2653日目・・・「漢字=カンジ=貫地・完治・幹事・監事・寛治=かんじ・感じ」だけが根拠の「コジキ」・・・しかじか(云々・然々・如かじか・呵じか・敷かじか)、うんぬん(云々)・・・かれこれ(彼此)、トウゼン(当然・當然・当前・陶然・洞禅・堂前・東漸・東禅・等膳)・・・「とおせんぼう=通せん坊=両手を広げて道をふさぎ、人が通れないようにする遊び・とおせんぼ・通路をふさいで、行く先や交通をさえぎること」、「通るのを邪魔する子供の遊び・通路をふさぎ、通れなくすること」・・・

 「一本足の高下駄を履き、松明を持ったトウセン坊の大男・・・おっかぁ〜、ッ・・・オレはどうして?マグマの崖ッ淵ちなんかで海に落とされるんダょうッ!」・・・東仙坊・・・?・・・東尋坊(とうじんぼう)・・・?
 ・・・唐を尋ねる十一の方・・・亥の北々西・・・S&NのKの政治屋と、それらの海寇賊組織・・・醜く足搔(あが)いているな・・・
 「あがく」って=「悪い状態から抜け出そうとして、もがく」?
         「良い状態から抜け出そうとして、もがく」?
 「とおせんぼう」しているのは「己(ム・自)の根性」だろう・・・?
 あのSKのオンナ報道官、「C 賢の洙、57〜」、NKの「R 春の姬、1943年7月8日〜」や、CKの「H 春の瑩、1970年4月?日〜」、NAの「Sarah Elizabeth Huckabee Sanders、1982年8月13日〜)」・・・共通項は「おんな」ダケレド・・・+αのノイズが被る・・・
 ↓↑ ↓↑
 とおせんぼう
 とうせん棒=「当選・当籤・投扇・陶仙・刀銭・冬川」防・・・
 「陶潜」・・・トウセン・・・
 「唐船」・・・ジャンク・・・
  長崎に来航した中国船
 沙船(シャセン)、鳥船(チョウセン)
 沙船=船体の内部を水密隔壁で仕切った
    平底の船・長さ30メートル
    通常、大小3本の帆柱
    船尾が船首より高く
    積量50トンほど
    ポルトガル人が「ジャンク(junco)」といった船
 鳥船=船首から船尾にかけて竜骨を通し
    竜骨に組み合わせて
    多数の肋(ろく)材を配列し船底を尖せた船
    長さ30〜50メートルほど
    3本の帆柱、船尾と船首の高さが平均し
    積量100〜450トンほど
    ポルトガル人が「ソマ(soma)」といった船
    1723年(享保八年)
    清国政府は船首の両わきを
    地域別に塗り分け
    来航唐船のうち
    南京(ナンキン)船(上海出航)は藍(あい)色
    浙江(セッコウ)船(乍浦(サクホ)出航)は白色
    福建船(厦門(アモイ)出航)は緑色
    広東(カントン)船(広州出航)は赤色
    に塗った
    中国語の「船(チュアン)」が転訛し
    マライ語の「jōng」
    更に
    スペイン語ポルトガル語の「junco」に転訛
 ↓↑ ↓↑
 「陶潜」・・・
 「帰去来の辞」・・・歸去來兮・・・記虚来経?
          (キキョライケイ)
          (かえんなんいざ)
           田園・・・・・伝縁・傅圓
           將蕪・・・・・尚武・踵部・塩生・菖蒲
                  蕪=日+下+無
                    かぶ・株・下部
           胡・・・・・・えびす・ウ・コ
                  胡=古+肉
           不歸・・・・・付記・不起
                  歸=自+止+ヨ+ワ+巾
                    自+ト+人+ヨ+ワ+巾
           田園は
           将(まさ)に
           蕪(あ)れんとするに
           胡(な)んぞ
           不帰らざる           
 陶淵明・・・陶=阜(阝)+勹+缶(午凵)
            ・・・缶=𠂉+一+山・・・缶詰め
       異体字「𡍒・𨹋・𨺃」 
         すえ・トウ(タウ)
         焼き物・陶器・陶工・陶土・彩陶・製陶
         人格を練りあげる・教え導く
         陶冶 (トウヤ)・薫陶
         うちとけて楽しい
         陶酔・陶然
         もやもやして晴れない
         鬱陶 (ウットウ)
    ・・・陶器、日月の圓の淵
    ・・・陶磁器=トウジキ=問う時期・問う字記・冬至
    ・・・陶の邑=オオタタネコの所在地
           意富多多泥古(古事記
           大田 田根子(日本書紀
       河内 之美努 村(古事記
      (かふちのみののむら)
       茅渟県の   陶邑(日本書紀
      「茅渟
       (ちぬのあがた)陶邑(トウのムラ)に
       於(おい)て大田田根子(たねこ)を
       得て之(これ)を貢(たてまつ)る」
    ・・・「西陶器、東陶器の地名の堺市泉北丘陵」
    ・・・陶晴賢(すえはるかた)=陶隆房(たかふさ)
       天文二十年(1551年)
       主君・大内義隆を討ち
       大友晴英(後の大内義長)を当主に据え
       弘治元年九月二十一日(1555年10月6日)
       厳島の戦い前に出家し・・・毛利元就に敗北
       辞世の句
      「何を惜しみ 何を恨みん
       元よりも この有様に 定まれる身に」?
      ・・・ナルようにしかナラン、ってか・・・
 ↓↑      ↓↑
 ↓↑      淵=氵+𣶒
         ふち・エン
         水を深くたたえている所
         海淵・深淵
         物事の出てくる根源
         淵源
         物の多く集まる所
         淵藪 (エンソウ)
        「渊・渕」は俗字
       異体字「渊・𢏮・𠀯・𣶒・𠝃・囦・𡆼・𡇋
           𣴺・𣴸・渁・渆・㴊・𣷬・𣾬・𤀵
           灁・㶜・渕」
       簡体字「渊」
 ↓↑
 (365年(興寧三年)〜427年(元嘉四年)11月)
 魏晋南北朝時代六朝期)
 東晋末〜南朝宋の文学者
 字は元亮
   陶潜
   淵明
 死後友人からの
 諡にちなみ
 「靖節先生」
 「五柳先生」
 尋陽柴桑(江西省九江市柴桑区)の人
 「隠逸詩人」「田園詩人」
 祖先
 三国呉の
 揚武将軍・陶丹
 陶丹の子で東晋
 大司馬・長沙郡公の
 陶侃は曾祖父
 祖父の陶茂は
 武昌郡太守・・・武⇔「神武・天武・文武・聖武桓武天皇
        は昌(あきらか)に
         郡(こほり)の
         太(おほ・おお)の
         守(まもり・かみ・シュ)
 「寒門(単家)」と
 呼ばれる下級士族の出身
 427年、死去。享年63
 その誄(追悼文)は
 顔延之・・・顔(彦+頁)を延(のばす)之(これ・シ)
 が書いた・・・
 ↓↑
 顔延之(ガン エンシ・384年〜456年)
 宋の文学者
 字は延年・・・延(のば)す年
 本貫は
 琅邪郡臨沂県
 宋の
 文帝や
 孝武帝
 宮廷文人として活躍
 謝霊運・鮑照
 らと「元嘉三大家」に総称
 謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる・・・
 ↓↑
 トウセン
 「桃仙(桃の神)=意富加牟豆美命
         (おおかむづみのみこと・古事記)」・・・
 「伊邪那美」の「黄泉(よみ)の国」から
 「伊邪那岐」の帰還を助けた「意富加牟豆美命」・・・
 ↓↑


 白村江の海戦・・・海鮮・・・会戦・・・廻船・・・改選・・・
ーーーーー
 ・・・「郭(くるわ・カク)」とその関連の名の探索・・・?
 ↓↑
 列伝第三十一・・・郭祚
           ↓↑
           祚=示+乍(ながら・サ・ジャ)
             さいわい・しあわせ・天祚
             くらい・天子の位・皇祚
             とし(年)・年祚
          皇祚(コウソ)・践祚(センソ)
          天祚(テンソ)・福祚(フクソ)
 列伝第三十七・・・朱瑞
          叱列延慶・・・叱る延慶(慶喜・慶応)の列?
          斛斯椿
          賈顕度・樊子鵠・侯深
          賀抜允・・・賀(くに)を抜いて允(あて)る?
          侯莫陳悦
          念賢・・・・・賢瑜?
          梁覧・・・・・梁史(リョウシ)をミ(覧)る
          雷紹
          毛遐・・・・・毛人=蝦夷
          乙弗朗
 列伝第四十 ・・・斉宗室諸王下
          河南王孝瑜・広寧王孝珩・河間王孝琬
          蘭陵王長恭・安徳王延宗
          漁陽王紹信・・・漁の陽(楊)王の紹信?
                    煬帝の紹信?
          太原王紹徳・范陽王紹義・西河王紹仁
          隴西王紹廉・楽陵王百年・汝南王彦理
          南陽王綽
          琅邪王儼・・・琅邪の王の儼(イの厳)
          斉安王廓・・・斉安王の「廓=くるわ=郭」
          東平王恪
 列伝第四十一・・・万俟普・・・・万俟普・・・太安万侶の俟普
          可朱渾元・劉豊
          破六韓常・・・六(陸)韓は常に破れる
          金祚・・・・・金の祚(示+乍)
          劉貴・蔡儁
          韓賢・・・・・韓の賢
          尉長命・・・・尉の長の命
          王懐・任祥
          莫多婁貸文・・・莫多の婁の貸す文
          厙狄迴洛
          厙狄盛・張保洛・侯莫陳相・薛孤延
          斛律羌挙
          張瓊・・・張の瓊
          宋顕・・・宋書に顕(あら)われる
                  日並の頁=草壁皇子
          王則・・・王の規則
          慕容紹宗
          叱列平・・・叱る列平
          歩大汗薩・・・歩く大汗の薩(薩摩)
          薛修義・慕容儼・潘楽・彭楽
          暴顕
          皮景和・・・皮の景の和
          綦連猛・・・綦が連なる猛(建)
          元景安・・・元は景の安
          独孤永業・鮮于世栄
          傅伏・・・・傅伏=センプク・潜伏・船腹
                イは専ら伏す
 列伝第四十二・・・孫騰・・・孫の騰
          高隆之・・・高の隆しの之
          司馬子如・・・司馬の子の如く
          竇泰
          尉景・・・尉の景(景行天皇高橋景保
          婁昭・厙狄干
          韓軌・・・韓の軌跡・軌道
          段栄・・・段の栄(さかえ)
          斛律金
 列伝第五十八・・・韓褒・・・韓の褒(褒美・褒章)
          李彦・・・李の彦(木ノ子の彦=比古)・諺
          郭彦・・・郭の彦(クルワの彦=比古)・諺
 列伝第五十九・・・隋宗室諸王・秦王俊・・・秦の王の俊
 列伝第六十四・・・段文振・・・段の文を振る
 列伝第六十九・・・儒林上・郭遵・・・郭の遵(遵法)
 列伝第七十三・・・節義
          于什門
          段進・・・・段を進める
          石文徳・・・石の文の徳
 列伝第八十・・・・郭秀・・・・郭の秀
ーー↓↑ーー
 義慈王・・・・・・擬似負う・疑似王・擬餌押
 (599年〜660年)
 百済
 第三十一代・・・・三十一巻=日本書紀
 最後の王
 (在位641年〜660年)
 ↓↑
 唐からは
 「柱国・帯方郡王・百済王」
 に封ぜられた
 諱は
 義慈
 第三十代
 武王
 の嫡男
 母は不詳
 (新羅の真平王の娘
  善花公主という説
  百済貴族出身の
  沙宅-王后という説)・・・沙宅=砂宅・・・砂上の楼閣
 『旧唐書』に
 扶余-義慈・・・扶余(アマリのタスケ)-義慈(擬似・記事・生地)
           阿毎王朝の援護
 と記録
 高句麗と共同し
 新羅を攻めていたが
 唐・新羅同盟軍に
 660年・・・・・・・六百六拾=陸百陸例(令)
 唐に滅ぼされた・・・
ーー↓↑ーー
 孝、泰、隆、演
 豊璋・・・・・・・・・豊国(ぶんご・大分)の王の章
 勇(百済王善光)・・・長野県の善光寺
 の6人の王子
 王子の
 豊璋王
 禅広王(善光王・勇)
 を倭の人質した
 庶子41人
ーー↓↑ーー
 642年
 7月
 新羅に親征
 獼猴・・・おおざる・ビコウ=備考・尾行・・・
 など40城余りを下した
 8月
 将軍の
 允忠
 に兵1万を率いさせて派遣
 大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃し大勝
 降伏した城主を妻子ともども斬首
 男女1千人を捕虜とし
 百済の西部に移住
 斬首にされた城主の妻は
 金春秋(武烈王)の娘
 古陀炤公主・・・
 ↓↑
 643年
 高句麗と同盟(麗済同盟)し
 新羅
 党項城(京畿道華城市)を奪おうとしたが
 新羅が唐に救援を求め
 新羅攻撃は中止
 ↓↑
 この間も唐に朝貢を続けたが
 新羅と唐との接触を招く
 唐からは
 百済新羅
 両国に対して和平を進めた
 ↓↑
 644年〜649年
 新羅との間で戦争
 金庾信・・・金の庾の信
 ↓↑      庾=广+臾
         異体字「㔱・𢈔・㢏・斔・斞・𣂂」
           くら・ユ・・・
           屋根なしのモノ置き場
           臾=𦥑+人
           ひきとめる・しばらく・ユ・ヨウ
           わずかの意の「須臾(シュユ)」
           すすめる・そそのかす・「縦臾(ショウユ)」
 ↓↑        異体字「㬰・𠒍・蕢・䕚・蒉・𤆂・𧂟・𧸋」
 の新羅軍に
 649年8月
 道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗
 ↓↑
 651年
 高宗から
 新羅との和睦を進める璽書を送られたが
 655年
 高句麗・靺鞨
 と組んで
 新羅の30城を奪った
 驕慢になった
 義慈王
 は酒色に走り
 諫めた
 佐平の
 成忠(浄忠)
 を投獄
 ↓↑
 660年
 唐の高宗は
 蘇定方に
 大軍13万を率いて
 海路より進ませ
 新羅
 武烈王(金春秋)
 金庾信・・・532年に新羅に併合された
       金官-伽倻の王族
       妹は
       武烈王(金春秋)に嫁いだ
       文明夫人
       その長子は
       第三十代
       文武王
       後に
       武烈王の三女を
       智炤夫人
       として娶った
 ↓↑    647年
 ↓↑    善徳女王
       の死後
       金春秋
       と共に
       真徳女王
       を立て補佐し
       女王の死後
       金春秋(武烈王)を即位させた
       新羅
       648年
       高句麗-百済同盟
       に対抗
       唐に救援
       660年
       唐-新羅の同盟で
       黄山伐の戦い
       百済の将軍
       階伯を破り、百済を滅ぼした

       663年
       白村江の戦い
       で
       倭と百済の残党勢力を排除
       668年
       高句麗に出兵し
       滅ぼした
 ↓↑
 の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)し
 百済を攻めることとなった
 ↓↑
 百済
 白江(錦江の支流)に引き込んで
 迎撃することとなり
 大敗
 唐・新羅軍が首都の
 泗沘城(忠清南道公州市)まで迫ると
 義慈王
 いったん
 太子
 とともに北方へ逃れた
 ↓↑
 王の第2子の
 泰
 が自ら王を名乗って
 泗沘城を固守
 太子の子の
 文思・・・文の思?
 が
 隆
 に相談し
 唐軍が去ったとしても
 自立した
 泰に害せられることを恐れて投降
 泰も開城して投降
 義慈王も諸城をあげて降伏
 百済は滅んだ
 ↓↑
 義慈王は妻子とともに
 長安に送られ
 その年のうちに
 唐で病死
 「金紫-光禄大夫・衛尉卿」
 の爵号を贈られた・・・ナゼ?
 ↓↑
 641年3月
 死去した30代
 武王(余璋)にも
 唐の太宗は「哭泣の儀礼」を以て悼み
 「光禄大夫」の爵号が追贈されていた
 ↓↑
 武王(580年?〜641年)
 百済の第30代の王(在位600年〜641年)
 第29代
 法王の子(『北史』に第27代威徳王の子と記録)
 諱は璋
 『三国遺事』の王暦に
 武康
 献丙
 の別名が記録
 『隋書』に
 余璋
 の名
ーー↓↑ーー
 大佐平
 673年
 天武天皇
 百済人の
 沙宅昭明に
 大佐平の位を賜わった「日本書紀
 「大佐平」=百済王が臣下に授ける最高位
 ↓↑
 沙宅-紹明(サタク-ショウメイ)
 「才思頴拔、文章冠世」
 藤原鎌足の碑文を作った
 天武2年閏6月
 大錦下の位で没
 外少紫・大佐平を贈
 塔本春初(とうほんしゅんしょ)
 百済滅亡により渡来した百済の軍人
 ↓↑
 618年(推古二十六年)
 隋、滅亡
 『日本書紀』では裴世清
 『隋書』では編纂された時期が
 唐太宗の時期であったので
 太宗の
 諱・世民を避諱して
 裴清となっている・・・世民=裴世清?
 ↓↑
 655年
 斉明元年
 唐の高宗は倭国に国書を送り
 新羅に味方して出兵するよう求めている
 (『新唐書』)
 ↓↑
 655年
 新羅は唐に援軍
 新羅本紀
 武烈王
 二年春正月
 伊飡の
 金剛
 を拜(め)し
 上大等と爲し
 波珍飡(はちんさん)の
 文忠(ぶんちゅう)
 を
 中侍と爲す
 ↓↑
 高句麗
 百濟・靺鞨は連兵し
 我が北境を侵軼し
 三十三城を取る
 王は使を遣はし
 入唐し援を求む
 ↓↑
 三月
 唐は
 營州都督(ととく)
 程名振(ていめいしん)
 を遣はし
 右衛中觔將
 蘇定方(そていほう)を
 左(たす)け、
 兵を發し高句麗を撃つ
 元子(長男)の
 法敏(ほうびん)
 を立て太子と爲す
 庶子
 文王を
 伊飡と爲し
 老且(ろうしょ)を
 海飡(かいさん;波珍飡)と爲し
 仁泰(じんたい)を角飡と爲し
 智鏡(ちきょう)
 緂元(がいげん)
 の各(それぞれ)を
 伊飡とす
 ↓↑
 冬十月
 牛首州が白鹿を獻ず
 屈弗郡が白猪を進(たてまつ)る
 一首にして二身、八足
 ↓↑
 王女の
 智照は
 大角飡の
 庾信に下嫁す
 ↓↑
 鼓樓を
 月城内に立つ
 蘇定方は
 左衛勲一府中郎将の時
 程名振
 と高句麗を攻め、これを破り、
 右屯衛将軍に任ぜられ
 臨清県公に封ぜられた
 ↓↑
 660年
 熊津道大総管
 軍を率いて
 熊津口より
 百済に上陸し
 百済主力軍を破る
 ↓↑
 660年
 斉明天皇六年七月
 ↓↑
 高句麗
 道顕の記事
 天智天皇二年八月二十七日〜八月二十八日
ユリウス暦)663年10月4日〜10月5日

ーー↓↑ーー
 ・・・
 宇文化及・・・宇の文化に及(およぶ)?
        宇は文化を普及させる?
 は
 反煬帝勢力を糾合し
 618年
 謀反
 煬帝を縊り殺し
 煬帝
 甥、
 煬帝の弟の
 秦孝王・・・秦の孝王の
 楊俊の子
 秦王
 楊浩
 を皇帝に擁立
 江都の隋軍を率いて
 北へと帰還しようとしたが
 王世充・李淵・李密
 らの勢力に阻まれて
 大興城を恢復することはできなかった
 ↓↑
 宇文化及は
 皇帝
 楊浩を毒殺し
 国号を
 許
 として自ら皇帝に即位するが
 宇文化及は
 天寿二年(619年)
 竇建徳との決戦に大敗して殺害
 許は崩壊
 ↓↑
 朝鮮王朝国家
 『申句發』の
 遠征軍
 高場雨が
 隋に侵攻
 その後、
 『申句發』
 の滅亡により
 新たにできた
 『高句麗新羅国家連合』
 による新外交政策により
 隋
 と
 高句麗
 新羅
 国家連合は
 同盟関係
 ↓↑
 恭帝 侗(きょうてい とう)
 隋の第4代皇帝
 唐の高祖
 李淵に擁立された
 異母弟の
 楊侑とは異なり
 唐を正統とする立場から
 後世からは
 正統な皇帝とみなされていない
 元号を皇泰としたため
 皇泰主とも史称
 ↓↑
 元徳太子
 楊昭の次男
 大業3年(607年)
 祖父の煬帝から
 越王に立てられた
 煬帝が巡幸に出る度
 東都洛陽の留守を任され
 大業9年(613年)
 楊玄感の乱が起こると
 戸部尚書
 樊子蓋とともに洛陽を守備
 乱後
 東都留守のまま
 高陽郡太守
 大業13年(617年)
 煬帝が江都に下ると
 段達・元文都・韋津・皇甫無逸
 らとともに洛陽を守った
 洛口倉に拠った
 李密が攻勢をかけ
 王世充らを派遣して
 一進一退を繰り返した
 大業14年(618年)
 煬帝
 宇文化及らに殺され
 段達らに擁立されて即位
 ↓↑
 段達が
 礼部尚書・右翊衛大将軍
 王世充が
 吏部尚書・左翊衛大将軍
 元文都が
 内史令・左驍衛大将軍
 盧楚が
 内史令
 皇甫無逸が
 兵部尚書
右武衛大将軍・・・・・武衛
 郭文懿が・・・・・・・郭の文の懿
 内史侍郎・・・・・・・内史
 趙長文が・・・・・・・長文
 黄門侍郎・・・・・・・黄門
 になった
 朝廷を牛耳る
 段達らを
 「七貴」と称した
 ↓↑
 元文都
 盧楚
 郭文懿
 趙長文
 ↓↑
 は
 王世充・・・・・・・・王の世に充(あてる)
 に殺害
 ↓↑
 皇甫無逸・・・・・・・皇の甫(補)は逸脱、無
 は
 長安に逃れて
 唐に帰順
 ↓↑
 王世充が
 李密
 を破って実権を掌握すると
 皇泰二年(619年)五月
 恭帝
 王世充
 に禅譲
 潞国公
 に封ぜられ
 翌月
 王世充
 によって
 服毒自殺を命じられ
 楊侗
 は
 「生まれ変わっても
  皇帝の家には生まれ変わらぬように」
 と遺言し服毒
 死ななかったために
 縊り殺された・・・
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 ↓↑
 霅=雨+言
   音読み=トウ
   霅霅=いなずまのきらめくさま
 霣=イン・おちる・雷・落雷
 古代中国で
 赤い蛇のような体を持ち
 体長が千里におよぶとされる
 燭陰という神が信じられていた
 何新
 は
 大地の最北極に住む
 燭陰=オーロラ
 徐明龍
 は
 燭陰=祝融・・・炎帝の子孫・火の司
      火災にあう事を「祝融に遇う」と喩える
      『山海経(海外南経)』
      南の神で、姿は獣面人身
      『史記(三皇本紀)』
      共工と戦って共工
      不周山に頭を激突させた
      『墨子非攻・下)』
      天帝の命令を受け
      商の成湯が
      夏を滅ぼす際に
      夏の都城に火を降らせた・・・旧約「ソドム」
      『山海経(海内経)』
      天帝に許可を得ずに
      洪水を防いだ
      「鯀(コン)=魚+系」を
      天帝の命令で祝融が殺した
 と同一神とする
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 ・・・???・・・