2386日目・・・「新燃岳大噴火(2300メートル)の火山灰の雲による災害」・・・「韓国岳〜新燃岳〜高千穂峰」・・・天孫降臨=邇邇藝命が高天原から日向国の高千穂峰の久士布流多気(くじふるたけ)へ真床追衾に包まって天降(あまくだ)った(今平訖葦原中國矣 故汝當依命下降而統之・此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也・古事記)・・・「王建」の「主訊」・・・「金弓裔(キンキュウエイ=緊急英・筋究嬴・禽求裔・金武扱瀛=第四〇代天武天皇・在位二年二月二十七日(

 「弓(ゆみ・キュウ)」の
 「裔=衣+冏=すえ・エイ・遠い子孫・後裔・神裔・苗裔・末裔・余裔・血筋の末・子孫・遠い辺境・四裔・着物のすそ(裾)」・・・「種族の系統をひくと思われる人末々・後胤・苗裔・余胤・子孫・葉末・末ずえ・後昆・後葉・末孫・後裔・余裔・末末・末流・孫子」・・・
 「弓(ゆみ・キュウ)=武器(飛び道具)の一・木や竹を撓(しな)らせて弦 (つる) を張り、その弾力を利用し、つがえた矢を飛ばすもの・矢を射ること・弓術・射術・曲がった形のもの」・・・
 「撓=扌+堯・扌+垚+兀・扌+垚+一+儿=しなる・しわむ・たわむ・弯曲・棒や枝に力が加わって弓形に曲がる」・・・
 堯(たかい・たかし)=尭(十艹兀)=ギョウ=
            兀=たかい・コツ・ゴツ
              高くつき出たさま
              兀立=屹(キツ)
              一所懸命・兀兀(こつこつ)
              人(儿)があたま(一)を
              つき出している
            丌=(その・それ・だい・キ・ギ・ゴ)
              は別の字
            几=(つくえ・キ)
            π=(pie・パイ)
 夌(しのぐ・こえる・すたれる)=リョウ=凌(しのぐ)・踠(金の名)・稜(かど・すみ)・棱(角材)・陵(おか)・綾(あや)・蔆(ひし・水草)・崚(けわしい)・・・
 「弓」の形状に類字する文字は「阝・B・β・ε・3・Э・(・〔・D・C」・・・「山の尾根などのタワンで低くなった所(凹・m・ω)・鞍部・たわ」、「あしひきの山の(窪み・たわ・たをり)にこの見ゆる天の白雲(万葉集・4122)=m・ω」・・・
 「峯の縁語のタヲリ(嶼)は尾根・鞍部・山の稜線」・・・
 「嫋(たを)やか=女+弱(コ+l+コ+l+羽
              己+己+羽
弓+=+弓+=
弓+冫+弓+冫」
「冫=冰(氷)の原字」
「弱=二十歳・若い」
 「嫋=たおやか・柔か・物柔らか・円い・柔らかい・静やか・穏便・閑やか・穏和・柔かい・軟らかい・穏やか・優しい・もの柔か・もの柔らか」・・・
 「弱+α=溺・嫋・蒻・鰯・鶸(弱鳥)」・・・
 「蒟蒻(こんにゃく)・搦(から)める・嫋(たお)やか)・嵶(たわ)む・鶸(ひわ)」・・・
 「嵶(山+弱)=峠(とうげ)=たお・たわ=尾根」・・・
 「強弱」・・・
 「弖(て)=日本語の助詞・4つ弖爾遠波(てにをは)の弖(て)」・・・
 「弖(弓+一)=氐(氏一)」で「氐が変形したもので国字」・・・「阿弖流為アテルイ)」・・・「当てる意・宛てる意・中てる意・充てる意・當てる意」・・・
 「草臥(くたびれる)」なぁ〜ッ・・・苦旅麓留・・・句多尾(備・靡・毘・鸍・娓)例・・・
 つかれたら、蕭(よもぎ=蓬・艾・蔞・蒿・蓬生)で「お灸」・・・
ーーーーー
 金の弓の裔・・・裔=衣の冏(あな・穴・明り取り・窓)
 弓裔(キュウエイ)
 後三国時代の群雄のひとり
 後高句麗の建国者
 姓は金
 僧号は善宗
 隻眼であったことから
 一目大王との別称
 専制的な暴政
 豪族たちとの対立が先鋭化し
 918年の「易姓革命」で
 侍中であり有力な部下であった
 王建に追放された
 ↓↑
 『三国史記
 新羅
 第・・・・・・・・第=竹+弟
 四十七代国王・・・四拾七=壱拾壱=11
 憲安王・・・・・・憲の安の王
 或いは
 四十八代・・・・・四拾八=壱拾弐=12
 景文王・・・・・・景の文の王
 の側室の子・・・
 日官は王に・・・・日の官
 「赤ん坊は
  重午日・・・月の初めの午(うま・馬)の日
  ↓↑    午(ご)と五(ご)の同音
        毎月午(5)日を指す?
        特に5月5日(端午)・・・単語・丹呉・丹後
                    反後・田子
                    ごがつ
                    語解通・漁丹治
        十二支の寅を正月とする「夏暦」で
  ↓↑    五月は午の月・午(ゴ)が(五)に通じ
        陽数の重なりを重んじた
        五月五日=端午の節句(夏至に近い)に
        毒気を避けるため香りの高い菖蒲や蓬
        種々の薬草を摘む習俗があった
        日本古代の薬猟は
        百済を経由して伝えられた
        高句麗の宮廷で
        三月三日に行われていた
        鹿狩りの風習が併せて取り入れられ
        推古朝の宮廷行事と成立した・・・
        午=十二支の第七・時刻の正午
        を
        重五、重午、端陽?
        旧暦五月は
        伝染病や
  ↓↑   「虫害」の悪月で邪気の月
  に生まれただけではなく
  出生時の空がおぼろだったことや
  生まれたばかりなのに
  歯が生えているところが
  不吉である」
 といい、王は弓裔を殺すように命令した・・・
 兵は赤ん坊の弓裔を殺せず
 宮殿の下に投げ捨てたが
 下で乳母が転落する弓裔を助けたが
 その際に乳母の指が目に刺さり
 隻眼(片目・一つ目)になった
 乳母は弓裔と都から遠くに逃亡し
 貧窮のなかで実の母として弓裔を育てた・・・
 弓裔が十歳頃
 乳母は周囲と悶着を起こしてばかりいる
 弓裔に
 出生の秘密を告げ
 「あなたは王室の子として生まれ
  殺されるところだったのを気の毒に思った
  それであなたを命をかけて育てたのに
  あなたは毎日騒動を起こして
  私に心配ばかり
  懸(かけ・掛・縣・賭)ている
  それが悲しい
  あなたの正体が知られると
  私たちは殺されるのですよ」
 と言った
 弓裔は泣きながら
 「私が悪い
 もう二度と
 母上に心配をかけることはないだろう」
 と言って家出した
 世達寺(慶尚北道開豊郡)に入り
 僧侶になって
 善宗と称した
 斎戒に行く途中で
 ↓↑
 カラス(鴉・烏)が
 くちばしに
 くわえていたものを
 彼の
 托鉢の鉢の中に落とした
 みると
 「王」と記された象牙の札であった
 これが
 弓裔が一国の王となる
 野望の契機となった・・・
 ↓↑
 新羅
 均田制が乱れ、凶作が続き
 各地で豪族たちが反乱
 国土を分割しつつあった
 891年
 弓裔は
 竹州(チュクジュ・安城市
 永同に拠点を持った盗賊の
 魁帥
 箕萱(キフォン)の部下になったが
 箕萱・・・箕(み)=竹+其
 ↓↑   萱(かや)・・・・伽耶
      箕=選別用農具(農作業の手作業用具)
        手箕(てみ)・ちりとり(塵取)
        穀物の選別や運搬に使う農具
        竹皮、藤皮、桜皮などを編んで
        平らな容器状にし
        周囲に竹や細木を結んで
        U字状の縁をつけ穀物を入れて
        両手で軽く煽(あお)ると
        皮は吹き飛び、重い穀類が残る
        竹箕は竹で主要な部分を
        網代(あじろ)編み
        笊(ざる)編みにしたモノ
        箕造り、箕直しと呼ばれる
        山窩(サンカ)などよって
        供給され
        山形県
        次年子(ずねんこ)
        代(たらのきだい)、
        東北地方には村中が
        箕づくりを業としている所もあった
        米を簸る箕
        泉州上村より多く之を作り出す・・・
        水簸(スイヒ)=砂金を分別採集に使用
 ↓↑   ↓↑
      萱(忘れ草=食べれば、憂いを忘却
        かや・ケン)
      かや=蚊帳
        =蘐・藼・萲・蕿・榧
      萱=艹+宣
      茅=艹+矛
      茆=艹+卯
        (すすき=芒・薄
         ちがや=茅
         すげ=菅・管
        などの
        屋根を葺(ふ)くのに
        用いる草の総称)
 ↓↑       ↓↑
         -うがや-ふきあえず
   (日子波限建-鵜 草-葺 不合命(みこと・メイ)
    彦波瀲 武-盧茲草-葺 不合尊(みこと・ソン)
         -鸕鷀草-葺 不合尊(みこと)
             附記不合 (見事・名・孫)
    父は彦火火出見尊
    母は豊玉姫
    子供は
 ↓↑ 五瀬命神日本磐余彦尊(神武天皇
 ↓↑
 は無礼であったので
 元会・・・元の会
 申煊・・・申の煊(暄と通用・煊赫(名声)赫々)
        煊(暖かく広がる・ケン・カン)
 らと結託し
 その下を去り
 892年
 北原の
 梁吉
 (ヤンギル)
 ↓↑・・・梁(はり・リョウ)
 ↓↑   梁=渉るが語源
        渉猟の魚を捕る
        魚を捕るしかけ
       「簗(やな)」と同義
        梁=樑
        建築で柱の上に渡す横木
        建(たける)を
        築(きずく)
        柱(命)の上に渡す
        横(よこしま)の
        木(き・ボク・モク・十八)
        木造建築での
        ハリの部材で
        軸力が作用する
        構造物の部材の種類
        算盤の
        1の珠と5の珠の間の横木
 ↓↑     ↓↑
        大梁=開封の古名
        梁書=リョウショ=良書
 ↓↑     ↓↑
        魏が大梁に遷都したのちの国号
        南北朝時代
        蕭衍(武帝)が建てた王朝
       (502年〜557年)
 ↓↑     ↓↑
        後梁 (南朝)
        南北朝時代
        蕭詧(宣帝)が建てた王朝
       (554年〜587年)
 ↓↑     ↓↑
        隋末に
        梁師都が建てた政権
       (617年〜628年)
 ↓↑     ↓↑
        隋末に
        蕭銑が建てた政権
       (618年〜621年)
 ↓↑     ↓↑
        後梁
        五代十国時代
        朱全忠が建てた王朝
       (907年〜923年)
 ↓↑     ↓↑
        梁は
        春秋時代の諸侯国の一
        姓は嬴(エイ)
        同族の
        秦の
        穆(やわらぐ・ボク・モク)公に
        滅ぼされた
 ↓↑     ↓↑
 梁吉     梁・・・高粱=蜀黍・唐黍
            高粱酒=白酒 (パイチュー)
        が
 ↓↑     吉(十一口)
 の部下になった
 ↓↑
 完山州を拠点に
 朝鮮西南部を支配した
 甄萱・・・甄(すえ・ふるう・シン・ケン)
      陶器をつくる職人=埴師
      戦の陣形の見極め
      甄=西十一瓦=鄄
      鄄=西土の邑
      甄=優劣、真偽などを鑑定する
        審査する、見分ける
        甄氏(シンシ)
        183年(光和六年)一月二十六日
        〜
        221年(黄初二年)八月四日
        魏の初代皇帝
        曹丕(文帝)の妻
        諡号
        文昭皇后
      甄(鄄)の萱(かや・セン)
 の
 後百済
 都の慶州付近を維持する
 新羅
 鼎立し
 後三国時代
 ↓↑
 893年
 梁吉
 の部下を従えて
 酒泉(醴泉)・・・・・・・酒の泉
 奈城(ネソン・寧越)・・・奈(奈何・如何)の城
 などを攻略
 江原道、京畿道、黄海一帯を攻略
 多くの兵力を集め
 半島中部地方で独自な勢力を形成
 894年
 溟州(江陵)
 ↓↑・・・溟=くらい・メイ
 ↓↑     小雨が降って暗い
        細かいぬか雨・小雨
        溟濛
        海・大海・あおうなばら
        溟海・滄溟・南溟・北溟
        須佐之男(素戔嗚)が
        支配すべき世界は
        母の國の「冥界」ではなく
 ↓↑    「あおうなばら」の「溟海」
 を占領
 3500の兵を得て
 14の部隊をつくった
 弓裔・・・弓の裔=衣+冏(あきらか・窓・ケイ)
            冏(冂+㕣)=冂+八+口
                 =冂+儿+口
 は
 自分自身に従う人々や
 兵士と苦楽をともにし
 戦利品の分配など
 公平であったので
 人望を得た
 彼は自らを
 世界が終わる日に
 新しい世界へ導くという
 「弥勒(みろく)」・・・見録?
 であるとし
 人々は
 弓裔が自分たちを
 救済してくれると信じ
 独立勢力の指導者に推した
 続いて
 江原道・黄海道・京畿道一帯を攻略し
 鉄円(鉄原)・・・鉄円=金を失う円(圓)?
 を拠点に
 独立国としての体制を整えていった
 895年
 梁吉
 は自分の娘を
 弓裔に嫁がせ
 弓裔の急速な勢力の拡張に
 黄海道西部の豪族たちが次々と投降
 松嶽(開城)の豪族の
 王建が投降
 王建を
 鉄原郡太守に任命
 896年
 王建に命じて
 僧嶺・臨江の2県を
 897年
 仁物県・・・仁物を県・・・イ(人)二、物を懸ける?
 を攻略
 898年
 国原(忠州)・清州(温陽)
 など
 30余州を陥落させ
 半島中部を占拠する形勢となった
 北原の
 梁吉は
 弓裔を倒そうとし攻撃したが
 弓裔は梁吉の軍勢を打ち破った
 ↓↑
 松嶽を拠点に勢力を拡大
 901年
 ↓↑・・・干支=辛酉年
 ↓↑   日本  昌泰四年
          延喜元年
          皇紀1561年
      中国唐 天復元年
      南詔  中興五年
      朝鮮
      後百済 正開二年
 ↓↑   ↓↑
      日本三代実録が完成
      菅原道真
      右大臣から大宰権帥に左遷
 ↓↑   ↓↑
      昌泰の変(ショウタイのヘン)
      901年(昌泰四年)一月
      左大臣藤原時平の讒言により
      醍醐天皇
      右大臣
      菅原道真
      大宰員外帥として大宰府へ左遷
      道真の子供や
      右近衛中将源善
      らを左遷または流罪にした
 ↓↑   ↓↑
      901年2月18日
      サービト・イブン・クッラ
     (Thābit ibn Qurra)
      826年〜901年2月18日
      アッバース朝時代
      バグダードで活躍した
      天文学者・数学者
      ラテン語名は Thebit(テービト)
      メソポタミア北部(現トルコ領)
      ハッラーンに生まれた
      当時のハッラーンは
      ギリシア系文化の中心地
      サービトの一族は
      星辰崇拝者(偽サービア教徒)だった
      成人後は両替商だった・・・
      バグダードの「知恵の館」で学び
      活動
      アッバース朝のカリフ
      ムゥタディドの治世に庇護を受け
      宮仕えし、個人的な友人にもなった
      サービトは
      数学、天文学占星術、魔術
      工学、医学、哲学に通じ
      母語はシリア語であったが
      ギリシア語にも堪能
      バグダードで翻訳家として活動し
      ギリシア科学の文献を
      アラビア語に翻訳した
      アポロニオス
      アルキメデス
      エウクレイデス
      プトレマイオス
      などの著書がある
      数論の分野で
      友愛数の組を求める数式の発見者
     『友愛数の定義についての書』
      という著者の中で、公式を説明
      代数問題を幾何的に解く価値に注目
     『代数問題についての
      正しい幾何学解』
      という著書で
      エウクレイデスの定理を用いて
      方程式に幾何学上の証明を与えた
      ピタゴラスの定理
      全ての三角形に適用できるように
      図形を分割して一般化した
      この他に
      球面三角法
      エウクレイデスの平行線公準の証明
      アルキメデスの放物線の求積法
      などを研究
      天文学
      歳差運動を
      分点の秤動で説明しようとする
     「トレピダチオ説(trepidation)」 が
      サービトに帰されると考えられている
      ニコラウス・コペルニクスによれば
      恒星年を非常に
      精度よく求めた・・・
      ↓↑
      曹 松(そう しょう)
      830年?〜901年?
      詩人・字は夢徴・豫州の人
 ↓↑   洪州の西山で隠遁生活を送った
 弓裔は
 自らを王を称し
 後高句麗を建国
 ↓↑
 弓裔は
 904年
 国号を
 摩震
 ↓↑・・・摩=する・さする・こする・触れる
        摩擦・摩滅・按摩 (あんま)
        肩摩・減摩
        揣摩 (シマ)=読心術
        接触するほど近づく
        迫る
        摩天楼
        摩訶 (まか) ・摩尼・護摩
      の
      震=(雨辰)=ふるえ
 と改め
 年号を
 武泰
 とし
 都を
 松嶽から
 鉄原に移した
 聖冊二年(906年)
 ↓↑・・・聖(ひじり)の冊の二の年?
 ↓↑   丙寅年
      日本 延喜六年
         皇紀1566年
      中国
      唐 天祐三年
      十国
      呉 天祐三年(唐の元号
      南詔 安国四年
      朝鮮
      後高句麗 聖冊二年
 ↓↑   後百 済 正開七年
 後百済軍を
 尚州の
 沙火鎮で迎え討って勝利
 聖冊六年(910年)
 王建に
 水軍を与え
 西南海上に派遣し
 以下は・・・跳びます・・・
ーー↓↑ーー
 「秋、九月乙丑
  晋の趙盾(チョウトン)、
  其の君、夷皐(イコウ)を弑(シイ)す」
 (春秋・宣公二年・前607)
 「晋の夷皐(霊公)殺害を記録」
 「董狐(トウコ)の筆」・・・
 晋の趙穿(チョウセン)が
 桃園に攻め入って
 霊公を弑した
 趙盾が趙穿の反乱を知った時
 彼はまだ国境の山を越えていなかったので
 そのまま晋に引き返した
 すると、歴史官が
 「趙盾がその君を弑した」
 と記録して朝廷に報告
 趙盾が
 「事実と違っている」
 と言うと
 歴史官は
 「あなたは晋の正卿です。
  それなのに亡命しようとしたあなたは、
  逃げても国境を越えられず、
  戻ったのに
  君主殺害の賊(趙穿)を
  討伐しようともしませんでした
  この責任は貴方になくて
  誰にあると言うのですか」
 と趙盾に迫った・・・
 ↓↑
 趙穿は趙盾の従兄弟
 霊公を攻めて殺したのは
 趙穿で
 歴史官は
 「趙盾が君主(霊公)を弑殺した」
 と記録
 趙盾は抗議
 趙穿の反乱があった時
 趙盾はまだ国境を越えていなかった
 国境を越えないで
 そのまま帰国したのであるから
 趙盾には
 霊公殺害の犯人を捕らえるという
 君臣の義がある
 これに趙盾は反論できなかった
 歴史官は
 董狐という人物
 孔子は趙盾の罪を隠すことなく記録した
 董狐を「古(いにしえ)の良史なり」
 と称えた。
 「董狐の筆」は
 事実を
 忌憚なく直筆する良史の代名詞となった
 だが董狐を称えただけではなく
 趙盾にも
 「古えの良大夫なり」
 と賛辞
 趙盾が
 「事実を事実として記録する」
 という歴史記録の鉄則を認めて
 弑君の汚名を甘受したからである・・・
 「惜しいかな、もしこのとき
  趙盾がすでに国境を越えてしまっていたなら
  この罪を免れていたであろうに」
 と。国境を越えてしまえば
 趙盾と霊公との間の
 君臣関係はすでに消滅
 趙盾が
 非難されることもなかった・・・?
 晋の霊公は
 君主としては失格で
 霊公は
 国民に重税を課し
 自ら贅沢三昧
 残虐な性癖だった
 趙盾は
 霊公を諌めたが
 改めようとしない
 度々諌める趙盾を
 暗殺者を仕向けて
 趙盾を殺そうとした
 不首尾に終わると
 霊公は酒宴を設けて
 趙盾を罠に陥れようと謀ったが
 辛うじて難を逃れた趙盾は
 宴席を脱出し国外亡命しようとした
 趙盾が国境を越えてしまっていたなら
 弑君の汚名を被ることもなかった
 国境を越えなかった
 歴史官の
 董狐はこの事実に基づいて
 「趙盾が君主を弑殺した」
 と記録した・・・???・・・
 実行犯の問題か?、責任者の問題か?・・・
 従兄弟の
 「趙穿」の立場はどうなのか?・・・
 「辛酉革命」では・・・
 「君臣関係」の枠では「君主臣従」・・・
ーー↓↑ーー
 (弓裔は王建に命じ)
ーー↓↑ーー
 珍島
 皐夷島・・・皐(さつき・コウ)夷=高耳?
       皐=高?
       夷=耳?
      「皐=白=十=」は俗字で
       正字は「皋=白+一+人+十」
       皐=さわ・さつき・コウ
         異体字は皋
         さわ(沢)・きし(岸)・水際・水辺
         五月の異名・さつき
         皐魚の泣(コウギョのキュウ)
         親の死を嘆き悲しんで泣くたとえ
         「夷皐=霊公」・・・
         「皐夷の文字が上下逆位置」だけれど?
 を攻略
 錦城(羅州)を奪って
 甄萱を牽制
 弓裔の勢力は
 南は公州
 東北は甑城(安辺)
 西北は黄海道平安道
 まで及んだ
 ↓↑
 聖冊七年(911年)
 国号を
 泰封・・・泰(タイ)の封(フウ)
 年号を
 水徳萬歳・・・水の徳
        萬の歳・・・太安萬(万)侶
 と改元
 自らを
 弥勒菩薩と称し
 長男を
 青光菩薩・・・青光菩薩=多羅仏母・救度仏母
        手に青い蓮の花を持つ菩薩?
        東北大学大学院農学研究科
        堀雅敏准教授の研究グループは
        青色光を当てると
        昆虫が死ぬことを発見・・・?
 次男を
 神光菩薩・・・神光菩薩=密教道教
             華光大帝(馬霊官)?
 と呼ばせた
 弓裔には
 粗暴なふるまいが多くなり
 「高麗史・太祖(王建)」の項によると
 弥勒観心法と称して
 人々の本性を探り出すことに熱中し
 三尺の鉄棒を熱して
 拷問殺害を繰り返し
 特に女性の不道徳を嫌って
 多くの女性を処刑した
 弓裔の横暴を諌めた
 康王后も不倫を疑われて
 陰部を熱した棒で貫かれ殺害され
 二人の息子も殺された
 その他
 多くの臣下を殺し
 人心を失った
 政開五年(918年)
 部下の
 卜智謙・・・卜(占い)の智謙
 申崇謙・・・申(サル・申す)の崇謙
 洪儒・・・・洪(氵共)の儒
 裴玄慶・・・裴(たちもとおる・ぶらつく)玄慶
       裴=長い衣
       裴世清=隋の煬帝の命令で
           俀國(倭国)に訪れた使者
 らが謀って
 王建を王に推戴
 王位から逐われ
 弓裔は
 逃亡する途中
 飢えで
 畑の作物を盗もうとして
 村人に発見され
 平康・・・平の康・・・北朝鮮
            カンウォン (江原) 道の
            南部にある町
 で殺害された・・・「夷皐=霊公」を「弓裔」に重ねた?
 ↓↑
 王后
 王后康氏(?-915年)
 弓裔によって殺害
 子女
 青光菩薩(?-915年)
 弓裔によって殺害
 神光菩薩(?-915年)
 弓裔によって殺害
ーーーーー
 942年
 契丹
 高麗に使を遣わすが
 その使を島に流す(高麗史)
ーーーーー
 942年
 干支=壬寅年
 日本 天慶五年
    皇紀1602年
 中国
 五代
 後晋 天福七年
 十国
 南唐 昇元六年
 呉越 天福七年(後晋元号
 閩  永隆四年
 南漢 大有十五年、光天元
 楚  天福七年(後晋元号
 荊南 天福七年(後晋元号
 後蜀 広政五年
 遼  会同五年
 于闐 同慶三十一年
 誕生
 源信   天台宗の僧(942〜1017年)
 藤原為光 公卿(〜992年)
 劉碭   十国・南漢の末代皇帝(942〜980年)
 死去
 石敬瑭  十国・後晋の初代皇帝(942〜892年)
 劉龑   十国・南漢の初代皇帝(942〜889年)
ーーーーー
 ・・・???・・・
 918年の年表記事
 死去
 王建=五代十国時代前蜀の初代皇帝(847年〜)
 弓裔=後高句麗の王 (857年?〜)
 蕭敵魯・・・蕭の敵の魯(魚日)・・・
 遼の外戚
 蕭胡母里の五世の孫
 母は徳祖の妹
 淳欽述律皇后は
 敵魯の姉
 耶律阿保機の側近
 阿保機が即位すると
 敵魯は弟の
 蕭阿古只・・・蕭(ショウ・セウ・もの淋しい・疲れている
          よもぎの一種
          蕭艾・蕭蕭・蕭条・蕭然)
        阿(阝可)の古(十口)の只(口八)
 耶律釈魯・・・耶(耳阝)の律(彳聿)の
        釈(解釈)の
        魯(魚日)
 耶律曷魯・・・耶(耳阝)の律(彳聿)の
        曷(なんぞ・いずくんぞ)の
          焉・烏・渠・胡・奈
        魯(魚日)
 らとともに
 宿衛を統べた・・・宿(やど)を衛(まもる)
 敵魯は
 北府宰相に任じられ
 官を世襲
 耶律阿保機・・・阿(ア)の保(ホ)の機(キ)
 が
 奚と
 劉守光を征討したとき
 敵魯は海浜の地を経略
 耶律阿保機の弟の
 耶律剌葛・・・剌(刺殺)葛(かつらぎ)
 らが乱を起こし
 敗れて北方に潰走すると
 敵魯は軽騎を率いて追撃
 楡河
 でその一党を撃破
 剌葛を捕らえた
 のちに西南夷を討った
 918年3月
 死去
ーーーーー
 ・・・???・・・