2640日目・・・「三角関係」・・・「(高さX底辺)/2=三角形の面積」・・・「多角関係」・・・「多角形の面積」・・・「円関係」・・・「円の面積=(半径)×(半径)×3.14=S=πr²」・・・「台形の面積=(上底+下底)×(高さ)÷2=S」・・・「ひし形の面積=(対角線)×(対角線)÷2=S」・・・「平行四辺形の面積=(底辺)×(高さ)=S」・・・「n角形の内角の和=180×(n−2)」・・・

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 大和三山
 神代に恋争いをしたという伝説
 額田王をめぐる
 天智天皇中大兄皇子
 と
 天武天皇大海人皇子
 との三角関係
 ↓↑
 出雲の
 アボニカミ(阿菩大神)という神様が
 香具山
 と
 耳成山
 の二人の男が
 畝傍山
 を妻にしようと争っているのを聞いて
 仲裁のため
 播磨の国まで来たところ
 争いがおさまったので
 この国にとどまった
 ↓↑
 「万葉集」巻一
 香具山
 と
 耳梨山
 と争(あ)いしとき
 立ちて見に来し
 印南国原
 (香久山と耳成山が妻争いをしたとき、
  阿菩の神が、
  この印南原まで見にやって来た)
 ↓↑ 
 「万葉集(巻一)」
 香具山・耳成山が女で畝傍山が男。
 香具山・耳成山が男で畝傍山が女。
 香具山が女で畝傍山耳成山が男。
 ↓↑
 香具山は
 畝火
 愛(お)しと
 耳梨と
 相争いき
 神代より
 かくにあるらし
 古昔も
 然にあれこそ
 うつせみも
 嬬(つま)を
 争うらしき
 (巻一)
 ↓↑ 
 大和三山・・・
 神々しく聳(そびえ)立つ・・・聳=従(从・從)+耳
 「従う耳」・・・ウサギと兎のミミ・・・半島地図・・・
 ワニ(鰐・和邇・和仁)=倭人
 ウサギ(兎・兔・宇佐戯)=加羅(唐・韓・漢)人
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 ・・・???・・・戯誤植・・・魏・呉・蜀・・・
 唐土(中国)・天竺(印度)・本朝(日本=倭国)・・・
 辰韓新羅馬韓百済弁韓加羅(伽耶)諸国が分立・・・
 高句麗(扶余・女真
 新羅(斯盧・シラ)
 ・・・
 百済(伯済・月支国王=辰王)
 新羅(斯盧・シラ)・・・秦の難民(陽侯)?
 加羅金官任那)・・・倭(九州・阿毎)?
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 天日槍命
 第十一代
 垂仁天皇三年(初期紀年BC27年)
 新羅国よりやってきた
 ↓↑
 「三角、四角、五角、六角、七角、八角、九角」関係
 「n角形の内角の和=180×(n−2)」・・・
 (N-2)×180・・・
 ↓↑
 葦原志挙乎命=伊和大神=大己貴命大国主
 (あしはらのしこおのみこと) 
 と
 天日槍命
 の
 秋津島、領土争奪戦・・・
 ↓↑
 アメノヒボコ
 古代朝鮮からの渡来人
 『日本書紀』では
 「天日槍」
 『古事記』では
 「天之日矛
 他文献では
 「日桙(ひぼこ)」
 「天日槍命
 「天日桙命」
 「海檜槍(あまのひぼこ)」
 とも
 新羅王子
 『日本書紀
 垂仁天皇三年三月条
 新羅王子の
 天日槍が渡来
 ↓↑ 
 天日槍は初め播磨国に停泊し
 宍粟邑にいた
 天皇
 大友主(三輪氏祖)
 長尾市(倭氏祖)
 を播磨に派遣し
 天日槍の尋問をさせた
 自分を新羅国王の子であるといい
 日本に聖皇がいると聞いたので
 新羅
 弟の知古(ちこ)に任せ
 自分は
 日本への帰属を願ってやって来た
 と語った
 天皇
 播磨国宍粟邑
 淡路島出浅邑
 の2邑に
 天日槍の居住を許した
 天日槍は
 諸国を遍歴し適地を探すことを願った
 天日槍は
 菟道河(宇治川)を遡って
 近江国吾名邑にしばらくい
 近江から若狭国を経て
 但馬国に至って居住
 近江国
 鏡村の谷の
 陶人(すえびと)が
 天日槍の従者となった
 天日槍は
 但馬国出島(出石)の
 太耳の娘の
 麻多烏(またお)を娶り
 麻多烏との間の子に
 但馬諸助(もろすく)を儲けた
 諸助は
 但馬日楢杵(ひならき)を儲け
 日楢杵は
 清彦(きよひこ)を
 清彦は
 田道間守を儲けた・・・
 ↓↑
 『日本書紀
 垂仁天皇八十八年七月条
 新羅王子の天日槍が持って来た
 但馬の神宝を見たいと
 天皇が言ったので
 使者を遣わし
 天日槍の曾孫の
 清彦に勅命を下して献上させた
 5物、
 羽太の玉 1箇
 足高の玉 1箇
 鵜鹿鹿の赤石の玉 1箇 
 日鏡 1面
 熊神籬 1具
 これらとは別に
 「出石(いづし)」
 という名の
 小刀1口があったが
 清彦は献上を望まなかったので
 袍の中に隠して身に帯びていたがバレて
 神宝の1つであることを言上
 天皇はこれと他の神宝とを一緒にして
 神府(みくら・奈良県天理市
    石上神宮
 に納めた
 天皇が神府を開くと
 小刀がなくなっており
 清彦に人を遣わして問いただすと
 小刀が自然と清彦の家に来たが
 その日の朝にはなくなったと言った
 天皇は畏れそれ以上は
 小刀を求めることをやめた
 小刀はのちに自然と
 淡路島に至り発見され
 島人により祠に祀られた・・・
 ↓↑
 天日槍が小舟に乗って
 但馬国に停泊し
 そのまま但馬に留まった
 天日槍は
 但馬国
 前津耳(一云に前津見または太耳)
 の娘の
 麻拕能烏(またのお)を娶り
 麻拕能烏との間に
 但馬諸助を儲けたとし
 これが清彦の祖父であるという
 ↓↑
 その他
 『古事記』では
 比売碁曾社(比売許曾神社)
 の由来が
 天日槍
 と
 阿加流比売神
 の伝承として記述
 『日本書紀』では
 垂仁天皇二年条の注に
 「都怒我阿羅斯等」と
 その妻の伝承として記述・・・
 『古事記応神天皇記では
 新羅の国王の子の
 天之日矛が渡来した
 新羅国には
 「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」
 という名の沼があり
 そのほとりで
 卑しい女が1人昼寝をしていた
 そこに日の光が虹のように輝いて
 女の陰部を差し、女は身ごもって
 赤玉を産んだ
 この一連の出来事を窺っていた
 卑しい男は、その赤玉をもらい受け
 男が谷間で牛を引いていて
 国王の子の
 天之日矛に遭遇し
 天之日矛に牛を殺すのかと
 咎められたので
 男は許しを乞うて
 赤玉を献上
 天之日矛は玉を持ち帰り
 それを床のあたりに置くと
 玉は美しい少女の姿になった
 そこで
 天之日矛はその少女と結婚し
 正妻とした
 ある時
 天之日矛が奢って女を罵ると
 女は祖国に帰ると言って
 天之日矛のもとを去り
 小船に乗って難波へ向い
 そこに留まった
 これが
 難波の
 比売碁曾(ひめごそ)の社の
 阿加流比売神である
 (大阪市の比売許曾神社)
 ↓↑
 天之日矛は妻が逃げたことを知り
 日本に渡来して
 難波に着こうとしたが
 浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が
 遮ったため入ることができなかった
 再び新羅に帰ろうとして
 但馬国に停泊したが
 そのまま但馬国に留まり
 多遅摩之俣尾(たじまのまたお)
 の娘の
 前津見(さきつみ)を娶り
 前津見との間に
 多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた
 多遅摩母呂須玖から
 息長帯比売命神功皇后・第14代仲哀天皇皇后)
 に至る系譜を伝える
 天之日矛が伝来した物は
 「玉津宝(たまつたから)」と称する八種
 これらは
 「伊豆志之八前大神
 (いづしのやまえのおおかみ)」
 と称される
 (兵庫県豊岡市の出石神社祭神)
 『古事記』では
 続けてこの
 伊豆志大神についての物語が記される
 ↓↑
 『播磨国風土記』では
 天日槍について
 地名起源説話が記録
 ↓↑
 揖保郡揖保里 粒丘条
 客神(外来神)の
 天日槍命
 韓の国から海を渡って
 宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近)
 の川辺に着き
 当地の長たる
 葦原志挙乎命
 (あしはらのしこおのみこと)に
 宿所としての土地を求めると
 志挙は海中に宿ることのみを許した
 これを受けて
 天日槍命
 は剣で海をかき回し、出来た島に宿った
 志挙はその霊力に畏れをなし
 天日槍命よりも先に
 国を抑えるべく北上し
 粒丘に至って食事を取った
 その時に口から飯粒が落ちたため
 「粒丘(いいぼおか)」と称される
 (たつの市揖保町揖保上の北のナカジン山)
 宍禾郡比治里 川音村条
 天日槍命が村に泊まって
 「川の音がとても高い」
 と言ったので
 「川音村(かわとのむら)」と称される
 (宍粟市山崎町川戸付近)
 ↓↑
 宍禾郡比治里 奪谷条
 葦原志許乎命
 と
 天日槍命
 の2神が谷を奪い合ったので
 「奪谷(うばいだに)」と称される
 ↓↑
 宍禾郡高家里条
 天日槍命
 「この村の高さは他の村に優っている」
 と言ったので
 「高家(たかや)」と称される
 (宍粟市山崎町庄能から山崎付近)
 ↓↑
 宍禾郡柏野里 伊奈加川条
 葦原志許乎命
 と
 天日槍命
 が土地の占有争いをした時
 いななく馬がこの川で
 2神に遭遇したため
 「伊奈加川(いなかがわ)」と称される
 (菅野川)
 ↓↑
 宍禾郡雲箇里 波加村条
 伊和大神の国占有の時
 天日槍命が先に着き
 大神は後から来たが
 大神が
 「対策を
  はかりも(考えも)しなかったから
  天日槍命が先に着いたのか」
 と言ったので
 「波加村(はかのむら)」と称される
 (宍粟市波賀町安賀・有賀・上野付近)
 ↓↑
 宍禾郡御方里条
 葦原志許乎命
 と
 天日槍命
 が黒土の
 志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り
 それぞれ黒葛を足に付けて投げた
 葦原志許乎命の黒葛のうち
 1本は但馬気多郡
 1本は夜夫郡(養父郡)
 1本はこの村
 に落ちた
 そのため
 「三条(みかた)」と称される
 天日槍命の黒葛は
 全て但馬に落ちたので
 天日槍命
 伊都志(出石)の土地を自分のものとした
 別伝として
 大神が形見に御杖を村に立てたので
 「御形(みかた)」と称される
 (宍粟市一宮町の北半部)
 ↓↑
 神前郡多駝里 粳岡条
 伊和大神
 と
 天日桙命
 の2神が軍を起こして戦った際
 大神の軍が集まって稲をつき
 その糠が集まって丘となったが
 その箕を落とした糠を墓といい
 「城牟礼山(きむれやま)」というとする
 (姫路市船津町八幡の糠塚)
 ↓↑
 神前郡多駝里 八千軍条
 天日桙命の軍兵が8,000人あったため
 「八千軍野(やちぐさの)」と称される
 (神崎郡福崎町八千種付近)
 ↓↑
 筑前国風土記
 『筑前国風土記逸文(『釈日本紀』所引)
 足仲彦天皇仲哀天皇)による
 球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲
 征伐のための
 筑紫行幸の際
 怡土県主(いとのあがたぬし
      福岡県糸島市付近)
 らの祖の
 五十迹手(いとで)が出迎えた
 五十迹手はその言の中で
 自分を
 高麗国(朝鮮)の
 意呂山(一説に蔚山)に
 天降った
 日桙の後裔・・・
 ↓↑
 『摂津国風土記逸文(『萬葉集註釈』所引)
 応神天皇の時
 新羅国の女神が
 夫のもとを逃れ
 筑紫国
 「伊波比乃比売島」に住んだ
 (豊後国ながら大分県の姫島)
 この島はまだ新羅から遠くないため
 男がやって来るだろうと
 摂津国
 比売島松原に移った
 その地名
 「比売島」は元の島の名に由来
 ↓↑
 『豊前国風土記逸文(『宇佐宮託宣集』所引)
 新羅国の神がやって来て
 田河郡鹿春郷の付近に住み
 「鹿春の神(かはるのかみ/かわらのかみ)」
 と称された
 (福岡県田川郡香春町の香春神社)
 ↓↑
 古語拾遺
 大同二年(807年)編纂の
 『古語拾遺』では
 垂仁天皇条において
 新羅王子の
 海檜槍(あまのひぼこ)が渡来し
 但馬国出石郡に大社(出石神社)
 をなした
 ↓↑
 霊廟
 アメノヒボコに関わる神社
 但馬国一宮の
 出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内)
 この神社は『延喜式神名帳では
 但馬国出石郡名神大社として
 「伊豆志坐神社八座」と記載
 これは
 『古事記』の
 「伊豆志之八前大神」とも一致
 アメノヒボコが将来した
 八種神宝の神霊が
 「伊豆志八前大神」として祀られ
 アメノヒボコの神霊が併せ祀られている
 この出石神社の創祀は
 社伝を別とすると
 実際には
 アメノヒボコを奉じる
 朝鮮系渡来人の一族が
 その将来した宝物を祀った
 但馬地方では
 出石神社のほかにも関係社数社の分布
 ↓↑
 後裔氏族
 アメノヒボコ
 『日本書紀』『古事記』では
 但馬諸助(多遅摩母呂須玖)
 から
 神功皇后に至る諸人物の祖
 『筑前国風土記逸文では
 怡土県主らの祖とされる・・・
 ↓↑
 『新撰姓氏録』では
 後裔は
 左京諸蕃 橘守
      三宅連同祖。天日桙命の後
 右京諸蕃 三宅連
      新羅国王子の天日桙命の後
 大和国諸蕃 糸井造
       三宅連同祖。新羅国人の天日槍命の後
 摂津国諸蕃 三宅連
       新羅国王子の天日桙命の後
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 ・・・???・・・角がアル人々の関係の和・・・参百六拾度・・・