2368日目・・・「シーボルト台風=1828年9月17日」・・・「1828年 戊子(壬・ ・癸)・0009月 辛酉(庚・ ・辛)・0017日 丙子(壬・ ・癸)・・・「2017年丁酉(庚・ ・辛)・0009月己酉(庚・ ・辛)・日0017丁未(丁・乙・己)」・・・「0016日丙午(丙・ ・丁)」・・・「シーボルト台風・九州北部を中心に高潮などで死者2万人・子年の大風(おおかぜ)・佐賀藩、死者が約1万人九州北部全体で死者約1万9千人」・・・「手がかり=手蔓(てづる)」・・・
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「蔓=つる=鶴・鸖・鶴・鶮・魡・逈・靎
鉉・弦・釣・吊
都留・津留
攣
敦(敦賀)・・・手厚い
厚手の土器の象形と羊の首?
羊の肉を長時間かけて
煮る厚手の土器
敦=亠+口+孑(子)+攵(攴)
=あつい・てあつい・トン
人情があつい
鉱脈・水脈
↓↑
「蔓=艹+曼(日罒又)」
つる=つら=蔓の古名
植物の茎
長く伸びて他の物に
巻きつきよじ登ったりする
ブドウなどの巻き髭(ひげ)
眼鏡の耳かけ
植物のつる・朝顔、胡瓜などの蔓
蔓=かずら・つる草の総称
のびて絡みつく草・蔓生
はびこる=蔓延 (マンエン)
家系の蔓
鉱脈(岩石の層で
有用鉱物が成している場所)
手がかり=手蔓(てづる)
頼り
離れている人と連絡する方法・手段
筋・系統・繋がり・家系
つるが出る・つるを出す=蔓生
延びる・広がる
乱れる
絡(から)まる・巻き付く
蔓纏
蔓菁(マンセイ)=野菜の名前・カブ(蕪)の別名
アブラナ科アブラナ属の一年草
蔓蔓=長く久しいさま・日々に茂っていくさま
広がるさま・まとまりがなく、わかりずらいさま
↓↑
「葛藤」=葛飾(かつしか)・葛城(かつらぎ)
「葛」=艹+日+勹+乚+人
「ヒ=匙・匕・七・牝」
「ヒ」の部分は
「人」であったが
JISが1983年に変更・・・無茶苦茶
↓↑
1828年
干支は戊子
日本(寛政暦)
文政十一年
皇紀2488年
中国
清王朝 道光八年
朝鮮
李氏朝鮮 純祖二十八年
↓↑
1月22日 イギリスで第一次ウェリントン公爵内閣
トーリー党政権成立
1828年
9月17日 シーボルト台風
九州北部を中心に高潮などで死者2万人。
子年の大風(おおかぜ)
佐賀藩、死者が約1万人
九州北部全体で死者約1万9千人
↓↑
文政十一年(1828年)9月
オランダ商館付の医師
シーボルト・・・「置維波斯徳利・施福多」
1796年2月17日〜1866年10月18日
丙辰(乙・癸・戊)
庚寅(己・丙・甲)
丙辰(乙・癸・戊)子丑=空亡
が帰国する直前
所持品の中に国外に
持ち出すことが禁じられていた
日本地図などが発見され
それを贈った
幕府天文方
書物奉行の
高橋景保
ほか十数名が処分
高橋景保は獄死し
(後、死罪判決で斬首
景保の子供らは遠島)
シーボルトは
文政十二年(1829年)
国外追放
再渡航禁止
事件は
間宮林蔵
の密告・・・
↓↑
「樺太東岸」の地図資料を求めていた
高橋景保に
シーボルトが
クルーゼンシュテルンの
『世界周航記』などを贈り
その見返りに
高橋景保が
伊能忠敬の
『大日本沿海輿地全図』の縮図を
シーボルトに贈った
この縮図を
シーボルトが国外に持ち出そうとした
↓↑
シーボルトは
江戸で幕府天文方
高橋景保
のもとに保管されていた
伊能図を見せられ
地図は禁制品扱いであったが
高橋はその写しを
シーボルトに渡した
シーボルトらが
1826年7月
江戸参府から出島に帰還
この旅行で
1000点以上の
日本名
漢字名植物標本を蒐集
日本の
北方の植物にも興味をもち
間宮林蔵
が蝦夷地で採取した
押し葉標本
を手に入れたく
間宮宛に
丁重な手紙と布地を送った
間宮は外国人との
私的な贈答は国禁に触れると考え
開封せずに上司に提出
高橋景保
と
間宮林蔵
のあいだに確執があった・・・?
間宮が
シーボルトから
受け取った手紙の内容が発端
高橋景保は捕らえられ取調べを受け
シーボルトも日本地図の返還を拒否
↓↑
長崎市
鳴滝
シーボルト記念館の研究報告書
『鳴滝紀要』第六号(1996年)発表
梶輝行の論文
「蘭船コルネリウス・ハウトマン号
と
シーボルト事件」
これまで通説だった暴風雨で座礁した船中から
地図等のご禁制の品々が発見されたという説が
後日の創作であることが判明
コルネリウス・デ・ハウトマン号は
1828年10月
に出航を予定していたが
9月17日夜半〜18日未明に
西日本を襲った猛烈な
台風(シーボルト台風)
で座礁
12月まで離礁できなかった
座礁した船の臨検もなく
船に積み込まれていたのは
船体の安定を保つための
バラスト用の
銅500ピコルだけだった
↓↑
江戸
高橋景保が逮捕され
シーボルトへ高橋より送った
「日本地図其の他、
シーボルト所持致し居り候」
ため、
シーボルト
の所持する
日本地図を押収する内命が
長崎奉行所にもたらされ
出島のシーボルトは
訊問と家宅捜索
軟禁状態のシーボルトは
研究と
植物の乾燥
動物の剥製
つくりをしてすごしたが
収集品が
無事オランダやバタヴィアに
搬出できるかどうか心配であり
コレクションの中には
個人的に蒐集していた
標本や絵画も所有しており
これが彼一人の自由には出来なくなっていた。
↓↑
シーボルトは
訊問で科学的な目的のためだけに
情報を求めたと主張し
捕まった
多くの日本人の友人を助けようと
彼らに罪を負わせることを拒絶
自ら日本の民になり、
残りの人生を日本に留まることで
人質となることさえ申し出た
↓↑
高橋は
1829年3月に獄死
シーボルトの陳述は
多くの友人と彼を手伝った人々を救った・・・
だが
日本近海の海底の深度測定など
スパイの疑惑が晴れたわけではない
↓↑
シーボルトは
高野長英から
医師以外の肩書は何か、と問われて、
「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」
とラテン語で答えたと
渡辺崋山が書いている
これは
「コレスポンデントヴェルデ」
であり、
「内情探索官=spy・007=間諜・忍者・お庭番」
と訳すべきものである・・・
↓↑
シーボルトは
安政五年(1858年)
日蘭修好通商条約
の締結により追放が解除
安政六年(1859年)
長男
アレクサンダー
を伴って再来日し
幕府の外交顧問となった
↓↑
文久二年(1862年)
秘書役であった
三瀬諸淵・・・・・・三瀬諸淵=みせもろぶち
サンセショエン
が、
シーボルトのために
日本の歴史書を翻訳した罪で
捕らえられる事件
シーボルトの
孫娘にあたる
三瀬諸淵の妻
楠本高子・・・・・・・・・・・楠の本の高の子
の手記によると
原因は他のところにあった・・・
楠本高子
嘉永五年二月七日
(1852/2/26)壬子(壬・ ・癸)
壬寅(己・丙・甲)
戊午(丙・ ・丁)子丑=空亡
〜
昭和十三年
(1938/7/18)
改姓・・・三瀬(山脇)高子(たか)
年月日
満86歳没
シーボルトの娘
楠本イネ・・・・文政十年(1827)5月6日生まれ
丁亥(戊・甲・壬)
乙巳(戊・庚・丙)
丙辰(乙・癸・戊)子丑=空亡
の子
長崎で生まれる
イネの産科医としての師
石井宗謙がイネに対し強姦妊娠
出生当時は「タダ子」とよばれていた
13歳まで祖母
お滝によって育てられ
琴や三味線、舞など芸事に打ち込んだ
最初の夫
三瀬諸淵に先立たれた後
高子は母と同じ
産科医を目指す
勉学の道半ばで
高子は医師
片桐重明
に強姦され
子を身ごもって
医師の道を断念
後、医師
山脇泰助と再婚
一男二女をもうけた
夫に先立たれ
以後は母
イネとともに暮らす
高子の生計は幼少時に熱心だった
「琴曲の山田流
生田両流の奥義を極め
権大教正の最高位をかち得た芸事」
↓↑ ↓↑
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1828年12月18日
(文政11年11月12日)
越後三条大地震
M6.9で死者1559人
↓↑
「葛=勹+ヒ」・・・「ヒ=人」
↓↑
「葛」
くず・かずら(山野に自生する草の一種
茎の繊維をとって
布を織るのに用い
根からはくず粉をつくる)
くずの茎の繊維で織った布=葛布=褐
草木のつる茎
古代の国名=河南省
「葛=つづら・くず・カツ
=くずのつる(茎)で
作った衣服などを入れる
箱形の籠(かご)
衣服の
表地と裏地の色の組み合わせ名前
表は青黒色
裏は薄青色
かずら・かたびら・つづら
かず・かつら・かど・さち
つら・ふじ・・・
面・・・
附字・不治・不二・不時・富士・冨士・藤
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