2485日目・・・「亿(億)=イ+乙(イ+意)」・・・「数の億・万万亿万・億万、非常に大きな数・亿万人民=億万人民」・・・「初は、10倍ごとに位取りの名称を定める下数」が行われていたので「一・十・百・千・万・億」で「億」は「105」となる。しかし漢代に「108を億」とされ。『漢書』律歴志に「一億三千四百八萬二千二百九十七」のような数が見える」・・・

ーーーーー
 億は「上数」でも
 「中数」の万万進・万進でも
 同様に「108」となる。
 漢字の「億」
 音符の「意」と
 意符の「亻 (にんべん)」
 を合わせた形声字
 元来は
 「胸いっぱいに
  考えられるだけ
  考える」
 という意味
 これが
 「考えられるだけ
  考えることのできる大数」
 の意味に変わり
 ついには
 「想像も出来ないほどの大きな数」
 の意味となった
 「億」は「万」の
 次の単位となった
 本来の
 「胸いっぱいに考えられるだけ考える」
 という意味は
 「億」の
 「亻」を
 「忄 (りっしんべん)」
 に置き換えた
 「憶」に充てられることとなった・・・「忄+乙」・・・「忔=喜ぶ・厭う・いとう・嫌う・キツ・ギツ」はあるが・・・「忄+乙」は無い?と思ったら・・・アッタ〜ッ・・・
 「忆=忄+乙=おもう・おぼえる・ヨク・オク・ざまざまなことに思いを馳(は)せる・おぼえる・忘れずに覚えている・心に留める」・・・
 ・・・ボクにとって問題なのは「曾・侯・乙」と「随」と云う「漢字」である・・・
ーーーーー
 曾侯乙-墓(ソウコウイツ-ボ)
 漆箱出土
 湖北省
 随県
 擂鼓墩(ライコトン)
 (31度42分)
 (113度24分)
 BC433年
 ↓↑
 汝陰侯-墓(ジョインコウボ)
 六壬式盤(リクジンショクバン)出土
 安徽(アンキ)省
 阜陽(フヨウ)市
 (32度54分)
 (115度49分)
 BC169
 ↓↑
 『説文解字
 河南省
 洛陽市
 漢
 洛陽
 周
 洛邑(ラクユウ)
 (34度39分)
 (112度26分)
 AD100成立
ーー↓↑ーー
 黹=业+㡀(小冂小)
  =业+小(亅八冂)小(亅八)
  =业+亅+八+冂+亅+八
   生業はの釣り針の把知(八字形⇔簗⇔魚籠=ビクの罠)、
   海の外の冂(ケイ構え・キョウ構え・柵の囲い・境)
   内海(うつみ・ナイカイ・港湾内)
   山の内の冂の内の弓矢=丫(ふたまた・木のまた)
   内山(うちやま・ナイサン・盆地)
              戈(ほこ)・l(棒)
              斧(おの)
              鉞(まさかり)
              鉈(なた)
              or
              弋(ヨク・イキ)=𢍺
     弋=𢍺=七+丶=匕+丶⇔一+乚(乙)+丶
       いぐるみ・矢に糸をつけて放ち鳥をとる道具
       弋=繳射なり=繳(いぐるみ)(玉篇)
       とる・獲物をからめとる・弋猟
       くろい・黒い色
       くい(杭・杙)⇔(橋桁)⇔羽咋
       うかぶ・水にうかび泳ぐ・遊弋(ユウヨク)
       弑=しいする・ころす・下の者が上の人を殺す
         弑逆・弑虐⇔嗜虐・簒弑(サンシ)
   业=業(わざ・なりわい・ギョウ・ゴウ)
     丵=茂る生草・鍼灸、刺青のハリ
     並(ならぶ・ヘイ)=䒑+业⇔並立・並行
     晋(すすむ・シン)=一+业+日(曰)
      「易に曰く、明、地上に出づるは㬜(晋)(易経
     㬜=臸+日(曰)⇔「臸=至+至」
       至(一のムは十の一)が並ぶ「至」
         初めの「ム=横島」に重位置
               横島←阿蘇山→横島
   黹=ぬいとり・チ
   刺繍・縫う
   『康熙字典
   「黹」字中央を「ハ」形
   下部内部の左払いと点を
   上の横画、
   中央の縦画から離している
   中国の新字形では「ハ」形を
   「逆ハ字」の「丷」形とし・・・「曽=曾=曽」⇔ソ+田+日
    ↓↑            曽=丷+田(口十)+日
    ↓↑            曾=八+口+小(亅八)+日
   左払いと点を
   上の横画
   中央の縦画とくっつけ
  「弊・幣」
   の左上の偏旁と統一
  「黹=針と糸による衣服や布の縫いとり・刺繍
     『説文解字』は
     㡀=「幣」の左上の字、破れた衣の意
       「丵(叢から
          取を除いた部分の字、草むら)
       の会意文字・・・?・・・「业+㡀(小冂小)」
       金文など
       衣架に掛けられた衣服に
       縫いとりのある形に象る・・・
       偏旁の意符として
       縫いとり、刺繍に関することを示す
       黹(チ)部
 ↓↑    ↓↑
 挙=ツ+一+手=擧(旧字体)=举(簡体字
        舉(繁体字、俗字)=與+キ(扌⇔手)
   あげる・あがる・キョ
   こぞる・こぞって
   持ちあげる・取り上げる
   事を起こす
   捕える
   ふるまい・行動
   すべて
ーー↓↑ーー
 會=亼+口+川(小⇔亅八)+日(曰)・・・昍
    「罒+l」
 㑹=亼+由(口十)+日(曰)
 ↓↑
 曽我・曾我・蘇我・嵯峨・相賀
 ↓↑
 曾=異体字は「曽」
    「曽(丷田日)」 は常用漢字新字体
    「曾(八口小日)」 は旧字体
   「蒸気を発する為の器具の上に
    重ねた甑(曾+瓦=こしき・蒸し器)から
    蒸気が発散している象形
   「かさねる・かさなる」
   ・・・甑が「瓦の曾」なら
        「かわら=化話等」の増長(重)だが・・・
 ↓↑    
 曾=曽=かつて・これまで・すなわち
     (以前に・これまでに)
     曽遊・未曽有(ミゾウ)
     かさねる・かさなる・かさなり
     曽孫・類字は層・増す
     ます・ふえる
     すなわち
 ↓↑
 かって=曽て・曾て・嘗て・・・「嘗(な)めて」?
     (副)
     過去のある時点に
     その事柄が成立
     昔。以前。前に。
     打ち消しの語を伴って
     今まで一度も・ついぞ
     〜ない・・・
     打ち消しの語を伴って
     全然・決して・少しも
     〜でない
     すべて・みな・ことごとく
     ↓↑
     曾の二画目、
     「八」が
     片仮名の「ソ」     
     草書体が
     平仮名の「そ」になった
       ・・・遡=朔+辶=さかのぼって
               辿(たどって)
               振り返って
            朔=屰(䒑屮)+月
              屰=さからう・逆らう・ゲキ
                武器
                戈や矛の機能を備えた武器
                殷〜唐代にかけて多用
         塑=でく・けずる・貼り付ける・こねる
           ソ・ス
           塑像・塑造
         愬=朔+心
           うったえる・ソ・サク
           朔+心
     ↓↑
     曽て(かつて)
     曽参、人を殺す=息子(曽参)が人を殺したと
             嘘も繰り返し云われれば
             母親も信じてしまう
             (ソウシンひとをころす)
     曽祖(ソウソ)
     曽祖(父ソウソフ)
     曾孫(ひまご・ソウソン)
 ↓↑
 亼=シュウ・集まるという意味
   會意=入 + 一
      象は三合之形
   合・僉・俞・會・今・令・侖・食・舍・全
 ↓↑
 「細々としたモノを集める」
 「意見などをあわせる」
 「まるく集まる様から円い」
 の会意兼形声文字
 儈:市場で売り手と買い手を集めて引き合わせる仲買人。
 噲:のど。口の奥で円くなった部分。
 廥:まぐさ小屋。
 澮:田畑の水を集める溝。
 獪:ずるい(→老獪)。犬が調子を合わせる。
 懀:
 𡑭:
 璯:
 薈:草木が集まって茂るさま。
 繪(絵):様々な色の糸を集めて作った刺繍。
 糩:
 膾(→鱠):肉を集めたごちそう。
 鬠:もとゆい。髪の毛を集めた部分。
 形声文字: 劊、鄶、檜(桧)
 意義[編集]
 (人が)あつまる、あつまり。
 あう。

 儈:市場で売り手と買い手を集めて引き合わせる仲買人。
 噲:のど。口の奥で円くなった 部分。
 廥:まぐさ小屋。
 澮:田畑の水を集める溝。
 獪:ずるい(→老獪)。犬が調子を合わせる
 懀
 𡑭
 璯
 薈:草木が集まって茂るさま
 繪(絵)=様々な色の糸を集めて作った刺繍
 糩=膾(→鱠・なます)=肉を集めたごちそう
 鬠=もとゆい・髪の毛を集めた部分
   劊・鄶・檜(桧)
ーーーーー
 随県の東団破
 此曾国与史书
 中的姬姓
 随国一国两名
 始祖为赫赫
 有名的
 周朝开
ーーーーー
 曾侯乙墓(ソウコウイツ-ボ)
 擂鼓墩1号墓(ライコトン-イチゴウボ)
 中国の
 湖北省
 随県
 (随州市
  曽都区)
 で発見された
 戦国時代初期の諸侯の墓
 「卜」字形の竪穴墓
 南北16.5メートル
 東西21メートル
 1978年5月11日
 文物考古部門が発掘開始
 17日
 泥水につかった墓の排水
 21日
 盗掘洞を発見
 23日
 曾侯乙-編鐘
 が水面に露出
 ↓↑
 墓主
 墓主
 45歳前後の男性
 殉葬者は13〜25歳の女性
 出土した
 銅鐘の銘文
 戦国初期
 曾国の
 「乙」
 という名の君主の墓
 「曾侯乙」と呼ばれる
 墓葬年代は
 楚の
 恵王56年(紀元前433年)頃
 「曾侯乙乍……」
ーーーーー
 大量の
 青銅製の
 礼器・楽器・兵器・金器・玉器
 車馬器・漆器・木器・竹器
 竹簡
 などの文物
 15404件が発見
 ↓↑
 曾侯乙-編鐘
 65個の青銅製の鐘
 青銅と木で作られた
 3段の枠に並べた楽器
 編鐘
 全65鐘が無傷で出土
 編鐘に
 5音音階
 7音音階
 西洋音楽
 12平均律に匹敵する
 独自の12律が存在
 転調の発想があった・・・
 音域は5オクターブ
 すべての音に
 異なる音名が付けられ
 すでに高度な
 音楽理論があった
 高度な音楽理論を元にし
 編鐘は製造され
 多種多様な音楽が演奏
 編鐘の製造
 紀元前433年
 と銘記
 ↓↑
 「曾侯乙-作持」
 の銘文
 「音階や音律」についての記述
 音楽史の貴重な文字史料
 ↓↑
 曾侯乙-編磬
 「へ」字形の石板(磬)を
 青銅製の架に並べて吊り下げた楽器
 曾侯乙-大鼎
 「曾侯乙-作持用終」
 の銘文を持つ鼎
 鴛鴦形漆盒
 曾侯乙之走戈
 「曾侯乙之走戈」
 の銘文を持つ戈
 竹簡
 240枚
 6696文字
 葬送に用いられた
 車馬
 武器甲冑
 の名称を記録した遺策
ーーーーー
 世界大百科事典内の
 曾侯乙-墓の言及
 【殷周美術】より
 ↓↑
 …河南省洛陽の
 金村古墓
 輝県
 固囲村-墓(輝県古墓群)
 王侯級の墓
 金属器の精品の出土
 1977年
 湖北省
 随県
 発見の
 曾侯乙-墓
 保存良好な
 戦国前期
 木槨墓
 青銅器は
 透し彫・浮彫・錯・嵌の技巧をこらし
 とりわけ
 「尊」と
 「尊盤」は
 複雑な透し彫装飾を器全面に
 付加したみごとな精品
 注目をひくのは
 楽器群で
 管弦打楽器がそろい
 編鐘は
 L字形
 上下3段の
 鐘虡(ショウキョ)
 に
 大小64点の鐘がかけられたまま出土
 ↓↑
 「随」より
 都邑
 湖北省
 随県
 随県城の北西にある
 前5世紀ころの
 古墓
 曾侯乙-墓
 から
 曾侯
 の銘のある青銅器が出土
 随
 と
 曾
 との関係・・・が論議
 「隋・唐」の
 「隋」とは
 「楊堅(文帝)」の父の
 「楊忠」が
 北周のとき
 随国公に封ぜられ、命名されたことによる
 ↓↑
 春秋時代(紀元前5世紀)
 王孫誥
 が諸侯の
 賓客を款待する為に造らせた
 と銘文に記録
 ↓↑
 擂鼓墩
 湖北省
 随州市
 西の郊外
 省都
 武漢
 から北西へ155キロ離れたところ
 2000年以上前の
 春秋時代(紀元前770〜同476年)
 楚王
 がここで太鼓を叩いて(擂鼓)
 突撃する兵士を鼓舞した
 ↓↑
 1978年
 湖北省博物館
 2400年以前の
 曾国の王
 曾侯乙の墓
 を発掘した際
 大量の
 青銅器
 漆器、陶器、玉器
 竹簡など
 埋蔵物
 1万5400点余りが出土
 その中で
 「古代冷蔵庫」と称えられている
 青銅製の
 「鑑缶(酒を冷やしたり温めたりする容器)」
 彫刻が精美な
 「大金盞
  16の環が繋げられた龍鳳玉飾り
  二十八宿図」
 を描いた
 衣装箱
 完全に保存された
 65個の鐘を備えた
 「編鐘」
 は、現在でも各種の曲を演奏できる
 「編鐘セット」によって
 2400年前の音楽を再現することができる
 ↓↑
 編鐘の表面に
 2800文字の銘文
 ↓↑ 
 墳墓
 中室には
 編鐘
 編磬(打楽器の一種)セット
 瑟(琴に似た弦楽器の一種)
 建鼓
 竹篪(笛に似た8つの穴がある楽器)
 排簫
 などの楽器
 全部そろうと
 大規模な古代宮廷オーケストラ
 曾侯乙が主催した祭祀
 婚礼、葬礼
 などの儀式や宴会で演奏した・・・
 東室からは
 琴、太鼓、笙などの楽器が出土
 曾侯乙
 が音楽を好み、
 余暇には、
 居間でこれらの楽器で演奏
 東室に安置された
 副葬棺の中で眠っていた
 8人の若い女性は
 当時、彼のためだけに音楽を演奏した美女・・・
 ↓↑
 鎛鐘がひとつある
 大きな鐘体を持ち
 精美に作られている
 この鐘は
 下段中央のもっとも目立つ位置に吊るされ
 正面には
 31文字の銘文が鋳造され
 「楚恵王56年(紀元前433年)
  惠王は西陽から戻り、
  曾侯乙のために、
  この鎛鐘を鋳造し、
  曾侯が永遠に享受できるように
  西陽に送った」
 という意味の銘文
 銘文は音律と関係ないが
 曾楚両国
 の強い友情の絆を示している・・・
 ↓↑
 代々の
 楚王は
 随国への恩返しを肝に銘じ
 楚国は相次いで
 60ヵ国以上の諸侯国を滅ぼしたが
 弱小の
 随国は700年近く生き延び
 随国文化を後世に残した
 紀元前433年
 曾侯乙が亡くなると
 楚の
 恵王は父君を助けてもらった恩に報いるため
 この鎛鐘を鋳造し
 曾(随)国
 もこの手厚い贈り物を
 もっとも目立つ場所に置き
 楚国に敬意を示した・・・
 ↓↑
 古代中国は楽器を
 「8音」と総称
 楽器を作る材料によって
 金、石、土、革、絲、木、匏、竹
 八種に分類
 金は鐘のような銅、鉄で鋳造
 石は磬のような玉石製
 土は壎のような陶製
 革は太鼓のような皮革が材料
 絲は琴のように弦を使う楽器
 木は梆子という拍子木
 匏は笙のような瓢箪で作ったもの
 竹は竹笛
 ↓↑
 古典『尚書
 「撃石拊石、
 百獣率舞(石を打ち鳴らせば、百獣が踊り出す)」
 山西省
 襄汾陶寺
 夏県東下馮で
 4000年前の
 石磬出土
 河南省安陽で出土した
 3000余年前の
 商代の大磬
 虎の装飾が施された楽器
 各地で出土した
 陶壎
 浙江省
 余姚河
 姆渡で出土した
 7000年前に作られた一つ穴の陶壎
 壎の雛形
 西安
 半坡で出土した
 6000年前の
 陶壎は
 上部と下部に一つずつ穴
 三和音を出せる
 商代
 陶壎は5つの穴
 7音階の曲を演奏できた
 骨の楽器
 河南省
 舞陽では
 8000年前の
 鶴の足の骨で作った
 25本の笛が出土
 3本はそれぞれ5穴、6穴、8穴で
 ほかに7穴の笛が3本あり
 5音、6音、7音の音階の曲を吹くことができる
 河南省
 浙川
 周代の骨を組んで作った
 5本の簫が発見
 13本の鶴の足の骨を組んで作った
 簫は楽曲を奏することができる
 商(殷)・周時代
 鐘は楽器、礼器として
 中央王朝や各諸侯国で大流行
 編鐘の場合
 商代では3個から5個しかなかったが
 周代は9個から13個に増えた
 戦国時代はさらに
 1セット61個に増加し
 曾侯乙のいた小国でも
 1セット64個の
 編鐘を鋳造
 ↓↑
 周代の音楽
 当時の
 礼楽制度と密接な関係
 西周時代
 天子から各諸侯、公卿、大夫、士
 に至るまで
 宗法制度や身分制度を維持し
 自らの身分、地位、権力を誇示するために
 祭祀、会盟、宴会、冠婚葬祭
 出陣の儀式に合わせ
 音楽を演奏し、舞踊も添えた
 身分によって
 演奏する曲目や踊りの種類が異なり
 音楽隊、舞踊団の規模、人数は厳格に区別され
 それを破ることは許されなかった
 周代
 音楽を重んじ
 礼制を厳格に実施
 専門の楽士
 地位の低い弾き手、踊り手のほか
 貴族の子どもも
 13歳から
 「大司楽」という
 専用の音楽学校に入る決まりがあり
 詩の朗読、音楽、舞踊の修行を義務付けられていた
 重要な国家行事の儀式で
 音楽、舞踊を演じるため
 その後
 東周王朝の国力が衰微し
 諸侯間の紛争が起き
 「礼節と音楽の崩壊」によって
 社会、思想、文化が華々しく解放され
 百家争鳴の発展期を迎え
 曾侯乙のような
 小国の諸侯でも
 大規模で、精美な
 編鐘を作ることができた?・・・楚から贈られたモノ
 長江流域の
 高度な音楽水準を反映・・・
 ↓↑
 青銅尊盤
 尊は酒を入れる容器
 盤は水や氷を入れる容器
 酒を冷やしたり
 暖めたりするのに使用
 尊と盤の全体に施された
 繊細で複雑な立体的な模様は
 絡んでいる無数の
 龍と蛇
 尊盤には派手な
 装飾が施され
 交錯する
 龍と蛇の文様は
 はっきりしており
 独立しながらも
 一体感を感じられ
 先秦時代に作られた
 もっとも複雑で
 もっとも精美な
 青銅礼器
 詳しく研究した学者は
 「失蝋法」によって作られたと推定
 失蝋法は
 まず蝋で模型を作る
 次に
 蝋の模型の外側に
 石英砂のような
 耐火材を付け
 陰干しにした後
 この模型を焼く
 蝋は熱で溶けるが
 「陰模」
 と呼ばれる
 殻は残る
 この
 「陰模」を使えば
 青銅器を鋳造することができる・・・
ーーーーー
 ・・・スゴイねっ、「古代中国の技術」・・・これらの「知識と技術」は中心的文明、文化から波及して周辺国の遠方に遺った・・・???・・・「波紋は遠方に到達する」・・・「古いモノは辺境の遺る」のが鉄則である・・・
 ナンオク萬年前に消滅した「恒星爆発の光」を今、現在、ボクたちはミテイル・・・終わった「オリンピック」からナニを眞名毘、ナニをナスベキか・・・