2484日目・・・冬季オリンピック、無事に終わって・・・一安心だが、シリア、なんで、そこに生まれただけの理由で、人々も子供たちも命をおとさねばならないのか・・・中東の混乱を極東に連鎖させ、ユスられるコトが無い様に祈るばかりである・・・冬は家の中も、外も乾燥・・・ムカシ、アルバイトのメッキ工場で右足の踝(くるぶし)あたりに液体の薬品がカカり、いまだにそのカ所が湿気や乾燥で異常事態、寝ている時も無意識で、その場所を掻いてしまう・・・

 「掻く=itch・itchy・痒い・itch・かゆみ・かゆい・itchy(形容詞)」
 痒い=疒+羊=itch(イッチ)⇔一致・何時知・伊津地・伊都置
           乙知⇔位置・位地・壹・壱・市・溢・一
 I'm itchy.
 My leg won’t stop itching. I can’t stop scratching it.
 My leg are itchy.
 My bug bite itches.

 「海鮮ドンヤ」・・・「カイセン=歌意撰・甲斐戦・解選」ですか・・・熟語が廻旋(カイセン)で同音の熟語が13以上はアル・・・
 「疥癬(itch mites=イッチ-マイッ)=カイセン」
 「無気門亜目
  ヒゼンダニ科のダニ(蜱)」
 「肥前の虫、ダニ(蜱=虫+卑)=疥癬(scabies)」は、
 「ヒゼンダニ(Sarcoptes scabiei var. hominis)の
  寄生による皮膚感染症
  湿瘡(シッソウ)、皮癬(ヒゼン)
  知られている皮膚疾患の中で
  掻痒は最高
  通常疥癬と角化型疥癬に大別される」・・・
 「カイセン=海戦・開戦・会戦・海鮮・廻船・回船・回戦・回旋・回線・櫂船・改選・改撰」・・・
 「𠃐」=「会」=「ヱ・エ・カイ・あう・あつ まる」=「𠆢+云」=「繁体字は會」=「異体字は會・㑹・㞧・㣛・郐 ・鄶・𠃐・𣥈・𨞡・𨞤」、「𠃐」???
 「乙(おと・オツ・イツ)乙(おと・オツ・イツ・イト)」   
 「音々・乙女乙女・何時何時・糸々」・・・
 「意図・異図・伊豆・怡土・伊都
        伊藤=いとう=厭う・意等」・・・
 「𠃐=乙+乙=乚+乚」⇔「Z+Z⇔L+L」・・・
 「ザ(Za)ジ'(Zi)ズ(Zu)ゼ(Ze)ゾ(Zo)」⇔「ラ(La)リ(Li)ル(Lu)レ(Le)ロ(Lo)」・・・
 「La≠Ra」・・・
 「Zi≠Di≠Ji」・・・
 「ヱ=ア+一=了+一」・・・
 「乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)」
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 会=會=あう・カイ(クヮイ)・エ(ヱ)
     ある目的のために多くの人々が集まること
     集まり・寄りあい・集会・衆会
 会=𠆢+云=亼+一+ム・・・
   一期一会(イチゴイチエ)
   𠆢(人)+云
 合=𠆢+一+口=亼+口
   𠆢(人)+一+口
 会=旧字は會・・・会津=あいづ=會津
   ヱ・エ・カイ・会う
   亼+一+ム
   通仮字は「劌=歳+刂」
   簡体字は会
   異体字は乙乙・㞧・㣛・㑹・鄶・会
   同訓異義は「偶々(たまたま)・偶然」
        「偶・會・適」
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 大化の改新        唐(618〜690〜周〜705〜907年)
                     周=則天武后
              李淵が隋を滅ぼして建国
 乙巳の変
 皇極天皇四年六月十二日   唐=貞観十九年(645年)
 (ユリウス645年7月10日)  新羅=仁平十二年
 (グレゴリ645年7月13日)  貞観十八年十二月五日
 乙巳・癸未・戊申      (645年1月8日)
 皇極天皇四年六月十九日   玄奘三蔵
 大化元年          天竺(印度)十六年の旅から帰国
 (ユリウス645年7月17日)  ↓↑
 ↓↑
 大化元年九月十二日
 (ユリウス645年10月7日)
 古人大兄皇子を殺
 ↓↑
 第四十一代
 持統天皇(鸕野讃良)
 誕生(〜703年)     ↓↑        
 ↓↑           隋(581年〜618年)
              魏晋南北朝時代の混乱を鎮め
              西晋が滅んだ後
              分裂していた中国を
              300年ぶりに
              文帝が再統一
              都は
              大興城(中華人民共和国西安
              城内に「天津橋」・・・天孫
              隋=大業十四年・皇泰元年
                (618年)
              第二代
              煬帝で滅亡
              後は
              唐=武徳元年
              唐が中国を支配
             「李淵=唐初代皇帝=高祖」
              隋の恭帝侑を傀儡とし
              禅譲により唐を建国
              李淵は在位九年の間
              王世充などの群雄勢力と戦い
              律令整備
              李淵の一族は
              大野(ダイヤ・おほの)氏
              という「胡姓」で「鮮卑
              626年
              次男の
             「太宗(李世民)」に譲位?
             「玄武門の変(626年7月2日
                    武徳九年六月四日)」
              にて皇太子の
             「李建成=木の子の建(たける)ナリ」
              を打倒し
              残存の群雄勢力を一掃
              天下統一
 ↓↑           ↓↑
 ↓↑           新羅=建福三十五年(618年)
 645年7月10日(ユリウス)⇔新羅=仁平十二年
 ↓↑           善徳女王(徳曼・金)
              647年2月17日死亡
              新羅の第二十七代の王
             (在位632年〜647年)
              新羅初の女王
              新羅國(前57年〜935年)
              朝鮮半島南東部にあった国家
             「斯蘆(しろ)」・・・鸕野讃良
                       毘盧遮那仏
              と称し
              503年
             「新羅
              を正式な国号とした
              647年正月
              女王自らが任命した
              上大等の
             「毗曇(ビドン)」らが
              女王の廃位を求めて内乱
              上大等の中央貴族に対抗し
             「金庾信」ら、
             (黄帝の子の
              少昊金天氏・・・昊(コウ・なつぞら
                      あかるく高い夏の空
                      大空
              の子孫ら)
                ・・・「少昊金天」=夜の銀河?
              地方勢力が女王を支援、乱を収拾
              同月八日に女王は陣中で死没
             「善徳(ゼントコ)」と諡号され
             「狼山(慶州市)」⇔オオカミのサン
              に埋葬
              在位十六年
              金庾信らは
             「真徳女王(勝曼・金)」を立て
              正月十七日、乱を鎮圧
             「毗曇」
              ・・・毗=毘・綣・𦜝・へそ
              ら20余名を誅殺
             「善徳」は死後
              唐から
             「光禄大夫(従二位の唐名)」を追贈
 ↓↑           ↓↑
             「大化三年
              647年
              金春秋、来日
              大化三年(六四七)是歳
              新羅遣上臣大阿飡
              金春秋等。
              送博士小徳
              高向黒麻呂。
              小山中
              中臣-連
              押熊。
              来、献孔雀(くじゃく)一隻。
                 鸚鵡(おーむ)一隻。
              仍以
              春秋為質。
              春秋
              美姿顔善談咲」
              真徳女王即位
 ↓↑           ↓↑
              654年 真徳女王死去
 ↓↑           武烈王(金春秋)即位
 645年7月10日(ユリウス)
 三国の「調」の儀式・・・調べる・調査
 皇極天皇
 大極殿に出御
 古人大兄皇子・・・ナンで「古人=ふるひと・コジン」?
 が側に侍し
 入鹿も入朝
 入鹿は日夜
 剣を手放さなかったが
 俳優(道化)に言い含めて、
 剣を外させていた
 中大兄皇子・・・ナンで「中=なか・あてる・チュウ」
 は衛門府
 宮門を閉じさせ
 蘇我石川麻呂
 上表文を読んだ・・・内容はナンだったんだか?
           三国の「調の儀式」に「上表」とは?
           上表文=古くは「しょうひょう」
           上に掲げてある表・上表を参照せよ
           意見を書いた文書を君主に奉ること
           その文書
           辞表を提出すること
 中-大兄皇子は
 長槍・・・・・・・ナガヤリで刺し殺す(中てる)?
 を持って
 殿側に隠れ
 中臣鎌足
 弓矢・・・・・・・弓矢は「的(まと)に中(あ)てる」武器
 を取って潜んだ
 海-犬養勝麻呂
 に
 二振りの剣を運ばせ
 佐伯-子麻呂
 と
 葛城-稚-犬養-網田
 に与えた。
 蘇我入鹿
 を斬る役目を任された
 二人は恐怖し
 飯(めし・いひ・ハン)に
 水をかけて
 飲み込むが
 たちまち吐き出す・・・ナゼ、こんな時にミズ漬けの飯を
            カーリングの選手のように
            モグモグ喰う「赤いサイロ」は
            なかった?
 鎌足は二人を叱咤
 石川麻呂
 が表文を読み進めても
 子麻呂らは現れず
 恐怖のあまり全身
 汗にまみれ、
 声が乱れ、
 手が震えた
 不審に思った
 入鹿が
 「なぜ震えるのか」
 と問うと、
 石川麻呂は
 「天皇のお近くが畏れ多く、
  汗が出るのです」
 と答えた。
 中大兄皇子
 佐伯子麻呂らが
 入鹿を恐れビビっているとし
 自らおどり出ると
 子麻呂らも飛び出し
 蘇我入鹿
 の頭と肩を斬りつけた
 入鹿が起き上がると
 子麻呂が片脚を斬った・・・・片脚
 入鹿は倒れ
 天皇の御座へ叩頭し
 「私に何の罪があるのか。お裁きを」
 と言った。
 天皇は驚き
 中大兄皇子に問うと
 「入鹿は皇族を滅ぼして、
  皇位を奪おうとした」
 と答える
 皇極天皇は直ちに殿中へ退き
 佐伯子麻呂・・・白村江の戦いで戦死・・・空海も佐伯姓
 と
 稚犬養網田
 は
 入鹿を斬り殺した
 大雨が降り・・・・大雨の日
 庭は水で溢れた
 入鹿の死体は
 庭に投げ出され
 障子で
 覆いがかけられた・・・アメ(阿毎⇔阿倍)に討たれた?
 古人大兄皇子
 は
 「私宮=ム宮」
 へ逃げ帰り
 「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」
 (韓人、殺、鞍作臣、吾心痛矣)
 「三韓新羅百済高句麗)から進貢の使者が来日」
 は「罠」・・・
 「韓人=加羅人=からひと=漢人=唐人」・・・化等比訳?
 ↓↑
 翌六月十三日
 (ユリウス645年7月11日)
 (グレゴリ645年7月14日)
 乙巳・癸未・己酉
 ↓↑
 蝦夷は舘に火を放ち
 『天皇記』、『国記』
 を焼いて自殺
 船恵尺・・・・船の恵の尺
 が
 この内
 『国記』を火中から拾い出し・・・?
 中大兄皇子
 へ献上
 ↓↑
 白村江の戦い(海戦・会戦)
 天智天皇二年八月二十七日〜八月二十八日
 663年10月4日〜10月5日(ユリウス暦
 癸亥・辛酉・戊申・水曜日・仏滅
 癸亥・辛酉・己酉・木曜日・大安
 ↓↑
 共通項は「戊申」、「己酉」の「日付の干支」だが・・・「戊申=ボシン・つちのえのさる=戊辰・母神」、「己酉=キユウ・つちのとのとり=杞憂・希有・喜勇・喜宥」・・・
ーーーーー
 ・・・「つちのえのさる」=「通知の絵の猿」・・・「つちのとのとり」=「通知能登の獲り」・・・