2646日目・・・忠臣蔵・・・播州赤穂浪士、吉良屋敷へ討ち入り・・・恨みではない理屈(儒教?)での集団テロ殺人事件・・・「復讐の連鎖」の規制・・・「問題を武力で解決(故戦防戦)しようとしたら双方を処分」・・・観応三年(1352年)九月十八日に室町幕府が定めた「建武式目追加第六十条」・・・「不論理非(理非を論ぜず)」双方喧嘩両成敗?の片手落ち・・・「元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)未明に本所・吉良邸への討ち入り」・・・「nearly(ni(ə)rlē・ニアリー)=似蛙理意」=「Hotondo

 以下も以上も「These are nearly Wikipedia」・・・???
ーーーーー
 It's nearly half past six.
 ほとんど・ほぼ・大体
the person most nearly concerned.
 最も関係の深い人…?…nòt néarly
 We are nearly there.
 目的地までもうすぐダ・・・
 It's about right [finished].
 いいかげん・ちょっと
 I'm about tired of their talk.
  彼の話にいいかげんうんざりだ

 「most(mōst)」=Mottomo
  数・量・程度など
 もっとも多い・最大多数の・最大量の・最高の
 Most→おおよその〜・大抵の〜・大概の〜
 Most of→限定された
     〜のほとんど・〜の大部分・〜の大半
 (米略式)ほとんど
  almostの短縮形で
  時にmostとも書く
    all, always, any, every
  などの語を修飾する
    most everyday
    ほとんど毎日
    most anybody
    ほとんどだれでも
 almost=副・ほとんど、九分どおり、大体
     一種の、匹敵する、いまいち
     もう少しで完全に至る状態
     ɔ́ːlmoust=オールモーストゥ
 almost' の後に続けて
  'all' のような程度を表す形容詞が必要
 Almost all Japanese people

 「ほとんど〜ある」= all,every,always など
 「ほとんど〜ない」= no,none,nothing,never など
 Almost no one knows about it.
 「それについてはほとんど誰も知らない」
 almost(副詞)は名詞と一緒に使えない・・・
ーーーーー
 寇抄
 寇
 あた あだ あだする
 外から侵入して害を加える賊
 外寇・元寇倭寇(わこう)
 外から攻めこむ・あだする
 侵寇・入寇・ 来寇

 三別抄(サンベツショウ)
 高麗王朝の軍事組織
 崔氏政権(武臣政権)において
 林衍(イム・ヨン)ら
 時々の実権を握った者の
 私兵として
 しばしば政敵の暗殺やクーデターの
 ための武力として用いられた
 「別抄」とは、別に組織された「抄」という意味
 「抄」とは没収すること
    反乱を起こした地域へ派遣され
    反乱を鎮圧したのち
    没収した財産を分け与えられる
    臨時の軍組織
    国内の反乱鎮圧などのための
    臨時編成される組織
    侵寇=他国や他の領土に侵入し
       害加えること
 「抄(すくう・すく・ショウ・セウ)」
  長い文章などの一部を書き出すこと
  ぬきがき
 「かすめる(すばやく盗む)」
 「さじですくい取る」
 「うつす(写)」、「書き写す」
 「書き写したもの」
 「長い文章などの一部を書き出す事 

 すくい取る・かすめ取る・抄掠 (ショウリャク) 
 書き写す・手抄
 抜き書きする・抜き書き
 抄出・抄本・抄訳・抄録・詩抄
 注釈書・抄物 (ショウもの) 
 紙をすく・抄紙・抄造
 「鈔」と通用
ーーーーー
 安帝=東アジアの皇帝の諡号の一
 ↓↑
 孝安天皇(日本足彦国押人尊・第六代天皇
 ↓↑   日本足彦国押人天皇
     (やまとたらし
         ひこくにおしひと)『日本書紀
      大倭帯日子国押人命
     (おおやまとたらし
         ひこくにおしひと)『古事記
      孝昭天皇の第二皇子
      母は
      尾張連祖の
      瀛津世襲(奥津余曽)の妹の
      世襲足媛
      同母兄は
      和珥臣祖の
      天足彦国押人命
     (あめたらしひこくにおしひとのみこと
      天押帯日子命)
      在位紀元前392年〜紀元前291年)
                 大彦命…阿部
 ↓↑              ↓↑
 6孝安天皇→7孝霊天皇→8孝元天皇→9開化天皇
            ↓↑
            倭迹迹日百襲姫命
            吉備津彦命
            稚武彦命
           (わかたけひこ)
 ↓↑         ↓↑
 安帝 (漢・劉祜、在位106年〜125年)
    後漢
    第六代皇帝
    諡号 孝安皇帝
    第三代皇帝
    章帝の孫
    父は清河孝王劉慶
    母は側室の左小娥
 ↓↑
 『後漢書
 「和帝紀」・・・倭帝紀・話提起?・・・話綴記?
  ↓↑↓↑
 和帝(ワテイ)
 ↓↑ 後漢
    第四代皇帝
    諱は劉肇
    章帝の・・・第三代皇帝(第二代明帝の子)
    ↓↑    ↓↑    建武四年五月四日
          ↓↑     (28年 6月15日)
    四男    劉炟
          諡号 孝章皇帝
          ↓↑
          建武中元二年(57年)
          〜
          章和二年二月三十日
    ↓↑     (88年4月9日)
    母は梁貴人 ↓↑
    平原
    懐王
    劉勝    ↓↑
    殤帝の・・・殤帝
    父     後漢の第五代皇帝
 ↓↑ ↓↑    後漢の第四代皇帝和帝の
          多くの皇子は夭折
          宦官、外戚による謀殺の
          疑惑を抱いた和帝は
          皇子を民間で養育
          元興元年(105年)十二月
          和帝が崩御
          長子の劉勝は病気で
          即位が見送られ
          劉隆が宮廷に迎えられて
          皇帝に即位
          劉勝は殤帝即位と共に
          平原王に立てられた
          殤帝は生後100日余りであり      
          朝政は外戚
          蠟氏(和帝の皇后だった蠟綏と
             その兄の車騎将軍蠟騭)
          により掌握され
          翌延、平元年(106年)八月辛亥
          病気により崩御
          夭折を意味する
         「殤」を諡号に贈られた・・・
          中国歴代皇帝の最年少の皇帝だった
 ↓↑ ↓↑    ↓↑
    建武中元(ケンブチュウゲン)
    後漢
    光武帝・劉秀の治世
    2番目の元号・56年〜57年
   『後漢書』の光武帝紀では
   「中元」
    祭祀志・東夷伝(倭伝)では
   「建武中元」
   「中元」は「建武中元」の省略・・・
    元年二月
    泰山で封禅の儀
    四月
    建武三十二年を
    建武中元元年と改元
    ↓↑
    建武二年一月
    倭奴国王の使者が来朝
    印綬を授ける
    建武二年二月
    光武帝崩御
    明帝、劉荘が即位
ーー↓↑ーー
 「建(たける)と武(たけし)」
 ・・・日本武尊
 ・・・ α+武天皇
 中国
 元号の考察
 ↓↑
 始元(シゲン)
 前漢元号・昭帝-劉弗陵の初元
 ↓↑
 本始(ホンシ)
 前漢・宣帝・劉詢の最初の元号
 紀元前73年(戊申)〜紀元前70年(辛亥)
 ↓↑
 建昭(ケンショウ)
 前漢元帝・劉奭(リュウセキ)の三番目の元号
 紀元前38年(癸未)〜紀元前34年(丁亥)
 ↓↑
 建始(ケンシ)
 前漢・成帝・劉驁の最初の年号
 紀元前32年(己丑)〜紀元前29年(甲午)
 ↓↑
 建平(ケンペイ)
 前漢哀帝・劉欣の最初の年号
 紀元前6年(乙卯)〜紀元前3年(戊午)
 ↓↑
 始建国(シケンコク)
 新の王莽の最初の元号
 9年(己巳)〜13年(癸酉)
 前年の漢の
 初始元年12月を正月として始められた
 漢字3文字の元号の初出
 ↓↑
 更始(コウシ)・・・更(さら)が始(はじめる)
          ・・・沙羅・讃良=持統天皇
 新王朝末、後漢
 劉玄(更始帝・淮陽王)が建てた元号
     ・・・淮(ワイ)陽(ヨウ)王(オウ)・・・和意・濊
 劉玄の更始朝は統一政権ではないが
 更始の年号は
 『後漢書』などの紀年に使用
 23年(癸未)〜25年(乙酉)
 ↓↑
 建武(ケンブ)・・・兼務の中古得・・・建武中興(1334年)
 後漢光武帝・劉秀の最初の元号
 25年(乙酉)〜56年(丙辰)
 建武三十二年(56年)は
 四月に改元
 建武中元元年・・・兼務の忠言・中間?
 となった
 ↓↑
 建武中元(ケンブチュウゲン)
 後漢光武帝・劉秀の2番目の元号
 56年(丙辰)〜57年(丁巳)
 ↓↑
 建初(ケンショ)
 後漢の章帝・劉炟の最初の元号・・・章帝=ショウテイ=章綴
 76年(丙子)〜84年(甲申)
 ・・・丙(火)の子(鼠)・甲(木)の申(猿)
 建初九年は、八月に改元され
 元和元年となった
 ↓↑
 建光(ケンコウ)
 後漢の安帝・劉祜の4番目の元号
 121年(辛酉)〜122年(壬戌)
 ↓↑
 永建(エイケン)・・・・英検・映研・嬴縣
 後漢の順帝・劉保の最初の元号    ↓↑
 126年(丙寅)〜132年(壬申)    ↓↑
 ↓↑ 桧枝の虎・・・・壬申の乱天武天皇
檜枝・日野江・・壬辰・人身・人神・人臣
    陵所 檜隈大内陵      ↓↑
    諱 大海人(おおあま)  ↓↑
    別称 天渟中原瀛真人天皇・・瀛
        浄御原天皇
 ↓↑ ↓↑  ↓↑
    秦始皇帝
    初代(31代)皇帝(秦王)
    在位 前247年五月丙午〜前210年七月丙寅
              丙午〜 丙寅
    都城 咸陽
    姓   嬴
    諱 政
 ↓↑
 建康(ケンコウ)
 後漢の順帝・劉保の5番目の元号
 144年(甲申)
 ↓↑
 本初(ホンショ)・・・本初=ホンショ=本書・本所・本史和
 後漢の質帝・劉纘の元号・・・質帝=質綴?
 146年(丙戌)
 ↓↑
 建和(ケンワ)
 後漢桓帝・劉志の最初の元号・・・・桓帝桓武天皇
 147年(丁亥)〜149年(己丑)
 ↓↑
 和平(ワヘイ)・・・平安時代の平和?
 後漢桓帝・劉志の2番目の元号
 150年(庚寅)
 ↓↑
 建寧(ケンネイ)
 後漢霊帝・劉宏の最初の元号
    ・・・霊帝=宮殿内で商人のまね
          熹平石経の作成
          売官・宦官       
 168年(戊申)〜172年(壬子)
 建寧五年は五月に改元され
 熹平元年となった
 ↓↑
 建安(ケンアン)・・・懸案・検案?
 後漢献帝・劉協の3番目(永漢を除く)の元号
 196年(丙子)〜220年(庚子)
 建安二十五年は三月に改元され
 延康元年となった
 ↓↑
 蜀漢では
 次の元号
 延康の正統性を認めず
 建安を二十六年(221年・辛丑)まで使った
ーー↓↑ーー
 光武帝25〜57
  ↓
 →明帝57〜75
 →章帝75〜88
 →和帝88〜105
 →殤帝105〜106
 →安帝106〜125
 →少帝懿125
 →順帝125〜144
 →沖帝144〜145
 →質帝145〜146
 →桓帝146〜167
 →霊帝167〜189
 →少帝弁189
 →献帝189〜220
ーー↓↑ーー
 和帝
 幼少時は継母の
 竇太后と・・・竇=穴+賣=穴+𧶠
        (あな・あなぐら・
         くぐり戸・みぞ・トウ)
        通仮字「瀆」
        異体字「窦・𥩐・𤅋・𥥨・𥥷・𤀨」
        簡体字「窦」
 竇憲(トウケン・?〜92年)ら
 竇一族の専横を許していたが
 成長し
 実権を自らの元に取り戻そうと考えたが
 竇憲らは和帝を害そうと画策
 察知した和帝は
 に竇氏誅滅を
 宦官の
 鄭衆・・・鄭の衆
 ↓↑・・・鄭=奠+阝=酋+大+阝=八+酉+大+阝
       =ねんごろ・かさねる・ていねい
        テイ・ジョウ
        奠鄭擲躑磸䥖㞟橂㽀
        酋=丷+酉=八+酉
          おさ・かしら・シュウ
          通仮字「就」
          異体字「醔・篘・𥬠・𥭛・𥮢・𨡲」
          酋+α=「𡞜・緧・遒・猶・趥・揂
             蝤・鰌・猷・輶・楢・𧤕・𪓰」
             ・・・猶太
      衆=血+乑
       =おおい・シュ・シュウ
        簡体字「众」
        異体字「乑・㐺・𠍸・𠱧・𡿻
 ↓↑         眾・𥅫・众」
 を用いて計画
 92年(永元四年)
 竇憲を宮廷内におびき出し
 大将軍の印綬を取り上げ
 実権を剥奪、領地において自殺を命じた
 和帝は政治の実権を取り戻し
 鄭衆は
 鄲郷侯に封じられ
 大長秋の官を授けられた
 和帝はその後も鄭衆を信任
 以後
 宦官が政治に深く関わるようになった・・・
 ↓↑
 和帝が若くして死去
 幼帝の補佐として
 和帝の皇后
 蠟氏の一族が
 外戚として政治の実権を握る
 幼帝が続き
 外戚勢力と宦官勢力との間で
 争った
 西域で
 永元六年(94年)
 50余国が後漢に従う
 西域都護である
 班超個人の力量に拠る
 班超が中央に召喚され
 後漢の西域における影響力は衰えたが
 匈奴の内紛に助けられ有利に進めた
 ↓↑
 班固
 班昭
 兄妹による
 『漢書』の編纂(永元4年(92年)
 班固の死後、班昭が完成
 永元十七年(105年)
 蔡倫による製紙法の改良
 ↓↑
 和帝の
 生母の
 梁貴人
 は宮廷内での争いの中で
 章帝の皇后
 竇氏によって殺され
 建初七年(82年)
 3歳で皇太子
 ↓↑
 章和二年(88年)春二月
 章帝が崩御
 和帝は
 9歳で即位
 3月に
 郡と国の変更
 それぞれの諸王が
 別の封地を与えられた
 ↓↑
 和帝が幼少で
 竇太后が臨朝し
 兄である
 竇憲らと政権を握った
 ↓↑
 冬10月
 侍中であった
 竇憲を車騎将軍に任命
 北匈奴を征伐
 安息国が使者を送ってきた
 ↓↑
 永元元年(89年)夏六月
 竇憲は
 度遼将軍の
 蠟鴻
 や
 南匈奴単于と協力し
 北匈奴
 稽落山で破り
 北匈奴単于を降伏
 9月
 竇憲は大将軍に任命
 中郎将の
 劉尚が後任の車騎将軍となった
 ↓↑
 永元二年(90年)春二月
 西河と上郡の属国都尉の官が再び設置
 夏五月
 諸王の封地が変更
 北匈奴に副校尉の
 閻槃が追討に赴いた
 月氏クシャーナ朝)が
 西域長史の
 班超を攻撃し
 班超は撃退した
 秋七月
 竇憲は涼州に出兵
 九月
 北匈奴が使者を送ってきた
 冬十月
 行中郎将の
 班固が
 南匈奴単于に命令を報じ
 河雲北で
 北匈奴が破られた
 ↓↑
 永元三年(91年)春正月
 和帝は元服
 2月
 竇憲は左校尉の
 耿夔を遣わし
 金微山において
 北匈奴単于を包囲し破り
 単于の母の
 閼氏を捕虜とした
 冬十月
 和帝は長安行幸
 十二月
 西域都護、騎都尉、戊己校尉
 の官職を復活させた
 ↓↑
 永元四年(92年)春正月
 北匈奴で政変
 新たに立った単于が降伏を申し出てきた
 左校尉の
 耿夔が出向き璽綬を受け取った
 三月
 司徒の袁安が死去
 太常の丁鴻が司徒
 夏4月
 竇憲が京師に帰還
 ↓↑
 六月
 日食と地震の災害
 和帝は
 竇憲の一党を排除しようとし
 宦官の鄭衆らと策をめぐらした
 和帝は詔勅を出して
 竇憲に謀反の罪があるとし
 その与党である
 射声校尉の
 郭璜とその子である
 侍中の
 郭挙
 衛尉である
 蠟畳
 とその弟である歩兵校尉の
 蠟磊
 を捕らえ、みな獄死させた
 謁者僕射を使者におくり
 大将軍の印綬を没収し
 竇憲とその弟の
 竇篤、竇景を封国に赴かせ
 そこで自殺させた
 ↓↑
 秋七月
 太尉の
 宋由が
 竇憲に与したとして自殺させられた
 八月
 司空の
 任隗が死去
 大司農の
 尹睦が太尉・録尚書事となった
 冬1十月
 宗正の
 劉方が司空となった
 十二月
 武陵と零陵の
 漊中蛮が反乱
 焼当羌が
 金城に侵攻
 ↓↑
 永元五年(93年)春二月
 太傅の
 蠟彪が死去
 匈奴単于
 於除鞬が叛いた
 中郎将の
 任尚が派遣され討滅
 冬十月
 太尉の尹睦が死去
 十一月
 太僕の張酺が太尉
 武陵郡の蛮族の反乱は
 郡により鎮圧
 護羌校尉の
 貫友が
 焼当羌を討ち追い払った
 南匈奴単于
 反乱、敗れて斬られた
 ↓↑
 永元六年(94年)春正月
 永昌徼外の
 夷が使者を送り
 犀牛、大象を献上
 司徒の丁鴻が死去
 二月
 三河、兗、冀、青州貧民に食糧が貸し与えた
 許陽侯の馬光が自殺
 司空の劉方が司徒
 太常の張奮が司空
 夏四月
 蜀郡徼外の
 羌が使者を送ってきた
 ↓↑
 秋七月
 西域都護の
 班超は
 焉耆、尉犁を破り、その王を斬り
 西域の多くの国を降伏させた
 南匈奴単于が叛いて
 胡亡出塞
 九月
 光禄勲の
 蠟鴻が車騎将軍の代行に任命
 越騎校尉の馮柱
 度遼将軍代行の朱徽
 使
 匈奴中郎将の
 杜崇を送り南匈奴を討たせた
 冬十一月
 護烏桓校尉の
 任尚が
 烏桓鮮卑を率いて
 逢侯を大いに破り
 馮柱は追撃を加えて
 再びこれを破った
 武陵の
 漊中蛮が反乱を起こし
 郡により平定された
 ↓↑
 永元七年(95年)春正月
 蠟鴻、朱徽、杜崇
 らは皆獄に下され死去
 夏四月
 日食
 和帝は天災が続くことを憂え
 公卿を引見して意見を募った
 秋七月には
 易陽で地裂
 九月
 京師で地震
 ↓↑
 永元八年(96年)春二月
 貴人の陰氏を皇后に立てた
 国内災害はやまず、対策に追われた
 南匈奴が反逆
 秋七月
 度遼将軍代行の
 龐奮と
 越騎校尉の
 馮柱が軍を引き
 南匈奴の反乱を鎮めた
 車師後王が叛き、車師前王を攻撃
 九月
 京師で蝗が発生
 広陽郡が再び設置
 冬十月
 北海王の劉威が罪を得て自殺
 十二月
 南宮宣室殿で火災
 ↓↑
 永元九年(97年)春正月
 永昌徼外の蛮夷と撣国が奉貢
 三月
 隴西で地震
 西域長史の
 王林
 車師後王を撃ち、これを斬った
 六月
 蝗と旱
 和帝は詔勅を出して被害の救済を行った
 秋七月
 蝗蟲が京師を飛び過ぎ去った
 八月
 鮮卑
 肥如に侵攻
 遼東太守の
 祭参が獄に下され死去
 閏八月
 皇太后
 竇氏が死去
 章徳皇后とされた
 焼当羌が隴西に侵略し、長吏を殺害し
 征西将軍代行の
 劉尚と
 越騎校尉の
 趙世らがこれを討ち破った
 九月
 司徒の
 劉方が免職となり、自殺
 和帝の生母の
 梁貴人に
 恭懐皇太后が追尊
 冬十月
 恭懐皇太后を西陵に改葬
 十一月
 光禄勲である河南の
 呂蓋が司徒に任命
 十二月
 司空の
 張奮が罷免
 太僕の
 韓稜が司空
 若盧獄の官を再び設置
 ↓↑
 永元十年(98年)春三月
 和帝は政治についての詔勅
 夏五月
 京師において大水
 秋七月
 司空の韓稜が死去
 八月
 太常の泰山の
 巣堪が司空
 九月
 廩犧の官を再び設置
 冬十月
 五州において雨水
 十二月
 焼当羌の
 迷唐らが貢物を送ってきた
 ↓↑
 永元十一年(99年)春二月
 各地の災害対策として
 各地の郡国に使者を送り
 刑罰を緩め、税を免じた
 夏四月
 大赦を行った
 右校尉の官を再び設置
 秋七月
 和帝は再び詔勅を出した
 ↓↑
 永元十二年(100年)春二月
 旄牛徼外の
 白狼
 貗薄夷が内属
 災害対策の詔が再び出た
 3月
 和帝は再び詔勅を出した
 夏四月
 日南で
 象林蛮夷が叛き
 郡の兵士がこれを討ち破った
 閏三月
 敦煌、張掖、五原民の貧者に
 穀を貸し振舞った
 秭帰山が崩れた
 六月
 舞陽で大水
 被災者への救済がなされた
 秋七月
 日食
 9月
 太尉の
 張酺が免職
 大司農の
 張禹が太尉となった
 冬十一月
 西域の
 蒙奇
 兜勒
 の二国が使いを送ってきたため
 その王に
 金印紫綬を与えた
 焼当羌が再び叛いた
 ↓↑
 永元十三年(101年)春正月
 和帝は東観に行った
 二月
 張掖、居延、朔方、日南
 の貧民や孤児や寡婦
 生活困窮者向けの政策が行われた
 秋八月
 詔を出し
 農耕民に穀物を貸し与えた
 北宮盛饌門閣で火災
 護羌校尉の
 周鮪は
 焼当羌を撃破
 荊州で雨水
 九月
 詔を出し荊州での
 被災者向けの政策を表明
 冬十一月
 安息国が使者を送ってきた
 和帝は詔を出し
 幽、并、涼州
 戸口率が減ったことによる
 政策の変更を表明
 鮮卑が右北平に侵略
 漁陽まで及んできた
 漁陽太守がこれを撃破
 司徒の
 呂蓋が罷免
 十二月
 光禄勲の
 魯恭が司徒となった
 巫蛮が叛き、南郡に侵攻
 ↓↑
 永元十四年(102年)春二月
 西海郡の
 旧郡治が修復され
 金城西部都尉が駐在する
 三月
 大赦
 夏四月
 使者を遣わして
 荊州兵を監督させ
 巫蛮を撃たせ降伏させた
 張掖、居延、敦煌、五原、漢陽、会稽
 の流民に穀物を振舞った
 五月
 象林将兵長史の官職を初めて設置
 六月
 皇后の陰氏を廃立
 陰氏の父で
 特進の
 陰綱は自殺
 陰氏が
 巫蠱の術を用いたため(「皇后紀」)
 秋七月
 詔を出し、象林県の更賦を復した
 秋に三州で雨水
 冬十月
 詔を出し
 兗、豫、荊州の水害対策の命令を出した
 貴人の
 蠟氏を皇后に立てた
 司空の巣堪を罷免
 十一月
 大司農の
 徐防が司空
 郡国上計補郎の官職を初めて復した
 ↓↑
 永元十五年(103年)春閏月
 詔を出し、救貧政策を命じた
 二月
 詔を出し
 潁川、汝南、陳留、江夏、梁国、敦煌
 の貧民に
 廩を貸すことにした
 夏四月
 日食
 五月
 南陽で大風
 六月
 詔令を出した
 秋七月
 涿郡故安鉄官の官職を再び設置
 九月
 南に巡狩をし
 清河王の劉慶
 済北王の劉寿
 河間王の劉開
 を並べて従わせ
 官吏にも財貨を振舞った
 秋
 四州で雨水
 冬十月
 章陵に行き
 雲夢に進み
 漢水まで行った
 十一月
 車駕を宮み還し
 周囲の者に財貨を振舞った
 ↓↑
 永元十六年(104年)春正月
 詔を出し
 貧民に田と種を貸し与えるよう命令
 二月
 詔を出し
 兗、豫、徐、冀の四州が
 雨で被害を受け
 その対策を命令
 夏四月
 三府の掾を分けて
 四州に遣わし
 貧民を農耕に従事させるように計らった
 秋七月
 旱
 詔を出し、再び貧民対策を命じた
 司徒の
 魯恭が免職
 光禄勲の
 張酺が司徒
 詔令を出し
 今年の田租、芻稾を半減させることにした
 八月
 司徒の
 張酺が死去
 冬十月
 司空の
 徐防が司徒
 大鴻臚の
 陳寵が司空
 十一月
 和帝は緱氏に行幸
 柏岯山の上り
 百官に布を与えた
 北匈奴が使者を送り貢納
 十二月
 遼東西部都尉の官職を再び置いた
 ↓↑
 元興元年(105年)春正月
 禁中において人材吟味
 高句麗が郡界を侵略
 夏四月
 大赦を出し
 元興に改元
 宗室で罪絶となった者を
 悉く属籍に復させた
 五月
 雍で地裂
 秋九月
 遼東太守の
 耿夔は
 貊人を撃ち、これを破った
 冬十二月
 和帝は
 章徳前殿において死去
 27歳
 皇子の
 劉隆を皇太子として
 即位させ(殤帝)
 蠟氏が皇太后として
 臨朝
 宗室
 后妃
 皇后陰氏 (廃)
 和熹皇后蠟綏
 ↓↑
 安帝 (東晋・司馬徳宗、在位396年〜418年)
 安帝(南朝梁の皇族・蕭歓、子の蕭棟により追尊)
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