2294日目・・・「脳ミソ」の記憶量が貧困だし、範囲を広げる目新しいコトも無いから、書き込むコトは同じようなコトの再確認の事象ばかり。しかも、ホトンドが「他人の記録」したモノを添付して、その添付した文字に更に「?」のイチャモンをつける・・・「出典を明らかにしろッ」って云われてもネッ・・・ホトンドが、お目当ての「文字」を即、インターネットで検索すれば、発見出来る・・・出てきたモノは、「オリジナル」なものではない?・・・文字に関しては、特許権があろうハズがない、と思うが、漢字文字、平仮名、片仮名、アルファベ

 「秘書=組織、上司の記録の書類における仕事、職務、職業。 またそれを行う人・共通項は、重要書類を扱う仕事・その他にも上司の身の回りの世話、メールや電話の応対、来客の接遇、スケジュール管理、書類・原稿作成など、総務のすべてを請け負う専門職」・・・
 「秘書」の漢字からすれば「秘密」、「書類」を扱う職種、職人である・・・なんで、「秘密」が必要なんだか、「アベちゃん内閣」、「監房長官のカン」・・・モチつくりには特別な秘密があるらしい?・・・
ーーーーー
 「安倍川餅」・・・アベ姓の文字も色々あってねッ・・・
元々は「布施(ふせ)」だって?
 「和菓子・・・・・我餓死(河岸・賀詞)?
  の一種で
  静岡市の名物
  本来は
  つき(搗き)立ての餅に・・・搗=手+島・・・島大臣
  黄な粉を塗(まぶ)し、・・・薄緑色に視えるけれど
                塗し=まぶし=塗料は漆(七)
  その上から
  白砂糖をかけた物。
  現在では、
  黄な粉を塗(まぶ)したモノと
  濾(こし)餡を
  絡めたもの・・・・こし=超し・越し・濾し・漉し・濃し
              腰・枯死・古址・輿
              虎視の案・・・虎視眈々
              古史の行(アン)を絡めた?
  の二種類を
  一皿に盛った物が一般的」
 ・・・なるほど・・・意味深い・・・「コシアン」
 「柔らかい餅に黄粉をまぶし
  上から白砂糖を掛けた食べ物
  徳川家康
  慶長年間 (1596〜1615) に
  笹山金山・・・井川湖の北東側の
         笹山金山
         今川時代の
         享禄年間(1528〜31)頃
         この金山は
         今川氏親の時代に
         採金が高まった
         梅ヶ島金山は
         梅ヶ島村の
         日影沢金山
         関之沢金山
         入島村の
         湯ノ森金山
         などの総称
         井川村
         笹山金山を中心とする
         井川金山も含めて
         安倍金山・・・安倍の金(族)さん?
         と呼ばれる
  などの
  御用金山に出向き
  安倍川の
  滸(ほとり・畔・邊・阿)・・・水滸伝・阿=おもねる
  で休んだおり
  搗(つ)きたての餅を喰った」
 ・・・「ウィリアム・アダムス=三浦按針」も喰ったのカナ、アベカワもち・・・「ミ(味)ウラ(有等)アン(編)ジン(壬・尋・訊・盡・陣)」・・・以下は前回、貼り付けたモノだけれど・・・
 ↓↑
 徳川家康
 ウィリアム・アダムスを
 外交顧問とした理由
 自領の
 関東
 浦賀-湊(みなと・見名訳・港)に
 スペイン人鉱夫を招聘し
 スペイン領メキシコで行われている
 金銀製錬法
 アマルガム・・・水銀と他の金属との合金の総称
         ギリシャ語の「柔らかい塊り」
         古墳時代以来、
         奈良の大仏毘盧遮那仏
         Vairocana=ヴァイローチャナ
              =光明遍
         毘盧舎那仏=盧遮那仏
         にも使われた
金鍍金(メッキ)の方法
        「消鍍金(けしめっき)」法
         アマ(海人・海部・海女・天・雨・飴・甘)
          ル(留・瑠・婁・盧・流・弄)
         ガム(臥務・雅武・我務)→噛む・咬む
 (amalgam)法
 を導入するためで
 その交渉に
 アダムスをあたらせた・・・
 ↓↑
 金山奉行は
 大久保長安
 (江戸幕府勘定奉行、老中)
 天文十四年(1545年)
  〜
 慶長十八年四月二十五日(1613年6月13日)
 別名
 藤十郎、十兵衛
 天下の総代官(渾名)
 ↓↑
 大久保長安
 猿楽師・・・・・猿の楽しい師
 金春 (こんぱる) ・・・金貼→コンパク=魂魄
            金春=キンハル=今春・恨張
 七郎
 喜然
 の子
 猿楽師の
 大蔵太夫
 十郎
 信安
 の次男
 ↓↑
 武田信玄に家臣として
 認められ
 譜代家老
 土屋昌続の与力に任じられ・・・土屋は「新井白石」の主筋?
 姓を
 大蔵・・・三蔵=Tripiṭaka=トリピタカ・仏典の総称
         三蔵(経律論)
         律蔵・経蔵・論蔵
         衆経、三蔵を
         北魏で「一切経」と呼び、
         南朝の梁で「大蔵経」と呼んだ・・・
         隋、唐初に及んで両者の名称が確立し
         写経の書式も
         一行十七字前後と定着
         大中小の蔵
 から
 土屋
 に改めた
 ↓↑
 甲斐(かい)の・・・甲斐=かい=蝦夷・蟹・魁・掛意・解
                 歌意・回・会・改・繪
 武田家家臣団の一
 武田勝頼から疎まれ
 天正三年五月二十一日(1575年6月29日)
 長篠の戦い
 では生き残り
 天正十年(1582年)
 織田信長徳川家康連合軍の
 甲州征伐
 天目山の戦い(1582年3月11日)で
 武田氏は滅亡するが
 大久保長安
 既に(?)
 徳川家康に仕官して・・・
 大久保-忠隣の与力となり、
 名も
 大久保と変えた
 天正十年六月二日(1582年6月21日)
 本能寺の変
 信長が死去し
 甲斐が家康の領地となり
 大久保長安
 旧武田領の復興整備をした
 ↓↑
 大久保長安事件(おおくぼながやすじけん)
 慶長十八年四月二十五日(1613年6月13日)
 江戸幕府の粛清事件・・・
 武蔵国の治安維持と国境警備で
 八王子五百人同心の創設
 旧武田家臣団を中心とした
 八王子五百人同心が誕生
 慶長四年(1599年)
 八王子千人同心となった
 慶長五年九月十五日(1600年10月21日)
 関ヶ原の戦い
 長安は忠次と共に
 徳川秀忠率いる徳川軍の
 輜重役・・・輜重兵(シチョウヘイ)は兵站の後方支援兵
 戦後
 豊臣氏支配下にあった
 佐渡金山
 生野銀山
 などが全て徳川氏の直轄領になり
 長安
 同年九月
 大和代官
 十月
 石見銀山検分役
 十一月
 佐渡金山接収役
 慶長六年(1601年)春
 甲斐奉行
 八月
 石見奉行
 九月
 美濃代官
 全て兼任
 慶長八年二月十二日(1603年3月24日)
 家康が将軍に任命
 長安も特別に
 従五位下
 石見守・・・石(岩・磐・いわ)を見守(みまも)る
             違和・・・磐余=神武天皇
 に叙任
 家康の六男
 松平忠輝(幼名は辰千代)
 の附家老に任じられた
 七月
 佐渡奉行
 十二月
 所務奉行(勘定奉行
 同時に
 年寄(老中)
 慶長十一年(1606年)二月
 伊豆奉行
 長安は家康から
 全国の金銀山の統轄
 関東における交通網の整備
 一里塚の建設などの一切を任されていた
 里程標、
 一里=三十六町
 一町=六十間
 一間=六尺
 という間尺を整えた
 7人の息子を
 石川康長、
 池田輝政の娘と結婚させ
 忠輝
 と
 伊達政宗
 の長女
 五郎八(いろは)姫・・・切支丹
 の結婚交渉を取り持ち
 松平忠輝・・・家康没後の元和二年(1616年)七月六日
 ↓↑     兄の秀忠は忠輝に改易を命じた
        天和三年(1683年)七月三日
        幽閉先の諏訪高島城(南の丸)にて死去
 ↓↑     92歳
 の岳父となった
 政宗とも親密な関係を築いた
 長安の所領は
 八王子8,000石(実際は9万石)
 家康直轄領の150万石の実質的な支配
 慶長十七年(1612年)七月二十七日
 中風にかかり
 家康から
 鳥犀円(ウサイエン
     牛黄、高麗人参、当帰、川芎
     その他、
     8種の生薬に蜂蜜を加えた漢方保健剤)
 を与えられた
   ↓↑
   佐賀藩・・・・「佐賀-美邇-迦美而」である・・・
   佐賀の乱である・・・相模に掛視し・・・
  (サガのラン)
   1874年(明治七年)二月
   江藤新平(幼名は恒太郎・又蔵)
   ↓↑ 「人智は空腹よりいずる」が口癖
      「戊辰戦争東征大総督府軍監
       西郷隆盛勝海舟の会談で
       江戸開城が決定するや
       江藤は城内の
       スベテの
       文書類を接収」
       フランスの国法を讃え
      「仏国雖蹲其法美 仏国蹲ると雖も其の法は美」
   ↓↑ 「哲人不惑敗成痕 哲人は敗成の痕に惑わず」
   島義勇
   等の反政府闘争
   江藤新平がスベテの文書類を接収したはなにか?・・・
ーー↓↑ーー ↓↑ーー  
   「佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音)古事記
   「佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之(古事記)」
ーー↓↑ーー ↓↑ーー
   の
   烏犀圓=中国、宋代の薬方書
    「恵民和剤局方」に記載
     不老長寿、若返りの妙薬
     処方は
     佐賀藩において代々、
     藩の施薬局にて秘薬として調製
     寛政八年(1796年)
     八代藩主
     鍋島治茂公から
     薬種商の野中家へ下賜された伝統薬
     天明四年
     大飢饉
     佐賀藩
     鍋島治茂は
     5人の他藩者に薬を作らせたが
     その中の一人が隠密と疑われ
     他国者の製薬、売薬を禁じた
     佐賀藩
     上村春庵、久保三圭、西岡俊益
     等の願いにより、
     藩主は藩民のため
     寛政八年(1796)
     一手製造、販売の特権を
     佐賀市材木町の野中忠兵衛に与えた
  ↓↑
 大久保長安は   
 晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下
 慶長十八年(1613年)四月二十五日
 中風のために死去
 享年69・・・六拾九・陸足玖
  ↓↑
 長安の死後
 生前に長安が金山の統轄権を
 隠れ蓑に不正蓄財をしていたという理由で、
 長安の7人の男児は全員処刑
 縁戚関係にあった諸大名も
 連座処分で改易などの憂き目にあった
 (大久保長安事件)
  ↓↑
 長安は、
 家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、
 政宗の幕府転覆計画に賛同していた・・・?
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 ・・・安倍川餅・・・モチに又もや、もどる・・・
  ↓↑
 「焼いた餅を湯に浸して柔らかくし、
  砂糖入りの
  きな粉をマブしたもの
  安倍川餅
  静岡市西部にある安倍川の茶屋の名物
  ツキたての餅を小さく千切(ちぎ)って、
  黄粉(きなこ)で包んだもの」
 「あべかわ(安倍川)
  静岡市を南流する川
  山梨県との境にある
  安倍峠に源を発し、
  駿河湾に注ぐ
  長さ51キロ」
 「安倍川餅
  焼いた餅を湯に浸し、
  砂糖
  をまぜた・・・佐藤を混ぜた一族?・・・岸・阿倍
         岸は満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)
         元、金、清、満州一族
         愛新覚羅-氏
        (アイシンギョロ・あいしんかくら)
         満洲中国東北部
         建州の女真(女直・満洲)族
      ・・・記録原文はフザケて掛けているのかも・・・
  黄粉(きなこ)を
  マブしたもの」
 「静岡市の名物
  柔らかい餅に黄粉をまぶし
  上から白砂糖を掛けた食べ物
  徳川家康
  慶長年間 (1596〜1615) に
  笹山金山などの
  御用金山に出向き
  安倍川のほとりで休んだおり
  ツキたての餅に
  豆粉(まめこ・トウフン)を・・・Pules 、bean flour
                  豆→壹=士冖豆
                  粉=米+分
  マブしたものを出された
  この豆粉を
  金山からとれる・・・・・・・・・遠山金さん?
  金の粉にひっかけて
  金な粉
  と称したのを大いに気に入り
  家康が
  安倍川餅
  と命名した
  以来
  安倍川のほとりの
  弥勒(ミロク)には・・・・・ミロク→味賂句
  安倍川餅
  店が並ぶようになった」・・・・店=广+占(ト口)
 ・・・ナルホド、「金な粉=金粉」・・・デアルかな・・・
 「静岡市
  西部
  安倍川
  河畔の茶店の名物として知られた餅
  つきたての餅をちぎって
  砂糖入りの
  黄粉を塗(まぶ)したもので
  慶安年間(1648‐52)にはじまる・・・
  東海道
  度々(たびたび)
  往来したことのある
  八代将軍
  徳川吉宗
  はよく知っており
  当時の
  御賄頭
 (おまかないがしら)
  の
  古郡孫太夫・・・・・古い郡の孫の太夫・・・
  が駿河から
  もち米を取りよせて調進したところ
  大いに嘉賞されたと
  江戸南町奉行でもあった
  根岸鎮衛(やすもり・1737〜1815)
  はその
  著《耳囊(みみぶくろ)》に書いている」
 ・・・なるほど・・・「根岸鎮衛」の「耳囊」・・・
 「静岡市の名物、
  きな粉餅
  静岡市
  葵(あおい)区
  弥勒(みろく)
  の旧東海道(県道208号)が
  安倍川にさしかかる所に
  数軒の餅屋がある
  なかでも
  石部屋(せきべや)・・・・・石の部の屋・・・
  は
  慶長年間(1596〜1615)の創業で、
  15代の暖簾(のれん)を誇る
  安倍川餅の由来は、
  東海道往還の旅人が、
  安倍川の渡しで、
  川越
  人足
  を待つ間に、
  茶店で一服の際に供されたのに始まる
  焼き餅を湯にくぐらせたうえ
  黒蜜(くろみつ)に浸し、
  きな粉をまぶして食べさせたのが評判をとり、
  全国に伝えられた。
  作り方が簡単なので
  一般家庭に普及し、
  いつしか、きな粉餅そのものを
  アベカワ
  と称するようになった。
  十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の
  『東海道中膝栗毛(ひざくりげ・1809)』にも、
  (ほなく
   弥勒といへるにいたる。
   ここは名におふ
   安倍川餅の名物にて、
   西側の茶屋、
   いづれ
   きれいに
   はなやかなり)
  と繁盛ぶりが描写されているが、
  現在の安倍川餅は、
  餡(あん)餅や、
  静岡名産の
  山葵(わさび)を・・・山(やま・サン)
             葵(あおい・ギ・キ)
  キカせた・・・・・・・キカ
  醤油(しょうゆ)と
  大根おろし
  からみ餅も好評である」
ーー↓↑ーー
 ・・・以上はスベテは「コトバンク」や、「ウイッキペデア」、他人の「ブログ記事」からの抜粋添付・・・「アベカワ」をコンピュータで検索すれば、即、「原文」を眼にするであろうから・・・アシカラズ・・・
 ・・・「・・・」内の「?」、イチャモン文だけはボクがカキコンダもの・・・猿-楽-師って?・・・教言、狂言?・・・今言・・・
 キンギンドウ・・・金ゲン・銀ゲン・銅ゴン・・・