2642日目・・・徐福が向かった地・・・

ーーーーー
 郢書燕説
 郢書燕説(韓非子外儲説左上)
 郢の人が
 燕の大臣へあてた手紙の誤った部分を
 燕の大臣がいいように解釈し実行し
 国が良く治まったという故事
 郢の人が
 燕の大臣に手紙を書いたとき
 周りが暗かったので
 「燭を挙げよ(挙燭)」
 と言うと、その言葉を
 書記がそのまま手紙に書いて送った
 燕の大臣は
 「賢人(燭)を重用(挙)せよ」
 と解釈し実行した
 ↓↑
 「鶏肋=大して役に立たないが
     捨てるには惜しいもの」
 「鶏肋」・・・鶏=鷄=雞
        家鶏(カケイ)・錦鶏(キンケイ)・ 軍鶏(グンケイ)
        群鶏(グンケイ)・闘鶏(トウケイ)・野鶏(ヤケイ)
        養鶏(ヨウケイ)
 「後漢書(楊修伝)」
 鶏(雞)のあばら骨には食べるほどの肉はないが
 捨てるには惜しい
 たいして役に立たないが、捨てるには惜しい
 鶏肋=ニワトリ(鶏・雞)の肋(あばら)骨
 ↓↑
 持久戦の
 劉備軍に
 曹操軍が苦戦を強いられ
 曹操・・・曹(つかさ・役人・役所の部局
 ↓↑     部屋を意味する
        ↓↑
        李氏朝鮮における六曹
        法曹
        司法権が付帯
        長官は判書
        以下
        参判、参議、正郎、佐郎
        吏曹 - 官制と人事担当
        戸曹 - 財政担当
        礼曹 - 王室業務・儀礼担当
        兵曹 - 軍事担当
        刑曹 - 刑事担当
        工曹 - 公共事業その他の社会事業担当
 ↓↑     ↓↑
 ↓↑     軍隊などの階級の一
        曹長・軍曹・兵曹・陸曹
        なかま・ともが・へや・つぼね
        曹司・我曹・爾曹・曹達=ソーダ重曹
 ↓↑   操(あやつる)
 が食事中無意識に発した
 「鶏肋」を伝令が触れ回り
 誰もその意味を理解できなかったが
 側近の
 楊修は・・・楊=十+八+昜(日一勿)・・・昜≠易
 ↓↑      やなぎ・ヨウ
         かわやなぎ・楊弓・楊柳
         黄楊(つげ・コウヨウ)
            つげ=柘植・都祁・柘
         水楊(スイヨウ)・垂楊(スイヨウ)・白楊(ハクヨウ)
 ↓↑    昜=日+一+勿
         あがる・ひらく・ヨウ
         異体字「暘・陽」
         日がのぼる・揚
         明るい・日なた・日があたる・あたたかい
         陽・ひら(開)く・とびあがる
 ↓↑    易=日+勿
         やすい・かえる・エキ
         とりかえる
         改易・交易・不易
         うらない
         易学・易占・易断
         儒教の経典・五経の一
         やさしい・やすい・てがる・やすらか
         易易・簡易・容易
         あなどる・慢易
       修=イ+礀+攵+彡
おさむ・おさめる・シュウ
 ↓↑      修得・修業・修学・修辞
 撤退の準備をさせた
 理由を
 夏侯惇
 問われた
 楊修は
 「鶏肋(鶏のあばら骨)は、
 ↓↑ ・・・肋骨(ロッコツ・Rib)
    胸腔を囲む、細長くて湾曲した骨
    骨は12本ずつが一対になっていて24本
    心臓や肺臓を保護する胸郭を形造
    肋骨が痛い時、肋骨の病気、内蔵の病気
    肋間神経痛・肋軟骨炎
    咳、くしゃみ(嚔・sneeze)で
   「肋骨骨折・肋骨罅(ひび)」
    気胸
    気管支炎・肺炎・肺塞栓症
    狭心症心筋梗塞・・・
 ↓↑ 肋骨の骨髄では造血
  鶏肋
  捨てるには惜しいが、
  食べても腹の足しになる
  肉(にく・ジク)はついてない
 ↓↑  
  進むに勝つあたわず
  退くに人の笑うを恐れるが
  曹操
  心中は
  漢中郡は惜しいが
  撤退するつもりだろう」
 と説明
 撤退準備に
 オドロいた
 曹操
 楊修を
 軍規を乱したとして処刑し
 戦争を継続し、結果、敗北
 殺してしまった
 楊修の才能、機転を惜しんだ・・・
 ↓↑
 楊修は
 曹操の言動から
 彼の真意を見抜き・・・「読心・揣摩(シマ)」
 曹操はその機転の才を危険視していた・・・?
 加えて
 楊修が
 曹操の後継者として世子の
 曹丕でなく
 庶子曹植を支持し
 曹操の不興を買っていた・・・
 ↓↑
 「鶏肋」・・・阿毎王朝の「阿輩雞彌」
 「にわとり(雞・鶏)」を助ける・・・
  庭鳥・丹羽鳥・二羽鳥・・・二話取(採り)
 ↓↑
 「開皇二十(600)年」
 「俀王-姓-阿毎・字-多利思北孤・號-阿輩雞彌」
  天子の
  姓は阿毎・・・アマイ・アバイ・アブ・アベ
         海人意・阿波意・阿武・阿部・阿閉・海部・海女
  名は多利思北孤・・・内裏(ダイリ・宮中)仕置拠?
  妻の名前は「雞(鶏)彌」・・・景見?・・・
 ↓↑
 雞=にわとり・ケイ=鶏
 『通典(801年)』
 隋文帝開皇二十年
 倭王
 姓
 阿毎
 名自
 多利思北孤(タリシホクコ)・・・北=比?
       足 鹽 公子
 其國號
 阿輩雞彌(オホキミ・アハケイミ)
           あわけいみ=阿訳 意味
           阿波化意味 鴉葉化意味)
 華言(中国語)
 天兒也(天子=王)、
 遣使詣闕。
 (通典 第一百八十五 邊防第一 倭)
 ↓↑
 『隋書』
 「倭王、小徳-阿輩台(アハイダイ)を遣わし」
 「阿輩台=アワと・阿波都・阿波門・阿倭徒・阿波門=鳴門?」
 「大礼・哥多(カタ)」
 ↓↑
 『新唐書
 用明天皇=多利思比孤・・・?
   ・・・用明=燭(燈)を挙げよ(挙燭)
         郢書燕説
         和洋折衷・和漢洋折衷
         用和折衷・・・用韓折衷・・・?
         和魂漢才(わこんかんさい)
         和魂洋才(わこんようさい)
        中国は「中体西用」
        ・・・「体」は本体、「用」は枝葉
            要務運動・自強運動
            日清戦争敗北・変法自強運動
        朝鮮は「東道西器」
ーーーーー
 南北朝時代
 北魏華北を統一した
 439年から始まり
 隋が中国を再び統一する
 589年まで
 中国の南北に
 王朝が並立
 ↓↑
 華南=南朝
 宋、斉、梁、陳
 の4つの王朝が興亡
 建康(建業)に都をおいた
    ・・・建業・・・犍旔腱楗蜨縨鞬健・・・
            鍵(かぎ・ケン)=金+建
 三国時代
 呉、東晋
 と南朝の4つの王朝をあわせて
 六朝
 六朝時代
 江南(長江以南)の開発
 隋や唐
 江南は
 中国全体の経済基盤となった
 南朝
 政治的に混乱したが
 文学や仏教が隆盛し
 六朝文化
 陶淵明王羲之などが活躍
 ↓↑
 華北
 鮮卑-拓跋部の
 北魏・・・前身は「代国」
 ↓↑   315年〜376年まで
      八主、およそ61年続いた
      前秦
      苻堅により一旦は滅ぼされる
      苻堅が淝水で大敗し
      再興され
      439年
      第3代
      太武帝の下で華北を統一した
      太武帝が暗殺
      混乱を収めたのが
      文明皇后(馮太后
 ↓↑   ↓↑
      文明皇后
      第5代
      献文帝の乳母
      466年
      政権を握っていた
      乙渾を排除し
      献文帝を擁して
      垂簾政治
      献文帝に長男の
      宏(孝文帝)が生まれ
      表舞台から引き下がるが
      孝文帝の生母を殺し
      献文帝と対立
      献文帝を廃位し
      孝文帝を擁立
 ↓↑   ↓↑
      外戚対策として
      新帝の即位後に
      その生母を殺すことが通例
 ↓↑   ↓↑
      文明皇太后
      引き続き垂簾政治
      班禄制・三長制・均田制
      などの諸制度を実行
      中央集権化・漢化を推し進めた
 ↓↑   ↓↑
      490年
      文明皇太后が死去
      孝文帝の親政
      文明皇太后の方針を受け継いだ
      493年
      首都を
      平城(山西省大同)から
      洛陽に遷都
      家臣たちの
      鮮卑の氏を全て中国風に改め
      皇室の
      拓跋氏を
      元氏とし
      九品を部分的に取り入れ
      南朝を模倣した
 ↓↑   北朝貴族制度を形成
 が
 五胡十六国時代の戦乱を収め
 北方遊牧民の部族制を解体し
 貴族制に基づく中国的国家を形成
 「六鎮の乱」を経
 534年
 東魏西魏に分裂
 東魏は550年に
 西魏は556年に
 北斉北周に取って代わられた
 ↓↑
 577年
 北周北斉を滅ぼし
 華北を統一
 ↓↑
 581年
 隋の
 楊堅
 北周の譲りを受けて帝位
 589年
 隋は
 南朝
 陳を滅ぼし中国を統一
 北魏東魏西魏北斉北周
 の五王朝を北朝
 李延寿の『北史』
 隋を北朝に列している
ーー↓↑↓↑ーー 
 遣隋使
 倭国(俀國)が
 隋に派遣した朝貢使
 600年(推古八年)
 〜
 618年(推古二十六年)
 18年間に5回以上派遣
 ↓↑
 『隋書』
 竹斯國・・・筑紫
 秦王國・・・秦王
 の国名が記録
 「都於-邪靡堆」・・・靡=なびく・堆⇔碓⇔小碓命
 都は
 「邪靡堆⇔邪馬台」
 ↓↑   ・・・邪=牙+阝
         =ジャ・シャ・ヤ
          よこしま=ム
          正しくない・私欲・いつわり
          琅邪山=山東省東南部の山名
              琅琊山=瑯邪山
          琅邪郡=琅琊郡=瑯邪郡
          新の王莽の時
          填夷郡(チンイグン)と改称
          後漢建国
          琅邪郡の称にもどされた
 ↓↑       41年(建武十七年)
          光武帝の子
          劉京が琅邪王に封じられ
          琅邪郡は琅邪国に改められた
          北魏
          琅邪郡は北徐州に属
          北周
          北徐州は沂州と改められ
          琅邪郡は沂州に属
          583年(開皇三年)
          隋が郡制を廃し
          琅邪郡は沂州と改められた
          607年(大業三年)
          州が廃止されて郡が置かれ
          沂州は琅邪郡と改称
          621年(武徳四年)
          徐円朗が唐に滅ぼされ
          琅邪郡は唐の沂州となった
          742年(天宝元年)
          沂州は琅邪郡と改称
          758年(乾元元年)
          琅邪郡は沂州と改称
          以後、琅邪郡の呼称は消滅・・・?
     ・・・台=ム+口=臺=吉+冖+一+ム+十+一
        異体字「臺・䑓」・・・「檯・枱」
 ↓↑         臺⇔壱=壹
 ↓↑
 「明年
  上遣
  文林郎
  裴清
  使
  於
  俀國
  度-百濟
  行至-竹嶋
  南望-耼羅國
  經-都斯麻國
  迥在大海中
  又東至-一支國
  又 至-竹斯國
  又東至-秦王國・・・秦王國
  其人
  同
  於
  華夏
  以
  爲夷州
  疑不能明也
   隋書 列傳第四十六 東夷 俀國」
 ↓↑
 「明年 上遣文林郎裴世清使俀國
  度百濟 行至竹島 南望耽羅國 經都斯麻國
  迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國
  又東至-秦王國
  其人同於華夏
  以爲夷洲 疑不能明也
   北史 巻94 列傳第82」
ーー↓↑↓↑ーー
 新羅本紀第一巻
 脱解王
 四代目の王に即く・・・
 脱解
 倭国の東北千里にある
 多婆那国の生まれ・・・脱解=倭国の多婆那国の人
                  丹波那?
 ↓↑
 三国史記
 列島から
 脱解という賢者が
 4代目の
 新羅の王になり
 倭人を大臣に任命
 大臣になったのは
 瓢箪を・・・瓢箪の形象=「呂・𠂤・㠯・阝」?
       瓢=票+瓜  「8・∞・Β・β」?
 着けて
 海を渡ってきた
 瓠公・・・瓠=夸+瓜=大+亏+瓜=瓢
 ↓↑         大+一+丂+瓜=壺
      異体字「𤬄・狐・瓡・𤬗・葫・𤫸」
           きつね?  にんにく?
      ひさご・ふくべ・ひょうたんなどの総称
      ウリ科の一年草
 ↓↑   夸=ほこる・おごる・カ・コ
大+亏
        通仮字「侉」
        繁体字「誇」
        異体字「𡗢・𡗴・𡗸・𡘆・䠸
            姱・荂・跨・誇
        誇る・粗大な・言葉の訛り
        咵・潰(つい)える・姱=美しい
        恗(コ)=怯える
 ↓↑   亏=まがる・ウ
        一+丂
        繁体字「虧=雐+亏=雐+亐
              かける・キ」
            欠け落ちる
            虧損・盈虧(エイキ)
            傾虧(ケイキ)・ 頽虧(タイキ)
            虧盈(キエイ)
            雐=虍+隹
 ↓↑     異体字「于」
 倭人
 新羅王朝を築いた・・・
ーー↓↑↓↑ーー
 唐→晋→絳
 唐=から・もろこし・トウ
   中国王朝名
   中国の古い呼び名・外国
   唐人・毛唐
   にわかに・出しぬけに・唐突
   ほら
 ↓↑
 晋=亚+日=晉=一+厶+厶+一+日・・・晋
   異体字「晉・𣇩・晉・㬐・㬜
       𡥨・𣈆・𣋤・𣋧・𣌇・𦗎」
   抑える・進む・(搢と通じて)差し挟む
   advance
   篆文は「至+至+日」
   旧字の晉→晋≠普
     ・・「普=並+日=あまねし・フ・ホ」
         日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)
         日並皇子(ひなみしのみこ・万葉集
         日並知 (ひなめしの) 皇子
         諡号
         岡宮御宇天皇
        (おかのみやに
         あめのした
         しろしめししすめらみこと・
         おかのみやぎょうてんのう)
         岡宮天皇、長岡天皇
         岡寺
         奈良県高市郡明日香村
         龍蓋寺(りゅうがいじ)
        「岡寺」は地名
        「龍蓋寺」は
         龍蓋池に封じた龍に由来
         草壁皇子の住んだ
         岡宮の跡に義淵僧正が創建
         山号 東光山
         宗派 真言宗豊山派
         本尊 如意輪観音
         創建 7世紀末頃
         開基 義淵
         札所 西国三十三所第7番
        =草壁皇子=普(あまねし=海人子)
        =大海人皇子の子
        =妃は阿閇皇女(元明天皇
   「易に曰く、明、地上に出づるは㬜なり」
   晋(紀元前11世紀〜紀元前376年)
   春秋時代の国名
   三国時代南北朝時代の間の王朝名
   三晋・西晋東晋
   名のり「あき・くに・ゆき」
   春秋時代に栄えた後
   趙・韓・魏の三国に分かれる
   司馬炎が建てた王朝の名
 ↓↑ ↓↑
   晋
   霊公(?〜紀元前607年9月27日
   春秋時代の晋の君主
   在位
   紀元前620年〜紀元前607年)
   姓は姫
   諱は夷皋・・・夷=東夷・蝦夷
          皋=白+夲=皐
          通仮字「睪・皐」
          異体字「皐・咎・𣽎
              睾・臯・𦤗・鼛」
            さつき・さわ・コウ(カウ)
            皐・皐月=五月(さつき)
   襄公の子
 ↓↑
 唐=广+⺕+口
   トウ(タウ)・から・もろこし
   唐詩・盛唐・入唐 ・晩唐・李唐
   遣唐使・唐音・唐人・唐土・唐本
   でたらめ・荒唐無稽
 ↓↑
 絳=糹+夅=糸+夅
   あか・あかい・コウ
   深紅色・絳裙(コウクン)・絳帳
 ↓↑
 郤 缺(ゲキ ケツ・?〜紀元前597年)
 趙武
 諡号「献文」諡され
    趙文子と呼ばれる
 ↓↑
 韓国
 戦国七雄の一国
 (紀元前403年〜紀元前230年)
 春秋時代
 晋の公族
 穆侯の子
 桓叔の庶子
 韓万(韓武子)が
 韓原の地(陝西省韓城市)に
 封じられた
 姫姓を姓とする
 韓武子の一族が
 韓氏を称し、この領地名に因んだ
 これ以前にも同名の
 「韓」という国があり
 (周王朝系の韓)
 韓原を地盤としていた
 ↓↑
 晋の
 韓武子が
 韓原に封じられ
 晋の六卿の一つとなり
 前453年
 趙、魏と晋を3分
 紀元前375年
 鄭を滅ぼした
 戦国時代
 韓は七雄の中では最弱
 西の秦からの侵攻に怯えていた
 ↓↑
 国姓   姫姓韓氏
 爵位   侯爵
 国都   固安・韓原
 分封者  武王
 始祖   韓侯
 存在時期 前1122年?〜前756年
 滅亡原因 晋により滅亡
 韓祖   周の武王の子で成王の弟
      韓叔
      殷周革命の際に
      固安(河北省廊坊市固安県)
      に封じられた
 兄の成王の代に
 韓原(陝西省韓城市〜山西省河津市の境目)
 に移封
 ↓↑
 晋の公室の分家である曲沃の
 桓叔の庶子
 韓万(韓武子)がおり
 この者に食邑として与えられた
 これが戦国の韓の起源
ーー↓↑↓↑ーー
 呂氏春秋
 中国の戦国時代末期
 秦の呂不韋食客を集めて
 共同編纂させた書物
 呂覧(リョラン)とも
 秦の始皇八年(紀元前239年)に完成
 天文暦学、音楽理論、農学理論
 など自然科学的な論説が多く
 自然科学史において重要な書物
 ↓↑
 呂不韋
 賓客を延き集め
 各々聞く所によりて
 「月令」を選し
 円道を明らかにし、人事を証す
 天地・陰陽・四時・日月・星辰・五行・礼儀
 の類を載せ
 名づけて
 「春秋」という
 ↓↑
 呂不韋=韓の大商人、「呂不韋(りょふい)」
 ↓↑
 大韓帝国(テハンジェグク)
 1897年〜1910年まで
 李氏朝鮮の使用国号
 ↓↑
 周王室
 武王より三十七世八六七年に滅亡
 (前256)
 ↓↑
 秦
 昭襄王死後
 子楚の父
 孝文王が即位
 子楚が太子となった
 趙国は
 子楚の妻子を
 鄭重に送りとどけてきた
 孝文王は一年にして死去し
 子楚=荘襄王が位につく(前250)
 呂不韋を丞相(宰相)に任じ
 文信候に封じ
 洛陽の十万戸をあたえた
 前249年
 魯が
 楚にほろぼされた
 魯
 周公より三十四代、八五〇年
 ↓↑
 荘襄王
 在位三年にして死去(前247)
 十三歳
 太子の
 政=秦王が即位
 政治は母の
 太后荘襄王の后)
 と
 呂不韋
 が執政
 呂不韋は相国(宰相)
 仲父(チュウホ=父親に準ずる待遇)とよんだ
 太后
 むかしの
 呂不韋の愛人
 呂不韋の執政時代
 韓、魏、趙は領土の一角を奪い
 秦の領土の東端は
 斉国と接した
 各地から食客を招き三千人
 食客たちに、それぞれ見聞を述べさせ
 それを編集して
 二十余万字にのぼる
 書物
 『呂氏(リョシ)春秋』と名づけた
 (前239)
 咸陽(カンヨウ)の
 市場の門前に展示し
 賞金をかけて内容を批判させた
 「一字でも増減できる者があれば
  千金をあたえよう」と
 これが
 「一字千金」の由来
 呂不韋太后の関係が噂になり
 別の男を太后に推挙し太后の気をひかせ
 男に宮刑をほどこしたことにし
 宦官に仕立て太后の側近に侍ら寵愛させ
 二人の子を出産
 太后離宮にかくれ
 仕事はその男によって決裁させ
 長信侯の位をたまわり
 下僕は数千人
 食客も千余人におよんだ
 政が即位して
 九年(前239)
 二十二歳
 成人の冠礼をおこなった
 これをおそれた
 長信侯が
 反乱をおこして
 王宮を攻めて占拠をくわだてたが
 密告され
 王は
 兵を発し一党をほろぼし
 長信侯らは
 車裂(シャレツ)の刑にした
 太后
 不義の
 二子も殺された
 事件に呂不韋も関係したが
 王は
 呂不韋
 が先王につくした大功をおもんばかり
 不問に付した
 翌年に
 呂不韋の職(相国)を免じ
 都から追放し
 洛陽の領地においたが
 呂不韋は声望があり
 洛陽におもむく賓客は多かった
 秦王政は謀叛をおそれ
 蜀にうつることを命じた
 呂不韋は毒をあおって自殺
 ↓↑
 秦
 燕に侵攻
 ↓↑
 燕の太子の
 丹は
 かつて趙に人質となっており
 趙でうまれた
 秦王政とも、仲がよかった
 政が即位し
 丹は秦へ人質となったが
 秦王の待遇はつめたく
 丹はうらんで逃げかえった
 秦の将軍の
 樊於期(ハンオキ)が
 罪をえて
 燕に逃げ
 丹は、これを館舎にむかえ厚遇した
 秦王の怒りを恐れ
 群臣がいさめたが、太子は聞かなかった
 更に
 太子は勇士をもとめて
 荊軻(ケイカ)という男をえ
 上卿(上席の大臣)とした
 丹は
 荊軻
 秦王政の暗殺、刺し殺すことを要請
 ↓↑
 荊軻
 衛の人で
 読書と撃剣をこのみ
 感情的性格の男で
 燕にうつってからは
 町の酒飲みたちと交遊し
 遊歴した土地で
 賢人や豪傑や長者と親交した
 ↓↑
 荊軻
 樊於期(ハンオキ)の首と
 燕の
 督亢(とくこう)の
 地図を持参したい、と願った
 督亢は
 燕の要地にして
 秦がもっともほしがっている場
 樊の首、
 太子は
 自分をたよってきた樊を
 私利のために殺すには忍びなかった
 荊軻
 樊於期に会って、うったえた
 秦においては
 樊の父母をはじめ
 一族をすべて殺し
 その首に莫大な懸賞をかけている
 一言にて燕国の憂いをとき
 将軍のあだをむくいる策・・・
 樊於期将軍の首を
 秦王に献じたなら
 秦王はよろこんで自分を引見するハズ
 自分は
 左手に秦王の袖をとり
 右手で秦王の胸を刺す・・・
 これを聞いた
 樊於期は
 片肌をぬいで腕をにぎり
 みずから首はねて死んだ
 太子は駆けつけ、屍体にうちふし
 大声をあげて泣いた
 ↓↑
 首を箱にいれて封じ
 鋭利な匕首(あいくち)をもとめ
 毒薬を刃にぬって人にためし
 秦王暗殺支度はととのえた
 燕のうまれで
 秦舞陽(シンブヨウ)という勇士
 十三歳で殺人を犯した無頼
 太子は、この秦舞陽を、荊軻の副え人とし
 秦舞陽をともなって出発
 事情を知っている者たちは
 白い装束(喪服)を着て見送った
 ↓↑
 易(エキ)水のほとりまで
 荊軻
 筑(ちく=琴に似た楽器、竹で絃を打つ)
 に和して歌った
  風蕭蕭兮易水寒
  壮士一去兮不復還
 ↓↑
 秦につき
 千金のねうちの贈りものを
 王の側近にささげ、来意を通じた
 秦王はよろこび
 威儀をただして
 燕の使者を引見
 荊珂は
 樊於期の首箱を持ち
 秦舞陽は地図の小箱をささげた
 すすんで陛(きざはし)にいたると
 秦舞陽は
 顔色をかえて
 ふるえだし・・・
 ↓↑   大化の改新の実行犯
     「佐伯子麻呂」に類似
      古麻呂とも
      姓は連
      佐伯丹経手の子」とする系図がある?
     「佐伯の丹の経の手」・・・丹の経?
     「佐伯 丹経手=姓は連
             内臣・佐伯戸難目の子」
              とする系図がある?
 ↓↑  佐伯「戸難目→丹経手→子麻呂」
    「佐伯子麻呂」の
     兄弟は
     東人
     子麻呂
     百枝
     子は
     大目
     歳主
     645年11月(九月)
     中大兄皇子に命じられ
     阿倍渠曽倍と共に40人の兵士を率いて
     入鹿暗殺後に出家し吉野に隠棲していた
     古人大兄皇子を攻撃
     皇子とその子息を殺害・・・
 ↓↑ 「丹」は「燕国の太子」・・・
 群臣があやしんだので
 荊軻は顧みて笑い
 「北方の蛮夷の鄙人(ヒジン)
  いまだ天子に見(まみ)えたことなく
  ゆえにおそれ、ふるえたのでございます。
  願わくは大王、これをゆるさせたまえ」
 「その者の持っている地図を見せよ」
 ↓↑
 秦王の言により
 荊軻は地図の巻物を収りだして、王にささげ
 王が地図をひらき、図のおわるところ
 匕首(あいくち)があらわれた。
 荊軻
 左手で秦王の袖をとらえ
 右手に匕首を持って、突きだした
 おどろいた王は身を引いて立ちあがり袖が切れた
 王は剣をぬこうとしたが
 剣は長く鞘(さや)から抜けず
 鞘に収またままにぎった・・・
 あわてて剣を竪(たて)にしたまま
 すぐには抜けなかったが、抜刀して
 荊軻と対峙した・・・。
 ↓↑
 秦は
 魏、楚、燕をほろぽし
 斉もほろぼして天下を平定
 秦王政は三十九歳
 即位二十六年
 (前221)
 皇帝の
 命を「制」
 令を「詔」
 自称を「朕(チン)」とした
 ↓↑
 廷尉(司法、検察の長官)の
 李斯(リシ)が
 法治主義(法家)
 郡県主義(直轄中央集権)を採用
 李斯
 楚の出身
 荀子の教えをうけ
 秦におもむいて
 呂不韋につかえ
 呂不韋の推挙で
 始皇帝に重用された
 ↓↑
 法家
 法による支配
 同門に
 韓非子(カンピシ)
 ↓↑  ・・・韓非は咸陽に着き
     蘭陵で学んだ頃の同窓の
     李斯を訪れた
     彼は韓国の特使として
     秦国にきて駐在していた
     秦の師団が突然東進し
     韓を攻め
     三十万の大軍が国境を鎮圧
     韓王は恐れ
     和議を求めて
     土地を納め御璽を献上
     藩臣を擁護することを請うた
     韓非子はこの和義の使節だったが
 ↓↑  李斯にハメラレる
 始皇帝にもちいられた
 李斯の両策によって
 無実の罪におとしいれられ
 投獄され、自殺
 ↓↑
 秦の郡県となって統一
 諸公子や功臣は、あつく待遇すれば、それでよい
 天下に異心をいだく者のないのが安寧の術
 諸侯をおくことは便法とはいえない
 ↓↑
 これを始皇帝は採用
 天下をわけて三十六郡
 中央から官吏を派遣して治めさせ
 皇帝の直轄とした
 郡の下は
 数十の県にわけた
 一つの県はおよそ一万戸の人口
 郡の戸口は数十万戸・・・
 始皇帝の中央集権体制
 「郡県制度」とよばれ
 中国統治方式の基本とされた
 周の封建制度
 「王」たる天子と諸侯とのあいだに
 画然とした身分の差はなかった
 「王」は至上なる神の代理者
 天子として地上を統治
 諸侯は「王」に服しているものの
 その領土の内では
 王と同じ性格の統治者であった
 ↓↑
 度量衡の単位の統一
 度(ものさし)
 量(ます)
 衡(はかり)
 秦のものに一定化
 国定の量(ます)や権(おもり)を
 全国に頒布
 車輪、道幅を一定にした
 ↓↑
 文字を統一
 秦と六国とでは
 ちがった文字をもちいていた
 秦の文字が大篆(ダイテン)で
 始皇帝は李斯に命じ
 あらたに
 小篆という書体をつくらせた
 篆書(テンショ)である
 しかし篆書にしても、まだ複雑で
 隷書(レイショ)が発明され
 漢代には一般に通用文字となる
 ↓↑
 貨幣の統一
 斉や燕など北方の国は
 「刀(トウ)」をもちい
 韓魏趙などは
 「布(フ)」(農具のスキの形)
 楚では「貝(バイ)」
 秦では円形の銭をもちいていた
 始皇帝
 重さ半両の円形の穴あき銅貨を
 標準の貨幣として定め全国に通用させた
 半両銭は
 後世にいたるまで貨幣の基本の形となった
 ↓↑
 政令
 都の咸陽(カンヨウ)から発せられ
 咸陽は帝国の中心となった
 ↓↑
 民の武器の携帯、携行は禁止
 天下の武器をおさめて
 これを城蒲にあつめ
 熔かして
 鐘鐻(ショウキョ=鐘などをかける台)
 金人(銅製の大きな人形)
 を十二体つくった
 重さは、おのおの千石(たん=三〇トン)
 ↓↑
 天下の
 富豪十二万戸を
 咸陽に移住させた
 ↓↑
 宮殿の壮麗化
 各国をほろぼすごとに
 その宮殿と同様のものを
 咸陽につくっていった
 これらの宮殿は、みな渭水の北にあった
 上林苑という大遊園地や
 祖先の廟は
 みな渭水の南にあった
 その間には大きな橋がかけられ
 また宮殿と宮殿との間は
 複道という二階建ての道路によってむすばれた
 ↓↑
 統一の翌年から
 始皇帝は巡遊をはじめ
 専用の道路の造成
 天子の馳道(チドウ)とよばれ
 幅が約七〇メートル
 しかも地上より高く
 道の両側には約七メートルごとに
 松の並木
 天下の巡遊は
 五回
 東は斉の山東から
 北は燕の北境
 南は楚の地をへ
 越(エツ)の
 会稽山まで巡った
 ゆくさきざきで盛大な儀式や宴会
 ↓↑
 その間
 六ヵ所に記念の石碑に
 始皇帝の功業をしるした文を彫りこんで建てた
 随行した
 李斯が
 小篆の書体でしるした
 泰山
 と
 琅邪台(ロウヤダイ)の刻石が
 もっとも古い(前219)
 刻石を建てて、名を永世に伝えようとする石碑も
 始皇帝がひらいた
ーーーーー
 始皇帝
 斉の方士
 「徐福(徐市)」に命じ
 不老不死の薬を探索
 徐福が向かった地は
 斉の国・琅邪(瑯琊)の
 東海に浮かぶ島
 「蓬莱」・・・
 ↓↑
 古墳時代
 丹後
 丹波京都府中部)
 但馬(兵庫県北部)
 を合わせて
 「大丹波国(おおたにわこく)」
 青龍三年(西暦235年)という
 日本で一番古い年号を記した
 銅鏡「方格規矩四神鏡
   (ほうかくきくししんきょう)」
 が峰山町弥栄町にまたがる
 大田南5号墳から出土
ーーーーー
 ・・・???・・・

 2641日目・・・始皇帝=シコウテイ=思考綴=試行綴=嗜好定=指向定・・・「呂不韋」・・・「太安万侶の不意・符意」・・・法治でアラずば・・・韓の子にアラず(非)・・・?

 「李氏」の末裔も・・・法家の「李斯」ではない・・・?
 「郢書燕説(韓非子外儲説左上)」・・・?
ーーーーー
 呂氏春秋
 中国の戦国時代末期
 秦の呂不韋食客を集めて
 共同編纂させた書物
 呂覧(リョラン)とも
 秦の始皇八年(紀元前239年)に完成
 天文暦学、音楽理論、農学理論
 など自然科学的な論説が多く
 自然科学史において重要な書物
 ↓↑
 呂不韋
 賓客を延き集め
 各々聞く所によりて
 「月令」を選し
 円道を明らかにし、人事を証す
 天地・陰陽・四時・日月・星辰・五行・礼儀
 の類を載せ
 名づけて
 「春秋」という


 ↓↑
 呂不韋=「韓」の大商人、
 「呂不韋(リョフイ)」は関係アリやナシや・・・?
 ↓↑
 大韓帝国(テハンジェグク)
 1897年〜1910年まで
 李氏朝鮮の使用国号
 ↓↑
 周王室
 武王より三十七世八六七年に滅亡
 (前256)
 ↓↑
 秦
 昭襄王死後
 子楚の父
 孝文王が即位・・・孝文=コウブンオウ
            =「構文・公文・弘文・行文」意宇
 子楚が太子となった
 趙国は
 子楚の妻子を
 鄭重・・・鄭=奠+阝=ねんごろ・テイ・丁寧
        通仮字「丁」
        異体字「𨞀・奠・郑」
        鄭袖=楚の懷王の寵姫
      重=かさねる・かさなる・チョウ・ジュウ
 に送りとどけてきた
 孝文王は一年にして死去し
 子楚=荘襄王が位につく(前250)
 呂不韋
 丞相(宰相)に任じ
 文信候に封じ
 洛陽の十万戸をあたえた
 前249年
 魯が
 楚にほろぼされた
 魯・・・魯=魚+日=ロ・・・呂・侶・盧
 周公より三十四代、八五〇年
 ↓↑
 荘襄王
 在位三年にして死去(前247)
 十三歳
 太子の
 政=秦王が即位・・・始皇帝・・・指向定
 政治は母の
 太后荘襄王の后)
 と
 呂不韋
 が執政
 呂不韋は相国(宰相)
 仲父(チュウホ=父親に準ずる待遇)とよんだ
 太后
 むかしの
 呂不韋の愛人
 呂不韋の執政時代
 韓、魏、趙の領土の一角を奪い
 秦の領土の東端は拡張し
 斉国と接した
 各地から食客を招き三千人
 食客たちに、それぞれ見聞を述べさせ
 それを編集して
 二十余万字にのぼる
 書物を編纂
 『呂氏(リョシ)春秋』と名づけた
 (前239)
 咸陽(カンヨウ)の
 市場の門前に展示し
 賞金をかけて内容を批判させた
 「一字でも増減できる者があれば
  千金をあたえよう」と
 これが
 「一字千金」の由来
 呂不韋太后の関係が噂になり
 別の男を太后に推挙し太后の気をひかせ
 男に宮刑をほどこしたことにし
 宦官に仕立て
 太后の側近に侍らせ寵愛させ
 二人の子を出産
 太后離宮にかくれ
 仕事は
 その男によって決裁させ
 長信侯の位・・・長信侯(のぶながこう)?
 をたまわり
 下僕は数千人
 食客も千余人におよんだ
 政が即位して
 九年(前239)
 二十二歳
 成人の冠礼をおこなった
 これをおそれた
 長信侯が
 反乱をおこして
 王宮を攻めて
 占拠をくわだてたが
 密告され
 王は
 兵を発し一党をほろぼし
 長信侯らを
 車裂(シャレツ)の刑にした
 太后
 不義の
 二子も殺された
 事件に
 呂不韋も関係したが
 王は
 呂不韋
 が先王につくした
 大功をおもんばかり
 不問に付した
 翌年に
 呂不韋の職(相国)を免じ
 都から追放し
 洛陽の領地においたが
 呂不韋には声望があり
 洛陽におもむく賓客は多かった
 秦王政は謀叛をおそれ
 蜀にうつることを命じた
 呂不韋は毒をあおって自殺
 ↓↑
 秦
 燕に侵攻
 ↓↑
 燕の太子の
 「丹」は
 かつて
 趙に人質となっており
 趙でうまれた
 秦王政
 とも、仲がよかった
 政が即位し
 「丹」は秦へ人質となったが
 秦王政の待遇はつめたく
 「丹」はうらんで逃げかえった
 秦の将軍の
 樊於期(ハンオキ)が
 罪をえて
 燕に逃げ
 「丹」は、これを館舎にむかえ厚遇した
 秦王政の怒りを恐れ
 群臣がいさめたが、
 「丹」太子は聞かなかった
 更に
 「丹」太子は勇士をもとめて
 荊軻(ケイカ)という男をえ
 上卿(上席の大臣)とした
 「丹」は
 荊軻
 秦王政の暗殺、刺し殺すことを要請
 ↓↑
 荊軻
 衛の人で
 読書と撃剣をこのみ
 感情的性格の男で
 燕にうつってからは
 町の酒飲みたちと交遊し
 遊歴した土地で
 賢人や豪傑や長者と親交した
 ↓↑
 荊軻
 樊於期(ハンオキ)の首と
 燕の
 督亢(トクコウ)の
 地図を持参したい、と願った
 督亢は
 燕の要地にして
 秦がもっともほしがっている場所
 樊於期(ハンオキ)の首・・・
 「丹」太子は
 自分をたよってきた樊を
 私利のために殺すには忍びなかった
 荊軻
 樊於期に会って、うったえた
 秦においては
 樊の父母をはじめ
 一族をすべて殺し
 樊於期の首に
 莫大な懸賞をかけている
 一言にて燕国の憂いをとき
 樊於期将軍のあだをむくいる策・・・
 樊於期将軍の首を
 秦王に献じたなら
 秦王は
 よろこんで自分を引見するハズ
 その時
 自分は
 左手に秦王の袖をとり
 右手で秦王の胸を刺す・・・
 これを聞いた
 樊於期は
 片肌をぬいで腕をにぎり
 みずから首はねて死んだ
 「丹」太子は駆けつけ
 屍体にうちふし
 大声をあげて泣いた・・・
 ↓↑
 首を箱にいれて封じ
 鋭利な匕首(あいくち)をもとめ
 毒薬を刃にぬって人にためし
 秦王暗殺支度はととのえた
 ↓↑
 燕のうまれで
 秦舞陽(シンブヨウ)という勇士は
 十三歳で殺人を犯した無頼
 「丹」太子は
 秦舞陽を、荊軻の副え人とし
 秦舞陽をともなわせて出発させ
 事情を知っている者たちは
 白い装束(喪服)を着て見送った
 ↓↑
 易(エキ)水のほとりまで
 荊軻
 筑(ちく=琴に似た楽器、竹で絃を打つ)・・・筑紫
          筑は神功皇后新羅討伐の占いに使用した
 に和して歌った
  風蕭蕭兮易水寒
  壮士一去兮不復還
 ↓↑
 秦につき
 千金のねうちの贈りものを
 王の側近にささげ、来意を通じた
 秦王政はよろこび
 威儀をただして
 燕の使者を引見
 荊珂は
 樊於期の首箱を持ち
 秦舞陽は地図の小箱をささげた
 すすんで陛(きざはし)にいたると
 秦舞陽は
 顔色をかえて
 ふるえだし・・・
 ↓↑   大化の改新の実行犯
     「佐伯子麻呂」の様子、態度に類似
      古麻呂とも
      姓は連
      佐伯丹経手の子」とする系図がある?
     「佐伯の丹の経の手」・・・「丹」の経?
     「佐伯 丹経手=姓は連
             内臣・佐伯戸難目の子」
              とする系図・・・?
 ↓↑  佐伯「戸難目→丹経手→子麻呂(古麻呂)」
        となめ にへて こまろ
    「佐伯子麻呂」の
     兄弟は
     東人
     子麻呂
     百枝
     子は
     大目
     歳主
     645年11月(九月)
     中大兄皇子に命じられ
     阿倍渠曽倍と共に40人の兵士を率いて
     入鹿暗殺後に出家し吉野に隠棲していた
     古人大兄皇子を攻撃
     皇子とその子息を殺害・・・
 ↓↑ 「丹」は「燕国の太子」・・・丹後・丹波・但馬
 群臣があやしんだので
 荊軻は顧みて笑い
 「北方の蛮夷の鄙人(ヒジン)
  いまだ天子に見(まみ)えたことなく
  ゆえにおそれ、ふるえたのでございます
  願わくは大王、これをゆるさせたまえ」
 「その者の持っている地図を見せよ」
 ↓↑
 秦王の言により
 荊軻は地図の巻物を収りだし
 王にささげ
 王が地図をひらき
 図のおわるところに
 匕首(あいくち)があらわれた
 荊軻
 左手で秦王の袖をとらえ
 右手に匕首を持って、突きだした
 おどろいた王は身を引いて立ちあがり袖が切れた
 王は剣をぬこうとしたが
 剣は長く鞘(さや)から抜けず
 鞘に収まったままにぎった・・・
 あわてて剣を竪(たて)にしたまま
 すぐには抜けなかったが、抜刀して
 荊軻と対峙した・・・。
 ↓↑

 秦は
 魏、楚、燕をほろぽし
 斉もほろぼして天下を平定
 秦王政は三十九歳
 即位二十六年
 (前221)
 皇帝の
 命を「制」
 令を「詔」
 自称を「朕(チン)」とした
 ↓↑
 廷尉(司法、検察の長官)の
 李斯(リシ)が
 法治主義(法家)
 郡県主義(直轄中央集権)を採用
 李斯・・・李斯(?〜紀元前208年)
 ↓↑   秦代の宰相
      字は通古
      子は李由
      法家を思想的基盤に
      度量衡の統一
      焚書などを行い
      秦帝国の成立に貢献
      始皇帝の死後
      権力争いに敗れて
      趙高(宦官)によって処刑
     「馬鹿の趙高」は独裁国家の見本・・・
 ↓↑   趙高も「子嬰(秦終皇帝?)」に殺された
 楚の出身
 荀子の教えをうけ
 秦におもむいて
 呂不韋につかえ
 呂不韋の推挙で
 始皇帝(秦王政)
 に重用された
 ↓↑
 法家
 法による支配
 楚での
 同門に
 韓非子(カンピシ)・・・・・・韓の子にアラず(非)?
 始皇帝
 彼の著書
 「孤憤篇」
 「五蠹篇」の二篇
 の
 君主独裁の
 刑(刑罰)
 と
 徳(恩賞)
 の政治思想に傾倒した・・・
 ↓↑
 亡徴(第十五)
 「〜〜者、可亡也」
 (〜〜というような場合、
  政治は危ない、滅びかねない)
 という形の47条の文を列挙・・・
 ↓↑
 備内(第十七編)
 「人を信じることは、君主にとって禍の源である
  人を信じればその人にしてやられる
  臣下が君主のいうことを聞くのは
  権力によってやむを得ず
  従っているというだけのことであり
  臣下は常に君主にあだをなそうと狙っている」・・・
 ↓↑
 「郢書燕説=辻褄の合わないことに
       もっともらしい理由をつけること」
 ↓↑
 韓非は
 性悪説を説く
 儒家荀子に学んだが
 非違の行いを
 礼による徳化で矯正するとした
 荀子の考えに対し
 法によって抑えるべきだと主張
 韓非は分断され乱脈化した君主の権力を
 法によって一元化し
 体系化することにより
 強国になるべきと考えた
 ↓↑  ・・・韓非は咸陽に着き
     蘭陵で学んだ頃の同窓の
     李斯を訪れた
     彼は韓国の特使として
     秦国にきて駐在していた
     理由は
     秦の師団が突然東進し
     韓を攻め
     三十万の大軍が国境を鎮圧
     韓王は恐れ
     和議を求めて
     土地を納め御璽を献上
     藩臣を擁護することを請うた
     韓非子はこの和義の使節だったが
 ↓↑  李斯にハメラレる
 始皇帝にもちいられた
 李斯の両策によって
 無実の罪におとしいれられ
 投獄され、自殺
 ↓↑
 秦の郡県となって統一
 諸公子や功臣は、あつく待遇すれば、それでよい
 天下に異心をいだく者のないのが安寧の術
 諸侯をおくことは便法とはいえない
 ↓↑
 これを始皇帝は採用
 天下をわけて三十六郡
 中央から官吏を派遣して治めさせ
 皇帝の直轄とした
 郡の下は
 数十の県にわけた
 一つの県はおよそ一万戸の人口
 郡の戸口は数十万戸・・・
 始皇帝の中央集権体制
 「郡県制度」とよばれ
 中国統治方式の基本とされた
 周の封建制度
 「王」たる天子と諸侯とのあいだに
 画然とした身分の差はなかった
 「王」は至上なる神の代理者
 天子として地上を統治
 諸侯は「王」に服しているものの
 その領土の内では
 王と同じ性格の統治者であった
 ↓↑
 度量衡の単位の統一
 度(ものさし)
 量(ます)
 衡(はかり)
 秦のものに一定化
 国定の量(ます)や権(おもり)を
 全国に頒布
 車輪、道幅を一定にした
 ↓↑
 文字を統一
 秦と六国とでは
 ちがった文字をもちいていた
 秦の文字が大篆(ダイテン)で
 始皇帝は李斯に命じ
 あらたに
 小篆という書体をつくらせた
 篆書(テンショ)である
 しかし篆書にしても、まだ複雑で
 隷書(レイショ)が発明され
 漢代には一般に通用文字となる
 ↓↑
 貨幣の統一
 斉や燕など北方の国は
 「刀(トウ)」をもちい
 韓魏趙などは
 「布(フ)」(農具のスキの形)
 楚では「貝(バイ)」
 秦では円形の銭をもちいていた
 始皇帝
 重さ半両の円形の穴あき銅貨を
 標準の貨幣として定め全国に通用させた
 半両銭は
 後世にいたるまで貨幣の基本の形となった
 ↓↑
 政令
 都の咸陽(カンヨウ)から発せられ
 咸陽は帝国の中心となった
 ↓↑
 民の武器の携帯、携行は禁止
 天下の武器をおさめて
 これを城蒲にあつめ
 熔かして
 鐘鐻(ショウキョ=鐘などをかける台)
 金人(銅製の大きな人形)
 を十二体つくった
 重さは、おのおの千石(たん=三〇トン)
 ↓↑
 天下の
 富豪十二万戸を
 咸陽に移住させた
 ↓↑
 宮殿の壮麗化
 各国をほろぼすごとに
 その宮殿と同様のものを
 咸陽につくっていった
 これらの宮殿は、みな渭水の北にあった
 上林苑という大遊園地や
 祖先の廟は
 みな渭水の南にあった
 その間には大きな橋がかけられ
 また宮殿と宮殿との間は
 複道という二階建ての道路によってむすばれた
 ↓↑
 統一の翌年から
 始皇帝は巡遊をはじめ
 専用の道路の造成
 天子の馳道(チドウ)とよばれ
 幅が約七〇メートル
 しかも地上より高く
 道の両側には約七メートルごとに
 松の並木
 天下の巡遊は
 五回
 東は斉の山東から
 北は燕の北境
 南は楚の地をへ
 越(エツ)の
 会稽山まで巡った
 ゆくさきざきで盛大な儀式や宴会
 ↓↑
 その間
 六ヵ所に記念の石碑に
 始皇帝の功業をしるした文を彫りこんで建てた
 随行した
 李斯が
 小篆の書体でしるした
 泰山
 と
 琅邪台(ロウヤダイ)の刻石が
 もっとも古い(前219)
 刻石を建てて、名を永世に伝えようとする石碑も
 始皇帝がひらいた
ーーーーー
 大和三山
 神代に恋争いをしたという伝説
 額田王をめぐる
 天智天皇中大兄皇子
 と
 天武天皇大海人皇子
 との三角関係
 ↓↑
 出雲の
 アボニカミ(阿菩大神)という神様が
 香具山
 と
 耳成山
 の二人の男が
 畝傍山
 を妻にしようと争っているのを聞いて
 仲裁のため
 播磨の国まで来たところ
 争いがおさまったので
 この国にとどまった
 ↓↑
 「万葉集」巻一
 香具山
 と
 耳梨山
 と争(あ)いしとき
 立ちて見に来し
 印南国原
 (香久山と耳成山が妻争いをしたとき、
  阿菩の神が、
  この印南原まで見にやって来た)
 ↓↑ 
 「万葉集(巻一)」
 香具山・耳成山が女で畝傍山が男。
 香具山・耳成山が男で畝傍山が女。
 香具山が女で畝傍山耳成山が男。
 ↓↑
 香具山は
 畝火
 愛(お)しと
 耳梨と
 相争いき
 神代より
 かくにあるらし
 古昔も
 然にあれこそ
 うつせみも
 嬬(つま)を
 争うらしき
 (巻一)
 ↓↑ 
 大和三山への
 心情を歌った
 万葉集長歌
 藤原宮御井の歌として、
 青々とした香具山は
 宮の東の御門に春の山のように茂り、
 畝傍の瑞々(みずみず)しい山は
 西の御門に鎮まる瑞祥(ずいしょう)の山。
 耳成の青菅の山は
 背面の北御門に神々しくそびえ立つ・・・
ーーーーー
 尾張(おわり・糸冬)
 名古屋(名護屋・名児耶・奈古谷・那古屋)は
 「シロ(新羅・斯盧)」で持つ?
 ↓↑
 興正寺
 貞享三年(1688)
 天瑞-圓照(テンズイ-エンショウ)和尚
 が真言密教の道場として草庵を結んだ
 尾張二代目藩主
 徳川光友
 の帰依を受けて
 講堂を建立
 ↓↑
 中門は
 女人門と呼ばれていた
 興正寺
 東山と西山に分かれており
 東山は女人禁制
 この門から先に女性は入ることは禁止
 中門のすぐ奥に
 五重塔(30メートル)
 文化五年(1808)に建立
 名古屋市内で残っている唯一の五重塔
 ↓↑
 宝暦十一年(1761)
 徳川宗春より
 「八事山」の三文字の親書を賜り
 それ以降
 「八事山 興正寺
 と呼ばれる
 ↓↑
 「八事」
 『尾張国地名考』によると
 「八事」は
 「岩之田(やがた)」が
 ↓↑   八咫烏(やたがらす、やたのからす)
      磐余彦(伊波礼毘古)=神武天皇
      神武天皇
     『日本書紀
      神代第十一段
        第三の一書は第三子
        第四の一書は第二子
      在位
      庚午年一月一日(紀元前711年)?
      ↓↑
      即位
      辛酉年一月一日(紀元前660年)
      橿原宮に初代天皇として即位
      G紀元前660(辛酉)年2月11(庚辰)日
      Y紀元前660(辛酉)年2月18(庚辰)日
         〜
      神武天皇七十六年三月十一日
      G紀元前585(丙子)年4月3(甲辰)日
      Y紀元前585(丙子)年4月9(甲辰)日
     「磐余の地の旧名
      片居または片立という
      大軍集(つど)いて
      その地に満(いは)めり。
      因りて改めてその地を
      磐余
      とする」・・・
 ↓↑
 鎌倉時代から室町時代にまでに転訛した
 『尾張名所志』にある
 「石田里(いしだのさと)」
 もこの八事だった・・・
 「八事」は
 「岩之田・石田」
 であった
 「石の多かった田」とういう意味
 「岩之田」「石田」が
 「八事」に転訛したもの
 「岩の田」よりも
 縁起のいい末広がりの
 「八」を使うようになった・・・
 ・・・
 「岩・石・磐・イワ」⇔「八」に転化(転嫁)?
 ↓↑
 『尾張地名考』に
 「音聞(おときき)の松」の話
 八事村の東南にある
 島田村に
 「音聞山」という山があり
 「音聞の松」があった
 享保の頃(1716〜1735)
 枯れてしまったが
 後その跡に
 若木を継いで
 今は「千歳の松」ともいう・・・
 ↓↑ 
  風ふけは
  鳴海の浦による波の
     おときヽ山の
     やまの名よしも
 ↓↑
 「音聞の松」が聞いたのは
 鳴海の浦に打ち寄せる波で
 そこから「音聞山」という名が起こった
 「音聞山」(天白区)という町名が残されている
 ↓↑
 天白川の名前
 緑区の三王山という場所に
 山王社という小さな神社があり
 その中に
 天白社という社があって由来となっている
 ↓↑
 山王神社
 比叡山の東にある
 日吉大社の別称
 神仏習合時代に
 山王権現と呼ばれた
 ↓↑
 天白社
 正体が不明
 本州のほぼ
 東半分にみられる民間信仰
 星・水・安産
 祈願など
 ↓↑
 星の信仰
 天白
 天一神と太白神から出たもの
 星の神
 伊勢神宮
 天白が星の神である
 「てんはくのうた」
 という神楽歌が伝わる・・・
 天白を
 太白星(金星⇔金生・金姓)と考えていた・・・?
 ↓↑
 白浪滔天=白浪が山のように高い
 不分鄢天白日地干=昼夜を分かたず働く
 大天白日=真っ昼間に強盗を働く
 ↓↑
 オシラサマ信仰
 「てんぱく」と音読みされる以前は
 「おしら様
 (オシラサマ)」=蚕神、農業神、馬神
 と呼ばれた    桑の木で作られ二体一組の偶像
 道教と習合されて
 天白神信仰になった・・・
 「オシラサマ」は
 アイヌ
 「シランパカムイ」
 ↓↑
 白髭神社
 古代の
 新羅系渡来人が
 自分達の祖先を
 「新羅明神」として祭ったものが元
 「新羅(しらぎ)」=「白(しろ)」
 古代の有力氏族の
 「白猪(しらい)」氏も渡来系
 ↓↑  ・・・伊吹山の白猪神は日本武尊の敵対者
 ↓↑猪名部 真根=天皇や氏族に隷属する品部
  (いなべのまね)・・・
   猪名部御田
  (いなべのみた)
   猪名部は
   土木技術の工匠集団
   その部民の伴造で工匠集団の長は
 ↓↑新羅系の渡来人が任命されていた・・・
 白猪氏から分かれた
 荒田井氏は
 緑区鳴海の辺りに住んでいた・・・
 ↓↑
 民俗学者
 柳田国男
 天白は風の神かも・・・
 ↓↑
 緑区の三王山のすぐ近くに
 隕石に由来する
 星崎がある
 志摩市
 大王町
 天白信仰も、隕石に関係する
 東日本に分布
 「てんばく」
 原住民の信仰・・・
 志摩の大王町
 天白川
 近くにも
 旧石器時代の遺跡
ーーーーー
 雄略天皇
 蘇我満智
 国内の献納物を納める
 大蔵の取締りを命じられ
 その配下の
 秦氏出納
 東漢氏、西文(カワチ)氏は記帳をした
 ↓↑
 王辰爾の子孫
 白猪・・・伊吹山の神・日本武尊に祟る
 ↓↑ ↓↑
    二十一代
   「雄略天皇日本武尊」?
    大泊瀬幼武
   (おおはつせわかたけ)
    大泊瀬幼武尊
   (おおはつせわかたけるのみこと)
    大長谷若建王
   (おおはせわかたけるおう)
   「武=ワカタケル・タケル=建=若建」
     「獲加多支鹵・多支鹵」
 ↓↑ ↓↑
   熊本県の江田船山古墳出土鉄剣銘文
   「治天下犭复□□□歯大王」
      「多遅比弥都歯別」
      (タジヒノミズハワケ)
    十八代反正天皇(書紀)
        水歯別(古事記
 ↓↑ ↓↑
   埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘文
   「治天下獲□□□鹵大王」
      「獲加多支鹵大王」
       ワカタキル・・・鹵⇔ロ⇔ル
        ・・・鹵=ロ(ろ)=鹽=塩
        塩=土+𠂉+口+皿
        鹽=臣+𠂉+鹵+皿
        𦣪=𥂁・䀋・盐・𨣎・𪉟・𪉩・𪉹
 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
       「獲加多支鹵大王」
        ワカタケル
    大長谷 若 建  =雄略天皇
 ↓↑ ↓↑
   『宋書』本紀
   順帝紀
   昇明元年(477年)十一月己酉条
   倭国が遣使し方物(地方名産物)を献上
 ↓↑ ↓↑
   「倭王武」が「南朝宋」に上表  
    477年
   「使持節 都督倭・百済新羅任那加羅
    秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王
    と自称し
    478年=昇明二年五月戊午条
   「使持節 都督倭・新羅任那加羅
    秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王
    と
   「順帝(南朝宋の末代皇帝・姓は劉、諱は準
       第6代明帝の第三子
       第7代後廃帝の弟
       沈約の『宋書』后妃伝で
       実際には
       明帝の弟・桂陽王、劉休範の子)」
    から叙された
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
   「雄略天皇日本武尊=倭建=倭男具那=日本童男」
                (ヤマトオグナ)
   「小碓命(おうすのみこと)」
    は
    白猪=猪名部=新羅の技術者集団に殺された?
 白猪氏    
 船氏
 津氏
 は河内の
 古市に住み
 西琳寺は西文氏
 葛井(ふじい)寺は白猪(しらい)氏
 野中寺は船氏
 の氏寺
 漢人、阿智の使主の末裔
 東漢氏で檜隈に住む
 檜隈寺は東漢氏
 の氏寺
 ↓↑
 大和、河内、山城の地域
 帰化人の人口は全体の35%超
 5世紀後半
 今来の漢人
 鞍作、錦織、金作諸氏
 百済より渡来し
 蘇我稲目を支援
 天皇家は彼らを使用
 雄略天皇以降
 蘇我→韓子、高麗、稲目、馬子
 と天皇に仕え
 帰化人たちを統括した
 韓子、高麗、稲目、馬子
 が半島由来の名
 ↓↑
 蘇我石川宿禰
 満智(まち)−韓子(からこ)−高麗(こま)−稲目
 蘇我氏百済系渡来人の総領家
 漢(あや)氏や秦(はた)氏を従えた
 財政官僚
 大伴氏や物部氏らは
 軍事官僚
 ↓↑ 
 小姉君(小兄比売)は渡来人の
 ペルシャ(波斯)人or白人(新羅)との混血・・・?
 『新撰姓氏録』に
 「弓月の君」
 に率いられてきた一族に
 「秦氏
 ↓↑
 蘇我小姉君(そがの おあねのきみ)
 蘇我稲目の娘
 姉妹
 蘇我堅塩媛
 兄弟
 蘇我馬子
 欽明天皇の妃
 ↓↑
 子供
 茨城皇子
 葛城皇子
 穴穂部間人皇女
 穴穂部皇子
 泊瀬部皇子(崇峻天皇)・・・東漢直駒に殺害
 ↓↑
 孫
 聖徳太子厩戸皇子
 来目皇子
 殖栗皇子
 茨田皇子
 麻呂子皇子
 酸香手姫皇女
 蜂子皇子
 錦代皇女
 佐富女王・・・皇女、王女でなく女王?
 ↓↑     女王は女帝、女支配者?
        女性の王
        王の后
        内親王の宣下のない皇族の女性
        皇族で3世以下の嫡男系嫡出の女性
 ↓↑  ↓↑ ↓↑
     佐富女王(さとみのひめみこ
          さふのひめみこ
          さほのひめみこ)
 ↓↑  ↓↑ ↓↑↓↑
          狭穂 姫命
         (さほひめのみこと)
          沙本 毘売命
          佐波遅比売命
         (さわじひめのみこと)
            ↓↑
          垂仁天皇五年十月薨
          垂仁天皇の皇后
         (垂仁天皇二年二月九日立后
          皇子
          誉津別命(本牟智和気御子)
          同母兄
          狭穂彦王(沙本毘古)
 ↓↑  ↓↑ ↓↑↓↑
     父は田目皇子(多米王)
         ・・・駄目・試・同目・多目
     母は穴穂部間人皇女
     穴穂部間人皇女
     田目皇子(多米王)の父
     の用明天皇の皇后で
     用明天皇崩御後に
     田目皇子(多米王)と再縁し
     佐富女王を産んだ
     聖徳太子の異母兄の娘かつ異父妹
     甥で、従兄弟に当たる
     長谷王
    (聖徳太子と膳部菩岐々美郎女の子)
     と結婚し
     葛城王
     多智奴女王・・・?
        女王⇔多くを智(知日)る奴
     を産む
ーーーーー
 ・・・紀元前722年〜紀元前660年=神武元年
 ↓↑
 徳公(トクコウ)
 紀元前710年〜紀元前676年
     ・・・紀元前722年〜紀元前660年=神武元年
 ↓↑ 722-660=62=六拾弐=陸拾貳
 秦の第六代公
 憲公の次子
 ↓↑
 武公二十年(前678年)
 同母兄の武公が死んで
 徳公が
 秦公となった
 33歳
 ↓↑
 徳公元年(前677年)
 雍城の大鄭宮に住み
 犠牲
 三百牢を供えて・・牢=家畜化された牛
 鄜畤(フジ)・・・夢から覚めた
          文公は
          鄜に祠廟を建てて
          白帝(中国の神様)を祀った
         (紀元前756年)
          白帝は西方角と五行金徳の神
 を祠った
 この年
 梁伯・芮伯が来朝した
 ↓↑
 徳公二年(前676年)
 初めて
 伏の節・・・伏=イ+犬=ふす・フク
 ↓↑    圧伏・畏伏・帰伏・屈伏
       降伏・承伏・信伏・説伏
       夏の最も暑い時期
      「伏日/三伏・初伏」
       仏法の力で人を
 ↓↑    降伏・折伏・調伏
 を行い
 狗(いぬ)を殺して
 蠱(コ・悪気)をふせいだ・・・穀物につく虫
 この年に死に
 長子の宣公が立って
 秦君となった
 ↓↑
 蠱(コ)=まじないに使う虫
 ↓↑   人を害する呪いや毒薬
      蠱毒・巫蠱(フコ)
      惑わす・乱す
      蠱惑(コワク)・・・
        「怖い・恐い・強い」+句?
      易の六十四卦の一
      上卦は艮(ごん)(山)
      下卦は巽(そん)(風)
      山風蠱とも
      蠱は故(こ)の音通
      事の意
      風が吹いて山林中の
      汚気を一掃
      旧弊を一新
 ↓↑
 蠱物(まじモノ)=まじないをしてのろうこと
    まじない術・まじ
   「畜(けもの)仆(たふ)し、蠱物する罪」
   (祝詞・六月晦大祓)
    人を惑わすもの・魔性のもの
 ↓↑
 蠱毒(こどく)=古代中国の呪術
    動物を使うもので、華南の少数民族の間で
    受け継がれ
    蠱道、蠱術、巫蠱(フコ)
ーーーーー
 ・・・???・・・韓非子(カンピシ)・・・
 法治でアラずば・・・韓の子にアラず(非)・・・?

 2640日目・・・「三角関係」・・・「(高さX底辺)/2=三角形の面積」・・・「多角関係」・・・「多角形の面積」・・・「円関係」・・・「円の面積=(半径)×(半径)×3.14=S=πr²」・・・「台形の面積=(上底+下底)×(高さ)÷2=S」・・・「ひし形の面積=(対角線)×(対角線)÷2=S」・・・「平行四辺形の面積=(底辺)×(高さ)=S」・・・「n角形の内角の和=180×(n−2)」・・・

ーーーーー
 大和三山
 神代に恋争いをしたという伝説
 額田王をめぐる
 天智天皇中大兄皇子
 と
 天武天皇大海人皇子
 との三角関係
 ↓↑
 出雲の
 アボニカミ(阿菩大神)という神様が
 香具山
 と
 耳成山
 の二人の男が
 畝傍山
 を妻にしようと争っているのを聞いて
 仲裁のため
 播磨の国まで来たところ
 争いがおさまったので
 この国にとどまった
 ↓↑
 「万葉集」巻一
 香具山
 と
 耳梨山
 と争(あ)いしとき
 立ちて見に来し
 印南国原
 (香久山と耳成山が妻争いをしたとき、
  阿菩の神が、
  この印南原まで見にやって来た)
 ↓↑ 
 「万葉集(巻一)」
 香具山・耳成山が女で畝傍山が男。
 香具山・耳成山が男で畝傍山が女。
 香具山が女で畝傍山耳成山が男。
 ↓↑
 香具山は
 畝火
 愛(お)しと
 耳梨と
 相争いき
 神代より
 かくにあるらし
 古昔も
 然にあれこそ
 うつせみも
 嬬(つま)を
 争うらしき
 (巻一)
 ↓↑ 
 大和三山・・・
 神々しく聳(そびえ)立つ・・・聳=従(从・從)+耳
 「従う耳」・・・ウサギと兎のミミ・・・半島地図・・・
 ワニ(鰐・和邇・和仁)=倭人
 ウサギ(兎・兔・宇佐戯)=加羅(唐・韓・漢)人
ーーーーー
 ・・・???・・・戯誤植・・・魏・呉・蜀・・・
 唐土(中国)・天竺(印度)・本朝(日本=倭国)・・・
 辰韓新羅馬韓百済弁韓加羅(伽耶)諸国が分立・・・
 高句麗(扶余・女真
 新羅(斯盧・シラ)
 ・・・
 百済(伯済・月支国王=辰王)
 新羅(斯盧・シラ)・・・秦の難民(陽侯)?
 加羅金官任那)・・・倭(九州・阿毎)?
ーー↓↑ーー
 天日槍命
 第十一代
 垂仁天皇三年(初期紀年BC27年)
 新羅国よりやってきた
 ↓↑
 「三角、四角、五角、六角、七角、八角、九角」関係
 「n角形の内角の和=180×(n−2)」・・・
 (N-2)×180・・・
 ↓↑
 葦原志挙乎命=伊和大神=大己貴命大国主
 (あしはらのしこおのみこと) 
 と
 天日槍命
 の
 秋津島、領土争奪戦・・・
 ↓↑
 アメノヒボコ
 古代朝鮮からの渡来人
 『日本書紀』では
 「天日槍」
 『古事記』では
 「天之日矛
 他文献では
 「日桙(ひぼこ)」
 「天日槍命
 「天日桙命」
 「海檜槍(あまのひぼこ)」
 とも
 新羅王子
 『日本書紀
 垂仁天皇三年三月条
 新羅王子の
 天日槍が渡来
 ↓↑ 
 天日槍は初め播磨国に停泊し
 宍粟邑にいた
 天皇
 大友主(三輪氏祖)
 長尾市(倭氏祖)
 を播磨に派遣し
 天日槍の尋問をさせた
 自分を新羅国王の子であるといい
 日本に聖皇がいると聞いたので
 新羅
 弟の知古(ちこ)に任せ
 自分は
 日本への帰属を願ってやって来た
 と語った
 天皇
 播磨国宍粟邑
 淡路島出浅邑
 の2邑に
 天日槍の居住を許した
 天日槍は
 諸国を遍歴し適地を探すことを願った
 天日槍は
 菟道河(宇治川)を遡って
 近江国吾名邑にしばらくい
 近江から若狭国を経て
 但馬国に至って居住
 近江国
 鏡村の谷の
 陶人(すえびと)が
 天日槍の従者となった
 天日槍は
 但馬国出島(出石)の
 太耳の娘の
 麻多烏(またお)を娶り
 麻多烏との間の子に
 但馬諸助(もろすく)を儲けた
 諸助は
 但馬日楢杵(ひならき)を儲け
 日楢杵は
 清彦(きよひこ)を
 清彦は
 田道間守を儲けた・・・
 ↓↑
 『日本書紀
 垂仁天皇八十八年七月条
 新羅王子の天日槍が持って来た
 但馬の神宝を見たいと
 天皇が言ったので
 使者を遣わし
 天日槍の曾孫の
 清彦に勅命を下して献上させた
 5物、
 羽太の玉 1箇
 足高の玉 1箇
 鵜鹿鹿の赤石の玉 1箇 
 日鏡 1面
 熊神籬 1具
 これらとは別に
 「出石(いづし)」
 という名の
 小刀1口があったが
 清彦は献上を望まなかったので
 袍の中に隠して身に帯びていたがバレて
 神宝の1つであることを言上
 天皇はこれと他の神宝とを一緒にして
 神府(みくら・奈良県天理市
    石上神宮
 に納めた
 天皇が神府を開くと
 小刀がなくなっており
 清彦に人を遣わして問いただすと
 小刀が自然と清彦の家に来たが
 その日の朝にはなくなったと言った
 天皇は畏れそれ以上は
 小刀を求めることをやめた
 小刀はのちに自然と
 淡路島に至り発見され
 島人により祠に祀られた・・・
 ↓↑
 天日槍が小舟に乗って
 但馬国に停泊し
 そのまま但馬に留まった
 天日槍は
 但馬国
 前津耳(一云に前津見または太耳)
 の娘の
 麻拕能烏(またのお)を娶り
 麻拕能烏との間に
 但馬諸助を儲けたとし
 これが清彦の祖父であるという
 ↓↑
 その他
 『古事記』では
 比売碁曾社(比売許曾神社)
 の由来が
 天日槍
 と
 阿加流比売神
 の伝承として記述
 『日本書紀』では
 垂仁天皇二年条の注に
 「都怒我阿羅斯等」と
 その妻の伝承として記述・・・
 『古事記応神天皇記では
 新羅の国王の子の
 天之日矛が渡来した
 新羅国には
 「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」
 という名の沼があり
 そのほとりで
 卑しい女が1人昼寝をしていた
 そこに日の光が虹のように輝いて
 女の陰部を差し、女は身ごもって
 赤玉を産んだ
 この一連の出来事を窺っていた
 卑しい男は、その赤玉をもらい受け
 男が谷間で牛を引いていて
 国王の子の
 天之日矛に遭遇し
 天之日矛に牛を殺すのかと
 咎められたので
 男は許しを乞うて
 赤玉を献上
 天之日矛は玉を持ち帰り
 それを床のあたりに置くと
 玉は美しい少女の姿になった
 そこで
 天之日矛はその少女と結婚し
 正妻とした
 ある時
 天之日矛が奢って女を罵ると
 女は祖国に帰ると言って
 天之日矛のもとを去り
 小船に乗って難波へ向い
 そこに留まった
 これが
 難波の
 比売碁曾(ひめごそ)の社の
 阿加流比売神である
 (大阪市の比売許曾神社)
 ↓↑
 天之日矛は妻が逃げたことを知り
 日本に渡来して
 難波に着こうとしたが
 浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が
 遮ったため入ることができなかった
 再び新羅に帰ろうとして
 但馬国に停泊したが
 そのまま但馬国に留まり
 多遅摩之俣尾(たじまのまたお)
 の娘の
 前津見(さきつみ)を娶り
 前津見との間に
 多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた
 多遅摩母呂須玖から
 息長帯比売命神功皇后・第14代仲哀天皇皇后)
 に至る系譜を伝える
 天之日矛が伝来した物は
 「玉津宝(たまつたから)」と称する八種
 これらは
 「伊豆志之八前大神
 (いづしのやまえのおおかみ)」
 と称される
 (兵庫県豊岡市の出石神社祭神)
 『古事記』では
 続けてこの
 伊豆志大神についての物語が記される
 ↓↑
 『播磨国風土記』では
 天日槍について
 地名起源説話が記録
 ↓↑
 揖保郡揖保里 粒丘条
 客神(外来神)の
 天日槍命
 韓の国から海を渡って
 宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近)
 の川辺に着き
 当地の長たる
 葦原志挙乎命
 (あしはらのしこおのみこと)に
 宿所としての土地を求めると
 志挙は海中に宿ることのみを許した
 これを受けて
 天日槍命
 は剣で海をかき回し、出来た島に宿った
 志挙はその霊力に畏れをなし
 天日槍命よりも先に
 国を抑えるべく北上し
 粒丘に至って食事を取った
 その時に口から飯粒が落ちたため
 「粒丘(いいぼおか)」と称される
 (たつの市揖保町揖保上の北のナカジン山)
 宍禾郡比治里 川音村条
 天日槍命が村に泊まって
 「川の音がとても高い」
 と言ったので
 「川音村(かわとのむら)」と称される
 (宍粟市山崎町川戸付近)
 ↓↑
 宍禾郡比治里 奪谷条
 葦原志許乎命
 と
 天日槍命
 の2神が谷を奪い合ったので
 「奪谷(うばいだに)」と称される
 ↓↑
 宍禾郡高家里条
 天日槍命
 「この村の高さは他の村に優っている」
 と言ったので
 「高家(たかや)」と称される
 (宍粟市山崎町庄能から山崎付近)
 ↓↑
 宍禾郡柏野里 伊奈加川条
 葦原志許乎命
 と
 天日槍命
 が土地の占有争いをした時
 いななく馬がこの川で
 2神に遭遇したため
 「伊奈加川(いなかがわ)」と称される
 (菅野川)
 ↓↑
 宍禾郡雲箇里 波加村条
 伊和大神の国占有の時
 天日槍命が先に着き
 大神は後から来たが
 大神が
 「対策を
  はかりも(考えも)しなかったから
  天日槍命が先に着いたのか」
 と言ったので
 「波加村(はかのむら)」と称される
 (宍粟市波賀町安賀・有賀・上野付近)
 ↓↑
 宍禾郡御方里条
 葦原志許乎命
 と
 天日槍命
 が黒土の
 志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り
 それぞれ黒葛を足に付けて投げた
 葦原志許乎命の黒葛のうち
 1本は但馬気多郡
 1本は夜夫郡(養父郡)
 1本はこの村
 に落ちた
 そのため
 「三条(みかた)」と称される
 天日槍命の黒葛は
 全て但馬に落ちたので
 天日槍命
 伊都志(出石)の土地を自分のものとした
 別伝として
 大神が形見に御杖を村に立てたので
 「御形(みかた)」と称される
 (宍粟市一宮町の北半部)
 ↓↑
 神前郡多駝里 粳岡条
 伊和大神
 と
 天日桙命
 の2神が軍を起こして戦った際
 大神の軍が集まって稲をつき
 その糠が集まって丘となったが
 その箕を落とした糠を墓といい
 「城牟礼山(きむれやま)」というとする
 (姫路市船津町八幡の糠塚)
 ↓↑
 神前郡多駝里 八千軍条
 天日桙命の軍兵が8,000人あったため
 「八千軍野(やちぐさの)」と称される
 (神崎郡福崎町八千種付近)
 ↓↑
 筑前国風土記
 『筑前国風土記逸文(『釈日本紀』所引)
 足仲彦天皇仲哀天皇)による
 球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲
 征伐のための
 筑紫行幸の際
 怡土県主(いとのあがたぬし
      福岡県糸島市付近)
 らの祖の
 五十迹手(いとで)が出迎えた
 五十迹手はその言の中で
 自分を
 高麗国(朝鮮)の
 意呂山(一説に蔚山)に
 天降った
 日桙の後裔・・・
 ↓↑
 『摂津国風土記逸文(『萬葉集註釈』所引)
 応神天皇の時
 新羅国の女神が
 夫のもとを逃れ
 筑紫国
 「伊波比乃比売島」に住んだ
 (豊後国ながら大分県の姫島)
 この島はまだ新羅から遠くないため
 男がやって来るだろうと
 摂津国
 比売島松原に移った
 その地名
 「比売島」は元の島の名に由来
 ↓↑
 『豊前国風土記逸文(『宇佐宮託宣集』所引)
 新羅国の神がやって来て
 田河郡鹿春郷の付近に住み
 「鹿春の神(かはるのかみ/かわらのかみ)」
 と称された
 (福岡県田川郡香春町の香春神社)
 ↓↑
 古語拾遺
 大同二年(807年)編纂の
 『古語拾遺』では
 垂仁天皇条において
 新羅王子の
 海檜槍(あまのひぼこ)が渡来し
 但馬国出石郡に大社(出石神社)
 をなした
 ↓↑
 霊廟
 アメノヒボコに関わる神社
 但馬国一宮の
 出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内)
 この神社は『延喜式神名帳では
 但馬国出石郡名神大社として
 「伊豆志坐神社八座」と記載
 これは
 『古事記』の
 「伊豆志之八前大神」とも一致
 アメノヒボコが将来した
 八種神宝の神霊が
 「伊豆志八前大神」として祀られ
 アメノヒボコの神霊が併せ祀られている
 この出石神社の創祀は
 社伝を別とすると
 実際には
 アメノヒボコを奉じる
 朝鮮系渡来人の一族が
 その将来した宝物を祀った
 但馬地方では
 出石神社のほかにも関係社数社の分布
 ↓↑
 後裔氏族
 アメノヒボコ
 『日本書紀』『古事記』では
 但馬諸助(多遅摩母呂須玖)
 から
 神功皇后に至る諸人物の祖
 『筑前国風土記逸文では
 怡土県主らの祖とされる・・・
 ↓↑
 『新撰姓氏録』では
 後裔は
 左京諸蕃 橘守
      三宅連同祖。天日桙命の後
 右京諸蕃 三宅連
      新羅国王子の天日桙命の後
 大和国諸蕃 糸井造
       三宅連同祖。新羅国人の天日槍命の後
 摂津国諸蕃 三宅連
       新羅国王子の天日桙命の後
ーーーーー
 ・・・???・・・角がアル人々の関係の和・・・参百六拾度・・・

 2639日目・・・「人災」で許せないのは「ヒト」だが、「自然災害」で許せない「モノ」は「ダレ」だろう?・・・「人災」で許される「ヒト」とは「ダレ」だろう?・・・「自然災害」で許される「モノ」は「ダレ」だろう・・・許される基準は「ナニ」によるんだろう・・・高速道路枠上の「煽り運転の被告」・・・

 活殺格闘技の「相撲」と「土俵枠」、それに「行司審判」を決めたニホン人ってスゴイなァ〜って・・・イクサが無くなって暴力組織が失業常態になった・・・武闘の興業化、見世物化・・・平安時代、パックスローマーナ・・・「Pax Romana (パークス・ローマーナ)」・・・

 ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和・・・
 パクス(パークス)=ローマ神話の平和と秩序の女神・・・
 ホーラ三姉妹のエイレーネー(平和)
        エウノミアー(秩序の女神)
        ディケー(治安)
 ギリシア神話の時間の女神、季節と秩序の三女神の
 エイレーネー
 「強大な一国の覇権による
  相対的な平和」を
 「パクス−」と呼ぶ・・・・葉句素?・・・グゥ・チョキ・パァ
              把握守?   握る・挟む ・開く
 パクス・ブリタニカ(イギリス)
 パクス・アメリカーナ
 パクス・モンゴリカ(タタリカ)・・・祟り化?
 パクス・オトマニカ(オスマン)・・・音真似化?
 パクス・エウロパエア
 ・・・国際平和は「空手⇔素手」で守れるか・・・
 ・・・市民社会は「空手⇔素手」で守れるか・・・
 ・・・個々人の生活は「空手⇔素手」で守れるか・・・
 ↓↑
 日吉丸はナゼ「うり売り」に仮装したんだろうか?
 「肥前佐賀県)の名護屋城」で開催した
 「瓜畑遊び」といわれる「仮装大会=やつしくらべ」で
 関白秀吉が「瓜売」を演じた・・・
 江戸時代の「太閤記小瀬甫庵著、寛永三年)」・・・
 文禄三(1594)年六月
 瓜畑に、瓜屋や旅籠屋などを粗末な様子で建て
 瓜売りの商人の仮装をした
 ↓↑ 
 彼の出自は・・・?・・・名古屋中村
 ↓↑
 豊臣秀吉
 天文六年二月六日(1537年3月17日)
 〜
 慶長三年八月十八日(1598年9月18日)
 名 木下藤吉郎、秀吉
    羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉
 別名 元吉
 渾名 木綿藤吉
    豊太閤
    猿
    禿げ鼠
 神号 豊国大明神
 戒名 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
 ↓↑
 父親(実父)は
 木下 弥右衛門
 家臣の
 竹中重門の秀吉の一代記
 『豊鑑』に
 「郷のあやしの民の子なれば。
  父母のなもたれかは志らむ。
  一族なども志かなり」・・・不明、不詳・・・
 後世には
 カバネを持つ名主百姓
 カバネを持たない最下層の貧民
 下層農民
 大工
 鍛冶師
 技術者集団
 針売り商人
 木地師
 漂流民の
 山窩(広義的な傀儡子)の出身
 ・・・さまざまな出自説・・・
 ↓↑
 生年不詳
 死没 天文十二年一月二日
   (1543年2月5日)
 別名 弥助、昌吉
 戒名 妙雲院殿栄本虚儀・・・栄本は虚儀(虚偽)
 主君 織田信秀
 父母 吉高(弥助)
 妻 大政所(なか)
 子 瑞雲院日秀(三好吉房室)
    秀吉(藤吉郎)
 ↓↑
 豊臣秀吉
 母 なか・天瑞院
   なか(仲)
   永正十三年(1516年)
   尾張国愛知郡御器所
   死没
   天正二十年七月二十二日
   (1592年8月29日)
   別名
   天瑞寺殿贈准三后従一位
         春岩宗桂大禅定尼
   肩書き 大政所、二位尼
   配偶者 木下弥右衛門
       竹阿弥(筑阿弥・再婚相手)
   子供  瑞龍院日秀、豊臣秀吉、秀長、朝日姫
   親   関兼貞(関兼員)
   親戚  妹:栄松院(小出秀政の室)
       松雲院(福島正則の母)
       大恩院(青木秀以の母)
   従妹  聖林院
       伊都(加藤清忠の室、加藤清正の母)
 ↓↑
 義父・・・なかの後夫(再婚相手)
 弥助(弥右衛門)=竹阿弥=筑阿弥
 天文十二年(1543年)一月二日
 秀吉が七歳(または8歳)の時に死去
 戒名 妙雲院殿栄本虚儀
 ↓↑
 「瓜=うり=ウリ⇔우리=○+丅+己+礀=We・Us」
 「ウリは、話し相手が自分と親密な関係で使う
  目上に向けては
  ジョヒ(저희)を使い・・・저=𠆣(一人)+┫(卜の逆字)
              𠆣の異体字「兀・𠆣・㐳・⺎」   
              희=亠+○+一+礀
                亠=音・鍋蓋
  ウリ(우리)は使わない」・・・우=○+丅
                   丅=下
                리=己+礀
 ↓↑     ↓↑
 瓜にツメあり、爪にツメなし・・・
 瓜に爪 あり、爪に爪 なし
 「瓜(カ・ク)」という字にはつめ(ム)があり
 「爪(ソウ・ショウ)」という字にはつめ(ム)がない
 ↓↑
 戌に棒(-)あり戊に棒(-)なし
 いぬ(犬・狗)にボウあり、つちのえ(戊・ボウ・ボ)にボウなし
 ↓↑
 いぬ(犬・ケン)に点(丶・チュウ・燈・灯)あり、
 ふとい(太・おほの・タイ)に点(丶・チュウ・燈・灯)あり、
 太安万侶=太安萬侶⇔おおい=莞・太藺・不問・附解い
           万=萬⇔禺+α・偶・遇・寓・隅
 おほい(大・おほきい・ダイ)に点(丶・チュウ)なし
 ↓↑
 太い=両手を広げた人の腹の中に
   「丶・チュウ・ゝ・灯・丁)あり」
   ・・・太乙・太歳・太秦(うづまさ)
      太安・太古
      太子・太公・太平・太陽・太陰
      太閤
      太政大臣(おおきおおいもうちぎみ)
      太政官(おおいまつりごとのつかさ)
    廓然太公
      太液芙蓉(美人顔のたとえ)
      太羹玄酒(タイコウゲンシュ)
           無味の肉汁(太羹)と水(玄酒)
      太山鴻毛(太山=泰山)
           命(生死)の軽重
      太山之安
      太山府君(府君=郡の最高長官
              泰山の最高位=生死を支配する神)
      太山鳴動(大山が産気づき
           激しい音を立て揺れ動いた結果
           鼠が一匹生まれた
           ・・・ネズミ=移鼠=イエス・キリスト
           古代ローマの諺(ことわざ))
      太山梁木(泰山頽れ梁木壊る・孔子自身の死の予見)
      太盛難守(太盛守り難し)
      太牢滋味(太牢=牛、羊、豚の三種の肉)
    天下太平  (『礼記(禮記)』仲尼燕居)
           孔子と子夏との問答・礼に関する注記
 ↓↑
 戌に棒(-)あり戊に棒(-)なし
 いぬ(犬・狗)にボウあり、ぼう(戊・ボ)にボウなし
 ↓↑
 いぬ(犬・ケン)に点(丶・チュウ)あり、
 おほい(大・ダイ)に点(丶・チュウ)なし
 ↓↑
 いぬ(狗・グ・ク)に犭(いぬ・けものへん・ケン)あり、
 ク(句・ク)に犭(いぬ・けものへん・ケン)なし
 ↓↑
 ク(句・ク)に口あり
 ク(勹・ホウ・ヒョウ)に口なし
 ↓↑
 우(ウ・宀)=○+丅(カ)・・・丁(ひのと・チョウ・テイ)
 리(リ・刂)=己+礀・・・己・巳・巴・已・・・卩・尸
          礀で叩(敲・たたく)・・・割符・屍
 「真桑瓜(まくわうり)」=「참외(チャメ)」
           참(チャ)=大+ト+口
           외(メ )=○+丄(⊥・上)
 「瓢箪(ヒョウタン)」=「표주박(pyojubag)」
 「『日本書紀(720年)』の中で瓢(ひさご)の記録」
 「千成瓢箪」=「豊臣秀吉の馬印・小さく数が多い瓢箪の一種
         秀吉が城主だった長浜に
         六瓢箪という秀吉所縁の社寺
         豊臣秀吉を祀った豊国神社
         六瓢箪めぐり(ムビョウタンメグリ)
        (滋賀県長浜市宮前町・長浜八幡宮
         六瓢箪(むびょうたん)⇔「無病(六瓢)息災」
         瓢箪から駒

 ↓↑       
 「쪽박(チョッパク)」=「小さな瓢箪」
 「대박(テバク)」=「大きな瓢箪・大当たり、大ヒット」
 「干瓢(カンピョウ)=「박고지」
             박(パク)=「ふくべ・柄杓・釣瓶」
 ↓↑ ↓↑
 若(わか)いと言う字は、「苦しい」と言う字に似てる・・・
 若(わか)いと言う字は、「若(も)しも」ともヨム・・・
 ナゼだ?・・・「if(イフ)」は未来への可能性・・・
 「隠匿」の「匿(かくす・かくれる・トク・ジョク)」は
 匿=匚(はこ・ホウ)に若を隠す・・・
   見られたくないモノを匚(はこ・ホウ)に隠すって?
   男子なら・・・・ポルノ(Pornography)・春画・・・
   女子は・・・???・・・
 ↓↑
 瓜
 gourd・・・Gourd=ゴード
 まくわうり
 oriental melon
 きゅうり
 cucumber
 しろうり
 pickling melon
 瓜の蔓(つる)には茄子(なすび)はならぬ
 Like father, like son.
 An onion will not produce a rose.
 瓜二つ 二人は瓜二つ
 Those two are
  exactly alike
  [as like as two peas (in a pod)].
 ↓↑ ↓↑
 文禄の役・・・文の禄の訳
 ↓↑     官人に下付される給与
        律令制では
        絁(あしぎぬ)・綿・布・鍬(くわ)・穀物
        など
        後世は
        知行地・扶持米(ふちまい)・給金
        給与・給金・扶持
        stipend
        get a salary 《from》be on the payroll
 ↓↑     当座の褒美・贈り物
 文禄(1592)四月中旬日本軍、釜山上陸
 〜
 文禄二年(1593)
 文禄元年=万暦二十年=宣祖二十五年=1592年
 文禄二年(1593年)に休戦
 文禄元年四月十三日
 1592年5月24日〜1593年7月
 朝鮮半島全域
 満州豆満江一帯
 小西行長
 と
 沈惟敬
 らの協議によって日本と明の間で休戦成立
 日本軍は南に後退、朝鮮半島に築いた城塞に駐留
 ↓↑
 慶長二年(1597年)の講和交渉決裂
 慶長三年=万暦二十六=宣祖三十一年=1598年
 ↓↑
 慶長の役
 1597年1月〜1598年12月
 朝鮮半島三南地方
 豊臣秀吉死去で日本軍が帰国終結
 ↓↑
 支那明国
 李氏朝鮮
ーーーーー
 「スポーツ興行」・「祭りとして奉納行事」
 「相撲(すもう)=土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭りで、同時に武芸でもあり武道でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、大相撲が行われている」・・・
ーーーーー
 志賀 清林
 ↓↑ ・・・志賀 直哉
 ↓↑ (1883年・明治十六年)2月20日
      〜
     1971年(昭和四十六年)10月21日
     宮城県石巻生まれ
     白樺派
     小説の神様・・・?
    「小僧の神様1920年大正九年
     雑誌「白樺」に発表
     デビュー作
    「網走まで」(1910年)
    「或る朝」(1918年)
 ↓↑ 「菜の花と小娘」(1920年
     1913年(大正二年)8月15日
     東京
    「出来事」という小説を書き上げた晩
     里見紝と一緒に
 ↓↑  素人
     相撲を見に行く・・・↓↑
     その帰り道に
     山手線の電車にはねられ
     重傷を負い
     東京病院東京慈恵会医科大学附属病院
     に入院
     同年10月
     その養生のために
     兵庫県城崎温泉に滞在
      城崎滞在中、直哉は
     蜂・鼠・いもり
     という3つの小動物の死を目撃
     短編「城の崎にて」・・・
 ↓↑          ↓↑↓↑
 志賀 清林            
 (しが の せいりん)
 奈良時代の力士・行司
 最高位は最手
 ↓↑
 相撲の吉田司家や各行司家に伝わる
 『相撲傳書』『相撲講本』『相撲式』
 等に登場
 奈良時代
 726年(神亀三年)
 近江国から朝廷に出仕
 相撲の技
 四十八手
 と
 礼法
 と
 「突く・殴る・蹴る」の
 三手の禁じ手を制定する事を
 聖武天皇に奏上した人物・・・
 ↓↑
 志賀清林
 「近江國
  志賀ノ里ニ
  志賀清林ト云ヘル者」と
 『相撲式』(吉田司家蔵)にあり
 本町木戸の出身
 相撲司吉田家の伝承によると
 734年(天平六年)
 「相撲節」の立案に携わり
 相撲の公認の作法を作った
 国技相撲行司の始祖・・・
 ↓↑
 相撲
 力くらべや神事
 『日本書紀
 『続日本紀』に
 719年(養老三年)
 7月に
 宮中相撲節を担当する
 「抜出司」が任命された
 7月7日(七夕)の
 宮中行事としての相撲節会がなされたが
 志賀清林
 それまで明確な作法も土俵もなく
 生死を賭けた闘技であったものを
 「突く、蹴る、殴る」
 の三技を禁手とし
 手による「なげ」
 足による「かけ」
 腰による「ひねり」
 頭による「そり」
 の四手を基本に
 おのおの
 十二手の決まり手を付し
 相撲四十八手とした
 相撲確立の第一人者・・・
 ↓↑
 志賀清林死後
 志賀家は行事の家として代々務め
 平安時代末期に相撲が中断し断絶
 相撲司は
 吉田家(吉田司家)に移り
 吉田家から
 木村家・式守家により継承
 ↓↑
 1918年(大正七年)
 板垣退助碑文の
 志賀清林埋骨之碑が
 清林顕彰会によって建てられた
 ↓↑
 日本国内外の同じような形態の格闘技
 沖縄本島の沖縄角力(シマ)
 モンゴルのブフ
 中国のシュアイジャオ
 朝鮮半島のシルム
 トルコのヤールギュレシ
 セネガルのラム
 ↓↑
 「すもう」
 「すまひ」が「すもう」に変化
 「角力」、「捔力」(『日本書紀』)
 「角觝」(江戸時代において一部で使用)
 「力くらべ」を指す言葉
 古代には
 「手乞(てごい)」とも呼ばれていた・・・
 (手乞とは、相撲の別名とされ
  相手の手を掴む事の意
  素手で勝負をする事を意味)
 ↓↑
 英語で
 「sumo(スモウ)」
 「sumo-wrestling(スモウ・レスリング)」
 ↓↑ 
 組み合う格闘技
 相撲と呼ぶ
 腕相撲、足相撲、指相撲、拳相撲、草相撲
 紙相撲
 ↓↑
 記録の最古
 『古事記』の
 葦原中国平定の件で
 建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して
 出雲の
 建御名方神タケミナカタ)が
 「然欲爲力競」と言った後
 タケミカヅチの腕を摑んで投げようとしたが
 タケミカヅチが手を氷柱へ
 また氷柱から剣(つるぎ)に
 変えたため掴めなかった
 逆に
 タケミカヅチ
 タケミナカタの手を
 葦のように握り潰し
 勝負にならなかった
 ↓↑
 人間同士の相撲で最古のもの
 垂仁天皇七年(紀元前23年)七月七日 (旧暦)
 野見宿禰
 と
 「當麻蹶速当麻蹴速)」
 「捔力(すまいとらしむ・スマヰ
     すまい・スマヰと訓す)」
 での戦い
 「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」
 「各擧足相蹶
  則蹶折
  當麻蹶速
  之脇骨
  亦
  蹈折其腰
  而殺之」
 とあり
 試合展開は主に
 蹴り技の応酬
 最後は
 宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り
 更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃し
 腰骨を踏み折り、絶命させた
 現代の相撲とはルールも意識も異なる
 武芸・武術
 宿禰・蹶速は相撲の始祖
 ↓↑
 『古事記(垂仁記)』
 「ここをもちて軍士の中の力士の
  軽く捷きを選り聚めて
  宣りたまひしく、その御子を取らむ時
  すなわちその母王をも掠取れ。
  髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に
  掬みて控き出すべし。とのりたまひき。
  ここにその后
  かねてかその情を知らしめして
  悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ
  また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし
  また酒もちてその御衣を腐し
  全き衣の如服しき。
  かく設け備へて、その御子を抱きて
  城の外にさし出したまひき。
  ここにもの
  力士等、・・・・力士=相撲取り
  その御子を取りて
  すなはちその御祖を握りき。
  ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち
  その御手を握れば、玉の緒また絶え
  その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ」
 ↓↑
 「力士=ちからひと
    =すまひひと
    =相撲取り」・・・リキシ?
 ↓↑
 「相撲」の記録表記は
 「日本書紀雄略天皇十三年」
 の記述で、当時の
 木工にして
 黒縄職人?・・・黒(くろ)の縄(なわ)
 であった
 猪名部真根
 が
 「決して(刃先を)誤らない」
 と天皇に答えたため、
 雄略天皇
 采女を呼び集めて服を脱がせ
 褌にして相撲を取らせた
 記述が初見
 ↓↑
 「万葉集」と「相撲」
 相撲使の役人
 大伴君熊凝(くまごり)
 が
 某国司(それのくにのつかさ)
 官位姓名の従者(ともびと)となり
 諸国から力士を選別し
 都に上る途中、都へ向かった
 だが
 途上、病にかかり
 そのまま
 安藝国
 佐伯郡(さへきのこほり)
 高庭(たかには)
 の駅家(うまや)で
 身故(みまか)った。
 18歳
 ↓↑
 大伴熊凝
 が急病で亡くなり
 それを悼んで
 本人になり代わって・・・?・・・代行して?
 山上憶良
 詠った歌・・・・・・・・?・・・ウタった?・・・ナゼ?
 ↓↑ ↓↑
 「出でて行きし
  出 弖由伎斯

  日を数 へつつ
  日乎可俗閇都々

  今日今日と
  家布々々等

  我を待たすらむ
  阿袁麻多周良武

  父 母 らはも
  知々波々良波母」
  巻五(八九〇)
 ↓↑
 (私の出て行った後の日を
  数えながら
  今日か今日かと
  私の帰りを
  待っているだろう
  父母よ)
 〔一(云はく)、母の悲しさよ〕」
 ↓↑
 歌も巻五(八八六)の歌などと同じく
 相撲使いの某国司(官位姓名)の
 従人となって
 奈良の都へと向かう途中で
 亡くなった
  大 伴  君 熊 凝
 (おほとものきみくまこり)
 の死を悼んで
  山  上  憶 良
 (やまのうへのおくら)
 が詠んだ
 六首の歌のうちのひとつ
 ・・・
 ↓↑
 「一に云はく」以降は
 憶良自身による結句の別案
 歌の内容は
 「私の出て行った後の日を
  数えながら今日か今日かと
  私の帰りを待っているだろう
  父母よ」
 巻5の890 山上憶良
ーーーーー
 うち日さす 宮へ上(のぼ)ると
 たらちしや 母が手離(はな)れ
 常(つね)知らぬ 国の奥処(おくか)を
 百重山(ももへやま) 越えて過ぎ行き
 何時(いつ)しかも 京師(みやこ)を見むと
 思ひつつ 語らひ居(を)れど
 己(おの)が身し 労(いたは)しければ
 玉鉾(たまほこ)の 道の隈廻(くまみ)に
 草手折(たを)り 柴取り敷きて
 床(とこ)じもの うち臥(こ)い伏(ふ)して
 思ひつつ 嘆き伏(ふ)せらく
 国に在らば 父とり見まし
 家に在らば 母とり見まし
 世間(よのなか)は かくのみならし
 犬(いぬ)じもの 道に臥(ふ)してや
 命過(いのちす)ぎなむ
 〔一(ある)は云はく、わが世過ぎなむ〕
 巻五(八八六)
 ↓↑
 この歌は相撲使いの
 某国司(官位姓名)の従人となって
 奈良の都へと向かう途中で亡くなった
  大 伴  君 熊 凝
 (おほとものきみくまこり)
 の死を悼んで
  山  上  憶 良
 (やまのうへのおくら)が
 詠んだ六首の歌のうちのひとつ。
 正確には
  大 典 麻 田 陽春
 (だいてんあさだのやす)が
 詠んだ先の
 巻五(八八四)の歌と
 巻五(八八五)の歌に
 山上憶良
 追和して詠んだもの
 ↓↑
 憶良が亡くなった
 熊凝になり切って詠んだもの
−ーーーー
 『日本書紀応神天皇三十一(31)年九(9)月条
 ↓↑    応神天皇=第十五代天皇
            諱は誉田別尊
           (ほむたわけのみこと)
            誉田別命
           (ほんだわけのみこと)
            大鞆和気命
           (おおともわけのみこと)
            誉田天皇
           (ほむたのすめらみこと
            ほんだのすめらみこと)
            胎中天皇
           (はらのうちにましますすめらみこと)
            麛坂皇子
            と
            忍熊皇子
 ↓↑         は異母兄
 『日本書紀雄略天皇一十三(13)年九(9)月条
       大泊瀬幼武尊
      (おおはつせわかたけ)
       大泊瀬幼武尊
      (おおはつせわかたけるのみこと)
       大長谷若建命
       大長谷王
       大悪天皇
 ↓↑    有徳天皇
 ・・・「31⇔13」+「9」・・・31巻は日本書紀、含、系図不明
               九=9=玖
 ↓↑
 「日本書紀
  雄略天皇十三年(469年)秋九月
  雄略天皇
  二人の
  采女(女官)に命じて
  裸にし
  褌(フンドシ)を・・・憤怒し?
  付けさせ
  自らの事(木工刃物の技)を豪語する
  工匠の
  猪名部真根・・・韋那部  真根=猪名部真根・・・真似?
  の前で    (イナべ の まね)   真音
  相撲をトラせた・・・
  ↓↑     (いなべ の まね)
          木工(こだくみ)・・・鈷巧み?
          墨縄(すみなわ)職人
         「猪名部」は
          木工を専業とした
          品部(しなべ・ともべ・しなじなのとも
             ほんべ)=官司に上番、世襲的職業集団
                  統率者は
                  伴造(とものみやつこ)
         「猪名」は
         『日本書紀』巻
          第十一
          に
         「猪名県」の
         「佐伯部」が・・・佐伯=蝦夷の監督一族
                     弘法大師空海の姓
 ↓↑      「苞苴(おおにえ)」を献上したと記録
 『日本書紀
 巻第十四
 猪名部真根は
 常に刃先を誤らず
 刃をこぼさない様子を
 雄略天皇に怪しまれ
 天皇
 「誤って
  (台座の)石に
  当てることはないのか」
 と尋ねられ
 猪名部真根が
 「決して誤らない」
 と答えた。それで
 天皇
 采女を呼び集めて
 衣服を脱がせ褌(ふんどし)をさせ
 人前で
 女相撲を取らせた
 その様子に見とれた・・・目が眩み
 猪名部真根は
 刃先を誤り・・・ナンの道具の刃先か?・・・鑿・鉋・鋸
 雄略天皇
 豪語した事と違ったため
 処刑執行となる所
 その仲間が
 猪名部真根
 の処刑を
 匠(たくみ)な
 墨縄技術の・・・墨糸(すみいと)
        「墨壺(すみつぼ)」の
         糸巻き車に巻いてある
         麻糸
         墨糸の線引き技術
         すみなわ・規則・軌範・標準
 失伝を憂う歌を詠んだ
 それを聞いた
 雄略天皇
 処刑中止の為の使いを出し
 執行寸前で中止させ、事なきを得た
 ↓↑
 「最古の女相撲」の記録・・・
 ↓↑
 皇極天皇元年(642年)七月二十二日
 百済使節
 大佐(ダイサ)の・・・・大差・代差?
 平智積(ヘイチシャク)・・・「併置・並置」釈?
 らを饗応し
 余興として
 健児(ちからひと・ケンジ)に命じて
 同年四月八日に亡命していた
 百済王族
 翹岐(ギョウキ)・・・ギョウキ
 の前で        経記・行記・行基・行規?
 相撲・・・すもう・・・相=相対・相模(相見・佐賀美・沙加美)
 をとらせた      撲=扌+菐
 ↓↑           異体字
             「扑(簡体字)・攴・攵
              𢪗・擈
              菐・僕・璞・轐・墣・䑑・樸・幞・蹼
              うつ・たたく・ボク
              なぐる・打ちたたく
              撲殺・撲滅・打撲
              丵・業・菐・撲
 ↓↑           対=對・・・相對(対)
              菐は鋸歯のある器(丵=サク)
             「丵」=いれづみの鍼(はり)
             「刺青(入墨・黥面文身)の針(はり)」
              だろう・・・黥面文身・・・鯨=魚+京
              並=䒑+业
                異体字「並・𠀤・併・傡
                    竝・幷・𢆙・𥩵」
             「辛=からい・つらい・かのと・シン」
              辛=𨐌⇔丵=业+䒑+十
             「𨐌=立+キ=亠+羊=立+一+十」
             「辡(ヘン・ベン・弁)」
 「相撲節会
 奈良時代平安時代
 宮中行事の一つ
 相撲節会が毎年七月頃に行われ
 毎年40人ほどの強者が
 近衛府により選抜され
 宮中で天覧相撲をとった
 天平六年(734年)
 節会を統括する
 相撲司の初見は
 養老三年(719年)で
 8世紀初頭に定着した・・・
 ↓↑
 相撲節会
 当初は七夕の宮中行事の余興
 後に健児の制が始まると
 宮中警護人の選抜
 相撲節会は重要な宮中行事
 健児の選抜という
 本来の趣旨は次第に忘れられていった
 12世紀
 律令制の衰退
 都の政情不安定
 相撲節会は滞る
 承安四年(1174年)
 最後に廃絶
 ↓↑
 「神事相撲」・・・・神事=シンジ=新示・新字・・・?
           相撲=ソウボク=総模句・・・・?
 神社における
 祭事の相撲
 神事相撲
 農作物の豊凶を占い
 五穀豊穣を祈り
 神々の加護に感謝するための
 農耕儀礼
 ↓↑
 中世
 「武家相撲」
 実践的な意味での相撲は
 組み打ちの鍛錬として
 封建制を成立させた武士の下で広まった
 源頼朝は特に相撲を好み
 鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた
 ↓↑
 足利幕府
 相撲の奨励には消極的
 戦国大名は熱心に
 相撲人を養成
 応仁の乱以降
 都落ちをした貴族とともに
 京都の相撲文化が地方に伝わり
 民衆の間に相撲が定着
 相撲を生業とするものが現れる
 土地相撲
 「草相撲」
 ↓↑
 近世
 「勧進相撲
 江戸時代
 土地相撲の興行化
 興行主は
 神事相撲の「勧進」にことよせ
 勧進相撲と称し
 武家相撲も力士を
 大名の抱えとすることで
 名残をとどめた
ーーーーー
 憎々しい憎まれ役が
 「巧い・上手い・ウマい」役者・・・タレント?
 KC
 1973年9月11日
 癸丑癸 辛 己 傷官 傷官 墓
 辛酉庚 辛 劫財 比肩 帝旺
 庚戌辛 丁 戊 --- 劫財 衰
ーーーーー
 ・・・???・・・「怨恨」の地勢・・・世界の地理的半島の場
 字形は「呂=国⇔半島⇔国」・・・「侶=人+口+ノ+口」・・・
 ・・・???・・・「諦念」の地勢・・・極東の島
 ・・・???・・・「海賊」の地勢・・・極西の島
 
 

 2638日目・・・トワナイ「人人」・・・ナラビ「立ち並(竝)ぶ人々」・・・「並(竝)ぶ人形=陶器の兵隊・粘土の兵隊=騎兵俑・軍馬俑・彩色兵士、兵馬俑(ヘイバヨウ)」・・・「従=彳+从+止=從=从=人+人=彳+䒑+龰」・・・異体字は「從・从・䢨・苁・踨・踪・蹤=したがう・したがえる・より・ジュウ・ショウ・後について行く・つきしたがう・従軍・従者・侍従・臣従・随従・追従・つきしたがう者」・・・旧字は「從」・・・從=新字体は「従」・・・本字は「从」・・・「二人が前後する形」、「歩行を表す「辵(辶・チャク)」、


 「並(竝の略字)=なみ・ならべる・ならぶ・ならび・ヘイ・竝(旧字)・并(簡体字)・傡(異体字)」・・・「普通・平均的・同列にならぶ・並行・並称・並進・並存・並立・ 並列・なみ⇔並木・並並・毛並・月並・人並・町並・鮎並・足並・人並・街並・手並・軒並・家並・杉並木・鮎並女・十人並」・・・「アイナメ=鮎並・鮎魚女・愛魚女・相嘗=アユのように縄張りを持つため・鮎並が転訛・アユに似て滑らか・形が鮎に似ているので鮎魚女とした・賞味すべき美味な魚の意味」・・・「名のりは、なめ・み・みつ」・・・「日並」・・・「日雙」・・・
 ↓↑   ↓↑
 「日並皇子尊=草壁皇子=日雙皇子命=岡宮天皇
       =天武天皇の第二皇子
       =母は持統天皇
       =子供は文武天皇元正天皇、吉備親王」・・・
 「后は阿閉皇女=元明天皇
       (第四十三代
        在位707年7月17日〜715年9月2日)」・・・
 「日並皇子尊(岡宮天皇)
  (ひなみしのみこのみこと)」
 「妃は阿閉皇女(元明天皇)
    日本根子天津御代豊国成姫天皇
  (やまと ねこ あまつ
          みよ
         (みしろ)
       とよくに なりひめの すめらみこと
       豐國成姬)
       和銅五年正月二十八日(Y・712年3月9日)
        壬子・癸卯・丁酉
       古事記の献上」
 「子供は軽皇子(文武天皇)=珂瑠皇子
     氷高皇女(元正天皇)
     吉備皇女(夫は長屋王
          子は膳夫王
            桑田王
            葛木王
            鉤取王)」
 ↓↑
 土or士・・・土=士=十+一=拾壱・拾壹・足壱・足壹
 ↓↑
 「𡌶=土+並=異体字は垪
   =土+并=圦(はか・はが ・はた)
   =土+入=はが=芳賀」・・・
 「𡌶=土+ソ+一+业
   =十+一+丷+一+业
   =十+一+䒑+业
   =十+一+丷+亚
   =土+並=𡌶」・・・土生(はぶ)・・・
 「碰=石+並=麻雀のポン=カイ・コウ」
 「磕=石+盍=磕磕は物がぶつかる音」
 ↓↑

   ならび=𡌶・・・ならびつち=𡌶?
   ならびいし=雙石
   ならびおか=双岡. 並岡. 雙岡
   ならびがおか=双岡
   ならびまつ=双松
   ならひら=奈良平
   ならふ=楢府=ならぶ=楢府・奈良部
   ならふえふき=奈良笛吹
   ならべ=楢部・奈良部
   ならま=奈良間
   ならまつ=双松・雙松・奈良松
   ならみだて=楢見館
ーーーーー
 問わない
 とは言えない
 問わず
 と得ず
 永久にあらず 
 翔和(とわ)にあらず
 ↓↑
 「とはずがたり(とわずがたり)」
 人がたずねないのに、自分から語りだすこと
 ひとりごと・独り言・一人言
 Monologue
 talk to oneself
 say to oneself
 mutter [mumble] to oneself
 ・・・「独り言の記録」ならば、
    「日記」に類する記録だろう・・・
 「ウェブログWeblog)の略
  自分の意見や感想を日記風に記し
  それに対する感想などを閲覧者が
  自由にコメントできる形式のWeblog
 「Web(ウェブ)上にlog(ログ・記録)を
  残すという意味のWeblogウェブログ)の略」
 「個人の日記などを、簡便な方法で作成し
  公開することができるウェブサイトの総称」
 ↓↑
 「とはずがたり(とわずがたり)」・・・?
 鎌倉時代の中後期
 後深草院二条が綴ったとみられる日記、紀行文
後深草院に仕えた女房
 二条の
 14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの境遇
 後深草院や恋人との関係
 宮中行事、尼となってから出かけた旅の記録
 5巻5冊
 1313年ごろまでに成立した・・・
 ↓↑
 一般への公開は1950年(昭和25年)
 桂宮本叢書第15巻が初
 鎌倉時代後期
 古写本一種類の断簡が数点知られる・・・
 (by wikipedia)
 ↓↑
 11年
 干支 辛未
 日本
 垂仁天皇 四十年
 皇紀671年
 中国
  新  始建国三年
 朝鮮
 高句麗 瑠璃明王三十 年
 新羅  南解 王  八年
 百済  温祚 王二十九年
 ↓↑
 マルクス・アンティスティウス・ラベオ
 (M. Antistius Labeo )
 古代ローマの法学者(生年未詳、10年没説あり)
 ↓↑
 マルクス
 法学者
 パクウィウス・アンティスティウス・ラベオ
 の息子
 父親のパクウィウスは
 ジューリアス・シーザー
 の暗殺者
 マーカス・ユニウス・ブルータス
 を支持
 ローマ共和制度を信奉
 博覧学、法原理、弁証法言語学
 生涯に400冊もの本を書いた
 十二表法、近衛兵の布告、教皇の法
 訴訟事件の収集
 種々の
 定義と法的な提案の収集や論評等に及んだ
 彼の業績はほとんどが死後に発行
 プロキュリアン法学校の創設者
 ↓↑
 111年
 干支      辛亥
 日本
 景行天皇   41年
 皇紀771年
 中国
 後漢   永初 5年
 朝鮮
 高句麗  太祖王59年
 新羅   婆娑王32年
 百済   己婁王35年
 ↓↑
 カール・ハインリヒ・マルクス
 (Karl Heinrich Marx)
 文化15年4月1日
 1818年5月5日〜1883年3月14日
 戊寅(己・丙・甲) ⇔癸未(丁・乙・己)
 丙辰(乙・癸・戊)害⇔乙卯(甲・ ・乙)
 戊辰(乙・癸・戊) ⇔丁巳(戊・庚・丙)
  戌亥=空亡
ーーーーー
 ・・・
 高柳 健次郎
 (1899年1月20日〜1990年7月23日)
 戊戌(辛・丁・戊)⇔庚午(丙・ ・丁)
 乙丑(癸・辛・己)⇔癸未(丁・乙・己)
 戊子(壬・ ・癸)⇔己丑(癸・辛・己)
 午未=空亡
 ↓↑
 日本ビクター元副社長
 技術最高顧問
 静岡大学名誉教授
 日本のテレビの父
 1926年12月25日
 浜松高工にて
 ブラウン管による
 電送・受像を世界で初めて成功
 送像側に機械式の
 ニプコー円板と
 受像側にブラウン管を用いて
 片仮名の「イ」の文字を送受像
 走査線の数は40本
 「イ」の文字は
 「いろは」順の最初の文字として選んだ
 ↓↑
 いろはにほへと ちりぬるを
 色はにほへど  散りぬるを
 以呂波耳本へ止 千利奴流乎和加
 伊路八尓保反都 知理沼留遠
 ↓↑
 わかよたれそ  つねならむ
 我が世たれぞ  常ならむ
 和加餘多連曽  津祢那良牟
 王可与太礼祖  ツ年奈羅无
 ↓↑
 うゐのおくやま けふこえて
 有為の奥山   今日越えて
 有為能於久耶万 計不己衣天
 宇謂乃 九也末 介布古延弖
       麻 気符
 ↓↑
 あさきゆめみし ゑひもせす
 浅き夢見じ   酔ひもせず
 阿佐伎喩女美之 恵比毛勢須
 安作畿由馬弥志 會皮文世寸
     面 士 廻非裳
    『金光明最勝王經音義』
 ↓↑
 いろはにホへト
 ちりぬるヲわカ
 よたれそツねナ
 らむうゐノおク
 やまけふコえテ
 あさきゆメみシ
 ゑひもせ  ス
 ↓↑
 「壹與羅殺鴉得」・・・?
 「呂理多夢真差異」・・・?
 「歯塗例宇気記模」・・・?
 「似留素意布由施」・・・?
 「大津の来女(姑女)」・・・?
 「経和音御重見」・・・?
 「咎無くて死す」・・・?
 ↓↑
 色 葉字類抄
 伊呂波字類抄
 ↓↑
 高柳 健次郎
 1937年
 NHKに出向
 東京オリンピック
 テレビ放送を目指して
 テレビ受像機の研究
 1938年に日中戦争が激化
 東京オリンピックは中止
 テレビの研究も中断
 レーダーや奮龍の
 誘導装置などの研究
 終戦
 NHKに戻ってテレビの研究を再開
 GHQの指令によりテレビの研究を禁止
 1946年
 日本ビクターに入社
 NHK、シャープ、東芝と共同で
 テレビ放送技術とテレビ受像機を完成
ーーーーー
 ・・・???

 2637日目・・・2018年・・・2+0+1+8=11・・・11月27日・・・1+1+2+7=11・・・十一・壱壱・拾壱・足壹・・・eleven・the eleventh・・・1111年11月11日11時・・・?・・・1111 November 11・・・

 辛卯年
 日本
 天永二年
 皇紀1771年
 中国
 北宋 政和元年
 遼  天慶元年
 西夏 貞観十一年
 南越=ベトナム
 李朝 会祥大慶二年・・・ベトナム李朝
             仁宗李乾徳の治世の元号
             1110年〜1119年
 ↓↑
 1111年誕生
 アンドレイ・ボゴリュブスキー
 (Andrei Bogolyubsky)、
 ウラジーミル大公・・・裏字意見留考?
 (1111〜1175年)
 ↓↑
 1111年死去
 アルガゼル(Algazer)
 イスラム神学者
 スンナ派イスラーム諸学を形作った
 トゥースに帰郷
 1111年12月18日死去
 ↓↑
 ロベール2世
 フランドル伯
 第1回十字軍に参加
 「エルサレムのロベール」
 1111年10月5日死没
 ↓↑
 プッリャ公ルッジェーロ1世
 (伊:Ruggero I, 1060/61年〜1111年2月22日)
 プッリャ・カラブリア
 および
 シチリア公(1085年〜1111年)
 ルッジェーロ・ボルサ(Ruggero Borsa)とも・・・
 ボルサとは財布の意
 金勘定が好きでついた渾名(あだな・綽名・仇名)
 ↓↑
 ボルサリーノ(イタリア語: Borsalino)
 イタリアの
 アレッサンドリアに本社を置く
 帽子メーカー・及びブランド
 2017年12月19日
 イタリアの老舗帽子メーカー
 「ボルサリーノ(Borsalino)」が破産
 「ボルサリーノ(原題: Borsalino )」
 1970年公開のフランス= イタリア合作映画
 ジャン=ポール・ベルモンド
 アラン・ドロン
 ビッグ・ガン
 「オルネラ・ヴァノー二の歌(L'appuntamento )」
 「逢びき(Ornella Vanoni - L'appuntamento)」
https://www.youtube.com/watch?v=Bq37jQTZFkM&feature=related
https://www.youtube.com/watch?v=z4nhDtkzhRg
 ↓↑
 蕭 常哥=ショウジョウカ
      蕭=艹+肅
        異体字「䔥・萧・萧」
        草の名
        よもぎ(蓬・艾)の一種・蕭艾
        ものさびしい・蕭蕭・蕭条・蕭然
        蠨=虫+蕭=足長(脚長・肢長)蜘蛛(くも)
      常(つね)に哥(うた)う
      与模擬がイツモ歌う・・・?
 遼・・・・遼朝・内モンゴルを中心で
 ↓↑   契丹族満州、モンゴル、華北
      を支配(907/16〜1125)し
      中国北辺を支配した契丹人(キタイ人)
      耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝
      満州から中央アジアの地域に存在し半農半牧
      女真と南の宋に挟撃され
      1125年に滅亡
 ↓↑   ↓↑
      黒契丹=カラは黒、キタイは契丹
      西遼=契丹人の遼の皇帝の一族の
         耶律大石
         が
         金(女真)・宋軍に
         首都燕京を攻撃され
         脱出して外モンゴルを経て西進
         中央アジアに入り
         カラ=ハン朝を倒して
 ↓↑      1133年に建国
 ↓↑   カラ=黒⇔カラス=烏・鴉
          =加羅州・香良洲
           枯らす・涸らす・嗄らす
 ↓↑        唐州・韓州・・・
 の政治家
 字は胡独菫
 諡は欽粛
 容貌魁偉で寡黙
 祗候郎君
 本族将軍
 松山州刺史を歴任
 太子太師
 国舅詳穏
 遼興軍節度使
 北府宰相
 兼侍中
 天慶元年(1111年10月18日)死去

 ↓↑
 藤原宗円
 別名、粟田宗円、宇都宮兼綱
 石山寺(大谷寺)座主
 宇都宮座主
 天永二年(1111年)十月十八日に死没
 ↓↑
 藤原正家
 儒宗
 文章博士
 式部大輔
 藤原北家真夏流(日野家
 式部権大輔・藤原家経の子
 文章博士
 天永二年十月十二日(1111年11月14日)死去
 ↓↑
 大江匡房=死没天永二年十一月五日(1111年12月7日)
 主君
 後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇鳥羽天皇
 東宮学士
 太宰権師
 大蔵卿
 江家文庫を設置
 ↓↑
 大江広房→橘広房
 大江匡房の養子、後に橘氏長者
 文章得業生(もんじょうとくごうしょう)
 天永二年(1111年)
 美濃国に向かう途中で
 下野守・源明国との間で私闘
 殺害された
 ↓↑
 ・・・紀伝道(きでんどう)=日本律令制の大学寮において
 歴史(中国史)を教え
 後に漢文学の学科である文章道(もんじょうどう)
 と統合し
 歴史・漢文学の両方を教える学科となり
 学科は「紀伝道
 博士は「文章博士」と別々の正式名称を用い
 通称として
 「紀伝博士」
 「文章道」という呼び方も用いられた・・・
 ↓↑
 永観(ようかん・えいかん)
 平安時代後期の三論宗の僧
 実父は
 文章生
 源国経
 石清水八幡宮別当元命の養子
 禅林寺の7世住持
 ↓↑
 呂恵卿
 中国北宋の政治家
 字は吉甫
 号は恩祖
 閩南晋江(福建省泉州市晋江市)出身
 参知政事を務めた新法党の人物
 著作
 『文集・孝経伝・道徳経注・論語義・荘子解』等
 ↓↑
 源 国信(みなもと の くにざね)
 天永二年一月十日(1111年2月26日)死去
 ↓↑
 chapter=本・論文などを章に分ける
      本などの
      章・・・立+日+十
      項目・・工+頁+目
      人生・歴史などの重要な一区切り
      一時期を画すること
      たいせつな一部分
      tʃǽptər=チャプター
          chapters・chaptering・chaptered
−ーーーー
 CHAPTER 11
 創世記
 第11章
 ↓↑
 ヨハネによる福音書
 第11章
 ↓↑
 マルコによる福音書
 第11章
 ↓↑
 マタイによる福音書
 第11章
 ↓↑
 ルカによる福音書
 第11章
 ↓↑
 ローマ人への手紙
 第11章
 ↓↑
 ヘブル人への手紙
 第11章
 ↓↑
 申命記
 第11章
 過去的出来事の無知
 ↓↑
 士師記
 第11章
 遊女
 私娼問題
 庶子問題
 ↓↑
 列王紀上
 第11章
 契約不履行
 分断
 ↓↑
 ダニエル
 第11章
 南北問題
ーーーーー
 舊約(旧約)
 ↓
 創世記
 出埃及記=出エジプト記
 利未記=レビ記
 民數記=民数記(みんすうき)
 申命記申命記(しんめいき)
 約書亞記=ヨシュア記(よしゅあき)
 士師記士師記(ししき)
 路得記=ルツ記
 撒母耳記上=サムエル記上
 撒母耳記下=サムエル記下
 列王紀上=列王紀上(れつおうき・じょう)
 列王紀下=列王紀下(れつおうき・げ)
 歷代志上=歷代志上(れきだいし・じょう)
 歷代志下=歷代志下(れきだいし・げ)
 以斯拉記=エズラ
 尼希米記=ネヘミヤ記
 以斯帖記=エステル記
 約伯記=ヨブ記
 詩篇詩篇(しへん)
 箴言箴言(しんげん)
 傳道書=伝道の書(でんどうのしょ)
 雅歌=雅歌(がか)
 ↓↑
 以賽亞書=イザヤ書
 耶利米書=エレミヤ書
 耶利米哀歌=哀歌(あいか)
 以西結書=エゼキエル書
 但以理書=ダニエル書
 ↓↑
 何西阿書=ホセア書
 約珥書=ヨエル書
 阿摩司書=アモス
 俄巴底亞書=オバデヤ書
 約拿書=ヨナ書
 彌迦書=ミカ書
 那鴻書=ナホム書
 哈巴谷書=ハバクク
 西番雅書=ゼパニヤ書
 哈該書=ハガイ書
 撒迦利亞書=ゼカリヤ書
 瑪拉基書=マラキ書

 ↓↑
 新約(しんやく)
 馬太福音=マタイによる福音書
 馬可福音=マルコによる福音書
 路加福音=ルカによる福音書
 約翰福音=ヨハネによる福音書
 ↓↑
 使徒行傳=使徒行伝(しとぎょうでん)
 羅馬書=ローマ人への手紙
 哥林多前書=コリント人への第一の手紙
 哥林多後書=コリント人への第二の手紙
 加拉太書=ガラテヤ人への手紙
 以弗所書=エペソ人への手紙
 腓立比書=ピリピ人への手紙
 歌羅西書=コロサイ人への手紙
 帖撒羅尼迦前書=テサロニケ人への第一の手紙
 帖撒羅尼迦後書=テサロニケ人への第二の手紙
 提摩太前書=テモテへの第一の手紙
 提摩太後書=テモテへの第二の手紙
 提多書=テトスへの手紙
 腓利門書=ピレモンへの手紙
 希伯來書=ヘブル人への手紙
 雅各書=ヤコブの手紙
 彼得前書=ペテロの第一の手紙
 彼得後書=ペテロの第二の手紙
 約翰一書=ヨハネの第一の手紙
 約翰二書=ヨハネの第二の手紙
 約翰三書=ヨハネの第三の手紙
 猶大書=ユダの手紙
 啓示錄=啓示録(けいじろく)
 ↓↑
 書卷分類
 摩西五經=モーセ五書
 四福音書=四福音書(よんふくいんしょ)
 心臟書=心臓の書
 歷史書=歴史の書
 預言書=予言の書
 書信=書簡(しょかん)
 保羅的書信=パウロの書簡
 傳記=伝記(でんき)
 ↓↑
 聖經編
 排的構成
 經節
 章節
 綱目
 註解
 ↓↑
 希伯來文=ヘブル語
 亞蘭文=アラム語
 拉丁文=ラテン語
 希臘文=ギリシャ
 原文=原文(げんぶん)
 直譯=文字どおり
 七十士譯本=七十士希臘譯本
      =七十人訳(ななじゅうにんやく)
 死海古卷=死海写本(しかいしゃほん)
ーーーーー
 ・・・バベル・・・言語崩壊・・・???・・・
 ・・・バベル・・・言語崩壊・・・???・・・
 祥=礻+羊=示+羊=𢒑
   さいわい・さち・きざし・ショウ
   さち・めでたい
   嘉祥(カショウ)・吉祥
   きざし・前ぶれ
   祥雲
   喪明けの祭り
   祥月
   通仮字「翔・詳・常」
   異体字「祥・𢒑」
   清祥・多祥・不祥事
   嘉祥・瑞祥・発祥
   忌み明けの祭り
   祥月・小祥・大祥
   発祥・吉祥・不祥事
   さが=祥兆・前兆
 ↓↑
 さが=性=相=たち
    生まれつきの性質・性格
    持って生まれた宿命
    いつもそうであること・常態・尋常
    ならわし・習慣
    よいところと悪いところ
    特に、欠点や短所
 ↓↑
 比べた時、比較したときのモノの
 …さ+が=……〜さ+が=「様子、様態」が…である
      …凄さが・甘さが・辛さが・華麗さが
      …適切さ がアル、ナイ
 ↓↑
 サガ=佐賀=嵯峨・砂賀・佐雅・相賀
       ・・・相模(佐賀美・相見・さがみ
 ・・・佐賀美邇・・・・サガミに
     迦美而、・・・かみて
    (古事記
 ↓↑
 さがなし=意地が悪い・性格が悪い・たちが悪い
      性なし
      口が悪い・口うるさい
      いたずら好きだ
      差が無し=同じ・同類・同種・・・?
 ↓↑
 さがなし=形容詞・ク活用 未然形
      さがなく・さがなから
      連用形
      さがなく・さがなかり
      終止形
      さがなし
      連体形
      さがなき・さがなかる
      已然形
      さがなけれ
      命令形
      さがなかれ
      性格が悪い・ひねくれている
      意地が悪い
 ↓↑
 さが=よいところ・質
 なし=無い
 ↓↑
 サガ(アイスランド語: saga 複数形: sögur)
 おもに中世
 アイスランドで成立した
 古ノルド語(古北欧語、古アイスランド語とも)
 による散文作品群の総称
 サガ=古アイスランド語
    segja(「言う」を意味する動詞
    英語のsay
    ドイツ語のsagen
    に相当する)から派生した言葉
   「語られたもの、語り物、物語」
    を意味する
 ↓↑
 「さがみに カミて カミくだき・・・」
  佐賀美邇・・・・サガミに
   迦美而、・・・かみて
   於
   吹棄氣
   吹之・・・
 ↓↑
 天照大神(アマテラス)
 と
 建速須佐之男命スサノオ素戔嗚尊
 の誓約(ウケイ・占い)
  うけい(うけひ)=宇気比、誓約、祈、誓
  あらかじめ宣言を行い
  そのどちらが起こるかによって
  吉凶、正邪、成否などを判断する
 ↓↑
 天照大御藭詔
 「然者、汝心之芿明、何以知。」
 於是、
 速須佐之男
 答白
 「各宇氣比而生子。(自宇以下三字以音、下效此)」
 ↓↑
 故爾各中置 天安河而、宇氣布時、
 天照大御藭、
 先乞度
 建速須佐之男命
 所佩
 十拳劒、打折三段而、
 奴那登母母由良邇(此八字以音、下效此)
 振滌
 天之眞名井而、
 佐賀美邇・・・・
 迦美而 ・・・・
 (自佐下六字以音、下效此)、
 於
  吹棄氣
  吹
  之
 狹霧所成藭御名、
 多紀理毘賣命(此藭名以音)、
 亦御名、謂
 奧津嶋比賣命。
 次
 市寸嶋上比賣命、
 亦御名、謂
 狹依毘賣命。
 次
 多岐都比賣命。三柱、(此藭名以音)。
 ↓↑
 速須佐之男命、
 乞度
 天照大御藭
 所纒左
 御美豆良
 八尺勾璁
 之
 五百津之美須麻流珠而、
 奴那登母母由良爾、
 振滌
 天之眞名井而、
 佐賀美邇・・・・
 迦美而、・・・・
 於
 吹棄氣
 吹
 之
 狹霧所成藭御名、
 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。
 亦乞度所
 纒右御美豆良之珠而、
 佐賀美邇・・・・
 迦美而、・・・・
 於
 吹棄氣
 吹
 之
 狹霧所成藭御名、
 天之菩卑能命。(自菩下三字以音)。
 亦乞度所
 纒御𦆅之珠而、
 佐賀美邇・・・・
 迦美而、・・・・
 於
 吹
 棄氣
 吹
 之
 狹霧所成藭御名、
 天津日子根命
 又乞度所
 纒左御手之珠而、
 佐賀美邇・・・・
 迦美而、・・・・
 於
 吹
 棄氣
 吹
 之
 狹霧所成藭御名、
 活津日子根命
 亦乞度所
 纒右御手之珠而、
 佐賀美邇・・・・
 迦美而、・・・・
 於
 吹
 棄氣
 吹
 之
 狹霧所成藭御名、
 熊野久須毘命。(自久下三字以音)。
 幷五柱。
 ↓↑
 於是
 天照大御藭、
 告
 速須佐之男
 「是後所生
  五柱男子者、
  物實
  因我物所成、
  故、自吾子也。
  先所生
  之
  三柱女子者、
  物實
  因汝物所成、
  故、乃汝子也。」
 如此
 詔別也。
ーーーーー
 ・・・佐賀美邇・・・・サガミに=佐我彌爾(書紀)
     迦美而、・・・かみて =加武而(書紀)
      於吹棄氣吹之・・・ =吹棄氣噴(書紀)
      噛みに噛み砕き
      吐き出した息吹の・・・
      吹き棄(うつ)る気吹(いぶき)の
            𪗾然咀嚼(書紀)
            吹棄氣噴之而」
      𪗾然咀嚼(書紀)
      𪗾然咀嚼、此云
           佐我彌爾=佐賀美邇(古事記
           加武而 =迦美而(古事記
          吹棄氣噴之=吹棄氣吹之(古事記
 ↓↑
 𪗾然(さがみ・コツゼン?キツゼン?)に
 咀嚼(か・ソシャク⇔租借)みて
    ・・・かじる=囓る・齧る・噛る・・・化字留・佳字留
       bite (at)・gnaw (at)・nibble (at)・crunch    
       chew・・・栗鼠・鼠
         リス(栗鼠)は、ネズミ目(齧歯目)リス科
            くりス・移鼠=クリスト

 𪗾然咀嚼、此には佐我弥爾加武(さがみにかむ)と云ふ。?
 相武国=さがむのくに=相模国
 「𪗾=歯+吉」=異体字「𪙏=歯+害」・・・?
  𪗾=齒+吉=齿+吉
   =カツ・ケチ・ゲチ
      吉(柔)=害(硬・固)・・・?
       硬いモノはよく齧る・咀嚼・反芻
       老人の歯=こう歯会=尚歯会
       尚歯会
       主宰は遠藤泰通(遠藤勝助)
       高野長英、小関三英、渡辺崋山
       江川英龍川路聖謨
       シーボルトに学んだ
       鳴滝塾の卒業生
       吉田長淑に学んだ者などが
       中心となって結成
       尚歯=尚(とうとぶ)
          歯(年歯・年齢)
          老人への敬老
 ↓↑
 𪗾然咀嚼
 𪗾然咀嚼、
 此云
 佐我彌爾
 加武而
 吹棄氣噴
 之狹霧吹棄氣噴之狹霧、
 此云
 浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理所生藭、
 號曰
 田心姬。
 次
 湍津姬、
 次
 市杵嶋姬、
 凡三女矣。
 ↓↑
 𪗾然咀嚼、而吹棄氣噴之 狹霧所生藭
 囓斷瓊端、而吹出氣噴之 中化生藭
 囓斷瓊中、而吹出氣噴之
 囓斷瓊尾、而吹出氣噴之
 囓斷劒末、而吹出氣噴之
 ↓↑
 尚歯会
 最高齢の主人を含む
 7人の高齢者が招かれ、集まり
 詩賦、和歌を作る
 音楽歌舞の遊宴
 7人は「七叟」
 その他は「垣下」で相伴
 845年
 唐で
 白居易が催した故事が起源
 ↓↑ 
 貞観十九年(877年)
 南淵年名
 がその山荘で行なった
 「皇年代略記」陽成に
 「元慶元年三月
  大納言
  南淵年名
  設二
  尚歯会宴一」
 「濫觴抄」下に
 「尚歯会
  陽成二年丁酉(貞観十九)三月
  南淵年名設」
 ↓↑
 安和二年(969年)三月十三日
 藤原在衡によって
 粟田山荘で(日本紀略、本朝文粋)
 天承元年(1131年)三月(二十日とも二十二日とも)
 藤原宗忠によって
 白河山荘で(百練抄、長秋記、今鏡、古今著聞集)
 それぞれ開かれた
 白居易の先例にならって
 詩賦の遊宴
 ↓↑
 承安二年(1172年)三月十九日
 藤原清輔によって
 白河の宝荘厳院において催された
 和歌の尚歯会の最初(百練抄、愚昧記)
 ↓↑
 養和二年(1182年)
 賀茂茂重
 (古今著聞集)
 以後、
 尚歯会は
 詩賦と和歌とに分かれた
 ↓↑
 江戸時代
 年賀の席で兼ねて行なわれ
 連歌俳諧を交えて行なわれた
 ↓↑
 「風のしがらみ」
 宝永四年(1707年)十二月十一日
 中院通茂
 が77歳のとき尚歯会を催した
 ↓↑
 「渡辺幸庵対話」「嬉遊笑覧」によれば 
 宝永五年(1708年)十二月
 谷中感応寺のとなりの草庵で
 渡辺幸庵の尚歯会があった
 渡辺は127歳で上座
 「長生殿裏春秋富」
 「不老門前日月遅」
 の2句を書いて壁に掛けた
 ↓↑
 「翁草」によれば
 正徳五年(1715年)三月
 江戸
 生島幽軒八十の賀に
 老人7人の集会
 榊原越中守家来
 初名金五郎 志賀瑞翁 167歳
 医師 小林勘斉 136歳
 松平肥後守内 佐治宗見 107歳
 旗本 初名権左衛門 石寺宗寿 97歳
 医師 谷口一雲 93歳
 旗本 下条長兵衛 93歳
 浪人 岡本半之烝 83歳
 旗本 初名山田市之烝 亭主 生島幽軒 81歳
 ↓↑
 「翁草」によれば
 享保八年(1723年)三月一日
 霊元法皇の御所から高寿の人を召され
 尚歯会に准られ
 ↓↑
 「武江年表」によると
 享保十一年(1726年)十一月十八日
 「大道寺友山翁尚歯会
  志賀随翁
  其余六人の翁会すると云、姓名未詳」
 ↓↑
 「視聴草」によると
 明和六年(1769)
 奥医師
 武田長春院の尚歯会が
 仙台河岸の別荘であった
 ↓↑
 「尾張名所図絵」によると
 安永十年(1781年)三月九日
 内藤閑水の催しで
 府下高齢者9人が
 金剛山長栄寺に集会し
 尚歯会で
 詩歌連俳を詠出
ーーーーー
 ???・・・𪗾然(さがみ・コツゼン?キツゼン?)・・・
 忽然=物事の出現・消失が急なさま・突然
 屹然=山などが高くそびえ立つさま
    孤高を保ち周囲に屈しないさま
    他に屈せず、自立しているようす
 ・・・

 2636日目・・・どこの支配者も「ご都合主義」・・・「オポチュニズム(opportunism)」・・・発音が「おポちゅ」って、軽くて、柔らかく浮いたカンジの「パピプペポ」・・・「ばびぶべぼ」は重いカンジ・・・「御+都+合・後+都+合」なら「語+都+合」だろう・・・東京遷都・・・東京奠都(テント)・・・

 ナゼ、「奠都(テント)」・・・天都って「tent」・・・
 ↓↑     天幕・・・天膜=tenマク=天巻
               =転換=展観・天漢(漢河・天川)
               =テンカン=癲癇
        pitch [strike] a tent=テントを張る[たたむ]
 ↓↑     ↓↑
        物を投げる、ほうる、投げ上げる
        人、物をほうり(追い)出す・捨てる(out)
        投げる
        間隔・角度・周波数・物質・場所・設備
        俗称・架空
        Pitch in=力を貸す・協力する
        ギブミハンド=give me a hand=ギヴメアハァンド
        pitch=同じことを繰り返し
           一定の間隔で物事を行うときの速度や回数
           仕事や作業の能率
           ねじ・歯車の、隣り合う二つのねじ山
           あるいは歯の間隔
           コイルばねの線の間隔
           登山で確保地点から確保地点までの間隔
           音の高低の度合い・ピッチアクセント
           投球・ピッチング・ワイルドピッチ
           サッカーなどのグラウンド
           プリンター印刷、コンピューターの
           ディスプレー表示の
 ↓↑        文字と文字の間隔や行と行の間隔
           ピッチ=coal tar pitch
           coal tartar=コールタールを塗る
 ↓↑        ひっち=筆致
 ↓↑        ヒッチ=hitch
           環・かぎ・ロープなどを引っかける
           牛馬を杭(くい)につなぐ
           hitch=結び方・小断層・盤張孔
               バットをうしろに引く
               玉掛
               障害・遅延・兵役期間
 ↓↑            足を引きずって歩くこと
 ↓↑            ヒッチハイク
 「奠都(テント)」
 1868年9月3日(慶応四年七月十七日)
 ・・・慶応=慶應・・・『文選』の「慶雲応(まさ)に輝くべし」?
 ↓↑   ↓↑
 『文選(モンセン)』=南朝梁の昭明太子によって
            編纂された詩文集
      全三十巻
      春秋戦国時代〜梁までの
      文学者131名による賦・詩・文章
      800余りの作品を
      37のジャンルに分類して収録
 ↓↑   ↓↑
 「慶雲応輝、皇階授木」
 漢書,範増 謂 項羽

 吾使人望沛公
其氣皆為龍
 成五色、此天子氣、急撃之勿失。
 春秋
 孔演圖
 曰
 天子皆五帝精、必有諸神扶助、使開階立遂。
 宋均
 曰
 遂、道也。
 春秋
 保乾圖
 曰
 黒帝治八百歳、運極而・授木。
 蒼帝七百二十歳而授火。
 1+8+6+8=23⇔2+3=5(ゴ=五・伍
              吾・語・誤・互・後・悟・午・御)
 壱(1・一・壹)
 弐(2・二・弍・貳・貮・仁)
 參(3・三)
 肆(4・四)・陸(6・六)・漆(7・七)
 捌(8・八)・玖(9・九)・拾(10・十・足)
 ↓↑   ↓↑
 「奠都(テント)」
 ↓↑
 大木喬任(おおきたかとう)・・・・多寡(多可)等(問答)
  ・・・大(一大)の木(十八)、喬(たか)に任せる
 江藤新平
 の建言により遷都を決定
 天皇東幸の詔を発し
 江戸を東京と改めた
 明治天皇
 11月26日(明治一年十月十三日)
 東京着
 江戸城を東京城と改め
 東京を首都とした・・・
 ↓↑
 京都との東西両京とし
 慶応四年七月十七日(1868年9月3日)
 江戸を東京と改称
 同年九月に元号
 明治に改められ
 同年十月十三日
 天皇が東京に入り
 ↓↑
 明治二年(1869年)・・・2度目の東幸(明治二年三月)
 政府が京都〜東京に移転・・・二都・・・都合=奠都?
 ↓↑
 「奠都」=都を定めるコト
  ・・・奠=酋+大
       通仮字「填・典」
       異体字「尊・𠪝・鄭・飣」・・・猶太=Judea?
                     大猷院=徳川家光
       まつる・そなえる・さだめる・テン・デン
       神仏に酒食などを供える・「奠茶」
       そなえる・そなえもの・「香奠」
      「香奠・祭奠・釈奠・奉奠
       奠稲(くましね)?
       乞巧奠(キッコウデン)=七夕の短冊」
       さだめる・位置を決める
 「遷都」=都を移すコト
  ・・・遷=辶+䙴=辶+覀+大+巳
      =辶+覀+一+人+己
      通仮字「僊」
      異体字「迁・𠨩・𠨧・𢍱・𢍹・𦦉・𦧂
          拪・𢫥・𢰕・䙲・䙴・𨒟・𨒿
          𨔰・𨕞・𨗢・䢬・𨗺・𨙘・𨙞」
 ↓↑
 徳川家光・・・久能山東照宮日光東照宮へ「遷都」させた?
 ↓↑
 慶長9年7月17日(1604年8月12日)
  〜
 慶安4年4月20日(1651年6月8日)
 改名 竹千代(幼名)→家光
 諡号 大猷院・・・徳川三代将軍「家光」の廟所
    大猷院・・・大誘引・代誘引?
       ・・・代「有印・誘因・誘音」?
 戒名 大猷院殿贈正一位大相国公
 ・・・戒名=カイミョウ=改名・甲斐名・蝦夷名・貝名?
 ↓↑
 徳川家康遺書
 「久能山に納め(遺骨)
  御法会を江戸-増上寺
  靈牌は三州-大樹寺
  御周忌終て
  下野国
  日光山へ小堂を營造、
  京都には
  金地院に小堂をいとなみ
  所司代はじめ
  武家の輩進拜せしむべし。
  徳川実紀(台徳院殿御実紀四十二巻)」
 ↓↑
 己酉約条
 (キユウヤクジョウ)・・・杞憂約定?
 慶長十四年(1609年)
 対馬
 宗氏
 と
 李氏朝鮮の間で結ばれた条約
 慶長条約とも
 全十二条
 文禄・慶長の役以来断絶していた
 朝鮮との貿易が再開
ーーーーー

ーーーーー
 BZI
 生年⇒壬 辰(乙・癸・戊)
    印綬⇔比肩・偏印・正財・・冠帯
      破
 生月⇒癸 丑(癸・辛・己)
    偏印⇔偏印・偏官・偏財・・衰
 生日⇒乙 亥(戊・甲・壬)
      ⇔正財・劫財・印綬・・死
      申酉=空亡
    ↓↑
 73.6⇒庚 申(己・壬・庚)
    正官           害
    ↓↑          ↓↑
       壬 辰・癸 丑・乙 亥
 2018年      冲
    正財年→戊 戌(辛・丁・戊)年
  11月
    偏印月→癸 亥(戊・甲・壬)月
  24日
    正官日→庚 申(己・壬・庚)日
 ↓↑ ↓↑
 RM  (1946年9月1日〜2009年5月23日)
  丙 戌(辛・丁・戊)⇔己 丑(癸・辛・己)
  丙 申(己・壬・庚)⇔己 巳
  戊 寅(己・丙・甲)⇔戊 辰(乙・癸・戊)
    申酉=空亡  大運癸 卯(甲・ ・乙)63
ーーーーー
 ・・・???・・・
 命式以外は
 以下も以上も原文は「wikipedia」から・・・参照、参考、添付
 ↓↑
 NHKの大河ドラマ
 ↓↑
 征韓論
 西郷隆盛
 板垣退助・・・「征韓論」者の張本人・・・自由はシンでいた?
 江藤新平・・・ナゼ、下野したんだか・・・裁判官?
 後藤象二郎・・ナゼ、通称が象二郎か・・・象徴・象形・形象?
        諱は正本(まさもと)
        後に元曄(もとはる)
        ・・・ 曄=さかん・かがやく・あきらか・ヨウ
        字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁
        雅号は暘谷、雲濤、光海、鷗公
 副島種臣・・・ナゼ、種臣なんだか?
         明治二年(1869年)参議
         明治四年(1871年)外務卿
         マリア・ルス号事件で
         中国(支那・清国)人奴隷を解放?
         第1次松方内閣
         副総理・内務大臣
         在任期間
         1892年3月11日〜1892年6月8日
        「神非守人 人実守神」?
     ・・・「神 人を守るに非ず 人 実に神を守る」・・・
 らによってなされた
 ↓↑
 西郷隆盛の主張は
 板垣退助らの主張する
 「即時朝鮮出兵」に反対
 開国を勧める
 遣韓使節
 「遣韓論」
 ↓↑
 西郷隆盛の死後
 板垣退助らの
 自由民権運動の中で
 板垣の推進する征韓論
 西郷の主張として流布定着・・・
 ↓↑
 神功皇后
 高句麗新羅百済
 の「三韓」を
 征韓派は「征韓」とした
 ↓↑
 安政五カ国条約の勅許の奏請
 間部詮勝
 「海外諸蛮此方之掌中ニ納候事
  三韓掌握之往古ニ復ス」
 と朝廷を説得した・・・
 渋沢栄一
 「韓国に対する私の考えは
  三韓征伐とか朝鮮征伐とか征韓論とかに
  刺戟せられたものであろうが
  兎に角
  朝鮮は独立せしめて置かねばならぬ
  それは
  日本と
  同様の国であると考えていた」
  と日清戦争後の
  対露強硬路線に同調した経緯を述べた
 ↓↑
 国学や水戸学
 吉田松陰
 古代日本が
 朝鮮半島
 支配権を持っていたと
 朝鮮進出を唱え
 尊王攘夷運動
 吉田松陰勝海舟橋本左内
 の思想に加えられた
 ↓↑
 慶応二年(1866年)末
 清国広州の新聞に
 八戸順叔・・・八戸事件
 ↓↑      ↓↑
      日本・慶応二年十二月十二日
      清国・同治五年
      朝鮮・高宗三年)
         同治五年十二月十二日
         1867年1月17日(丙寅・辛丑・丁酉)
         清国広州の新聞
        『中外新聞』に掲載
        「八戸順叔」なる
         香港在住の日本人が寄稿した
         征韓論の記事
         日本と
         李氏朝鮮
         清国
         との間の外交関係を悪化させた          
      ・・・記事は原文が見つかっていない・・・
       同治五年十二月十二日
      (1867年1月17日)
       清国の広州(広東省)で発行
      『中外新聞』の
      ・・・『中外新聞』の12月12日版・・・
      問題が発生した1866〜67年の時点で
      広東には『中外新聞』は存在していなかった・・・?
      寧波で発行されていた新聞・・・?
      実体不明だが・・・「八戸順叔」は実在した・・・?
      記事も
      清国-弁理五口通商事務大臣に届けられ
      総理衙門へも報告され
      清国お雇い英国人の
      総税務司
      ロバート・ハートからも報告・・・
 ↓↑      ↓↑
         慶応三年十一月十五日
        (1867年12月10日)
         坂本龍馬中岡慎太郎暗殺
         (近江屋事件)
 ↓↑      ↓↑
         慶応三年十二月九日
        (1868年1月3日)
 ↓↑      王政復古
 「八戸順叔」・・・叔=尗+又・・・尗=蔓を巻いた豆の象形
           =上+亅+八+又
           =ト+一+亅+八+又
            小さい豆粒を手(又)で拾う
            ひろう(拾)・わかい(若)・おさない(幼)
          汝南に芌(いも)を收むるを名づけて
          叔と為す(説文解字
          叔父・叔母・兄弟の序列で三番目
       「伯仲叔季」・・・
        八の戸(はちのへ・やえ・やべ)
     ・・・八戸=はちド・ヤコ・ヤゴ・・・哉語・耶後
           ヤゴ(水蠆)=トンボ目(蜻蛉目)、
              トンボ亜目(不均翅亜目)の幼虫?
              秋津島アキツシマ=安芸対馬
 ↓↑     順は叔(三番目・を・シュク)?
 が
 「征韓論」の記事を寄稿
 清・朝鮮の疑念を招き
 日清・日朝関係が悪化
 (八戸事件)
 朝鮮では国王の父の
 大院君が政を摂し
 鎖国攘夷策
 「丙寅洋擾・丙寅教獄」や
 「シャーマン号」事件
 で勝利
 ↓↑
 明治維新
 対馬藩を介して
 朝鮮に対して
 新政府発足の
 通告と国交を望む交渉
 日本の外交文書が
 江戸時代の形式と異なる
 と朝鮮側に拒否
 明治三年(1870年)二月
 明治政府は
 佐田白茅・・・白の茅(かや・萱・伽耶・栢)
 森山茂・・・・森の山の茂
 を派遣
 佐田は朝鮮の対応に憤慨
 帰国後
 征韓の建白
 9月
 外務権少丞
 吉岡弘毅
 を釜山に遣り
 明治五年(1872年)一月
 対馬旧藩主を
 外務大丞に任じ
 9月に
 外務大丞
 花房義質を派遣
 朝鮮は応じず
 明治六年
 四月、五月
 釜山において官憲の先導で
 ボイコット
 日本国内で征韓論が沸騰
 ↓↑
 大院君は
 「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん
  我が国人にして
  日本人に交わるものは死刑に処せん」
 と布告
 外交官として釜山に居た
 佐田、森山
 等は事の次第を政府に報告
 ↓↑
 明治六年(1873年)6月
 森山帰国後閣議
 対朝鮮外交問題
 参議
 板垣退助
 は閣議
 日本人居留民保護
 を理由に派兵を主張
 西郷隆盛は派兵に反対
 自身が大使として赴くと主張
 後藤象二郎
 江藤新平
 らもこれに賛成
 中国から帰国した
 副島種臣
 西郷の主張に賛成し
 西郷ではなく自らが赴く事を主張
 二人の議論の末
 三条実美の説得もあり
 副島が折れ
 板垣退助も西郷のために尽力
 三条実美の承諾を得て
 西郷を使節として
 朝鮮に派遣することを上奏
 ↓↑
 同年8月
 明治政府は
 西郷隆盛使節として派遣決定
 9月に帰国した
 岩倉具視
 木戸孝允
 大久保利通
 らは時期尚早と反対
 10月
 太政大臣三条は病に倒れ
 太政大臣代理となった
 岩倉の意見が容れられ
 遣韓中止が決定
 西郷や板垣らの
 征韓派は一斉に
 下野(征韓論政変または明治六年政変)
 ↓↑
 台湾出兵江華島事件
 翌年の
 明治七年(1874年)
 宮古島島民遭難事件を発端として
 初の海外出兵となる台湾出兵
 (木戸孝允
  征韓論を否定しておきながら
  台湾への海外派兵を行うのは
  矛盾として反対
  参議を辞任下野)
 ↓↑
 明治八年(1875年)
 李氏朝鮮に対して
 軍艦を派遣
 武力衝突
 江華島事件の末
 日朝修好条規を締結
 ↓↑
  佐賀の乱
  明治十年(1877年)
  西南戦争
  不平士族の乱・自由民権運動
ーーーーー
 ・・・
 1875年9月20日〜22日
 江華島事件
 (コウカトウ、カンファド)事件
 朝鮮の
 首府漢城の北西岸
 漢江の河口に位置する
 江華島(仁川広域市江華郡)付近で
 日本
 と
 朝鮮の間で起こった武力衝突事件
 朝鮮西岸海域を測量中の
 日本の軍艦
 雲揚号
 が
 江華島、永宗島砲台と交戦
 軍艦の名を取って
 雲揚号事件(うんようごうじけん)とも
 日朝修好条規締結の契機
 ↓↑

 明治太平記
 (編輯:村井静馬
  画:鮮斎(小林)永濯
  序:明治8年3月27日
  刊行明治13年(1880年)12月
  判本:東京・小林鉄治郎)
 絵図中にある
 旭日旗
 1870年6月13日
 (明治三年五月十五日)
 太政官布告第355号により制定された
 「陸軍御国旗(陸軍御國旗)」であり
 この当時の
 御国旗ないし海軍旗ではない
 ↓↑
 軍艦旗(海軍旗)への制定は
 明治二十二年
 ↓↑
 1875年(明治八年)
 当時の海軍旗は
 この絵中の左にある海軍旗章
 日本の初代軍艦旗(海軍旗)は
 中央に
 黄色いロープを巻きつけ
 赤い桜花を上部に付けた
 赤い錨を描き
 2本の赤いジグザク横線を入れた
 白旗
 1871年(明治四年)
 〜
 1888年(明治二十一年)
 まで軍艦に使用
 当時の韓兵は白衣
ーーーーー
 以下も以上も原文は「wikipedia」から
       ・・・「卯一記経出蛙」・・・
 ↓↑
 興宣大院君(フンソンデウォングン)
 大院王(テウォンワン)
 1820年12月21日
 (時憲暦嘉慶25年11月16日)
 〜
 1898年2月22日
 (時憲暦光武2年2月2日)
 李氏
 朝鮮末期の王族
 字は「時伯」
 号は「石坡・海東居士」
 本名は李昰応(リ・カオウ・イ-ハウン)
 南延君の四男
 母は郡夫人驪興閔氏
 高宗の実父
 ↓↑
 1864年1月〜1873年11月
 高宗の実父として朝鮮の国政を司り
 外戚の専横排除に関連した
 古い体制打破を目的とした
 具体的には
 有能な人材の登用
 官制改革の実施
 小作人制度の撤廃による
 農地の平等分与
 など・・・
 1866年
 フランス人神父9名
 カトリック信者約8,000名を捕らえて処刑
 (丙寅教獄)
 江華島へ侵攻した
 フランス艦隊を撃退
 (丙寅洋擾)
 通商を求め
 大同江を遡上してきた
 アメリカ商船
 ジェネラル・シャーマン号を焼き払った
 ↓↑
 外戚の専横排除を目的に
 閔妃を高宗の王妃にする
 乙未事変
 閔妃が暗殺された後
 1898年
 79歳で死去
 ↓↑
 「大院君」=直系でない国王の実父に与えられる称号
       興宣大院君=大院位大監
 ↓↑
 1873年11月3日
 大院君の批判する上疏を
 崔益鉉が提出
 閔妃、神貞王后は
 高宗に問い詰め
 権門勢家及び各党派そろって
 大院君を牽制し、大院君失脚
 高宗親政を宣言
 閔妃は大院君に代わって大権を握り
 大院君は雲峴宮で隠居
 閔妃
 鎖国・攘夷政策を捨て
 開国政策
 日朝修好条規で
 朝鮮の門戸開放
 ↓↑
 福沢諭吉邸で
 金玉均・朴泳孝・金弘集
 らを中心とした
 親日開化派が決起・・・
 ↓↑
 1868年(明治元年)12月19日
 明治新政権樹立の
 通告と
 条約に基礎づけられた
 近代的な
 国際関係の樹立を求める
 国書を持つ使者を
 李氏朝鮮政府に派遣
 大院君の
 攘夷を掲げる朝鮮政府は
 西洋化を進める明治政府を訝しみ
 中華王朝の
 皇帝にのみ許される
 称号である「皇」
 中華皇帝の詔勅を意味する
 「勅」の文字が入っていること
 などを理由に国書の受け取りを拒否
 (書契問題)
 ↓↑
 明治政府は
 朝廷直交を実現すべく
 朝鮮外交の権限を外務省に一元化し
 対馬宗氏を除外して
 皇使を派遣すべきだとの意見
 調査目的に
 佐田白茅らが派遣
 1870年(明治三年)
 彼は
 「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべき」
 という征韓の建白書を提出
 ↓↑
 外務省は
 対馬宗氏を通して
 朝鮮外交の一本化を進める
 宗氏派遣計画
 (1871年(明治四年)2月)
 柳原前光
 清国派遣
 (1871年(明治四年)8月政府等対論)
 同年9月13日
 清国と日清修好条規が締結
 1871年(明治四年)4月
 アメリカ艦隊が
 江華島の砲台を占領
 朝鮮側がこれを奪還
 (辛未洋擾)
 朝鮮の攘夷
 1871年(明治四年)末
 岩倉使節団が西欧派遣
 国政・外交に
 関する重要な案件は
 1873年(明治六年)秋まで
 棚上
 ↓↑
 1872年(明治五年)5月
 外務省官吏
 相良正樹は
 外出を禁じられていた
 草梁倭館対馬藩の朝鮮駐在事務所)
 を出て
 東莱府へ出向き
 府使との会見を求めた
 (倭館欄出)
 ↓↑
 同年9月
 対馬藩が管理していた
 草梁倭館
 大日本公館と改名し
 外務省が直接管理
 草梁倭館
 朝鮮政府が
 対馬藩の為に建て使用を認めた施設
 対馬藩
 日本と朝鮮の間の交渉窓口の立場
 この日本側の措置に
 東莱府使は激怒
 10月に
 大日本公館への食糧等の供給を停止
 日本人商人による貿易活動の停止を行った
 ↓↑
 1873年(明治六年)
 5月31日付けの
 広津報告を受け
 朝鮮への使節派遣が閣議
 倭館の館門に掲示された
 伝令書が日本を侮辱と強調し
 出師を前提に
 「陸軍若干軍艦幾隻」派遣すべく
 協議を求めた
 (征韓論)・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・「神 人を守るに非ず 人 実に神を守る」・・・
 「ヒト 人を守るに非ず 人 実にヒトを守る」・・・
 「ヒト」って、ダレッ・・・?