2516日目・・・古代中国人の名前が「ヘン」・・・と思う「日本人」は「舎人」の中に存在したであろうか?・・・

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 石超
 ↓↑
 西晋の軍人
 字は
 仲容
 冀州
 勃海
 南皮県の人
 祖父は
 石苞・・・石の苞(艹勹巳)
      苞=むしろ草・筵(蓆)草
        あぶら萱・油茅・油萱
        つつみ・つと
        つつんだ品物・土産(みやげ)もの
        つつむ
        まるめてつつむ
        茎につつまれた、膨らんだ根元
        しげる
        枝葉が幹をつつんだように茂
        むらがりしげる
 父は
 石喬・・・石の喬(ノ一人口冂口)
      喬=たかい・そびえる・喬岳・喬木
        おごる・たかぶる
 ↓↑
 石超・・・石の超(十一ト人刀口)
      超=〜を超える
      叔父の石崇は
      司馬倫の側近
      孫秀に疎まれ刑死
      石超は
      兄弟の
      石熙と共に逃亡し
      鄴まで逃れ
      成都
      司馬穎(字は章度)
         ・・・武帝司馬炎)の16子
            恵帝(司馬衷)の異母弟
            懐帝(司馬熾)の異母兄
            母は程才人
      の腹心となり
      折衝将軍に任じられ
      趙王
      司馬倫
      が帝位を簒奪すると
      斉王
      司馬冏が
      司馬倫の誅殺を掲げて挙兵
      司馬穎、石超も加勢
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 「羊陸の交わり」?
 ↓↑
 羊祜・羊儒・羊続・羊衜
 羊秘・羊耽・羊発・羊承・羊徽瑜
 ↓↑
 羊鑑=匈奴中郎将の=羊鑒⇔詳=言+羊
           詳しい(くわしい)・・・句和思惟
           詳解(ショウカイ)
           詳細(ショウサイ)
           詳察(ショウサツ)
           詳述(ショウジュツ)
           詳報(ショウホウ)
           詳らか(つまびらか)・・・投馬比良化 
 羊済の子
 ↓↑
 羊侃・羊鑑・羊希・羊徽瑜・羊欣
 羊玄之・羊玄保・「羊献容」
 羊祜・羊祉・羊深・羊烈
 ↓↑
ーーーーー
 「羊 献容(ヨウ ケンヨウ)」
 286年〜322年
 ↓↑
 西晋
 恵帝の
 二番目の皇后
 &
 前趙
 皇帝
 劉曜の皇后
 泰山県
 南城郡の出身
 祖父は尚書右僕射
 「羊瑾」
 (羊祜や
  羊徽瑜の従兄弟)
 父は尚書右僕射
 「羊玄之」
 母は
 車騎将軍
 孫旂の娘
 八王の乱
 及び
 永嘉の乱
 に翻弄され
 波乱に富む一生を送った
 前趙において
 献文皇后と諡された
 ↓↑
 「羊献容」
 305年11月
 立節将軍
 周権が
 司馬越の命と偽り
 「羊献容」を
 五度復位させた
 だが、
 洛陽県令
 何喬は
 周権を殺し
 五度
 「羊献容」を廃位
 司馬顒は
 偽詔を発し
 「羊献容」が
 政治利用されていると
 自殺を命じ
 尚書
 田淑は
 洛陽朝廷に命令を伝えた
 司隷校尉
 劉暾らは反対して
 「羊庶人は離宮に軟禁されており
  厳重に警備されております
  姦人と乱を企むことなどありません
  賢者・愚者問わずみな
  羊氏の冤罪を訴えており、
  もし枯窮の人を殺してしまえば
  天下を落胆させることになり
  これは国家にとって益とはならない」
 と・・・
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 300年4月
 趙王
 司馬倫は
 側近の
 孫秀
 と共に決起し
 権勢を振るっていた
 恵帝の皇后
 「賈南風」を廃位し・・・賈南風=アキンドは南風、西のカイ
 その一派を尽く誅殺
 12月
 恵帝に
 新たな
 皇后が立てられ
 孫旂は
 孫秀と同族で
 重用されていたので
 孫旂の外孫である
 「羊献容」・・・・・・・羊を献(南犬)げて容れる?
 が皇后に立てられた
 ↓↑
 301年1月
 司馬倫
 が帝位を簒奪すると
 恵帝は
 金墉城に幽閉
 「羊献容」
 は皇后を廃位された
 三王の
 斉王の
 司馬冏
 成都王の
 司馬穎・・・石超
 河間王の
 司馬顒
 が
 司馬倫
 討伐で決起
 4月
 左将軍
 王輿
 は洛陽で政変を起こし
 孫秀を殺し
 司馬倫
 を幽閉し
 恵帝を復位
 「羊献容」は再び皇后位に就く
 孫旂を始め
 母の一族はみな誅殺
 304年2月
 鄴を守る
 司馬穎が
 皇太弟となって
 朝政を主管
 「羊献容」は再び皇后を廃位され
 金墉城に幽閉
 7月
 東海王
 司馬越
 は
 右衛将軍
 陳眕・上官巳
 らと共に
 司馬穎
 討伐を掲げて決起
 恵帝を奉じて共に
 鄴へ向けて軍を発した
 「羊献容」は
 三度目、皇后に立てられた
 だが、親征軍は
 蕩陰で
 司馬穎
 配下の
 石超・・・石超
 に敗れ、
 恵帝は捕らわれた
 8月
 長安を守る
 司馬顒の
 将軍
 張方が洛陽を攻め落とし
 「羊献容」は
 三度目の皇后位を廃位
 8月
 都督幽州諸軍事
 王浚は
 東嬴公司
 馬騰
 司馬穎・・・・・武帝司馬炎の16子
         恵帝(司馬衷)の異母弟
         懐帝(司馬熾)の異母兄・母は程才人
 討伐を掲げて決起
 司馬穎は
 鄴を放棄して
 恵帝を伴い洛陽へ逃走
 張方がこれを迎え入れた
 304年11月
 張方は
 恵帝を伴い
 長安への遷都を強行
 洛陽には
 留台が置かれて
 朝廷としての機能が残され
 朝廷は
 長安と洛陽に分裂
 洛陽朝廷により
 「羊献容」は四度皇后に立てられた
 305年4月
 張方は
 洛陽朝廷に命を下し
 「羊献容」は四度皇后を廃位
 金墉城に監禁
 皇甫昌は
 楊篇
 と謀り
 司馬越の命と偽って
 金墉城から
 「羊献容」を出迎え
 その命を奉じて
 張方討伐と
 恵帝奪還を宣言
 これにより
 司馬顒と対立していた
 養父である
 秦州刺史
 皇甫重の援護を目論んだが
 偽りであることが判明すると
 皇甫昌は殺された
 ↓↑
 305年11月
 立節将軍
 周権が
 司馬越の命と偽り
 「羊献容」
 を五度復位
 洛陽県令
 何喬は
 周権を殺すと
 五度
 「羊献容」
 を廃位
 司馬顒は
 偽詔を発し
 「羊献容」が
 政治利用されているという理由で自殺を命じ
 尚書田淑は
 洛陽朝廷に命令を伝えた
 司隷校尉
 劉暾らは反対して
 「羊庶人は離宮に軟禁されており
  厳重に警備されております。
  姦人と乱を企むことなどありません。
  賢者・愚者問わずみな
  羊氏の冤罪を訴えており、
  もし枯窮の人を殺してしまえば、
  天下を落胆させることになり、
  これは国家にとって益とはいえません」
 と上書
 司馬顒はこれに怒り
 洛陽を守る配下の
 呂朗に
 劉暾の逮捕を命じた
 それを知った
 劉暾は青州に逃げ
 この混乱により
 「羊献容」は死を免れた
 306年5月
 将軍祁弘・宋冑・馬纂
 らが長安を攻略し
 司馬顒を敗走させ
 恵帝を奪還
 6月
 恵帝が洛陽に帰還
 「羊献容」は
 六度皇后に復位・・・六度目の皇后に復位
 11月
 恵帝が死去
 羊献容は
 六度皇后位を去った
 皇太弟
 司馬熾
 皇帝に即位する手はずとなったが
 羊献容は
 元皇太子
 司馬覃を皇帝に立てようとし
 侍中華混は
 「皇太弟は東宮に入ってから久しく
  天下も安定を望んでおります
  今これを変えるべきではありません」
 と諫め
 司馬覃
 も応じなかったので
 「羊献容」は
 恵皇后の尊号を贈られ
 弘訓宮に居住
 ↓↑
 311年6月
 漢の
 征討大都督
 劉曜
 征東大将軍
 王弥
 前軍大将軍
 呼延晏
 らが洛陽へ襲来し
 晋軍は抗し切れずに
 洛陽は陥落
 ↓↑
 永嘉の乱
 「羊献容」
 は捕らえられ
 漢の都
 平陽に連れ去られ
 「劉曜
 に見初められて
 その妻となった
 ↓↑
 「羊献容」は「劉曜」との間に
 劉煕を始め3人の子を生んだ
 ↓↑
 318年8月
 大将軍
 靳準が平陽で反乱
 漢の皇族を全て皆殺しにした
 劉曜
 長安を守っていたので難を逃れ
 百官の求めに応じて
 皇帝に即位
 「羊献容」は七度皇后に立てられた
 劉曜には
 正妻
 卜氏との間に
 劉胤という世子がいたが
 靳準の乱で行方不明
 劉煕が皇太子に立てられた
 「羊献容」は
 劉曜の寵愛を受け
 後宮の取り仕切りだけでなく
 政治にも参画
 劉曜
 羊皇后へ
 「朕と司馬家の男を比べたらどうかね」
 と問うと
 羊皇后は
 「陛下は開業の聖主ですが
  彼(恵帝)は
  亡国の暗夫に過ぎないので
  比べるまでもありません
  彼は帝王でありながら
  一婦一子どころか
  自分の身も守ることができませんでした
  妾は当時、
  天下の男とは
  全てこうであるのかと思い
  生きる希望も失ったものです
  陛下に嫁いでから
  始めて天下に
  大丈夫がいることを知りました」
 と語った
 劉曜
 「羊皇后」を寵愛し
 羊皇后は度々
 政治に深く干渉するほどの力を持った
 ↓↑
 322年
 「羊献容」
 死去
 劉曜により
 献文皇后と諡された
 12月
 劉曜は巨大な陵墓を作り
 「羊献容」を埋葬し
 墓号を
 顕平陵とした
 ↓↑
 子女
 恵帝との間の娘(『太平御覧』)
 清河公主
 ↓↑
 劉曜との息子
 劉熙、劉襲、劉闡
 ↓↑
ーー?ーー
    ↓↑
 多胡 羊太夫(たご ひつじだゆう)
 ↓↑ ・・・多くの「胡人」の居住地?・・・
    多胡=タコ=鱆・章魚・蛸・海蛸
               鮹・多古・凧
          章の魚・虫の肖・魚の肖
              肖=小+冃(肉)
 ↓↑ ↓↑        ↓↑
       肖=にる・あやかる・似ている
         類する・象る・小さい
         消失する
         もとのものに似る・似せる
         ショウ・セウ
         名のりは
         あえ・あゆ・あれ
         すえ・たか・のり・ゆき
         肖者・肖物(あえもの)
         肖る(あやかる)
         肖似(ショウジ)
         肖像(ショウゾウ)
         肖る(にる)
 ↓↑      不肖(フショウ)
        「鮹・消・梢・屑・削」
        「鮹=馬の鞭の形の淡水魚
           (中国語)」
        「鮹=わが身を喰って魚の姿に
           なろうとする?」
        「オクトパス=オクトープス
         ラテン語の8本脚」
 ↓↑     「Octopus=海蛸子」
 奈良時代
 天武(672年〜686年)
 に活躍した
 上野国(群馬県)の豪族
 多胡郡の郡司
 多胡碑によれば
 「和銅四年・・・和金同肆年?
  近隣
  三郡から
  三百戸を
  切り取り
  羊
  なる者に与え
  多胡郡とした」
  と記載
 「羊」
 多胡碑の原文は漢文であり
 「給羊」
 の句があることから発想
 人名説以外に
 方角説
 時刻説などがある
 現在学説では人名説が有力
 名前については
 多胡(藤原)羊太夫宗勝
     小幡羊太夫とも
ーーーーー
 羯族・・・「般若心経」の「羯啼」
 で
 匈奴別部の
 羌渠の血統
 元の名を
 「㔨」と言い
 幼名は
 「匐勒」
 祖父は
 耶弈于
 父は
 周曷朱(又の名を乞翼加)
 前趙の将軍として各地を攻略し
 王浚・劉琨・段匹磾・曹嶷
 といった敵対勢力を次々と滅ぼした
 劉聡の死際には後事を託され
 劉曜と対立すると自立して
 後趙を樹立
 前趙を滅亡に追いやって
 華北に覇を唱えた
 奴隷から
 皇帝まで昇った
 中国史上唯一の人物・・・
ーーーーー
 茞=艹+臣=シン=fragrant plant,angelica
   異体字は茝
   声符「臣」・臣・嚚・䢻・姫・頣・䛗・挋
 ↓↑
 羊茞
 羊衜(ヨウドウ)=羊茞
 211年〜?
 221年〜278年?
 呉の武将・政治家
 荊州南陽郡の人
 羊茞とも
 弁論の才能を有す
 225年
 蜀漢の使者の
 費禕が来訪したとき
 呉側で論争を挑んだ人物の1人
 229年
 孫登が皇太子になると
 その賓客になった
 翌年
 20歳で太子
 中庶子に昇進
 魏の
 隠蕃という人物が帰順してくると
 朱拠
 郝普
 などが彼を賞賛したが
 羊衜
 は彼と付き合おうとしなかった
 やがて
 隠蕃が間諜であることが判った
 ↓↑
 衜(みち・ドオ・ダオ)=道
   Dao
 衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ
   謂う・云う・言う
   導(みちび)く
   人が行き来するための通り道
   道路
   人が守り行うべき決まり
   道理(ドウリ)
   云う・語る・述べる・唱える
   老子荘子の教え・道教
   漢代の行政区画の名
   導く・手引きする・教え導く
   昔の地域区分の名
   東海道
   中仙道(なかセンドウ・中山道
   山陽道
   西海道
   みち・学問や芸術のわざ・技術
 ↓↑
 衜=彳+首+亍
   異体字は「衟・道・噵」
 ↓↑
 道=衜=衟
   𨔞・𨖁・噵・𨗓
   𧗞=道の籀文(石鼓文の註)
   遯=字彙補と同じ音「𧗟」
 ↓↑
 北海道
ーーーーー
 ↓↑
 戊辰
 248年干支=戊辰・・・正始九年
   9月 5日の朝 5:50・・・日食
   卑弥呼死没?
 248/9/5/5:50
 戊辰(乙・癸・戊)⇔龍・竜
 庚申(己・壬・庚)⇔猿・猨・猴・猱・狙・沙流
 辛酉(庚・ ・辛)⇔鳥・隹
 ↓↑
 神功皇后四十八年八月一日?
 ↓↑
 戊辰戦争(ボシンセンソウ)
 慶応四年/明治元年〜明治二年
 1868年〜1869年
 明治政府樹立の
 薩摩藩長州藩土佐藩
 ら
 新政府軍
 と
 旧幕府勢力
 奥羽越列藩同盟
 が戦った内戦
 明治新政府が同戦争に勝利
 戦争経緯
 鳥羽・伏見の戦い
 甲州勝沼の戦い
 宇都宮城の戦い
 北越戦争
 東北戦争
 箱館戦争
 旧暦
 慶応四年一月三日
 1868年1月27日
  〜
 1869年6月27日
 明治二年五月十八日
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 蔡 邕(サイ ヨウ)
 ?132年、133年〜192年
 後漢末期の政治家・儒者・書家
 字は伯喈(ハクカイ)
 兗州
 陳留郡
 圉県の人
 父は蔡棱
 娘は蔡琰
 従弟は蔡谷
 外孫は
 羊徽瑜(西晋の景献皇后)
 羊祜
 ↓↑
 太傅の胡廣に師事
 辞章・ 数術を好み
 音律を解した
 170年
 司徒
 橋玄の府にまねかれ敬待
 郎中として東観で書物を校閲
 議郎に還った
 ↓↑
 彼は経書の文字が時を経る間に
 転写などによって
 誤謬が生じ
 後学の人を誤らせるのを恐れ
 馬日磾
 ら数人とともに
 霊帝に願い出て
 経書の文字を正定する許可を得た
 蔡邕
 自ら隷書でこれを書き
 石工に刻ませ
 183年に完成
 洛陽の
 太学の門前にこの石碑を立てた
 「熹平石経」と称された
 後漢になって
 古文経学が盛んになり
 今文との比較研究が行われ
 諸儒がそれぞれ異説を唱えた際
 熹平石経
 が彼らの準拠となった
 清朝末期の
 光緒四年以来、洛陽の故趾から
 断片が相次いで出土
 ↓↑
 周の文王を祖とし
 蔡国初代国王は
 蔡仲(蔡胡)
 子孫が
 「蔡邕」
 蔡邕の娘
 蔡琰は
 曹操がその暗記力に感嘆した
 蔡琰は芸術肌
 演奏中に切れた琴の絃を聞いて
 当てることができた
 蔡邕・蔡琰の祖先に
 蔡勲という県令を務めた人物は
 前漢を滅ぼした
 王莽に反発して隠棲
 ↓↑
 泰山郡の名族=羊氏
ーーーーー
 ・・・「羊の献の容」・・・コウゴウのチカラ・・・