2374日目・・・「理不尽」・・・「李夫人(リフジン)=中国の皇帝の夫人(側室)、孝武李夫人(前漢の武帝の夫人、李延年と李広利の妹)」、「北魏献文帝の献文帝の夫人・孝文帝の生母」、「李夫人 (北斉武成帝) 北斉の武成帝の夫人、元は東魏の孝静帝の嬪」・・・なんか「リフジン」・・・植物の名・・・

 李夫人=リフジン(rifujin)
    =ツルナ科の園芸植物
     学名 Lithops salicola」
     なんか、マーガレットに似ている・・・
 ・・・「恐竜(キョウリュウ)=恐龍」・・・「今日留」・・・「乎訳諏=オトス=落す=おとす=音素」・・・「オトシどころ=もめ事や話し合いの妥協点・双方が納得する決着点・双方が要望を少しずつ譲歩し、妥協し合って決めた、両者とも納得できる条件」・・・「カンシンごと」・・・?・・・「ニンゲンのコトバ」・・・
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 「政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来る (リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です?) Y軸 Libertarian(自由・市場主義=小さな政府)-Statist(統制主義=大きな政府) X軸 Liberal(革新) − Conservative(保守)」・・・?
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 「リベラル(英:liberal)とは、英語で「自由な」、「気前のよい」という意味を持つ言葉」・・・?
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 「自由主義(英:liberalism・リベラリズム)とは、国家や集団や権威などによる統制に対し、個人などが自由に判断し決定する事が可能であり自己決定権を持つとする思想・体制・傾向などを指す用語」・・・?
 ↓↑
 「尚、日本では、昔の自由至上主義(自由放任を基本とする)と異なる個人の自由意思や行動に基づいた福祉・環境・人権などの公共活動を基本とする、社会自由主義のことを特にリベラリズムと呼ぶ」・・・?
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 「日本国憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」・・・?
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 「韓信(カンシン)」
 漢の名将
 若い頃、
 町の
 ゴロツキ・・・「ごろつき(破落戸)=ならず者・住所や定職を
         もたず人の弱みにつけいる、ならずもの
         荒くれ者・無頼漢・企業対象暴力を行う者
        「rogue state=ならずもの国家」
        「愚連隊」ってのあったが・・・
 に喧嘩を売られ
 争うことを避け
 ゴロツキの命令のまま
 股の下をくぐらされた
 ↓↑
 目の前の
 小さな侮りを忍ぶべき
 「感心=カンシン=韓信
 「カンシンの股くぐり(史記)」
 「堪忍辛抱は立身の力綱
  堪忍の足らぬは心の足らぬ人
  堪忍の忍の字が百貫する
  堪忍は一生の宝
  堪忍は万宝にかえ難し
  堪忍は無事長久の基
  ならぬ堪忍するが堪忍
  なる堪忍は誰もする
  忍の一字は衆妙の門
  忍は一字千金の法則
 ・・・屈辱を我慢(我満・臥瞞)、忍耐(認他意)するコトが
 「衆妙の門」・・・プチブル意識で忍の一字?
 「無事長久の基」・・・プチブル意識で長生きの基?
 個々人、状況次第ではそうはイカイカモ・・・
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 「韓信
 中国秦末〜前漢初期の武将
 劉邦の元で数々の戦いに勝利
 劉邦の覇権を決定付け
 張良
 蕭何・・・蕭何(ショウカ)
      秦末〜前漢初期にかけての政治家
      劉邦の天下統一を輔けた
      韓信劉邦に推薦した
 などと漢の三傑の一人
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 同時代に
 戦国時代の
 韓の王族出身の
 同じく
 「韓信
 という名の人物がおり
 劉邦によって
 「韓王」に封じられ
 「韓王信」
 と呼んで区別される・・・?、「韓信」が二人?
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 マタクグリの「韓信
 ↓↑
 淮陰(江蘇省淮安市)の出身
 秦の始皇帝の没後
 陳勝呉広の乱
 紀元前209年
 韓信
 項梁、
 甥の
 項羽に仕えて
 郎中の
 劉邦
 配下
 紀元前206年
 秦の滅亡後
 韓信
 項羽の下から離れ
 漢中に左遷
 漢王
 劉邦の元へと移り
 連敖(接待係)となる
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 垓下の戦い
 垓下を脱出した
 項羽
 烏江(安徽省・・・・暗記=アンキ=安企・安危
     和県の・・・和を懸る
     烏江鎮)・・・ウコウチン
 で自決
 楚漢戦争終結
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 紀元前202年
 項羽の死が確認され
 劉邦
 「本来
  楚王となるべき
  義帝には
  御子が居ないので
  韓信
  楚出身であり、
  楚の風土・風習にも馴染んでいる」
 として
 韓信
 斉王から
 楚王へと移し
 故郷の
 淮陰に凱旋させた
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 酈炎
 酈食其の子孫と称した
 范陽(河北省保定市定興県)の人・・・范陽は地名
                   范蠡は人名
 字は文勝
 霊帝の時代に存在
 弁舌爽やかで
 文辞と詩に巧みで
 親孝行で音律に長じていた
 彼を州郡の官吏として招聘したが
 酈炎はこれに応ぜず
 後、酈炎は病に倒れてさらに母が死去
 酈炎の妻が子を産んで産熱で亡くし
 妻の実家は女婿の
 酈炎を訴訟
 175年に州郡は酈炎を逮捕投獄
 酈炎は獄死
 酈炎の師、
 盧植は彼の死を惜しみ
 彼を称える
 徳行の詩を謳った
 ↓↑
 紀元前201年
 韓信
 「狡兎死して良狗烹られ、
  高鳥尽きて良弓蔵され、
  敵国敗れて謀臣亡ぶ。
  天下が定まったので、
  私もまた煮られるのか?」
 と
 范蠡(ハンレイ)・・・范=艹+氾(氵+㔾)
              㔾=字彙に「卽ち卩」
            蠡=ひさご・レイ・ラ・リ
              にな・ほらがい
              巻貝の一種
              蠡測(レイソク)
              木の芯を食い荒らす虫
             =「彖+虫+虫」
              彑+豕
    ハンレイ・・・・凡例・判例・反例・範例
 范蠡(ハンレイ)・・・春秋時代の越の政治家
            氏は范・諱は蠡・字は少伯
            越王の勾践に仕えた
            越が呉王夫差に敗北した後
            再建、夫差23 (前473) 年
            呉を破って
           「会稽の恥」をそそいだ
 の言葉を引いた
 劉邦は謀反の疑いについては保留し
 韓信を兵権を持たない
 淮陰侯へと降格させた
 ↓↑
 陳豨・・・「豨=豕+希=猪野子(イノシシの子)」
            「豨=楚人呼豬也」
         狶・㹷・猪突豨勇
         豨薟(キレン)=めなもみ
            キク科の一年草
            秋、黄色い花が多数咲く
            花を包む総苞に
            腺毛があり、粘液を出す
            漢方で全草を腫瘍などの薬用
            もちなもみ
 が
 鉅鹿太守に任命され
 韓信を尊敬していた
 陳豨は
 長安韓信の屋敷に挨拶にきた時
 韓信
 陳豨に
 冷遇され
 劉邦への忠誠はなく
 私(韓信)が天下を取るまで
 と言い
 一計を授けた
 劉邦の信頼が篤い
 陳豨が謀叛すれば
 劉邦は必ず激怒して自ら討伐に赴き
 長安は空になる
 しかし鉅鹿は精兵のいる要衝であるから
 容易には落ちないだろう
 その隙に
 自分(韓信)が長安を掌握する
 反乱の頻発に現れているように
 天下には不満が渦巻いているので
 諸国も味方に就く
 と・・・
 ↓↑
 紀元前196年
 陳豨
 は
 鉅鹿で反乱
 劉邦
 鎮圧のために親征し
 都を留守にし
 韓信は、
 長安で反乱を起こし
 囚人を解放してこれを配下とし
 呂后と皇太子の
 劉盈(恵帝)
 を監禁して政権を奪おうとしたが
 韓信に恨みを持つ
 下僕がこれを
 呂后に密告
 呂后に相談された相国の
 蕭何は
 韓信
 劉邦からの使者に仕立て
 「陳豨が討伐された」
 と報告をさせ、
 長安中に布告を出した
 韓信は計画が頓挫したとし
 自邸に引篭もるが
 蕭何は
 「病身であることは知っているが、
  自身にかけられた疑いを晴らすためにも、
  親征成功の祝辞を述べに参内した方が良い」
 と招き
 韓信はおびき出され、捕らえられた
 自分を大いに買って引きとめ
 大将軍に推挙してくれた
 蕭何だけは信用していたため
 誘いに乗ってしまった
 韓信劉邦の帰還を待たずに
 長安城中の未央宮内で斬られ
 死ぬ間際に
 「蒯通の勧めに従わなかったことが心残りだ」?
 ↓↑
 蒯越(カイエツ?〜214年)
 後漢時代末期の武将
 字は異度(イド)
 荊州郡中廬侯国の人
 楚漢戦争期の説客である
 ↓↑
 蒯通の子孫・・・後漢末に
         劉表曹操に仕えた武将
         蒯越・蒯良は蒯通の子孫
 ↓↑
 韓信が斉王になった時
 蒯通(カイツウ)=蒯徹(カイテツ)
 ↓↑ 韓信に「今なら、漢王へ
    『斉を慰撫のため治めたい』
    と言えば王になれる」と説き
    劉邦に斉王即位を認めさせ
    さらに韓信を大国斉を地盤として独立させ
    劉邦(漢)、項羽(楚)に対抗出来る
    第三勢力の首領にし
    天下を狙わせようと図るも
    韓信は悩んだ末、
    これに乗らなかった
    で、韓信劉邦への謀反を勧めたと
    誅殺されかねないとして
 ↓↑ 発狂を装って韓信から離れた・・・
 が
 「天下三分の計(蒯通=蒯徹)」を唱えた
 「劉邦(漢):項羽(楚):韓信(斉)」
 独立を拒否する韓信に直言
 「計誠知之、而決弗敢行者、百事之禍也。」
 (よく謀りよく承知していながら
   決断できないのは、全ての禍根)
 「夫功者難成而易敗、時者難値而易失
  『時乎時、不再來。』」
 (それ功業は成し難く失敗しやすい
   機会は得難く失いやすい)
 ↓↑
 「天下三分の計(諸葛亮孔明)」
 「曹操(魏):孫権(呉):劉備(蜀)」
 ↓↑
 と言い残し
 韓信の三族も処刑された
 ↓↑
 韓信の死後、
 陳豨の討伐を終えて帰ってきた
 劉邦は、
 最初は韓信が死んだことに悲しんだが
 韓信の最期の言葉を聞いて激怒し
 蒯通を捕らえて殺そうとしたが
 蒯通が堂々と抗弁し
 命は助けられた
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 ・・・???・・・希望、トウ?・・・