2639日目・・・「人災」で許せないのは「ヒト」だが、「自然災害」で許せない「モノ」は「ダレ」だろう?・・・「人災」で許される「ヒト」とは「ダレ」だろう?・・・「自然災害」で許される「モノ」は「ダレ」だろう・・・許される基準は「ナニ」によるんだろう・・・高速道路枠上の「煽り運転の被告」・・・

 活殺格闘技の「相撲」と「土俵枠」、それに「行司審判」を決めたニホン人ってスゴイなァ〜って・・・イクサが無くなって暴力組織が失業常態になった・・・武闘の興業化、見世物化・・・平安時代、パックスローマーナ・・・「Pax Romana (パークス・ローマーナ)」・・・

 ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和・・・
 パクス(パークス)=ローマ神話の平和と秩序の女神・・・
 ホーラ三姉妹のエイレーネー(平和)
        エウノミアー(秩序の女神)
        ディケー(治安)
 ギリシア神話の時間の女神、季節と秩序の三女神の
 エイレーネー
 「強大な一国の覇権による
  相対的な平和」を
 「パクス−」と呼ぶ・・・・葉句素?・・・グゥ・チョキ・パァ
              把握守?   握る・挟む ・開く
 パクス・ブリタニカ(イギリス)
 パクス・アメリカーナ
 パクス・モンゴリカ(タタリカ)・・・祟り化?
 パクス・オトマニカ(オスマン)・・・音真似化?
 パクス・エウロパエア
 ・・・国際平和は「空手⇔素手」で守れるか・・・
 ・・・市民社会は「空手⇔素手」で守れるか・・・
 ・・・個々人の生活は「空手⇔素手」で守れるか・・・
 ↓↑
 日吉丸はナゼ「うり売り」に仮装したんだろうか?
 「肥前佐賀県)の名護屋城」で開催した
 「瓜畑遊び」といわれる「仮装大会=やつしくらべ」で
 関白秀吉が「瓜売」を演じた・・・
 江戸時代の「太閤記小瀬甫庵著、寛永三年)」・・・
 文禄三(1594)年六月
 瓜畑に、瓜屋や旅籠屋などを粗末な様子で建て
 瓜売りの商人の仮装をした
 ↓↑ 
 彼の出自は・・・?・・・名古屋中村
 ↓↑
 豊臣秀吉
 天文六年二月六日(1537年3月17日)
 〜
 慶長三年八月十八日(1598年9月18日)
 名 木下藤吉郎、秀吉
    羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉
 別名 元吉
 渾名 木綿藤吉
    豊太閤
    猿
    禿げ鼠
 神号 豊国大明神
 戒名 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
 ↓↑
 父親(実父)は
 木下 弥右衛門
 家臣の
 竹中重門の秀吉の一代記
 『豊鑑』に
 「郷のあやしの民の子なれば。
  父母のなもたれかは志らむ。
  一族なども志かなり」・・・不明、不詳・・・
 後世には
 カバネを持つ名主百姓
 カバネを持たない最下層の貧民
 下層農民
 大工
 鍛冶師
 技術者集団
 針売り商人
 木地師
 漂流民の
 山窩(広義的な傀儡子)の出身
 ・・・さまざまな出自説・・・
 ↓↑
 生年不詳
 死没 天文十二年一月二日
   (1543年2月5日)
 別名 弥助、昌吉
 戒名 妙雲院殿栄本虚儀・・・栄本は虚儀(虚偽)
 主君 織田信秀
 父母 吉高(弥助)
 妻 大政所(なか)
 子 瑞雲院日秀(三好吉房室)
    秀吉(藤吉郎)
 ↓↑
 豊臣秀吉
 母 なか・天瑞院
   なか(仲)
   永正十三年(1516年)
   尾張国愛知郡御器所
   死没
   天正二十年七月二十二日
   (1592年8月29日)
   別名
   天瑞寺殿贈准三后従一位
         春岩宗桂大禅定尼
   肩書き 大政所、二位尼
   配偶者 木下弥右衛門
       竹阿弥(筑阿弥・再婚相手)
   子供  瑞龍院日秀、豊臣秀吉、秀長、朝日姫
   親   関兼貞(関兼員)
   親戚  妹:栄松院(小出秀政の室)
       松雲院(福島正則の母)
       大恩院(青木秀以の母)
   従妹  聖林院
       伊都(加藤清忠の室、加藤清正の母)
 ↓↑
 義父・・・なかの後夫(再婚相手)
 弥助(弥右衛門)=竹阿弥=筑阿弥
 天文十二年(1543年)一月二日
 秀吉が七歳(または8歳)の時に死去
 戒名 妙雲院殿栄本虚儀
 ↓↑
 「瓜=うり=ウリ⇔우리=○+丅+己+礀=We・Us」
 「ウリは、話し相手が自分と親密な関係で使う
  目上に向けては
  ジョヒ(저희)を使い・・・저=𠆣(一人)+┫(卜の逆字)
              𠆣の異体字「兀・𠆣・㐳・⺎」   
              희=亠+○+一+礀
                亠=音・鍋蓋
  ウリ(우리)は使わない」・・・우=○+丅
                   丅=下
                리=己+礀
 ↓↑     ↓↑
 瓜にツメあり、爪にツメなし・・・
 瓜に爪 あり、爪に爪 なし
 「瓜(カ・ク)」という字にはつめ(ム)があり
 「爪(ソウ・ショウ)」という字にはつめ(ム)がない
 ↓↑
 戌に棒(-)あり戊に棒(-)なし
 いぬ(犬・狗)にボウあり、つちのえ(戊・ボウ・ボ)にボウなし
 ↓↑
 いぬ(犬・ケン)に点(丶・チュウ・燈・灯)あり、
 ふとい(太・おほの・タイ)に点(丶・チュウ・燈・灯)あり、
 太安万侶=太安萬侶⇔おおい=莞・太藺・不問・附解い
           万=萬⇔禺+α・偶・遇・寓・隅
 おほい(大・おほきい・ダイ)に点(丶・チュウ)なし
 ↓↑
 太い=両手を広げた人の腹の中に
   「丶・チュウ・ゝ・灯・丁)あり」
   ・・・太乙・太歳・太秦(うづまさ)
      太安・太古
      太子・太公・太平・太陽・太陰
      太閤
      太政大臣(おおきおおいもうちぎみ)
      太政官(おおいまつりごとのつかさ)
    廓然太公
      太液芙蓉(美人顔のたとえ)
      太羹玄酒(タイコウゲンシュ)
           無味の肉汁(太羹)と水(玄酒)
      太山鴻毛(太山=泰山)
           命(生死)の軽重
      太山之安
      太山府君(府君=郡の最高長官
              泰山の最高位=生死を支配する神)
      太山鳴動(大山が産気づき
           激しい音を立て揺れ動いた結果
           鼠が一匹生まれた
           ・・・ネズミ=移鼠=イエス・キリスト
           古代ローマの諺(ことわざ))
      太山梁木(泰山頽れ梁木壊る・孔子自身の死の予見)
      太盛難守(太盛守り難し)
      太牢滋味(太牢=牛、羊、豚の三種の肉)
    天下太平  (『礼記(禮記)』仲尼燕居)
           孔子と子夏との問答・礼に関する注記
 ↓↑
 戌に棒(-)あり戊に棒(-)なし
 いぬ(犬・狗)にボウあり、ぼう(戊・ボ)にボウなし
 ↓↑
 いぬ(犬・ケン)に点(丶・チュウ)あり、
 おほい(大・ダイ)に点(丶・チュウ)なし
 ↓↑
 いぬ(狗・グ・ク)に犭(いぬ・けものへん・ケン)あり、
 ク(句・ク)に犭(いぬ・けものへん・ケン)なし
 ↓↑
 ク(句・ク)に口あり
 ク(勹・ホウ・ヒョウ)に口なし
 ↓↑
 우(ウ・宀)=○+丅(カ)・・・丁(ひのと・チョウ・テイ)
 리(リ・刂)=己+礀・・・己・巳・巴・已・・・卩・尸
          礀で叩(敲・たたく)・・・割符・屍
 「真桑瓜(まくわうり)」=「참외(チャメ)」
           참(チャ)=大+ト+口
           외(メ )=○+丄(⊥・上)
 「瓢箪(ヒョウタン)」=「표주박(pyojubag)」
 「『日本書紀(720年)』の中で瓢(ひさご)の記録」
 「千成瓢箪」=「豊臣秀吉の馬印・小さく数が多い瓢箪の一種
         秀吉が城主だった長浜に
         六瓢箪という秀吉所縁の社寺
         豊臣秀吉を祀った豊国神社
         六瓢箪めぐり(ムビョウタンメグリ)
        (滋賀県長浜市宮前町・長浜八幡宮
         六瓢箪(むびょうたん)⇔「無病(六瓢)息災」
         瓢箪から駒

 ↓↑       
 「쪽박(チョッパク)」=「小さな瓢箪」
 「대박(テバク)」=「大きな瓢箪・大当たり、大ヒット」
 「干瓢(カンピョウ)=「박고지」
             박(パク)=「ふくべ・柄杓・釣瓶」
 ↓↑ ↓↑
 若(わか)いと言う字は、「苦しい」と言う字に似てる・・・
 若(わか)いと言う字は、「若(も)しも」ともヨム・・・
 ナゼだ?・・・「if(イフ)」は未来への可能性・・・
 「隠匿」の「匿(かくす・かくれる・トク・ジョク)」は
 匿=匚(はこ・ホウ)に若を隠す・・・
   見られたくないモノを匚(はこ・ホウ)に隠すって?
   男子なら・・・・ポルノ(Pornography)・春画・・・
   女子は・・・???・・・
 ↓↑
 瓜
 gourd・・・Gourd=ゴード
 まくわうり
 oriental melon
 きゅうり
 cucumber
 しろうり
 pickling melon
 瓜の蔓(つる)には茄子(なすび)はならぬ
 Like father, like son.
 An onion will not produce a rose.
 瓜二つ 二人は瓜二つ
 Those two are
  exactly alike
  [as like as two peas (in a pod)].
 ↓↑ ↓↑
 文禄の役・・・文の禄の訳
 ↓↑     官人に下付される給与
        律令制では
        絁(あしぎぬ)・綿・布・鍬(くわ)・穀物
        など
        後世は
        知行地・扶持米(ふちまい)・給金
        給与・給金・扶持
        stipend
        get a salary 《from》be on the payroll
 ↓↑     当座の褒美・贈り物
 文禄(1592)四月中旬日本軍、釜山上陸
 〜
 文禄二年(1593)
 文禄元年=万暦二十年=宣祖二十五年=1592年
 文禄二年(1593年)に休戦
 文禄元年四月十三日
 1592年5月24日〜1593年7月
 朝鮮半島全域
 満州豆満江一帯
 小西行長
 と
 沈惟敬
 らの協議によって日本と明の間で休戦成立
 日本軍は南に後退、朝鮮半島に築いた城塞に駐留
 ↓↑
 慶長二年(1597年)の講和交渉決裂
 慶長三年=万暦二十六=宣祖三十一年=1598年
 ↓↑
 慶長の役
 1597年1月〜1598年12月
 朝鮮半島三南地方
 豊臣秀吉死去で日本軍が帰国終結
 ↓↑
 支那明国
 李氏朝鮮
ーーーーー
 「スポーツ興行」・「祭りとして奉納行事」
 「相撲(すもう)=土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭りで、同時に武芸でもあり武道でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、大相撲が行われている」・・・
ーーーーー
 志賀 清林
 ↓↑ ・・・志賀 直哉
 ↓↑ (1883年・明治十六年)2月20日
      〜
     1971年(昭和四十六年)10月21日
     宮城県石巻生まれ
     白樺派
     小説の神様・・・?
    「小僧の神様1920年大正九年
     雑誌「白樺」に発表
     デビュー作
    「網走まで」(1910年)
    「或る朝」(1918年)
 ↓↑ 「菜の花と小娘」(1920年
     1913年(大正二年)8月15日
     東京
    「出来事」という小説を書き上げた晩
     里見紝と一緒に
 ↓↑  素人
     相撲を見に行く・・・↓↑
     その帰り道に
     山手線の電車にはねられ
     重傷を負い
     東京病院東京慈恵会医科大学附属病院
     に入院
     同年10月
     その養生のために
     兵庫県城崎温泉に滞在
      城崎滞在中、直哉は
     蜂・鼠・いもり
     という3つの小動物の死を目撃
     短編「城の崎にて」・・・
 ↓↑          ↓↑↓↑
 志賀 清林            
 (しが の せいりん)
 奈良時代の力士・行司
 最高位は最手
 ↓↑
 相撲の吉田司家や各行司家に伝わる
 『相撲傳書』『相撲講本』『相撲式』
 等に登場
 奈良時代
 726年(神亀三年)
 近江国から朝廷に出仕
 相撲の技
 四十八手
 と
 礼法
 と
 「突く・殴る・蹴る」の
 三手の禁じ手を制定する事を
 聖武天皇に奏上した人物・・・
 ↓↑
 志賀清林
 「近江國
  志賀ノ里ニ
  志賀清林ト云ヘル者」と
 『相撲式』(吉田司家蔵)にあり
 本町木戸の出身
 相撲司吉田家の伝承によると
 734年(天平六年)
 「相撲節」の立案に携わり
 相撲の公認の作法を作った
 国技相撲行司の始祖・・・
 ↓↑
 相撲
 力くらべや神事
 『日本書紀
 『続日本紀』に
 719年(養老三年)
 7月に
 宮中相撲節を担当する
 「抜出司」が任命された
 7月7日(七夕)の
 宮中行事としての相撲節会がなされたが
 志賀清林
 それまで明確な作法も土俵もなく
 生死を賭けた闘技であったものを
 「突く、蹴る、殴る」
 の三技を禁手とし
 手による「なげ」
 足による「かけ」
 腰による「ひねり」
 頭による「そり」
 の四手を基本に
 おのおの
 十二手の決まり手を付し
 相撲四十八手とした
 相撲確立の第一人者・・・
 ↓↑
 志賀清林死後
 志賀家は行事の家として代々務め
 平安時代末期に相撲が中断し断絶
 相撲司は
 吉田家(吉田司家)に移り
 吉田家から
 木村家・式守家により継承
 ↓↑
 1918年(大正七年)
 板垣退助碑文の
 志賀清林埋骨之碑が
 清林顕彰会によって建てられた
 ↓↑
 日本国内外の同じような形態の格闘技
 沖縄本島の沖縄角力(シマ)
 モンゴルのブフ
 中国のシュアイジャオ
 朝鮮半島のシルム
 トルコのヤールギュレシ
 セネガルのラム
 ↓↑
 「すもう」
 「すまひ」が「すもう」に変化
 「角力」、「捔力」(『日本書紀』)
 「角觝」(江戸時代において一部で使用)
 「力くらべ」を指す言葉
 古代には
 「手乞(てごい)」とも呼ばれていた・・・
 (手乞とは、相撲の別名とされ
  相手の手を掴む事の意
  素手で勝負をする事を意味)
 ↓↑
 英語で
 「sumo(スモウ)」
 「sumo-wrestling(スモウ・レスリング)」
 ↓↑ 
 組み合う格闘技
 相撲と呼ぶ
 腕相撲、足相撲、指相撲、拳相撲、草相撲
 紙相撲
 ↓↑
 記録の最古
 『古事記』の
 葦原中国平定の件で
 建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して
 出雲の
 建御名方神タケミナカタ)が
 「然欲爲力競」と言った後
 タケミカヅチの腕を摑んで投げようとしたが
 タケミカヅチが手を氷柱へ
 また氷柱から剣(つるぎ)に
 変えたため掴めなかった
 逆に
 タケミカヅチ
 タケミナカタの手を
 葦のように握り潰し
 勝負にならなかった
 ↓↑
 人間同士の相撲で最古のもの
 垂仁天皇七年(紀元前23年)七月七日 (旧暦)
 野見宿禰
 と
 「當麻蹶速当麻蹴速)」
 「捔力(すまいとらしむ・スマヰ
     すまい・スマヰと訓す)」
 での戦い
 「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」
 「各擧足相蹶
  則蹶折
  當麻蹶速
  之脇骨
  亦
  蹈折其腰
  而殺之」
 とあり
 試合展開は主に
 蹴り技の応酬
 最後は
 宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り
 更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃し
 腰骨を踏み折り、絶命させた
 現代の相撲とはルールも意識も異なる
 武芸・武術
 宿禰・蹶速は相撲の始祖
 ↓↑
 『古事記(垂仁記)』
 「ここをもちて軍士の中の力士の
  軽く捷きを選り聚めて
  宣りたまひしく、その御子を取らむ時
  すなわちその母王をも掠取れ。
  髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に
  掬みて控き出すべし。とのりたまひき。
  ここにその后
  かねてかその情を知らしめして
  悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ
  また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし
  また酒もちてその御衣を腐し
  全き衣の如服しき。
  かく設け備へて、その御子を抱きて
  城の外にさし出したまひき。
  ここにもの
  力士等、・・・・力士=相撲取り
  その御子を取りて
  すなはちその御祖を握りき。
  ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち
  その御手を握れば、玉の緒また絶え
  その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ」
 ↓↑
 「力士=ちからひと
    =すまひひと
    =相撲取り」・・・リキシ?
 ↓↑
 「相撲」の記録表記は
 「日本書紀雄略天皇十三年」
 の記述で、当時の
 木工にして
 黒縄職人?・・・黒(くろ)の縄(なわ)
 であった
 猪名部真根
 が
 「決して(刃先を)誤らない」
 と天皇に答えたため、
 雄略天皇
 采女を呼び集めて服を脱がせ
 褌にして相撲を取らせた
 記述が初見
 ↓↑
 「万葉集」と「相撲」
 相撲使の役人
 大伴君熊凝(くまごり)
 が
 某国司(それのくにのつかさ)
 官位姓名の従者(ともびと)となり
 諸国から力士を選別し
 都に上る途中、都へ向かった
 だが
 途上、病にかかり
 そのまま
 安藝国
 佐伯郡(さへきのこほり)
 高庭(たかには)
 の駅家(うまや)で
 身故(みまか)った。
 18歳
 ↓↑
 大伴熊凝
 が急病で亡くなり
 それを悼んで
 本人になり代わって・・・?・・・代行して?
 山上憶良
 詠った歌・・・・・・・・?・・・ウタった?・・・ナゼ?
 ↓↑ ↓↑
 「出でて行きし
  出 弖由伎斯

  日を数 へつつ
  日乎可俗閇都々

  今日今日と
  家布々々等

  我を待たすらむ
  阿袁麻多周良武

  父 母 らはも
  知々波々良波母」
  巻五(八九〇)
 ↓↑
 (私の出て行った後の日を
  数えながら
  今日か今日かと
  私の帰りを
  待っているだろう
  父母よ)
 〔一(云はく)、母の悲しさよ〕」
 ↓↑
 歌も巻五(八八六)の歌などと同じく
 相撲使いの某国司(官位姓名)の
 従人となって
 奈良の都へと向かう途中で
 亡くなった
  大 伴  君 熊 凝
 (おほとものきみくまこり)
 の死を悼んで
  山  上  憶 良
 (やまのうへのおくら)
 が詠んだ
 六首の歌のうちのひとつ
 ・・・
 ↓↑
 「一に云はく」以降は
 憶良自身による結句の別案
 歌の内容は
 「私の出て行った後の日を
  数えながら今日か今日かと
  私の帰りを待っているだろう
  父母よ」
 巻5の890 山上憶良
ーーーーー
 うち日さす 宮へ上(のぼ)ると
 たらちしや 母が手離(はな)れ
 常(つね)知らぬ 国の奥処(おくか)を
 百重山(ももへやま) 越えて過ぎ行き
 何時(いつ)しかも 京師(みやこ)を見むと
 思ひつつ 語らひ居(を)れど
 己(おの)が身し 労(いたは)しければ
 玉鉾(たまほこ)の 道の隈廻(くまみ)に
 草手折(たを)り 柴取り敷きて
 床(とこ)じもの うち臥(こ)い伏(ふ)して
 思ひつつ 嘆き伏(ふ)せらく
 国に在らば 父とり見まし
 家に在らば 母とり見まし
 世間(よのなか)は かくのみならし
 犬(いぬ)じもの 道に臥(ふ)してや
 命過(いのちす)ぎなむ
 〔一(ある)は云はく、わが世過ぎなむ〕
 巻五(八八六)
 ↓↑
 この歌は相撲使いの
 某国司(官位姓名)の従人となって
 奈良の都へと向かう途中で亡くなった
  大 伴  君 熊 凝
 (おほとものきみくまこり)
 の死を悼んで
  山  上  憶 良
 (やまのうへのおくら)が
 詠んだ六首の歌のうちのひとつ。
 正確には
  大 典 麻 田 陽春
 (だいてんあさだのやす)が
 詠んだ先の
 巻五(八八四)の歌と
 巻五(八八五)の歌に
 山上憶良
 追和して詠んだもの
 ↓↑
 憶良が亡くなった
 熊凝になり切って詠んだもの
−ーーーー
 『日本書紀応神天皇三十一(31)年九(9)月条
 ↓↑    応神天皇=第十五代天皇
            諱は誉田別尊
           (ほむたわけのみこと)
            誉田別命
           (ほんだわけのみこと)
            大鞆和気命
           (おおともわけのみこと)
            誉田天皇
           (ほむたのすめらみこと
            ほんだのすめらみこと)
            胎中天皇
           (はらのうちにましますすめらみこと)
            麛坂皇子
            と
            忍熊皇子
 ↓↑         は異母兄
 『日本書紀雄略天皇一十三(13)年九(9)月条
       大泊瀬幼武尊
      (おおはつせわかたけ)
       大泊瀬幼武尊
      (おおはつせわかたけるのみこと)
       大長谷若建命
       大長谷王
       大悪天皇
 ↓↑    有徳天皇
 ・・・「31⇔13」+「9」・・・31巻は日本書紀、含、系図不明
               九=9=玖
 ↓↑
 「日本書紀
  雄略天皇十三年(469年)秋九月
  雄略天皇
  二人の
  采女(女官)に命じて
  裸にし
  褌(フンドシ)を・・・憤怒し?
  付けさせ
  自らの事(木工刃物の技)を豪語する
  工匠の
  猪名部真根・・・韋那部  真根=猪名部真根・・・真似?
  の前で    (イナべ の まね)   真音
  相撲をトラせた・・・
  ↓↑     (いなべ の まね)
          木工(こだくみ)・・・鈷巧み?
          墨縄(すみなわ)職人
         「猪名部」は
          木工を専業とした
          品部(しなべ・ともべ・しなじなのとも
             ほんべ)=官司に上番、世襲的職業集団
                  統率者は
                  伴造(とものみやつこ)
         「猪名」は
         『日本書紀』巻
          第十一
          に
         「猪名県」の
         「佐伯部」が・・・佐伯=蝦夷の監督一族
                     弘法大師空海の姓
 ↓↑      「苞苴(おおにえ)」を献上したと記録
 『日本書紀
 巻第十四
 猪名部真根は
 常に刃先を誤らず
 刃をこぼさない様子を
 雄略天皇に怪しまれ
 天皇
 「誤って
  (台座の)石に
  当てることはないのか」
 と尋ねられ
 猪名部真根が
 「決して誤らない」
 と答えた。それで
 天皇
 采女を呼び集めて
 衣服を脱がせ褌(ふんどし)をさせ
 人前で
 女相撲を取らせた
 その様子に見とれた・・・目が眩み
 猪名部真根は
 刃先を誤り・・・ナンの道具の刃先か?・・・鑿・鉋・鋸
 雄略天皇
 豪語した事と違ったため
 処刑執行となる所
 その仲間が
 猪名部真根
 の処刑を
 匠(たくみ)な
 墨縄技術の・・・墨糸(すみいと)
        「墨壺(すみつぼ)」の
         糸巻き車に巻いてある
         麻糸
         墨糸の線引き技術
         すみなわ・規則・軌範・標準
 失伝を憂う歌を詠んだ
 それを聞いた
 雄略天皇
 処刑中止の為の使いを出し
 執行寸前で中止させ、事なきを得た
 ↓↑
 「最古の女相撲」の記録・・・
 ↓↑
 皇極天皇元年(642年)七月二十二日
 百済使節
 大佐(ダイサ)の・・・・大差・代差?
 平智積(ヘイチシャク)・・・「併置・並置」釈?
 らを饗応し
 余興として
 健児(ちからひと・ケンジ)に命じて
 同年四月八日に亡命していた
 百済王族
 翹岐(ギョウキ)・・・ギョウキ
 の前で        経記・行記・行基・行規?
 相撲・・・すもう・・・相=相対・相模(相見・佐賀美・沙加美)
 をとらせた      撲=扌+菐
 ↓↑           異体字
             「扑(簡体字)・攴・攵
              𢪗・擈
              菐・僕・璞・轐・墣・䑑・樸・幞・蹼
              うつ・たたく・ボク
              なぐる・打ちたたく
              撲殺・撲滅・打撲
              丵・業・菐・撲
 ↓↑           対=對・・・相對(対)
              菐は鋸歯のある器(丵=サク)
             「丵」=いれづみの鍼(はり)
             「刺青(入墨・黥面文身)の針(はり)」
              だろう・・・黥面文身・・・鯨=魚+京
              並=䒑+业
                異体字「並・𠀤・併・傡
                    竝・幷・𢆙・𥩵」
             「辛=からい・つらい・かのと・シン」
              辛=𨐌⇔丵=业+䒑+十
             「𨐌=立+キ=亠+羊=立+一+十」
             「辡(ヘン・ベン・弁)」
 「相撲節会
 奈良時代平安時代
 宮中行事の一つ
 相撲節会が毎年七月頃に行われ
 毎年40人ほどの強者が
 近衛府により選抜され
 宮中で天覧相撲をとった
 天平六年(734年)
 節会を統括する
 相撲司の初見は
 養老三年(719年)で
 8世紀初頭に定着した・・・
 ↓↑
 相撲節会
 当初は七夕の宮中行事の余興
 後に健児の制が始まると
 宮中警護人の選抜
 相撲節会は重要な宮中行事
 健児の選抜という
 本来の趣旨は次第に忘れられていった
 12世紀
 律令制の衰退
 都の政情不安定
 相撲節会は滞る
 承安四年(1174年)
 最後に廃絶
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 「神事相撲」・・・・神事=シンジ=新示・新字・・・?
           相撲=ソウボク=総模句・・・・?
 神社における
 祭事の相撲
 神事相撲
 農作物の豊凶を占い
 五穀豊穣を祈り
 神々の加護に感謝するための
 農耕儀礼
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 中世
 「武家相撲」
 実践的な意味での相撲は
 組み打ちの鍛錬として
 封建制を成立させた武士の下で広まった
 源頼朝は特に相撲を好み
 鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた
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 足利幕府
 相撲の奨励には消極的
 戦国大名は熱心に
 相撲人を養成
 応仁の乱以降
 都落ちをした貴族とともに
 京都の相撲文化が地方に伝わり
 民衆の間に相撲が定着
 相撲を生業とするものが現れる
 土地相撲
 「草相撲」
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 近世
 「勧進相撲
 江戸時代
 土地相撲の興行化
 興行主は
 神事相撲の「勧進」にことよせ
 勧進相撲と称し
 武家相撲も力士を
 大名の抱えとすることで
 名残をとどめた
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 憎々しい憎まれ役が
 「巧い・上手い・ウマい」役者・・・タレント?
 KC
 1973年9月11日
 癸丑癸 辛 己 傷官 傷官 墓
 辛酉庚 辛 劫財 比肩 帝旺
 庚戌辛 丁 戊 --- 劫財 衰
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 ・・・???・・・「怨恨」の地勢・・・世界の地理的半島の場
 字形は「呂=国⇔半島⇔国」・・・「侶=人+口+ノ+口」・・・
 ・・・???・・・「諦念」の地勢・・・極東の島
 ・・・???・・・「海賊」の地勢・・・極西の島