佐
 光緒二十二年(1896年)
 上海で『時務報』主筆
 梁啓超を知り
 『適可斎記言記行』を著
 ↓↑
 馬建忠は
 光緒二十六年(1898年)
 中国語の文法書
 『文通(馬氏文通)』を著し出版
 光緒二十八年(1900年)
 再度
 李鴻章から呼び戻されたが死去
 ↓↑
 馬建忠は
 釐金(通行税)の廃止
 関税自主権の回復
 貿易の拡大
 民間産業の振興
 議会制度の採用
 を主張
 翻訳書院の開設を提言
 ↓↑
 鮫島 員規(さめしま かずのり)
 弘化二年五月十日
 (1845年6月14日)
 〜
 明治四十三年
 (1910年)10月14日)
 日本の海軍軍人
 海軍大将
 勲等は勲一等・功級は功二級
 爵位は男爵
 ↓↑ ↓↑
 弘化三年二月十三日
 (1846年3月10日)
 孝明天皇即位
 弘化三年八月三日
 (1846年9月23日)
 海王星発見
 ↓↑
 弘化四年三月二十四日
 (1847年5月7日)
 善光寺地震 M7.4
 ↓↑ ↓↑
 天保十五年十二月二日
 (グレゴリオ暦1845年1月9日)
  江戸城火災などの災異のため改元
 弘化五年二月二十八日
 (グレゴリオ暦1848年4月1日)
  嘉永改元
 ↓↑
 天保九年(1838年
 江戸城西ノ丸の火災
 天保十五年五月
 の火災は
 本丸の火事
 先に崩じた
 光格上皇に対する
 諡号復活の際に
 幕府の協力を得た事を背景に
 幕府の意向に配慮し
 改元が行われたとされる
 ↓↑
 出典
 菅原為定の漢文
 「書曰、弐公弘化、寅亮天地、晋書曰、
  昌聖徳格于皇天、威霊被于八表、
  弘化已煕、六合清泰」
 より
 ↓↑
 弘化年間
 弘化三年二月十三日(1846年3月10日)
   孝明天皇即位
 弘化三年八月3日(1846年9月23日)
   海王星発見。
 弘化四年3月24日(1847年5月7日)
   善光寺地震 M7.4
 誕生
 弘化三年閏五月二十四日(1846年7月17日)
   徳川家茂江戸幕府第14代将軍)
 弘化三年閏五月十日(1846年7月3日)
   皇女和宮仁孝天皇第八皇女、徳川家茂 正室
 弘化四年十一月二十八日(1848年1月4日)
   桂太郎(第11・13・15代内閣総理大臣
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