2523日目・・・「皆殺しの天使=ココ・シャネル(Coco Chanel、1883年8月19日〜1971年1月10日)=ガブリエル・ボヌール・シャネル( GabrielleBonheur Chanel)」・・・ほととぎす・ホトトギス科の鳥・・・ナゼ、「ほととぎす」なのか?・・・「鳴かぬなら殺してしまえ不如帰(信長)」、「鳴かぬなら鳴かせてみせよう不如帰(秀吉)」、「鳴かぬなら鳴くまで待とう不如帰(家康)」・・・「コロせ」って・・・臣従する配下の生殺与奪は3人とも握った・・・同時に3人みんな「托卵(タクラ

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 1883年8月19日  〜1971年1月10日
 癸未(丁・乙・己)⇔庚戌(辛・丁・戊)
 庚申(己・壬・庚)⇔己丑(癸・辛・己)
 乙未(丁・乙・己)⇔乙未(丁・乙・己)
  辰巳=空亡
  干合(庚辛・金)・(申庚)支・・・化金格? 
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 「不如帰=カッコウカッコウ科」?・・・「郭公」・・・「カエルところがない」のか、「カエルな」なのか・・・?「不如帰(帰るにしかず)」って?・・・「不如去帰(カエレョなッ・カエればイイ・カエったホウがまし)」・・・
 「帰り去くにしかず (かえりゆくにしかず)」・・・
 「帰り去くにこしたことはない」
 「帰ったほうがよい」
 「帰ったほうがましだ」
 「ホトトギス=杜宇」が・・・蜀国の望帝=杜宇
 「ああ、自分の国に帰れるものなら帰りたい
  自分の国へ帰ったほうがましだ」と・・・?
 「ホトトギスの鳴き声が旅人に帰心望郷を抱かせので
  『思帰』とも呼ぶ」
 「不如帰・不如帰去」が
 「フジョキ(フニョキ)・フジョキキョ(フニョキキョ)」と
 聴える・・・
 「不如帰=帰るに如かず=帰った方がましだ、歸る方がイイ」
 「不如帰=帰るにしかず=帰らざるが如し」
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 鵑=ほととぎす
 時鳥・杜鵑・子規・杜宇・蜀魂・田鵑
 郭公・蜀鳥・杜魄・蜀魄・怨鳥・偶鳥
 不如帰
 文目鳥・妹背鳥・黄昏鳥・霍公鳥
 卯月鳥・早苗鳥・勧農鳥・魂迎鳥
 死出田長
 ↓↑
 蜀
 蜀魂・蜀魄
 ほととぎす・ホトトギス科の鳥
 蜀の
 望帝の魂がホトトギスになった
 杜鵑=ほととぎす=蜀魂・蜀魄
 ↓↑
 ほととぎす=杜宇・杜鵑
       「鵑」とは「『ケン』と鳴く鳥」
       杜魄・蜀鳥・蜀魂・蜀魄・不如帰
 ↓↑
 「華陽国志・蜀志」
 蜀魂
 蜀の
 望帝の魂が化してこの鳥になった
 蜀魄・蜀鳥
 ↓↑
 蜀漢(221年〜263年)
 三国時代
 劉備巴蜀益州に建国
 巴蜀四川省湖北省一帯)
 都は成都
 蜀漢と自ら名乗ったことはない
 季漢(季は末っ子の意味)
 と称することもあった
 ↓↑
 魂魄
 「魂=みたま」
 「魄=みかげ」
 ↓↑
 「杜宇」
 農耕を指導
 帝王から退いたあとに死去
 その魂が「ホトトギス」になり
 自身が指導した農耕の時期に
 甲高い声で鳴く
 蜀は滅び
 それを悲しんで
 「不如帰」と血を吐き嘆いた
 ホトトギスの口は真っ赤
 ↓↑
 ホトトギス
 不如帰
 時鳥・蜀魂・杜宇
 思帰・子規・杜鵑
 蜀魂・蜀魄・杜魂
 ↓↑
 カワセミ
 魚師・魚虎・水狗・鴗・鴗鳥・魚狗・翠鳥・翡翠・川蟬
 漢字表記が多く、沢山
 ↓↑
 不如(しかず)
 …に及ばない
 …よりは…の方がよい
 〜ほど〜ではない
 劣等比較の表現
 「不如・没有」
 ↓↑
 不如帰=ホトトギス(hototogisu)
 杜鵑目の鳥
 ↓↑ ほと-とぎす
    保都-土岐州・・・都を保つトキの州(くに)
    信長「鳴かぬなら殺してしまえ不如帰」
    秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみせよう不如帰」
    家康「鳴かぬなら鳴くまで待とう不如帰」
   「甲子夜話(家康の言)」=第九代平戸藩
    肥前平戸藩
    松浦清
    号は静山
    の随筆集
    正編百巻、続編百巻、三編七八巻
    著者、六二歳の
    1821年12月11日
   (文政4年11月17日)・・・十一月十七日
    甲子夜に起稿
    天保十二年(1841)六月二十九日
    の死亡の日まで書き記された
 ・・・ほど=解・觧・舗土・歩度・程
    とぎ=土岐・富来・伽  
    ほと=御陰・陰所・女陰
    とき=朱鷺・斎・鴇・解き
    ほと=女性器の外陰部のような形状
       形質(湿地帯)
       陰になる場所の地形・・・岐阜?
 ・・・「美蕃登見炙而病臥在(古事記)」
     蕃登=ほと=火門・含処・陰・火陰・火戸
       美保登 御陰


 ・・・織田信長
    1567年(永禄十年)
    信長三十四歳
    齋藤龍興がこもる
    稲葉山城・・・金華山
           金華山
           金花山、一石山、破鏡山とも呼ばれた
           岐阜県岐阜市
           北緯35度26分・東経136度46分
           独立峰・堆積岩
           七曲り登山道
           馬の背登山道・百曲り登山道・東坂登山道
           鼻高登山道・達目(だちぼく)登山道
           大釜登山道・大参道登山道・唐釜登山道
           長良川金華山
           鵜飼い
    を攻め落とし
    稲葉城(岐阜城)を支配し
    天下布武
    城下町の
   「井ノ口(ほど?)」を「岐阜」と改めた
    中国の
    文王が
    八百年の天下泰平の世を築いた
    「岐山」の「岐」と
    孔子が生まれた
    「曲阜」の「阜=𠂤+十」をとって
    「岐阜」と名付けた
    阜=𠂤+十
      𠂤=丿+㠯=つちくれ・タイ・シ
        魁・異体字は堆・・・碓
        肉塊・干し肉・生贄の肉
        㠯=異体字
          㠯=以・已
            苢・阜・官・帥・追・師
            菅・悺・埠・耜・蛗・悹
            逭・琯・棺・獅・痯・蒒
            遣・管・槌・綰・輨・磓
            薛・館・錧・篩・舘・螄
            辥・縋・顊・歸・鎚・繾
         芣苢(フイ)草名・オオバコ科
         薏苢(ヨクイ)草名・イネ科
   「岐阜は、元は岐府(きふ)で
    美濃源氏土岐氏の根拠地
    河手城の城下を「岐府」と呼んでいた」
   「古来、岐府、岐陽、岐山、岐下と書き
    明応永正の頃より旧記に岐阜と見え
    信長の命名にあらず
   (岐阜市教育会編、1915年(大正四年)」
   「『美濃国諸旧記(寛永・正保?)』に
    稲葉山を岐山、里を岐阜と呼び
    信長が岐阜・中節・井ノ口・今泉・桑田
    を合併し、岐府と称したとし
    岐阜は古来の字で
    信長は岐府と府の字を使ったと主張」
 ↓↑
 ほととぎす・・・咽喉が赤い・・・血反吐・・・
 杜鵑・霍公鳥・時鳥・子規・杜宇・沓手鳥・蜀魂
 ↓↑
 不如(しかず)
 不如(いつそ)
 不如=…に及ばない
    甲不如乙=甲は乙に及ばない
 ↓↑
 与其 甲…不如 乙
 不如去死
 百聞不如一見
 ↓↑
 不如・・・・・・不如意
 かえって・むしろ
 却って・却りて
 反って・反りて
 寧・寧ろ
 ↓↑
 文王(寧王・紀元前1152年〜紀元前1056年)
 中国の周朝の始祖
 姓は姫
 諱は昌
 父は季歴
 母は太任
 兄は
 虢仲
 虢叔
 周の創始者
 武王の父
 ↓↑
 文王は商(殷)に仕え
   ・・・商(殷)の王は
      帝辛 (紂王)
 三公の地位にあり
 帝辛 (紂王)に幽閉された時
 周易を書いた
 父である
 季歴の死後に
 周の地を受け継ぎ
 岐山のふもとより本拠地を
 灃河(渭河の支流)の西岸の
 豊邑(豐邑・後の長安の近く)
 に移し、仁政・・・
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 ・・・???・・・
 カッコウカッコウ科の鳥
 全長約30センチメートル
 尾羽が長い
 背面は灰褐色
 腹面は白色で黒い横斑
 ウグイスなどの巣に卵を産み「托卵」
 鳴き声は鋭く
 「テッペンカケタカ」・・・?天辺(頂辺)架けたか
 夏鳥として渡来
 山林で繁殖して東南アジアに渡る
 卯月(うづき)鳥
 早苗(さなえ)鳥
 あやめ鳥
 橘鳥・時つ鳥
 いもせ鳥・たま迎え鳥
 しでの田長(たおさ)
 などの異名
 季語 夏
 枕詞 飛ぶ意から「飛幡(とばた)」に掛かる
 「ホトトギス」、俳句雑誌
 1897年(明治30)柳原極堂松山市で創刊
 翌年,発行所を東京に移し
 高浜虚子正岡子規らの協力を得て続刊
 俳句革新運動の拠点となる
 新傾向俳句運動に対して客観写生を唱え
 花鳥諷詠の伝統を守り
 俳壇の主流を形成
 夏目漱石らの作品を載せ
 写生文の発達に貢献
 「不如帰」、小説
 徳富蘆花
 1898年(明治31)〜99年
 「国民新聞」連載
 若夫婦の幸福な結婚生活が
 明治社会の中で崩壊していく家庭小説
 「不如帰 (小説・明治33年)」、徳冨蘆花の小説
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