2624日目・・・「寅十一月十一日」・「其扇(お瀧)→お稲(失本イネ・楠本伊篤)→唯(高子)→」・・・「お稲」は「伊達宗城」から厚遇され「失本イネ」という名を「楠本伊篤(くすもと いとく)」と改名・・・「唯(高子)」・・・シーボルト・・・

 Siebold=シーボルト
      施福多
      施勃児篤
       勃児杜
     矢以勃児杜
      失勃児篤
     失乙勃児篤
     我爾徳児




ーーーーー
 お稲(いね)
 1796年2月17日  〜1866年10月18日
 丙辰(乙・癸・戊)⇔丙寅(己・丙・甲)
 庚寅(己・丙・甲)⇔戊戌(辛・丁・戊)
  害
 丁巳(戊・庚・丙)⇔丙寅(己・丙・甲)
  子丑=空亡
 ↓↑
「寅(とら)十一月十一日(1830年12月25日)」
 庚寅(己・丙・甲)
 戊子(壬・ ・癸)
 乙丑(癸・辛・己)
 ↓↑
 1829年12月
 長崎オランダ商館の
 外科医シーボルト
 国禁を犯した咎により国外迫放
 妻、滝(其扇)は22歳
 娘、いねは2歳
 翌年夏
 オランダからの
 母娘宛の
 シーボルトの手紙は
 片仮名毛筆であった
 ↓↑
 文政七年(1824)十一月二十四日付
 東インド総督
 ファン・デル・カペレンに宛てシーボルトの手紙報告
 「昨年すでに私自身の勘案で
  出島に植物園を作り
  珍しい、注目すべき植物を栽培
  収集のため、私の
  長崎の外二〜三マイルの所への
  散歩は非常に役立っている
  五月に私は弟子二人を
  肥後と筑前に派遣し、
  彼等から珍しい博物を得た
  日本各地の数百種の乾燥した植物を得
  長崎の植物を大部分集め、乾燥し
  珍しいものの一部は植物園で栽培し
  他のものは、写生させた
  来年私の植物学の研究を
  バタビアに提出できると思う」・・・
 ↓↑
 シーボルトの出島の植物園
 オランダが植民地経営のため
 世界に張り巡らせた植物園組織の一角で
 ジャワからオランダへの便船を待つ間の
 植物の育成と移植のためのもの
 採集した植物は
 長崎出島→バイテンゾルフ(ジャワ)
 →ケープタウン南アフリカ)→ライデン (オランダ)
 とつながる植物園の組織によって移送
 出島の植物園には
 シーボルトが帰国する
 文政十三年(1830)までに
 日本と日本に定着した
 中国の有用植物と鑑賞用植物
 1400種類以上の苗木が植えられた
 ↓↑
 ケンペル
 ツュンベリー
 が手掛けた出島の植物園を復興、再建
 シーボルトは、彼らの功績をたたえた記念碑を建立
 ↓↑
 1835年初版『日本植物誌』で
 シーボルト
 「冬のバラ」
 と紹介したのは
 ツバキ「Camellia japonica」=椿
 発表後
 ツバキは花木の貴族とたたえられ、
 ヨーロッパで
 ツバキブーム
 パリで
 紅白のツバキの
 コサージュや花束が
 夜会のアクセサリーとして人気を集め
 オペラ
 『椿姫』が誕生・・・つばき
 シャネルの
 カメリア・シリーズ
 ココ・シャネルは
 ツバキの花から生まれた
ーーーーー
 1831年10月
 「お滝(瀧)」は近況を記した返事に
 「おいねに更紗二〜三反
  また他に医書
  又の便りに送り下され候」
 と伝え、翌年
 1832年11月
 贈物の礼状に
 「おいね(稲)は
  お送り下され候語学書で毎日勉学いたしており
  明年は
  正しき言語にて
  お返事差し上げ得ることと存じ候」
 と記録
 「いね(稲)」は
 父から贈られた
 オランダの図書
      皿や時計
      人形
 などに囲まれた環境で育った
 「滝(瀧)」の再婚先は船問屋
 ↓↑

 「いね」は
 13歳で・・・十三歳・・・拾参(サン・纂・簒・讃)差異
 医学を学ぶため家を出る決意
 二宮敬作
 に紹介された
 シーボルトの有能な弟子
 岡山の
 石井宗謙
 に強姦され、妊娠
 ひとりで娘を出産
 その娘に
 唯(山脇泰輔夫人、高子)・・・唯(ゆい・ただ)=高の子?
 と名付けた
 185l年
 「いね(稲)」と娘「唯」は「滝(瀧)」のもとに帰り
 産院を開業
 外科を
 阿部魯庵
 に師事
 ↓↑
 1854年11月
 二宮敬作は「いね」と再会
 石井宗謙との事情を知って
 再び「いね」を
 宇和島に伴い・・・宇和島=ウワジマ
 寄寓していた
 村田蔵六に語学を学ぱせた
 その間
 「滝」は孫娘の「唯」を預かり養育し
 「いね」は敬作の指導を受け
 患者の代診もした
 ↓↑
 1859年8月
 シーボルトの再来日
 1862年の離日までの3年間
 父娘の関係は師弟
 「いね」は父に頼み
 1859年から
 オランダ商館
 外科医ポンペらに師事
 10年間最新の西洋医学を修めた
 1870年
 東京築地で開業
 1873年7月
 宮内省御用掛
 権典侍
 葉室光子の
 若宮誕生の侍医
 1901年死没
ーーーーー
 シーボルト
 1823年8月
 長崎出島へ
 オランダ商館の医師として来日
 「其扇(そのぎ)=お滝」に出会う
 11月に故郷の両親に宛て
 「素晴らしく可愛い日本の女性と結婚しました」
 「お滝さん以外の女性を妻に迎えることは絶対にありません」
 「お滝さん」とは「其扇」の本名で
  楠本タキ(滝・おたき)
 そして
 「お稲(いね)」が誕生
 1829年
 シーボルトは国外追放
 「ソノキサマ マタオイネ カアイノコトモノ シボルト」
 「ニチニチ ワタクシカ
  ホマエ マタ ホイネ ノ ナヲ
  シバイ シバイ イフ」
 (日々、私は、お前、また、お稲の名をしばしば言う)
 「ナントキワ オマエヲ マタ オイネ
  モット アイスルモノ ヲ ミルカ」
 (いつか、お前を、またお稲を、もっと愛する者を見るのか)
 「お滝」
 「余儀なく義理にて他へ嫁し申候」と
 再婚
 自分と娘の肖像を
 蓋(ふた・亠)に描かせた煙草入れ
 ↓↑
 「Hydrangea otaksa」
 1832年
 『日本』刊行
 侍、町人、僧侶など日本人の絵姿を紹介
 「お滝さん(otaksa=おたくさ=紫陽花)」の肖像画
 『日本植物誌』刊行
 長崎の中国寺で採取した
 「空色の紫陽花=Hydrangea otaksa
        =ハイドランゼア オタクサ)」
 と名づけて紹介
 「オタクサ」は
 別の学者により既に名がつけられていた品種で
 無効
 長崎市の花は
 「紫陽花(あじさい・阿字斉)=おたくさ=お滝さん花」
 「長崎紫陽花まつり」=「ながさき おたくさ まつり」
ーーーーー 
 19世紀の長崎で活躍した
 ドイツ人医師シーボルト(1796〜1866)
 に宛てた妻たきの手紙が、オランダで見つかった。
 シーボルト
 国外追放された直後に書かれたとみられ、
 愛する人と引き裂かれた悲しみを切々とつづっている。
 「鎖国」期の日本で様々な資料を収集していたシーボルト
 1828年、日本地図を持ち出そうとして露見し、
 国外追放となる。
 今回見つかったのは、帰国途中の
 インドネシアバタビアジャカルタ)から
 日本に残した妻
 其扇(そのぎ、たき、滝)に出した手紙に対する返事
 「寅(とら)十一月十一日(1830年12月25日)」
 の日付があり
 帰国したシーボルト
 たきが送った最初の手紙とみられる
 ↓↑
 ライデン大学図書館が所蔵していたもので、
 西南学院大の宮崎克則教授(日本近世史)が現地で確認した。
 手紙は女性のくずし字で記され、約3・4メートルに及ぶ。
 「涙が出ない日はない」
 「おいね(シーボルトとの娘、イネ)は
  なんでもわかるようになり、
  毎日あなたのことばかり尋ねます。
  私もあなたへの思いを焦がしています」
 などと、切ない思いがしたためられている。
 ↓↑
 出島に出入りしていた「たき」は、
 シーボルトとの間に「イネ」をもうけた。
 追放された夫の帰りを待ったが、その後再婚した。
 宮崎さんは
 「シーボルトの私生活がわかる一級資料だ。
  行間からは彼女のしっかりした性格、
  夫への思いがよく伝わってくる」
 と話している。(編集委員中村俊介
 ↓↑
 「たき」からシーボルトへの手紙(部分)
 ↓↑ 
 「3通の手紙は届きました。ありがたく思っています。
  お元気でいらっしゃると聞いて、
  とてもめでたく思っています。
  私とおいねも無事に暮らしています。
  船の旅を心配していましたが、
  滞りなくバタビアにお着きになって安心しました」
 ↓↑ 
 「不思議なご縁で数年間
  おなじみになっていたところ、・・・・おなじみ?
  日本でいろいろと心配事が起こり、
  あなたは去年帰られました。
  涙が出ない日はありません」
 ↓↑
 「お手紙をもらい、
  あなたのお顔を見た気持ちになり、
  とてもゆかしく思います。
  この手紙をあなたと思って、
  毎日忘れることはありません。
  おいねはなんでもわかるようになりました。
  毎日あなたのことばかり尋ねます。
  私もあなたへの思いを
  焦がしています(中略)」・・・焦(こ)がす?
 ↓↑
 「私とおいねのことは心配しないでください。
  おじさんのところにいますからご安心ください。
  病気にならないよう祈っています。
  どうした縁でこうなったのでしょう。
  そのことばかり考えて暮らしています(中略)」
 ↓↑
 「来年のお手紙を、首を長くして待っています。
  私は朝と夕に
  あなたの息災と延命を祈るよりほかはありません。
  来年はちょっとでもいいから
  お手紙をください。
  ひとえに・・・・・・ひとえ?
  待っています。
  申し上げたいことはたくさんありますが、
  次の手紙にします。
  名残惜しい筆を止めます。
  めでたくかしく。
  寅十一月十一日
  其扇
  シーボルト様」
 ↓↑
 江戸時代に来日し、
 その後国外追放になった
 ドイツ人医師シーボルトに、
 日本人妻
 お滝が送った最も古い手紙が
 オランダ・ライデン大で見つかった。
 シーボルトへの深い愛が伝わる内容で、
 調査した西南学院大の宮崎克則教授は
 「欧州に送られた最も古い日本語のラブレター」
 としている。
 ↓↑
 オランダ語訳の存在は知られていたが、
 日本語原本の所在は不明だった。
 ライデン大大学院生が
 同大の日本関係資料の中で発見し、
 宮崎教授が確認した。
 ↓↑
 シーボルト
 長崎・出島のオランダ商館の医師として
 1823年に来日。
 遊女だった
 お滝と知り合い、
 後に初の日本人女医となる娘
 イネを授かる。
 だが、持ち出しが禁止された
 日本地図を国外に運ぼうとしていたことが発覚し、
 29年末に国外追放となった。
 ↓↑
 手紙は
 30年12月(1830年12月25日付)に書かれた。
 シーボルト
 オランダに戻る途中の
 インドネシアから同年3月に書き送り、
 8月に長崎に届いた
 3通の便りへの返事。
 オランダのシーボルトの元には
 31年夏ごろ、届けられたとみられる。
 ↓↑
 手紙は全長3・4メートルもあり、
 「この(3通の)手紙をあなたと思って、
  毎日、忘れることはありません」
 「くれぐれも病気にならず元気に暮らしてください」
 などと記し、娘の様子にも触れている。
 宮崎教授は筆跡などから
 お滝が語った内容を
 第三者が代筆したと分析している。
 ↓↑
 お滝が
 手紙と一緒に送ったとみられる
 自身と娘の姿が描かれた
 嗅ぎたばこ入れは現在日本にあり、
 シーボルト
 お滝に送った手紙はドイツにある。
 シーボルトが59年に再来日した際に、
 お互いの品を交換したらしい。
 共に保存状態も良く、宮崎教授は
 「お互いのことを
  本当に大事に思っていたのでしょう」
 と話している。
 (2018/10/12付 西日本新聞朝刊)
 ↓↑
 2018年10月27日 03時34分
 江戸時代後期に来日し
 長崎を拠点に近代医学を広めたが
 国外退去処分となった
 ドイツ人医師シーボルト(1796〜1866年)に、
 日本での妻の滝が送った手紙が、
 オランダのライデン大学で見つかった。
 遠く離れた夫への愛情がつづられている。
 ↓↑
 シーボルト
 1823年、長崎・出島のオランダ商館に赴任。
 滝との間に娘
 いねを授かった。
 28年、帰国の際に
 禁制品の日本地図などを持ち出そうとする
 「シーボルト事件」を起こし、
 退去処分を受けて欧州へ戻った。
 ↓↑
 帰国の途中でシーボルト
 妻子へ書簡を3通送っており、
 手紙は最初の返信。
 長さ約3・4メートルの巻紙につづられ、
 1830年12月25日付。
 (共同)
 ↓↑
 「其扇(そのぎ)」の母、
 「きよ(イネの祖母)」の
 皓台寺の・・・皓台寺(コウダイジ)
       =皓(白告)台(ム口)寺(十一寸)
 標文の戒名は
 「一鑑古明信女」
 (佐平妻
  きよ
  弘化二年(1845)四月二十四日没 得年六十三歳)
 ↓↑
 1845年2月
 イネが
 伊予(伊豫)国の・・・「壱与・壹與・台与・臺與」の国
                鯛の国・・・他意の句爾
                碓の国・・・小碓命
 二宮敬作を頼って・・・二の宮(寓)、敬の作
 卯之町に来た・・・ウサギのマチ=「菟・兎・兔・宇佐義」
 其扇(滝)は 38 歳
 おイネ  は 18 歳
 敬作   は 41 歳
 ↓↑
 おイネが初めて
 伊予国
 卯之町を訪れた時期
 最初の手紙の日付は
 「出島にて、1845年11月1日」
 最後に「Sono ook」・・・其の扇?
 通詞の
 名村貞四郎が書いた
 手紙の中ほどに
 「この 1845年2月に
  おイネは
  伊予(伊豫)国へ一人で旅たちました」とあり、
 「その国は
  あなた様の門人
  二宮敬作がおりますので、
  あなた様の学問的講義・・・」
 ↓↑
 以上も以下もスベテの原文は以下
https://search.・・・から
ーーーーー
 ・・・???・・・以下は繰り返し何度もダブル・・・
 1)シーボルト
 Siebold, Carl Theodor Ernst von
 1804.2.16. ウュルツブルク
 〜
 1885.4.7. ミュンヘン
 ドイツの動物学者
 ↓↑
 3)P.F.von シーボルト
 の伯父
 生物学者の家庭に生れ
 ベルリン,ゲッティンゲン両大学に学び
 開業医を営んだのち
 エルランゲン・フライブルク
 ブレスラウ・ミュンヘン
 各大学教授
 無脊椎動物
 F.スタニウスが脊椎動物を担当し
 共著『比較解剖学教科書』
  Lehrbuch der vergleichenden Anatomie (1846)
 観察事実に基礎をおいた
 比較解剖学書として最初のもの
 1852年
 『動物学雑誌』
  Zeitschrift für wissenschaftliche Zoologie発刊
 生物学の専門誌として最も重要なものの一
 彼は
 寄生虫学者・・・寄生の虫(中ム)の学者
      ・・・既成(キセイ)の同音異字のスベテ・・・
 としても著名
 寄生虫
 その
 生活史の
 各段階に応じて
 異なる種類の動物に
 寄生する場合のあることを・・・プチブル意識の発展プロセス?
 実例をあげて示した
ーーーーー
 楠本 お稲
 宇和島藩
 伊達宗城から厚遇され
 宗城から
 「失本イネ」・・失(𠂉一人)われた本?
 という名の改名を指示され
 「楠本伊篤(くすもと いとく)」・・・楠の本の伊の篤
 と改名
 1871年(明治四年)
 異母弟
 シーボルト兄弟
 2)兄アレクサンダー
 4)弟ハインリヒ
 の支援で東京は築地に開業し
 福澤諭吉の口添えにより
 宮内省御用掛となり
 金100円を下賜され
 明治天皇の女官
 葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)
 医学技術は評価され
 異母弟
 ハインリヒ
 とその妻
 岩本はな・・・「岩本=がんぽん=元本」のハナ?
 の
 第一子の助産も彼女が担当(子は夭折)
 1875年(明治八年)
 医術開業試験制度始まる
 女性であったイネには
 受験資格がなかった
 晧台寺墓所を守るため
 東京の医院を閉鎖し
 長崎に帰郷
 1884年(明治十七年)
 医術開業試験の門戸が女性にも解放
 57歳になっていたため産婆として開業
 62歳の時、娘
 高子(唯・ただ)一家と同居のために
 長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業
 後は
 異母弟
 ハインリヒの世話となり余生
 1903年(明治三十六年)
 鰻と西瓜の食べ合わせで・・・ウナギとスイカ
 食中毒(医学的根拠はない)で死去
 享年77
 イネは生涯独身だが
 石井宗謙との間に儲けた娘
 「唯(ただ・ユイ)」がいた・・・・ユイ=結い・由比
ーーーーー
 3)Siebold=シーボルト
      施福多
      施勃児篤
       勃児杜
     矢以勃児杜
      失勃児篤
     失乙勃児篤
     我爾徳児
 ↓↑   
 おたき・おたくさ
 紫陽花=あじさい=阿字斉
 烏頭紫陽花
  渦紫陽花
  「紫陽花」 という漢字を
 「あじさい」の漢字として引用し始めたのは
 源順(みなもとしたごう)・・・源(水原)の順(川の頁)
 ↓↑
 2)シーボルト=ズィーボルト=ジーボルト
 Siebold, Alexander Georg Gustav von
 1846.8.16. ライデン
 〜
 1911.1.23. テグリー
 ドイツの外交官
 3)P.シーボルトの長子
 安政六 (1859) 年
 父の再訪日に同伴して来日
 三瀬周三
 らについて日本語を修得し
 のち
 駐日イギリス公使館員 (通訳官)
 明治三 (1870) 年以後
 日本政府の外務省
 ローマ
 ベルリンの日本公使館に奉職
 明治初期から中期にかけ
 日本の外交交渉に貢献
 1910年在職
 40年にあたり
 勲二等瑞宝章を受けた
 ↓↑ ↓
 明治期のお雇い外国人
 3)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
  の長男
 オランダ・ライデンに生まれる
 安政六(1859)年
 父に連れられて来日
 日本語を習い
 文久二(1862)年〜明治三(1870)年まで
 在日イギリス公使館勤務
 1866年
 パリ万国博覧会参加の
 徳川昭武一行に付いて訪欧
 一行の動静をイギリス外務省へ逐一内報
 3年民部省
   外債切り替え交渉のため
   特例弁務使
   上野景範に従ってロンドンへ出張
 6年太政官正院翻訳局に配属
   ウィーン万国博覧会副総裁
   佐野常民随行
 8年大蔵省雇
 11年外務省雇
   パリ万国博覧会副総裁
   松方正義随行
   万博後、在独公使館付
 15年条約改正予議会
 19,20年条約改正会議で東京へ呼ばれ
     通訳官を務め
     会議無期延期直後
     了解工作のため内命を受け
     ヨーロッパ各国を歴訪
     後は終生ヨーロッパにあって
     新聞論調の本省への報告などに従事
     1894年
     日英条約改正交渉のため
     特命全権公使
     青木周蔵に付いてロンドンへ出張
     日清戦争,日露戦争の際は
     世論工作に従事
     1910年勲1等瑞宝章受章
 ↓↑  ↓↑
 シーボルトを便宜的に分類するため
 1)シーボルトの伯父
 2)シーボルトの長男
 3)シーボルト本人自身
 4)シーボルトの次男
 と頭に番号を振った
 ↓↑  ↓↑
 1)シーボルト
 Siebold, Carl Theodor Ernst von
 1804.2.16. ウュルツブルク
 〜
 1885.4.7. ミュンヘン
 ↓↑
 ドイツの動物学者
 3)P.F.vonシーボルトの伯父
 ↓↑
 3)シーボルト
 Siebold, Philipp Franz von
 1796.2.17. ウュルツブルク
 1866.10.18. ミュンヘン
 ドイツの医者
 文政六 (1823) 年
 長崎オランダ商館の医師として来日
 翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開く
 伊東玄朴・高野長英・黒川良安
 ら数十名の門人に
 西洋医学
 一般科学を教授
 商館長の江戸参府に随行 (26)
 日本に関する研究資料を集めた
 シーボルト事件
 文政十二 (1829) 年
 日本追放
 安政六 (1859) 年
 オランダ商事会社員として再来日
 幕府の外交にも参与
 文久二 (62) 年帰国
 『ニッポン』 Nippon (32〜54)
 『日本植物誌』 Flora Japonica (35〜70)
 『日本動物誌』 Fauna Japonica (33〜50)
 など刊行
 ↓↑
 3)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
 1796年
 ドイツ生まれ
 1823年
 長崎・出島のオランダ商館付の
 医師兼自然科学調査官として来日
 私塾を開設し西洋医学を伝え
 オランダ政府の命で
 動植物や鉱物、民族資料を集めた
 1828年
 積み荷に幕府禁制の地図が発見され
 国外追放処分となった(シーボルト事件)
 1859年
 2度目の来日
 外交顧問などを務め3年滞在
 再び資料収集をして帰国
 1866年、70歳で病死
 (2016-10-11 朝日新聞 夕刊 文化芸能)
 ↓↑
 3)ジーボルトとも・・・
 1823年長崎出島に着任
 日本研究のかたわら日本人患者を診療し
 1824年
 長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾
 高野長英
 高良斎(こうりょうさい)
 伊東玄朴
 戸塚静海
 美馬順三
 二宮敬作
 らの門人を指導
 1826年
 商館長の江戸参府に同行
 1828年シーボルト事件
 翌年追放
 日蘭通商条約締結後の
 1859年
 2)長子アレクサンダー〔1846-1911〕
 を伴って再来日
 《日本》《日本動物誌》
 《日本植物誌》《江戸参府紀行》
 などの著書
 長崎滞在中の
 其扇(そのぎ・お滝)
 との間に
 娘〈いね・楠本いね)を儲ける
 アレクサンダーは
 英国公使館などの通訳を経
 1870年〜1910年
 日本外務省に勤めた
 ↓↑
 4)シーボルト
 Siebold, Heinrich Philipp von
 1852〜1908
 ドイツ人外交官
 1852年7月21日 ドイツのボッパルトで誕生
 〜
 1908年8月11日
 3)P.F.シーボルトの次男
 明治二年(1869)
 2)兄A.G.シーボルトにしたがい来日
 オーストリア-ハンガリー帝国
 公使館の代理公使
 横浜領事代理
 上海総領事
 などをつとめた
 勤務のかたわら
 考古学の研究にあたり
 「考古説略」をあらわした
 1908年8月11日死去。56歳
 ↓↑
 幕末明治期の
 オーストリア=ハンガリー帝国の外交官
 ライン河畔ボッパルトで
 医学者フィリップの次男
 父の影響で
 東洋の文化と歴史に関心を抱き
 駐日イギリス公使館
 通訳官の
 2)兄アレキサンダーが一時帰国した際
 その秘書に日本語を学び
 1869年
 兄と一緒に日本に発つ
 明治五(1872)年一月
 日本代表部の臨時通訳練習生
 10月
 ウィーン万国博覧会の日本万博委員会の連絡係
 六年一月
 博覧会への陳列品と共にウィーンに行き
 同年三月
 名誉通訳官に昇任
 翌年6月再来日
 明治十六年2月
 領事館官房書記官
 後
 代理公使
 横浜代理領事
 1等官房書記官
 上海総領事代理
 などを歴任
 同29年7月10日離日
 『日本考古学覚書』(1879)
 『アイヌ民族研究』(1881)
 を書く
ーーーーー
 3)シーボルト
 ドイツ人の医師,生物学者
 バイエルン
 ビュルツブルクの医師の家に生まれる
 ビュルツブルク大学で
 医学,植物学,動物学,地理学
 などを学び
 1820年学位を得る
 1822年
 オランダ領東インド会社付の医官
 1823年
 ジャワに赴任
 日本に任官
 文政六(1823)年八月
 長崎出島に入った
 はじめ商館の内部で
 市内の
 吉雄幸載の私塾などで
 診療と講義
 翌年長崎奉行から許され
 郊外の鳴滝に学舎を造った
 学生の宿舎や診療室
 薬草園まで備え
 鳴滝塾とし
 週1回出張
 実地の診療や医学上の臨床講義
 様々な分野の学問の講義を行い
 小関三英・高野長英・伊東玄朴・美馬順三
 二宮敬作らの蘭学者を育てた
 文政九年
 オランダ商館長の江戸参府に随行
 1カ月余り江戸に滞在
 高橋景保大槻玄沢宇田川榕庵
 ら江戸の蘭学者とも親交
 長崎へ帰ったシーボルト
 高橋や間宮林蔵らとの交際のなかで
 間宮が疑惑を持ったのをきっかけに
 同11年
 任期が満ちて帰国するシーボルトの乗った船が
 嵐によって戻された際に
 荷物が調べられ
 国禁違反が発覚
 高橋が
 シーボルト
 『フォン・クルーゼンシュテルン世界周航記』
 と
 オランダ領のアジア地図
 などと引き換えに
 伊能忠敬
 『日本沿海測量図』の
 コピーなどをシーボルトに渡していた
 ほかにも
 葵の紋服などをシーボルトが持ち出そうとしていた
 高橋は裁判の途中に獄中で死亡
 シーボルトは国外追放で
 同12年12月に日本を去った
 ヨーロッパに戻ったシーボルト
 日本関係の書物を次々に発表
 日本学の権威としてヨーロッパで重要視
 オランダ国王を動かし
 幕府に開国を勧める親書を起草
 この親書は
 弘化一(1844)年
 幕府に伝えられたが
 幕府はこれを拒否
 日本が開国した際に
 ヨーロッパ諸国と結ぶべき
 条約の私案を起草して
 オランダ政府に伝え
 この条約案は
 嘉永五(1852)年
 クルティウスに託され
 幕府の手に届けさせた
 開国後
 クルティウスは
 シーボルトに対する
 追放の解除を幕府に要請
 安政五(1858)年
 日蘭修好条約の締結
 同六年シーボルトは念願の再来日
 文久二(1862)年
 日本を去り
 ミュンヘンで亡くなった
 再来日で帯同していた長男の
 アレクサンダーは日本に留まり
 イギリス公使館通訳
 明治三(1870)年以降は政府のお雇い
 外交政策などの相談役
 次男の
 4)ハインリヒも
 同2年に来日
 外交官として長年日本に滞在
 楠本其扇(お滝)との間に生まれた
 楠本イネは産科医として知られた
 ↓↑
 ヨーロッパに
 3)シーボルトによって紹介された
 日本の風物は
 『日本=日本誌』
 『日本とその周辺諸地域(蝦夷,南千島,樺太,朝鮮,琉球)
  についての記述集成』
 としてライデンで1832年〜54年までに刊行
 『日本動物誌』(1833〜50)
 『日本植物誌』(1835〜70)
 ↓↑
 日本にピアノが伝来したのは
 3)シーボルト
 1823年(文政六年)に持参した
 1826年(文政九年)
 シーボルトが江戸に来たとき
 最上徳内
 自分の蝦夷地測量図を貸し
 アイヌ語辞典編纂を援助し
 シーボルトはその著《日本》で
 徳内の業績をたたえた
 ↓↑
 「お稲」は
 3)父シーボルト
 の名に漢字を当て
 「失本(しいもと)イネ」とも名乗った
ーーーーー
  楠本 お稲
 宇和島藩
 伊達宗城から厚遇され
 宗城から
 「失本イネ」という名の改名を指示され
 「楠本伊篤(くすもと いとく)」と改名
 1871年(明治四年)
 異母弟
 シーボルト兄弟
 2)兄アレクサンダー
 4)弟ハインリヒ
 の支援で東京は築地に開業し
 福澤諭吉の口添えにより
 宮内省御用掛となり
 金100円を下賜され
 明治天皇の女官
 葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)
 医学技術は評価され
 異母弟ハインリヒ
 とその妻
 岩本はな
 の第一子の助産も彼女が担当(その子は夭折)
 1875年(明治八年)
 医術開業試験制度始まる
 女性であったイネには受験資格がなかった
 晧台寺墓所を守るため
 東京の医院を閉鎖し
 長崎に帰郷
 1884年(明治十七年)
 医術開業試験の門戸が女性にも解放
 57歳になっていたため産婆として開業
 62歳の時、娘
 高子(唯・ただ)一家と同居のために
 長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業
 後は
 弟ハインリヒの世話となり余生
 1903年(明治三十六年)
 鰻と西瓜の食べ合わせ
 食中毒(医学的根拠はない)で死去
 享年77
 イネは生涯独身
 石井宗謙との間に儲けた娘
 「唯(タダ)」がいた
ーーーーー
 Siebold=シーボルト
      施福多
      施勃児篤
       勃児杜
     矢以勃児杜
      失勃児篤
     失乙勃児篤
     我爾徳児
 ↓↑   
 おたき・おたくさ
 紫陽花=あじさい=阿字斉
 烏頭紫陽花
  渦紫陽花
 「紫陽花」 という漢字を
 「あじさい」の漢字として引用し始めたのは
 源順(みなもとしたごう)
 ↓↑
 シーボルト=ズィーボルト=ジーボルト
 Siebold, Alexander Georg Gustav von
 1846.8.16. ライデン
 〜
 1911.1.23. テグリー
 ドイツの外交官
 P.シーボルトの長子
 安政六 (1859) 年
 父の再訪日に同伴して来日
 三瀬周三
 らについて日本語を修得し
 のち
 駐日イギリス公使館員 (通訳官)
 明治三 (1870) 年以後
 日本政府の外務省
 ローマ
 ベルリンの日本公使館に奉職
 明治初期から中期にかけ
 日本の外交交渉に貢献
 1910年在職
 40年にあたり
 勲二等瑞宝章を受けた
 ↓↑ ↓
 明治期のお雇い外国人
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男
 オランダ・ライデンに生まれる
 安政六(1859)年
 父に連れられて来日
 日本語を習い
 文久二(1862)年〜明治三(1870)年まで
 在日イギリス公使館勤務
 1866年
 パリ万国博覧会参加の
 徳川昭武一行に付いて訪欧
 一行の動静をイギリス外務省へ逐一内報
 3年民部省
   外債切り替え交渉のため
   特例弁務使
   上野景範に従ってロンドンへ出張
 6年太政官正院翻訳局に配属
   ウィーン万国博覧会副総裁
   佐野常民随行
 8年大蔵省雇
 11年外務省雇
   パリ万国博覧会副総裁
   松方正義随行
   万博後、在独公使館付
 15年条約改正予議会
 19,20年条約改正会議で東京へ呼ばれ
     通訳官を務め
     会議無期延期直後
     了解工作のため内命を受け
     ヨーロッパ各国を歴訪
     後は終生ヨーロッパにあって
     新聞論調の本省への報告などに従事
     1894年
     日英条約改正交渉のため
     特命全権公使
     青木周蔵に付いてロンドンへ出張
     日清戦争,日露戦争の際は
     世論工作に従事
     1910年勲1等瑞宝章受章
 ↓↑  ↓↑
 シーボルト
 Siebold, Carl Theodor Ernst von
 1804.2.16. ウュルツブルク
 〜
 1885.4.7. ミュンヘン
 ドイツの動物学者
 P.F.vonシーボルトの伯父
 ↓↑
 シーボルト
 Siebold, Philipp Franz von
 1796.2.17. ウュルツブルク
 1866.10.18. ミュンヘン
 ドイツの医者
 文政六 (1823) 年
 長崎オランダ商館の医師として来日
 翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開く
 伊東玄朴・高野長英・黒川良安
 ら数十名の門人に
 西洋医学
 一般科学を教授
 商館長の江戸参府に随行 (26)
 日本に関する研究資料を集めた
 シーボルト事件
 文政十二 (1829) 年
 日本追放
 安政六 (1859) 年
 オランダ商事会社員として再来日
 幕府の外交にも参与
 文久二 (62) 年帰国
 『ニッポン』 Nippon (32〜54)
 『日本植物誌』 Flora Japonica (35〜70)
 『日本動物誌』 Fauna Japonica (33〜50)
 など刊行
 ↓↑
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
 1796年
 ドイツ生まれ
 1823年
 長崎・出島のオランダ商館付の
 医師兼自然科学調査官として来日
 私塾を開設し西洋医学を伝え
 オランダ政府の命で
 動植物や鉱物、民族資料を集めた
 1828年
 積み荷に幕府禁制の地図が発見され
 国外追放処分となった(シーボルト事件)
 1859年
 2度目の来日
 外交顧問などを務め3年滞在
 再び資料収集をして帰国
 1866年、70歳で病死
 (2016-10-11 朝日新聞 夕刊 文化芸能)
 ↓↑
 ジーボルトとも・・・
 1823年長崎出島に着任
 日本研究のかたわら日本人患者を診療し
 1824年
 長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾
 高野長英
 高良斎(こうりょうさい)
 伊東玄朴
 戸塚静海
 美馬順三
 二宮敬作
 らの門人を指導
 1826年
 商館長の江戸参府に同行
 1828年シーボルト事件
 翌年追放
 日蘭通商条約締結後の
 1859年
 長子アレクサンダー〔1846-1911〕
 を伴って再来日
 《日本》《日本動物誌》
 《日本植物誌》《江戸参府紀行》
 などの著書
 長崎滞在中の
 其扇(そのぎ・お滝)
 との間に
 娘〈いね・楠本いね)を儲ける
 アレクサンダーは
 英国公使館などの通訳を経
 1870年〜1910年
 日本外務省に勤めた
 ↓↑
 4)シーボルト
 Siebold, Heinrich Philipp von
 ドイツ人外交官
 1852年7月21日 ドイツのボッパルトで誕生
 〜
 1908年8月11日
 3)P.F.シーボルトの次男
 明治二年(1869)
 2)兄A.G.シーボルトにしたがい来日
 オーストリア-ハンガリー帝国
 公使館の代理公使
 横浜領事代理
 上海総領事
 などをつとめた
 勤務のかたわら
 考古学の研究にあたり
 「考古説略」をあらわした
 1908年8月11日死去。56歳
 ↓↑
 4)シーボルト
 幕末明治期の
 オーストリア=ハンガリー帝国の外交官
 ライン河畔ボッパルトで誕生
 3)医学者フィリップの次男
 父の影響で
 東洋の文化と歴史に関心を抱き
 駐日イギリス公使館
 通訳官の
 2)兄アレキサンダーが一時帰国した際
 その秘書に日本語を学び
 1869年
 兄と一緒に日本に発つ
 明治五(1872)年一月
 日本代表部の臨時通訳練習生
 10月
 ウィーン万国博覧会
 日本万博委員会の連絡係
 六年一月
 博覧会への陳列品と共にウィーンに行き
 同年三月
 名誉通訳官に昇任
 翌年6月再来日
 明治十六年2月
 領事館官房書記官
 後
 代理公使
 横浜代理領事
 1等官房書記官
 上海総領事代理
 などを歴任
 同29年7月10日離日
 『日本考古学覚書』(1879)
 『アイヌ民族研究』(1881)
 を書く
ーーーーー
 3)シーボルト
 ドイツ人の医師,生物学者
 バイエルン
 ビュルツブルクの医師の家に生まれる
 ビュルツブルク大学で
 医学,植物学,動物学,地理学
 などを学び
 1820年学位を得る
 1822年
 オランダ領東インド会社付の医官
 1823年
 ジャワに赴任
 日本に任官
 文政六(1823)年八月
 長崎出島に入った
 はじめ商館の内部で
 市内の
 吉雄幸載の私塾などで
 診療と講義
 翌年長崎奉行から許され
 郊外の鳴滝に学舎を造った
 学生の宿舎や診療室
 薬草園まで備え
 鳴滝塾とし
 週1回出張
 実地の診療や医学上の臨床講義
 様々な分野の学問の講義を行い
 小関三英・高野長英・伊東玄朴・美馬順三
 二宮敬作らの蘭学者を育てた
 文政九年
 オランダ商館長の江戸参府に随行
 1カ月余り江戸に滞在
 高橋景保大槻玄沢宇田川榕庵
 ら江戸の蘭学者とも親交
 長崎へ帰ったシーボルト
 高橋や間宮林蔵らとの交際のなかで
 間宮が疑惑を持ったのをきっかけに
 同11年
 任期が満ちて帰国するシーボルトの乗った船が
 嵐によって戻された際に
 荷物が調べられ
 国禁違反が発覚
 高橋が
 3)シーボルト
 『フォン・クルーゼンシュテルン世界周航記』
 と
 オランダ領のアジア地図
 などと引き換えに
 伊能忠敬
 『日本沿海測量図』の
 コピーなどをシーボルトに渡していた
 ほかにも
 葵の紋服などを
 シーボルトが持ち出そうとしていた
 高橋は裁判の途中に獄中で死亡
 ↓↑
 シーボルトは国外追放で
 同12年12月に日本を去った
 ヨーロッパに戻ったシーボルト
 日本関係の書物を次々に発表
 ヨーロッパで
 日本学の権威となり
 オランダ国王を動かし
 幕府に開国を勧める親書を起草
 この親書は
 弘化一(1844)年
 幕府に伝えられたが
 幕府はこれを拒否
 日本が開国した際に
 ヨーロッパ諸国と結ぶべき
 条約の私案を起草して
 オランダ政府に伝え
 この条約案は
 嘉永五(1852)年
 クルティウスに託され
 幕府の手に届けさせた
 ↓↑
 開国後
 クルティウスは
 シーボルトに対する
 追放の解除を幕府に要請
 安政五(1858)年
 日蘭修好条約の締結
 同六年シーボルトは念願の再来日
 文久二(1862)年
 日本を去り
 ミュンヘンで亡くなった
 ↓↑
 再来日で帯同していた長男の
 アレクサンダーは日本に留まり
 イギリス公使館通訳
 明治三(1870)年以降は政府のお雇い
 外交政策などの相談役
 ↓↑
 次男の
 ハインリヒも
 同2年に来日
 外交官として長年日本に滞在
 楠本其扇(お滝)
 の娘
 楠本イネ(稲)は
 異母姉で
 産科医
 ↓↑
 3)シーボルト
 ヨーロッパに紹介した
 日本の風物は
 『日本=日本誌』
 『日本とその周辺諸地域(蝦夷,南千島,樺太,朝鮮,琉球)
  についての記述集成』
 として
 ライデンで・・・ライデン=雷電・来電・頼伝・来伝?
 1832年〜54年までに刊行
 『日本動物誌』(1833〜50)
 『日本植物誌』(1835〜70)
 ↓↑
 日本にピアノが伝来したのは
 シーボルト
 1823年(文政六年)に持参した
 1826年(文政九年)
 シーボルトが江戸に来たとき
 最上徳内
 自分の蝦夷地測量図を貸し
 アイヌ語辞典編纂を援助し
 シーボルトはその著《日本》で
 徳内の業績をたたえた
 ↓↑
 「お稲」は
 父シーボルトの名に漢字を当て
 「失本(しいもと)イネ」とも名乗った
 ↓↑
 楠本唯=高子
 は
 楠本イネの娘
 シーボルトの孫娘
 結婚後の改姓により
 三瀬高子(みせ たかこ)
 山脇高子(やまわき たかこ)=山脇たか
 ↓↑
 1865年
 二宮敬作の縁により
 宇和島藩の奥女中奉公
 1866年(慶応二年)
 三瀬諸淵(三瀬周三)と結婚
 1877年(明治10年
 夫・三瀬諸淵に先立たれ
 後、
 異母兄・石井信義の元で産婦人科を学んだ
 医師・片桐重明に
 船中で強姦され
 妊娠、息子の
 周三(後にイネの養子となり、楠本家を継ぐ)
 を生む
 医業の道を断念
 その直後に
 医師・山脇泰助と再婚し
 一男ニ女を生む
 が、
 結婚7年目に夫、山脇泰助にも先立たれた・・・
 その後
 叔父のハインリヒ・フォン・シーボルトの世話で
 東京で母のイネと共に暮らし
 芸事の教授をして生計を立てた・・・
 ↓↑
 シーボルトの弟子の
 二宮敬作の甥
 三瀬諸淵(みせ もろぶち)・・・楠本唯=高子の最初の夫
 ↓↑  天保十年七月一日
     (1839年8月9日)
      〜
     明治十年
     (1877年10月19日)
     幕末・明治期の医師
     初名・周三
     幼名は弁次郎
     字は修夫
     伊予国
     大洲出身・・・大洲市(おおずし)
     愛媛県南予地方に位置
     「伊予の小京都」
     肱川の流域にある
     大洲城を中心に発展した旧城下町
     大洲市八幡神社の神主
     常磐井家の私塾
    「古学堂」にて国学を学んだ
     安政五年(1858年)
     大洲に一時帰郷し
     長崎から持ち帰った
     発電機と電信機を持って
     古学堂に旧師、常磐井厳矛を訪ね
     大洲藩の許可を受け
     古学堂から肱川の河川敷まで電線を引き
    「電信」の実験し
     古学堂2階〜肱川向かいの
     矢六谷の水亭まで約980メートルの間に
     銅線を架設し、打電に成功
     シーボルトの長男の
     アレクサンダー・フォン・シーボルト
     の家庭教師役を務めながら、自身は医学を学ぶ
     文久二年(1862年
     諸淵がシーボルトのために
     日本の歴史書の翻訳が発覚、投獄
     1864年に出獄
 ↓↑  明治十年(1877年)胃腸カタルにより39歳で死去
 地元
 大洲で
 日本初の電信実験に成功
 語学も村田蔵六(大村益次郎)から
 学び
 外交で通訳・翻訳
 シーボルトの娘
 イネの娘
 高子と結婚した・・・
ーーーーー
 ・・・人間関係、こんがらがる・・・