2143日目・・・「イオ・イヲ」にコダワル・・「晋(晉・シン・265年〜420年)」は、「司馬炎が魏の最後の元帝から禅譲で建国・280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させた」・・・「匈奴(前趙) に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼ぶ」・・・古代史に興味のナイヒトにはどうでもイイことだが・・・ギリシャとなれば、「神話」で「天文学」だが、「スウガク(数学)・幾何学」、「化学・生物学・医学」、「冶金・鉱学」、「土木建築」、「絵画・造形・音楽」、そして、「哲学」、「文学」、「オリ

 ガイアの子「テューポーン(多頭竜で翼を持つ怪物)」はゼウスと戦い、地球を灼熱地獄とし、天上の神々を大混乱させ、追い掛け回された神々は、動物に姿を変えてエジプトへ逃げ、動物の姿になった。パーン神 (Pan) は、恐慌のあまり上半身がヤギで下半身が魚に化けて逃げたので「Panic (パニック)=混乱」の語源となった、とか・・・まるで、今現在のシリア、イラクではあるが、「古事記日本書紀」では「やまたのおろち(八岐大蛇・八俣遠呂智・八俣遠呂知)」だろう・・・退治したのは「すさのお(建速-須佐之男・素戔男・素戔嗚)」である。ならば「ゼウス」とは・・・
 アレクサンダー大王ペルシャに勝利し、エジプトをも支配下に置き、インドにも遠征した。
 文明、文化は戦争で膨大な屍を地上に曝したが、生き残った「勝者」にも「敗者」にも「文明文化」を「融合」させたのである・・・
 それ以前から当時の地中海沿岸、島々は「ギリシャ人の商業と植民の地」であった・・・「ローマ人」の「神話」は「ギリシャ神話の借り物」であり、「融合」であった・・・そして、「古代ギリシャ」は「先進古代エジプト文明文化」の「融合」でもあった・・・
 その「文明文化」を「アラブ」が西の「ヨーロッパ」へ、極東の「ジポン」にも伝えた・・・
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 ・・・「神話の混乱」か、ボクの混乱か・・・
  ↓↑
 「神話を有しない種属共同体」は「他種族の神話」を借りて、その「神話」を「模造する」・・・あるいは、異種属共同体間の戦争での「勝敗の結果」、敗北種属は「自分たちの神話を征服種族のモノと合体」させ、「他種族の神話を微妙に変化させる」・・・当然ではある・・・
 さても、「アルゴス」は
 「アルゴス古代ギリシア語: Ἄργος, Argos,ラテン語: Argus)、ギリシア神話に登場する100の目をもつ(あるいは体に多くの目を具えた)巨人で、アゲーノールの息子・・・
 そして、「ヘラー女神」の忠実な「浮気女(?)」の監視の「獣神」であった・・・モチロン、ヘラーの「浮気でエゴな夫」はゼウスである・・・「イオ」には罪がないハズだが・・・「主婦の敵」は乙女か、若い女か・・・
 漢字では
 「普見者(パノプテース)アルゴス」の百目の怪物であった・・・ナゼ、
 「普見者」なのか・・・「普=あまねし・フ・全体に行き渡る・全体にわたって」、「普及・普通・普遍・普段」・・・
 そして真言「オン・サンマヤ・サトバン」の「普賢菩薩(フゲンボサツ・サマンタ・バドラ)・法華経」で、
 「二十二の手を持つ仏」で、
 「女性の救済の仏」で、
 「四七日の仏・金剛手菩薩」
 「遍吉(ヘンキチ)」で、
 「理智と慈悲、減罪の仏」でもあるらしい・・・
 「四川省峨眉山霊場」・・・
 問題にしたいのは「菩薩」の後利益ではなく、
 「普(並+日)=ならぶ・フ・ホ」
 と
 「晋=晉(―+ム+ム+一+日)
   =すすむ・おさえる
    あき・くに・ゆき・シン」
    楚材晋用=優秀な人材が流出し
    他国で重用されること
 の漢字である・・・
 「晉」は「一はヨコシマ(ム)が并(ならぶ)一の日(ひ・び・か・ニチ・ジツ)」・・・?・・・「草壁皇子=日並皇子=日並知(ひなめし) 皇子」は「阿陪(阿閉)皇女(元明天皇)」に殺されたのカモ・・・持統天皇(鸕野讚良)はモチロン、実姉(大田皇女)の子である「大津皇子」を殺した・・・ヤマトタケルは「建(他懸留)」であった?・・・「日本武=倭建=小碓=倭男具那=日本童男」・・・である・・・「倭の男(おとこ・ダン)の具える那(ナ)」・・・那落に落ちるのは刹那いけれど・・・

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  ↓↑
 「犍牛」の漢字の考察・・・
  ↓↑
 「邪馬台国の宗女、13歳の壹(臺)與」の記録は
 「魏志倭人伝」では「壹與」・・・
 「梁書・北史」では「臺與」・・・
 「梁書諸夷伝・倭」
 「更立男王、国中不服、更相誅殺
  復立、卑弥呼、宗女、臺與為王」
 「復立、卑弥呼(247年死?)、
  宗女の壹與、年十三、為王、国中、遂定」
 ・・・「復立、卑弥(彌)呼」であるならば「卑弥(彌)呼」として「また、壹與を立てる」は・・・役職名?・・・「ひみこ」か、「ヒミカ」か、「ヒ(甶or囟ノ十)ミ(弓爾)と呼ぶ?」か、異字体は「𤰞(田ノ十)・𡮁(小田廾)・𡭼(小田ノ十)」で、「ノ+十」は「(斗)-(ノ)」である・・・「彌次郎兵衛(balance toy)」・・・「歴史=暦(こよみ)の史(ふみ)」の「記録」だから先ずは「漢字文字」を勉強しなくちゃァ〜・・・「那=尹+阝」に意味がナイと考えるのは勝手だけれど・・・「認識できるモノは意味がアル」である・・・個々人の「認識範囲」は生きている経験的時間の問題でアルカナ・・・「卑怯」は「臆(憶)病」なのか、「億劫」なのかはその時の状況次第である・・・
  ↓↑
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  266年
 「正始中、卑弥呼死、其宗女、臺輿、為王(梁書
  (注:魏略云倭人自謂、太伯之後)
  其後、復立、男王並、受中国爵命、
  晋武帝、太始初、遣使重訳入貢(晋書)」
 ・・・「遣使」と「重訳、入貢」の「重」は「従訳人」か?
 「晋、泰始初、遣使朝献、
  臺與死、其国、復立、男王、安帝時(通志)」
 「晋書、武帝記・(泰始)二年十一月已卯・倭人、來獻方物」
 「臺與の死は泰始の遣使の後」・・・
  ↓↑
 「晋書」・・・シンジョ・晉書
        晋王朝西晋東晋)について歴史記録書
        二十四史の一
        648年、唐の太宗の命により
        房玄齢・・・・ボウゲンレイ?
        李延寿・・・・リエンジュ?
        らの編纂
        ・・・彼らの名前を疑うヒトはいないらしい・・・
        帝紀十巻
        載記
       (五胡の単于・天王・皇帝の関係記録)
        三十巻、列伝七十巻、志二十巻の構成、紀伝体
       「三国志」に「地理志」が存在しないので
       「地理志」に限って『晋書』の記録が多用
        また、
       「司馬懿の伝記」がなく、
       「晋書には司馬懿伝記=宣帝紀」がある
       「太康十年(289年)条」
       「東夷絶遠三十餘國
        西南二十餘國來獻」
       「東夷伝(四夷傳・東夷条)
       「武帝紀」に記録
       「266年
        倭人が来て、
        円丘・方丘を南北郊に併せ、
        二至の祀りを二郊に合わせた」
 「梁書」・・・梁(502年〜557年)の歴史「記録書」
        56巻
        629年(貞観三年)
        陳の
        姚察・・・・・?・・・女の兆しを察する
        の遺志を継いで
        息子の
        姚思廉・・・・?・・・チョウシレンです
        が完成させた
        倭伝では、
       「倭王武が大将軍」に除正と記録
       「倭
        文身國、在、倭國の東北七千餘里
        大漢国、在、文身國東五千餘里
        扶桑国、沙門の慧深によれば
        扶桑が在るのは
        大漢國の東二萬餘里
        地在、中國之東
        其土は多、扶桑木。故以爲名」
 「北史」では「臺與」・・・
       北朝の歴史記録書
       李大師により編纂が開始
       子の
       李延寿が完成
       全100巻・本紀12巻・列伝88巻
       南北朝時代(439年〜589年)
       の北朝にあたる王朝
       北魏西魏東魏北斉北周・隋などの歴史
       「北史・倭国伝]
       「北史東夷伝
       「正始中、卑彌呼死、更立男王、
        國中不服、更相誅殺、
        復立、卑彌呼、宗女、臺與、爲王」
       「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫」
       「後漢光武帝の時(25〜57年)
        遣使が入朝、大夫を自称
        安帝時(106〜125年)、又遣朝貢
        謂之、倭奴國」 
  ↓↑
 西晋東晋とも晋朝
 東晋時代は
 五胡十六国時代
 首都は洛陽、
 呉を滅ぼし中国全土を統一し、
 後漢末期以降分裂していた中国を
 100年振りに統一した王朝
 建康に遷都した後の政権(東晋)に対して
 西晋と呼ばれる
 西晋末期に長安に遷都後、
 南遷後の首都は
 「建業」で・・・・「犍」+「業」
 ・・・やっと、「建業」・・・「犍」+「業」に辿り着いた・・・
  ↓↑
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 司馬氏
 河内郡の名族
 秦の滅亡後に項羽劉邦と共に活躍した
 殷王
 司馬卭の子孫・・・
 後漢時代
 歴代の郡の長官輩出
 司馬防
 後漢末期の争乱から台頭した
 曹操に接近、関係を持ち
 その長男
 司馬朗は曹操重臣
 司馬防の次男
 司馬懿
 208年
 赤壁の戦い
 年から
 曹操に仕え、参謀
 その嫡子
 曹丕の世話役として
 曹操の丞相府で地位を確立
 220年
 曹操が死去
 司馬懿は丞相府の司馬として葬儀
 曹丕後漢の丞相・魏王
 曹丕(文帝)の信任を得
 226
 文帝曹丕崩御する直前に
 皇太子
 曹叡(明帝)の後事を託された
 曹丕崩御
 孟達
 蜀の諸葛亮から帰順を勧める使者が遣わされ
 孟達が魏に反逆した際、
 司馬懿は鎮圧して
 蜀の北進を防いだ
 魏の軍事最高責任者として
 諸葛亮の率いる蜀軍と対峙
 234年
 五丈原諸葛亮の死を受けて
 蜀の勢威を挫いた
 238年
 呉と連動して反魏的行動をとっていた
 遼東の
 公孫淵を討ち、
 魏における勢威を確立
 その
 直後に
 明帝
 曹叡崩御
 曹芳を
 魏宗室の
 曹爽と共に託された
 曹爽との間に確執が生じ、
 司馬懿は一時的にその実権を奪われた
 249年
 司馬懿はクーデターを起こし、
 曹爽一派を誅滅(高平陵の変)
 司馬一族は
 魏の権力を完全に掌握
 251年8月
 司馬懿は死去
 ↓↑ 
 実権は正妻
 張春華との息子である
 司馬師
 が継承
 252年
 孫権の死
 諸葛誕
 を呉に侵攻させるが、
 東興の戦いで大敗
 司馬師
 敗戦の諸将を不問にし人心を得た
 254年2月
 宰相の
 李豊による
 反司馬師の密謀が露見、関係者を処刑
 皇帝
 曹芳をも皇太后の命令と称して廃位を実行
 皇帝には
 文帝の孫
 曹髦が傀儡として立てられた
 255年2月
 この廃立に
 対呉戦線の重鎮にあった
 毌丘倹
 文欽
 ら宿将らが反発
 司馬師
 自ら反乱を鎮圧したが
 病状が悪化して死亡
 司馬師の死後、
 同母弟の
 司馬昭が後継者
 大将軍・録尚書事に就任
 257年5月
 対呉戦線で強大な勢力の
 諸葛誕
 皇帝や皇太后を奉じて
 258年2月までに滅ぼした
 260年5月
 傀儡
 曹髦のクーデターを鎮圧し殺害
 諸葛亮亡き後の蜀に
 263年5月
 司馬昭
 元帝から蜀征討の詔を出させ
 8月に18万の大軍を
 蠟艾・鍾会らに預け
 11月に滅ぼした
 蜀平定前の10月から
 司馬昭に対して
 晋公就任の詔が出され、
 司馬昭
 晋公となった
 264年3月
 晋王
 5月
 司馬懿を晋国の宣王
 司馬師に景王を追贈
 10月に嫡子
 司馬炎
 晋国の世子と定めた
 魏臣に対しても本領安堵
 265年8月
 司馬昭は急死
  ↓↑
 司馬炎
 司馬昭の死後は嫡男の
 司馬炎が継いで
 晋王・相国となった
 265年12月
 魏の元帝から禅譲を受けて即位
 年号を
 泰始と改め
 晋王朝を立てた
 晋の実質的な創立者
 司馬炎武帝)の祖父の
 司馬懿・・・孫の代が司馬炎武帝
 ・・・「曾孫降臨」・・・
 殷王、
 司馬卭の子孫・・・
 後漢末の
 司馬防・・・
 司馬懿・・・
 司馬昭・・・
 司馬炎・・・
 270年
 鮮卑
 禿髪樹機能
 が反乱し、
 秦州刺史
 胡烈
 や
 涼州刺史
 牽弘
 を破った
 277年
 文鴦
 が
 禿髪樹機能を降伏させた
 279年
 禿髪樹機能は再び反乱
 涼州を制圧したが、
 西晋
 馬隆に大敗し
 部下の
 没骨能に殺害(禿髪樹機能の乱)
 三国最後の呉は
 孫皓の暴政
 279年11月
 武帝司馬炎)は東西から20万余の大軍を
 賈充・杜預・王濬・王渾
 らを大将にして派兵
 280年2月
 江陵を攻略
 3月
 石頭城を陥落させ
 呉都の建業に侵攻
 孫皓は降伏
 中国は
 晋によって
 再び統一
 ↓↑
 武帝の統一事業完成
 だが武帝は女と酒に溺れて朝政放棄
 武帝の皇太子
 司馬衷は暗愚
 武帝の12歳年下の同母弟の
 斉王
 司馬攸に後継を期待
 司馬炎
 司馬攸を斉へ赴任命令
 諫言を封殺し
 司馬攸を支持する派閥を粛清
 司馬攸は発病し
 283年に死去
 武帝の晩年には
 皇后
 楊氏の父
 楊駿が朝政を掌握し
 外戚が国を専権した
 ↓↑
 「八王の乱
 290年4月
 武帝崩御
 司馬衷(恵帝)が
 第2代皇帝として即位
 恵帝は政治を放り出し、
 実権は
 楊皇太后の父
 楊駿が輔政の形で壟断
 楊駿は2人の弟を要職に就けて一族で専横
 だが恵帝の皇后の
 賈后(賈充の娘)は
 楊氏の専横を憎み、
 禁軍の中にも楊氏一族に対する不満
 291年
 汝南王
 司馬亮
 楚王
 司馬瑋
 と結託して
 楊駿を殺害
 司馬亮は
 賈后は
 司馬瑋を扇動して司馬亮を殺させ
 その罪を全て
 司馬瑋に負わせて彼も殺害
 実権を掌握
 賈后と甥の
 賈謐による10年弱の専横が継続するが
 張華
 らによって
 西晋は安定が保たれた・・・
 賈后は美少年を宮中に入れて淫行
 299年12月
 賈后は自らの実子ではない皇太子
 司馬遹を廃し
 300年3月
 に殺害
 賈后に対する専横に反発
 300年4月
 趙王
 司馬倫は
 斉王
 司馬冏と
 賈后とその一派を殺し
 首都洛陽を制圧
 301年1月
 恵帝を廃して自ら即位
 ↓↑
 司馬倫の簒奪で諸王が反発
 301年
 司馬倫は
 斉王
 司馬冏
 河間王
 司馬顒
 成都
 司馬穎
 により殺害され
 恵帝が復位
 八王の乱
 306年11月
 東海王
 司馬越によって
 恵帝が毒殺され(病死説)
 12月
 異母弟である
 懐帝
 司馬熾
 第3代皇帝に擁立され終焉
 ↓↑
 永嘉の乱
 八王の乱による混乱を見た
 匈奴の大首長
 劉淵は、
 304年に晋より自立し
 匈奴単于を称し
 五胡十六国時代の始まり
 劉淵
 308年
 皇帝を名乗って
 匈奴単于氏族たる
 攣鞮氏
 と漢室
 劉氏の通婚関係の歴史を背景に国号を
 漢(劉曜の代にこれを廃して趙、前趙)とした
 四川で氐族の
 李雄による
 成漢(大成、後に漢を称す)が自立
 西晋に反抗する諸勢力が各地に割拠
 東海王
 司馬越が各地の勢力を抑えていた
 ↓↑
 西晋朝廷内部で実権を握っていた
 司馬越
 が詔と称して丞相を称し
 懐帝との対立
 311年
 懐帝が司馬越討伐の勅命
 司馬越は逃亡先で
 3月に憂憤のうちに病死
 匈奴による漢朝の武将
 石勒は4月に
 司馬越の跡を継いで
 晋軍元帥となっていた
 王衍の軍勢10万余を
 河南省苦県において殺害・捕虜にした
 西晋は統治能力と抵抗力を喪失
 劉聡
 劉曜
 と
 王弥
 石勒
 に
 311年6月
 西晋の首都洛陽を攻めさせ、
 略奪暴行
 ↓↑
 一連の動乱を年号をとって
 永嘉の乱と呼ぶ
 西晋
 匈奴後裔国家に滅ぼされた・・・
 洛陽は陥落
 懐帝は玉璽と共に
 漢の都平陽に拉致
 前帝=恵帝の皇后(恵皇后)
 羊氏は
 劉曜の妻とされた
 懐帝は生かされたが
 劉聡により奴僕の服装をさせられ、
 酒宴で酒を注ぐ役をさせられ、
 杯洗いをさせられ、
 劉聡外出の際には
 日除けの傘の持ち役にされ
 313年1月
 処刑され
 西晋は滅亡
 ↓↑
 懐帝の甥の
 司馬鄴(愍帝)は
 313年4月に即位して漢(前趙)に抵抗
 長安も漢の
 劉曜により攻撃され、
 晋軍は連敗し
 愍帝の政権は華北に残存していた
 西晋の残党により建てられた脆弱な政権で
 支配力は長安周辺にしか及ばない
 関中地域政権で
 長安は「八王の乱」で既に荒廃
 統治力も無く、
 西晋の諸王も援軍せず
 316年
 長安が陥落
 愍帝は漢に降伏
 平陽に拉致された
 西晋は完全に滅亡
 愍帝は生かされたが、
 懐帝同様の扱いを受けた後
 317年12月
 漢の劉聡により殺された
 司馬越の命令で
 江南の方面軍司令官として
 安東将軍・都督楊州諸軍事として統治に当たっていた
 琅邪王
 司馬睿(元帝)は、
 愍帝が降伏すると
 317年3月
 晋王を称して
 建武改元
 318年3月
 即位して
 建康に都して
 東晋を建国・・・
ーーーーー
  ↓↑
 「建康=建業」を首都とした王朝
  呉においては建業(ケンギョウ)という名であった
  東晋元帝
  西晋の愍帝(司馬鄴)の諱に触れるので、
  建康という名に変えた
  都を建康(建業)においた
  6つの王朝=六朝文化
  呉 (222年〜280年)
  東晋(317年〜420年)
  宋 (420年〜479年)
  斉 (479年〜502年)
  梁 (502年〜557年)
  陳 (558年〜589年)
  ↓↑
 「犍度
  (khandhaka・カンダカ)」=上座部仏教
              「パーリ仏典・パーリ律」
               において、
               出家 修行者(比丘・比丘尼)」
               が属する僧伽(僧団)内の
               作法・規則、
               その由来を説いた領域
  ↓↑
 「犍(ケン・コン・bullock・fabulous monster)
  異体字は「㓺・㸫・㹇」・・・去勢された家畜、人的宮刑
 「公牛=特に指す骟去睾丸的公牛」
 「地名=中国の四川省
 「如四川、犍為縣、北的、犍為山,一名大鹿山
  如四川省的、犍為縣」
 「犍為縣、嘉(喜)州
      益州
  ↓↑
 「犍牛」=閹割牲畜・明の張自烈の正字
    「犍,以刀去勢也」齊氏の要術.卷六
     養豬=「其子、三日便掐尾
            六十日後犍」
        「被閹割的公牛」
     宋.
     陸游.稻飯詩=「買得烏犍遇歲穰,
             此身永免屬官倉」
  ↓↑
 「犍稚」=梵語ghaṇṭāの音写・鐸・鈴・鐘など
      仏教寺院で、時刻を知らせ、
      また
      集会の合図として打ち鳴らす器具
  ↓↑
 目連(音写=目犍連、目健(腱)連
 菜茯根、采叔氏
 釈迦の内弟子の 一人
 弟子中で神通第一
 略して「目連」
 「佛陀十大弟子」=神通第一
         目犍連
         摩訶「目-犍」連尊
         上宣下化老和尚
         姓氏は蘿菔
         字は「拘律陀」
         「拘律陀是樹」名
         「目犍連
         字は「拘律陀」
         佛教裏、是「神通第一・神通最大」
         他 曾經是一位
         打魚維生的漁夫
         一天看到一位修行者
         捕魚為業的漁夫
         常在海邊、捕捉、魚蝦、出賣
         目犍連尊者在佛陀的弟子中
         舍利弗號為智慧第一
         目犍連則為神通第一
         其實凡是 佛陀弟子
         他只要修證到阿羅漢果的話
         他都成就了神通
         只不過在個人一生的行誼 事蹟當中
         有他獨到的特色
         目犍連就是以「神通聞」名的
  ↓↑
 「晋=晉」は」
 「宋」により滅亡させられた・・・
ーーーーー
  ↓↑
 で、「壹(臺)」=「イオ・イヨ・イヲ」に「與・与」である・・・ナニをって?・・・塵(ちり)が及ぶ、埃及(エジプト)を、でアル・・・そして、位地と位置は「輿(みこし=神輿」で、「チリ=地理」である・・・じゃぁ、「硫黄(S・sulfur・ sulphur)=燃える石」はどうか?・・・「マッチ(match)スル」かな・・・match with(添う・釣合う・連れ添う)・・・
 「宇宙望遠鏡での木星の衛星「イオ」のスペクトル観測では S2, S3, S4 の存在が観測」、当然だョな、火山噴火が探査機で観測されているんだから・・・「金、白金以外の多くの金属と反応して硫化物を形成」・・・小さい頃、ズリ(捨石・ぼた)山で黄鉄鉱石を発見し、キンと思って大喜びしたが・・・硫酸は危険である・・・「辰砂=硫化水銀=賢者の石?赤色硫化水銀、丹砂、朱砂」・・・丹前、丹後の國である・・・

  ↓↑
 イーオー(Ἰώ・Īō)=イオ
 牝牛
 アイスキュロス
 オウィディウス
 ヒュギーヌス
 年代記作者の
 カストール
 らは
 河の神
 イーナコスの娘
 ヘーシオドス
 アクーシラーオス
 は
 ペイレーンの娘
 アポロドーロス
 は
 イーアソスの娘・・・
  ↓↑
 イーナコスは
 アルゴス地方(アルゴリス)を流れる河
 アルゴス
 ゼウスの妃
 ヘーラー信仰の中心地
 イーオー
 は
 アルゴス
 で
 ヘーラーに仕える巫女
  ↓↑
 ジョヴァンニ・アンブロージョ・フィジー
 イオの牝牛とゼウス、そしてヘラー、キューピットのヘルメス
 の画(1599年)は
 パヴィア、マラスピーナ絵画館
 ・・・1599年は「1600年(関ヶ原)」の一年前・・・「1600年」には「三浦按針=ウイリアム・アダムス」が「豊後大分」に漂着・・・家康に謁見し、顧問となった・・・
  ↓↑
 イーオーはナイル川の河辺でゼウスとの子、エパポスを生んだ。
 ヘーラーがクーレースたちに命じて
 エパポスを隠したため、
 ゼウスはクーレースたちを殺し、
 イーオーは息子を捜しに出かけて、
 シリアの
 ビュブロス王の下で養育されていた
 エパポスと巡り会った。
 エジプトに戻った
 イーオーは、この地の王
 テーレゴノスと結婚した。
  ↓↑
 イーオーはこの地に
 デーメーテールの像を建て、
 エジプト人
 デーメーテール
 と
 イーオー
 を
 イーシスと呼んだ。
 エパポスは長じて
 エジプト王となり、ナイル川の娘
 メムピスと結婚し、
 妃の名に基づく
 メムピス市を創建した。
 二人の娘
 リビュエー
 と
 ポセイドーンとの間に
 アゲーノール
 と
 ベーロス
 の双子が生まれた。
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 木星(Jupiter・ジュピター)は
 ローマ神話の天空神で、 ギリシャ神話のゼウス
  ↓↑
 イオはヘラの巫女であった
 ゼウスが
 雲に化けて
 イオを犯した
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 絵画は(1531年頃)・・・干支は「辛卯」年
             日本年号は享禄四年
             7月17日(享禄四年六月四日)
            「大物崩れ」=管領細川高国
             摂津国大物において大敗
             逃亡、後に捕縛され自害
             中国は明国、嘉靖十年
 コレッジョによる
 イーオーとゼウス
 ウィーン美術史美術館
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 妻のヘラに見つかりそうになり、
 イオを牝牛に変え、浮気を云い逃れたが
 ヘラは信用せず、
 牝牛をもらい受け、
 全身に目があるアルゴスに見張りをさせた。
 アルゴスは牝牛を森の中のオリーブにつないだ。
 ゼウスは
 ヘルメスに牝牛を盗み出すよう命令
 アルゴスは百目で寝むらない怪物
 ヘルメスは
 芦(葦・蘆)笛を吹いてアルゴス眠らせ、
 石で撲殺、あるいは剣で刺殺し
 イオを逃がした
 ヘラはアルゴスの死を悼んで、
 その目を
 クジャク(孔雀)の・・・孔雀明王(経)
  ↓↑         毒蛇を食う
             孔雀神格化した明王
             祈れば一切の害毒を除く
             金色の孔雀に乗る
             四臂(シヒ)菩薩で
             手にクジャクの羽
             蓮の 花・具縁果・吉祥果を持つ
             密教の法は孔雀明王を本尊
  ↓↑        「役小角が呪に用いた」・・・
  ↓↑         日下の楯津=孔舎衛(衛)の楯津
  ↓↑         神武天皇の上陸敗退地
 羽に
 「普見者(パノプテース)」
      あまねく見る者(the All-seeing)とし
 付けた
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 ヘラは逃げた牝牛にアブ(虻)・・・あぶ=阿部・阿武・煬
 を送り
 アブに苦しめられた牝牛は逃げ惑い
 イオニア海ボスポラス海峡
 エジプトへと逃げ、そこで
 ヘルメスに人間の姿に戻され
 エバポスというゼウスの子供を産んだ。
 ヘラは部下にをツ使い エバポスを誘拐し隠したが、
 ゼウスはヘラの手下を殺し、
 イオは
 ビュブロス王に育てられている息子を見つけ
 王の王妃になった
 エバポスもエジプト王になった
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 絵は雲に化けた
 ゼウスに
 抱かれるイオで
 コレッジョの作品ではなく、ボクのコラージュ・・・
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 イオは川の神イナコスの娘のニンフ(妖精)
 美貌
 ゼウスはイオが川から上がってくるのを見、黒雲に化け彼女と関係した・・・
 正妻のヘラは、
 地上を見下ろし、彼女はゼウスの浮気に気付き
 白鳥に馬車を引かせ、その場てに駆けつけたが
 ゼウスは、イオを牝牛に変えられ
 ヘラの追及を逃れ、ヘラに牝牛を与えた
 ヘラはアルゴスに牝牛を預け見張り番とした
 牝牛が
 木に紐で繋がれている所へ
 父親の
 イナコスがやってきたが
 牝牛になった娘とは気づかない
 イオは牛になった前足で
 地面に自分の名前をイオと書いたので
 イナコスは牝牛が娘であることを知った
 だが、
 アルゴスが来て、イナコスは追い払われてしまった
 ゼウスはヘルメスに
 イオを自由することを命じ
 ヘルメスは羊飼いに姿を変え
 ヘルメスは葦の茎の笛
 シュリンクス吹きながら、
 アルゴスに近づき
 石に腰をかけて、眠りの曲を吹き
 百眼のアルゴスを眠らせ
 ヘルメスは剣でアルゴスの首を切り落した
 そのアルゴスの首と100の眼はヘラが拾って、
 孔雀に与えた・・・
 孔雀の羽には眼のような模様がついていた・・・
 自由になったイオだが
 ヘラが虻を放ち、彼女を苦しめ
 虻に追われてながら各地を転々とし、
 海峡を越えてエジプトに辿り着き
 イオは元の姿に戻り
 父親の故郷に帰った・・・
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 ・・・「古事記日本書紀」の下敷きはワンサカ・・・?
 それにしても、「慧深」って、だれ?・・・