2522日目・・・「太公望(釣り師の代名詞)」・・・「呂尚(リョショウ)は、紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖・姓は姜・氏は呂・字は子牙、牙・諱は尚・軍事長官で師尚父・謚は太公・斉太公、姜太公」・・・「在位期間前1021年頃?〜前1000年頃」・・・

 「ミッション・インポッシブル(mission impossible)」・・・「危険で難しい任務(an extremely dangerous or difficult mission)」・・・?
 ・・・「Mission: Impossible=ミッション:実行不可能」・・・
 尖閣列島魚釣島・・・???・・・「太公望(釣り師の代名詞)」・・・「釣魚台」・・・「竹島≠独鈷島≠独島(獨島・トクト・Dokdo)」=「リアンクール岩礁 (Liancourt Rocks)」・・・
 フランス語=Liancourt=リャンクール=リアンクール
 Liancourt Rocks リアンクール-ロックス=岩礁
 court はフランス語だと「短い」
     英   語で 「裁判所」
 「Liancourt=Lian+court」
 「竹島=Liancourt Rocks=リアンクゥル-ロックス=岩礁
             理案区得留-録句諏
 捕鯨船の名前・・・「船の名前はピカルディーにある街の名前」
 「Landulficurtis」⇔「Landulf の領地」
 ・・・なんで、「独島」なんだか・・・孤独・・・独逸・・・
 ・・・「いもむし・あおむし・中国の国名・四川省の別名・蜀相・蜀道・とうまる・ニワトリの大きいもの」
 「巴蜀(ハショク)・望蜀(ボウショク)
  蜀椒(さんしょう)・蜀犬(ショッケン)
  蜀魂(ショッコン) ・蜀葵(たちあおい)
  蜀椒(なるはじかみ) ・蜀魄(ほととぎす)
  蜀黍(もろこし)・蜀魂」
 「α+蜀」・・・「獨・噣・擉・濁・襡・觸・燭・躅・蠋」・・・
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 春秋時代の各諸侯の爵位(春秋時代)
 公=宋・虞・虢
 侯=魯・斉・晋・陳・衛・蔡
 伯=鄭・秦・燕・曹
 子=楚・呉・越
   ・・・子爵は「異民族」に与える爵位
 男=許
 ↓↑
 周王朝から
 楚・呉・越は「異民族」
 斉は
 侯爵で「異民族」として扱っていない
 太公望呂尚=姜尚
       姜族の出身で
       姜=羌で異民族
 周王室=羌の
     太公望は羌で「異民族」
     周の文王は岐山を拠点とし
     その西側が羌族のエリア
     周=羌族
     「異民族」が中央政権になって
     自分たちは「異民族」ではなくなった
     今の政権にとって、
     自分たちとは
     「異なる民族」だという程度の意味
 ↓↑
 太公望
 曲がっていない釣り針に
 餌もつけず
 川の水面よりも上に垂らしていた
 「太公釣魚、愿(願)者上鈎」
 「喜んで騙される」
 「騙されたものが悪い」
 という意味
 ↓↑
 姜子牙「釣魚台」風景区
 (中国宝鶏市陳倉区天王鎮)・・・陳倉=陈仓
 釣魚台は
 周建国の功臣
 太公望
 周の
 文王と出会った場所
 ↓↑
 釣魚台
 商(紀元前1600〜紀元前1046年)末から
 周(紀元前1046〜紀元前256年)の初頭
 姜子牙(姜太公=太公望
 がこの地で釣り糸を垂れていた場所
 808年間続く周王朝の基礎を作った
 「太公釣魚、願者上鈎
  (太公に釣られるものは
   自ら進んでかかったものだ)」
 「任凭風浪起、稳座釣魚台
  (危険に遭遇しても動揺しない)」
 などの言技(諺・ことわざ)がこの地から生まれた
 ↓↑
 「太公望の魚釣り(太公釣魚)」
 「下手の横好き」
  呂尚は曲がっていないまっすぐな針を使い
  敢えて釣り針を水中には入れず
  水面から三寸上に垂らしていた
 ↓↑
 陳倉の戦い(チンソウのたたかい)
 中国の三国時代
 蜀(蜀漢)と
 魏による
 陳倉(宝鶏市陳倉)での戦い
 蜀の右将軍であった
 諸葛亮の率いる大軍が
 魏の
 郝昭・王生らが防衛する寡兵の
 陳倉城を包囲したが
 落城させることができなかった
 228年
 第一次北伐で
 蜀軍は
 南安・天水・安定の3郡を
 魏から寝返らせたが
 街亭で蜀軍先鋒
 馬謖を魏の
 張郃が打ち破ったため
 蜀軍は雍州から撤退
 魏の大将軍
 曹真は再び
 諸葛亮が北進し
 陳倉道を使用すると予測
 ↓↑
 陳倉(チンソウ・チンサウ)県
 侯国秦の
 武公が都とした
 雍=陳倉城
 県内に
 石鼓山があり
 兵乱が起こらんとするとき
 自然に鳴りだす・・・
 賊の王国が
 叛乱を起こしてこの城を囲んだが
 守りが固かったので城は陥落しなかった
 王国は
 皇甫嵩の追撃を受けて敗走
 もともと
 秦の文公の築いた城の
 防御能力は高くなかったので
 郝昭が新たに下城を築き
 文公の上城と連結させて防御能力を高めた
 諸葛亮は陳倉城に攻撃をかけても
 陥落させられず、撤退
ーー↓↑ーー
 ・・・???・・・
ーー↓↑ーー
 紐革饂飩(ひもかわウドン)
 革紐(かわひも・カクチュウ)のように
 平たく打った饂飩(うどん)
 棊子麺(キシメン)
 ひぼかわうどん・・・平うどんを関東では「ひぼかわ」
           または「ひもかわ」と呼んだ・・・
 紐=糸+丑・・・糸(いと)の丑(うし)
 革=廿+口+十
   廿(にじゅう)の
     口(囗)を
      十(重ねる・拾う・刈る=乂る・足)
 ↓↑
 饂飩(ウドン)
 小麦粉の皮に餡を包んで煮た
 「混飩(コントン)」という唐菓子
 「混飩」⇒「食+昆+食+屯=餛飩」⇒温飩」
      「温飩=オントン⇒饂飩」
       漢音
      「うんどん(ウントン)」
 ↓↑
 ひもとく=繙く・紐解く
      書物の帙 (チツ) の紐を解く意
      書物を開く・本を読む
      書物などで調べて真実を明らかにする
      衣服の紐、下紐を解く
      蕾(つぼみ)が開く
 ↓↑
 下紐が解ける
 相手に思われていると、下紐が自然に解けると信じられていた
 「我妹子 (わぎもこ) し
  我を偲ふらし草枕旅のまろ寝に下紐が解けぬ〈万・三一四五〉」
  結ばれていたものが解ける意から「花が開く」
 ↓↑
 「書物の帙(チツ)の紐を解く
  書物をひらいて読む・紐どく」
 「〜の謎を紐とく・原因を紐解く
  最新の成果を紐解く」
 ↓↑
 「帙(チツ)=巾+失(𠂉一人)・・・「𠂉=ノ−」
       =書物の損傷を防ぐために包む覆い
  厚紙を芯(シン)とし、表に布を貼(は)って作る
  文巻(ふまき・ブンカン)・文包(ふみづつみ・ブンポウ)」
         文煥            文法
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 ・・・「太公望(釣り師の代名詞)」・・・
 在位期間前1021年頃?〜前1000年頃
 一族の本姓は姜氏
 支族は
 呂(河南省南陽市西部)
 or
 申(陝西省山西省の境)
 の地に移住、
 呂姓を称した
 元は屠殺人、飲食業で生計
 ↓↑
 周に仕える以前は
 殷の帝辛 (紂王) に仕えたが
 帝辛が無道で立ち去り
 諸侯を遊説
 最後は西方の
 周の西伯昌 (文王) のもとに身を寄せた
 周の軍師として
 昌の子の発 (武王) を補佐
 殷の諸侯である
 方の進攻を防いだ
 殷を
 「牧野の戦い」で打ち破り
 営丘(山東省淄博市臨淄区)
 を中心とする
 斉に封ぜられた
 赴任後
 呂尚は隣接する
 莱の族長の攻撃を防いだ
 営丘が位置する山東は農業に不適で
 漁業と製塩によって
 斉は国力を増した
 斉は成王から
 黄河、穆棱(湖北省)、無棣(河北省)
 に至る地域の諸侯が反乱を起こした時
 反乱者を討つ権限を与えられた
 死後
 丁公が跡を継いだ
 ↓↑
 呂尚は部族集団の長とみなされ
 周と連合して殷を滅ぼした
 春秋初期
 斉は、自国の権威を高めるために
 始祖である呂尚の神格化を行った
 呂尚の著書と謂われる
 『六韜
 『三略
 唐代に重要視され
 731年
 玄宗によって
 呂尚前漢
 張良を祀る
 太公廟が各地に建立
 760年
 粛宗から
 武成王を追贈
 太公廟は武成王廟と呼ばれる
 文宣王孔子とともに
 文武廟に祭祀
 古今の名将十人が
 唐代の史館により選ばれ
 太公望と共に祀られた(武廟十哲)
 782年
 徳宗の命により
 唐代の史館が
 新たに六十四人の名将を選出
 武成王廟に合祀(武廟六十四将)
 明の時代
 洪武帝は周の臣下である
 呂尚を王として祀るのは不適当であるとし
 武成王廟の祭祀を中止させた
 呂尚
 後世の兵法と
 周の権謀術数を論じる人間の尊敬の対象とされ
 兵法書六韜』は呂尚の著書とされたが
 『六韜』は後代の人間による著作で
 実際に書かれた時期は戦国末期以降
 『三略』の著者にも仮託
 後秦の王嘉が編集した
 『拾遺記』
 「覆水盆に返らず」
 『漢書』に収録された
 朱買臣の逸話など
 類似するエピソードが多く存在
 ↓↑
 明代
 謝詔が著した
 「風月夢」第十回に
 「姜太公釣魚願者上鉤」
 という句
 ↓↑
 「封神演義
 では
 呂尚姜子牙
 と称し
 殷周革命を指揮する
 周の軍師
 崑崙山の闡教の道士として登場
 澎湖県
 馬公市には
 呂尚は封神の儀式を行った後
 自分が封ぜられる地位が無くなったため
 「石敢當石敢当
 ↓↑・・・石敢當(いしがんどう・いしがんとう・セッカントウ)
   石敢當と文字が刻まれた魔よけの石碑や石標
   石敢当、泰山石敢當、石敢東、石散當、石散堂、石厳當
   と書かれたものもある
   日本では主に沖縄県や鹿児島県にある
   元は中国伝来の風習で、福建省が発祥
 ↓↑泰山の頂上にも石敢當が存在
 という魔除けの神様に変化・・・
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 ・・・
 太公望渭水で釣りをしていたが
 あるとき3日間何も捕れず
 腹立ちまぎれに帽子をたたきつけると
 異形の人が現れ
 その指示どおりすると
 (鮒)フナと(鯉)コイが釣れた
 ↓↑
 呂尚が釣り糸を垂れているところに西周の領主
 西伯候『姫昌(きしょう)』が通りかかり
 祖父、
 周の大公が云っていた
 周の統治変革を助ける賢人が現れたと
 リクルートされ
 後に『周の文王』と諡
 ↓↑
 文在寅(1953年1月24日)
 生年1953
 壬辰(乙・癸・戊)
 生月0001
 癸丑(癸・辛・己)
 生日0024
 乙亥(戊・甲・壬)
  申酉=空亡
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 ・・・???・・・