2440日目・・・大西蔵(藏)区・大蔵(藏)区?・・・ナゼ、「西=一(はじめ)+儿(ひと)+囗(くに)=にし=螺(虫+累)=中ム田糸=(中ム囗十幺亅八))=似詞・似史)の蔵=藏=艹+爿+一+臣+戈=くら・ゾウ」なんだか?・・・「爿=木を裂いて二つにしたモノの左半分・・・右半分は片」・・・「木=爿+片」・・・將(まさ)に牃(符牒・あいことば=合言葉)して鼎(かなえ)を妝(よそおう)・・・「山川(やまかわ)」・・・「忠臣蔵十一段目夜討」・・・元禄十五年十二月十四日(壬午年癸丑月庚寅日・1703年1月30日)

 「加里屋(かりや)城=大鷹(おおたか)城・・・築城(加里屋城)は、1466年〜1483年頃、岡光広が赤穂に築城」・・・
 「1701年、三代・浅野内匠頭(浅野長矩)が、江戸城中・松の廊下での刃傷事件を起こし、浅野家は改易、赤穂城は播磨龍野藩主・脇坂安照の預かり」・・・
 「1702年、赤穂城に永井直敬が3万3千石で入り、浅野家再興が閉ざされ、赤穂浪士の討ち入り」・・・
 「1706年からは森長直が二万石で入封、廃藩置県まで森家が赤穂城主」・・・
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 三蔵(サンゾウ)
 ↓↑
 三蔵(みつくら・みくら)
 ↓↑
 ti-pitaka=ティ-ピタカ→「飛騨・日田・肥田
              樋田・氷田」+タカ
       弖射-比日高・・・阿-弖-流為
       弖=弓+一  ア テ ルイ
         ?〜802・平安初期の蝦夷の族長
         北上川流域一帯を支配し
         延暦八年(789)
         征東将軍
         紀古佐美(きのこさみ)軍を破り
         延暦二十一年(802)
         征夷大将軍
         坂上田村麻呂に降伏
         河内国杜山で処刑
氐夷-肥田掛・・・五胡十六国時代
氐=氏+一・・・・氏のハジメ
         チベット系の部族
         渭水上流地方から嘉陵江上流地方に居住
         苻氏・呂氏などの有力氏族が
         前秦後涼を建国
         隋代から氏族としての独立を失った
         ↓↑
         氐宿=宿曜経二十八(二十七)宿の
            東方青龍七宿の第三宿
         氐宿=東方を守る霊獣青竜の胴
         十二宮の「秤宮」の三足
        「蠍宮」に一足属する
         天の根、青龍の胸、及び前足
       綴 -比他化
       綴(テイ)=糸+四又=つづる=津亠留
                 つづり=通図理
                つづら=葛籠・九十九・廿楽
 tri-piṭaka=トリ-ピタカ
止理-比多化・・・鳥-日高・・・北上・北神
      北上・・・日高見(ヒタカミ)
      ヒダ(山ひだ)カ(処)
      ヒダ(高)カ(地)
      ヒナ(夷)カ(処)
      ヒタカミ(辺境)
      日本書記に
     「武内宿禰、東国より環りまいてきて奏して言さく
     「東の夷(ひな)の中に日高見国あり…
     (景行天皇二十七年二月条)」
     「日高見国の母なる川の意味が
      日高見川(ヒタカミ川)→キタカミ川
      北上川と当て字」
     ・・・ヒダカがキタとは?キツイ・・・
     河川としては勾配がかなり緩(ゆる・緩慢)い・・・


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  八十梟帥(やそたける)は『日本書紀』にある人名
 「数多くの勇者」という意味
 「古事記」で
  八十建と表記
 「日本書記」で
 神武天皇
 菟田の
 高倉山
 ・・・高倉山(たかくらやま・コウソウサン)
        高来等山   構 想 纂(簒・算)
 に登り
 国内を見渡したとき
 「国見岳」の上に・・・・・・「国見岳」⇔日高見・北上川
                     にっこうみ
                     日光見
 八十梟帥(たける)がいた・・・
 八十梟帥は後に天皇に斬り殺された・・・
 ↓↑
 弟猾=弟宇迦斯(オトウカシ)・・・音雨下し?
 は
 「倭の国の磯城の邑に
  磯城
  八十梟帥あり
  又
  高尾張の邑に
   ・・・尾張氏の遠祖=天香語山命・天牟良雲命・天背男命
      などは、饒速日尊の東遷(185年頃)に従って
      筑紫から大和にやってきた・・・
      尾張氏の大和での本拠地は高尾張
      奈良県西部である葛城市の高台(葛城山の麓)
      尾張氏は海部氏の一族・・・
  赤銅の
  八十梟帥あり」
 と奏上・・・
 弟磯城
 「吾が兄、
  兄磯城
  天つ神の子
  来ましつと
  聞きては
  八十梟帥を聚め
  兵甲を具へて
  あひ戦はむとす」
 と述べた・・・
 ↓↑
 神武天皇
 菟田の
 高倉山・・・神武天皇顕彰碑・由緒
       宇陀郡の式内社二座に比定
       式内社について
       東吉野村
       高見山頂鎮座の高角神社
       と
       山麓水分神社とする説がある
       明治期に大高角社
       下守道の八坂神社を古高角社と称していた
 ↓↑
 四国に「高倉山」が無い?・・・
 ↓↑
 高倉山 青森県-1
 高倉山 岩手県-7
 高倉山 宮城県-2
 高倉山 秋田県-1
 高倉山 山形県-6
 高倉山 福島県-6
 高倉山 栃木県-3
 高倉山 群馬県-1
 高倉山 新潟県-2
 高倉山 石川県-2
 高倉山 福井県-1
 高倉山 長野県-2
 高倉山 三重県-1
 高倉山 大阪府-1
 高倉山 兵庫県-4
 高倉山 和歌山県-1・・・ナンで3文字?
 高倉山 岡山県-2
 高倉山 山口県-2
 高倉山 福岡県-1
 高倉山 大分県-1
 高倉山 鹿児島-2
 ↓↑
 三蔵
 上代、朝廷の官物を納めた三つの蔵
 斎蔵 (いみくら)
 内蔵 (うちくら)
 大蔵 (おおくら)
 ↓↑
 仏教の聖典の三分類したもの
 経蔵=Sutta pitaka 〈スッタ・ピタカ〉
    Sutra pitaka 〈スートラ・ピタカ〉
    釈迦の教え
 律蔵=Vinaya pitaka 〈ヴィナヤ・ピタカ〉
    僧団)規則・道徳・生活様相など
 論蔵=Abhidhamma pitaka 〈アビダンマ・ピタカ〉
    Abhidharm pitaka 〈アビダルマ・ピタカ〉
    「経、律」の注釈、解釈
 ↓↑
 仏教の聖典に深く通じた高僧に対する敬称
 また、聖典の翻訳者
 ↓↑
 「経蔵」
 釈迦の説法を文字にしたもの
 「律蔵」
 僧侶の生活規則を記したもの
 「論蔵」
 仏教教義について解釈や解説を施したもの
 ↓↑
 三蔵
 (さんぞう・ti-pitaka=ティピタカ
      ・・・pitaka=籠(かご)の意
      ・tri-piṭaka=トリピタカ)
 仏教における 経蔵・律蔵・論蔵の3つのこと
 仏教の典籍の総称
 論蔵(ろんぞう・Abhidhamma pitaka=アビダンマ・ピタカ
    Abhidharma pitaka=アビダルマ・ピタカ)
 仏教の聖典(仏典・三蔵)の一部で
 律蔵・経蔵に対する
 解釈・注釈書である
 論(Abhidhamma(アビダンマ)
   Abhidharma(アビダルマ)
   阿毘達磨)
 をまとめたもの
 ↓↑
 「三種の籠」の意
 転じて
 仏教の
 経典 (経蔵)
 戒律書 (律蔵)
 注釈書 (論蔵)
 仏教の意義を包蔵していることから
 三蔵と呼ばれ
 経、律、論の
 三蔵に通達している学僧を尊称し
 名前のあとに三蔵をつける
 ↓↑
 仏教の聖典
 経蔵・律蔵・論蔵のそれぞれに精通した人を
 経師・律師・論師
 といい
 三蔵のすべてに通暁した人を
 三蔵比丘
 三蔵聖師
 といった
ーーーーー
 ・・・
 結集(編集会議)によって
 初期仏教・部派仏教の時代から
 仏典はこの三蔵の形でまとめられ、継承
 上座部仏教の『パーリ仏典』で
 その原型を留めている
 ↓↑
 大乗仏教経典の作成と混淆
 段階的な仏典の伝播・翻訳を経て
 三蔵が原型を留めた形で
 伝わらなかった
 中国仏教(北伝仏教)
 チベット仏教圏では
 仏典は
 「大蔵経
 「一切経」・・・「一切合財・一切合切」=何もカモすべての意
 という形で再編
 仏典の総称として用いられている
 『漢訳大蔵経
 とは異なり
 『チベット大蔵経』は
 「律蔵」、「経蔵」を「カンギュル」
 「論蔵」を「テンギュル」と呼び
 三蔵を意識した形で編纂されている・・・
 ↓↑
 三蔵の語
 「三蔵に精通した人」という意味
 「玄奘三蔵
 中国の北周時代の僧官の一
 北朝の「沙門統」や南朝の「僧正」に相当
 「夏州三蔵」のように地方にも置かれていた
ーー↓↑ーー
 北上川
 ↓↑
 岩手県
 岩手郡
 岩手町
 弓弭(ゆはず)・・・弭=弓の両端・弓弭
           矢の端の、弓の弦につがえる
           切り込みのある部分・矢筈 (やはず)
           相撲で、親指と他の指を広げ
           矢筈の形にした手
           これで相手のワキを押しつけて攻める
 に源泉を発し
 盛岡市花巻市北上市奥州市、一関市
 へと北から南へと流れ
 宮城県登米市
 旧北上川を分け
 洪水防止のため開削された
 新北上川に入り
 東へ向きを変え
 石巻市の旧北上町地区で
 追波湾に注ぐ・・・
 ↓↑
 旧北上川
 南へ流れ
 石巻市石巻湾に注ぐ
 旧北上川河口から
 松島湾を経て
 阿武隈川河口まで・・・・・「阿の武の隈」
 仙台湾沿いに
 全長約60kmに及ぶ
 日本最長の運河
 貞山運河が延び
 岩手県北上川水系
 宮城県の仙台平野の全ての水系
 福島県阿武隈川水系がつながっている
 ↓↑
 日河(ひのかわ)
 続日本紀
 天平宝字四年(760)の条
 宮城県牡鹿郡より大河(北上川)をわたり
 峻嶺(しんれい)をこえて
 桃生柵を建置した
 これによって賊は
 肝胆(かんたん)を奪われ、伏した
 と記録
 岩手県内における河の初見
 桃生城建置後二十年を経た
 宝亀十一年(780)二月二日の条
 衣川以北に
 蛮居する
 胆沢の賊を討伐せんとせしが
 同年は例年より寒さきびしく
 河はすでに凍て
 船を通ずる事が出来なかった
 と記録
 延暦八年(789)六月三日の条
 征東将軍
 紀古佐美
 副将軍
 入間宿弥廣成
 右中将
 池田真枚
 前軍別将
 安倍援嶋・・・安倍、援嶋・・・嶋を援ける
 等と計り
 三軍協力し河(北上川)を渡り
 東岸に賊師
 「阿弖流為(アテルイ)」・・・阿の弖の為す流れ
 等を討つの時
 巣伏村 (水沢市四丑(しうす))において
 官軍は前後に敵を受け
 戦死者25人
 矢にあたり傷つくもの245人
 河に入り溺死するもの1,036人
 裸で游(およ)ぎ帰るもの1,257人
 に及ぶ大敗
 ↓↑ 
 此の時
 右中将
 池田真枚が
 日上乃湊(ひのかみのみなと)
 において
 溺(おぼ)るる者を扶け
 その功により敗戦の罪は免ぜられた
 「日上乃湊」=「日上川(ひのかみかわ)の湊(みなと)」
 「日高見川(ひたかみかわ)」の船付場で
 「石巻」等の海港ではない・・・
 ↓↑
 日河=日高見川
 延暦十六年(797)六月
 桓武天皇に上表
 「威振二日河之東一」は
 日高見川の東に
 桃生城を建置してより、
 毛狄(モウテキ・蝦夷)
   ・・・狄=テキ・えびす
      古代中国で、北方の異民族
夷蛮戎狄
      異民族や野蛮人
      夷狄 (イテキ)
      戎狄(ジュウテキ)
      北狄(ホクテキ)」
      匈奴(キョウド)など北方の異民族
 のそむくことがない・・・
 日高見川=日河=日上河
 日高見川(ひたかみかわ)=日高見の国の河
 日上河(ひのかみ河)=日高見川
 日高見川=夷語
 の
 「ヒタラ-カムイ=河床の神の義」・・・?
 日高見=大和言葉
 日立国=常陸国・・・なぜ「ひたち」なのか?
 ニチリツ・ジョウリク
 景行天阜二十七年
 武内宿禰
 東国を巡り
 日高見の国状を奏上
 二月十二日
 武内宿禰
 自二東国一還之奏言。
 東夷之中。
 有二日高見国一。
 其国人。
 男女並椎結文レ身。
 為レ人勇桿。
 是縈曰二
 蝦夷一。
 亦土地沃壊而曠之。
 撃可レ取也。
 ↓↑
 日本武尊(やまとたける)
 東夷を平定
 日高見国より帰る
 日高見の国は
 陸奥国より進んでさらに奥地
 蝦夷(えぞ)の住む
 宮城県仙北
 及
 岩手県内陸部の総称・・・
 ↓↑
 日本武尊
 日高見の地
 宮城県
 桃生附近・・・桃生=ももう=百生
 北上川の左岸
 桃生郡
 桃生村
 太田(桃生町)に
 日高見神社
 延喜式神名帳所載の古社
 祭神は
 天照大神日本武尊、武内宿弥
 の三柱
 本吉郡に日高見神社
 古代本吉地方は
 桃生の内であり
 日本武尊を祀り
 日高見神社と称す
 水沢市
 日高神社は
 弘仁元年
 火満瓊命(ほむすびのみこと)・・・瓊=赤玉
 を祀る処の妙現社で
 社地周辺の古名が
 日高
 地名、
 日高=日高見
 日高見川が
 北上川と訛(なま)った?・・・北→比・此と漢字を間違えた?
 神水(かみかわ)
 神川(かみかわ)
 加美川(かみかわ)
 ↓↑
 来-神川(きた-かみがわ)
 北-神川(きた-かみかわ)
 北-上川(きた-かみかわ)
 北-上川の名称
 北-上河=北-上川
 ↓↑ ・・・上川→掛視化話
 ↓↑   →川上→熊襲八十梟帥(やそたける
       川上梟帥(かわかみたける
           (日本書紀
       熊曾建 兄弟二人
           (古事記
       球磨囎唹
           (筑前国風土記
    ・・・「神武天皇
        菟田の
        高倉山・・・四国を省き全国的ある同名の山
        に登り
        国内を見渡したとき
        国見岳の上に
        八十梟帥がいた・・・
        八十梟帥は後に天皇に斬り殺された」・・・
        弟猾は
       「倭の国の磯城の邑に
        磯城
        八十梟帥あり
        又
        高尾張の邑に
        赤銅の
        八十梟帥あり」
        と奏上・・・
        弟磯城
       「吾が兄、兄磯城
        天つ神の子(神武天皇=磐余毘古・比古・彦)
        来ましつと
        聞きては
        八十梟帥を聚め
        兵甲を具へて
        あひ戦はむとす」
 ↓↑     と述べた・・・
 「吾妻鏡
 文治五年(1189)九月二十七日
 …至二于四五月一。
 残雪無レ消仍號二駒形嶺一。
 麓有二流河一而落二于南一。
 是北上河也。
 衣河自レ
 北流降而通二于此河一。
 坂上田村麻呂
 田谷窟(達谷窟)の前面に
 九間四面の精舎を建立し
 多聞天を安置し
 寄進状の中において
 「北上川を限り」と記すところ
 前九年役
 盛岡周辺の北上川
 大沢と呼ばれた・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・