2140日目・・・小さい町の川も轟音の濁流である。「台風・颱風」が行ったが、「鮐諷」じゃないョ、なッ・・・「風と共に去りぬ( Gone with the Wind)」じゃぁなくて、「Gone with the the typhoon Damages」で、人間も家畜もペットも日常性は「悲しみよコンニチは(Bonjour Tristesse)」である・・・「子育てに自信を失い我が子を・・・」、「お勉強の強制で我が子を・・・」ですか・・・「子羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs)」・

 「毌丘倹(カンキュウケン)」
  ?〜255
  字は
 「仲恭」
  并州
  河東郡
  聞喜県
  出身
  尚書
  洛陽の典農
  魏の
  荊州刺史
  幽州刺史
  魏の将軍
  最後は
  司馬師に反乱後、討伐された
  ↓↑
  魏の官僚
  毌丘興
  の子
  毌丘甸
  毌丘宗
  の父
  毌丘秀
  の兄
  孫は
  毌丘重
  毌丘奥
  孫娘は
  毌丘芝
  ↓↑
 毌丘倹は
 237年
 孫権
 高句麗と通じ、
 遼東へ親征を行おうとした
 魏は
 毌丘倹を派遣しこれと対陣、
 毌丘倹が鮮卑の軍を動かして
 遼東に駐屯させたので、
 孫権は遠征を断念
  ↓↑
 魏は
 公孫淵に対し上洛を命じたが、
 公孫淵はこれを拒否、挙兵して
 遼隧で毌丘倹を撃退する
  ↓↑
 遼東の
 公孫淵
 呉と接触
  ↓↑
 毌丘倹は
 魏王
 曹叡の命により
 幽州刺史となり、
 烏丸の単于
 寇婁敦
 と
 袁尚
 烏丸へと逃げた者
 5000余を降伏させた
  ↓↑
 遼隧の戦い(238年)
 魏王
 曹叡
 司馬懿に4万余の兵を与え、
 公孫淵征伐
  ↓↑
 「238年・・・遼隧の戦い」と「卑弥呼
  ↓↑
ーーーーー
 倭に関係する極東国際情勢
  57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
 107年 倭国王、「帥升」、後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
 146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
 189年 「公孫度」、「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
 190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、
      中遼の二郡とし自らの太守を置
      また、山東半島に営州刺史を置き、
      「遼東侯・平州牧」と号した「公孫度」の子、
      「公孫康」が継ぎ、
      「度」の弟、
      「恭」が「永寧郷侯」となり、
      「康」は西暦196〜220年まで
      楽浪郡を分けて帯方郡を置いた
 220年 後漢滅亡。魏王・「曹丕」、
      「献帝」を廃し、
      魏の「文帝」となる
 221年 「劉備」、燭漢の「昭烈帝」となる
 229年 「孫権」、呉の「大帝」となる
      「公孫康」の子、
      「淵」が「魏王」から「遼東太守」、
      「車騎将軍」の爵号を授
 232年 呉の「孫権」、
     「淵」に「燕王」の爵位を与える
 233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣。
     「淵」はこの使者を殺し、
      その首を「魏」に差しだし、
     「楽浪公」の爵位を得る
 235年 高句麗王、「位宮」、
      呉から「単于」の爵号を受く
 237年 「魏」は
      幽州刺史の「毋丘倹」を将軍にし
     「淵」軍と戦い敗北
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 238年 六月、「卑弥呼」、
         大夫「難升米」を
         「魏」におくる
 ・    ↓
 ・    八月、「魏」の「司馬懿」を
          将軍とする軍隊に
         「淵」軍敗北、戦死
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 239年 帯方郡・太守
     「弓遵(辷+尊)」が
     「韓」族に攻められ戦死。「韓」滅亡
 244年 「魏」は
      幽州刺史の
      「毋丘倹」を将軍にし、
      高句麗軍を壊滅さす
      帯方郡太守
      「王・(斤+頁)」、
      塞曹掾史
      「張政」を「倭国」に派遣
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 この「年表」に記されている「人名」と「官名」、「地名」の漢字とその「音」に注意すれば「古事記」が何を示唆しているか明かである。
 更に「238年」の「六月」から「八月」・・・ワズカ、「二カ月間」・・・。
 「卑弥呼」の「倭」は、少なくても
 「六月」までは
 「もと『燕=公孫氏』に属」
 さざるを得なかったハズである・・・
 何故なら
 「公孫淵=燕」は「237年」には「呉」と同盟、
 あるいは册封関係にあり、
 敵対する
 「魏」の「幽州刺史」の「毋丘倹」を将軍とする軍隊と戦い、コレを撃破して勝利。
 翌年の「238年の八月」に
 「魏」の
 「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北し、戦死したのである。
 時間的な流れでいえば、
 「倭」は「238年六月〜八月」までは
 「呉」と深い関係にあった「公孫淵=燕」に
 「属」していたハズだ・・・もちろん、状況的に、直接的にも「倭」は「呉」と深い関係にあった・・・
 すると、
 「238年『六月』」、
 この『六月』に「卑弥呼」が大夫「難升米」を「魏」におくる 、と云うことはどういうことなのであるか。
 記録上の齟齬がナイとしたならば、朝鮮半島遼東半島
 いまだこの年の
 『八月』まで「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・
 この「未だ燕の支配下の『六月』」、
 どのような経路でいけたのか?・・・
 どのような目論見で「難升米」を「魏」におくったのか?・・・
 方法は色々考えられるとしても・・・
 戦局が未だ定まらぬ「敵地=燕地」の経路をである。
 「卑弥呼」は「邪馬台国」をまもるため、「呉=燕」の配下にありながらも二股をかけざるを得なかったのだ。あるいは「公孫淵=燕王」の「対魏戦略」に「卑弥呼」は乗せられたのである。あるいは「燕=公孫氏」、「呉=孫氏」そのものと「縁籍」であったのだ。
 そして、
 『八月』、「公孫淵=燕」は「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)・・・
 『十二月』、「卑弥呼」は「魏王=明帝」から詔と「親魏倭王」としての「金印紫綬」と「銅鏡百枚」等をもらった・・・
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
 244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
 245年(正始6年)「倭王」   が派遣・魏へ使
 247年(正始8年)「邪馬台国」と「狗奴国」の交戦
            卑弥呼の死亡
            「邪馬台国で男王」立つが「内乱」
            「宗女・壱與」が
           「十三才で女王」となる
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 238年から六年後、
 244年に「高句麗王=位宮」も敗北した。
 朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?・・・当然、「倭」へ、である・・・。そして「卑弥呼」の「邪馬台国」は「魏」の「張政」に担ぎ上げられた「壱与」に権力交替したのである。「狗奴国との対立」や「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・
 すなわち、この部分に於いても「陳寿」は「使訳」の報告すべてが正しいわけがあるまい、と言っているのだ。「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的である。同音異字なら「芝居」で、しかも「芝居(しばい)」は日本語であるから・・・。
 ・・・この『六月』の「卑弥呼」に対する「魏」の答えは・・・「卑弥呼」の排除である。
 243年は「宗主国」である「魏の帯方郡太守」が「倭へ使者」を派遣してきたのである。
 その後の「壱与」の権力交替は「帯方郡使」としての
 「張政=魏」の策謀(告喩)による
 「淵=燕=呉」親派の「卑弥呼」の「縊殺・絞殺」、
 あるいは「溺殺」によるものである・・・
 漢字の「乙・乚」の秘密である・・・
 「張政」と「壱与」の「告喩」としての「卑弥呼」に対する侵攻は朝鮮半島、博多「伊都」、そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし、「長崎」、「諌早」、「熊本・宇土・横島」へとその勢力を浸透させて「卑弥呼」を「殺害(?)」したのだ・・・
 その後、「壱与」は「宇佐」に東遷し、権力の基盤を「大分」に置いた。だが、「卑弥呼」の親派勢力は長崎「諌早」、「天草諸島」、「熊本・横島」、そして「沖縄」、「台湾」にその勢力を有していたハズである・・・
 結論的に九州(倭)は「魏」の配下に入ったが、「二人の女王」の勢力は「遼東半島」、「山東半島」、「高句麗」、「朝鮮半島」、「南韓」の亡命者、血縁者を抱え、「太陽の烏=卑弥呼=長崎・諌早=左目=天照大御神」と、「月の卯=壱与=大分・宇佐=右目=宇受女=豊受大神」に分裂=磐余(イワレ)=「大分」していたのだ。
 もちろん、「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」は「博多・伊都=須佐之男」であるハズだ・・・
 その後、
ーーーーー
  ↓↑
 公孫淵
 卑衍・・・・・・・・・卑の衍?
            衍=あまる・エン・余分にあまる
              余計な
              衍字・衍文
              延び広がる
              押し広げる
              衍義=敷衍
 楊祚
 らに数万の軍を与えて
 遼隧に派遣・・・・・遼の隧?
 司馬懿
 遼東に到着
 卑衍が
 司馬懿を攻撃したが、
 司馬懿
 胡遵らを派遣して・・・胡の遵(辶+尊)
 卑衍を破った
  ↓↑
 公孫淵
 遼隧に塹壕を掘り、
 司馬懿の軍を迎え撃った
 遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固だったので
 司馬懿は、
 東南に退却したとみせかけ、・・・東南=辰巳=巽
 国都の
 襄平に侵攻
 公孫淵は遼隧の軍を撤退
 都の守備に当たらせたが、
 敗退を繰り返し
 司馬懿に襄平を包囲された
  ↓↑
 公孫淵
 呉の
 孫権に謝罪し、援軍を求め
 孫権は援軍として
 羊衜・・・・・・羊の衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ
                  道
 鄭冑・・・・・・鄭の冑=かぶと・介冑・甲冑
            「胄(あとつぎ)」は別字・・・?
             何処が別の字なんだか?
             同字にしか見えないのは、
             ドウジだから・・・
            兎に角、「胄」は「世継ぎ」
 孫怡・・・・・・孫の怡=忄(心)+台(臺)
 を派遣
 が、すでに公孫淵は敗北、
 遼東で
 魏の
 張持・・・・・・張の持
 らを破って、
 男女の
 捕虜を得たにとどまった・・・
  ↓↑
 長雨の時期で兵糧が欠乏
 公孫淵は人質を出して
 和睦・・・・・・・和の「睦」とはダレ?
 しようと画策するが、
 司馬懿はこれを拒否
 公孫淵を捕え、処刑
 遼東
 公孫氏は滅亡
  ↓↑
 司馬懿はこの地に
 魏への反抗勢力が出ぬよう
 15歳以上の男子を皆殺(genocide)
 ↓↑
 244年(甲子年)
 毌丘倹は
 呉との同盟していた
 高句麗討伐
 高句麗
 位宮・・・・・・・・位の宮
 を攻め
 都を破壊
 位宮
 は逃亡
 高句麗を滅ぼせなかった
 高句麗
 東川王(憂位居)=位宮
 は
 公孫淵討伐には
 協力的であったが、
 242年以降
 再び魏と険悪な関係になった
 毌丘倹は高句麗への攻勢を強め、
 244年
 更に東へと進んで
 高句麗の軍勢を大破し、
 都の
 丸都・・・・・・・・・丸い都
 を蹂躙
 東川王(憂位居)に逃られ
 高句麗
 滅ぼすことはできなかった
 ↓↑ 
 司馬懿・・・・・「懿」が付く天皇
 が反乱し
 魏を支配し
 司馬懿の長男
 司馬師・・・・・・馬師の司は「左右の馬の守」?
 が実権者となる
 ↓↑
 毌丘倹は
 胡遵・王昶・諸葛誕・陳泰
 らと共に
 都督
 左将軍
 鎮南将軍
 豫州刺史・・・・・・豫の州とは「伊豫」?
 となる
 ↓↑
 252年
 呉の
 孫権、死亡
 ↓↑
 討伐軍として
 呉に攻め込んだ
 魏の
 諸葛誕・・・・・・諸の葛の誕
 が
 呉の
 驢馬の息子・・・・驢=馬+盧
 諸葛恪・・・・・・諸の葛の恪=忄+各=つつしむ
                   きまじめ
                   カク・キャク
 に大敗
 ↓↑
 毌丘倹は
 諸葛誕に代わって、
 揚州刺史の文欽と共に
 呉への備えとして
 鎮東将軍に転じ
 揚州に駐屯し
 驢馬の息子の
 諸葛恪が攻めてきた時
 文欽・司馬孚・張特
 と共にこれを防ぎ、
 撤退の
 諸葛恪を追撃
 ↓↑
 254年
 夏侯玄・・・・・・・・夏の侯の玄
 が
 司馬師に反乱し失敗
 司馬師
 曹芳を帝位から降ろし
 曹髦を帝位につける
 ↓↑
 夏侯玄と親しかった
 毌丘倹の立場もあやうくなり、
 息子の
 毌丘甸と
 かって、
 司馬師に処刑された
 曹爽の寵臣だった
 文欽と共に・・・・・・・・文は「欽」・・・欽明天皇
 彗星が
 西北の空を・・・・・・・・北西=乾=戌亥・・・狗意
 覆ったのは瑞祥・・・瑞・・瑞皐(ズイコウ)=高野長英
              玄瑞(ゲンズイ)=久坂玄瑞
 だとし
 司馬師を弾劾する
 皇太后詔勅を偽造し、反乱
 毌丘倹は、
 寿春を老人や子供に守らせて
 項城に入り、
 毌丘倹は城内
 文欽は城外に駐屯
 ↓↑
 先鋒の
 王基が
 攻撃を避け
 毌丘倹は
 諸葛誕や胡遵が
 寿春を攻撃される状況で
 退却も出来ずに兵は逃亡・・・
 ↓↑
 城外の
 文欽は
 蠟艾・・・・・・・・蠟の艾=よもぎ
 に夜襲を仕掛けたが
 敗れて
 呉へと逃亡
 毌丘倹は逃亡しようとしたが
 張属・・・・・・・・張の属
 に射殺され、
 首は
 魏都にて晒された
 ↓↑
 毌丘甸は、
 父の反乱に際に
 魏都に残ってい
 山に篭ったが討伐軍に敗れて捕らえられ、
 一族もろとも処刑された
 荀一族の女であった
 毌丘倹の妻は
 荀邈らの嘆願によって許され、
 孫の
 毌丘重
 毌丘奥
 は、
 晋の時代に出仕
 ↓↑
ーーーーー
 ・・・?・・・「キクの名前」の「背負う説」資料です・・・「Bonjour Tristesse」・・・