卑弥呼(ひみこ)の時代

 2915日目・文字霊日記
 弐百参拾八=貳佰(陌)参(參・丗)拾(足)捌

 ↓↑
 「三国志魏志公孫淵伝」
 ↓↑  ・・・公=八+ム
        孫=子+系(一糸)
        淵=氵+片+一+爿=渕=渊
        傳=イ+專(専・云)
        專=一+申+ム+寸
 ↓↑      ↓↑
 淵=渕=渊
 渕=浂+刂
   氵+关+刂
   氵+丷+天+刂
   氵+丷+一+大+刂
   氵+丷+二+人+刂
   氵+丷+一+一+人+刂
 渊=氵+丿+米+丨
   氵+丿+氺+一
      氺(水)を一(分ける)
           水平線・海平線
           horizontal line
           horizon
           water line
           sea horizon
           border line
           ボーダー・ライン
       天淵氷炭=テンヱンヒョウタ
       違いの差が非常に大
      「炭」は燃えている炭。
      「天」と「淵」
      「氷」と「炭」
       互いに性質が反対で
       非常に差があること
       出典 「陸游
       類義語
       雲泥之差(ウンデイのサ)・・・云出意の差?
       霄壤之差(シヒョウジョウのサ)・詞表上示唆?
       天淵之差(テンヱンのサ)・・・・典宛詞作?
       天懸地隔(テンケンチカク)・・・天を懸け地を書く?
       天壌之別(テンジョウのベツ)・・・天上、これを別ける?

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ーーーーー
  和知都美 命・・・和の知の都美・・・みやび=雅・鴉⇔黰?
           ワを知るミヤのビ?
 (ワチツミのミコト)が
 淡道(アハジ)の
 御井宮(ミイノミヤ)
 にいた
  和知都美 命
 (ワチツミのミコト)
 の二人の娘の姉妹
 姉は
  孝霊天皇(七代)の妃
  蝿 伊呂泥・・・はえ=蝿=映(掽・暎・栄)?
          波延(はえ)=波の延長⇔波紋の延伸?
 (ハエイロネ)  いろ=色・以呂・彩?
          ね=値・音・練・煉?
 別名
  意富夜麻登久邇阿札比売命
 (オホヤマトクニアレヒメのミコト)
 ↓↑
 妹の名前が
  蝿 伊呂杼
 (ハエイロド)
 (古事記
 ↓↑
 孝霊天皇(七代)
 妃の
  倭   國 香媛
 (ヤマトのクニカヒメ)
 別名
  絚 某 姉
 (ハヘイロネ)
  倭  迹々日百 襲姫  命
 (ヤマトトトヒモモソヒメのミコト)
 (日本書紀

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-ーーーー
 垂仁天皇の時代
 丹波出身の
 四人の姉妹が垂仁天皇に嫁いだ
 綺麗でなかった
 二人を里に送り返えされ
 「円野比売命(まとのひめのみこと)」
     ・・・圓 の比べウリ見事?
 は
 醜いという理由で返され
 恥ずかしいと思い
 木の枝に取り懸(さがって)
     ・・・記紀の詞に譯理懸けて?
 自殺を試み
 そのことから
 『懸木(さがりき)』・・・懸(か)け記紀(きぎ)
 と呼び
 その後、姫は深い谷に落ち死亡
 後、その場所は
 「堕国(おちくに)」・・・堕=陏+土=隋の拾う壱の語句
               =阝+ナ+冃+十+一
 と呼ばれ
 『乙訓(おとくに)』・・・音訓
 という地名になった・・・
 ↓↑
  相良木 (字)・・・相楽(さがら)木=懸木・さがりき・さがらか
(あいらぎ(あざ))
  大 熊 ヶ沢 (字)
(おおくまがさわ(あざ))
  大 原 田(字)
(おおはらた(あざ))
  切 掛 沢 (字)
(きりかけざわ(あざ ))
  熊 ヶ沢 (字)
(くまがさわ(あざ))
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 司馬師(シバシ)・・・しばしマテ・・・チョっと待て
                    Just a moment !
                    邪諏綴 揉めんと
                    邪主土 母女務徒?
 ↓↑    ↓↑
     シバシ・・・しばし=暫し=車+斤+日
    「史話・司馬・芝・志波・斯波」+シ・・・波斯(ペルシャ
                紫波・斯和・志和・志王
        織田家の主人筋「斯波」氏    「紫波・志和・史話」+シ
        陸奥国斯波郡(しわぐん・岩手県盛岡市の一部・紫波郡)を所領
     暫=斬+日
       車+斤+日
       ザン
       しばし・チョッと=一寸
       しばらく・少しの間・わずかの間
       一時的に・仮に。
       しばらく・久しぶり
       ある程度長い間
       副詞
       少しの間・しばらく・ちょっとの間
      「花山院の出家(大鏡)」
      「弘徽殿の女御の御文の
       日ごろ破り残して
       御身も放たず
       御覧じけるを
       思し召し出でて
      『しばし』・・・少し待て
       とて
       取りに入り
       おはしましける
       ほどぞかし」
       待て暫し(まてしばし)
      「しばらく待て」
       他人の行動 を抑制したり
       自分の行為を少しの間
       押しとどめて考えなおすときにいう語
      「待て暫しと 思案する」
      「待て暫し」=ちょっと待て
      「シバシ、まて」・・・?
 ↓↑
 208年~255年
 魏の武将、政治家
 字は
 子元
 西晋
 世宗の廟号
 景帝の諡号
 司馬懿の長子
 司馬昭・司馬榦の同母兄
 生母は
 張春華(宣穆皇后)
 ↓↑
 司馬懿=司馬 仲達
 179年~251年9月7日
 後漢末期~三国時代
 曹魏にかけての武将・政治家
 西晋の礎を築いた
 字は
 仲達
 西晋が建てられ
 廟号 高祖
 諡号 宣帝
-ーーーー
 太和二年(228年)
   ・・・太和=大和(やまと)・・・似撚(念=今+心)        
   ・・・太(おほの)・・・太安萬(万)侶
      和(なぎる)
      貳(爾・邇)
      撚(よる・ひねる・ネン=念・捻)
      捻(ひねる・ ねじる)
        捻挫・捻出・腸捻転
        紙捻(こよ)り・捻子(ねじ)
 孟達
 蜀漢
 諸葛亮
 と内応し
 魏に叛いた
 司馬懿
 が赴任していた
 宛から・・・・宛(アテる・宛名)
 孟達
 の任地である
 上庸までは
 通常の行軍で1ヶ月の道程
 司馬懿
 丁寧な書簡を送って
 孟達を迷わせ
 昼夜兼行の進軍を強行
 八日で上庸にたどり着き
 城を包囲
 孟達
 は同僚や部下に離反され
 司馬懿
 はこれを破り、斬首
 諸葛亮
 ら
 蜀漢の中枢は動揺
 ↓↑ 
 青龍二年(234年)
 「死せる諸葛
  生ける仲達を走らす
 (死諸葛走生仲達)」
ーーーーー
 公孫淵の征討
 「遼隧の戦い」
 景初二年(238年)・・・貳陌参(參・纂)拾捌念
      2+3+8=13・・・十三歳=壹與
      景=日+京(亠口亅ハ)
      初=衣+刀
 遼東に拠っていた
 公孫淵が反乱
 司馬懿
 は
 征討を命じられ
 明帝は・・・・明帝⇔明治天皇
 公孫淵
 の策を
 司馬懿
 に尋ね
 司馬懿
 「城を捨てて逃げるが上策
  遼水に拠って
  我が大軍に抗するは次策
  襄平に籠もるなら
  生捕りになるだけ
  公孫淵が知恵者ならば
  城を捨てることも有るでしょうが
  公孫淵はそんな策を
  考えつける人物ではありません」
 と答えた
 ↓↑
 司馬懿
 毌丘倹
 胡遵
 らとともに
 公孫淵討伐に出発
 司馬懿が遼東に到着したころ
 遼東では
 長雨・・・霖(ながあめ)=霖雨 (リンウ)
      和歌で「眺め」と掛けて用いる
      秋霖(シュウリン)
      すすき梅雨
      すすき=芒・薄・茅・尾花
      9月中旬頃~10月上旬あたり
 が続き
 遠征は長引くおそれがあった
 廷臣たちは遠征の中止を
 曹叡
 に訴えたが
 「司馬公は機に応じて
  戦略を立てることのできる人物だ
  彼に任せておけば間違いはない」
 ↓↑
 魏の征討に対し
 公孫淵
 呉に援軍を求めたが
 孫権
 「司馬公は用兵に優れ
  自在に使うこと神の如しという
  そんな人物を相手にせねばならないとは
  あなたもお気の毒だ」
 と書簡を送っただけ・・・
 ↓↑
 司馬懿
 野戦で
 公孫淵
 の軍勢を破り
 公孫淵は籠城
 公孫淵軍は兵は多く
 食料不足
 司馬懿はこれを見て
 「兵力が多く
  兵站の確保が難しいときには
  犠牲が出ようとも
  速戦でかたをつけるべき
  逆に兵力が少なく
  兵站が安定している場合には
  持久戦を行う」
 と部下に語った
 出征前、明帝に
 「反乱をどう平らげるか」
 と聞かれた司馬懿
 「往路に100日、復路に100日、戦闘に100日、
  その他休養などに60日を当てるとして
  1年もあれば充分でしょう」
 と答え、この通りに軍を動かし
 公孫淵を破った
 司馬懿の思惑通り、
 公孫淵軍の食料は底をつき
 公孫淵は使者を送り
 人質を差し出して
 和議と助命を嘆願
 司馬懿はこれを拒絶
 「戦には五つの要点がある。
  戦意があるときに闘い、
  戦えなければ守り、
  守れなければ逃げる。
  あとは降るか死ぬかだ
  お前達は
  降伏しようともしなかった
  ならば残るは死あるのみ
  人質など無用である」
 公孫淵は子の
 公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて
 包囲を突破して逃亡
 司馬懿は追撃し
 公孫淵親子を斬り殺した
 城は陥落し
 司馬懿公孫淵の高官たちを斬り
 遼東を制圧
 ↓↑
 中原の戦乱から難民が
 大量に暮らしていた
 遼東は
 反魏の温床になるおそれがあると
 司馬懿
 15歳以上の男子を
 数千人(7000人ほど)殺した
 公孫淵の滅亡によって
 朝鮮半島北部が
 魏に押さえられ
 邪馬台国
 卑弥呼
 魏に使者を派遣・・238年
 ↓↑
 ・・・「公(天子)の
     孫(まご)の淵(ふち)」
 ・・・淵=氵(水)+𣶒(片一爿)
ー↓↑ーーー
 淵=ふち・エン
   水を深くたたえている所
   海淵・深淵
   物事の出てくる根源
   淵源
   物の多く集まる所
   淵藪 (エンソウ)
   「渊・渕」は俗字
   すえ・すけ・なみ・のぶ
   ひろ・ふか・ふかし
   「淵 (どぶ) 釣り」
  異体字は渊・渕(俗字)
  𡆼(同字)・𣶒(古字)・囦(古字)
  𠝃(古字)・𣴸(同字)・𣴺(同字)
  渁(同字)・渆(同字)・㴊(同字)
  𣾬(同字)・㶜(同字)
  声符「𣶒」・婣・䨊・淵・鼘・𨓯
  ↓↑
  䨊=雥+𣶒
  異体字は𩁵
  声符「𣶒」・𣶒・婣・淵・鼘・𨓯
  淵
  異体字は渊(簡体字・俗字)・渕(俗字)
  𡆼(同字)・𣶒(古字)・囦(古字)
  𠝃(古字)・𣴸(同字)・𣴺(同字)
  渁(同字)・渆(同字)・㴊(同字)
  𣾬(同字)・㶜(同字)
  発音は ふち・かたい・はなわ
      エン(ヱン)
  名乗は、しずか、すえ、すけ、なみ、のぶ
      ひろ(佐藤信淵
      ふか、ふかし
      ふち・・・「賀茂真淵」・・・
ー↓↑ーーー
 司馬倫
 西晋
 第三代皇帝
 八王の乱
 八王の1人
 字は子彝
 司馬懿
 第九子(末子)
 建始帝
 諡号ではなく
 私年号の
 建始から取った・・・
 ・・・倭のタケルは・・・
 「私ネン号の建が始め」・・・?
 ↓↑
 石勒
 五胡十六国時代
 後趙の創建者
 字は世龍
 上党郡
 武郷県
 (山西省楡社県の西北)
 出身の
 羯族・・・「般若心経」の「羯諦(羯啼?)」
 で
 匈奴別部の
 羌渠の血統
 元の名を
 「㔨」と言い
 幼名は
 「匐勒」
 祖父は
 耶弈于・・・
 父は
 周曷朱(又の名を乞翼加)
 前趙の将軍として各地を攻略し
 王浚・劉琨・段匹磾・曹嶷
 といった敵対勢力を次々と滅ぼした
 劉聡の死際には後事を託され
 劉曜と対立すると自立して
 後趙を樹立
 前趙を滅亡に追いやって
 華北に覇を唱えた
 奴隷から
 皇帝まで昇った
 中国史上唯一の人物・・・
ー↓↑ーーー
 ?
 異=田+共
 通仮字、機
 異体字、異・𠔱・异・𢄖・𤱨・𤱺・𢍀
 簡体字、异
 声符「異」、㔴・翼・潩・𩙺・𠪙
       䔬・禩・𩛛・廙・趩
 ↓↑
 セキホウ(赤報)隊
 西郷隆盛岩倉具視の支援を得
 慶応四年一月八日(1868年2月1日)
 近江国
 松尾山
 金剛輪寺において結成
 隊長は
 相楽総三・・・「相楽」の総(すべて)の三(さん)
 綾小路俊実
 滋野井公寿
 らを盟主として擁立
ー↓↑ーーー
 ???・・・
 羊鑑=匈奴中郎将の羊済の子
ー↓↑ーーー
 多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)
 奈良時代
 天武(672年~686年)に活躍した・・・
 上野国(群馬県)の豪族
 多胡郡の郡司
 多胡碑によれば
 「和銅四年
  近隣三郡から三百戸を
  切り取り
  羊
  なる者に与え
  多胡郡とした」
  と記載
 「羊」
 多胡碑の原文は漢文であり
 「給羊」の句があることから発想
 人名説以外に
 方角説
 時刻説などがある
 現在学説では人名説が有力
 名前については
 多胡(藤原)羊太夫宗勝
     小幡羊太夫とも
ー↓↑ーーー
 茞=艹+臣=シン=fragrant plant,angelica
   異体字は茝
   声符「臣」・臣・嚚・䢻・姫・頣・䛗・挋
 ↓↑
 羊茞
 羊衜(ヨウドウ)=羊茞
 211年~?
 221年~278年?
 呉の武将・政治家
 荊州南陽郡の人
 羊茞とも
 弁論の才能を有す
 225年
 蜀漢の使者の
 費禕が来訪したとき
 呉側で論争を挑んだ人物の1人
 229年
 孫登が皇太子になると
 その賓客になった
 翌年
 20歳で太子
 中庶子に昇進
 魏の
 隠蕃という人物が帰順してくると
 朱拠
 郝普
 などが彼を賞賛したが
 羊衜は彼と付き合おうとしなかった
 やがて
 隠蕃が間諜であることが判った
 ↓↑
 衜(みち・ドオ・ダオ)=道
   Dao
 衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ
   謂う・云う・言う
   導(みちび)く
   人が行き来するための通り道
   道路
   人が守り行うべき決まり
   道理(ドウリ)
   云う・語る・述べる・唱える
   老子荘子の教え・道教
   漢代の行政区画の名
   導く・手引きする・教え導く
   昔の地域区分の名
   東海道
   中仙道(なかセンドウ・中山道
   山陽道
   西海道
   みち・学問や芸術のわざ・技術
 ↓↑
 衜=彳+首+亍
   異体字は「衟・道・噵」
 ↓↑
 道=衜=衟
   𨔞・𨖁・噵・𨗓
   𧗞=道の籀文(石鼓文の註)
   遯=字彙補と同じ音「𧗟」
 ↓↑
 北海道・箱館五稜郭
 戊辰戦争=慶応四年一月三日~明治二年五月十八日
       1868年1月27日~1869年6月27日
ー↓↑ーーー

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 戊辰
 248年干支=戊辰・・・正始九年
   9月 5日の朝 5:50・・・日食
   卑弥呼 死没・・・?
 248/9/5/5:50
 戊辰(乙・癸・戊)⇔龍・竜
 庚申(己・壬・庚)⇔猿・猨・猴・猱・狙・沙流
 辛酉(庚・ ・辛)⇔鳥・隹
 ↓↑
 神功皇后四十八年八月一日?
 ↓↑
 戊辰戦争(ボシンセンソウ)
 慶応四年/明治元年~明治二年
 1868年~1869年
 明治政府樹立の
 薩摩藩長州藩土佐藩
 ら
 新政府軍
 と
 旧幕府勢力
 奥羽越列藩同盟
 が戦った内戦
 明治新政府が同戦争に勝利
 戦争経緯
 鳥羽・伏見の戦い
 甲州勝沼の戦い
 宇都宮城の戦い
 北越戦争
 東北戦争
 箱館戦争
 旧暦
 慶応四年一月三日
 1868年1月27日
  ~
 1869年6月27日
 明治二年五月十八日
ー↓↑ーーー
 ・・・?
  マンドリルの社会・・・
 「mandrill=すだま=山魈
  (サンショウ・shan1xiao1・シャンシヤオ)」
 牝が牡のリーダーを擁立・・・当然である・・・
ー↓↑ーーー
 卑弥呼(ひみこ)の時代
 (正始十年=249年)
 正始十年
 (四月に改元されて
  嘉平元年=249年)
 曹操
 曹氏の魏から
 司馬懿
 司馬氏の晋へ
 禅譲革命
 泰始元年
 265年12月
 卑弥呼(ひみこ)は
 ?~247年~248年~249年頃死去・・・?
ーーーーー
 ???・・・だから、ナニ・・・