2144日目・・・日曜日の午後2時の映画は以前にも観た「ハリケーン」だったが、日本でも「冤罪事件」が多い。典型なのは「大阪地検特捜部主任検事証拠改竄事件」。「法の番人」とは「立身出世」に手を黒く染める・・・「妥協したいヒト」、「妥協出来ないヒト」、「妥協させられるヒト」、「妥協するヒト」・・・「どうでもイイヒト」・・・「妥協出来る共通項」とはナニか?・・・そもそも「妥協(compromise)」ってナニ?・・・「対立した事柄について、双方が 譲り合って一致点を見いだし、おだやかに解決すること」らしいが、

 ・・・無罪の者を訊問する者の「利害」とはナニか?・・・「利我意」か?・・・告発が「出世商売」である・・・
 先ずは「コトバの共通理解」がなければ双方の「利我意」の理解は無理だろう・・・
 日常生活で厭な奴であってもイイ顔して宥め妥協し距離を置くのも相手を知った上のコトだが・・・「冤罪」となれば「自由(?)」な日常生活はない。牢屋の中である・・・
 市民社会でも、国家間での「日本国家」と「隣国諸国」でも「約束事項の納得了解」ではあるが・・・「約束のコトバ=国際条約のコトバ」の「共通理解」が前提である。難しく云えば「概念規定の相互了解の上のコト」である。だが、各々の国家的な指導者(?)、大陸、南北半島、ロシア、アメリカの各々の国家的な指導者(?)は武力威喝、恐喝をバックに毛頭、約束を守るツモリはないらしい・・・「利我意の貫徹」らしいが、あるとすれば「妥協の方策」は「カネに換算」してのコトである・・・「戦争」で潤うのは国家のダレなんだか?・・・
 スポーツでの決着に本来引き分けは、ないハズだが・・・ルールの枠内での「勝敗」である。その本質は、格闘技であろうが、個人競技であろうが、競争相手がいようが、いまいが「自分自身との戦い」である。
 もうすこし云えば「生きているコト自体」が「自分自身との戦い」である。そして、「自分自身のエゴ」も含め、その生き方を教えてくれるのは、イイもワルイも自分と対峙する自然界であり、社会の人びとである。そして個々人の「喜怒哀楽」は「対峙するモノとの共感」を前提としている。他者へ恨み、辛み、自己の葛藤、苦悩のレベルもその枠内での経験と認識にある。
 そして、生きている現実とは「自他共に相互のエゴの妥協」であるが、「エゴ同士の妥協」とはナニか?「理性同士の妥協」とはナニか?・・・数学では「有理数(有理比数?)」とか、「無理数(無理比数?)」がある。そして「素数」とか、「複素数」がある。記号に「π」とか、「√」がある。極めつきは、割り切れないモノを「分数」にすると云うコトであるが・・・
 市民社会での「殺人事件、事故」の結果の妥協的な決着は「カネ」だが、生きている関係者同士の妥協であり、「死んだモノ」には無意味な妥協である・・・「殺すつもりはなかった殺人事件」、「拳銃発砲での殺傷、逃亡事件」は「自動車事故」とは異なるのだ・・・怨恨での問答無用の暴力相手にはどうするコトもできない・・・だが、「国家間」の「戦争」はどうか?・・・戦争は「理性」であるらしいから・・・回避は出来る?・・・だが「戦争は政治ゴロの意志の延長」である・・・
 中国の記録にある「扶桑國」は、
 「城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争を仕掛けない」国であったらしい。「兵士や武装」が無いのだから「戦争を仕掛けない」のは当然である。だが、近隣の「国々」はドウだったんだか・・・当時の中国人は「扶桑國」を羨望のマナコでこれを記録したんだか?、それとも、いずれは武装近隣国家に侵略されて滅亡の憂き目に逢うだろうと思ってのコトなんだか?、いずれは自国の暴力で組み入れるコトの出来るだろう「ネギとカモの國」だったんだか?・・・戦後の「ニッポン」は取り敢えずは、表向き、この「扶桑國」を「憲法」として実現してきた・・・この「扶桑國」の灯火(燭)を消そうとする奴等はダレなんだか・・・
 色々なブログ記事で「慧深」なる人物に関連する「扶桑国」を調べていたら、
 「世の中には乙祁を何故かオケと訓みたがる不可解な人がいて、乙祁(イツキ)は大和朝廷天皇である等と奇怪千万な事を宣(のたま)うもので、困ったものである」と書き込んでいたモノがあったが、ワラッた・・・
  ↓↑
 「乙」=「乚(イン)・L(エル)→Z(ゼット)」=象形で「ジグザグなモノ」、「物事がスムーズに進まないさま」、「種から出た芽が地上に出ようとして曲がりくねった状態」を表し、 「まがる・かがまる・きのと」を意味する。
  ↓↑
 「乙」=オツ(呉)・イツ(漢)
     きのと・おと・きしる
 十干の二番目の「きのと」・「乙」
 順位で、第二位・「乙種」
 きのと・「乙卯 (イツボウ) 」
 二番目の・「乙夜 (イツヤ) 」
 文末を止めるしるし・「不乙 (フイツ) 」
 文章の脱字を補う時のしるし
 「魚の内臓」
 「魚の顎(あご)の骨」
 「ひとつ(不乙=一)・太一・太乙(宇宙の根元)
 「つばめ」(例:乙鳥)
 「おつ-な」=おもしろい雰囲気のさま
       普通とは違って変なさま
       洒落(シャレ)ている
       粋(イキ)な
       邦楽で、甲(かん)より一段低い音
 「おと」=末(すえ)・終わり・乙子(おとこ)
      小さくてかわいい・幼い・若い
      乙姫・乙女
 「名のり」=お・き・くに・たか・つぎ・と・とどむ
 早乙女 (さおとめ) ・独乙 (ドイツ) 
 乙甲 (めりかり) ・乙張 (めりはり) 
 「乙夜之覧」
  の
 「越鳧楚乙」
  と
 「甲論乙駁」ですか・・・乙乙 (カイ)・乞食
             虎の兩脇の胸の皮下にある
             三寸許の乙字形のもの
  ↓↑
 キューポラ=溶銑炉・cupola furnace
       古来からある小型のものは
      「甑(こしき)」と呼ばれる
      「キュポラ」とも
      クーポラ (cupola) =半球形の屋根
      砲塔・潜望塔・指令塔
  ↓↑
 多分、ボク自身が「奇怪千万な事を宣(のたま)う困った人間」の一人であろう・・・ボクなら「乙-祁」の漢字を「音訓」で読めるだけヨンでしまいたいのだが・・・そのモウソウ的な「コジツケ」にダレも「困ってくれるヒト」などは存在しない、と思うが?・・・でも、彼のブログキジは面白かった、ョッ・・・「イツキ」は「五木・斎・齋・樹・憑依→依憑・のりつく・のりうつる」・・・
 前回は「イオ・イヲ・イヨ」、そして「晋=シン==進む・ゆく・いく=晉」と、「普=ならぶ・あまねし・フ・ホ」の漢字の構成にコダワッたが・・・関連のカナ目の「共通項」は「漢字」そのものである・・・原点は「アソビ」の同音異字のモウソウだから・・・「エンタメ」でもしてくれ・・・entertainment・・・
 そもそも「同音異字漢字」の「音」が「借音」となった理由だが、あまり説明されるコトはない。「中国人以外」の人物名が「借音」だけで記録されたとも思えない。単純な理由は「原書」を翻訳するときに、漢文への翻訳人は、そのコトバの意味に「適応」する「同音の漢字」を有していなかったか、知らなかった、思い出せなかった・・・だが、単漢字の数は「文字」としては「康熙字典で五万」、調べれば10万以上もあるらしい。日本の「大漢和辞典」では、約五万字が網羅記載されている・・・中国人の一般日常生活での読み書き、特に記録に対する「識字と記憶の問題」である。「借音」の意味は前後関係から推察するよりは手がない・・・
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 「慧深」
  ↓↑
 「梁書
 「僧-慧深(ケイシン)
 「普通年間 (520年〜527年)」に
 「扶桑」という国から
 「梁」へやってきた・・・
 「倭国の東北7000余里」に
 「文身国」
 その東5000余里に
 「大漢国」あり、
 その東2万余里に
 「扶桑」國がある・・・
 「扶桑」の
 位置も含め、慧深の証言・・・
  ↓↑
 「地の文」の大漢国と慧深の言う大漢国が
  同じものかもはっきりしない。
  地の文=語り手(かたりて)とは、
  ある物語を語る、
  物語内の存在(人物等)である。
  また、
  小説で言うところの「地の文」の語り手で
  ナレーター
  ↓↑
 (Narrator)、語り部(かたりべ)
  ギリシャ語の「カタラベノ→カタリベノ」
  同意します・わかります
  Καταλαβαίνω.
  Katalavéno=分かります・理解できる
  ↓↑
  わかりません
  Δεν καταλαβαίνω.(ゼン,カタラベーノ)
  日本語を話せますか
  Μιλάτε ιαπωνικά)(ミラーテ,ヤポニカ?)
  ↓↑
 扶桑國、在昔聞也。
 普通中、
 有道人稱自彼而至、
 其言元本尤悉、故扞録焉。
 (中略)
 扶桑國者、
 齊永元元年、
 其國 有 沙門-慧深 來至荊州
 説云
 「扶桑在
  大漢國東二萬餘里、
  地在
  中国之東、
  其土 多 扶桑木、故以爲名。
  扶桑葉 似 桐、
  而初 生 如笋、
  國人食之、
  實 如梨 而赤、
  績其皮 爲布 以爲衣、
  亦以 爲綿。
  作板屋。無城郭。
  有文字、
  以 扶桑皮 爲紙。
  無 兵甲、
  不攻戦。
  其國法、
  有 南北獄。
  若 犯徑者 入 南獄、
    重罪者 入 北獄。
  有 赦則赦南獄、
    不赦北獄。
  在 北獄者、男女相配、
  生 男八歳 爲奴、
  生 女九歳 爲婢。
  犯罪之身、至死 不出。
  貴人有罪、
  國乃大曾、坐 罪人 於 坑、
  對 之宴飮、分訣 若 死別焉。
  以 灰繞之、
  其一重 則一身屏退、
   二重 則 及子孫、
   三重 則 及七世。
  名 國王 爲 乙祁、
  貴人第一者 爲 大對盧、
    第二者 爲 小對盧、
    第三者 爲 納咄沙。
  國王 行 有 鼓角 導從。
  其衣色 随年 改易、
  甲乙年青、
  丙丁年赤、
  戊己年黄、
  庚辛年白、
  壬癸年黒。
  有 牛角 甚長、以 角 載物、
  至勝二十斛。
  車 有 馬車、
      牛車。
      鹿車。
  國人 養 鹿、如 中國 畜牛。
  以 乳 爲 酪。
  有
  桑梨、
  徑年 不壊。
  多 蒲桃。
  其地 無鐡 有銅、
  不貴 金銀。
  市 無 租估。
  其婚姻、
  壻 往 女家門外 作屋、
  農夕 灑掃、
  徑年 而 女 不悦、即 驅 之、
         相悦 乃 成 婚。
  婚禮 大低 與 中國同。
  親喪、七日 不食
  祖父母喪、五日不食
  兄弟伯叔姑姉妹、三日不食
  設 靈 爲 神像、朝夕 拜奠、
  不制 縗絰。嗣 王立、
  三年 不視 國事。
  其俗舊 無 佛法、
  宋-大明二年、
  罽賓國 嘗 有 比丘五人
  游行 至 其國、流通 佛法、
  徑像、教令 出家、風俗 遂改。」
 慧深 又 云
 「扶桑 東 千餘里 有 女國(以下略)」
  ↓↑
 (扶桑国の話は以前はなかったが、
 普通年間 (520年〜527年)・・・・?
 扶桑国から来たと言う者の話を記す。
 普通(520年〜527年)中 有 道人稱自 彼而至
          其言 元本 尤悉 故幷錄焉」
 (中略)
 永元元年(499年)・・・・・・・・?
 扶桑国の僧
 慧深が
 荊州に来て言った。
 「齊-永元元年(499年)、其國有沙門 慧深
  來至荊州,說云」・・・
 「慧深によれば扶桑国には
  458年(南宋の大明二年)には仏法伝来・・・
  458年-大明二年の扶桑国の名、
  国王、為、乙祁か?・・・」
 「宋-昇明二年(478)最後の倭王武の遣使
  斉-建元元年(479)まで中国に滞在・・・
  それ以降、日中間の外交はなかった・・・」
 「扶桑国は
  大漢国の東二万余里(8700km余)、
  中国の東方にある。
  ↓↑  ↓↑
  「扶桑の木」・・・桑=又又又木
  ↓↑         又=右手・股・亦→交叉・復
  ↓↑         桑港(サン-フランシスコ・三藩
                San -Francisco)
           1769年11月2日
           ガスパル・デ・ポルト
           率いるスペイン人の入植者
           インディアン部族
           オーロネ族
           が小さな村に分かれて住んでいた
           1776年3月28日
           スペイン人によって
           サンフランシスコ要塞
           サンフランシスコ
           ・デ・アッシス伝道所建設
           1821年
           メキシコ独立戦争(革命)
           メキシコ領
           伝道所は徐々に廃止され、
           土地は民営の牧場に転換
           1835年
           イギリス人
           ウィリアム・リチャードソン
           が現在の
           ポーツマス・スクエア
           に自作農場経営
           街は
           イェルバ・ブエナ
           と名付けられ
           アメリカの入植者が集まった
           1846年7月7日
           米墨戦争
           アメリカ軍の
           ジョン・スロート代将が
           カリフォルニアを
           アメリカ領土と宣言
           1847年
           イェルバ・ブエナ(スペイン語
           hierba buena=よいハーブ(茶)
                  good harb
           は
           サンフランシスコと改名
           メキシコは
           グアダルーペ・イダルゴ条約で
           この一帯の領地を
           アメリカに割譲
        ・・・その後は「ゴールドラッシュ」・・・
           ↓↑
          「蚕(サン)の木」?・・・
           蚕・蠶=かいこ・ご・こ・サン
           蚕=天+虫・silkworm
             pupa=(さなぎ)
             bombyx mori=ラテン語の名称
             蠶=兂兂(牙牙)日虫虫
             兂=簪=かんざし・シン・サン
               ↓↑
             チョウ目(鱗翅目)・カイコガ科
             昆虫の一種
             和名=カイコガ
                カイコ=幼虫の名称
                クワ(桑)を食餌
                絹糸を吐き
                蛹(さなぎ)の
                繭(まゆ)を作る
                養蚕・蚕糸
                蚕食・蟻蚕(ギサン)
                原蚕・養蚕
                蚕蛾・蚕棚
               ↓↑
              こ・ご
              毛蚕 (けご)
              春蚕 (はるご)
              沙蚕 (ごかい)
              蚕豆 (そらまめ)
              草石蚕 (ちょろぎ)
                 =紫蘇(シソ)科の多年草
          「郭公」草石蚕とは別種・・・?
              天蚕糸 (てぐす)
              天蚕 (やままゆ) 
                ↓↑
        「鱣は蛇に似たり、蚕は蠋に似たり」
        (センはヘビにニたり、
         サンはショクにニたり)
         人は利益のためなら
         恐ろしいことも嫌なことも
         平気でやる・・・
        「鱣(セン)」=鱧(はも・レイ・ライ)
         魚(まな)は亶(亠(音)+回(まわす)
                 +旦(日一)
          230年(庚戌)
          孫権
          衛温と諸葛直の将軍を、
          夷州と亶州を探索させた・・・
         魚(まな)は豊
               豊後・豊前・豊国→大分
               中国の地名
               閩州 - 福建省にあった州
               均州 - 湖北省にあった州
               豊州 - 吉林省にあった州
               豊州 - 内モンゴル自治区の州
        「蠋(ショク)」=芋虫
         蛇は恐れられるが、
         鱧は蛇に似ている
         漁師は平気でつかみ、
         芋虫に似ている蚕も、
         養蚕をする者は平気で扱う(韓非子
  ↓↑         
  が多いことからその名がある。
  扶桑の葉は桐に似て、
  生え始めはタケノコのようで、
  扶桑国人は食用にする。
  実は梨のようで赤く、
  その皮を績いで
  布にして
  衣類や綿にしたり
  屋根を葺いたりする。
  文字はあり、
  扶桑の皮でできた紙に書く。
  城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。
  南北2つの監獄があり、
  軽罪の者は南獄、
  重罪の者は北獄に入る。
  南獄には恩赦があるが
  北獄にはない。
  北獄では男女を番わせ、
  生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、
  罪人自身は一生出られない。
  貴人が有罪となれば、
  穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、
  その上に灰を撒く。
  初犯なら当人が責を受けるだけだが、
  再犯なら子と孫、
  三犯なら7世に及ぶ。
  国王の名は
  乙祁。
  貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の
  第1位は大対盧、
  第2位は小対盧、
  第3位は納咄沙と呼ぶ。
  国王が行くときには鼓笛を従える。
  その衣の色は年により変わり、
  甲乙年は青、
  丙丁年は赤、
  戊己年は黄、
  庚辛年は白、
  壬癸年は黒である。
  牛の角は非常に長く、
  20斛(540kg、1斛≒57kg)以上を運ぶ。
  馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。
  中国人が牛を飼うように、
  扶桑国人は鹿を飼い、
  乳から乳製品を作る。
  桑、梨、フトモモがある。
  鉄はないが銅(青銅か)はあり、
  金銀はふんだんにある。
  市場では税金がかからない。
  結婚するときは、
  婿が女の家へ行き、
  門外に建物を作り朝夕掃除する。
  女が喜ばなかったら取り壊し、
  喜べば成婚となる。
  結婚式は中国とほぼ同じである。
  親の喪には7日間絶食する。
  祖父母は5日間、
  兄弟姉妹おじおばは3日間である。
  死者の霊を神像とし、朝夕拝む。
  (先王が死んで?)
  王の跡継ぎが立ったときには、
  3年間国事に関わらなかった。
  かつては仏教はなかったが、
  大明2年(458年)、
  罽賓国(ガンダーラカシミール近辺)から
  5人の僧が来て
  仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、
  風俗は変化した」
  また
  慧深はこうも言った。
  「扶桑の東1000余里(430km)に
   女国があり、(以下略、一部意訳)
  『梁書』巻54 列伝第48
         諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國
  ↓↑
ーーーーー
 1761年
 フランスの中国学者
 ヨセフ・ド=ギーニュ
 五世紀に
 六人の中国人仏教僧が、陸路・海路で
 アラスカとアメリカ西海岸を経由して
 メキシコに渡ったという論文を発表
 中国皇帝の古文書館で発見された
 四九九年の紀年を持つ資料を根拠にし
 六人のうちの一人で慧深という僧侶が、
 四五八年
 に皇帝に報告したと記録
 グアテマラの地名は
 ゴータマ(仏)
 マラ(数珠)に由来し、
 マヤ族=マーヤー(仏の母)
 と提唱した・・・
  ↓↑
ーーーーー
 大木伝説
 日本書紀
 景行十八年七月四日条
 筑紫後国の三池(福岡県三池)に倒れた巨樹
 長さは970丈(2910メートル前後)
 橋代わりにされていた
 「朝霜の 御木(みけ)のさお橋
  まえつきみ い渡らすも 御木のさお橋」
 と歌った。
 老人がいうに、この
 「椚(クヌギ)」が倒れる前は、
 朝日の影で
 杵島山を隠し、
 夕日の影で阿蘇山を隠すほどだった
 天皇はこの倒木を神木とし、この国を
 「御木(みけ)の国」と呼ぶことにした
  ↓↑
 播磨国風土記
 逸文
 仁徳天皇の治世(5世紀前半)に
 「楠」があり、
 朝日には淡路島を隠し、
 夕日には大倭(やまと)島根を影で隠した
 その大樹を伐(き)り、舟を造った
 速き事、飛ぶが如く
 一楫(かじ)に七波を去(ゆ)き越えた
 船は
 「速鳥(はやとり)」と号(なづ)けられた
 ある日、一度だけ目的に間に合わなかった為、
 和歌で
 「何が速鳥か」とその名を揶揄されている
 「速鳥」という船名は
 「続日本紀
 天平宝字二年三月条
 にも、
 「播磨の船」と記録
  ↓↑
 今昔物語集
 巻第三十一
 近江国栗太郡に柞(ハハソ)の巨樹があった
 その幹回りは700尋(1260メートル前後)
 朝日の影は丹波国をさし、
 夕陽の影は伊勢国にさした
 あまりに大きく、
 栗太郡はおろか、
 志賀・甲賀
 の三郡の百姓は田畑を作ることさえできなかった
 そのことを天皇に訴えたところ、
 願いが聞き入れられ、
 巨樹は切り倒され、
 田畑を耕すことができるようになり、
 豊穣を得ることができた
 今(物語の時代)でも、
 その郡にはその時の子孫がいる
 室町時代成立の『三国伝記』では、
 「ハハソ」から「栗の木」へと変わり、
 郡名由来譚となっている
  ↓↑
 諏訪では
 「御柱祭り」・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・カタラベノ・・・ゼン・・・風神、雷神、水神の不気味な微笑・・・