2315日目・・・「とねり」・・・「舎人親王=崇道尽敬皇帝(スドウジンケイコウテイ)」・・・「崇道=あがめうやまう道」、「尽敬=敬(つつし)み尽くす」・・・「舎人=皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者・その役職・大王の側近、近習・令制で天皇、皇族などに近侍して警固、雑事にあたった下級官人で内舎人(うどねり)、大舎人、中宮舎人、東宮舎人、衛府の兵士などの総称」、「内舎人には身分の高い貴族の子弟が、大舎人以下には下級官人、地方豪族の子弟、白丁 (庶民) が任じられ、課役免除の恩典があった。別に親
「丁(チョウ・テイ)」が「釘(金+丁)」の形象と云われるが、「丁=一(イチ)+亅(ケツ)」で、字形の「亅(ケツ)」は引っ掛ける鉤(鈎)でhook(フック)か、「デレッキ(オランダ語dreg・derrick・the rakeなどの説・先端部分がL字のように曲っている金属製の棒・石炭ストーブの石炭を搔(か)く道具」である・・・
じゃぁ、「白鳥の湖」は「1877年3月4日モスクワ・ボリショイ劇場バレエ団が初演」・・・
「1877年(丁丑年)=明治十年一月二十六日=歴史館設立(総裁は伊知地正治)」・・・
「2月15日西南戦争勃発(〜9月24日)」・・・
「3月4日西南戦争=田原坂の戦い(〜3月20日)」・・・
「白鳥の湖」=「田原坂の戦い」
=「會津藩、白虎隊の敵討ち」・・・?
ーー↓↑ーー
「抜刀隊=1877年(明治十年)に起きた西南戦争の激戦となった田原坂の戦いの際に、警察官の中から選抜して臨時に編成された白兵戦部隊=第一次抜刀隊は植木口警視隊(354名)の中から百十余名を以って3月11日過ぎに編成」
「第一次抜刀突撃は二俣台地にて同14日早朝敢行、以後戦死者、戦傷者などの減員分を都度補い、第二次、第三次抜刀隊を編成し横平山などでも戦闘。最終的に西郷軍の手から田原坂を制圧奪取し官軍進軍の突破口を開いた」
「抜刀隊遊軍=田村五郎三等少警部(福島県士族→東京府平民)
加藤愛敬三等少警部(青森県士族)他警部補3名、巡査20名」
「雪辱」を果たすべく
「戊辰の仇、戊辰の仇」
と叫びながら斬り込んでいった・・・
ーー↓↑ーー
兎に角、「舎人」は「下級官人、地方豪族の子弟、白丁 (庶民) が任じられ、課役免除の恩典があった。別に親王、上層官人などに給される帳内 (ちょうない) 、資人 (しじん)」 があり、いずれも「とねり」と読まれた・・・
↓↑
中国律令制
公の職を持たない無位無冠の良民の男子
「白丁」の名は、無位無冠の者は
白い衣を着けたことにちなむ
日本律令制
無位無官の公民、庸と調を負担した正丁・老丁男子
高麗時代までの朝鮮では
「白丁」は中国、日本と同じく無位無冠の良民
李氏朝鮮時代では
身分制度の最下層・・・
ーーーーー
「祟」と「崇」の漢字は異なる
「祟=出+示」=たたり
「崇=山+宗」=あがめうやまう・・・アガメムノン?
で意味は別モノ・・・
「祟=出+示(たた)り・呪霊による災(わざわ)い
報(むく)いを受ける・呪霊をもつ獣の形
卜文・金文の字形は毛深い獣の形
祟を敺(う)って、その呪霊によって
人を呪詛することを殺 ・弑という(字通)
神の出してくるタタリをあらわす(漢字源)
ーーーーー
「舎人」
「壬申の乱で活躍した
信濃兵を率いていた
科野(信濃)国造家が
金刺舎人氏」・・・・「金を刺す舎人」?
↓↑
壬申の乱
672年
舎人皇子の生年 676年
子の扶養を
天武天皇が
科野国造家に託した
「舎人の皇子」の呼称由来
↓↑
欽明天皇の妃
堅塩媛が生んだ皇女にも
舎人皇女
↓↑
舎人親王(676?〜735)
天武天皇の皇子
知太政官事
母は
天智天皇の皇女
新田部皇女
↓↑
勅により日本書紀編纂
死去に際し
贈太政大臣
子の
大炊(おほひ)王
が即位し
淳仁天皇
↓↑
崇道尽敬皇帝
の追号
天平宝字三年(759年)六月十六日
崇道尽敬皇帝
を追号
↓↑
子の
大炊王が即位して
淳仁天皇となったので
崇道尽敬皇帝
の追号
↓↑
舎人 親 王
(とねりしんのう)
(とねりのみこ)
とも
天武天皇の皇子 淳仁天皇の父
天武天皇の
諸皇子の中で 最後まで生き
奈良時代初期に
長屋王
とともに
皇親勢力として権勢
↓↑
淳仁天皇
天平五年
(733年)
〜
天平神護元年十月二十三日
(765年11月10日)
第四十七代天皇
(在位
天平宝字二年八月一日
758年9月7日
〜
天平宝字八年十月九日
764年11月6日)
諡号は 明治時代に付けられた
古文書で
廃帝(はいたい)
淡路廃帝(あわじはいたい)
諱は
大炊(おほい)
践祚前は
大炊王(おほいおう)
天武天皇の皇子の
舎人親王の
七男
母は
当麻老の娘の
当麻山背
三歳で父、舎人親王が没し
天皇の
孫でありながら
無官位
756年
聖武天皇(死没)
の遺言によって
新田部親王の子の
道祖王が立太子したが
天平勝宝九年三月二十九日
(757年4月22日)
孝謙天皇によって
道祖王は廃され
四日後の
同年四月四日(4月26日)
光明皇后(藤原光明子)を
後ろ盾にもつ
藤原仲麻呂(恵美押勝)
の推挙により
大炊王が立太子した
↓↑
大炊王は
仲麻呂の進言に従って
仲麻呂の
長男で故人の真従の未亡人である
粟田諸姉を妻に迎え
仲麻呂の私邸に住んだ
↓↑
天平宝字二年(758年)
孝謙天皇から
譲位を受け践祚
孝謙天皇は、
太上天皇(孝謙上皇)となった
↓↑
践祚後
政治の実権は
仲麻呂が握り
一族は
恵美の二字を付け加えられ
仲麻呂は
押勝を名乗った
755年
安禄山の乱で
九州の警備強化
仲麻呂が
新羅討伐を強行するが
称徳天皇=孝謙上皇
により実現しなかった
↓↑
官位を唐風の名称に改め
鋳銭と
出挙の権利
私印を用いる許可も与えた
天平宝字四年(760年)
仲麻呂を皇室外で
初の太政大臣に任じ
同年
光明皇太后が薨去
仲麻呂は
平城宮の改築を実施
天平宝字五年(761年)
天皇と上皇は
小治田宮
保良宮
に行幸し
保良宮を
「北宮」とした
↓↑
保良宮滞在中に
病みがちとなった 孝謙上皇は
看病していた
弓削道鏡を寵愛
仲麻呂の進言により
天皇がこれを諫めたが
上皇は激怒し、 天皇と上皇は対立
↓↑
平宝字六年六月三日
(762年6月28日)
孝謙上皇は
再び
天皇大権を掌握することを目的に、 「今
の帝は
常の祀りと小事を行え、
国家の大事と賞罰は朕が行う」
と宣告
↓↑
天平宝字八年(764年)九月
上皇との対立
「恵美押勝の乱」
は失敗
仲麻呂は
塩焼王
の新天皇擁立を策謀
↓↑
淳仁天皇は
乱の翌月
上皇の軍によって
居住していた中宮院を包囲され
上皇より
「仲麻呂と関係が深かったこと」
を理由に廃位を宣告
5日後
天平宝字八年十月十四日
(764年11月11日)
親王の待遇をもって
淡路国に流刑
淳仁天皇
廃位
孝謙上皇は重祚し
称徳天皇となった
↓↑
都には
先帝の復帰(重祚)の勢力
称徳天皇
天平神護元年(765年)二月
現地の国守
佐伯助
らに警戒を命じ
十月に
廃帝は逃亡を図るが捕まり
翌日に院中で死亡
廃帝、
淡路廃帝
と呼ばれていた
↓↑
明治三年七月二十四日→二十三日?
(1870年8月20日)
弘文天皇(大友皇子)
仲恭天皇
と共に
明治天皇から
「淳仁天皇」と諡号を賜られた
↓↑
明治六年(1873年)
同様に配流先で歿した
崇徳天皇を祀る
白峯神宮・・・「白い峯」?
に合祀
↓↑
淡路国-南海道
別称
淡州(たんしゅう)
所属 南海道
相当領域
兵庫県
淡路島・沼島
↓↑
「古事記・日本書紀」
の「国産み神話」で 日本列島で
最初に生まれた島
島内には
伊弉諾神宮
が祭られている
↓↑
『延喜式』や平城京などから
発見された
木簡によると
租庸調に加え、
贄(にえ)とよばれた
海産物(魚)を
直接に朝廷の
内膳司
(朝廷の食膳を管理した役所)
に納めていた
↓↑
天平宝字八年(764年)十月
淳仁天皇を廃し
「淡路国の公」
として淡路に配流
一院に幽閉
↓↑
応仁の乱後
各国の守護職は領主化
淡路国の歴代の守護
細川氏
最後の守護
細川尚春は
三好之長によって殺され
後は
三好氏の勢力下を経
四国攻めで
羽柴氏に制圧
↓↑
「旧高旧領取調帳」
明治初年時点
全域が
阿波徳島藩領であった
↓↑
明治三年九月十七日
(1870年10月11日)
庚午事変
処分
稲田家が
日高国(北海道)
新冠郡
静内郡
根室国(北海道)
花咲郡の一部(後の色丹郡) に移転
明治四年五月
津名郡の一部が
兵庫県の管轄となる
↓↑
7月14日(1871年8月29日)
廃藩置県
藩領が
徳島県の管轄
11月15日(1871年12月26日)
第1次府県統合により
全域が
名東県の管轄となる
明治九年(1876年)八月二十一日
第2次府県統合で 兵庫県の管轄となる
↓↑
稲田家側に対して
この事件を口実に
北海道
静内
色丹島
の配地を与えるという
名目で 兵庫県管轄の士族として
移住開拓を命じ
北の大地へ・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑
淳仁天皇の系譜
夫人
粟田諸姉(?〜?)
元
藤原真従の室
母不詳
安倍内親王
伊勢斎宮
のち
磯部王(桑田王王子)の妃
石見王
高階峯緒(峯緒王、高階氏祖)父
↓↑
安倍内親王(生年不詳)?
奈良時代の皇族・伊勢斎宮
淳仁天皇の娘?
母は不詳
↓↑
父の即位前は
山於女王(やまのうえのじょおう)
と呼ばれていたが、
即位後に斎宮に
卜定され、
内親王宣下
により名を改め
↓↑
天平宝字五年八月二十九日
(761年10月2日)
大祓が行われ
翌9月に伊勢へ群行したが
天平宝字八年十月九日
(764年11月6日)
の父の廃位により退下
その後
磯部王
(長屋王の孫で高階氏の祖)
の妃となって
石見王(いわみおう)
を産んだ・・・
↓↑
舎人親王
子孫の清原氏は
高市皇子裔の
高階氏と共に
天武系後裔氏族
として長く血脈が続いた
↓↑
天武天皇五年(676年)
天武天皇の子として誕生
母は
新田部皇女。
↓↑
持統天皇九年(695年)
浄広弐に叙せられ
大宝元年(701年)
大宝令の制定に伴う
位階制度への移行を通じて
二品となる
↓↑
養老二年(718年)
一品に昇叙
翌
養老三年
元正天皇より
異母弟の
二品・新田部親王
とともに
皇太子
首皇子(聖武天皇)
の補佐を命じられ
皇室の年長者として
褒賞され
内舎人・大舎人・衛士・封戸
を与えられた
養老四年(720年)五月
編集を総裁した
「日本書紀(紀三十巻・系図一巻)
を奏上
同年八月
右大臣
藤原不比等の薨去
舎人親王は
知太政官事に就任
太政官の首班
知五衛及授刀舎人事
新田部親王
および
右大臣(のち左大臣)
長屋王
とともに皇親政権を樹立
↓↑
神亀元年(724年)
聖武天皇の即位
封500戸を加えられ
聖武朝で
舎人親王は
藤原氏寄りに傾斜
結果的に
藤原四子政権の成立に協力
↓↑
神亀六年(729年)二月
長屋王の変 新田部親王
らと共に
長屋王
を糾問し、自害せしめる
↓↑
神亀六年(729年)八月
藤原不比等の娘
光明子の立后の勅を宣べる
天平三年(731年)八月
公卿らが死亡や病気で
政務を処理できなくなっているとし
人材を推薦するよう勅を宣べる
この結果
藤原宇合
麻呂兄弟
ら6名が
参議に任官し
藤原四兄弟全員が
議政官に加えられた
天平七年(735年)九月
ともに
皇親政治を支えた
新田部親王が薨じ
舎人親王はその邸宅に遣わされ
天皇の弔意を伝える
↓↑
1ヶ月半後
11月14日
天然痘が蔓延
薨去
享年60
最終官位は
知太政官事一品
即日
太政大臣の官職を贈られた
↓↑ ↓↑
没後20年以上たった
天平宝字二年(758年)
第七王子の
大炊王
が即位(淳仁天皇)
翌
天平宝字三年(759年)
天皇の父として
舎人親王は
「崇道尽敬皇帝」・・・スドウ
と追号
↓↑ ↓↑
『万葉集』に3首
柿本人麻呂歌集に
舎人親王に献上された5首の歌
↓↑
ぬば玉の
夜霧ぞ立てる
衣手の
高屋の上に
たなびくまでに (万葉集・巻九)
↓↑
墓所
奈良県奈良市
田中町にある
黄金塚陵墓参考地が候補地
平成21年(2009年)2月
発掘調査により
別人の陵墓であることが判明
奈良市春日山には
二つの峯があり、
南側の少し高い峯を
高峯と呼んでいて
その高峯に廟所がある・・・
↓↑
『六国史』
持統天皇九年(695年)正月五日
浄広弐
二品
大宝四年(704年)正月十一日
益封200戸
和銅七年(714年)正月三日
益封200戸
養老二年(718年)正月五日
一品
養老三年(719年)十月十七日
内舎人2人
大舎人4人
衛士30人
を賜与
益封800戸
(以前の封戸と合わせて2000戸)
養老四年(720年)八月四日
知太政官事
神亀元年(724年)二月四日
益封500戸
天平七年(735年)十一月十四日
贈太政大臣
天平宝字三年(759年)六月十六日
崇道尽敬皇帝
を追号
↓↑ ↓↑
父=天武天皇
母=新田部皇女(天智天皇の娘)
大夫人(淳仁即位後に追贈)
当麻山背(当麻老の娘)
子供
長男=守部王
次男=三原王(?-752)清原氏の祖
↓↑
七男=大炊王(淳仁天皇・733〜765)
妃は当麻氏
↓↑
三男=船王
生母不明
四男=池田王
五男=三島王
六男=三使王(?-760)
↓↑
男子=御浦王
男子=厚見王
女子=室女王(?-759)
女子=飛鳥田女王(?-782)
ーーーーー
・・・???・・・「スドウ」天皇・・・数藤・須藤・首藤・周藤・須東・主藤・簾藤・・・
「祟=出+示」=たたり・スイ・・・・・・・
なのか
「崇=山+宗」=あがめうやまう・スウ・ス・・・崇拝
なのか・・・
第十代崇神(スジン)天皇の「山+宗」か?
祟神(スイジン)天皇の「出+示」か?
御間城入彦五十瓊殖天皇
(みまきいりひこいにえのすめらみこと・日本書紀)
御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと・古事記)
御眞木天皇(みまきのすめらみこと・古事記)
御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと・日本書紀)
所知初国天皇(はつくにしらししすめらみこと・古事記)
ーーーー
・・・?・・・「出+示」&「山+宗」・・・