1390日目・・・蜂の武蔵・・・「ハチのムサシは死んだのさ」・・・二人の「内田良平」+「アルファ」・・・

 ・・・ほとんどが悪役を演じた俳優、「内田良平」の写真は「蜂子王子」の肖像画に似ている・・・裏でも表でも政治を動かした大物の「内田良平」の誕生は「江藤新平」の処刑の年だった・・・江藤新平天保五年二月九日(1834年3月18日)〜明治七年(1874年)四月十三日・佐賀藩士)、幼名は「恒太郎・又蔵」。諱は「胤雄・胤風」。号は「南白」。朝臣の名のりは「平胤雄(たいら の たねお)」・・・
ーー
 甲戌年
 明治七年(1874年)二月十一日
  〜
 昭和十二年(1937年)七月二十六日)

 甲子年
 大正十三年(1924年二月五日)
  〜
 昭和五十九年(1984年六月十五日)
ーーーーー
 読売新聞から抜粋添付
 ↓
 出羽三山神社山形県鶴岡市羽黒町手向)の境内にある蜂子神社に安置され、出羽三山の開祖とされる蜂子皇子(はちこのおうじ)の御尊像が4月29日から5か月間、明治以降では初めて一般公開される。
 同神社には東日本大震災の被災地の信者も多く、神社関係者は「御尊像が東北、日本を照らす光となれば」と話している。
 蜂子皇子は聖徳太子のいとことされ、都での権力闘争から逃れるために出羽国(山形、秋田県)を訪れ、593年に出羽三山を開山した。農耕を教えたり産業を興したりしたとされ、民衆の苦悩を取り除くことから「能除太子」と呼ばれ、現在も同神社に墓が残され慕われ続けている。
ー↓ーーー以下はボクの書き込み・・・
  能除太子=蜂子皇子
  ↓
 「能=ム+肉+ヒ+ヒ」は
 昨日「またぎ(又鬼・叉鬼)」で説明したが「熊+鹿=しし(宍=猪、鹿肉)」に似た動物で、「能」は、非常に賢い動物で、「能」の文字には「賢い」の意を生じた。能力、技能、学芸、能芸(猿楽)、技芸、農芸、武芸などの「能」である・・・「説文解字」の説明では「能は 熊に屬す。足は鹿に似る。从の肉㠯聲。能は堅中の獸、故に賢能と稱す。而彊壯、稱能傑也。凡そ能は之、皆、从の能に屬)」・・・「またぎ(又鬼・叉鬼)」は当て字の漢字が数個あるらしいが、「ニホン語」の「音」である「マタ」は、「分かれる・分岐する」で
 「また=又・叉・亦・俣・股・復」の「鬼=おに・わに・あに=阿仁・王仁」だろう・・・
 「又(ユウ・ユ・また)」は「指を出している右手の形」であろうが、「また」は「手」そのものではなく、「指のマタの形=Y」である。「Y(ア・ふたまた・あげまき)」である。「枝・先が分かれた棒状のモノの形=Y」である。当然「Y=V+|」は「人」の臀部から分かれた「脚(足・肢)」の「また」の逆の形である。そして「武器」である「Y」は二股(二又・二俣)である。意味は「分かれたモノの形」である。「三叉」は「銛=(Ψ・ψ)・彐・E・∈・ヨ・∋」の形、「猫又」とは「四足・肆肢」であろう。「根子の又」とは「木の根っ子の分かれた形」である・・・そして「足」は「たら・たり・たる・たれ・たろ」で「十」で「姫=足跡」で「充足」の「王・太郎」となった・・・
 「熊」=「能+灬」で、「灬(カ)」=「烈火」である。「黛・墨・黒」は烈火に焼かれた結果だろう・・・木炭、石炭の「炭=山+灰」、石炭のコールタール(coal tar)は黒。芳香族化合物の臭気を持ち、「ナフタレン・ベンゼン・フェノール・ペンゾ・ピレン ・フェナントレン」を含有。発癌性物質・・・小さいころ、友達と道路工事のドラム缶にひっついているのを剥がしてガム代わりに齧った・・・
 ・・・「灬」は「灬」は動物の「馬」などの「四肢」も表意しているが、「鳥」や「魚」、それに「為・爲」の「灬」は「四肢」ではなく、
 「肉(月)=宍」を
 直に焼く「火=炎」、
 あるいは
 鍋、釜の容器で
 煮る「火=炎」の意味
 である。
 「島」の漢字には異字の「嶋=山+鳥」があるが
 「鳥」の漢字は「灬(火)」が無い
 「尸+一+丂(コウ)」の部分が生きているトリで、
 「嶋」は山の噴火で屍になったトリだろう・・・
 「嶋」とは「火山島」・・・日本列島そのもの・・・
 「シマ大臣」とは「蘇我蝦夷」だった・・・
 そして
 「北斗七星=大熊座」の星座の「星の光」で
 「貪狼(タンロウ)星の光」である。
 「貪狼星」は星座名の「天枢」の、「大熊座のα星」
 「北斗七星の柄杓」の先端部の星で
 「北極星ポラリス)」を指している星
 「α星(ドゥーベ)」と「β(メラク)」を
 直線に結んで、その「5倍半」の位置に
 「北極星ポラリス)」がある
ーー
 北斗七星の七星
 大熊座の
 「δ星(3等星)」以外は全て2等星
 α星=ドゥーベ=貪狼星
 β星=メラク→近接の「M97」=「梟星雲」
 γ星=フェクダ
 δ星=メグレズ
 ε星=アリオト
 ζ星=ミザール(A星・B星)→近接の「アルコル」
    「ミザール(A星・B星)+アルコル」は
    各々が二重に視えて
    「6連星」のように視える
    本来、「6連星」は
    昴(すばる)の異称で
    肉眼では6個〜36個の星が見えるらしい・・・
    ・・・近眼、老眼では無理である
    日本での別名は
    「六連星(むつらぼし)」・「羽子板星」     
 η星=ベネトナシュ
ーー
 小北斗七星の七星
 小熊座の
 「α星=ポラリス」は「北極星
 「α星、β星」は2等星
 α星=ポラリス三重連星)
 β星=コカブ
    紀元前1500年〜紀元前300年頃まで
    天の北極に位置し、当時の北極星
 γ星=フェルカド(3等星)
 「β星・γ星」は
 「矢来(やらい・楯がわりの柵)星」とも呼ばれた
 北斗七星を矢に見立て、その「矢」から
 「北極星」を守っている
 東京新宿の「矢来町」は南東の「皇居」を守っている?
 江戸時代に若狭国福井県小浜藩下屋敷が一帯にあり、屋敷の周囲に「竹矢来」をめぐらせていたところから
 「矢来屋敷」が町名の由来となった・・・
 若狭小浜藩
 酒井−讃岐守−忠勝が、
 寛永五年(1628年)
 三代将軍
 徳川家光から
 牛込に下屋敷を貰い、
 周囲の土手を竹矢来で囲んでいたため
 屋敷内には江戸詰の藩士も居住し、
 「解体新書」の
 「杉田玄白」が、この屋敷内で誕生
 牛込?
 室町期に牛込氏が居城
 牛込氏の先祖は
 大胡氏で、牛込の地に移り住み地名を姓とした
 「江戸名所図会 巻之四・ (天保七年)」 によれば、
 神楽坂の右側に高田穴八幡の旅所
 神奈川県北部である
 武蔵国
 豊島郡牛込村が起源
 牛込氏
 赤城山麓・上野国群馬県
 勢多郡
 大胡(おおご)の領主
 大胡氏が祖?・・・胡人ならば中国北方の胡族
ーー↓
 藤原氏秀郷流足利氏の支族
 淵名兼行の
 孫の
 淵名重俊が
 上野国赤城山南面の勢多郡大胡に城を築き、
 大胡氏を称した・・・?
 戦国時代、重俊から
 十代の子孫の
 大胡重行の子
 大胡勝行が
 小田原北条氏三代の
 氏康に招かれ、江戸牛込に移り住み、牛込氏と称す
 大胡勝重は
 北条氏政・氏直の二代に仕え
 天正十八年(1590)
 秀吉の小田原征伐によって、北条氏が滅亡
 天正十九年
 徳川氏の旗本となり
 朝鮮の役で
 家康に従って
 肥前名護屋に出張
 慶長五年(1600)
 関ヶ原の合戦に従軍
 元和三年(1617)死没
ー↓
 牛込俊重は、
 秀忠に仕えて、大坂の陣に出陣
 後、
 秀忠の三男の
 甲府藩主
 徳川忠長
 (従二位大納言・幼名は国千代、国松)
  兄は竹千代=徳川家光
 駿河大納言に
 付属され、
 書院番頭となる
 寛永十年十二月六日
 (西暦1634年1月5日)、
 徳川忠長(自刃・切腹・二十八歳)の
 改易後、
 牛込俊重は
 岸和田城主の
 松平周防守に預けられた
 寛永十三年
 徳川秀忠に再び仕えて、
 子孫は
 旗本・牛込氏として続く
ーー↓↑
 徳川忠長のエピソードの?
 元和四年(1618年)十月九日
 国千代(徳川忠長)は、自らが撃ち取った
 「鴨」で作られた汁物を父・秀忠の膳に供したが
 その鴨は兄の竹千代が住んでいる
 西の丸の堀にて撃ち取ったものである事を知られ
 国千代の身で
 兄である
 竹千代の住んでいる
 西の丸に鉄砲を撃ち込む事は、
 天道に背き、父・家康への配慮も無い、
 将軍となる竹千代への反逆に等しい、と、
 秀忠の激怒を買った・・・?
ーー↓↑
 牛込氏
 天文年間(1532〜55)
 太田道灌江戸城)→上杉→北条→徳川
 上杉氏が北条に追われ越後に逃れると、
 大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった
 天文二十四年(1555)
 大胡重行の子の
 大胡勝行は、
 姓を牛込と改めた
 地名語源は、牛を囲い込めておく牧場から
 牛飼・・・彦星・牽牛で、アルタイル(鷲座)だが・・・
 わし座=琴座のべガ、白鳥座のデネブとともに、
     天の川の流れをはさんで
     夏の大三角
     大きな直角形を描くのが
     一等星の
     アルタイル(飛ぶ鷲)
     七夕伝説の彦星
     ウシ=牛・丑・ぬし=主→北北東・鬼門
        牛込は
        「酒井−讃岐守−忠勝」が
        将軍
        「徳川家光(主)を込める」・・・?
        江戸城の北西に牛込
        江戸の北西は長野信州
        江戸の東北は茨城常陸水戸
ーー
 「熊マツリ」はアイヌ
 「イヨ(オ)マンテ」である。
 「イ(i)=それを」
  +
 「オマン(oman)=行く」
  +
 「テ(te)=何々させる(使役動詞の語尾)」
 という意味らしい・・・
ーー↓以下はウイッキペデアを参照参考にしたモノ・・・
 「イオマンテ」は「カムイ=動(植)物=魚鳥獣」の実体に宿る「神=魂=命」を「天」にカエス儀式であり、地域によって
 ヒグマ(羆)
 シマフクロウ(しま梟・ミネルバ
 シャチ(鯱)
 などを対象とする「イオマンテ」もあるらしい・・・
 飼育したヒグマを対象とする儀式は
 「イオマンテ
 狩猟によって捕殺した野生のヒグマを対象とする儀式は
 「カムイ・ホプニレ」
  と呼んで区別しているらしい・・・
 「ホプニレ」=「ホ(尻)」・・・宍=肉
         +
        「プニ(持ち上げる)」
         +
        「レ(する・させる・使役動詞の語尾」
 であるらしく、狩猟で殺した直後の「獣のカムイ=魂 (ラマト) 」は「両耳の間に留まっている」らしく、「カムイ・ホプニレ」の儀式では祭壇を設えて
 ヒグマの頭部を祀り、
 酒、穀物など
 「イナウ」を捧げて神々の世界にかえすコトらしい・・・
 穴で冬眠しているヒグマを狩る猟で小(子)熊がいた場合、母熊は殺して「カムイ・ホプニレ」を行う)、小(子)熊は人間の子供と同じように家の中で育て、赤ん坊と同様に母乳をやる・・・成長し大きくなってくると丸太で組んだ檻に移し、一、二年後に、「丸太の間で首を挟んで屠殺し、その肉を人々にふるまう・・・
 「トビニタイ文化」?・・・熊マツリの痕跡・・・13世紀初頭に消滅したらしい・・・
 1960年
 東京大学の調査隊が
 羅臼町
 飛仁帯(とびにたい)で発見した出土物が名称の由来
 熊マツリの文献上の記述は
 「津軽一統志」における
 「シャクシャインの戦い」
 1669年6月21日
 (寛文九年六月四日)
 シブチャリ(北海道日高振興局新ひだか町の静内地区)の
 首長シャクシャイン
 松前藩に対して蜂起
 「寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)」
 日本の元号で「寛文」年間に発生した
ーー
 太平洋沿岸に居住する
 アイヌ族集団
 メナシクルと
 シブチャリからシラオイ(胆振総合振興局白老町)の
 アイヌ族集団
 シュムクルは、
 シブチャリ地方の漁猟権で争い
 1648年の戦を発端に続いた
 15世紀頃ころ地域が文化的・政治的に統合され、
 17世紀には和人から
 惣大将と呼ばれる河川を中心とした
 地域を政治的に統合する
 有力首長
 メナシクル部族の
 シャクシャイン(副首長)
 イシカリ部族の
 ハウカセ
 ヨイチ部族の
 八郎右衛門
 シリフカ部族の
 カンニシコル
 などが存在した
 メナシクル部族の首長
 カモクタインや
 シュムクル部族の首長
 ハエ(日高国沙流郡日高町門別地区)の
 オニビシ

 「シャクシャイン」は
 カモクタインが1653年に
 シュムクル部族によって殺害され首長となった
 1655年
 松前藩は仲裁に入り
 両集団は一旦講和
 シュムクル部族は
 松前藩に接近
 1665年頃から対立が再燃
 1668年5月31日
 (寛文九年四月二十一日)
 メナシクル族によって
 オニビシが殺害

 シャクシャイン(メナシクル族)に
 オニビシ(シュムクル部族)を殺された
 ハエのアイヌ
 松前藩庁に武器の提供を希望したが拒否され
 サル(日高振興局沙流郡)の首長
 ウタフが帰路に疱瘡で死亡
 このウタフの死亡を、
 アイヌ人は
 「松前藩による毒殺」と流布・・・?
 シャクシャイン蝦夷地各地のアイヌ
 松前藩への蜂起を呼びかけ、アイヌがそれに呼応
 徳川政権から
 松前氏にアイヌ交易の独占権が与えられ、
 津軽や南部などの
 東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなった
 対アイヌ交易を独占した松前藩
 和人側に有利な交易レートを一方的に設定
 アイヌ側は和人製品を得るために
 多くの干鮭、熊皮、鷹羽などの確保が必要となった
 これが惣大将同士による
 天然資源の独占競争をもたらし、
 シャクシャイン
 オニビシの抗争の原因の一つともなった・・・
 不利なレートを嫌い、交易を拒否するアイヌに対し、
 和人が無理やり交易を強要する押買が横行
 アイヌの和人への不満が拡大
 地域集団同士の争いが
 アイヌ全体による対松前藩蜂起へと移行
 1669年6月21日(寛文九年六月四日)
 シャクシャインらの呼びかけにより
 イシカリ(石狩地方)を除く
 東は
 釧路のシラヌカ(白糠町)から
 西は
 天塩のマシケ(増毛町)周辺で
 鷹待や
 砂金掘り、
 交易商船を襲撃
 東蝦夷地では213人、
 西蝦夷地では143人の
 和人を殺害
 蜂起の報を受けた松前藩
 家老の
 蠣崎広林が部隊を率いて
 胆振
 クンヌイ(長万部国縫)に出陣
 幕府へ蜂起を急報し
 援軍や武器・兵糧の支援を求めた
 幕府は
 弘前・盛岡・久保田の三藩へ
 蝦夷地への出兵準備を命じ、
 松前藩
 松前矩広の伯父にあたる
 旗本の
 松前泰広を指揮官として派遣
 弘前藩兵700は
 杉山吉成を大将に松前城下で警備
 シャクシャイン軍は
 進軍し、
 七月末に
 クンヌイに到達し、
 松前軍と戦闘
 戦闘は八月上旬頃まで続いた
 内浦湾一帯のアイヌ族集団と分断され
 シャクシャイン軍は不利
 シャクシャインは後退し長期抗戦に備えた
 9月5日(八月十日)
 松前泰広が松前に到着
 9月16日(八月二十一日)
 クンヌイの部隊と合流
 28日(九月四日)
 松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍
 松前泰広は親松前的なアイヌの集落に対して、
 幕府権力を背景に恫喝して恭順させ
 アイヌ民族間の分断と
 シャクシャインの孤立化を進めた
 戦いの長期化による交易の途絶や
 幕府による改易を恐れた
 松前軍は
 シャクシャインに和睦を申し出
 シャクシャインは和睦に応じ
 11月16日(十月二十三日)
 ピポク(新冠郡新冠町)の
 松前藩陣営に出向き
 和睦の酒宴で謀殺
 アツマ(勇払郡厚真町)や
 サル(沙流郡)の首長も
 同様に謀殺、捕縛
 17日(二十四日)
 シャクシャインの本拠地
 シブチャリの
 チャシも陥落
 1670年
 松前軍は
 ヨイチ(余市郡余市町)に出陣
 アイヌ族から賠償品を取り、
 各地のアイヌ民族から
 賠償品の受け取りや
 松前藩への恭順の確認を行った
 戦後処理のための出兵は1672年まで続いた
 松前藩蝦夷地における対アイヌ交易の
 絶対的主導権を握る
 その後、中立の立場をとり蜂起に参加しなかった
 地域集団をも含めたアイヌ族に対し
 七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた
 (渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書)
 アイヌにとって不利になる一方だった
 米と鮭の交換レートを緩和し、
 融和策も行われた
 ・・・「能・熊」のハナシが、また、トンでしまった・・・
ーー
 ↓
 能が「熊」に似る動物なら、「能除」皇子は「能を除く」皇子である。そして「蜂子」皇子ならば、「蜂の蜜」を好物にする「熊」が問題である。「蜂子皇子」は「養蜂」か、野生の「蜂の巣」を守る「熊を除く太子」であろう・・・しかも出羽(山形)は染色の「紅花」の産地である。紅花は、アザミに似た菊科の花で、古名は末摘花(すえつみばな)、紅藍(べにあい)、久礼奈為(くれない・呉藍)で、七月の梅雨の時期から梅雨明けにかけて、真黄色の花を咲かせ、徐々に紅くなる。口紅(小町紅)、植物油で食用油(紅花油=サフラワー油)、ツボなどの部位に塗る「紅灸(べにきゅう)」という灸の一種であり、生薬でもある。飛鳥時代に渡来・・・兎に角、紅花は「蜂蜜の原料」である。その「蜂の巣」を狙うのが「熊=能」・・・その「熊・能」を「またぎ(又鬼・叉鬼)」は捕獲、駆逐する猟師なのである。
 紅花←蜂→蜂蜜→蜂の巣→女王蜂→蜂の子←熊・能←又鬼
 「蜂の子」は滋養強壮の蛋白質であり、「耳鳴を伴う難聴」を改善もするらしい・・・
ーー↓
 紅花
 平安時代
 「千葉県長南町」で盛んに栽培され、
 江戸時代中期以降は現在の
 「山形県最上地方」や・・・江戸時代?
 「埼玉県桶川市」、
 「上尾市周辺(桶川宿)で盛んに栽培された
 明治時代以降、
 中国産の紅花が盛んに輸入され
 化学的に合成可能な「アニリン染料」が普及し衰退した
ー↓ー読売新聞の続き
 同神社によると、御尊像は江戸時代初期まで羽黒山の国宝「五重塔」に置かれていたことが記録に残っており、1619年に羽黒山頂に建立されたお堂に移された。明治時代になると、神仏分離の影響で神社の文化財が破壊される危険があったため、秘像として隠されるようになったという。
 御尊像の公開には信者から「罰が当たるのでは」と心配する声も出たが、東日本の修験道の一大拠点として東北一円に信者も多いことから、今回限りということで理解を得た。同神社の吉住登志喜禰宜(ねぎ)は「多くの人が御尊像を拝観し、東北復興のための祈りを捧げてほしい」と思いを語った。
 一般公開は4月29日から9月30日まで。拝観には、お祓い料として500円が必要となるが、お守りなどの記念品が贈られる。
(2014年3月6日16時03分 読売新聞)
ーー↓ーー
 ブログ記事から抜粋
 作詞・内田良平
 ハチの
 ムサシは・・・・・・・・?
 死んだのさ
 畑の日だまり土の上
 遠い山奥 麦の穂が
 キラキラゆれてる午後でした
 ハチのムサシは向こう見ず
 真赤に燃えてるお日様に
 試合をいどんで負けたのさ
 焼かれて落ちて死んだのさ
 ハチのムサシは死んだのさ
 お日様仰いで死んだのさ
 高い青空麦畑
 いつもと変わらぬ午後でした

 ハチのムサシは
 死んだのさ
 夢を見ながら死んだのさ
 遠い昔の 恋の夢
 ひとりぼっちで死んだのさ
 ハチのムサシは向こう見ず
 お日様めがけて剣を抜き
 たたかいやぶれて 死んだのさ
 焼かれて落ちて死んだのさ
 ハチのムサシは死んだのさ
 たしかにムサシは死んだのさ
 やがて日は落ち 夕暮れに
 真赤な夕陽が燃えていた
ーー↓
 ・・・なぜ、
 「ムサシ」は「尻尾に剣針を持つハチ」でなければならないのか・・・「宮本武蔵」は「二刀流」の剣の名人・・・天正十二年(1584年)?〜正保二年五月十九日(1645年6月13日)、江戸時代初期の兵法家。二刀を用いる「二天一流兵法」の開祖。著書に「五輪書」、「独行道」・・・恋人は「おつう」・・・だった・・・播磨国で誕生した・・・地誌『東作誌』には美作国(岡山)宮本村・・・
ーー↓
 幼名は辨助(弁助・弁之助)
 別名は新免武蔵守藤原玄信
    新免玄信
    宮本二天
 戒名は二天道楽居士
 墓所武蔵塚熊本市・龍田・弓削)
 吉岡家との決闘もあるが
 「鎖鎌の名人」、
 「宍戸 梅軒(ししど ばいけん)は、
 宮本武蔵の伝記『二天記』に登場する
 伊賀国の鎖鎌の使い手「宍戸某」なる人物を元に、
 吉川英治が脚色・創作した登場人物であるらしい・・・
 「宍戸錠」ではなく、
 「宍戸梅軒」・・・「シシド・バイケン」である。
 宮本武蔵
 父は新免無二・・・足利義昭の時に「新免無二」を召して吉岡と兵術の試合をさせた。三度の約束で、吉岡が一度、新免が「二度勝利」した。それにより、新免無二
 「日下無双兵法術者」の号を賜った・・・
 慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家(肥後・熊本)に仕官していたことを証明する黒田家の文書あるらしい・・・武蔵は父と共に当時豊前を領していた「黒田如水(官兵衛)」に従い東軍として九州で戦った・・・
 そもそも、「新免(シンメン、しんめ)」とは貢租を許された「免田」の一種で、それが地名となった・・・
 地名
 滋賀県大津市−新免
 広島県神石郡神石高原町−新免
 大阪府豊中市−新免(本町)
 (旧・豊島郡−新免村)
 そして、「氏姓」になった・・・新免氏は赤松氏の一族、室町時代中期以後、美作国吉野郡に住し粟井城・小房城に拠って勢力を振るった一族・・・「免除・免許・任免・御免・後免」の「免(まぬがれる・ゆるす・メン)」は「うさぎ・ト=兎・兔」の漢字から「ゝ」を除いた(省いた)文字である。
 宇佐(大分・豊国=豊前、豊後)から「ゝ(てん・ぬし・ともしび・ポチ)」を取り去った・・・「和気清麻呂」である・・・?
 ・・・俳優の「内田良平」は二人の妻女の夫だったらしいが・・・大切なぶら下げモノも切られた?・・・とか・・・
ーー↓ーーー
 明治二十五年(1892年)十八歳
 頭山満玄洋社の三傑といわれた
 叔父(父・良五郎の実弟)の
 平岡浩太郎に従い上京、
 講道館に入門
 明治二十六年(1893年)
 東洋語学校に入学しロシア語を学び、
 明治三十年(1897年)
 シベリア横断旅行を試みる
 明治三十一年(1898年)
 宮崎滔天を通じて
 孫文と知り合い、親交
 明治三十三年(1900年)
 中国・広州に赴き、
 孫文李鴻章提携を斡旋
 革命義勇軍を組織して
 孫文の革命運動を援助
 明治三十四年(1901年)
 黒龍会結成
 明治三十六年(1903年)
 対露同志会を結成
 明治三十八年(1905年)
 宮崎・末永節らとともに
 孫文・黄興の提携による
 中国革命同盟会の成立に関係
 フィリピン独立運動指導者の
 エミリオ・アギナルド
 インド独立運動指導者の
 ラス・ビハリ・ボース
 活動支援
ー↓ー
 明治三十九年(1906年)
 韓国統監府嘱託
 朝鮮統監の
 伊藤博文随行渡韓
 明治四十年(1907年)
 「一進会」会長の
 李容九と
 日韓の合邦運動を盟約、顧問
 明治四十二年(1909年)十二月
 内田などが勧めて
 李容九に
 「一進会会長李容九および百万会員」の名で
 「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)」を
 韓国皇帝
 純宗、
 曾禰荒助
 韓国統監、首相
 李完用に提出させた
 内田と李容九の
 合邦論は、
 日本政府の日韓併合をカムフラージュするもの
 李容九は「売国奴」の汚名を着、
 日本側が裏切ったことで悲憤死
 内田は
 日韓併合後の
 政府の対韓政策には批判的で、
 後に
 「同光会」を結成し
 韓国内政の独立を主張・・・
ーー
 明治四十四年(1911年)
 中華民国成立後は満蒙独立を唱え、
 川島浪速らと
 華北地域での工作活動を政府に進言
 大正七年(1918年)
 シベリア出兵に賛成
 大正十年(1921年)
 ロシア飢饉には救済運動
 大正十一年(1922年)
 ワシントン会議
 海軍軍縮案反対
 大正十二年(1923年)
 アメリカ政府による
 「排日移民法」への反対
 大正十四年(1925年)
 加藤高明首相暗殺未遂事件で
 容疑者として投獄
 大本教が関係した
 紅卍学会日本総会の会長
ーー
 昭和六年(1931年)
 大日本生産党を結成
 総裁
 昭和七年(1932年)
 血盟団事件
 昭和八年(1933年)
 神兵隊事件などの黒幕と呼ばれ、
 「日満蒙連邦建設」
 「日支共存」
 「皇謨翼賛運動」
 などを構想
 昭和九年(1934年)
 大本教
 昭和神聖会副統監
 昭和十二年(1937年)
 七月
 二十六日死去
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 1924年(大正十三年)
 1月7日清浦奎吾内閣成立。
 1月20日中国国民党全国代表大会(第一次国共合作
 1月22日イギリスでマクドナルド内閣成立
    (労働党が組織した最初の内閣)
 1月25日第1回冬季オリンピック
    シャモニーオリンピック開幕
 1月26日皇太子裕仁親王昭和天皇)と
     良子女王(後の香淳皇后)成婚
     ペトログラードレニングラードに改称
 2月1日英国がソビエト政権を承認
 2月7日イタリアがソビエト政権を承認
 3月3日トルコでカリフ制が廃止
    谷崎潤一郎
    『痴人の愛』連載開始(大阪朝日新聞
 4月1日「假名文字協會」が「カナモジカイ」に改称
 4月4日ダグラス DWCが、
    編成部隊による初の航空機世界一周に出発
    175日をかけて、9月28日に達成
 4月5日イタリア総選挙で
    ファシスト党が勝利
 4月20日宮沢賢治
    『春と修羅』出版
 5月1日ウラジーミル・レーニン
    「新国家論」 邦訳
     ウラジオストクで発行
 5月4日パリオリンピック開幕
 5月10日第15回衆議院議員総選挙
 5月26日米国で排日条項を含む
     移民法が成立
     日本人の移民全面禁止
    (排日移民法
 6月7日清浦内閣総辞職
 6月11日加藤高明内閣成立
 6月25日第49特別議会召集
 17月1日日本でメートル法が採用
 7月31日阪神甲子園球場完成
 8月16日ドイツ賠償問題に関するドーズ案成立
 10月28日フランスがソビエト政権を承認
 10月30日第1回明治神宮競技大会
 10月31日西表島北北東海底火山が噴火
     その後大量の軽石が漂流し、
     日本各地の海岸に漂着
 11月3日奉直戦争
     奉天軍閥
     張作霖が直隸派を破る
 11月26日モンゴル人民共和国成立
 11月28日孫文
     神戸市で大アジア主義講演
     財団法人東洋文庫設立
     トーマス・マン魔の山
 12月1日大同洋紙店(国際紙パルプ商事)創立
 12月9日岩国のシロヘビが天然記念物に指定
 12月24日第50議会召集
 日付不詳
 ホー・チ・ミン
 ベトナム青年革命同志会を結成
ーー
 誕生
 1月1日石井輝男、映画監督(〜2005年)
 1月24日テリー・サバラス、俳優(〜1994年)
 2月5日内田良平、俳優(〜1984年)  
 2月17日岡本喜八、映画監督(〜2005年)
 3月2日岡田茂、東映会長(〜2011年)
 3月3日村山富市、第81代内閣総理大臣
 3月7日安部公房、小説家(〜1993年)
 3月25日京マチ子、女優
 4月3日マーロン・ブランド、俳優(〜2004年)
 4月3日ドリス・デイ、女優・歌手
 4月29日安倍晋太郎衆議院議員(〜1991年)
 8月25日増村保造、映画監督(〜1986年)
 9月9日永井陽之助政治学者(〜2008年)
 9月28日マルチェロ・マストロヤンニ、俳優(〜1996年)
 10月1日ジミー・カーター、第39代米大統領
 10月1日乙羽信子、女優(〜1994年)
 10月4日チャールトン・ヘストン、俳優(〜2008年)
 11月3日山崎豊子、小説家(〜2013年)
 11月14日力道山、プロレスラー・元力士(〜1963年)
 11月25日吉本隆明(〜2012年)
 12月6日鶴田浩二、俳優(〜1987年)
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 「はちこ皇子」、「八戸おうじ」、「葉知呼応事」・・・
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  蜂・鉢・八・葉知→葉山御用邸
  ↓        神奈川県
           三浦郡
           葉山町
           中世
           長柄に
           鎌倉党長江氏が本拠を置いた
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 蜂須賀小六
 蜂須賀正勝
 大永六年(1526年)
  〜
 1586年七月八日
 安土桃山時代の武将
 羽柴秀吉の家臣
 通称は小六・小六郎
    彦右衛門に改名
 官位は従四位下修理大夫
 尾張国海東郡蜂須賀郷(愛知県あま市蜂須賀)
 を根拠とした国人領主土豪
 蜂須賀正利の長男として蜂須賀城に生まれる
 父の死後、母の故郷である
 丹羽郡宮後村(愛知県江南市宮後町)に移住
 若年期には
 川並衆を率いて
 木曽川の水運業
 美濃国斎藤道三
 尾張国
 岩倉城主・織田信賢
 同国の
 犬山城主・織田信清に一時的に仕えた
 豊臣秀吉との出会
 浪人時代の秀吉と
 矢矧川の橋(矢作橋)で会った
 秀吉が織田氏に仕える以前に
 正勝に仕えた・・・
 織田信長
 側室
 生駒吉乃の実家である生駒氏とは縁戚関係
 永禄九年(1566年)
 墨俣城の築城
 川並衆の
 前野長康らと協力し
 秀吉がその守備頭となった際には与力
 斎藤氏方を調略する案内役として活動
 越前天筒山城金ヶ崎城攻め、近江横山城の攻略、
 長島一向一揆攻めで、秀吉に従軍
 天正元年(1573年)
 浅井氏の滅亡後に
 秀吉が
 近江長浜城主(小谷城主)となると、
 長浜領内に所領を与えられた
 天正5年(1577年)
 中国攻めに従軍
 天正七年(1579年)
 播磨三木城攻め(三木合戦)
 天正九年(1581年)の
 因幡鳥取城攻めに従軍
 播磨龍野五万三千石を与えられた
 天正十年(1582年)
 本能寺の変
 備中高松城攻略の最中で、
 黒田孝高と共に高松城開城に尽力
 天正十二年(1584年)
 徳川家康との
 小牧・長久手の戦いに従軍
 天正十三年(1585年)
 朝廷より従四位下の官位
 修理大夫に叙任
 同年の四国攻めでは
 阿波木津城を降し、
 四国取次として
 戦役前後の交渉や領土引き渡し処理にあたった
 長宗我部元親への押さえとして
 秀吉から
 阿波一国を与えられるが、
 正勝は秀吉の側近として仕え
 嫡男の家政に譲り渡された
 黒田孝高と共に毛利氏の取次も務め、
 中国国分で国境を確定させた
 天正十四年五月二十二日
 (1586年7月8日)
 大坂城外の邸宅にて死去
 享年61
 法名
 福聚院殿前匠作四品良巌浄張大居士
 墓所
 徳島県徳島市眉山町
 愛知県あま市蜂須賀の池鈴山蓮華寺にも
 家政との合同墓碑がある
 子孫は徳島藩外様大名
 代々松平の名字を
 徳川将軍から授与され
 明治維新を迎えている
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 ・・・
 武蔵七党の横山氏と同じ家紋の
 五割万字(いつつわりまんじ)を使用
 横山氏の系統ともいう・・・
 楠木氏の一族とされ、
 南北朝時代に蜂須賀氏の遠祖とされる
 蜂須賀正家(能祐)なる人物が
 南朝方の武将として活躍
 子孫の正昭(正秋)が、
 尾張国蜂須賀郷を領し、蜂須賀氏を称する・・・
 八代蜂須賀宗鎮以降は他家からの養子
 蜂須賀氏との血縁関係はない
 十三代藩主の
 蜂須賀斉裕の
 実父が
 徳川家斉であり、
 最終的には徳川将軍の血筋となった
 侯爵に任ぜられ、
 紀州徳川家と並ぶ富豪華族として知られたが
 北海道で大規模な農場経営で失敗
 大正から昭和期に
 十八代当主
 蜂須賀正氏は世界的な鳥類学者
 たびたび犯罪に絡み
 「華族の品位を落とす」とされ、
 1945年(昭和二十年)七月に
 侯爵位を返上
 戦後は正氏の遺族の間で財産争い
 暴力団もからんで財産を消失し、
 蜂須賀氏は没落・・・
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 ・・・全然「蜂子・蜜蜂」と関係無し?だが・・・
 「阿波藩徳島」・・・あわ=安房・安和・粟・沫・泡・・・ホウ・・・蜂・・・「蜂の子」は孵化して「蜜蜂マーヤ」に狎(な)れるのか・・・「狎(あなどる・なれ・コウ・ギョウ)=犭(獣扁・犬)+甲」=「ナレ親しみすぎて礼を欠く」・・・「狎客(コウカク)」、「狎妓(コウギ)」、「愛狎(アイコウ)」、「歓狎(カンコウ)」、「親狎(シンコウ)」、「狎近(コウキン)」、「狎昵(コウジツ)」・・・「獣(犬・狗・戌)の甲(兜・冑・人頭宐為甲、甲は人頭に象る・頭・頭蓋・堅い殻」・・・「鳥の甲なら鴨(かも)」だが・・・カモがネギを背負ってクル・・・か?