2604日目・・・秋分の日ですか・・・満月・・・「1965年投票権法(Voting Rights Act of 1965)は、アメリカ合衆国議会で成立し、投票時の人種差別を禁じた」・・・アメリカの幻想と現実・・・「ハリー・S・トルーマン(1945〜53); ドワイト・D・アイゼンハワー(1953〜61); ジョン・ F・ケネディ(1961〜63); リンドン・ジョンソン(1963〜69)」・・・TVで「9/23/01:27 シネマ☆ランデブー・リリィ、はちみつ色の秘密(The Secret Life o

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 「リリィ、はちみつ色の秘密(The Secret Life of Bees)・原作はスー・モンク・キッドの小説『リリィ、 はちみつ色の夏』」
 ハンナ・ダコタ・ファニング(Hannah Dakota Fanning)
 1994年2月23日    1994年2月24日
 甲戌(辛・丁・戊)⇔甲戌(辛・丁・戊)
 丙寅(己・丙・甲)⇔丙寅(己・丙・甲)
 庚辰(乙・癸・戊)⇔辛巳(戊・庚・丙)
  申酉=空亡     申酉=空亡 鬼
ーーーーー
 オドロキのアメリカ時代・・・
 悪ガキ大将(大統領=President)・・・
          振例字出夢人?御触事・・・「ふれる=狂れる」
 マッカーサーに「お返しのおハナシ」をしたい・・・
 1775年4月19日〜1783年9月3日〜1975年4月30日〜2018年現在
 乙未(丁・乙・己)⇔癸卯(甲・ ・乙)⇔乙卯(甲・ ・乙)
 庚辰(乙・癸・戊)⇔庚申(己・壬・庚)⇔庚辰(乙・癸・戊)
 丁卯(甲・ ・乙)⇔丙寅(己・丙・甲)⇔丙午(丙・ ・丁)
  戌亥=空亡     戌亥=空亡
 アンタの国は独立戦争以来、未だに
 「幼稚園児のガキ大将以下」かも・・・
 オドロキのトランプのポーカー(poker)言動だけではない・・・
 本音はセルフシュな
 オドロキの戦国時代的
 国連各国指導者の脳ミソ構造・・・だけでもなく・・・
 各国民・・・人間、人類の脳ミソ構造は・・・
 気紛れな「神々の脳ミソの転写」・・・
 ↓↑
 1965年
 アメリカ合衆国議会
 投票権法(Voting Rights Act of 1965)
 投票時の人種差別を禁じた
 1965年8月6日
 アメリカ合衆国大統領
 リンドン・B・ジョンソン
 が署名し法制化
 その後5度にわたって法修正
 その保護範囲を拡大
 アメリカ合衆国憲法
 修正第14条
 修正第15条
 によって
 保証された投票権を確保するために考案され
 国内全体
 特に
 アメリカ合衆国南部における
 人種的少数者の投票権を確保
 この法には
 選挙管理を規定する多くの条項が含まれ
 法の「一般条項」は
 投票権に対する全国的な保護を規定
 その第2節は
 アメリカ合衆国各州と地方政府が
 人種あるいは言語的少数者に
 対する差別に繋がる投票に関する法を
 執行することを禁じる一般条項である
 その他の一般条項は
 昔から人種的少数者を締め出すために使われてきた
 識字試験や
 それに類似する手段を
 具体的に違法とするもの
 ↓↑
 特定の司法管轄区域にのみ適用される
 「特殊条項」も含んでいる
 第5節事前点検要件
 特定の司法管轄区域が
 アメリカ合衆国司法長官
 あるいは
 ワシントンD.C.
 に対するアメリカ合衆国地区裁判所から
 投票法の変更を行っても
 保護された少数者に対する差別にならないと
 事前の承認を得ることなく
 投票に影響する変更を実行することを禁じるもの
 もう一つの
 特殊条項
 その人口の中にかなりの数の
 言語的少数者を含む司法管轄区域は
 2言語の投票用紙などの
 選挙用具を備えること
 を求めている
 ↓↑
 第5節とその他特殊条項の大半は
 第4節(b)に述べられる
 「公式範囲(coverage formula)」
  によって包含される司法管轄区域に適用
 この「公式範囲」は当初
 1965年に
 とんでもない
 投票差別を行った
 司法管轄区域を含むよう考案され
 連邦議会はその公式範囲を
 1970年と1975年にも更新
 2013年の
 「シェルビー郡対ホルダー事件」
 において
 アメリカ合衆国最高裁判所
 この公式範囲を
 違憲だとして無効と判断
 その理由は現在の状態に
 もはや対応できないとした
 最高裁判所
 第5節を無効と判断しなかったが
 「公式範囲」が無ければ
 第5節は執行できない・・・
 ・・・「法律」が出来てもマモラナイ人間・・・ザル法以前・・・猿田彦のノリか・・・
ーーーーー
 河井 継之助(繼之助)
 文政十年一月一日(1827年1月27日)
 〜
 慶応四年八月十六日(1868年10月1日)
 越後
 長岡藩
 牧野家の家臣
 継之助は幼名
 諱は秋義(あきよし)
 号は蒼龍窟
 妻は「すが」・・・西郷吉之助の最初の配偶者(妻・夫人)の名?
             ↓↑
          伊集院須賀(すが)=伊集院 直五郎 兼善の娘
          伊集院 直五郎 兼善
          明治五年(1872年)頃
          出納大属
          1874年
          鳥取県権参事、参事・・・鳥取
          1876年
          高知県参事・・・・・・・高知
          大書記官
          1878年
          内務少書記官
          社寺局で勤務・・・・・・社寺局
          1882年11月
          高知県令に就任・・・・・高知
          自由党の関係者を
          県庁、学校から排除
          1883年3月
          在任中に死去
           ↓↑
          伊集院 直右衛門 兼寛
          天保九年一月二日(1838年1月27日)
          〜
          明治三十一年(1898年)4月20日
         「伊集院 直五郎 兼善」の嫡男
          通称は直右衛門
          諱は兼寛
          戊辰戦争
          東山道総督府参謀
          明治七年(1874年)
          海軍少将・海軍少輔
          元老院議官
          貴族院議員を歴任・子爵
          ↓↑
          実姉の
         「伊集院須賀(俊子)」は
          西郷隆盛に嫁ぎ
          安政元年(1854年)に離婚
          1955年11月 - 1975年4月30日
 ↓↑ ↓↑    ↓↑
    須賀=神奈川県南部・平塚市南東部
       相模川 (馬入川) の河口付近地区
       江戸時代には
       江戸〜大坂廻船と相模川舟運との中継港
       須賀千軒と呼ばれる
       須賀=東京都新宿区須賀町
       須賀=千葉県夷隅郡御宿町須賀
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
       須賀神社牛頭天王須佐之男命を
       祭神とする祇園信仰の神社
       須佐之男命=素戔 男尊
             素戔 嗚尊
           建速須佐之男命
             須佐乃袁尊
            神須佐能袁命
             須佐能乎命
 ↓↑         日本全国に存在する地名
         「すが」=「須我・清・酒賀・素鵞」
              などとも表記
              島根県高知県に特に多い・・?理由
         「須佐之男命」が
         「須賀(すが)」に至って
         「吾此地に来て、我が御心すがスガし」との由来
 「さ ・し ・す    ・せ ・そ=サ・シ・ス・セ・ソ」
  佐賀・滋賀・須賀(菅)・瀬賀
                 蘇我(曽我・曾我)
     蘇我一族⇔韓子・・・加羅
         ・満智・・・満地
         ・高麗・・・高句麗・狛=こま=駒・独楽
         ・稲目(伊奈米・伊那米)・・・十七女
         ・馬子・・・宇摩子
         ・蝦夷・・・蝦(えび)・蛤蟆・蝦蟇・甲斐
         ・入鹿         
ーー↓↑ーー
 建速-須佐之男命=素戔男尊素戔嗚尊
 建速=ケンソク=検測・健側・牽束⇔眷属・眷族・遣族
 ↓↑ 
 筑紫の
 日向の
 橘の
 小戸の
 阿波岐原で
 伊邪那岐命
 禊で・・・禊=自慰⇔一人(独人)の男から産まれた・・・???
 ↓↑           独身=single・bachelor's life
              bachelor=独身男性・学士
              Bachelor of Arts=文学士
              Bachelor of Science=理学士
              Bachelor=農奴を表すラテン語
              ↓↑
           独人=独逸人・独乙人⇔プロシア(普魯西)
              プロシア(普魯西・Prussia)
 ↓↑           ↓↑   ↓↑
 ↓↑  フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト
    (Philipp Franz Balthasar von Siebold)
     1796年2月17日〜1866年10月18日
     丙辰(乙・癸・戊)⇔丙寅(己・丙・甲)
     庚寅(己・丙・甲)⇔戊戌(辛・丁・戊)
     丁巳(戊・庚・丙)⇔丙寅(己・丙・甲)
      子丑=空亡
 ↓↑
 須佐之男命を
 鼻を濯(すす)いで出産(古事記
       ・・・鼻炎・鼻血・鼻息・鼾(嚊)
          鼻水
          洟(水夷)糞?
          葉菜   句素?
 ↓↑
 阿波岐原
 江田神社宮崎市
      阿波岐原町
 ↓↑
 須佐之男命は
 伊弉諾尊伊弉冉尊イザナミ伊邪那美命の間に産まれ
 天照大神ツクヨミ(月読)・ヒルコ(蛯児)
 の次に産まれた(日本書紀)・・・二人神から産まれた・・・
 ・・・彼らは「男と女の配偶者」から産まれた
 ↓↑
 配偶者 (連れ合い)=married person
 one's spouse; one's wife; one's husband;a mate
 王族の配偶者= one's consort
 ↓↑
 天照大神は天(高天原
 月読命ツクヨミ、ツキヨミ)は
     滄海原(あおのうなばら)
     夜
 を、スサノオには
 夜の食国(おすくに・ショク国)
   ・・・イスラム帝国(サラセン帝国・大食=ペルシア語で
   アラブ人を呼んだタージーク・ タージー
   唐・宋の漢字の当て字
   「ウンマ=原義は母でイスラム主流派政権」のアラブ帝国
 あるいは
 海原を治めよと言われたが
 スサノオは断り、啼いて
 母神イザナミ
 根の国に行きたいと願い
 イザナギの怒りをかい追放
 母の「故地」、出雲と伯耆の堺近辺の
 「根の国」へ向う
 途中
 天照大御神高天原へ上る
 天照大御神は弟が攻め入って来たと思い武装
 スサノオは疑いを解くために
 誓約(うけひ)を行った後、居座って
 粗暴を行い・・・反乱、騒乱、擾乱、内乱・・・?
 天照大御神
 天の岩屋に隠れた
 スサノオ高天原を追放(神逐)された・・・
 後
 須佐之男命は
 出雲の鳥髪山(船通山)へ降って
 八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた
 櫛名田比売命と出会い
 クシナダヒメの姿形を
 歯の多い櫛に変えて髪に挿し
 ヤマタノオロチを退治
 ヤマタノオロチの尾から出てきた
 草那藝之大刀(草薙剣)を
 天照御大神に献上
 クシナダヒメを妻とし
 出雲の
 根之堅洲国の
 須賀(すが)の地(島根県雲南市)で留まって
 ↓↑
 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐
 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流
 曾能夜幣賀岐袁(古事記
 ↓↑
 夜句茂多菟 伊弩毛夜覇餓岐
 菟磨語昧爾 夜覇餓枳都倶盧
 贈廼夜覇餓岐廻(日本書紀
 ↓↑
 八雲立つ 出雲八重垣
 妻籠に  八重垣作る その八重垣を
 ↓↑
 日本初の和歌・・・?を詠んだ
 「八雲=出雲を象徴」
 子供の「八島士奴美神」を産み
 その子孫に大国主神(大已貴命)
 大国主神は彼の6代後の子孫(古事記
 スサノオ
 「神大市比売」を娶って
 大年神
 と
 宇迦之御魂神
 をもうけた
 ↓↑
 スサノオ
 「日本書紀一書第4」で
 「新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り
  この地、吾居ること欲さず
  (乃興言曰 此地吾不欲居)」
 と言い息子の
 五十猛神(いそたける
 と共に土船で東に渡り
 出雲国
 斐伊川上の
 鳥上の峰へ到った
 (遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯)
 後、八岐大蛇を退治した
 「日本書紀一書第5」で
 木がないと子が困るだろうと言い
 体毛を抜いて木に変え
 種類ごとに用途を定め
 息子の五十猛命
 娘の大屋津姫命(おおやつひめ)
 枛津姫命(つまつひめ)
 に命じて全国に植えさせた
 ↓↑
 根の国
 スサノオの元にやってきた
 「葦原色許男神(あしはらしこを・大国主命)」は
 スサノオの娘である
 須世理比売に一目惚れ
 スサノオ
 葦原色許男神に様々な試練を与え
 葦原色許男神
 須世理比売の助けで
 スサノオ
 葦原色許男神
 須世理比売を妻とすることを認め
 生大刀、生弓矢、天詔琴を譲り
 「大国主」という名を贈った・・・
ーーーーー
 河井 継之助(繼之助)
 ↓↑ 
 1827年1月27日   1868年10月1日
 丙戌(辛・丁・戊)⇔戊辰(乙・癸・戊)
 辛丑(癸・辛・己)⇔辛酉(庚・ ・辛)
 丁丑(癸・辛・己)⇔庚申(己・壬・庚)
  申酉=空亡
ーーーーー
 髑髏杯(wikipedia.org/wiki/髑髏杯)=skull cup・・・前回のツヅキ・・・こころ残り・・・
 つき=杯=ハイ=葉意=坏・盃=つき=月⇔肉=ジク=字句・竺
 ↓↑
 形状は大きさなどによって
 盞(サン)・巵(シ)・觚(コ)・爵(シャク)・觴(ショウ)
 ↓↑
 紀元前8世紀〜紀元前3世紀
 ウクライナに割拠した遊牧民族
 スキタイの習俗に
 「頭蓋骨は近親者か
  最も憎い敵に限り
  髑髏を眉の下で切り
  牛の生皮を貼って杯として用いる」
 ↓↑
 ドニエプル川の北方部族が髑髏杯を用いる事や
 夜間に泉から汲んだ水を髑髏に入れて患者に飲ませ
 癲癇(テンカン)を治療(大プリニウス・『博物誌』)
 ↓↑
 567年
 ランゴバルド王国(イタリア)のアルボイーノ王は
 パンノニアのゲピド族を虐殺し、
 ゲピド王クニムンドの頭蓋骨で杯を作って祝った
 クニムンドの娘ロザムンダ(Rosmunda)を妻とし
 その髑髏杯を与えた
 ↓↑
 811年
 プリスカの戦いで戦死した東ローマ帝国皇帝
 ニケフォロス1世は
 その頭蓋骨を髑髏杯にされて
 第一次ブルガリア帝国の皇帝
 クルムに献上された
 ↓↑
 971年
 キエフ大公の
 スヴャトスラフ1世(在位:945年 - 972年)は
 ブルガリアに侵攻し、その地に居座ろうとしたが
 東ローマ帝国の皇帝
 ヨハネス1世
 ツィミスケスは
 ペチェネグを使って
 キエフ・ルーシ軍を壊滅させ
 スヴァトスラフ1世を戦死させ
 ペチェネグの首長クリャは
 スヴァトスラフ1世の頭蓋骨を盃にした
 ↓↑
 北欧神話の『ヴェルンドの歌』
 ヴェルンドは、自分を捕らえ膝の腱を切った
 スウェーデン
 ニーズズへの復讐として
 王の2人の息子を殺し
 その頭蓋骨を銀で葺いて杯を作り
 王に贈った
 ↓↑
 中央ユーラシア・中東
 イッセドネス人は
 親の葬儀で喜びを表し、故人の遺体を引き裂いて
 家畜の胎児の挽き肉と混ぜ合わせ
 宴に来た人々にふるまい、食べつくす
 頭蓋骨は磨き上げて黄金を巻き、杯に使う
 これらの行為はイッセドネス人における最大の親孝行
 ↓↑
 紀元前2世紀
 モンゴル高原に割拠した遊牧国家
 匈奴の老上単于
 隣国(敦煌付近)である
 月氏の王を討ち取り
 その頭蓋骨を盃にした
 以後、この髑髏杯は代々受け継がれ使用
 ↓↑
 516年
 高車王の
 弥俄突(在位:508年 - 516年)は
 柔然可汗の
 醜奴(在位:508年 - 520年)と戦い敗北
 醜奴はその両脚を駑馬の上に繋いでこれを殺し
 その頭蓋骨に漆を塗って盃とした
 ↓↑
 1510年
 サファヴィー朝
 シャー・イスマーイール(在位:1501年 - 1524年)は
 シャイバーニー朝の
 ムハンマド・シャイバーニー・ハーン
 (在位:1500年 - 1510年)
 を討ち取り、その頭蓋骨に金箔を塗って盃にした
 ↓↑
 インドのヴェーターラ(屍鬼)信仰で
 髑髏杯に血を注いで捧げ物とする
 11世紀にインドの詩人
 ソーマデーヴァに依って著された
 『屍鬼二十五話』にも
 髑髏杯で血を飲む
 婆羅門鬼の話
 ↓↑
 中国『戦国策』
 趙無恤がその敵
 晋の
 智瑶の頭部を盃(さかづき)にした
 ↓↑
 元の
 呉元甫も髑髏杯を常用した
 ↓↑
 チベット仏教およびヒンドゥー教
 タントラで
 カパーラと呼ばれる髑髏杯を
 宗教上の儀式に使う道具としている
 ↓↑
 日本
 天正二年(1574年)一月一日
 織田信長が、前年討ち取った
 浅井久政・長政
 朝倉義景
 の髑髏に漆を塗ったものを
 馬廻衆との宴に披露した『信長公記
 『浅井三代記』ではこれらの髑髏を杯にしたとある
 ↓↑
 江戸時代の漢詩
 高野蘭亭は、
 鎌倉で
 大館次郎の墓をあばき、髑髏杯を製した(『玉山遺稿』)
 ↓↑
 徳川光圀
 髑髏杯を所有していた
 少年時代に刑場からたずさえてきた
 罪人の首級であるとも
 某忠臣の首級であるとも・・・
 ↓↑
 「今昔物語集」に
 天竺では
 釈迦を脅す
 天魔の
 二姉妹が髑髏杯を持っている・・・(wikipedia.org/wiki/髑髏杯)
ーーーーー
 ・・・???・・・
 秋分=しゅうぶん=醜聞・修文・周文・拾文・・・周分・・・
 伊集院=イジュウイン=伊集音
     ・・・伊集因・・・伊集寅(イン・とら=虎・彪)・・・