2636日目・・・どこの支配者も「ご都合主義」・・・「オポチュニズム(opportunism)」・・・発音が「おポちゅ」って、軽くて、柔らかく浮いたカンジの「パピプペポ」・・・「ばびぶべぼ」は重いカンジ・・・「御+都+合・後+都+合」なら「語+都+合」だろう・・・東京遷都・・・東京奠都(テント)・・・

 ナゼ、「奠都(テント)」・・・天都って「tent」・・・
 ↓↑     天幕・・・天膜=tenマク=天巻
               =転換=展観・天漢(漢河・天川)
               =テンカン=癲癇
        pitch [strike] a tent=テントを張る[たたむ]
 ↓↑     ↓↑
        物を投げる、ほうる、投げ上げる
        人、物をほうり(追い)出す・捨てる(out)
        投げる
        間隔・角度・周波数・物質・場所・設備
        俗称・架空
        Pitch in=力を貸す・協力する
        ギブミハンド=give me a hand=ギヴメアハァンド
        pitch=同じことを繰り返し
           一定の間隔で物事を行うときの速度や回数
           仕事や作業の能率
           ねじ・歯車の、隣り合う二つのねじ山
           あるいは歯の間隔
           コイルばねの線の間隔
           登山で確保地点から確保地点までの間隔
           音の高低の度合い・ピッチアクセント
           投球・ピッチング・ワイルドピッチ
           サッカーなどのグラウンド
           プリンター印刷、コンピューターの
           ディスプレー表示の
 ↓↑        文字と文字の間隔や行と行の間隔
           ピッチ=coal tar pitch
           coal tartar=コールタールを塗る
 ↓↑        ひっち=筆致
 ↓↑        ヒッチ=hitch
           環・かぎ・ロープなどを引っかける
           牛馬を杭(くい)につなぐ
           hitch=結び方・小断層・盤張孔
               バットをうしろに引く
               玉掛
               障害・遅延・兵役期間
 ↓↑            足を引きずって歩くこと
 ↓↑            ヒッチハイク
 「奠都(テント)」
 1868年9月3日(慶応四年七月十七日)
 ・・・慶応=慶應・・・『文選』の「慶雲応(まさ)に輝くべし」?
 ↓↑   ↓↑
 『文選(モンセン)』=南朝梁の昭明太子によって
            編纂された詩文集
      全三十巻
      春秋戦国時代〜梁までの
      文学者131名による賦・詩・文章
      800余りの作品を
      37のジャンルに分類して収録
 ↓↑   ↓↑
 「慶雲応輝、皇階授木」
 漢書,範増 謂 項羽

 吾使人望沛公
其氣皆為龍
 成五色、此天子氣、急撃之勿失。
 春秋
 孔演圖
 曰
 天子皆五帝精、必有諸神扶助、使開階立遂。
 宋均
 曰
 遂、道也。
 春秋
 保乾圖
 曰
 黒帝治八百歳、運極而・授木。
 蒼帝七百二十歳而授火。
 1+8+6+8=23⇔2+3=5(ゴ=五・伍
              吾・語・誤・互・後・悟・午・御)
 壱(1・一・壹)
 弐(2・二・弍・貳・貮・仁)
 參(3・三)
 肆(4・四)・陸(6・六)・漆(7・七)
 捌(8・八)・玖(9・九)・拾(10・十・足)
 ↓↑   ↓↑
 「奠都(テント)」
 ↓↑
 大木喬任(おおきたかとう)・・・・多寡(多可)等(問答)
  ・・・大(一大)の木(十八)、喬(たか)に任せる
 江藤新平
 の建言により遷都を決定
 天皇東幸の詔を発し
 江戸を東京と改めた
 明治天皇
 11月26日(明治一年十月十三日)
 東京着
 江戸城を東京城と改め
 東京を首都とした・・・
 ↓↑
 京都との東西両京とし
 慶応四年七月十七日(1868年9月3日)
 江戸を東京と改称
 同年九月に元号
 明治に改められ
 同年十月十三日
 天皇が東京に入り
 ↓↑
 明治二年(1869年)・・・2度目の東幸(明治二年三月)
 政府が京都〜東京に移転・・・二都・・・都合=奠都?
 ↓↑
 「奠都」=都を定めるコト
  ・・・奠=酋+大
       通仮字「填・典」
       異体字「尊・𠪝・鄭・飣」・・・猶太=Judea?
                     大猷院=徳川家光
       まつる・そなえる・さだめる・テン・デン
       神仏に酒食などを供える・「奠茶」
       そなえる・そなえもの・「香奠」
      「香奠・祭奠・釈奠・奉奠
       奠稲(くましね)?
       乞巧奠(キッコウデン)=七夕の短冊」
       さだめる・位置を決める
 「遷都」=都を移すコト
  ・・・遷=辶+䙴=辶+覀+大+巳
      =辶+覀+一+人+己
      通仮字「僊」
      異体字「迁・𠨩・𠨧・𢍱・𢍹・𦦉・𦧂
          拪・𢫥・𢰕・䙲・䙴・𨒟・𨒿
          𨔰・𨕞・𨗢・䢬・𨗺・𨙘・𨙞」
 ↓↑
 徳川家光・・・久能山東照宮日光東照宮へ「遷都」させた?
 ↓↑
 慶長9年7月17日(1604年8月12日)
  〜
 慶安4年4月20日(1651年6月8日)
 改名 竹千代(幼名)→家光
 諡号 大猷院・・・徳川三代将軍「家光」の廟所
    大猷院・・・大誘引・代誘引?
       ・・・代「有印・誘因・誘音」?
 戒名 大猷院殿贈正一位大相国公
 ・・・戒名=カイミョウ=改名・甲斐名・蝦夷名・貝名?
 ↓↑
 徳川家康遺書
 「久能山に納め(遺骨)
  御法会を江戸-増上寺
  靈牌は三州-大樹寺
  御周忌終て
  下野国
  日光山へ小堂を營造、
  京都には
  金地院に小堂をいとなみ
  所司代はじめ
  武家の輩進拜せしむべし。
  徳川実紀(台徳院殿御実紀四十二巻)」
 ↓↑
 己酉約条
 (キユウヤクジョウ)・・・杞憂約定?
 慶長十四年(1609年)
 対馬
 宗氏
 と
 李氏朝鮮の間で結ばれた条約
 慶長条約とも
 全十二条
 文禄・慶長の役以来断絶していた
 朝鮮との貿易が再開
ーーーーー

ーーーーー
 BZI
 生年⇒壬 辰(乙・癸・戊)
    印綬⇔比肩・偏印・正財・・冠帯
      破
 生月⇒癸 丑(癸・辛・己)
    偏印⇔偏印・偏官・偏財・・衰
 生日⇒乙 亥(戊・甲・壬)
      ⇔正財・劫財・印綬・・死
      申酉=空亡
    ↓↑
 73.6⇒庚 申(己・壬・庚)
    正官           害
    ↓↑          ↓↑
       壬 辰・癸 丑・乙 亥
 2018年      冲
    正財年→戊 戌(辛・丁・戊)年
  11月
    偏印月→癸 亥(戊・甲・壬)月
  24日
    正官日→庚 申(己・壬・庚)日
 ↓↑ ↓↑
 RM  (1946年9月1日〜2009年5月23日)
  丙 戌(辛・丁・戊)⇔己 丑(癸・辛・己)
  丙 申(己・壬・庚)⇔己 巳
  戊 寅(己・丙・甲)⇔戊 辰(乙・癸・戊)
    申酉=空亡  大運癸 卯(甲・ ・乙)63
ーーーーー
 ・・・???・・・
 命式以外は
 以下も以上も原文は「wikipedia」から・・・参照、参考、添付
 ↓↑
 NHKの大河ドラマ
 ↓↑
 征韓論
 西郷隆盛
 板垣退助・・・「征韓論」者の張本人・・・自由はシンでいた?
 江藤新平・・・ナゼ、下野したんだか・・・裁判官?
 後藤象二郎・・ナゼ、通称が象二郎か・・・象徴・象形・形象?
        諱は正本(まさもと)
        後に元曄(もとはる)
        ・・・ 曄=さかん・かがやく・あきらか・ヨウ
        字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁
        雅号は暘谷、雲濤、光海、鷗公
 副島種臣・・・ナゼ、種臣なんだか?
         明治二年(1869年)参議
         明治四年(1871年)外務卿
         マリア・ルス号事件で
         中国(支那・清国)人奴隷を解放?
         第1次松方内閣
         副総理・内務大臣
         在任期間
         1892年3月11日〜1892年6月8日
        「神非守人 人実守神」?
     ・・・「神 人を守るに非ず 人 実に神を守る」・・・
 らによってなされた
 ↓↑
 西郷隆盛の主張は
 板垣退助らの主張する
 「即時朝鮮出兵」に反対
 開国を勧める
 遣韓使節
 「遣韓論」
 ↓↑
 西郷隆盛の死後
 板垣退助らの
 自由民権運動の中で
 板垣の推進する征韓論
 西郷の主張として流布定着・・・
 ↓↑
 神功皇后
 高句麗新羅百済
 の「三韓」を
 征韓派は「征韓」とした
 ↓↑
 安政五カ国条約の勅許の奏請
 間部詮勝
 「海外諸蛮此方之掌中ニ納候事
  三韓掌握之往古ニ復ス」
 と朝廷を説得した・・・
 渋沢栄一
 「韓国に対する私の考えは
  三韓征伐とか朝鮮征伐とか征韓論とかに
  刺戟せられたものであろうが
  兎に角
  朝鮮は独立せしめて置かねばならぬ
  それは
  日本と
  同様の国であると考えていた」
  と日清戦争後の
  対露強硬路線に同調した経緯を述べた
 ↓↑
 国学や水戸学
 吉田松陰
 古代日本が
 朝鮮半島
 支配権を持っていたと
 朝鮮進出を唱え
 尊王攘夷運動
 吉田松陰勝海舟橋本左内
 の思想に加えられた
 ↓↑
 慶応二年(1866年)末
 清国広州の新聞に
 八戸順叔・・・八戸事件
 ↓↑      ↓↑
      日本・慶応二年十二月十二日
      清国・同治五年
      朝鮮・高宗三年)
         同治五年十二月十二日
         1867年1月17日(丙寅・辛丑・丁酉)
         清国広州の新聞
        『中外新聞』に掲載
        「八戸順叔」なる
         香港在住の日本人が寄稿した
         征韓論の記事
         日本と
         李氏朝鮮
         清国
         との間の外交関係を悪化させた          
      ・・・記事は原文が見つかっていない・・・
       同治五年十二月十二日
      (1867年1月17日)
       清国の広州(広東省)で発行
      『中外新聞』の
      ・・・『中外新聞』の12月12日版・・・
      問題が発生した1866〜67年の時点で
      広東には『中外新聞』は存在していなかった・・・?
      寧波で発行されていた新聞・・・?
      実体不明だが・・・「八戸順叔」は実在した・・・?
      記事も
      清国-弁理五口通商事務大臣に届けられ
      総理衙門へも報告され
      清国お雇い英国人の
      総税務司
      ロバート・ハートからも報告・・・
 ↓↑      ↓↑
         慶応三年十一月十五日
        (1867年12月10日)
         坂本龍馬中岡慎太郎暗殺
         (近江屋事件)
 ↓↑      ↓↑
         慶応三年十二月九日
        (1868年1月3日)
 ↓↑      王政復古
 「八戸順叔」・・・叔=尗+又・・・尗=蔓を巻いた豆の象形
           =上+亅+八+又
           =ト+一+亅+八+又
            小さい豆粒を手(又)で拾う
            ひろう(拾)・わかい(若)・おさない(幼)
          汝南に芌(いも)を收むるを名づけて
          叔と為す(説文解字
          叔父・叔母・兄弟の序列で三番目
       「伯仲叔季」・・・
        八の戸(はちのへ・やえ・やべ)
     ・・・八戸=はちド・ヤコ・ヤゴ・・・哉語・耶後
           ヤゴ(水蠆)=トンボ目(蜻蛉目)、
              トンボ亜目(不均翅亜目)の幼虫?
              秋津島アキツシマ=安芸対馬
 ↓↑     順は叔(三番目・を・シュク)?
 が
 「征韓論」の記事を寄稿
 清・朝鮮の疑念を招き
 日清・日朝関係が悪化
 (八戸事件)
 朝鮮では国王の父の
 大院君が政を摂し
 鎖国攘夷策
 「丙寅洋擾・丙寅教獄」や
 「シャーマン号」事件
 で勝利
 ↓↑
 明治維新
 対馬藩を介して
 朝鮮に対して
 新政府発足の
 通告と国交を望む交渉
 日本の外交文書が
 江戸時代の形式と異なる
 と朝鮮側に拒否
 明治三年(1870年)二月
 明治政府は
 佐田白茅・・・白の茅(かや・萱・伽耶・栢)
 森山茂・・・・森の山の茂
 を派遣
 佐田は朝鮮の対応に憤慨
 帰国後
 征韓の建白
 9月
 外務権少丞
 吉岡弘毅
 を釜山に遣り
 明治五年(1872年)一月
 対馬旧藩主を
 外務大丞に任じ
 9月に
 外務大丞
 花房義質を派遣
 朝鮮は応じず
 明治六年
 四月、五月
 釜山において官憲の先導で
 ボイコット
 日本国内で征韓論が沸騰
 ↓↑
 大院君は
 「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん
  我が国人にして
  日本人に交わるものは死刑に処せん」
 と布告
 外交官として釜山に居た
 佐田、森山
 等は事の次第を政府に報告
 ↓↑
 明治六年(1873年)6月
 森山帰国後閣議
 対朝鮮外交問題
 参議
 板垣退助
 は閣議
 日本人居留民保護
 を理由に派兵を主張
 西郷隆盛は派兵に反対
 自身が大使として赴くと主張
 後藤象二郎
 江藤新平
 らもこれに賛成
 中国から帰国した
 副島種臣
 西郷の主張に賛成し
 西郷ではなく自らが赴く事を主張
 二人の議論の末
 三条実美の説得もあり
 副島が折れ
 板垣退助も西郷のために尽力
 三条実美の承諾を得て
 西郷を使節として
 朝鮮に派遣することを上奏
 ↓↑
 同年8月
 明治政府は
 西郷隆盛使節として派遣決定
 9月に帰国した
 岩倉具視
 木戸孝允
 大久保利通
 らは時期尚早と反対
 10月
 太政大臣三条は病に倒れ
 太政大臣代理となった
 岩倉の意見が容れられ
 遣韓中止が決定
 西郷や板垣らの
 征韓派は一斉に
 下野(征韓論政変または明治六年政変)
 ↓↑
 台湾出兵江華島事件
 翌年の
 明治七年(1874年)
 宮古島島民遭難事件を発端として
 初の海外出兵となる台湾出兵
 (木戸孝允
  征韓論を否定しておきながら
  台湾への海外派兵を行うのは
  矛盾として反対
  参議を辞任下野)
 ↓↑
 明治八年(1875年)
 李氏朝鮮に対して
 軍艦を派遣
 武力衝突
 江華島事件の末
 日朝修好条規を締結
 ↓↑
  佐賀の乱
  明治十年(1877年)
  西南戦争
  不平士族の乱・自由民権運動
ーーーーー
 ・・・
 1875年9月20日〜22日
 江華島事件
 (コウカトウ、カンファド)事件
 朝鮮の
 首府漢城の北西岸
 漢江の河口に位置する
 江華島(仁川広域市江華郡)付近で
 日本
 と
 朝鮮の間で起こった武力衝突事件
 朝鮮西岸海域を測量中の
 日本の軍艦
 雲揚号
 が
 江華島、永宗島砲台と交戦
 軍艦の名を取って
 雲揚号事件(うんようごうじけん)とも
 日朝修好条規締結の契機
 ↓↑

 明治太平記
 (編輯:村井静馬
  画:鮮斎(小林)永濯
  序:明治8年3月27日
  刊行明治13年(1880年)12月
  判本:東京・小林鉄治郎)
 絵図中にある
 旭日旗
 1870年6月13日
 (明治三年五月十五日)
 太政官布告第355号により制定された
 「陸軍御国旗(陸軍御國旗)」であり
 この当時の
 御国旗ないし海軍旗ではない
 ↓↑
 軍艦旗(海軍旗)への制定は
 明治二十二年
 ↓↑
 1875年(明治八年)
 当時の海軍旗は
 この絵中の左にある海軍旗章
 日本の初代軍艦旗(海軍旗)は
 中央に
 黄色いロープを巻きつけ
 赤い桜花を上部に付けた
 赤い錨を描き
 2本の赤いジグザク横線を入れた
 白旗
 1871年(明治四年)
 〜
 1888年(明治二十一年)
 まで軍艦に使用
 当時の韓兵は白衣
ーーーーー
 以下も以上も原文は「wikipedia」から
       ・・・「卯一記経出蛙」・・・
 ↓↑
 興宣大院君(フンソンデウォングン)
 大院王(テウォンワン)
 1820年12月21日
 (時憲暦嘉慶25年11月16日)
 〜
 1898年2月22日
 (時憲暦光武2年2月2日)
 李氏
 朝鮮末期の王族
 字は「時伯」
 号は「石坡・海東居士」
 本名は李昰応(リ・カオウ・イ-ハウン)
 南延君の四男
 母は郡夫人驪興閔氏
 高宗の実父
 ↓↑
 1864年1月〜1873年11月
 高宗の実父として朝鮮の国政を司り
 外戚の専横排除に関連した
 古い体制打破を目的とした
 具体的には
 有能な人材の登用
 官制改革の実施
 小作人制度の撤廃による
 農地の平等分与
 など・・・
 1866年
 フランス人神父9名
 カトリック信者約8,000名を捕らえて処刑
 (丙寅教獄)
 江華島へ侵攻した
 フランス艦隊を撃退
 (丙寅洋擾)
 通商を求め
 大同江を遡上してきた
 アメリカ商船
 ジェネラル・シャーマン号を焼き払った
 ↓↑
 外戚の専横排除を目的に
 閔妃を高宗の王妃にする
 乙未事変
 閔妃が暗殺された後
 1898年
 79歳で死去
 ↓↑
 「大院君」=直系でない国王の実父に与えられる称号
       興宣大院君=大院位大監
 ↓↑
 1873年11月3日
 大院君の批判する上疏を
 崔益鉉が提出
 閔妃、神貞王后は
 高宗に問い詰め
 権門勢家及び各党派そろって
 大院君を牽制し、大院君失脚
 高宗親政を宣言
 閔妃は大院君に代わって大権を握り
 大院君は雲峴宮で隠居
 閔妃
 鎖国・攘夷政策を捨て
 開国政策
 日朝修好条規で
 朝鮮の門戸開放
 ↓↑
 福沢諭吉邸で
 金玉均・朴泳孝・金弘集
 らを中心とした
 親日開化派が決起・・・
 ↓↑
 1868年(明治元年)12月19日
 明治新政権樹立の
 通告と
 条約に基礎づけられた
 近代的な
 国際関係の樹立を求める
 国書を持つ使者を
 李氏朝鮮政府に派遣
 大院君の
 攘夷を掲げる朝鮮政府は
 西洋化を進める明治政府を訝しみ
 中華王朝の
 皇帝にのみ許される
 称号である「皇」
 中華皇帝の詔勅を意味する
 「勅」の文字が入っていること
 などを理由に国書の受け取りを拒否
 (書契問題)
 ↓↑
 明治政府は
 朝廷直交を実現すべく
 朝鮮外交の権限を外務省に一元化し
 対馬宗氏を除外して
 皇使を派遣すべきだとの意見
 調査目的に
 佐田白茅らが派遣
 1870年(明治三年)
 彼は
 「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべき」
 という征韓の建白書を提出
 ↓↑
 外務省は
 対馬宗氏を通して
 朝鮮外交の一本化を進める
 宗氏派遣計画
 (1871年(明治四年)2月)
 柳原前光
 清国派遣
 (1871年(明治四年)8月政府等対論)
 同年9月13日
 清国と日清修好条規が締結
 1871年(明治四年)4月
 アメリカ艦隊が
 江華島の砲台を占領
 朝鮮側がこれを奪還
 (辛未洋擾)
 朝鮮の攘夷
 1871年(明治四年)末
 岩倉使節団が西欧派遣
 国政・外交に
 関する重要な案件は
 1873年(明治六年)秋まで
 棚上
 ↓↑
 1872年(明治五年)5月
 外務省官吏
 相良正樹は
 外出を禁じられていた
 草梁倭館対馬藩の朝鮮駐在事務所)
 を出て
 東莱府へ出向き
 府使との会見を求めた
 (倭館欄出)
 ↓↑
 同年9月
 対馬藩が管理していた
 草梁倭館
 大日本公館と改名し
 外務省が直接管理
 草梁倭館
 朝鮮政府が
 対馬藩の為に建て使用を認めた施設
 対馬藩
 日本と朝鮮の間の交渉窓口の立場
 この日本側の措置に
 東莱府使は激怒
 10月に
 大日本公館への食糧等の供給を停止
 日本人商人による貿易活動の停止を行った
 ↓↑
 1873年(明治六年)
 5月31日付けの
 広津報告を受け
 朝鮮への使節派遣が閣議
 倭館の館門に掲示された
 伝令書が日本を侮辱と強調し
 出師を前提に
 「陸軍若干軍艦幾隻」派遣すべく
 協議を求めた
 (征韓論)・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・「神 人を守るに非ず 人 実に神を守る」・・・
 「ヒト 人を守るに非ず 人 実にヒトを守る」・・・
 「ヒト」って、ダレッ・・・?