2385日目・・・「王建」・・・「王は建(たける)」・・・「建=たける=健・剛・武・毅・猛・豪・雄・岳・健児・威・彪・長・尊・傑・丈・壮・武尊・丈瑠・武龍」・・・タクサン、存在する「タケル」・・・
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王建(オウ-ケン・ワン-ゴン)
ーー↓↑ーー
斉の
王建(田建)
戦国時代の
田斉の最後の王
(在位、紀元前265年〜紀元前221年)
↓↑
前蜀の
王建
五代十国時代の
前蜀の創始者
高祖
847年〜918年
(在位、903年〜918年)
↓↑
北魏の
王建
軍人
↓↑
唐代の詩人
王建
↓↑
高麗の創始者
王建
字は
若天
諡号は
応運元明光烈大定睿徳章孝威穆神聖大王
太祖
877年〜943年
(在位、919年〜943年)
↓↑
三国時代の軍閥
公孫淵の臣
公孫淵が燕王を称すると
燕の相国となった
ーー↓↑ーー
王建(おうけん)
斉王建(田建)
中国、戦国時代の
田斉の最後の王
在位
紀元前265年〜紀元前221年
田 建(でん けん)
斉の最後(第八代)の君主
王としては五代目
父は第七代の襄王
紀元前221年
秦の政(始皇帝)の攻撃を受け
戦わずして降伏
秦の中国統一は完成
田建は身柄を
共(河南省輝県)に移された
ーー↓↑ーー
王建 (前蜀)
五代十国時代の
前蜀の創始者
高祖
847年〜918年
在位
903年〜918年
ーー↓↑ーー
王建 (北魏)
中国、北魏の軍人
王建(オウケン)
十国
前蜀の初代皇帝
廟号は高祖
許州舞陽(河南省)に生まれ
若い頃は
屠殺や塩の密売に関わる無頼の徒
許州では
賊王八
と称されていた
黄巣の乱が発生すると
官軍に参加してその鎮圧で軍功
後、朝廷の実力派宦官である
田令孜
の仮子(養子)となり
僖宗が蜀に脱出する際の功績により
神策軍使
西川節度使
壁州節度使
などを歴任
↓↑
王建
文徳元年(888年)
永平節度使
大順二年(891年)
仮父を殺害し
成都を制圧
剣南西川藩鎮を滅亡させ
西川を根拠地に定め
四川全域をほぼ掌握
天復元年(901年)
鳳翔の岐王
李茂貞
より漢中を奪い
天復二年(902年)
山南西道を手に入れ
天復三年(903年)
蜀王に封ぜられる
天祐四年(907年)
唐が後梁に滅ぼされ
後梁の支配を嫌い
皇帝を称して
元号を
天復と改め
国号を
大蜀
と定めた
前蜀・・・
↓↑
塩や鉄を豊富に産出する地域
農業振興と水利事業を推し進め
与民休息の政策を実現
多くの文人が平和を求めて
前蜀に移動し
彼らを保護する
文化振興政策も実行したが
国内への監視で
尋事団と呼ばれる秘密警察で
不満分子を圧殺した・・・
ーー↓↑ーー
王建(オウケン)
北魏の軍人
本貫は
広寧郡
拓跋氏
の公主を妻に迎え
386年(登国元年)
外朝大人
和跋
ら
十三人とともに
迭典庶事をつとめ
計謀に参与
387年(登国二年)
道武帝が
濡源におもむくと
王建は
後燕の
慕容垂
のもとに使者
慕容垂は
王建の意気を認めた
王建、帰国後
左大夫
兄の
王回
とその子たちに
不法のことが多く
王建が実態をつぶさに報告し
王回父子は処刑
王建は
道武帝の征戦に従って
二十部あまりを撃破
劉衛辰との戦いに従軍し
戦功を挙げ
中部大人となった
395年(登国十年)
参合陂の戦い
に参加
戦勝の後
道武帝は捕虜とした
後燕の将士の処遇について
才能ある者を登用し
残りには
衣食を与えて帰郷させようとしたが
王建は殺害するよう進言
諸将がみな王建の意見に賛同し
道武帝は
任用しなかった
後燕の将士を穴埋めにした
396年(皇始元年)
王建は
後燕との戦いに参加
後燕の
広寧郡太守の
劉亢泥
を斬り
冠軍将軍の号を受けた
并州が平定され
道武帝が東方の
井陘に進出すると
王建は5万騎を率いて先鋒をつとめた
道武帝が常山に入ると
河北の諸郡は次々と
北魏に降り
後燕は
中山・鄴・信都
の3城を残すのみとなり
衛王
拓跋儀が鄴を
王建が信都を
おのおの5万の兵で攻撃
王建らは
六十日あまりも城を攻めたが
陥落させられず多くの死傷者を出した
道武帝が
中山から信都に向かうと
後燕の
冀州刺史の
慕容鳳
が夜間に城を抜け出し
信都は
北魏に降った
道武帝が鉅鹿に入ると
慕容宝
を
柏肆塢
で撃破し
中山を包囲
慕容宝
が城を捨てて
和龍に逃れ
中山の城内は混乱
東門が閉められていなかったので
道武帝はこれに乗じ
夜間に城に乗りこもうとしたが
王建が兵士による略奪を恐れ
夜明けを待つよう願い出
道武帝は入城を取りやめ
この夜のうちに
中山の城内では
慕容詳が主として擁立
混乱は収拾されて門は閉ざされた
道武帝は連日攻め立てたが
中山城は落ちなかった
人を巣車に乗せて
城内に投降を呼びかけさせたが
中山の人々は
参合陂で投降した兵士のような投降を拒否
道武帝はこれを聞いて
王建の顔面に唾を吐きかけた
中山が平定されると
王建は
濮陽公の爵位を受けた
398年(天興元年)
烏丸
の
庫傉官鳴が反乱
王建はこの乱を討って平定
太僕に転じ
真定公の爵位を受け
散騎常侍・冀青二州刺史
の任を加えられた
死去後
金陵に陪葬された
子に
王斤
王建の兄の
王豆居
の
即丘侯の爵位を嗣ぎ
淮南公・鎮西将軍となったが
不法のことが多く
太武帝のときに処刑
ーー↓↑ーー
王建 (唐)
唐代の詩人
ーー↓↑ーー
高麗の創始者
太祖
877年〜943年
在位
919年〜943年
ーー↓↑ーー
王建(おう けん)
?〜830年?
唐の詩人
潁川(えいせん・河南省許昌市)の出身
字は仲初
775年(大暦十年)
進士に及第
ーー↓↑ーー
三国時代の
軍閥
公孫淵の臣
公孫淵が
燕王を称すると
燕の相国
公孫淵(こうそん えん)
?〜景初二年(238年)八月二十三日
中国三国時代の武将
字は
文懿
祖父は
公孫度
父は
公孫康
叔父は
公孫恭
兄は
公孫晃
子は
公孫脩
遼東の地で自立し
燕王と称したが
魏の
司馬懿によって
追討され滅んだ
ーー↓↑ーー
西晋代に編纂された
史書『三国志』
では
西晋の
高祖
司馬懿の避諱により
字が省略
唐代に編纂された
史書『晋書』
では
唐の高祖
李淵の避諱により
公孫
文懿
と表記
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王建
中国
陝西省
京兆郡出身の
康叔の次男
康侯の
六十七代子孫の
康虎景の息子が
康忠で
息子は
伊帝健
宝甸
康宝育
の三人
康宝育は
姪の
康紱州を娶り娘の
康辰義をもうけ
康辰義と中国人とのあいだに生まれたのが
王帝建
↓↑
王帝建の父の中国人は
唐の皇族で
『編年通録(韓国語版)』
『高麗史節要』では粛宗
『編年綱目』では宣宗
父の中国人が新羅に来た時に
康宝育の娘の
康辰義との間に
王帝建が生まれた
王帝建は、
父を探しに唐に行くため
黄海を渡河していた途上
西海龍王の娘の
龍女(後の元昌王后)と出会い
王帝建は
西海龍王の娘の
龍女(後の元昌王后)の駙馬となる
『聖源録』によると
西海龍王の娘の
龍女(後の元昌王后)
というのは
中国平州出身の
頭恩坫角干の娘のこと
王帝建と西海龍王の娘の
龍女(後の元昌王后)との間に
息子の
王隆が生まれる
王隆は
松嶽(開城)を拠点に
半島西南の海岸部で貿易で財をなす豪族となる
王建は
新羅
憲康王三年(877年)一月三十一日
王隆
と
威粛王后(一説に智異山聖母)
との間に生まれた
↓↑
『高麗史』
康虎景は白頭山を越え
南側(開城)へ移住して来た
昔の高句麗の流民
高麗が高句麗の
後継国家であることの
王朝起源譚
王建は、朝鮮を統一するために
女真人から安定的に
馬を入手する必要があり
女真人の馬の貢納を促すために
高句麗の継承を標榜した
高句麗継承意識は高麗だけでなく
渤海人
や
女真人にも受け継がれた・・・
「国初以来の『北進政策』によって
高麗の領域は
鴨緑江下流域にまで北上
↓↑
龍の後裔説
王帝建は
西海龍王の娘の
龍女を妻に迎えて
王隆を生んだ
「聖源録」によると
王帝建の妻が
西海龍王の娘の龍女というのは
中国平州出身の
頭恩坫角干の娘
↓↑
歴史雑誌『東北史地』2007年第3号
933年
後唐の
明宗が
王建に送った
冊封詔書などを根拠に
王建は
中国・淮河流域から来た
漢人の末裔・・・
冊封詔書の
「卿(王建)は長淮の茂族」
という一節があり
史長楽は
「長淮は淮河流域を意味」
王建の本籍地が中国であるため
高麗は中国人が建国した・・・
「朱蒙が開国した地の
よい縁起を追ってその軍将になり
箕子が作った蕃国の形跡を
踏んで幸福と和楽を得る」
「王建の建国を
朱蒙の開国と
箕子の立国に
直接比喩したのは
朝鮮半島の歴史で二人に続いて
もう一人の中国出身統治者が生まれた」
↓↑
ヤク=牛巤・・・巤+α→蠟儠䝓臘鬣擸邋㲱獵鑞
ヤク=犛=未攵厂牛=犛・・・漦=涎子(よだれ)
↓↑
蝋=蠟=年をとること・年寄り
律令制で六一歳から六五歳まで
(後、六十歳〜六十四歳まで)の者
臘 虎-膃肭 獣 猟 獲 取 締 法
(らっこおっとせいりょうかくとりしまりほう)
明治45年法律第21号)日本の法律
ーー↓↑ーー
「王建=キビ(黍・稷)」・・・吉備?
を意味する
土着固有語に漢字を当て字したもの?
ーー↓↑ーー
後高句麗を建国した
泰封王である
弓裔に従い
松嶽城主
鉄原太守を歴任し
西南海域の
水軍を統率して活躍
後高句麗は
新羅や後百済に対して優勢だった
王の
弓裔
は自らを
弥勒菩薩と自称し
仏教の神秘性を利用して権威を高め
弓裔が部下に対して
傲慢で乱暴な暴君になったため
918年
弓裔の部下
洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜智謙
らは
弓裔を追放し
易姓革命を起こして
王位を奪い
王建
を新たな指導者として擁立した
ーー↓↑ーー
王建
高麗建国の人物
太祖(在位918〜943年)
936年に朝鮮を統一
新羅の末期に
反乱軍の首領
弓裔(きゅうえい)の部下
弓裔が地方政権を樹立すると
その首相格となった・・・
918年
王建は
松嶽郡に遷都
郡を開州に昇格
高麗の後継者を自称して
国号を高麗
年号を天授
と定め
920年
後百済に圧迫されていた
新羅の
景明王に信書を送り同盟を結ぶ
926年10月
後百済は
新羅の首都である
金城(慶州市)を占領
景哀王は自殺
後百済と一進一退の攻防
930年から
高麗は反撃
古昌郡で
後百済を大敗させた
933年
後唐に朝貢
王建は
高麗国王
に任じられた
934年
後百済は休戦を申し入れ
王建もその気になったが
老将の
庾黔弼
一人が反対
王建は庾黔弼の意見を採用
後百済軍を打ち破り
熊津(公州市)以北の地を手中に収めた
935年
後百済で王位継承による内紛
936年
初代王である
甄萱が高麗に投降
935年
新羅最後の王
敬順王(金傅)
が高麗に帰順
後百済の内紛に巧みに介入した
王建は
936年
朝鮮半島の統一
王建は
前王朝の
新羅の貴族や豪族の多くを家臣として加え
それらを
府・州・郡・県
に分けて地方をそれぞれ治めさせた
中央は三省六官
九寺にして
中央集権化を確立
ーー↓↑ーー
遼に滅ぼされた
渤海の遺民受け入れや植民に尽力
国内の復興と発展に努めた
中国の王朝に対して
五代の王朝に相次いで朝貢
冊封されることで友好関係
日本の朝廷に対しても
二度にわたって使者
友好と通商を求めたが
日本側は拒絶
ーー↓↑ーー
943年
67歳で死去
死の1ヶ月の前に4月
高麗の後代王たちが
必ず守らなければならない教訓として
「訓要十条」
を作り
側臣だった大匡の官職の
朴述熙
に伝えた
ーー↓↑ーー
仏教を崇尚
道先大師の
風水地理説によってだけ
寺を作る
王位継承は
特別な場合ではなければ
長子を先にする
中国の風習にむやみに従おうとせず
契丹は蛮族なので遠ざける
西京(平壌)は
我が国の支脈の根本で
王は年に100日以上ここにとどまる
仏に仕える
燃燈会と
山河の神に仕える
八関会をよく行う
臣下と民に対する
賞罰を公平にする
車嶺山脈以南(湖南地域、百済の故地)
の人々をあまり登用しない
臣下と軍人の給料は
むやみに増減せず
平安な時であればあるほど脆弱さを忘れない
王はいつも自らを磨き上げることに力を尽くす
この十戒は
皆「心の中に深くおさめること(中心蔵之)」
という君の字で結ばれており
後代の王たちは
後継者から後継者へと伝えて宝物にした
ーー↓↑ーー
旧百済の地域の者の登用を忌避したのは
後百済の内紛で
父子が対立したためであり
儒教道徳的には許されないものであった
この偏見は後まで継承され
全羅道差別
という地域差別問題となって残った
ーー↓↑ーー
『高麗史』
王建の死
太祖は
天受二十六年(943年)五月二十九日
病が重くなると
神徳殿に挙動して遺言を作る
ーー↓↑ーー
高麗
400年以上続いた
太祖は即位後
新羅や後百済の征服が未完了で
南方の備えが不安定だった状況下で
あえて
西京(平壌)も越えて直接北の国境地帯を巡察
高句麗の継承王朝とし
旧領を取り戻す北進政策の
拠点や財政源の確保
ーー↓↑ーー
訓要十条
太祖自身は
契丹(遼)に対して
敵対的な立場を表明
契丹が渤海を滅ぼした事に
激怒した太祖が
契丹から送られてきた
駱駝50匹を飢え死にするまで
開京の万夫橋にぶら下げ
その使臣30人を島に流して幽閉
ーー↓↑ーー
年表
901年 弓裔、国号を後高麗とし、自ら国王を称した。
干支=辛酉年
日本 昌泰四年、延喜元年
皇紀1561年
中国 唐 天復元年
南詔 中興五年
朝鮮 後百済 正開二年
日本の三代実録が完成
菅原道真が
右大臣から
大宰権帥に左遷
909年 弓裔、珍島を奪う
911年 弓裔、後高麗の国号を
泰封に改める
918年 弓裔の部下であった
王建、謀反
王建は自ら高麗人の末裔と称し
国号を高麗とし
都を開城に定めた
918年 後百済の
甄萱
が使節を送り和議を結んだ
924年 甄萱の子の
須弥強
が高麗の
曹物城を攻める
925年 後百済と高麗の間で和議が成立
人質を交換
930年 甄萱と王建、古昌郡瓶山麓で戦い
王建が勝利
933年 唐、高麗に使を遣わす
高麗、唐の正朔を奉じる(高麗史)
935年 新羅滅亡
新羅の
敬順王の娘が
王建の妻となる
936年 王建
一善郡一利川の戦いで
後百済を滅ぼし
朝鮮半島統一
942年 契丹が
高麗に使を遣わすが
その使を島に流す(高麗史)
ーーーーー
・・・???・・・