2367日目・・・TVの映像画面そのものが「葛飾 応為(かつしか おうい」の光と影だった・・・「江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎の 三女・名は栄(えい・お栄・阿栄・應栄・栄女とも記された」・・・「北斎はアゴと娘を呼んでいた」・・・?「顎=あご=阿児・頷(含頁)・顋(思頁)・頤(臣頁)」・・・

 「頤=おとがい・下あご・あご・減らず口・減らず口をたたくこと」・・・
 「頤が落ちる=寒くて震え上がるさま・食べ物が非常にうまいことのたとえ・あごが落ちる・口数が多いこと・多弁である」・・・
 「あごで人を使うこと・頤使に甘んずる・人を頤使する」・・・
 「頤=おとがい・あご・下あご」・・・
 「頤を解く=おとがいをとく=あごがはずれるほど大笑いする・解頤(カイイ)」・・・
 「期頤(キイ)=百歳の人・期=百年、頤=養う意」・・・
 「朶頤(ダイ)=あごを垂らして、食べようとすること
         欲しがること
         強国が弱国を併呑しようとすること
         𦣞=匚+口+¦=叵+¦=イ=乳房の象形
         頁=ケツ=祭事の帽子、呪飾・人の首から上
          =ページ(page)・大貝
           授乳の儀礼・やしなう意
           乳を飲むとき、乳飲み子は
           顎を動かすので、顎の意
           姫の「臣」は、見張る・大きな瞳
           姫=女性に対する美称
           姬=歌舞をなりわいとした女性
             妾或寵婢(情婦)的別稱
           「姬=女+𦣞」の「𦣞」と「臣」は
                別の意味の字
           「姫=ひめ・シン=女臣・見詰める
                    湖畔・滸・邊・阿」
           「姬=ひめ・キ=女+𦣝(𦣞)=乳房」の
           旧字体は「姫→姬」だが
           「女の形象に
            乳房(𦣞)を有する成人女性」で
           「女の形象に
            臣(シン・見張る)」の意味はない
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 葛飾北斎・・・葛飾派の祖・・・「葛(かづら)」→蔓
 誕生
 1760年 庚辰(乙・癸・戊)
 0010月 丙戌(辛・丁・戊)
 0031生 甲子(壬・ ・癸)戌亥=空亡
 没年
 1849年 己酉(庚・ ・辛)
 0005月 己巳(戊・庚・丙)
 0010日 丙辰(乙・癸・戊)
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 別人がいるらしい・・・
 「葛飾北斎 (別人)」「牛馬図の作者」
 と
 「二代目 葛飾北斎(を名乗る後継者)」は「二人」もいたらしい・・・「鈴木」と「橋本」の姓で二人いた・・・
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 本ものは
 「シーボルト事件」では摘発されそうになったが
 「川原慶賀」が身代わりとなり、難を逃れた・・・?
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 「シーボルトと川原 慶賀」
 川原 慶賀(かわはら けいが)
 天明六年(1786年)
  〜
 万延元年(1860年
 長崎の画家
 出島出入絵師として
 風俗画、肖像画、生物の写生図を描いた
 諱(字)は
 種美
 通称は
 登与助(とよすけ)・・・登の与の助
             訳を與え助(援)ける
 号は慶賀
 別号
 聴月楼主人
 後に
 田口姓を名乗る
 息子は
 川原盧谷で洋風画を描いた
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 長崎の
 今下町(いましたまち・長崎市築町)に生まれ
 父は
 川原香山(町絵師)
 文化八年(1811年)頃
 石崎融思に師事
 出島オランダ商館への出入りを許され
 文化十四年(1817年)
 来日した
 ブロムホフの
 家族肖像画などを描き
 長崎の風俗画や風景画
 出島での商館員達の生活等を描いた
 異国の風俗と
 日本の浮世絵を
 融合させた独自の画面を創った
 文政六年(1823年)
 シーボルトが商館付医師として来日
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 慶賀は
 日本の動植物等を蒐集し始めた
 シーボルトの注文に応じ
 『日本』という本の挿絵のため
 精細な動植物の写生図を描いた
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 文政八年(1825年)
 ジャワ島バタヴィアから
 オランダ人の画家
 デ・フィレーネフェ
 を招聘、
 彼から洋風画の画法を習得
 文政九年(1826年)
 オランダ商館長の江戸参府に
 シーボルトに同行し
 道中の風景画、風俗画、人物画等も描いた
 絵図のほとんどはオランダへ発送された
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 文政十一年(1828年
 シーボルト事件
 多数の絵図を提供した
 慶賀も
 長崎奉行所で取り調べられ、叱責
 シーボルト追放後
 シーボルトを慕う人々によって
 嗅ぎ煙草入れが
 シーボルトの元へ送られ
 この嗅ぎ煙草入れの蓋には
 慶賀が下絵を描いた
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 楠本滝
 楠本イネ
 の肖像画が表裏に
 螺鈿細工で表されている
 (シーボルト妻子像 螺鈿合子)
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 その後もシーボルトの後任となった
 ハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け
 同様の動植物画、写生図を描いた
 天保七年(1836年)
 『慶賀写真草』(植物図譜)を著
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 天保十三年(1842年)
 オランダ商館員の依頼で描いた
 長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた
 鍋島氏(佐賀藩)・・・花杏葉=杏葉(ギョウヨウ・ギョヨウ)
            茗荷紋と似ているが
            杏葉は馬具などの装飾品
            西アジア地方から
            中国に流入した文様の一種
 細川氏熊本藩)・・・引両紋=(ヒキリョウモン)
            丸の内に二つ引
 の家紋を描き入れ
 これが国家機密漏洩と見做され
 再び捕えられ
 江戸及び長崎所払いの処分を受けた
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 弘化三年(1846年)
 長崎に戻った・・・
 長崎を追放されていた慶賀は
 長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである
 脇岬(長崎市脇岬町)に向かった
 脇岬観音寺に残る
 天井絵150枚のうち
 5枚に慶賀の落款があり
 50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる
 この頃から
 別姓「田口」を使用
 嘉永六年(1853年)
 プチャーチン
 の肖像画が残っている
 出島の日常風景を描いた
 唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)
 は開国後に描かれていること、
 慶賀の落款がある
 万延元年(1860年)作と
 推定される絵が残っていることなどから
 75歳までは生きた・・・一説には80歳まで生きた
 慶賀は
 伝統的な
 日本画法に
 西洋画法を取り入れていた
 精細な動植物図については
 シーボルトの指導もあった
 日本に現存する作品は約100点
 オランダに送られ
 ヨーロッパ各地に分散した
 慶賀作の
 絵図は6000-7000点・・・
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 慶賀が描いた動植物図のほとんどはオランダに送られ
 シーボルトらの著作である
 『日本動物誌』等の図として利用
 標本がなく、慶賀の写生図をもとに記載された
 ウミヒゴイ
  Parupeneus chrysopleuron(Temminck et Schlegel, 1844)
 などもある
 これらは
 ライデン国立自然史博物館に所蔵
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 クララ




 「葛飾応為
 「眩=くらむ・くらます・まぶしい・まばゆい
    ゲン・グヱン
    目がくらむ・目をくらます
    眩暈 (ゲンウン) ・眩人・眩惑
    眩暈 (めまい) ・目眩 (めまい)
    瞑眩 (めんげん・めんけん) 」
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 ・・・クラクラ、目眩の毎日・・・あごで人を使う・頤使に甘んずる・人を頤使する・・・