2638日目・・・トワナイ「人人」・・・ナラビ「立ち並(竝)ぶ人々」・・・「並(竝)ぶ人形=陶器の兵隊・粘土の兵隊=騎兵俑・軍馬俑・彩色兵士、兵馬俑(ヘイバヨウ)」・・・「従=彳+从+止=從=从=人+人=彳+䒑+龰」・・・異体字は「從・从・䢨・苁・踨・踪・蹤=したがう・したがえる・より・ジュウ・ショウ・後について行く・つきしたがう・従軍・従者・侍従・臣従・随従・追従・つきしたがう者」・・・旧字は「從」・・・從=新字体は「従」・・・本字は「从」・・・「二人が前後する形」、「歩行を表す「辵(辶・チャク)」、
「並(竝の略字)=なみ・ならべる・ならぶ・ならび・ヘイ・竝(旧字)・并(簡体字)・傡(異体字)」・・・「普通・平均的・同列にならぶ・並行・並称・並進・並存・並立・ 並列・なみ⇔並木・並並・毛並・月並・人並・町並・鮎並・足並・人並・街並・手並・軒並・家並・杉並木・鮎並女・十人並」・・・「アイナメ=鮎並・鮎魚女・愛魚女・相嘗=アユのように縄張りを持つため・鮎並が転訛・アユに似て滑らか・形が鮎に似ているので鮎魚女とした・賞味すべき美味な魚の意味」・・・「名のりは、なめ・み・みつ」・・・「日並」・・・「日雙」・・・
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「日並皇子尊=草壁皇子=日雙皇子命=岡宮天皇
=天武天皇の第二皇子
=母は持統天皇
=子供は文武天皇、元正天皇、吉備親王」・・・
「后は阿閉皇女=元明天皇
(第四十三代
在位707年7月17日〜715年9月2日)」・・・
「日並皇子尊(岡宮天皇)
(ひなみしのみこのみこと)」
「妃は阿閉皇女(元明天皇)
日本根子天津御代豊国成姫天皇
(やまと ねこ あまつ
みよ
(みしろ)
とよくに なりひめの すめらみこと
豐國成姬)
和銅五年正月二十八日(Y・712年3月9日)
壬子・癸卯・丁酉
古事記の献上」
「子供は軽皇子(文武天皇)=珂瑠皇子
氷高皇女(元正天皇)
吉備皇女(夫は長屋王
子は膳夫王
桑田王
葛木王
鉤取王)」
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土or士・・・土=士=十+一=拾壱・拾壹・足壱・足壹
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「𡌶=土+並=異体字は垪
=土+并=圦(はか・はが ・はた)
=土+入=はが=芳賀」・・・
「𡌶=土+ソ+一+业
=十+一+丷+一+业
=十+一+䒑+业
=十+一+丷+亚
=土+並=𡌶」・・・土生(はぶ)・・・
「碰=石+並=麻雀のポン=カイ・コウ」
「磕=石+盍=磕磕は物がぶつかる音」
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ならび=𡌶・・・ならびつち=𡌶?
ならびいし=雙石
ならびおか=双岡. 並岡. 雙岡
ならびがおか=双岡
ならびまつ=双松
ならひら=奈良平
ならふ=楢府=ならぶ=楢府・奈良部
ならふえふき=奈良笛吹
ならべ=楢部・奈良部
ならま=奈良間
ならまつ=双松・雙松・奈良松
ならみだて=楢見館
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問わない
とは言えない
問わず
と得ず
永久にあらず
翔和(とわ)にあらず
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「とはずがたり(とわずがたり)」
人がたずねないのに、自分から語りだすこと
ひとりごと・独り言・一人言
Monologue
talk to oneself
say to oneself
mutter [mumble] to oneself
・・・「独り言の記録」ならば、
「日記」に類する記録だろう・・・
「ウェブログ(Weblog)の略
自分の意見や感想を日記風に記し
それに対する感想などを閲覧者が
自由にコメントできる形式のWeblog」
「Web(ウェブ)上にlog(ログ・記録)を
残すという意味のWeblog(ウェブログ)の略」
「個人の日記などを、簡便な方法で作成し
公開することができるウェブサイトの総称」
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「とはずがたり(とわずがたり)」・・・?
鎌倉時代の中後期
後深草院二条が綴ったとみられる日記、紀行文
後深草院に仕えた女房
二条の
14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの境遇
後深草院や恋人との関係
宮中行事、尼となってから出かけた旅の記録
5巻5冊
1313年ごろまでに成立した・・・
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一般への公開は1950年(昭和25年)
桂宮本叢書第15巻が初
鎌倉時代後期
古写本一種類の断簡が数点知られる・・・
(by wikipedia)
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11年
干支 辛未
日本
垂仁天皇 四十年
皇紀671年
中国
新 始建国三年
朝鮮
高句麗 瑠璃明王三十 年
新羅 南解 王 八年
百済 温祚 王二十九年
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マルクス・アンティスティウス・ラベオ
(M. Antistius Labeo )
古代ローマの法学者(生年未詳、10年没説あり)
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マルクス
法学者
パクウィウス・アンティスティウス・ラベオ
の息子
父親のパクウィウスは
ジューリアス・シーザー
の暗殺者
マーカス・ユニウス・ブルータス
を支持
ローマ共和制度を信奉
博覧学、法原理、弁証法、言語学
生涯に400冊もの本を書いた
十二表法、近衛兵の布告、教皇の法
訴訟事件の収集
種々の
定義と法的な提案の収集や論評等に及んだ
彼の業績はほとんどが死後に発行
プロキュリアン法学校の創設者
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111年
干支 辛亥
日本
景行天皇 41年
皇紀771年
中国
後漢 永初 5年
朝鮮
高句麗 太祖王59年
新羅 婆娑王32年
百済 己婁王35年
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カール・ハインリヒ・マルクス
(Karl Heinrich Marx)
文化15年4月1日
1818年5月5日〜1883年3月14日
戊寅(己・丙・甲) ⇔癸未(丁・乙・己)
丙辰(乙・癸・戊)害⇔乙卯(甲・ ・乙)
戊辰(乙・癸・戊) ⇔丁巳(戊・庚・丙)
戌亥=空亡
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高柳 健次郎
(1899年1月20日〜1990年7月23日)
戊戌(辛・丁・戊)⇔庚午(丙・ ・丁)
乙丑(癸・辛・己)⇔癸未(丁・乙・己)
戊子(壬・ ・癸)⇔己丑(癸・辛・己)
午未=空亡
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日本ビクター元副社長
技術最高顧問
静岡大学名誉教授
日本のテレビの父
1926年12月25日
浜松高工にて
ブラウン管による
電送・受像を世界で初めて成功
送像側に機械式の
ニプコー円板と
受像側にブラウン管を用いて
片仮名の「イ」の文字を送受像
走査線の数は40本
「イ」の文字は
「いろは」順の最初の文字として選んだ
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いろはにほへと ちりぬるを
色はにほへど 散りぬるを
以呂波耳本へ止 千利奴流乎和加
伊路八尓保反都 知理沼留遠
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わかよたれそ つねならむ
我が世たれぞ 常ならむ
和加餘多連曽 津祢那良牟
王可与太礼祖 ツ年奈羅无
↓↑
うゐのおくやま けふこえて
有為の奥山 今日越えて
有為能於久耶万 計不己衣天
宇謂乃 九也末 介布古延弖
麻 気符
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あさきゆめみし ゑひもせす
浅き夢見じ 酔ひもせず
阿佐伎喩女美之 恵比毛勢須
安作畿由馬弥志 會皮文世寸
面 士 廻非裳
『金光明最勝王經音義』
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いろはにホへト
ちりぬるヲわカ
よたれそツねナ
らむうゐノおク
やまけふコえテ
あさきゆメみシ
ゑひもせ ス
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「壹與羅殺鴉得」・・・?
「呂理多夢真差異」・・・?
「歯塗例宇気記模」・・・?
「似留素意布由施」・・・?
「大津の来女(姑女)」・・・?
「経和音御重見」・・・?
「咎無くて死す」・・・?
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色 葉字類抄
伊呂波字類抄
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高柳 健次郎
1937年
NHKに出向
東京オリンピックの
テレビ放送を目指して
テレビ受像機の研究
1938年に日中戦争が激化
東京オリンピックは中止
テレビの研究も中断
レーダーや奮龍の
誘導装置などの研究
終戦後
NHKに戻ってテレビの研究を再開
GHQの指令によりテレビの研究を禁止
1946年
日本ビクターに入社
NHK、シャープ、東芝と共同で
テレビ放送技術とテレビ受像機を完成
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