2514日目・・・マンドリルの社会・・・「mandrill=すだま=山魈(サンショウ・shan1xiao1・シャンシヤオ)」・・・牝が牡のリーダーを擁立・・・当然・・・?

ーーーーー
 石苞(セキハウ)=???・・・「石(丆口)」の
                「苞(艹勹巳)」
 ↓↑
 孫楚・・・・・・・孫(「子・孑・孒」の「系」)の
 ↓↑       楚(「木木」を疋(ひき・あし・ショ・ソ)
          疋=乛+ト+人=二反・昔の金銭の単位=十文
 ↓↑         動物を数える語・布の長さの単位
 の人物評を求められ
 「彼は天才にして知識が広く、
  群を抜いて優れています」
 と
 孫楚を推薦
 ↓↑
 孫楚は
 40歳を過ぎて
 魏に仕え・・・魏=委(禾女)+鬼(ノ田儿ム)
 揚州の
 対呉の最前線を守る
 鎮東将軍の
 「石苞」
 の参軍事となる
 ↓↑
 苞(ホウ)=艹+勹+巳
   花や花序の基部にあって
   蕾(莟・つぼみ⇔窄み)を
 ↓↑     ・・・窄=宀+儿+乍
 ↓↑        窄む(すぼ-む)
           窄まる(せば-まる)
           窄い(せま-い)
           窄む(つぼ-む)
           搾る(しぼ-る)=扌+窄
           搾取・搾乳
   包んでいた葉のこと
   苞葉とも
   また個々の苞を苞片
   普通の葉より小さく
   緑色をしたもの
   しかし、
   花弁(花びら)や・・・花(艹イ牝)の弁(厶廾)
   萼(蕚・うてな・ガク)に・・・蕚=艹品一丂
   ↓↑・・・菩薩の座る蓮の花の台座
        往生した者が極楽浄土で座る
        蓮の花の座・蓮台(臺)
              ・・・臺=吉冖至
                   十一口ワ一ム十一
          壱拾壱の國の倭、始の横島の重位地(位置・市)
        はちす(蓮)のうてな(台)
       (蜂巣・蜂須・八須)の(台)?
        ・・・「鉢・葉智」素(州)の太(他意・替)?
        うてな(台=臺)
        四方を眺めるために建てられた高い建物・高殿
       「萼=花の萼 (がく)」・高い土壇・建物・高殿
        物を載せる台
   ↓↑   眺望をよくするために、土を積んで高くした所
   見えるような植物もある
   逆に
   葉としてよく発達し
   本当の葉の方が
   退化している例もある
   また
   花序全体の基部を包む苞を
   総苞といい
   個々の総苞を
   総苞片という
   イネ(稲)科や
   カヤツリグサ(蚊帳つり草・萱つりぐさ)科の
   花は鱗片が折り重なったもので
   小穂と呼ばれる
   この鱗片はもともとは
   苞ないし
   総苞に由来
 ↓↑
 苞=つつみ・つつむ・つと・ねもと・ホウ
   草の名の「あぶらがや・むしろぐさ」
   草履(ゾウリ・わらじ=草鞋)、莚(蓆・むしろ)の用材
   土産(みやげ)もの
   包んだもの・包んだ品物
   つつむ
   しげる・むらがりしげる
   もと・ねもと
 ↓↑
 「包蔵禍心(ホウゾウカシン)」
  誰にも気付かれないように
  悪事を企むこと
 「包蔵」は包み隠すこと
 「禍心」は悪い行いをしようと計画すること
 「禍心を包蔵す」とも読む
 「苞蔵禍心」とも書く
  (春秋左氏伝・昭公元年)
 ↓↑
 苞
 わら(藁)などを束ね
 中に食品などを入れて包みとしたもの
 わらづと=「納豆のわらづと」
 土地の産物
 贈り物として携えてゆく、みやげもの
 「都のわらづとに何をせむと思ふに
  宇津保 吹上・上」
 ↓↑
 苞=花あるいは花序の付け根に出る葉
   芽やつぼみを覆って花を保護する
   うろこ状や花びら状となるものもある
   包葉
 苞=苞苴
   包(つつ)むと同語源
   藁(わら)などを束ね
   その中に食品を包んだもの
   わらづと
   その土地の産物・旅のみやげ
 ↓↑
 家苞
 わが家に持ち帰るみやげもの
 「家苞に貝そ拾(ひり) へる
  浜波は
  いやしくしくに
  高く寄すれど(万・四四一一)」
 ↓↑
 苞=艹・艸(そうこう・くさかんむり)
   +
   包
   ホウ・ヒョウ・つと
   茅(かや)の一種
   「ぞうり・むしろ」などの材料
   むしろぐさ・あぶらがや
   つつみ・つと
   つつんだ品物・みやげもの
   つつむ・まるくまとめてつつむ
   茎につつまれて、ふっくらとした根もと
   しげる
   枝葉が幹をつつんだように
   こんもりとしげる
   むらがりしげる
 ↓↑
 苞
 葉の変形したもの
 花を保護するモノ
 苞葉と同義
 植物用語の一つで
 花や花序の下部にあって
 つぼみを包んでいた葉のこと
 個々の苞を苞片という
 多くの場合
 普通の葉より小さ
 緑色をしたもの
 しかし
 花弁や萼に見えるような植物もある
 逆に葉としてよく発達し
 本当の葉の方が退化している例もある
 花序の下部の苞を総苞といい
 個々の総苞を総苞片という
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 ・・・
  マンドリルの社会・・・
 「mandrill=すだま=山魈
          (サンショウ・shan1xiao1・シャンシヤオ)」
 牝が牡のリーダーを擁立・・・当然である・・・
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 卑弥呼(ひみこ)の時代
 (正始十年=249年)
 正始十年
 (四月に改元されて
  嘉平元年=249年)
 曹操
 曹氏の魏から
 司馬懿
 司馬氏の晋へ
 禅譲革命
 泰始元年
 265年12月
 卑弥呼(ひみこ)は
 ?〜247年or248年、249年頃死去?
 ↓↑
 石 苞(セキ ホウ)
 ?〜272年
 ↓↑
 中国三国時代から
 晋の軍人
 魏・西晋に仕えた
 字は仲容
 冀州
 勃海
 南皮県の人
 子は
 石越・石喬・石統・石浚・石儁・石崇
 孫は
 石超・石熙・石順
 学問優秀
 容姿イケメン
 はじめは
 地元の県の小役人
 御者の仕事や鄴の市場での
 鉄売り従事
 特に御者の仕事は
 蠟艾と共に行ない
 蠟艾とは同い年で
 12歳〜13歳ぐらいであった(世語)
 ↓↑ ↓↑
    十三歳、卑弥呼の宗女「いちよ・とよ」
    「壹與」⇔魏志倭人伝
    「臺與」⇔梁書・北史
     と記述
     正始八年(247年)
     帯方郡太守
     王頎が着任
     倭国帯方郡
     載斯烏越
     ら使者を派遣
     親魏倭王
     女王-卑彌呼に
     従わない
     狗奴国の
     男王-卑弥弓呼
     を攻撃中と
     王頎に報告
     太守は
     正始八年      
     塞曹掾史の
     張政らを派遣
     詔書(檄文)
     黄幢(軍旗)を
     難升米(なしめ・ナンショウマイ)
 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
      升=物の量をはかる容器・計量の単位=石斗升合勺
        大宝二(702) 年
        初めて枡と尺とを天下諸国に分った(続日本紀
       「一升は十合なり(説文解字(段注本)・巻十四)」
        昇・陞と通じて「のぼる」
        柄杓型の容器の象形=升=ノ+丿+十=チ+十
        ます・のぼる・ショウ
        難升米=米(こめ・八方位)を図るのは難しい・・・?
 ↓↑ ↓↑
     に授けて和平を仲介
     女王-卑弥呼の死後
     後継者の男王を不服として
     内乱状態となり
     千余人が誅殺し合った
     卑彌呼の
     宗女
     壹與を
     十三歳の女王として立て
     倭国は安定した
     壹與は
     倭国大夫率善中郎將の
     掖邪狗・・・掖(わき・エキ)=宮門や宮殿のわき
                    掖庭・禁掖
                    助け導く
                    扶掖・誘掖
           邪(よこしま・ジャ)=牙+阝
           狗(いぬ・ク)
     ら二十人を随行させ
     張政らを帰還させた
     その際
     男女生口三十人を献上
     白珠五千孔
     逭大勾珠二枚
     異文雑錦
 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
     異文雑錦(イモンザッキン)・倭錦(ワキン)
          異文⇔異なる文(あや・ふみ・ブン)
          異=象形文字
            鬼の面をかぶって両手を挙げた形?
            人が鬼を追い払う際に
            かぶる面をつけて両手をあげ
            いつもとは普通でない容貌・・・?
            田=面で、共=首下の身体・・・?
         ・・・鬼の面+両手を掲げた姿・・・象形?
            甶+儿+ム
            田=狩る
            共=一つ・・・共=十+十+一+八
                   共≒廾+一≒++一八≒井
                   共≒廿+八=二八・二十八
               ・・・旧暦の一ヶ月の日数、28、29
                  28=弐捌、29=弐玖
           「共⇔倶(俱)=供=伴=偕
            共=拱・㭟・拲・珙」
            共同・協同・協働
        「異=田+共」が・・・ナゼ、コト(相違)なるのか?
                   ちがう(違う)なのか?
                 翼=羽+田+共?・・・羽の左右
                 異=田の共=対称の左右の形象?
            通仮字、機
            異体字、異・𠔱・异・𢄖・𤱨・𤱺・𢍀
                  𠔱=甲+艸+一+八・・・八=捌
                  𢍀=㠯+廾・・・㠯=以
            簡体字、异=己+廾
            声符「異」、㔴・翼・潩・𩙺・𠪙
                  䔬・禩・𩛛・廙・趩
       雑(九木隹)錦(金白巾)
 ↓↑ ↓↑
     二十匹を献上
 ↓↑
 石苞は
 やがて
 郭玄信(郭誕の子)や・・・「カクゲン=格言・各弦・確言」シン?
              郭(廓)の誕(言延)・・・郭務悰
 許允・・・・・・・・・・・許(言午)が允(ゆるす・まこと・イン)
 に認められ中央で立身出世・・・和田小五郎⇔桂小五郎木戸孝允
 ↓↑
 石苞=セキホウ=赤報
    ・・・?草莽隊で、王政復古により官軍となった
        長州藩薩摩藩を中心とする
        新政府の
        東山道鎮撫総督指揮下の一部隊
 ↓↑
 魏、晋の武将
 諸葛誕
 が反乱を起こした際
 司馬昭
 が指揮する反乱鎮圧軍に参加
 諸葛誕の救援に来た
 呉の軍勢を
 鍾会・・・「鍾(金の重・ショウ)の会(カイ)」
       鍾馗(ショウキ)・・タンゴ(端午の節句
 の計に従い、
 伏兵で大破
 司馬炎
 が
 晋王になると
 騎将軍に任ぜられた(演義
 ↓↑
 農民出の
 蠟艾と共に
 郭玄信の御者となり・・・郭(廓務悰)の御者?
 2人とも大臣まで出世するだろうと評価
 管輅
 と出会い
 陰陽の術を訊く
 長安で鉄売りをしている時に
 司馬懿に見出され
 青州刺史
 や
 鎮東将軍
 を歴任(正史)
 ↓↑
 石苞
 三国志演義後半の武将
 司馬昭が死んだ後
 王位を
 司馬炎が継ぎ
 石苞は
 驃騎将軍
 大司馬
 ↓↑
 石苞
 字は仲容
 冀州
 勃海
 南皮県の人(?〜272)
 魏の将
 若い頃は
 御者や鉄を売って生業
 蠟艾とは同い年で
 ともに御者の仕事を行った
 司馬懿
 の目にとまり
 重用されなかったが
 子の
 司馬師に才を見出され
 252年
 東興の戦いで
 呉軍の
 丁奉
 に敗れ全軍が撤退する中
 石苞だけが兵を失わずに
 引き上げ評価
 司馬昭が魏の実権を握ると
 都督
 司馬懿が重用した
 州泰(シュウタイ)
 ら刺史を
 逆に監督下に置く
 257年
 諸葛誕の反乱
 監軍として采配
 諸葛誕の援軍に現れた
 呉軍を撃破
 259年
 荊州諸軍事に移った
 王基
 の後を受け
 揚州諸軍事
 対呉方面の最高指揮官
 司馬昭の信頼を得
 彼の前で
 魏帝の
 曹髦(ソウボウ)
 を賞賛しても咎められず
 司馬昭
 が
 265年に死去すると
 帝位につかないまま没したのを嘆き
 直後には
 陳騫(チンケン)とともに
 魏帝の
 曹奐(ソウカン)へ
 暗に
 司馬氏への禅譲を迫った・・・
 石苞は
 周囲から妬まれ
 王琛(オウタン)は
 「大石が馬を踏み潰す」
 という童謡を
 石苞が
 司馬氏に
 反乱する兆候だと讒言
 これを
 呉の
 丁奉が利用し
 離間策を仕掛けると
 晋帝の
 司馬炎
 疑心暗鬼となり
 石苞の子の
 石喬(セキキョウ)
 に出頭を命じたが
 無視され
 268年
 石苞は
 謀反人として任を解かれ都に召還
 司馬炎の叔父に当たる
 司馬駿(シバシュン)が
 その立場の危うさを
 石苞の側近に知らせたため、
 石苞は武装を解き自宅謹慎
 やがて
 羊祜(ヨウコ)ら
 重臣の弁護が功を奏し
 司馬炎は疑いを捨て
 石苞を司徒に昇進させた
 石苞は改めて謝罪するとともに
 出頭に応じなかった
 石喬を
 勘当し
 以後は重用され
 272年に没した・・・
 ↓↑
 市長である
 沛国の
 趙元儒は
 石苞と
 交わりを結んだ
 趙元儒(ショウゲンジュ)が
 石苞の遠大の器量に
 「三公・輔弼に昇るだろう」と讃歎
 石苞は名を知られるようになった
 昇進を重ねて
 中護軍である
 景帝(司馬師)の
 司馬となった
 宣帝(司馬懿)は
 石苞が
 好色で行いが
 軽薄であると聞いて
 景帝を咎めたが
 景帝は
 「石苞は行いが足らぬとはいえ
  国家を経略する才能を備え
  高潔の士は必ずしも
  経世済民・・・・・・・・経世済民大塩平八郎
  の能力があるわけではなく
  それは
  斉の桓公
  管仲の贅沢を忘れて
  策謀だけを採用し
  漢の高祖が
  陳平の汚職を捨てて
  妙計だけを採用した理由です
  石苞はその二人ほどではないとしても
  今日の選りぬきなのです」
 と、宣帝はこれで納得・・・
 ↓↑
 東莱・・・・東萊=東莱(トウライ)
       中国の地名・山東省煙台市竜口市東莱街道
       黒竜江省ハルビン市道外区東莱街道
       中国の歴史上の地名
       東莱郡=漢代から唐代にかけて設置された
           山東省東部、煙台市付近
 琅邪太守・・・中国の古地名・ロウヤ=瑯邪・瑯琊・琅玡とも
        春秋時代越王、句践(こうせん)が
        現在の山東省膠南県南西の地に
        黄海を望む台館を起こし、諸侯と会盟を行った
        秦の始皇帝はここを治所に
        琅邪郡を置き
        二十八年(前219)の
        泰山封禅の後、琅邪台を設置
 を歴任
 文帝(司馬昭)が
 東関で敗北したとき
 石苞ただひとり軍兵を損なうことなく撤退
 文帝は所持する節を指差しながら
 「これをあなたに授けて
  大事に当たれないのが残念だ」
 と言って
 石苞を
 奮武将軍・仮節・監青州諸軍事
 に昇進させた
 ↓↑
 諸葛誕が淮南で挙兵したとき
 石苞は
 青州諸軍を統括し
 兗(エン)州刺史
 州泰
 徐州刺史
 胡質
 を監督し
 選りぬきの精鋭を遊軍として
 外部からの侵入に備えた
 呉は大将
 朱異・丁奉
 らに
 諸葛誕
 を出迎えさせ
 諸葛誕らは
 輜重
 を都陸に残し
 軽装騎兵でもって黎水を渡った
 石苞らは待ちかまえて攻撃し
 これを大破
 泰山太守
 胡烈が
 奇兵奇策でもって都陸を襲撃し
 その物資を焼きつくした
 朱異らは
 敗残兵を取りまとめて撤退し
 寿春は平定された
 石苞は鎮東将軍を拝命
 東光侯に封ぜられ
 仮節となった・・・
 (孫綝伝)?
  ↓↑
  綝=糸+林=糹+林(チェン・リン)
   ひもでつなぎ止める
   良い
   綝纚(シンリ)
   衣装の飾りの羽毛が垂れ下がるさま
   綝纚(リンリ)
   盛んなさま・盛んに飾るさま
 ↓↑
 楽綝(ガクチン)
 ?〜257
 魏衛尉
 広昌亭愍侯
 陽平衛国の人
 楽進の子
 楽肇の父《楽進伝》
 楽綝=剛毅果断・父親同等の風格
    父の死後、家業を継ぐ
 正元二年(255)正月
 鎮東大将軍
 毋丘倹
 揚州刺史
 文欽
 が反乱
 二月
 大将軍
 司馬師
 歩騎十万人余りを率いて鎮圧
 文欽の子
 文鴦
 が騎兵十人余りとともに突出し
 司馬師
 は引き下がり
 左長史
 司馬蓀に・・・司馬蓀
 騎兵八千を授けて
 背後を襲わせ、
 将軍
 楽綝
 らに歩兵を預けてそれを援護させた
 沙陽に到着するなり
 文欽陣営は陥落し
 文欽父子は旗下を連れて
 呉へと亡命した
 《晋書景帝紀
 ↓↑
 甘露二年(257)五月
 鎮東大将軍
 諸葛誕
 中央に徴されて
 司空に任命され
 諸葛誕
 「我が三公になるのは
  王文舒の次のはずだ。
  しかも使者を出さずに
  兵士に辞令を届けさせているし、
  軍勢を
  楽綝に委ねよと言うておる
  これは楽綝の仕業だろう」
 と考え、側近数百人を連れて
 揚州の役所へ押し寄せた
 《諸葛誕伝》
 ↓↑
 同月六日
 揚州刺史
 楽綝は
 城門を閉ざしたが
 諸葛誕は南門から
 「洛邑へ帰るついでに
  散歩しておるだけなのに
  なぜ門を閉ざすのかね?」
 と言いながら東門に回った
 兵士に城壁を登らせたり
 城門を攻めさせたりしたので
 城兵はみな逃げ去った
 諸葛誕が番人を
 叱りつけて門をくぐったので
 楽綝は城郭の矢倉に逃げこんだが
 結局、斬られた
 《諸葛誕伝》
 ↓↑
 諸葛誕
 上表し
 「楽綝は嘘ばかり言って
  臣が呉とやり取りをしているとか
  詔勅により
  臣の後任になったなどと申しました
  それゆえ臣は国家の命令を奉じ
  今月六日に
  楽綝を討伐し、その日のうちに
  斬首いたしました次第です」
 と述べた《諸葛誕伝》
 ↓↑
 帝は詔勅により哀悼の辞を述べ
 衛尉の官職を追贈し
 愍侯と諡した
 《楽進伝》
 唐咨は
 呉にあって
 左将軍
 持節の官職を授かり
 侯に封ぜられていた
 《諸葛誕伝》
 ↓↑
 太平元年(256)八月
 丞相
 孫峻
 前将軍
 唐咨を
 征北大将軍
 文欽
 驃騎将軍
 呂拠
 車騎将軍
 劉纂
 鎮南将軍
 朱異
 らとともに
 江都を出発させ
 淮水・泗水流域に進出させる
 翌九月
 孫峻
 病没したため召還
 唐咨・呂拠・文欽
 は
 上表して
 衛将軍
 滕胤を
 丞相にするよう訴えたが
 聞き入れられなかった
 呂拠は
 孫綝
 朝廷の実権を握ったと聞いて怒り
 彼を討とうとした
 孫綝
 呉帝
 孫亮
 詔勅を出させ
 唐咨・文欽に呂拠を追討させた
 十月
 将軍
 孫憲・丁奉・施寛らが派遣
 呂拠を迎撃し
 将軍
 劉丞が
 滕胤を討伐した
 かくて
 滕胤は敗北して一族皆殺しとなり
 呂拠は自殺した
 《孫亮・呂範・孫綝伝》
 ↓↑
 甘露二年(257)五月
 魏の
 征東大将軍
 諸葛誕
 謀叛を企て
 長史・・・長子?
 呉綱
 と
 末子
 諸葛靚(青見)・・・靚=ショウ・セイ
             化粧する・装飾品・しずかな
 を使者として
 呉に救援を求めた
 唐咨は
 文欽・全懌・全端・王祚
 らとともに
 諸葛誕
 救援に駆け付け
 軍勢三万人を
 寿春城に入れて
 楯籠った
 魏帝
 曹髦が
 大将軍
 司馬昭とともに東征にあたると
 諸葛誕の部将
 蒋班
 焦彝
 らは城壁を越えて投降し
 全懌らも降服
 《諸葛誕伝》
 ↓↑
 籠城軍は昼夜五・六日にわたって
 包囲陣を攻撃し続けたが
 包囲を破ることはできなかった
 諸葛誕が意見の食い違いから
 文欽を殺害すると
 文欽の子
 文鴦・・・鴦=おしどり・おし・カモ科オシドリ
        鴦(オウ)=オシドリのメス
        鴛(エン)=オシドリのオス
 文虎
 は
 魏に投降し
 城外から
 「文欽の子でさえ殺されなかったのだから、
  他の者たちは心配いらないぞ」
呼びかけた
城内では食糧も尽き
戦意も失っていた
 司馬昭が一斉攻撃をかけ
 寿春城は陥落
 唐咨は・・・咨=諮問=はかる・なげく・ああ・シ
         はかる・問う・相談する・咨問
         なげく・咨嗟(シサ)・ああ。感嘆の声
         嗟咨(サシ)・咨詢(シジュン)
         咨る(はかる)
 王祚
 らとともに降服
 《諸葛誕伝》
 ↓↑
 朝廷では
 唐咨を改めて
 安遠将軍に任じた
 《諸葛誕伝》
 ↓↑
 司馬昭は勝利に乗じて
 呉に侵入しようとしたが
 鎮南将軍
 都督
 揚予・・・揚(あげる)を予(あずかる)
 諸軍事
 王基の
 進言により取り止めた
 《王基伝》
 ↓↑
 景元三年(262)冬
 司馬昭詔勅によって
 諸州に艦船を建造させ
 同時に
 唐咨に命令して
 外海用の船舶を建造させた
 呉討伐のように見せかけ
 翌年秋
 鎮西将軍・都督関中諸軍事
 鍾会
 蜀を攻略させた
 鍾会
 蜀の官民に出した宣伝文によると
 唐咨は帰順後
 魏の国政に参与していた
 《鍾会伝》
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 卑弥呼の時代から・・・ 卑弥呼(ひみこ)は
 ?〜247年or248年、249年頃死去?
 ↓↑
 石 苞(セキ ホウ)
 ?〜272年
 ↓↑
 十三歳、卑弥呼
 宗女
 「いちよ・とよ」
 「壹與」⇔魏志倭人伝
 「臺與」⇔梁書・北史
  と記述
  正始八年(247年)
ーーーーー  ↓↑
 53年、158年、247年年、248年
 4回の皆既日食
 ↓↑
 240年干支=庚申・・・正始一年
 241年干支=辛酉・・・正始二年
 242年干支=壬戌・・・正始三年
 243年干支=癸亥・・・正始四年
 244年干支=甲子・・・正始五年
 245年干支=乙丑・・・正始六年
 246年干支=丙寅・・・正始七年
 ↓↑
 247年干支=丁卯・・・正始八年
   3月24日の夕・・・日食
 ↓↑
 248年干支=戊辰・・・正始九年
   9月 5日の朝 5:50・・・日食
 ↓↑
 249年干支=己巳・・・正始十年
       己が巳⇔ヨコシマなミ(へび=蛇・まむし=蝮・虺)
 ↓↑
 248年干支 =戊辰
 248年9月5日早朝・・・日食
 神功皇后 =摂政四十八年
 皇紀   =    908年
 魏    =正始  九年
 蜀    =延熙 十一年
 呉    =赤烏 十一年
 朝鮮
 高句麗  =東川王二十二年
       中川王  元年
 新羅   =沾解王  二年
 百済   =古尓王 十五年
 ↓↑
 倭の五王の時代
 454年8月10日
 (九州〜南四国〜南紀で皆既 )
 継体天皇の時代
 522年6月10日
 (北九州〜中国〜近畿
     〜中部〜北関東で皆既日食)
 『日本書紀(巻第二十二)』
 推古三十六年三月二日
 628年4月10日 9:17
 推古36年3月2日(西暦628年4月10日)
     三月の丁未の朔戊申
     日、蝕え盡きたること有り
 「日有蝕盡之」
 日食の5日後
 女帝推古は
 七十五歳で死没
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 中国王朝
 人物     死去年月 官職 爵位 出身地
 魏
 ↓↑
 陳泰
 チンタイ 景元元年
        五月
        260年   司空
             (尚書左僕射)
                潁陰侯 潁川郡
                    許昌
 王観
 オウカン 景元元年
        十月
        260年   司空 陽郷侯 東郡
                    廩丘県
 王基
 オウキ 景元二年
        四月
        261年   司空
             (征南将軍)
             東武侯   東萊郡
                   曲城県
 高柔
 コウジュウ 景元四年
        九月
        263年  太尉 安国侯 陳留郡
                    圉県
 鍾会
 ショウカイ 景元五年
        正月
        264年  司徒 東武侯 潁川郡
                    長社県
 蠟艾
 トウガイ 景元五年
        正月
        264年   太尉 蠟侯 義陽郡
                    棘陽県
 司馬昭
 シバショウ  咸熙二年
        八月
        265年   相国 晋王 河内郡
                    温県
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 中国王朝
 人物     死去年月 官職 爵位 出身地
 晋
 ↓↑
 王沈
 オウシン 泰始二年
        五月
        266年 司空
           (驃騎将軍)
                博陵公 太原郡
                    晋陽県
 王祥
 オウショウ  泰始四年
        四月
        268年  太保 睢陵公 琅邪郡
臨沂県
 裴秀
 ハイシュウ 泰始七年
        三月
        271年  司空 鉅鹿公 河東郡
                    聞喜県
 司馬望
 シバボウ 泰始七年
        六月
        271年 大司馬 義陽王 河内郡
                    温県
 司馬孚
 シバフ 泰始八年
        二月
        272年 太宰 安平王 河内郡
                    温県
 鄭袤
 テイボウ 泰始九年
        正月
        273年 司空 密陵侯 滎陽郡
                    開封
 石苞
 セキホウ 泰始九年
        二月
        273年 司徒 楽陵公 渤海
                    南皮県
 鄭沖
 テイチュウ 泰始十年
        閏正月
        274年 太傅 寿光公 滎陽郡
                    開封
 荀邈
 ジュンギ 泰始十年
        四月
        274年 太尉 臨淮公 潁川郡
                    潁陰県
 羊祜
 ヨウコ 咸寧四年
        十一月
        278年 太傅  南城侯 泰山郡
           (征南大将軍)  南城県
 何曾
 カソウ 咸寧四年
        十二月
        278年 太宰 朗陵公 陳国
                    陽夏県
 陳騫
 チンケン 太康二年
        十一月
        281年 太傅
           (大司馬)郯侯 臨淮郡
                    東陽県
 ( )内は官職
 魏の
 咸熙元年七月(264年)に
 爵位の制度改定
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 ・・・人名⇔訊名・人命・仁命・・・地名⇔知名・知命・致命・・・