1425日目・・・オバマ来日・・・緒葉間ですか、小浜(おばま)・・・「瀛(エイ・ヨウ・うみ・おき=沖)」=「氵」+「吂(ボウ)=亡(ボウ・モウ・ナイ)+口」+「月+女+凡」・・・既に、この日記でも、ボクの「HP」や、「ブログ」でも何度も書き込んで問題にした漢字だが、類字の「贏(エイ・ヨウ・あまり)=吂(ボウ)+貝(目ハ)+凡(ボン・あまねし)」は、「史記・天官書」では「早く出るモノ(惑星)は贏」で「客」とある。「晩く出るモノ(惑星)は縮」で「主」とある・・・「客が贏」、「主が縮」・・・訪問客が来て、接待

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 類字は
 「蠃(ラ・かたつむり)=吂(ボウ)+虫(中ム)+凡」
   =「蠃蚌(ラボウ・かたつむり・まいまい)」
   =「蝸牛」
 「贏(エイ・ヨウ・あまり)=吂(ボウ)+貝(目八)+凡」
 「羸(ルイ・つかれる・やせる)=吂(ボウ)+月+羊+凡」
 「臝(ラ・はだか)=吂(ボウ)+果(田木)+凡」
   =「躶・裸」
    「果」=「カ・はたす・はてる」
       =田+木(十八)
 「嬴(エイ・みつる)=吂(ボウ)+月+女+凡」
 である・・・
 氵(水)、虫(中ム)、貝(目ハ)、羊、女、果(田木=囗十十八)
 「羊の女」とは・・・
 サンズイ(みず)
 チュウ(なか)
 シ(よこしま)
 モク(まなこ、め)
 ヨウ(ひつじ)
 ジョ(おんな)
 デン(た)
 イチ(ひとつ・はじめ)
 ジュウハチ(とおあまりはち)
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 天武天皇大海人皇子
     =天「渟」中原「瀛」真人
 在位期間
 673年3月20日〜686年10月1日
 元号 朱鳥(あかみとり)
 先代 弘文天皇
 次代 持統天皇
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 誕生 631年?
 崩御 686年10月1日
 大和国
 陵所 檜隈大内陵
 御名 大海人(おおあま)
 異称 天−渟−中原−瀛−真人
 浄御原天皇
 父親 舒明天皇
 母親 宝皇女(皇極天皇/斉明天皇
 皇后 鸕野讃良皇女(持統天皇
 夫人 藤原氷上の女(娘)
 藤原五百重の女(娘)
 蘇我大蕤娘
 子女
 草壁皇子
 高市皇子
 舎人親王
 皇居
 飛鳥浄御原宮
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 「瀛」
 うみ・大海・大海原
 「瀛海=エイカイ」=大海・大洋
 「瀛表=エイヒョウ」=大海の向こうがわ
 「大瀛=タイエイ」=大海
 「東瀛=トウエイ」=東方の海・東海・日本
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 487年(太和十一年)
 定州
 河間郡
 及び
 高陽郡、
 冀州
 章武郡に
 瀛州が設置
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 「瀛州=エイシュウ」=
  隋王朝は瀛州を設置し
  下部に
  四郡十一県を管轄
  596年(開皇十六年)に
  蒲州、及び
  景州が
  分割設置
  605年(大業元年)
  廃止され管轄県は
  瀛州に統合
  607年(大業三年)
  郡制施行
  瀛州は
  河間郡と改称
  下部に十三県を管轄
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  「瀛洲」
  フエ・皇城(阮朝王宮)の
  和平門の東北隅に位置する庭園
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  「大瀛」
  1759年
 (宝暦九年一月二日)
   〜
  1804年5月4日
  浄土真宗
  安芸(あき・広島県)
  報専坊の
  「慧雲」に師事し、・・・彗星の雲
  京都
  西本願寺学林で真宗学を学ぶ
  新義派の智洞の説を批判する
  古義派を代表
  文化元年
  江戸で
  智洞と対決シ、敗北
  俗姓は森
  名は廓亮
  号は芿園・天城・金剛庵・瑞華
  著作
  「浄土真宗金剛錍」
  「真宗安心十諭」など
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  瀛州(エイジュウ)
  中国の神仙思想に基づく仙人の島
  東方海上にあるという三神山の一
  渤海にあったという伝説上の神山
  蓬萊(ホウライ)
  瀛洲(エイシュウ)
  方丈(ホウジョウ・方壺)の
  三島を指す
  仙人たちが住む
  不老不死の薬がある
  いずれも
  「壺(つぼ)」の形をしているので
  「三壺山(サンコザン)」とも・・・
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 瀛洲
 始皇帝が見た「蜃気楼の島」は
 始皇帝が治所として
 琅邪郡を置き
 ↓ ↓
 ↓ 琅邪(ロウヤ)=琅+邪(よこしま)
 ↓ 中国の古地名
   瑯邪=瑯琊=琅玡
   春秋時代
   越王
   句践(クセン・コウセン)が
   山東省膠南県南西の地に
   黄海渤海)を望む台館を建て
 ↓ 諸侯と会盟
 ↓
 二十八年(前219)
 泰山封禅の後、琅邪台を設け
 秦朝の
 頌徳碑を建て
 (琅邪台刻石)
 「蓬来閣」を築いた
 ↓ 
 前漢も「琅邪郡」を置き
 後漢は臨沂(リンギ)県周辺を
 琅邪国とした
 王氏は琅邪・臨沂の出自
 ↓
 山東省の蓬来沖の
 海原に大きな島が現れる
 渤海の「蜃気楼」
 始皇帝はこの
 「幻の島」を見た・・・実体は「日本」?
 渤海の中には
 三つの神山があり
 遠くから見ると雲のごとく見え
 近ずくと水に没する(史記
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 「後王思想」=在位皇帝の絶対的王権
 「廬生」の「真人説」
 「真人」とは
 「荘子・内篇・大宗師」で
 水で濡れず
 火に焼かれない人物
 「内篇・斉物論」で
 「神」と言い切られた・・・
   神=精→エッセンス(essence)
       本質・要素・精髄・・・?
       越撰主
 の「超人」・・・?
 「廬生」が
 仙人(真人)から
 不老不死の薬を譲り受ければ
 「真人」になれると
 始皇帝に騙しこみ
 始皇帝は、
 一人称を
 「朕」から
 「真人」に変えたが
 「真人」は現れもせず、存在もせず
 粛清を恐れた
 廬生は逃亡
 約460人が拘束
 始皇三十五年(前212年)
 坑儒(儒者の生き埋め)
 焚書と合わせて
 「焚書坑儒
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 大瀛の水(の水精こりて)
 伊達 九郎(改め二荒芳徳) 作詞
 小松 耕輔 作曲
 明治四十一年(1908)
 寮歌募集の当選作・・・多少修正
 学習院寮歌
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 ・・・伊達九郎=二荒芳徳・・・明治四十一年(1908)・・・