1184日目・・・旧暦ではまだ「六月五日」・・・西暦二千十三年七月十二日の「日の干支」は「己卯」・・・明日は「六月六日(旧暦)」の「土曜日→十の一の妖美」は「傾城の美女、褒姒→褒の女が以(も・イ)って」・・・陸、陸、十一(壱拾壱・足壱)・・・足が八本あるのは「蛸(たこ・ショウ)→胼胝・多古・多胡」で、「章魚(たこ・ショウギョ)」・・・「烏賊(いか・ウゾク)」は十本・・・

ーーー
 西暦0年干支庚申(猿)年
   1月干支戊子(鼠)月
   1日干支己卯(兎)日
  ↓
 干支歴では
 西暦一年干支辛酉(鳥)年は
     二(寅)月の「節分の日」から始まる
           日本 垂仁天皇三十年
              皇紀 六六一年
           中国 前漢 元始元年
           王莽、太傅(摂政)
           安漢公と号
           孔子諡号
          「褒成宣尼公」が贈
ーー↓褒
 「亠」+「保」+「衣」
 「音符、保で、源字は孚」
 「包」などと同系
 ゆったりと包むの意
 ゆったりした衣服
 「報」に仮借で見返りの意
 「報(むくい・ホウ)」は悪行に対して、
 「褒(ほめる・ホウ・ホ)」 は善行に対して
 「褓(むつき・ホウ・ホ)」と字源的には同じで
  同音である
 ほめる・よい行いをほめたたえる
 熟語は
 「褒詞・褒章・褒賞・褒美・褒貶(ほうへん)・過褒
  褒衣・褒袖・褒然・褒妲・褒寵・褒揚
 「襃(亠+E+呆+衣)」は異体字
ーー‎↓褒姒
 紀元前七七一年
 西周の最後の王
 幽王は驪山(キザン)において
 犬戎(ケンジュウ)に殺され、西周亡国
 「傾国の美女」
 ‎褒姒(ホウジ)
 周(西周)の幽王の后で
 絶世の美女
 西周を滅ぼした元凶とされる
ーー
 幽王の父である
 宣王のとき
 「山桑の弓 箕の箙(えびら)
  これすなわち周を滅ぼすもの」という歌が流行
  山桑の弓と箙(えびら)を売っている老夫婦を
  宣王は「捕らえて殺せ」と命じる
 老夫婦は逃げだし、その途中で
 捨てられていた
 女児の赤ん坊を見つけ、拾って
 「褒国」へ逃げた
 後に拾い子は美女として成長する
 そして「褒の国王」は
 周の幽王にその娘、
 「褒姒」が献上され
 寵愛された・・・
 「褒姒」は
 笑ったことがなかったので
 幽王は褒姒を喜ばすことに
 手を尽したが、
 褒姒は笑わなかった
 敵襲撃の
 合図の狼煙(のろし)があがり
 諸侯が軍勢を整え、国都に参集
 狼煙は間違いだった
 安堵し
 気の抜けた諸侯、重臣たちの顔を見て
 褒姒が笑い出したのである
 それから幽王は、褒姒を笑わせるために、
 何度も狼煙をあげさせ
 誰もが「狼煙」を敵襲と信じなくなった
 ・・・「狼少年の叫び」・・・
 前皇后の
 父が
 「西夷」、
 「犬戎」の異民族らと伴に
 国都の
 「鎬」を襲撃
 狼煙はあがったが、誰も信用せず
 幽王は褒姒を連れて東へと逃げ、
 驪山の麓で殺される
 と言う・・・噺・・・
 周は
 紀元前256年、
 秦によって滅ばされるまで続く・・・
ーー↓「褒姒」茶
 「ほうじ茶」は漢字で「焙茶」・・・「焙煎茶」?・・・煎茶、番茶、茎茶などを混ぜ併せてキツネ色になるまで強火で炒って(ほうじて)、香ばしさを引き出した「お茶」・・・北海道や東北、北陸地方では「番茶」と云われる・・・狼煙→強火燻る→焙煎→見張り番・・・「ほうじ茶」の「焙煎の匂い」で笑ったんだろう・・・「タメシテ、ガッテン」・・・幸福=コウフク=降伏・・・なヒトになれるって・・・虜(とりこ)・・・
ーー↓褒子
 藤原褒子
 生没不詳
 宇多上皇
ーー↓
 宇多天皇
 貞観九年五月五日(867年6月10日)
   〜
 承平元年七月十九日(931年9月3日)
 第五十九代天皇
 在位
 仁和三年八月二十六日(887年9月17日)
   〜
 寛平九年七月三日(897年8月4日)
 諱は定省(さだみ)
 天皇代の貞観九年、
 故
 仁明天皇の皇子、
 時康親王
 第七子として生れる
 元慶年間(877〜885)まで
 陽成天皇
 侍従・・・・自重・字重
 涼殿で
 在原業平と相撲や
 東遊(あずまあそび)の
 舞人を演じる
 後の
 佐々木氏などに代表される
 宇多・・・・・得拿
 源氏の祖先・・源字
 光孝天皇の・・公行・後項
 三男・・・・・算段・纂談・纂断
 母は・・・・・簿・模
 仲野・・・・・中也・昼夜・中之(埜・廼)
 親王女・・・・「新納・新能生」+如
        ジョ→序・徐・叙・除・所・助
        おんな=音名
 班子女王・・・班個(固)・・・漢書→官女
 臣籍降下
 源氏
 であったが、
 二十一歳
 父の死に伴い
 親王
 戻り
 即位
 藤原基経
 「阿衡(アコウ)事件」
 基経の・・・・基督教の経典
 死後は
 菅原道真らを
 登用して
 寛平の治・・・宇多天皇の治世を理想視した呼称
ーー↓
 「寛平御遺誡」
 寛平九年七月三日(897年8月4日)
 宇多天皇醍醐天皇への譲位に際して
 十三歳の新帝に与えた書置
 「本朝書籍目録」に全1巻と記されているが、
 原本は存在しない
 逸文・・・?・・・逸文を組み合わせることでほぼ全容が判明するとされている・・・イト、おかしい、あやしい・・・「鎌倉(掛枕?)期」の写本や逸文に依拠するところが大・・・
 「叙位・任官・朝廷の政務儀式・天皇の日常の行動、学問」など宮廷の年中行事の様式書・・・
 寛平八年(896年)
 唐人
 李懐(李環)と面会したことは誤り、として、
 外蕃(外国)の人とは必ず
 御簾越しに面会するようにと記録
 これ以降、
 在位中の天皇が外国人と直接、面談、面会することは
 明治に至るまでなかった・・・?
 宇多天皇が次期天皇の決定について菅原道真以外には関与させなかった・・・?
 菅原道真大宰権帥に左遷された
 「昌泰(ショウタイ)の変」は・・・「正体の変」だろう・・・
ーー↓褒子
 褒子
 御息所(みやすどころ・ゴソクジョ)
 藤原時平の娘
 雅明・載明・行明
 三親王の母
 従二位
 京極
 御息所、
 あるいは
 富小路(とみのこうじ・フショウジ)
 御息所とよばれた
 御息所は寝室(ベットルーム)の「ベット=bet (money) on」のカケだろう・・・
 ・・・西暦元(一)年から跳んできました・・・以下・・・
ーーーー↓秦→前漢→「新王朝」→後漢
 西暦二年
 干支
 戊戌(犬)年・・・土(十+一)の兄の犬(狗)
 王莽(オウモウ)
 新王朝の皇帝
 字は巨君
 「漢書」の
 「莽」は「草冠の下の字は犬」
 前漢
 元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の
 甥
 成帝の母方の従弟
 王曼(オウマン)の次男
 王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡らの父
 孫は王宗(王宇の子)
 娘は平帝の皇后
 王氏、王曄、王捷ら
 正妻は宜春侯王咸の娘
 王永の弟
 王光の叔父
ーー↓本日のカンシ
 グレゴリオ暦=西暦は
 1582年10月5日〜14日までの「10日間」が「存在」しない・・・愚れたんだろう・・・グレゴリオ三世・・・
 「5・6・7・8・9・10・11・12・13・14」
 1582年10月4日(木曜日)の
 翌日を、
 曜日を連続させながらも
 10日間を省いて、10月15日(金曜日)とすることを定めた・・・「10月4日」の次の日が「10月15日」である・・・「干支」も連続である・・・
 1582年10月15日・・・1582年6月21日(天正十年六月二日)・「壬午年・丙午月・戊(土の兄→つちのえ・ボ)寅(虎→とら・イン)日・月曜日」は「本能寺の変であった・・・?・・・グレる前である織田信長の死・・・
 日本
 天正年号・・・「天象、天承」の年号・・・?
 天正九年十二月七日
  〜
 天正十年十二月七日
ーー
 中国・明王朝
 万暦九年十二月七日
  〜
 万暦十年十二月七日
ーー
 朝鮮・李氏朝鮮
 宣祖十五年
ー↓ユリウス暦1582年
   ↓ーーーー↓天正十年(月日)
 6月21日(六月二日)
         本能寺の変
 7月2日(六月十三日)
         山崎の戦い
 7月4日(六月十五日)
         安土城炎上
 7月5日〜8日(六月十六日〜十九日)
         神流川の戦い
 7月16日(六月二十七日)
         清洲会議
 7月27日(七月八日)
         羽柴秀吉
         山城国
         指出検地
 9月14日(八月二十八日)
         長宗我部元親
         十河存保を破る
        (中富川の戦い
 9月27日(九月十一日)
         柴田勝家
         お市の方
         織田信長
         百日忌を京都の
         妙心寺で執行
 10月15日
       グレゴリオ暦が導入
       前日は
       ユリウス暦の10月4日
 11月10日(十月十五日)
         秀吉が
         大徳寺
         織田信長の葬儀執行
ーーーー↓
 2013年 干支 癸巳(戊・庚・丙)年
    七月 干支 己未(丁・乙・己)月
   十二日 干支 己卯(甲・ ・乙)日
ーーー↓
   平成二十五年七月十二日(金曜)
   平成二十五年六月五日(旧暦)
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 枕草子
 (七七段)・・・七拾七・七十七・漆足漆
         7+7=14=十四=壱拾四=壱足肆
         7×7=42=四十二=四拾弐=肆足弐

 ありがたき
 もの
 舅に
 
 らるる
 壻。
 また
 姑に
 思はるる
 婦の・・・・付(符)
 君。・・・・訓
 物
 よく
 拔くる
 白銀の・・・吐く吟・葉句吟
 毛拔。・・・懸貫き
 主・・・・・種・取・重(おもい)
 謗らぬ・・・そしら→蘇詞等
       ぬ=濡(氵+雨+而)
         ヌ→又(ユウ・ウ)
 人の
 從者。・・・重葉
 つゆの
 癖
 缺點・・・・欠点
 なくて、
 かたち
 心
 ざまも
 すぐれて、
 世に
 あるほど、
 聊の・・・・「いささか・リョウ」の
        意作逆・漁・両
 きず
 なき
 人。
 同じ
 處に
 住む
 人の、
 互に
 慚ぢ・・・・ハジのスベテの漢字
 かはし、・・可和史
 いささかの・・聊(いささか)の
 隙・・・・・・すき・ゲキ
 なく
 用意
 したりと
 思ふが、
 遂に
 見えぬ
 こそ
 かた
 けれ。

 物語、
 集など
 書きうつす
 本に
 墨
 つけぬ
 事。
 よき
 草紙
 などは、
 いみじく
 心して
 書け
 ども、
 必
 こそ
 きたなげ
 に
 なる
 めれ。
 男も
 女も
 法師も、
 ちぎり
 深くて
 かたらふ
 人の、
 末まで
 中
 よき・・・与記
 事
 かたし。
ーーーーー
 ・・・いと、意味字句摸・・・褒(ほめられ)たくもナシ・・・