2439日目・・・2017/12/31・・・「壬辰日」・・・
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2018年 丁酉(庚・ ・辛)
0001月 壬子(壬・ ・癸)
0001日 癸巳(戊・庚・丙)午未=空亡
0001時 壬子(壬・ ・癸)
まだ、二月の節分前まで「酉年」・・・
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大西蔵区・大蔵区?・・・ナゼ、「西の蔵」なんだか?
ーー↓↑ーー
西蔵(西藏)犬=いぬ=獒
↓↑
チベット
周辺諸国が古くから用いて来た呼称
「tubat(モンゴル語・満州語)」
「tbt(アラビア語)」
等に由来
チベット人自身は
「プー (bod)(チベット語)」
と称する
日本語の「チベット」は
英語「Tibet」経由で
明治期に成立した呼称
↓↑
チベット全域をさす
漢字表記による総称は
清代
土伯特(ドハクトク)
唐古特(とうことく・タングート)
等がある
7世紀なかば
チベットの古代王朝が
上記の領域を統合した建国時
中国人(隋)はこの国を
「蕃(バン)・吐蕃(トッバン)・大蕃(ダイバン)」
等と表記し呼んだ
842年
王朝は崩壊
清朝の
康煕年間(1720年代)ごろまで
この領域全体の地域呼称を
「吐蕃」という呼称で総称
↓↑
チベットを示す
「西蔵」は
中国大陸で
1725年ごろから
中央チベットと
その周辺だけの地域呼称として使用
現在も中華人民共和国政府は
アムド
や
カム
を含む
チベット全域の総称ではない
↓↑
清朝の雍正帝は
1723〜24年
グシ・ハン王朝(1642年〜1724年)を征服
彼らがチベット各地の
諸侯や直轄地に有していた支配権をすべて接収
タンラ山脈
と
ディチュ河
を結ぶ線より南側に位置する地域は
ガンデンポタンの統治下に所属
この線より北側の地域は
青海地方を設けて
西寧に駐在する
西寧弁事大臣に管轄させた
残る各地の諸侯は
隣接する
陝西(分離して甘粛)
四川
雲南
などの
「中国内地」の各省に分属させた
↓↑
「西蔵」という地域呼称は
康煕時代から
↓↑ ・・・康煕帝=聖祖
順治十一年三月十八日
(1654年5月4日)
〜
康熙六十一年十一月十三日
(1722年12月20日)
1654生年 甲午(丙・ ・丁)壬寅(己・丙・甲)
0005生月 戊辰(乙・癸・戊)壬子(壬・ ・癸)
0004生日 戊申(己・壬・庚)甲午(丙・ ・丁)
寅卯=空亡
姓・諱
愛新覚羅玄菀
(アイシンギョロ・ヒョワンエ)
清の第四代皇帝(在位1661〜1722年)
合天弘運文武
睿哲恭倹寛裕
孝敬誠信功徳
大成仁皇帝(略して仁皇帝)
三藩の乱を平定
台湾・ ジュンガル・チベットを制圧
ロシアとの国境策定
↓↑ 清朝の領土を拡大
康熙字典=清代の字書・十二集四十二巻
康熙帝の勅命 により
張玉書
陳廷敬
らが編纂・1716年刊
「説文解字・玉篇・字彙・正字通」など
歴代の「字書」を集大成した
四万七千余の漢字を
楷書部首、画数順に配列し
字音・字義・用例を示し
↓↑ 以後の「字書」の範となる
↓↑
西蔵(チベット)は
中国文献に登場
これ以降
チベットのうち
ガンデンポタンの管轄下にある範囲が
西蔵と称される
清朝滅亡後
チベットはモンゴルと歩調をあわせ
国際社会に
「独立国家としての承認」を求め
チベットの全域を
ガンデンポタンのもとに統合すべく
中華民国との間で武力衝突
中華民国は
中国人が多く住む
諸民族の雑居地帯
河西回廊の南部と
青海地方をあわせて
青海省を樹立
青海地方も
「内地」という位置づけ
中華民国の歴代政権は
「西蔵」の部分のみを
「Tibet(チベット)」
とし、その他の各地は
「内地=中国本土」に属するとした
↓↑
中華人民共和国も
「西蔵」の部分のみを
「Tibet(チベット)」とし
その他の各地は
「内地=中国の本土」に属する
を踏襲
1960年に発足した
「チベット自治区」は
「西藏」部分のみを
管轄領域
↓↑
日本では
明治期から昭和中期にかけ
中華民国や中国国外の華僑等の間では
近年、「Tibet」の訳語として
「西蔵」を用いている
↓↑
日本
明治期に
英語「Tibet」に由来する
「チベット」という呼称が一般的
漢字表記には
「西蔵」が採用
「西藏・西蔵」
中国では
チベット民族居住地域に対する通常の呼称として
「蔵区」
「蔵族地区」
「西蔵和其他蔵区」
等の呼称が使用
チベット全体を
単一の自治行政単位とするよう求める
ダライラマやチベット亡命政府の立場を
非難、批判する場合には
「大チベット区・大西蔵区・大蔵区」
という用語を使用・・・
大西蔵区・大蔵区?・・・ナゼ、「西の蔵」なんだか?
ーー↓↑ーー
西蔵(西藏)犬
↓↑
三蔵法師(さんぞうほうし)
三藏法師=仏教の経蔵・律蔵・論蔵
↓↑ の三蔵に精通した僧侶(法師)のこと
転じて「訳経僧」を指す
602年〜664年3月7日
唐代の中国の訳経僧
戒名は玄奘(ゲンジョウ)
俗名は陳褘(チンイ)
諡は大遍覚
尊称は法師、三蔵
三蔵法師ゆかりの寺は
長安の
大慈恩寺(ダイジオンジ)・・・代字音字?
鳩摩羅什と共に二大「訳聖」
「真諦」と「不空金剛」を含めて
↓↑ 四大訳経家とも呼ばれる・・・
↓↑ 所謂、翻(ホン)訳(ヤク)家
翻=ハン・ファン=飜
ひるがえる・ひるがえす・ひらひらする・ひるがえる
翩翻(ヘンポン)
他を意のままに動かす
翻弄(ホンロウ) 」
裏返しにする・急に変える・ひるがえす
翻意・翻然
対応するものと入れかえる
翻案・翻刻・翻訳
西蔵(西藏)犬=いぬ=獒
・・・犬の吠え声=汪汪(wang wang)wu-wu(ウーウー)
犬の遠吠え=嗥叫(ハオジャオ・ヘアオジアオ)
háo jià o・há o jià o
阿蘭陀(和蘭)語の「犬=ホント・ホントゥ=hond」?
↓↑
獒=敖(十一方攵)+犬(一人丶)
=蔵獒=チベット犬=西蔵犬
↓↑ ↓↑
犬・太・大+丶・・・「一の人が丶(主・灯・灯火)」
「始めの人が火の丁(の火)」
「女台(ム口)のヒトがヒのチョウ」
ム囗=私の國=邪の國=横嶋の國
↓↑ ↓↑
犬=一+人+丶
意味・字形
「丶」=絕止する所(説文解字・巻五)
読点(、)のような区切り文字で
字形は指事
「丶」字=「主」の初文
字は指事ではなく
「灯火の炎」の象形
「主」の字
「鐙中の火主なり
丶に從ふ(説文)」
「丶」=チュ・シュ
しるし、きれめにしるす點
異体字 黒+主・火+主
シュ・ス
主=おも・ぬし・あるじ・つかさどる
シュ・ス
亠+土・丶+王
異体字「炷」・「黒主」
「丶」のことを「黒主」点という
篆書体の字形?
「主」=屮+二=凵+l+二=U+l+二
↓↑
「主」=山(亠・丶一)+土=山+十+一
山土
亠=音の字の略字
丶=しるし・切れ目に記す點
篆書体の字形 辿=テン=点・天
「主」・・・「Ψ・ψ=psi=プサイ」+「土」?
「ψ+十一」?
「Ω=ω=omega=オメガ」→「ω+土」?
辿=山+辶=たどる・たどり・テン
天・「丶」・「:」・「‥」・「・」
典・・・辞典
佃・・・佃煮
点・・・点数・視点・支点・観点
店・・・店舗・支店・店卸
↓↑ ↓↑
駄=馬+太=ダ
荷役に使う馬・駄馬
値うちのないもの・つまらないもの
粗悪なもの
「駄菓子・駄洒落(ダじゃれ)」
助数詞の馬1頭に負わせる荷物の量、一駄、数量
一駄=三十六貫
駄目=駄=囲碁用語で
駄目はあっても意味がないところのこと
無駄=無徒
徒=あだ・実を結ばないさま
かいのないさま・むだ(無駄)
「あだ」が転じて「むだ」となり、「無駄」 になった
「あだごと=徒言=実のない言葉・うそ」
駄目=駄馬=馬または牛一頭に背負わせるだけの分量
馱の俗字
ダ=馬+大=馬+太
異体字は「馱」
雪駄=雪踏(せった)
竹皮草履の裏面に皮を貼って防水機能を与え
皮底の踵部分に尻鉄がついた履物(草履)の一種
傷みにくく丈夫
湿気を通しにくい
千利休が水を打った露地で履くためや
下駄では積雪時に歯の間に雪が詰まるため考案」
雪が詰まるのは駄目な草鞋(わらじ)・・・草履(ぞうり)
鞋=革+圭=くつ
カイ・ゲ・アイ
竹皮の草履(ぞうり)の裏に獣皮を貼った履物
↓↑
「雪駄」より古い語に「せきだ=席駄」の当て字
「むしろ(席⇔蓆)のはきもの(駄)」・・・
蓆(むしろ)の履物(駄)
「席駄(セキダ)」から
「せちだ→せっだ→せった」と変化し?
・・・「雪駄=セキダ」・・・雪(ゆき)の駄(駄馬)?
雪駄の一つの特徴である
「鋲打ち」は、踵の補強と擦り減り防止
歩くと裏金と地面がすれ
チャラチャラと音をたて、粋
江戸の侠客の間から始まった・・・
天保改革(1841〜43年)以前
裏金の鋲を赤銅で作り、
これに
金象篏(キンゾウガン)を施した雪駄もあった・・・
↓↑
利休と交流のあった茶人
「丿貫」の意匠によるもの・・・
主に茶人や風流人が用いるものとされ
現代においては、
男性が着物を着る場合はほぼ雪駄を履く
江戸町奉行所の
同心が必ず
「ばら緒の雪駄」を履いており
「雪駄ちゃらちゃら(後金の鳴る音)」
「チャラチャラするんじゃぁない」・・・
↓↑
「雪駄の踵に用いられている形状は
主に馬蹄型とテクタ型が殆んどで
江戸時代の雪駄は
ベタガネ型(またはチャラガネ型)
という金属製の
尻鉄が打ち込まれている物が一般的で
これをチャラチャラと鳴らしながら
履くのが粋とされた
ベタガネは非常に音が響きやすい材質で
金属製なこともあって
「音が煩い・滑りやすい・傷がつきやすい」
などの問題点が指摘され
長い年月を経て改良がなされ
馬蹄型とテクタ型に進化していった」・・・
↓↑
「丿貫(へちかん、べちかん)」
生没年不詳
戦国時代後期〜安土桃山時代
茶人
名の表記は
「丿恒・丿観・別貫」などとも
「丿(ヘツ、ヘチ)」は漢字
↓↑
京都上京の商家坂本屋の出身とも、美濃の出とも
一説に
医師
曲直瀬道三の姪婿
武野紹鴎の門で茶を修めた
山科の地に庵を構えて寓居し
数々の奇行
久須見疎安の『茶話指月集』(1640年)
によれば
天正十五年(1587年)
豊臣秀吉主催の
北野大茶湯の野点で
「丿貫」は
直径一間半(約2.7メートル)の
大きな朱塗りの大傘を茶席に立てて
秀吉も大いに驚き喜び
以後
「丿貫」は諸役免除の特権を賜った・・・
江戸時代中期に成立した
藪内竹心の『源流茶話』
「丿貫は、侘びすきにて、
しいて茶法にもかかはらず、
器軸をも持たず、一向自適を趣とす」
「異風なれ共、いさぎよき侘数奇なれば
時の茶人、交りをゆるし侍りしと也」
と書かれ
当時盛行していた高額な茶器などは用いず
独自の茶道を追求していた・・・
久須見疎安の『茶話指月集』には
「丿貫」が
手取釜一つで雑炊も煮
茶の湯も沸かした・・・清貧・・・
茶人・数寄者との交流もあり
千利休と親交
江戸後期の
柳沢淇園『雲萍雑誌』には
利休と茶道を争い
世間に媚びることの多い
友、利休
の茶風を嘆いた・・・
千利休を自庵へ招待した際
庵の前に落とし穴を設けて
利休を陥れ、沐浴させ
新しい着物を供したなどとの逸話・・・
晩年は薩摩へ下った
薩南学派の
南浦文之の詩文に
「丿貫」との交流を伺わせる詩句
同地で没した
『三国名勝図会』鹿児島郡西田村に
「丿恒石」なる塚が記されている・・・
表千家の良休宗左(随流斎)の記述
露地で履く
雪駄(セッタ)は
元は
「丿貫」の意匠から出た・・・
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セッタ=アイヌ語で「イヌ」・・・?・・・ア・イ・ヌ・・・
「オヒョウ(於瓢)は
ニレ科ニレ属の落葉高木
日本列島から東北アジアの山地に分布・北海道に多い・・・
別名
アツシノキ(厚司の木)
ヤジナ(矢科)
ネバリジナ(粘科)
アイヌ語では
オヒョウの樹皮と繊維を
アッ(at)
オヒョウの木を
アッニ(atni)
と呼ぶ
樺太方言ではそれぞれ
アハ(ax)、
アハニ(axni)という
白浦地方では樹皮を
オピウ(apiw)とも呼び
「オヒョウ」の名称はこれに由来
↓↑
「アハ」って?・・・「あわ・泡・沫・粟・粱」・・・阿波は渦(宇津・宇受・宇須)の鳴門海峡だろう・・・
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アツシ、アトゥシ、アットゥシ織、アッシ織、厚司織・・・文様は海の波だろう・・・アトゥイはアイヌ語で海を意味・・・「アトゥイ」・・・ルルはアイヌ語で海や海水を意味・・・レプはアイヌ語で沖を意味・・・・コイはアイヌ語で波・・・アイヌ語のオンナ(onna)は「内部」・・・
地別訳(チベット)・・・?