1180日目・・・ダレイオス・・・「跎雄斯 (ダリウス・Dareiosz)」は「猫好き」・・・「等解纂史(トウカイサンシ)」・・・なるほど「東海散士」の「佳人之奇遇」、「 東洋之佳人」、「埃及(エジプト)近世史」・・・それに「仮名垣魯文」の「西洋道中膝栗毛」、「安愚楽鍋」・・・「散切り頭、文化、文明開化の音がする」である・・・

ーーー↓仮名書き露文(芦文・賂文)
 仮名垣魯文
 文政十二年一月六日
 (1829年2月9日)
   〜
 明治二十七年
 (1894年十一月八日)
 本名は野崎文蔵
 別号は鈍亭・猫々道人
 江戸京橋の魚(さかな・まな・うお・ギョ)屋(おく・ヤ)に生まれた
 大通人の
 細木(津国屋)香以
       (カイ?コウジ)の
 愛顧で
 花笠文京
(はながさブンケイ
 カリュウブンキョウ)に
 弟子
(でし・ダイシ・おとこ)
 入りし
 戯作(さく)者になる
 出世作
 万延元年(1860)の
 「滑稽富士詣」を皮切りに
 「西洋道中膝栗毛・初編1870年」
    (なかひざくり解)  
 「安愚楽鍋・初編1871年」
 (あんぐらなべ・アングガクカ
  やすおろかたのしいなべ)
 等を次々と刊行
 明治七(1874)年
 「横浜毎日新聞」の雑報記者
 明治八年
 「仮名読新聞」を創刊
 「鳥追
  阿松
  海上
  新話(久保田彦作著)」などの
 新聞連載小説を掲載
 「高橋
  阿伝
  夜叉(やしゃ)・・・玄孫
  譚」などの当たり作を刊行
ーーー↓トウカイサンシ
 倒壊(凍解・倒壊・当会・韜晦)
 問う甲斐の纂の史
ーーー↓等外の三史
 東海散士
 嘉永五年十二月二日
 (1853年1月11日)
   〜
 大正十一年
 (1922年九月二十五日)
 本名は
 柴四朗
 安房国(千葉県)の出身
 台湾軍司令官
 東京衛戍総督の
 柴五郎の兄
 ウィキペディア生年月日=1852年六月二十一日?
 富津に・・・生まれた
ーー↓ふつ
   布津・布都
 タケミカヅチ
 タケミカヅチ
 雷神
 剣の神
 相撲の元祖
  建御雷之男神・建御雷神(古事記
  武甕槌、武甕雷男神日本書紀
  建雷命
ーー↓甕(かめ・つぼ・オウ)
 裏醯鶏 (オウリケイケイ)
 見識が狭く世間知らずの譬え
  「醯鶏」は糠蚊(糠の蟲)・酒、酢などを入れた甕の中に湧く小さな羽蟲→孔子老子と会見したのち、顔回に、自分はあの「鰹蟲」のようにつまらぬ者だと語った
   ↓
 王理炯炯・欧理経契・王理恵
 眼光炯炯→ギラギラと光り輝くさま
      気がかりで不安なさま
 醯=酢・すづけ・塩辛・すっぱい酒
   粥を発酵させて造る酒
 醯鶏裏 (ケイケイオウリ)
  ↓
 酒飯袋 (シュオウハンタイ)
  ↓
 無能無芸で大食い、大酒呑みの役立たず
 主王反対
 酒飯嚢 (シュオウハンノウ)
 諏王(周防・囚王)反応(藩悩・版納)
ーー↓
  別名
  建布都神(タケフツ)
  豊布都神(トヨフツ)
  鹿島神宮茨城県鹿嶋市)の主神
  鹿島神
 (かしまのかみ)
  鯰絵では、
  要石に住まう
  地震を引き起こす
  大鯰を御する存在
  伊弉諾尊
 (伊邪那岐・いざなぎ)が
  火神
  軻遇突智
 (カグツチ)の
  首を切り落とした際に、
  十束剣
 「天之尾羽張
 (アメノオハバリ)
   ↓
  編め、之、尾張、奥羽
  亜目、廼、緒葉、葉理(罵詈)」の
   ↓
  根元に・・・音本
  ついた
  血が・・・・知臥(画)
  岩に・・・・磐・違和
  飛び
  散って生まれた
  三神の一柱
  剣の
  亦(マタ)の
  名は
  伊都尾羽張
 (イツノオハバリ
  何時之尾張、奥羽)
  「日本書紀
  甕速日神
 (ミカハヤヒノカミ
  オウソクヒジン
  王即比訊
  欧即比尋・欧則比儘)
  という
  建御雷の租が生まれたという伝承と、
  建御雷も生まれたという
  伝承を併記
 「出雲の国譲り」の段では
 伊都之尾羽張
 (イツノオハバリ)の子
 伊都之尾羽張は
 天之尾羽張の別名
 建御雷
 天鳥船
 (アメノトリフネ
  テンチョウセン
  辿 朝  鮮
  典 朝  鮮
  転 朝  鮮
  転 調  撰
  天 頂  線
  天 朝  宣
  填 挑  戦)
 とともに
 降臨
 出雲の・・・出句模(摸)
 伊耶佐小浜
 (いざさのおはま
  イヤサショウヒン
  否 差小  品
  異家作商  品
  揖屋作商  品)
 に降り立って
 タケミカヅチは、
 十掬の剣
 (とつかのつるぎ
  斗図化之都留偽
ーー↓
  戸塚(手塚)之通留義
      ↓
 手塚 良仙(良庵・光享)
 文政九年(1826年)
  〜
 明治十年(1877年十月十日)
 医師・蘭学者
 父は
 常陸国府中藩医
 手塚良仙(手塚光照)
 緒方洪庵適塾に入門
 福澤諭吉ら親交
 江戸で
 大槻俊斎・伊東玄朴らと
 お玉が池
 種痘所設立
 父の跡を継ぎ、良仙と改名
 幕府歩兵屯所付医師
 維新後、
 大日本帝国陸軍軍医(大尉相当官)
 西南戦争に従軍、
 九州で赤痢に罹り、
 長崎陸軍病院で死去
 息子は
 司法官の手塚太郎で
 大槻俊斎の義弟
 漫画家の
 手塚治虫
 曾祖父
ーー↓手塚律蔵
  ↓
 「英和対訳袖珍辞書」
 (A Pocket Dictionary of
  the English
  and
   Japanese Language)
 「堀達之助」編纂
 日本初の刊本英和辞典
 953ページ数
 文久二年・1862年出版
 刊行部数は
 約200部
 その形状から
 「枕辞書」とも呼ばれた
 既刊編纂の英和辞典
 「諳厄利亜語林大成
  (文化8年1811年)」が
 不十分だったので
 堀達之助
 西周
 千村五郎
 竹原勇四郎
 箕作麟祥
ーー↓
 手塚律蔵
 (文政五年六月八日・1822年7月25日
   〜
  明治十一年・1878年11月29日)
 洋学者、外交官
 別名は
  ↓
 瀬脇良弼、・・・瀬=氵(水)+頼(たよる)
       氵(さんずい・纂隋)+束+頁
       脇=わき=腋(エキ・ヤク)
       腋・脇・両脇=亦→迹
 瀬脇寿人・・・・施亦尋比徒
  ↓
 父は医師の
 手塚治孝(寿仙)・・・字考・従撰
 母は瀬脇氏
 17歳からの
 四年間、
 長崎の
 高島秋帆に砲術
 21歳
 四年間は
 江戸の
 坪井信道に・・・壷の異→甕→瓶→咬→鹿目
             日目→噛
             おかめ→傍目
             ひょっとこ→岡目
      ひょっとこ面=潮吹き面
      左右の目の大きさが違う
      頬被りをしていることが多い
      「おかめ」と「おたふく」とは対
ーーーーーーー↓
   祭りで踊られる腰の痙攣させる
   「永田のひょっとこ踊り」は
   明治期に
   日向市
   塩見永田地区で
   開業眼科医をしていた
   橘公行医師が
   里神楽を元に考案した
   橘ひょっとこ踊り保存会に
   継がれている・・・そうだ・・・
 ひょっとこの語源
 竈(かまど)の火を竹筒で吹く「火男」や
 口が徳利のようであることから「非徳利」
 からとの説があるらしい・・・
 岩手県奥州市
 江刺地方に残る民話
 「ひょっとこのはじまり」
 その中では
 ヘソから金を生む奇妙な顔の子供
 死んでから自分に似せた面を
 竈の前に架けておけば家が富み栄えると
 夢枕に立ったという話
 その子の名前が
 ヒョウトクスであった
 概ね東北地方では火の神様
 「出雲安来節」は
 「ひょっとこ顔の男踊り」で
 「ドジョウ(泥鰌)掬い踊り」
 出雲国は製鉄、砂鉄採取の国で、
 掬ったのは泥鰌ではなく、
 鉄、その他の金属(金銀胴)を
 笊(ざる)で選り分けた仕草
ーーー↓手塚律蔵
 蘭学を学ぶ
 周防国
 熊毛郡
 周防村(山口県光市小周防)生まれ
 天保九年(1838年)
 長崎において
 高島秋帆
 シーボルトに学ぶ
 嘉永三年(1850年)
 江戸で
 佐倉藩に招聘
 嘉永六年(1853年)
 私塾
 又新堂を
 江戸本郷に開塾
 神田孝平らを教えた
 安政三年(1856年)
 西周と英学を学び、
 同年に
 幕府
 蕃書調所教授
 維新後は
 開成学校教授
 外務省貿易事務官
 ロシアや朝鮮の事情を視察
 明治十一年(1878年)
 ウラジオストクでの駐在から
 帰国途中に病死
 57歳
 訳書に
 「泰西史略初編」
 「万国図誌」などがある
ーー↓手塚律蔵
 などが編纂参加
 H. Picardの著した
 英蘭辞典
 「A New Dictionary of
   the English
  and
   Dutch Languages」
 オランダ語部分を和訳して
 編纂
ーー↓戸塚
   ↓
 神奈川県横浜市戸塚区戸塚町
 「戸塚の地名
  富塚
  十塚
  豊塚・・・てづか→手塚
  という三つの由来がある
  富塚八幡(戸塚町)の縁起に
  平安時代後期
  戸塚修六郎友晴と
  その子孫がこの地を開発
  1601年(慶長六年)
  東海道成立
  1604年(慶長九年)
  戸塚宿成立)
ー↓十掬(握)の剣
 を
 波の上に・・・・コトバの上に
 逆さに
 突き立てて、
 剣の・・・・・懸・憲・建・巻
        兼=かねる→化音留
 切っ先の上に
 胡坐をかき
 大国主
 国譲りの
 談判・・・・現今の大陸中国政府
       現今の亜米利加政府
 大国主は、
 その判断を
 子らに・・・現今の「日本政府」
 託した
 子の事代主は
 服従・・・・鳩山・野田
 建御名方神
 (タケミナカタ)は、
 建御雷に力比べで
 負け諏訪に遁走・・・?
 「日本書紀」では
 葦原中国平定
 段で
 下界に降される
 二柱は、
 武甕槌神
 建布都神
 武甕槌は
 鹿島神社の主神
 建布都神は
 香取神社の主神
 この二柱が
 出雲の
 五十田狭小汀
 (いたさのおはま)で
 十握(掬)の剣を
 砂に突き立て
 大己貴命大国主)に
 国譲りをする
 大己貴命は・・題は己の記名
 自分の
 広矛を・・・・公募?
 献上し恭順
 「天津神」に・・・転身・転進・添臣
       「隋王朝王城の橋=天津」
        天津=中国
 条件として、
 須賀の宮を
ーー↓
      ・・・清宮(せいみや)
         秀堅(1809〜1879)
         国学者
         文化六年十月一日生
         27歳で
         下総佐原村(千葉県)の
         里正(村長)
         30年がかりで
         地誌「下総国旧事考」を
         編纂
         維新後は
         新治(にいはり)県の
         地誌編集にあたる
         明治十二年十月二十日
         死去
         71歳
         字は穎栗
         通称は利右衛門
         号は棠陰(トウイン)
−−↓清宮
  太清宮・・・別名「下清宮・下宮」
  中国崂山南側の老君峰の麓
  仙人の棲家九神殿、八寺、72の庵
  現在、17箇所が残っている
  紀元前140年(西漢武帝建元元年)
  江西瑞州府
  高楽県の
  張廉夫が建立
  張廉夫は、字を静如、号を楽山
  漢の文帝九年に生
  仕官職を辞し出家し、
  玄学(老荘思想儒家経義が融合)
  学び、
  紀元前138年(建元三年)
  廟を建て、三清神像を祀り、
 「太清宮」と名づけた
  五代十国時代(907年-960年)
  道士
  劉若拙が崂山を訪れ、宮を修繕
  1195年(南宋・慶元元年)
  邱処機が
  昆化山から崂山に移り
  道教を布教
  明代、
  万暦十三年〜二十八年
  太清宮で
  僧
  憨山大師と
  道士
  耿義蘭が廟をめぐって争い、
  金銮殿を訴え、
  十数年後に道士が勝訴
  太清宮の前にある「海邱奪遺跡」の碑
  三官殿、三清殿、三皇殿、山門
  三官殿には
  「天官・地官・水官」の
  三つの神像が祀られ
  三清殿には
  「道徳尊・元始天尊・灵宝天尊」が
  三皇殿には
  「伏羲・神農・軒轅」が祀られている
  作家蒲松齢は、
  「聊斋志異・香玉」の章で、
  「香玉・絳雪」の物語を書いている
  三清殿の前には神水泉と称して名泉
  三皇殿の内壁には、
  嵌元世祖が護教のために書いた
  碑文と
  成吉思汗の割符文がある
  神殿の裏と宮殿の東側の道に
  大石があり、
  「波海参天」の四字
  下には
 「始皇帝二十八年遊於此山
 (始皇帝28年訪山)」の
  小文字が刻まれている
  太清宮は青島市の重要文化財
  道教
  随山派の道士を奉っている
ーーーーーーーーーー↓
         清宮(スガのミヤ)
         貴子内親王
         島津家
   −−↓須加・須賀・横須賀・横渚
    音は「渚(なぎさ)・菅(すが)」
    菅は「すげ・よこしま・カン・ケン」
    漢字の須=ヒゲ→伊藤博文
ーー↓須賀の宮を
 建てる
 コトとした
 二神に敵対する
 天津甕星
 征した神が、
 香取に座すとするが
 服従させたのは
 建葉槌命
 (たけはづちのみこと
  たてるはつちの見事)
 ケンハツイ(ヅイ)メイ
 建(件・懸・献・憲)の言葉は
 対(堆・隋)の名
  ↓
 神武東征
 建御雷神が、
 熊野で
 神武天皇
 (磐余=磐餘)を・・・岩倉具視
            岩崎弥太郎
 助ける
 熊野で熊が出現(古事記)で
 劣勢
 あるいは
 毒気(日本書紀)で
 神武、軍も失神(失心)
 高倉下・・・・・・・・岩倉具視
  ↓
 高倉天皇
 応保元年九月三日
 (1161年9月23日)
   〜
 治承五年一月十四日
 (1181年2月6日)
 第八十代天皇
 (在位・仁安三年二月十九日
 (1168年4月9日)
   〜
 治承四年二月二十一日
 (1180年3月18日)
 諱は憲仁(のりひと)
 後白河天皇
 第七皇子?・・・六皇子?
 二条天皇後白河院が対立し
 二条天皇の死後に擁立された
 六条天皇
 (二条天皇の子・高倉天皇の甥)を
 三歳で退位させ、
 天皇として擁立された
 父の後白河院院政を敷き、
 平盛の孫にあたる
 安徳天皇皇位を譲った
 高倉天皇
 平清盛の義理の甥
 清盛の娘、徳子を中宮とした
 笛の名手
 御陵
 京都市東山区
 清閑寺・・・清の漢字、官寺・韓事
         巻字・鑑事・監事、感じ・・・
 歌ノ中山町の
 後の
 清閑寺
 清閑寺旧境内の山腹に所在
 ・・・「二条(七十八代)・六条(七十九代)」で、「高倉(八十代・仁)」である・・・「明治憲法、日本国憲法二、六条」にナニが記録されているのか?・・・
 日本国憲法第二条(皇位の継承)「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」
 日本国憲法六条(天皇の任命権)「1天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する。2 天皇は、内閣の指名に基づいて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する」
ーー
 「亜米利加合衆国憲法修正第2条」・・・合衆国憲法制定(1787年)から4年後の1791年の追加条項・・・「規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるから、国民が武器を保持する権利は侵してはならない」・・・
ーー
 「四条天皇」は「八十七代」である・・・
 「岩倉宮・忠成王」
  承久三年・
  (1221年)
   〜
  弘安二年三月十一日
  (1279年4月23日))
 第八十四代
 順徳天皇
 第五皇子
 品位は無品
 岩倉宮、広御所宮を号す
 仁治三年(1242年)正月九日
 四条天皇
 十二歳で崩御
 忠成王は
 土御門天皇の皇子
 邦仁王とともに
 皇嗣候補として名が挙がり、
 忠成王には縁戚の
 九条道家
 邦仁王には
 土御門定通
 が後見
 鎌倉幕府執権の
 北条泰時
 順徳天皇の皇子である
 忠成王の即位に難色
 軍事介入を仄めかしながら、
 鶴岡八幡宮の神意であるとして、
 同じく後鳥羽天皇の孫にあたる
 邦仁王を推し、
 同年の
 三月十八日に
 邦仁王(後嵯峨天皇)が即位
 忠成王は
 宝治三年(1249年)二月二十五日
 元服し、岩倉宮と呼ばれる
  ↓
 日本国憲法第四条(天皇の政治的中立、国事行為の委任)「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」・・・
ーーー↓憲法条文?
六十六代  一条天皇 986〜1011
六十七代  三条天皇1011〜1016
六十八代 後一条天皇1061〜1036
七十一代 後三条天皇1068〜1072
七十八代  二条天皇1158〜1165
七十九代  六条天皇1165〜1168
八十代   高倉天皇1168〜1180
八十七代  四条天皇1232〜1242
十四代 後二条天皇1301〜1308
ーーー↓
 ・・・これらの「天皇」の「條・条」は「条」ではなく、「条」で、「憲法条文」の示唆である・・・かな・・・?
  ↓
 歴代天皇の確定基準は
 大正時代末期
 確定は、水戸藩で編纂された
 「大日本史」の編纂過程で検討された
 「水戸学・尊王論」で歴代天皇は確定
ーーー↓神武天皇
 (磐余=磐餘)は
 (たかくらじ)の剣で
 挽回、勝利した
 そのいきさつは
 高倉の下
 夢枕に
 天照大神
 タカミムスビ(高木神)が
 現われ
 タケミカヅチを派遣しようとしたが
 建御雷が自分の剣をさずければ
 勝てると
 倉に穴を開けて
 神武のところへ降した
 その剣は
 布都御魂(ふつのみたま)
 佐士布都神(さじふつのかみ)
 甕布都神(みかふつのかみ)の
 別名で呼ばれている
 石上神宮のご神体・・・七支刀?
ーー↓東海散士
 富津に・・・←布津・布都
 あった
 会津陣屋
(千葉県
 富津
 八坂神社の所在地
 房総半島・北に君津、木更津
 対岸には
 浦賀水道を挟んで
 三浦半島の神奈川県の
 横須賀が存在
 1889年、明治二十二年四月一日
 町村制施行で
 富津村、
 川名村、
 篠部村、
 新井村が合併し、
 周淮郡
 富津村
 が発足)
 に
 生まれる
 藩校
 日新館で学び、
 少年期に
 会津藩士として
 戊辰戦争
 兄の
 柴謙介と・・・シバ(司馬)の見解
        司馬遷→鞍作→蘇我入鹿
 共に従軍
 明治十年(1877年)
 別働隊として
 西南戦争に参戦
 熊本鎮台司令長官
 谷干城に・・・他にカンキ
          乾気←板垣退助
          官記
 見出され、
 二十七歳のとき
 岩崎家の援助を受けて
 アメリカに留学
 ペンシルベニア大学
 及び
 パシフィック・ビジネス・カレッジを卒業
 明治十八年(1885年)に帰国
 持論の
 「国権伸長」論を基調とする
 ナショナリズム小説
 「佳人之奇遇」初版を
 東海散士の名で発表
 以後、
 明治三十年(1897年)まで
 八編を刊行
 著書に
 「東洋之佳人」
 「埃及近世史」
 「乙未事変」に
   ↓
  1895年10月8日
  乙未事変(いつびじへん)
  李氏朝鮮
  第二十六代国王
  高宗の王妃、
  妃が
    閔=ビン・ミン・あわれむ・憐れむ
  三浦梧楼らの計画で
  王宮に乱入した
  日本軍守備隊、
  領事館警察官、
  日本人壮士(大陸浪人)、
  朝鮮親衛隊、
  朝鮮訓練隊、
  朝鮮警務使らに
  暗殺
   ↓
 関与し、
 収監されたが裁判では無罪となった
 1892年(明治二十五年)以降
 福島県選出(進歩党・憲政本党)など
 衆議院議員として活躍
 十回当選
 農商務次官
 外務参政官などを歴任
 条約改正反対運動に尽力
 大正十一年(1922年)
 熱海の別荘で死去
 満69歳
 所属政党
 進歩党、
 憲政本党
 立憲同志会
 大同倶楽部
 戊辰戦争では
 会津城に籠城し
 母兄弟を失い
 自らも
 捕囚となった
ーー↓
 弱小民族の
 ナショナリズム
 浪漫的に描く
 政治小説佳人之奇遇
 安房(あわ)の生まれ
 本名、柴四朗
 会津藩
ーー↓蛇足
 「跎雄斯(ダリウス・Dareiosz)」
 「蹉跎神社」 
 延喜元年(901年)
 菅原道真大宰府へ左遷される途中、山の上で休憩し、都の方を望んで名残を措しんだ場所(菅相塚)という現在「寝屋川市菅相塚町」
 その後を娘の
 苅屋姫が追いかけたが、間に合わず、
 「足摺り=蹉跎」して嘆いた
 その山を「蹉跎山」と呼ぶ
 大宰府でその話を聴いた道真は、
 三尺二寸の自身の木像を作って娘に送った
 天暦五年(951年)
 蹉跎山に社殿を造営して木像を祀り、
 近隣
 二十五箇村産土神とした
 慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣で社殿は焼失
 神像は無事
 現在地に遷座して中振・出口両村の産土神として再建
 明治五年
 走谷村の産土神であった
 加茂健豆美命神社を合祀
 郷社に列格
 加茂健豆美命神社は
 明治十二年に分祀再建
 現在の社殿は
 明治二十二年三月に改築
 江戸時代まで、境内には
 聖徳太子が開基したと伝えられる
 龍光寺があった
 創建後は宮寺とされていたが、
 明治の神仏分離で廃され、
 仏像や曼陀羅などは近くの浄土院に移された
ーー↓蹉跎
    跎雄斯 (ダリウス) Dareiosz
  ダレイオス三世・(Dareios III)
  跎雄斯 (ダリウス) Dareiosz
 ペルシア帝国最後の王。
 在位、
 前336〜前330年
 ダレイオス二世の曾孫←ダレイオス一世の玄孫?
 カスピ海南岸のカドゥシア人を征討し
 アルメニア
 サトラップに任官
 アルタクセルクセス三世と
 アルセスの
 二人の王を殺した
 宦官バゴアス(Bagōas)は
 傍系から彼を選んで王に擁立した
 その後
 両者は対立
 ダレイオスはバゴアスを倒し
 宮廷政治の粛正をはかった
 マケドニア
 アレクサンドロス大王が帝国に侵入し
 イッソス(前333)と
 ガウガメラ(前331)の
 両度の戦いで敗北
ーーー
 紀元前329年
 マケドニア
 アレクサンドロス三世が中央アジアに侵攻
 マラカンダ(サマルカンド)を攻め落とし
 抵抗したソグド人の死者は
 約三万人
 中心都市の占領し
 将兵
 ソグド女性との婚姻を奨励
 アレクサンドロスの死後、
 マラカンダを中心とする
 ソグディアナ一帯は
 周辺の諸民族の乱入で混乱
 その間にソグド人は
 東西貿易の商人として活躍
 奄蔡・康居時代
 中国の史書では初め、
 西方異民族のことを、
 専ら
 胡人と呼んでいた
 ソグド人・・・「商胡」
 この頃のソグディアナでは
 康居(こうきょ)という遊牧国家が支配
 西北にも
 奄蔡(えんさい)という遊牧国家が支配
 これらのもとでソグド人は生活
 前漢
 武帝(在位:前141年〜前87年)
 中国が西域(中央アジア)と通じ
 シルクロード交易は
 バクトリア商人に代わり、
 四世紀以降
 ソグド商人は東西交易の主役となった
 ソグド人商人はシルクロードの各所に
 ソグド人コロニーを形成
 交易の主導的な地位を成した
 粟特(ソグド)国・昭武九姓
 「ソグド」
 「北史」と「隋書」では、
 康国
 安国
 鏺汗国
 米国
 史国
 何国
 烏那遏国
 穆国
 漕国の
 九ヶ国が
 昭武氏を国姓とした
 祖先は
 月氏
ーー
 昭武九姓の国々に居住する国民のほとんどがソグド人
 行政上の必要から漢字名を
 出身都市名を示す漢語が姓として採用
 サマルカンド→康
 ブハラ→安(安禄山など)
 マーイムルグ→米
 キッシュ→史(史思明など)
 クシャーニヤ→何
 カブーダン→曹
 タシケント→石
 パイカンド→畢
 これらを一括してソグド姓と呼び
 羅、穆、翟も
 ソグド姓である・・・らしい・・・
 「武照=昭儀」は「則天武后」だが、
 「徳川 昭武(とくがわ あきたけ)」は、
 水徳川家
 第六代当主、
 水戸藩最後(第十一代)藩主である・・・
 第十五代将軍
 徳川慶喜の異母弟
 生母は側室
 万里小路建房の
 六女
 睦子(ちかこ)
ーー↓
 「ソグド=昭武」が
 中国史書に登場するのは、
 「魏書・西域伝」で
 「粟特国(ソクドクコク)」と記されているらしいが
 「あわトクコク」である・・・阿波・安房・泡・安和
 粟特国は漢代に
 「奄蔡(エンサイ)」と・・・奄美(あまみ)は
               沖縄琉球
            奄(エン)=おおう・たちまち
 呼ばれた地域にあたり、
 康居の西北、大沢(アラル海)沿いに在った
 北魏の時代(386年〜534年)
 粟特国の商人が多く
 涼州
 姑臧にまで来ていた
 この商人がソグド人
 旧康居である
 康国(サマルカンド)をはじめとした国々、
 いわゆる
 昭武九姓においてもソグド人は健在で、
 深目,高鼻,多髯の外見と商業が記されている
 これらの国々はクシャーナ朝,エフタル,突厥と、たびたび遊牧国家の支配を受け、その都度支配者が変遷したが、その間もソグド人は独自の文化を維持し、農業と商業に従事した。
ーー
 玄奘の記録
 中国唐の時代、ソグド人は玄奘
 「大唐西域記」において、
 窣利人として記録
 窣利総記全文
 素葉(スーヤーブ)より
 西に数十の孤城があり、
 城ごとに長を立てている。命令をうけているのではないが、
 みな
 突厥に隷属している。
 素葉城から
 羯霜那国(史国)に至るまで、土地は
 窣利と名付け、人も
 「窣利人」という。
 文字・言語もその名称に随って
 「窣利文字・窣利語」と称している。
 字の成り立ちは簡略で、もと
 二十余文字であるが、
 それが組み合わさって
 語彙ができ、
 その方法が
 次第にひろがって
 文を記している。
 ほぼ記録があり、
 その文を
 竪(縦)に読んでいる。
 そのやり方を
 順次に伝授して、
 師匠も弟子もかえることがない。
 氈や褐を身につけ、
 皮や氎を着ている。
 裳も服もせまく、
 身にぴったりとし、
 頭髪をととのえて
 頭頂を出しているか、
 或いはまったく
 剃り、
 絵彩を額に巻く。
 体つきは大きいが、性格は臆病であり、風俗は軽薄で、詭詐がまかり通っている。おおむね欲張りで、父子ともに利殖をはかっている。財産の多い者を貴とし、身分の優劣の区別が無い。たとえ巨万の富を持った者でも、衣食は粗悪である。
 力田(農民)と
 逐利(商人)が半ばしている。
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 枕草子
 (七三段)・・・七拾参段・七十三段・漆足参段
         7+3=10=十=壱拾=足
         7×3=21=二十一=弐拾壱=弐足壱

 夜烏
 どもの
 ゐて、
 夜中
 ばかりに、
 いね
 騒ぐ。
 落ち
 まどひ、
 木
 伝ひて、
 寝
 起きたる
 声に
 鳴き
 たる
 こそ、
 昼の
 目に
 違ひて
 をかし
 けれ。
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