2644日目・・・情報宣伝部・広報課・・・「神祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ)=古代の日本の律令制で設けられた、 朝廷の祭祀を司る官庁名。長官は神祇伯(通常、じんぎはく・和訓、かみ(かん)づかさのかみ)。唐名から大常伯(たいじょうはく)、大常卿(たいじょうけい)、大卜令(たいぼく)・祠部尚書(しほうしょうしょ)とも呼ばれた」・・・律令以前の神社組織=中央政府の公報(広報)と地方行政(農業指導=季節の祭政行事=農業行事・人員徴用、徴税)の役所・・・「祭祀神事=農業指導」・・・

 「公地公民」=土地と人民はすべて「天皇国家」の所有
       ≠天皇の私有地・・・?
        私有を認めない
        大化の改新(645年)の際に打ち出され
        以後、日本の「律令制の原則」?
       「罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉
        及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘」
       戸籍・計帳に基づいて
       政府から
       受田資格を得た貴族や人民へ
       田が班給され・・・稲の苗(籾種)も供給・・・
       死亡者の田は政府へ収公
       班給された田は
       課税対象で
       その収穫から
       租が徴収された
 「神祇」とは・・・神=ネ(示)+申・・・さる・シン
          祇=  示 +氏・・・うじ・シ
        「氏」⇔「民」=冖+氏・・・ワ冠の氏
             =刃物で目を
              突き刺し潰(つぶ)された
              奴隷
             =先の鋭いさじの形象
              匙(さじ・シ)と同系
            氏=血統を同じくする集団
            氏=同一の
              先祖から出た
              血縁集団(姓)から
              分れ出た小集団
 「神」は天津神である「天神」を
         ・・・天津⇔隋王朝?・・・
            高天原(たかまがはら・コウテンゲン)
           「高麗
            高句麗」の「辿元(たどるもと)」?
            中国河北省東部の河港都市
 「祇」は国津神である「地祇」を表し
 その名の通り祭祀を司る
 諸国の官社を総轄
 「養老令の職員令」には
 太政官に先んじて筆頭に記載
 太政官よりも上位であり
 相並んで独立した一官で
 諸官の最上位とされた・・・諸官の農工産業の最高行政技官?
 ↓↑
 文書行政では
 太政官よりも下位・・・ではなく、同等
 神祇を祭り
 諸国の
 祝部(ほうりべ、
    神主や禰宜の下の神職
    神戸から選ばれた)
 の名帳(名簿)や神戸の戸籍の管理、
 大嘗祭・鎮魂祭の施行、
 巫(かんなぎ)や亀卜を司った・・・
         農耕、農業の行政技官だろう・・・

ーーーーー
 尾張国(おわりのくに=をはりのくに)
 尾州(びしゅう)
 『倭訓栞』に
 「尾張の國は、・・・・・・尾=尸+毛
              張=弓+長
             ・・・弓巴=弓弝(キュウハ)
             弓の籐頭(矢摺り籐の巻き始め
                  握り部と接している部分)
             と弦との距離
  南智多郡のかた、
  尾の張出たるが如し、・・・「尻尾、尾っぽ」が張り割れる?

 伊勢湾
 中部地方近畿地方
 太平洋(フィリピン海)側の
 境界の南側にある湾
 旧東海道の七里の渡し
 宮宿(愛知県名古屋市熱田区)から
 桑名宿(三重県桑名市)まで
 伊勢湾北部を通る海路
 中世には桑名(十楽の津)
 大湊などの港町が商業、海運の中心地
  一説に
  小墾の義也」
 『古事記傳』には
 「尾張國、名義未思得ず」
 「尾張」の発音が「終わり」と重なり
 大和政権の勢力圏の「端・東端」
 古代の東海道
 伊勢国から
 海路(伊勢湾)経由で
 三河国に伸びていた
 ↓↑
 尾張(おわり)は
 昔は
 「烏波利」・・・烏(ウ)=からす=鴉(ア)・雅=加羅
 と書いた
 「ヲ・ハリ(小針)」で
 「ハリ」は「墾」で土地を開くこと
 「ヲ」は接頭語で、「小」を意味
 「小さい開墾地」の意
 尾張は奈良からの
 移住者由来の地名
 大和国葛城郡に
 高尾張と言う集落があり・・・高の尾を張る⇔鷹の尾を張る
              「後尾・交尾・後備」を張る 
 今の愛知県に移住し
 尾張連(おわりむらじ)と呼ばれ地名にもなった
 尾張=開墾された土地と言う意味?
 ↓↑
 国名は、
 「開墾した土地」という意味の
 「大治」=おはり=「小治」
 大和国の豪族
 尾張氏が移住したことに因むなど・・・複数
 ↓↑
 「袁波里(古事記)」・・・長袖のように靡く波の里?
 「烏波利(日本書紀)」・・「雅・鴉・加羅州」の波の利?
 などと表記
 近世に
 春日井郡「小針(をばり)」村の地名が国名になった
 「万葉集(巻十三)」
 「小治田(おはりだ)之年魚道(あゆち)」
 をこの地方に比定し
 「小墾田(おはりだ)」に由来・・・という説
 年魚市潟=名古屋市熱田区辺りの海岸一帯
 「あゆ」=湧き出る
 「桜田へ鶴鳴き渡る
  年魚市潟(あゆちがた)潮干に
  けらし鶴鳴き渡る」
 「足結(あゆ)道(ち)」=東国へ向かう旅支度の場所
 「足結」=古墳時代の男性の服装の一部で
      動き易い様に
      はかまの膝の下の辺りを結ぶ紐
 ↓↑
 尾張氏
 素戔男尊スサノオノミコト)が
    ・・・素戔嗚・建速須佐之男命・須佐乃袁尊
       神須佐能袁命・須佐能乎命・素盞嗚
 ↓↑
 八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し
 尾を割って出現した
 草薙剣を管理していた一族・・・
 「尾を割る」
 ↓↑
 天之尾羽張の剣
 祅=亻+光
  =おおきい・さかん・かがやく・てらす・コウ
 ?=亻+牟
   ひとしい・そろう
   したがう・つとめる
   とる・はかる
   ボウ・厶
   通仮字「貿・牟」
   異体字「𠉖・件・牟・蟊」
 ↓↑
 東海道五十三次
 海路は
 宮宿〜桑名宿・・・七里の渡し
 の間
 ↓↑
 尾張氏の遠祖
 天香語山命・天牟良雲命・天背男命
 などは
 饒速日尊の東遷(185年頃)に従って
 筑紫から大和にやってきた・・・?
  尾張氏
 大和での本拠地は
 高尾張
 奈良県西部である
 葛城市の
 高台(葛城山の麓)
 ・・・高台=高い建物・たかどの
    茶碗・鉢・椀などの底にある輪状の基台
    二(代)二人称
    手紙などで相手を敬っていう語
    あなたさま・貴台
 ↓↑
 天火明命の後裔
 崇神朝頃までは
 大和国
 葛城郡
 高尾張邑が本拠地
 ↓↑
 高尾張侍 (高終侍)
 「タカオハリ(高終)を治める物部」
 熱田神宮の大宮司
 尾張氏で火明命の後裔
 大和国葛城郡高尾張邑に起こった
 14世孫乎止与命
 尾張国造として
 熱田大宮司職を世襲・・・
 後に
 藤原南家
 巨勢麿後胤の
 季兼が系嗣
 ↓↑
 『旧事』
 葛木彦命(カツラギヒコ)
 尾張連等の先祖・天忍男命の子
 池心朝=孝昭天皇の御世に大連
 天忍男命は
 葛木の
 剣根命の娘の
 賀奈良知姫(かならちひめ)を妻とし
 二男一女を生む
 尾張連の祖の
 瀛津世襲命 (葛木彦命)
 建額赤命 (タケヌカアカノミコト)
 世襲足姫命
 ↓↑
 『書紀』
 高尾張邑(たかおわりのむら)にいた土蜘蛛
 「高尾張」の邑の名を変えて「葛城」とした・・・
 ↓↑
 7世紀後半の木簡で
 尾張国
 と
 尾治国
 の二つの表記
 平安時代に作られた
 『先代旧事本紀天孫本紀)』の
 尾張氏の系譜にも
 「尾治」とある
 大宝四年(704年)に
 国印・・・令制国支配の象徴として神秘化
 ↓↑   各地の印鎰神社の神体
      印鑰=インヤク=印鎰
      印判・印判と鍵(かぎ)
      官府の長官の印と
      諸司・城門・蔵などの鍵
      天台座主の職印と延暦寺宝蔵の鍵
      僧綱(そうごう)の職印と僧綱所の鍵
       ↓↑
     「鑰・鎰」は錠の意
      鎰=金+益
        かぎ・イツ
      異体字「镒・洫・益・賹」
      金貨の重さの単位・二〇両・二四両・三〇両
      かぎ(鍵)
      鎰取(かぎとり)・鎰役(かぎヤク)
      主鑰=主鎰=律令制
      中務省の内蔵寮(くらりょう)、蔵省の職員で
      物品の出納をつかさどった役人
      典鑰 (てんやく)=神社の扉の鍵を預かり
               祭りをつかさどる家筋
     「鍵(かぎ・キー=Key・じざいかぎ)」は
     「錠前(ロック、鍵穴、Lock)」
      を解錠する(操作する)器具
 ↓↑    ↓↑
      印と蔵・門の鍵
      国府は中世には廃絶した国庁に
      付属した「惣社」や「印鎰社」は
      いくつかの国で今も存続
      国庁機能が失われた
      平安末期〜鎌倉初期には
      国庁のシンボルとしての
      印鎰を
      国庁跡地に設けた
      社祠に祭った
     「印鎰(インヤク・インニャク)」は
     「国守の権限である国印を納めた
      唐櫃を開閉するための鎰(かぎ)」
      新旧国守間での「鎰の授受」は
      国守交代の儀式
      国守
      引継ぎには
      引継書類、備品、官舎
      国印、倉印、文印
      駅鈴、鉤匙(かぎの形のかぎ)
 ↓↑   ↓↑
      印匙駅鈴=国印
           印鎰(インヤク・インニャク)
           匙(ひ・さじ・かぎ)・・・氏
           駅鈴(エキレイ)
 ↓↑   ↓↑
 が鋳造されたときに
 尾張と定められた
 ↓↑   ↓↑
 明治四年十一月・・・尾張
           名古屋県
           三河尾張知多郡
           額田県になる
 ↓↑
 名子屋
 平安時代
 荘園を土地の所有者に代わって
 耕す農民が暮らす家屋
 「名=名主」の「子」
 荘園領主に従属する者の家
 平安時代末期の荘園名
 「那古野荘」
 「那古野荘」の農民の家屋=「名子屋」
 「なごやかな(和やか)」土地
 ↓↑
 霧の多い原野
 霧=なご
   海から発生する霧の事
   霧(なご)の原野
 ↓↑
 根古屋
 山城の根(麓・ふもと)の小屋
 「根小屋(ねこや)」が・・・ねこや=猫家?
 「根古屋」
 「なごや」
 ↓↑
 魚子
 漁師を意味する「魚子(なご)」の屋
 ↓↑
 波越
 大波が越えた土地
 波(な)越(ご)え=津波
 なごや
 ↓↑
 名古屋市中区大須
 「那古野山古墳(五世紀頃)」
 「浪越山」と呼ばれていた
 津波大須
 那古野山古墳を超え
 「浪越山」と呼んだ
ーーーーー
 濊貊(ワイハク・カイハク)
 濊貊・沃沮・高句麗・夫余
 の四種族の祖
 韓国江原道にいた
 「東濊(濊貊)」は
 前漢代の中国東北部にいた
 濊の後裔
 濊貊系
 沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東濊
 貊と同音または近似音の
 貉・北發・白民
 など
 夫余の出自が濊
 貊を高句麗の別名、別種と記す
 晋の孔晁は
 高句麗
 高夷の子孫
 『後漢書』は
 濊・沃沮・高句麗
 元々
 衛氏朝鮮の地に居たと記す・・・
(by Wikipedia)
ーーーーー
 東沃沮
 在
 高句驪
 蓋馬大山之東
 東濱大海
 北與
 挹婁、夫餘、
 南與
 濊貊・・・濊と貊
 接。
 其地
 東西夾、南北長、
 可折
 方千里。
 土肥美、
 背山、向海、
 宜五穀、
 善田種、
 有
 邑落長帥。
 人性質
 直彊勇、
 便持矛歩戰。
 言語、食飲、居處、衣服
 有似
 句驪。
 其葬、作大木槨、長十餘丈、開一頭為戸、
 新死者先假埋之、令皮肉盡、乃取骨置槨中。
 家人皆共一槨、刻木如(主)〔生〕、
 隨死者
 為數焉。
 ↓↑
 武帝
 滅
 朝鮮、
 以
 沃沮地
 為
 玄菟郡
 後為
 夷貊所侵、
 徙郡於
 高句驪西北、
 更以
 沃沮為縣、
 屬
 樂浪東部都尉。
 至
 光武
 罷都尉官、
 後皆以封其
 渠帥、
 為
 沃沮侯。
 其土迫小、
 介於
 大國之輭、
 遂臣屬
 句驪。
 句驪
 復置其中
 大人(遂)為使者、
 以相監領、
 (貴)〔責〕其租税、貂布魚鹽、
 海中食物、
 發美女
 為
 婢妾焉。
 ↓↑
 又有
 北沃沮、
 一名置
 溝婁、
 去
 南沃沮
 八百餘里。
 其俗皆與南同。
 界南
 接
 挹婁。
 挹婁人
 ●乘船
 寇抄、
 北沃沮
 畏之、
 毎夏
 輒臧
 於
 巖穴、
 至冬
 船道不通、
 乃下居
 邑落。
 其耆老言、
 嘗於海中
 得
 一布衣、
 其形
 如
 中人衣、
 而兩袖長三丈。
 又於
 岸際
 見
 一人乘
 破船、
 頂中
 復有面、
 與語不通、
 不食而死。
 又説
 海中
 有
 女國、無男人。
 或傳
 其國
 有神井、
 闚之輒生子云。
ーーーーー
 ・・・???・・・
 浜田藩(はまだはん)
 石見国浜田(島根県浜田市
 周辺を領有した藩
 藩庁は浜田城に置かれた
 ↓↑
 石見国
 中国地方の大半を領有していた
 毛利家の所領
 慶長五年(1600年)
 関ヶ原の戦いに敗北
 周防国
 長門国
 の2国に減封
 後
 石見は徳川氏の直轄領
 津和野藩に
 坂崎直盛が入ると
 坂崎家の管理下に置かれた
 ↓↑
 元和五年(1619年)二月十三日
 伊勢松坂藩より
 古田重治が
 石見国の1部
 5万4000石を与えられて入封
 浜田藩が立藩
 藩庁の置かれた浜田城
 吉川家なども陣屋を置かれとされる
 鴨山で
 古田家が新たに築城
 築城の際
 鴨山は
 亀山に改名
 城の別称は亀山城
 ↓↑
 慶安元年(1648年)
 第2代藩主
 古田重恒は
 重臣を斬殺し
 お家騒動(古田騒動)を起こし
 嗣子が無く改易
 後、
 浅野長治
 と
 亀井茲政
 が浜田藩を管理
 ↓↑
 慶安二年(1649年)八月十二日
 播磨山崎藩より
 松平(松井)康映が5万石で入封
 後、5代にわたって在封
 第五代藩主
 松平康福時代の
 宝暦九年(1759年)一月十五日
 下総古河藩に転封
 ↓↑
 代わって同地より
 徳川四天王
 本多忠勝嫡流
 本多忠敞が5万石で入封
 本多一族の
 本多忠央が前年に
 郡上騒動による連座で改易
 本家もそれに連座する形で
 左遷されたもの
 第三代藩主
 本多忠粛時代の
 明和六年(1769年)十一月十八日
 三河岡崎藩へ移封
 ↓↑
 代わって
 古河藩から岡崎藩に転封されていた
 松平(松井)康福が
 再度5万5400石で再封
 康福は老中としての精勤を賞され
 1万石の加増を受けた
 ↓↑
 第三代藩主
 康任時代の
 天保七年(1836年)
 鬱陵島を仲介所とする
 李氏朝鮮
 清国
 との密貿易が
 間宮林蔵密偵により発覚
 康任は老中を罷免され蟄居
 (竹島事件)
 竹島事件
 石見浜田の
 廻船問屋
 会津
 八右衛門が
 竹島鬱陵島)に密航した事件
 幕府に探知され、1836年死刑
 ↓↑
 康任は失脚し
 強制隠居処分
 第四代藩主
 康爵は
 天保七年(1836年)三月十二日
 陸奥
 棚倉藩へ
 懲罰転封

 上野国
 館林藩より
 第六代将軍
 徳川家宣の弟
 清武を祖とする
 越智松平家
 松平斉厚が6万1000石で入封
 第十五代将軍
 徳川慶喜実弟
 水戸徳川家から養子に入った
 第四代藩主
 武聰は
 慶応二年(1866年)
 第二次長州征伐のとき
 浜田口を担当し
 長州藩側の
 大村益次郎が指揮する軍に撃破された
 浜田の街に
 長州軍が入ったときに
 武聰は戦わずして
 浜田城を放棄して松江城に逃亡
 武聰は
 美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ
 鶴田藩を興して明治維新を迎えた
 浜田の街は焼き払われ
 浜田城も灰燼に帰し
 浜田は長州藩が占領
 明治二年(1869年)
 版籍奉還により
 隣接して
 同じく
 長州藩の占領下にあった
 旧幕府領
 石見銀山領とともに
 大森県となり
 明治四年(1871年
 県庁が浜田へ移転され
 浜田県となった後
 島根県編入
ーーーーー
 ・・・???