2650日目・・・十二月二十二日・・・明日は友人のW・Mさんの誕生日・・・「One Flew Over the Cuckoo's Nest」・・・「郭公」・・・「閑古鳥」・・・「カッコウの巣」って、他人の家の居候の癖に・・・大食い・・・あれが「自然環境」・・・深海の鯨の屍・・・大勢の生き物の生命を養って、最期の最後には骨の髄まで食いちぎられてしまう・・・子豚をペットにしている女性・・・アレって、「非常食」らしい・・・

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 カッコウ(郭公、Cuculus canorus)
 閑古鳥
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 托卵(たくらん)
 卵の世話を他の個体に托する動物
 代わりの親は仮親
 鳥類のそれを指したが
 魚類や昆虫類でも見られる
 托卵は、巣作りや抱卵
 子育てなどを仮親に托す行為
 一種の寄生
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 托卵では
 カッコウなどカッコウ科の鳥類が
 オオヨシキリホオジロ、モズ
 等の巣に托卵する
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 マザー・グース (Mother Goose)
 カッコーの巣の上で
 「One Flew Over the Cuckoo's Nest」
 「カッコウの巣の上に」
 Vintery, mintery, cutery, corn,
 Apple seed and apple thorn;
 Wire, briar, limber lock,
 Three geese in a flock.
 One flew east,
 And one flew west,
 And one flew over the cuckoo's nest.
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 「マザー・グース (Mother Goose) 」
 フランス語
 「マ・メール・ロワ(Ma Mère l'Oye)」
 の英語訳
 『昔ばなし(フランス語版)』(1697年)が
 ロバート・サンバーによって
 英訳されイギリスに紹介されたが
 この本の口絵では
 「コント・ド・マ・メール・ロワ
 (ガチョウ母さんのお話)という文字が
 壁にかかった額のようなものの中に
 書かれていた。
 英訳ではこの部分を
 「マザー・グースィズ・テイルズ」
  (Mother Goose's Tales)
 とし、本の副題として採用
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 郭公
 《鳴き声から》カッコウカッコウ科の鳥
  全長約35 センチ
  頭部と体の上面は灰青色
  胸と腹は白く暗灰色の横縞
  尾羽は黒灰色で
  白い横縞が入り
  先端も白い
  雌には赤褐色型もある
  全体に灰色
  腹に黒い横斑がある・・・腹黒いって?
 カッコウ
 ノビタキ、モズ科、ホオジロ科、オナガ
 などに托卵
 腹のしま模様はツツドリより細く薄い
 雄は体を横にして翼を下げ
 尾を左右に振りながら鳴く
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 『古事記
 名古屋にある
 北野山
 真福寺宝生院
 真福寺
 第二代
 信瑜の命令で
 賢瑜が書写した
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 1371〜1372年
 真福寺の僧
 賢瑜(ケンユ)が書き写した
 『古事記
 三巻揃いの
 現存最古の「古事記」写本
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 尾張藩
 本居宣長の門人
 稲葉通邦
 (イナバ・ミチクニ)
 が調査、発見
 「粘葉装」
 奥書に
 「執筆-賢瑜-俗老-廿八歳」
 「(同)廿九歳」は
 糊付けの中にある
 同じ賢瑜が写した
 仏書
 『秘蔵宝鑰』(ヒゾウホウヤク)
 から
 応安三年(1370)は27歳
 本書の書写が
 応安四年(1371)・・・建徳二年(1371)〜(1372)
            賢瑜が師
            信瑜の命を受けて書写した
 五年と判明したのは
 寛政十年春
 通邦は自分で書写した
 『古事記』の奥書だけに記す
 このことが一般に知れ渡るのは
 明治十六年以後・・・
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 『兼永-筆本-古事記』(1522)
 と共に、古事記写本の祖本
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 「古事記写本」は
 真福寺本系
 と
 「道果本-古事記」の
 兼永本系・・・『真福寺古事記』の約9年後
 の2種
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 鎌倉時代の写本で
 「卜部兼永」・・・1467〜1536 戦国時代の神道
          応仁元年生まれ
          吉田兼倶(かねとも)の次男
          平野神社神職
          卜部兼緒(かねお)の養子となる
          父の兼倶と不仲で絶縁
          吉田氏と対立
          大永(たいえい)三年(1523)
          神祇大副(じんぎのたいふ)
          天文(てんぶん)五年
          丹波権守(ごんのかみ)
          同年七月二十七日
          天文法華の乱で戦死・70歳
          著作に
         「延喜式神名帳秘釈」など
 が所持
 「兼永本」
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 吉田兼倶(かねとも)
 1435〜1511
 吉田神道唯一神道)の事実上の創始者
 本姓は卜部氏
 初名は兼敏
 父は兼名
 代々神祇権大副として
 吉田神社
 平野神社の神官
 神儒仏
 三教混合のうえに立って
 唯一神道 (吉田神道) を大成
 文明十六(1484) 年
 京都神楽岡に宮を創設
 神祇斎場所として
 天神地祇のすべてを祀り
 明応一(1492)年
 神祇官復興の勅許を得
 神祇管領長上と称する
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 足利義政の知遇を受け
 神祇道を総管する野望をもって
 日蓮宗徒と結んで
 神道説を権威づけ
 伊勢神宮からは
 神敵とされ
 神祇伯(じんぎはく)
 白川家と対抗し
 朝廷、室町幕府
 神道界に君臨
 主著
 『神道大意』
 『唯一神道名法要集』
 『日本書紀神代抄』
 ↓↑
 道果=道捗=みちはか
   =旅程、道行きのはかどりぐあい
    どうか・さとり
    阿羅漢果→阿羅漢
    さとりの位
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 太宗=李世民
    唐
    在位
    626年9月4日〜649年7月10日
    姓・諱
    李世民
    諡号
    文武大聖大広孝皇帝
    開皇17年12月16日(598年1月28日)
    〜
    貞観23年5月26日(649年7月10日)
    父  高祖
    母  太穆皇后 竇氏
    后妃 長孫皇后
    唐朝の第2代皇帝
    高祖
    李淵の次男
    李淵と共に唐朝の創建者
    兄の
    李建成を殺害
    父の
    高祖を幽閉(626年「玄武門の変」)
    第二代の皇帝
    太宗(在位626〜649年)となった
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