干瓢(カンピョウ)・瓢箪の字・・・寛平(かんぴょう)の治・・・8のパイ

 2980日目・文字霊日記
  アワのクニ・・・運河の國・・・蘇州夜曲・・・呉島?
  ↓↑
  うたかた・・・?
  ↓↑
  ・・・歌(唄・唱・吟・詠・詩・謳・謠・謌・哥・雅樂)方(片)・・・
  ・・・宇多・宇田
  ・・・宇多天皇源定省・阿衡事件・仁和寺建立・内覧制度
              寛平(かんぴょう)の治
             『寛平御記(日記)』・・・愛猫の黒猫自慢
              菅原道真遣唐使廃止
  ・・・後宇多天皇=世仁(よひと)・大覚寺統
           文永十一年(1274年)一月
           亀山天皇から譲位
           八歳で践祚
          「元・高麗」軍の
          「文永・弘安・元寇襲来」
  ↓↑
  ・・・泡沫(うたかた)   
     水泡(水のあわ・みなわ=水沫
        消えやすいことからはかないこと
        無駄になること)
        幻=まぼろし(まもなく消えるはかないもの
               実際にはないのに
               あるように見えるもの)
        「しぶき、粉、灰、針」とも・・・
         泉鏡花「雪霊続記 」. ・・・
        「すべての間違いは
         泡沫のように消えて
         真なもの のみが
         生き残る」・・・?
        「邪悪なるモノが長生き、延命する」・・・だろうッ!
 シャボン玉ホリデー・・・?
 ↓↑
 石鹸=セッケン=接見・席巻・席捲・節倹・拙軒・・・
       切迫接見・・・選挙、選別、監視員・・・検査員
              目付、大目付
              六波羅探題
              六波羅弾正台
       弾正台(彈正臺)=律令制下の太政官制
                監察・警察・治安維持などを
                業務とする官庁の一
       天暦元年(947年)
       検非違使律令制下の令外官の役職
            非違(不法、違法)を検察する天皇の使者
            軍事・警察の組織として創設
            当初は門衛府の役人が兼務
            検非違使庁
            司法担当の
            刑部省、警察、監察
            担当の
            弾正台=都の司法、治安維持と民政を所管
            統括していた京職の権限に浸透
            地方派遣の官庁にも拡大
       創設の原因 
      「桓武天皇の軍団廃止・・・軍事の放棄・・・治安の悪化
       ???「軍隊廃止」・・・望むのはダレか・・・?
       日本の軍事力=兵士の能力、兵器の最新性・・・恐るのはダレ・・・?
 ↓↑     ↓↑
 条約・契約・約束・・・暴力次第でアワになる・・・
 ↓↑
 泡(あわ・ホウ)になって彈けるモノはシャボン玉・・・
 ・・・「アワ」の栽培ではなく、「クリ」の栽培だったのは
 「青森県」の「三内丸山縄文遺跡」の集落だった・・・・
 約5500年前~4000年前
 約1500年間にわたって存在した・・・
 集落は
 住居、墓、捨て場
 大型掘立柱建物、掘立柱建物
 貯蔵穴
 墓・土坑墓
 粘土採掘穴
 盛り土、道路
 などが、計画的に配置・・・

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 ↓↑
 古代
 徳島県
 北の地域は
 粟(あわ)=西+米・・・栗(くり)=西+木
 の生産地で
 「粟国」
 南の地域は
 「長国」
 と呼称
 『古語拾遺
 神武東征で
 忌部氏
 を率いて
 「木国」の材木を採取し
 畝傍(うねび)山の麓に
 橿原(かしはら)宮を造営した
 「天富命(あめのとみのみこと)」
   ・・・阿波国に続いて房総の開拓
 が
 当地の開拓をし
 穀(コク・がら)
 麻(マ・あさ)の
 種を植えた・・・
 律令制において
 「長国造(ながのくにのみやつこ・ながこくぞう)」
 の領域を含め
 令制国
 「粟国」が成立
 ↓↑
 和銅六年(713年)
 元明天皇
 佳字、好字令で
 地名を二字で表記する
 「阿波」
 に変更された・・・
 ↓↑
 麻植郡(おえぐん)
 呉島、忌部、川島、射立
 呉島=くれしま・ごしま・ごとう
 ↓↑
 沖縄県 石垣市
 呉
 ↓↑
 呉国の首都
 蘇州=長江の南側・長江デルタの中心部
    太湖の東岸
    陽澄湖は東北側
    略称 蘇・呉
    別称 姑蘇・呉都・呉門・呉中・平江
    運河による水運生活
    蘇州夜曲
 ↓↑
 「諸樊」・・・ 樊=棥+大
          木+爻+木+大
          十+八+乂+乂+十+八+一+人
          ハン
          まがき・かご・とりかご・みだれる
          かこい
          樊(まがき)・垣根。生垣
          樊籬(ハンリ)
          藩=王室を護衛する諸侯・その領地・蕃国
            日本では明治時代に初めて公称とした
          かご・とりかご
          樊籠(ハンロウ)
          みだれる
          樊然・
 が
 この地を本拠とし
 諸樊の子孫の
 「闔閭」が
 呉の都として整備した
 「臥薪嘗胆・呉越同舟
 秦 以後
 「会稽」郡
 「呉」郡、「呉」県の役所が設置
 隋 代
 「蘇州」の名、呼称が始まった
 南朝最後の
 「陳」末の民衆反乱(589年)で
 町が破壊
 再建は役所を蘇州に戻した
 唐の
 「太宗」時代以後
 五代十国時代
 「呉越国」の都
 北宋
 「神宗」時代に
 府(首都に准じる)への昇格
 平江府
 「元」時代
 平江路
 「金」の南宋遠征軍が
 平江府を攻撃(1130年)
 南宋によって再建
 「元」末の
 「張士誠」が
 呉王を称して蘇州に都した
 「明」時代
 蘇州府が置かれて以後
 「蘇州」の名称が固定化
 ↓↑
 絹織物産地
 南宋時代
 木綿栽培が広まり
 綿織物の生産を図った
 アヘン戦争
 「上海」開港にともなって
 経済的地位が低下・・・
 ↓↑
 現在
 江蘇省省都
 南京に置かれている
 清代
 江蘇布政使が蘇州に駐在
 「太平天国」は
 蘇州を蘇福省の首府とした
 「南京」に都した
 中国国民党時代
 蘇州に
 江蘇都督行署を置き
 日本軍占領期にも
 江蘇省会であった

 安房(あわ)=上總(総)・下總(総)
        ボウソウ
       =房総半島=千葉
 ↓↑
 鎌倉時代
 幕府により
 佐々木氏
 小笠原氏
 が守護

 室町時代
 三管領家の一つ
 細川氏が支配
 ↓↑
 戦国時代
 小笠原氏の庶流
 三好氏が支配
 三好之長
 三好元長
 の代に
 京都に進出
 管領細川氏重臣として
 阿波を本国とし
 畿内で権勢
 ↓↑
 1540年代
 三好長慶
 の代で最盛期
 長慶の次弟
 三好実休
 が阿波を
 三弟
 安宅冬康
 が淡路を
 末弟
 十河一存
 が讃岐を統治
 ↓↑
 三好長慶
 自身は
 京都の幕府の元で
 管領代として中央政治に関与
 本国である阿波の他
 弟達の統治する
 讃岐、淡路、
 和泉、摂津、
 河内、山城、大和、丹波
 若狭、播磨の一部をも支配下に置いた
 1561年
 十河一存が急死
 1562年
 三好実休が戦死
 1563年
 長慶の嫡男
 三好義興が病死し
 長慶も病気がち
 1564年
 安宅冬康を誅殺し
 自身も病死
 ↓↑
 家督を継いだ
 三好義継は
 飯盛山
 若江城を本拠に勢力保持しようとするも
 三好三人衆
 重臣
 松永久秀
 らの主導権争いで弱体化
 ↓↑
 1573年
 三好義継は
 京都を追放された
 室町幕府第15代将軍
 「足利義昭」を保護して
 「織田信長」に
 若江城にて滅ぼされた
 ↓↑
 三好実休の嫡男
 阿波三好家の家督を継いだ
 「三好長治」
 が本国のる阿波を統治
 長治は
 阿波全土の国人や領民に
 「法華宗」を強要し、支持を失い
 土佐国
 「長宗我部」氏の侵攻にあい
 1584年
 阿波は
 「長宗我部元親」の支配下となった
 長宗我部元親
 1585年
 讃岐
 伊予の河野氏を制圧
 四国統一・・・
 その直後、
 1585年6月
 羽柴秀長
 10万の軍勢が四国へ送られ
 羽柴秀長
 羽柴秀次
 らの兵は阿波から上陸し
 宇喜多秀家
 讃岐へ
 小早川隆景
 伊予へと攻め込んだ
 ↓↑
 元親は
 阿波の
 白地城を本拠地に対抗したが
 羽柴軍上陸の2ヶ月後に降伏
 元親は
 土佐一国を安堵され
 土佐以外の三カ国は没収された
 ↓↑
 後
 「蜂須賀正勝(子六)」
 に
 阿波国
 淡路国
 を加増することを伝えたが固辞
 息子の
 「蜂須賀家政」が阿波に封ぜられた
 正勝と義兄弟の契りを結んだ
 「稲田植元」
 を客将として招き
 「淡路国」と県北部を知行地として任せた
 蜂須賀氏は改易されることなく
 江戸時代を通じて
 阿波国
 徳島藩・富田藩(徳島藩支藩
 淡路国の国主として
 阿波・淡路の二国を治めた
 稲田氏は独立を志向
 ↓↑
 明治
 廃藩置県
 阿波は
 名東県となり
 名東県は
 淡路国(淡路島)も範囲とし
 1873年(明治六年)2月20日
 香川県編入
 第二次
 府県統合により
 1875年(明治八年)9月5日
 旧 讃岐国部分が
   香川県として
   分立再置県
 1876年(明治九年)8月21日
 康午事変で
 敵対した
 淡路国兵庫県編入され
 阿波国部分は
 高知県編入
 1880年(明治十三年)
 旧 名東県が
 高知県から分離されて
 徳島県が発足
 四国は旧国の形のまま
 県へと移行した・・・
ーーーーー
 「庁例(使庁の流例の慣習法)」・・・?
 ↓↑
 刑事事件に関する職権行使のため
 律令とはちがった性質のを適用法
 ↓↑
 別当
 911年(延喜十一年)・・・?
 藤原忠平
 大納言に転任
 検非違使別当をそのまま兼帯
 ↓↑
 序文・・・別当・・・十一年・・・?
 「古事記序文」・・・?
 ↓↑
 十一年・・拾壱歳
      拾壱撚
 ↓↑
 延喜・・・延期・延麒・煙鬼
      円喜・遠忌・厭忌
 ↓↑   ↓↑ ↓↑
 この兼帯した例のみで
 他の例は無い
 五位以下から兼帯した例も無い
 検非違使別当
 検非違使を統轄する最高責任者で
 自身は検非違使ではない
 検非違使別当
 兼帯した権中納言
     従三位
     兼行
     左衛門督
     柳原量光
 が14 86年(文明十八年)に辞職以降
  16 55年(明暦元年)十月二十六日
     参議
     従三位
     行
     左衛門督
     油小路隆貞が
     兼帯するまで
     兼帯者不在・・・?
ー↓↑ーー↓↑ーーー↓↑

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     『巡り合わせの理論』
      ド・モアブル
      度・母阿武留?
      ↓↑
       π は
     『超越数
      円積
      与えられた
      長さを
      半径とする円
      と
      等積の
      正方形を作図
      は
      解くことができない
      ↓↑
      フェルディナント
      増える出意難 度?
      フォン
      不穏・訃音?
      リンデマン
      輪 出萬?
      ↓↑
      1600年代前半~
      円を対象とした
     「円理」
     『美しい理論』
      毛利重忠・・・3,16=π
      ↓↑
      円軌道・楕円軌道
      円周率=パイ(π)=Pi
      円周÷直径=3,14159265
      π=C/d
      円の 面積=πr²
      半径 r の
      球の 体積=4/3πr³
      球の表面積=4πr³
ー↓↑ーー↓↑ーーー↓↑

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 半径 r の円の周長 =2πr
 半径 r の円の面積 =πr²
 半径 r の球の体積 =4/3πr³
 半径 r の球の表面積=4πr³
 長半径 a
 短半径 b
     の楕円の面積=πab
 180° =π ラジアン
 ↓↑   ↓↑ ↓
 拾八是賂 等字 案
 ↓↑   ↓↑ ↓
 1663年
 村松茂清が
 『算爼(サンソ)』で
 「円の内接多角形の
  周の長さを計算する方法」
 で「3.14…」値を算出
 『算爼』では
 円に内接する
 正八角形から角数を順次2倍していき
 内接215=32768角形の
 周の長さで
 「3.1415 9264 8777 6988 6924 8」
 と小数点以下21桁まで算出
 小数第7位まで同じ
 1680年代
 円周率の値を
 「3.16」とする数学書はなくなり
 「3.14」に統一
 1681年頃
 関孝和
 内接217角形の計算で
 小数第十六位までの数値を算出
 1712年
 『括要算法』刊行に記録(記呂久?)
 江戸時代
 三大和算
 『塵劫記
 『改算記』
 『算法闕疑抄』
 増補改訂版で
 1680年代に
 「3.14」に統一
 ↓↑
 逆行の値
 江戸時代後半
 「3.16」に逆行
 文政年間(1818~30年)
 大衆向けの小冊子の中で
 「3.16」が普通に用いられていた
 ↓↑
 「橘南谿(1754-1806年)」
 は「3.14」はまだ確定していない
 「荻生徂徠
 「3.14」の根拠に納得しなかった
 円に内接する
 多角形の周を計算し
 円周率を出した
 内接多角形の角数を増やすほど
 求まる円周率の桁は増えていく
 値が増大無限
 「それがいくら増えても
  3.1416
  を超えない」
 ということを
 和算家たちは
 納得させることができなかった
 ↓↑
 「万人」に納得させる
 「理」に基づいての
 「計算」
 「円を
  内接多角形
  と
  外接多角形
  ではさんで
  円周率の
  上限
  下限
  を示すこと」
 ↓↑
 宅間流
 和算の円周率
 「鎌田俊清(1678~1747年)」
 享保七年(1722年)
 『宅間流 円理』の著書で
 唯一
 「円周を
  内接・外接
  多角形で挟み込んで
  円周率の
  上限
  下限
  を示す」
 鎌田は円周率の
 小数点以下24桁までの
 円周率の値を算出
 ↓↑
 「無限級数」展開
 円周率の
 無限級数による公式
 「蜂谷定章」
 松永良弼、坂部広畔
 川井久徳、長谷川寛閲
 らによるものがある
 ↓↑
 「建部賢弘」は
 円周率の二乗を求める
 日本初の公式を考案
 ↓↑
 和算の限界
 『塵劫記』の古い円周率「3.16」
 が残存
 『塵劫記』の重版(1694年)
 古い
 円周率「3.16」
 のまま出版され続け
 大衆的な通俗算数書で出版
 ↓↑
 江戸時代後半の和算
 秘密主義
 保守主義
 権威主義
 が在野の独創性を無視
 学問の進歩を妨げた
 ↓↑
 コンピュータ計算
 1973年
 100万桁
 を超えた
 2020年
 円周率は
 小数点以下
 50兆桁まで計算
 ↓↑
 π(Pi)は・・・ピ⇔ヒ=比・非・日・卑
 超越数・・・越を超える數・崇・枢・樞
       樞・枢⇔柩=棺=日嗣・・・継体
       樞=拾+八+匚+品
           ・・・品=ほん・しな・ヒン
 であるため
 コンパス(ぶん回し)=分回し(ぶんまわし)
 (規・䂓・椝・槼) 
 と
 定規
 の有限回の操作だけで
 円
 と
 等面積の
 正方形を作図することは
 不可能である

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ー↓↑ーーーー↓↑
      圓
      円大使主(つぶらのおほみ)
     『日本書紀
      履中天皇二年条
      円大臣(つぶらのおおおみ)
     『日本書紀
      雄略天皇元年条
      都夫良意富美(つぶらのおほみ)
     『古事記
      安康天皇の部分
     ↓↑
     葛城 円(かつらぎ の つぶら
     履中天皇二年(401年)
     国政参加
     ↓↑
     安康天皇三年(456年)
     眉輪王(目弱王)が
     安康天皇を殺害時
     ↓↑
     眉輪王
     と
     坂 合  黒 彦  皇子
    (さかあいのくろひこのみこ)
     を屋敷にかくまい
     雄略天皇
     屋敷を包囲され
     娘の韓媛(からひめ)
     と
     葛城の屯倉(みやけ)
     七ヶ所を差出し
     許しを乞うたが
     焼き殺された
    『日本書紀
     ↓↑
     坂合黒彦皇子は
     逃げこむ前に討たれ
     差出した屯倉も五ヶ所
     焼殺されたのではなく
     眉輪王を殺し
     自害した
    『古事記
     安康天皇三年(456年)
ーーーーー
 ・・・???・・・
月間の日干支サイクル
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html

年月日時×大運干支命式表の組織化
http://meisiki.bake-neko.net/meisikau/meiww35a1.html

http://meisiki.bake-neko.net/meisikau/meiww35a2.html