2344日目・・・「ナン操作訳見発見傳」・・・なんで、「曲亭の馬の琴」なのか?・・・サーカス(circus)=サーカス=曲馬団・曲芸団・曲技団・traveling circus=run a circus=観覧席が雛(ひな)壇式の円形興業場・・・circus (show)・サーカスの小屋をかける=pitch (put up) a circus・the main tent at a circus・・・「曲(まげられた・旋律)の亭(天幕)」・・・「サーカス(circus)=円形広場・競技場・動物と人間の曲芸を

 「馬の鬣(立て髪)の毛の弦の琴」?・・・
 「箏(こと・ソウ)の絃は絹糸の13本。柱(じ)の位置によって弦音の高低を決めて爪弾き演奏する」・・・
 「琴柱(ことじ)=琴の弦を支え、移動させて音調の高低を生じさせるもの)・駒 (ブリッジ・bridge) 」 ・・・
 ナゼ、「コトの柱(はしら・チュウ)」を「柱=ジ」と訓ませているのか?・・・
 「駒(こま)の英語は馬(うま・hose)、将棋の駒は chess man,piece」、
 「楽器の bridge、将棋の駒(piece)を動かす」・・・
 柱は建築の「pillar、column (円柱)」、テント、電柱の「pole、支柱の support、prop、post」、帆柱の「mast」・・・
 「across the bridge」、「the bridge across the river、libber?」・・・
 「libber=特に女性のための解放運動を支持する人」・・・
 「将棋(chess)で桂馬の英語は knight(ナイト・騎士)」である・・・
 幕末、明治維新ならば「桂馬」は「桂小五郎」と「坂本竜馬」だが・・・
ーーーーー
 「琴」と「箏」は異なる楽器
 「柱(じ)=bridge」が、あるか、ないか
 ↓↑
 「琴(キン)」は柱(bridge)がなく
 絃を押さえる指のポジションを変えることで
 音の高さを変える楽器
 一絃琴・二絃琴・七絃琴・大正琴
 ↓↑
 「箏(ソウ=ツィター=zither)」は
 「柱(じ)」を動かすことで
 音の高さを変える楽器
 ↓↑
 「こと」は、「絃楽器の総称」
 「箏(ソウ)・琴(キン)・琵琶(ビワ)」
 などの「総称のコト」
 ↓↑ 
 「箏(ソウ)のコト」が
 漢字の
 「琴=キン」で「こと」になった・・・
 「琴(キン)」
 の漢字が「こと」として
 使われるようになったのは
 常用漢字
 「箏」という「字(ジ)」が
 含まれていなかったから・・・
 「1923年(大正十二年)
  文部省臨時国語調査会が発表の
  常用漢字表、漢字1962字とその略字154字
  一部資料に1960字とあるのは
  略字によって2組が同字となるため
  同年9月1日実施予定であったが、
  同日発生した
  関東大震災により頓挫」・・・
 ↓↑
 「和琴(わごん・やまとごと)」は
 六本の弦を持つ楽器で
 弥生時代の遺跡からも発掘
 琴を弾いている奏者の埴輪も発掘
 ・・・「琴の音」は「死者の魂魄」だった・・・
 天皇
 ↓↑
 琴(キン・こと)には
 柱(じ・チュウ・はしら)が
 無(な)く
 弦を押さえる(勘所=かんどころ)を変えて
 音の高低を響かせ、奏(かな)でる
 ↓↑
 箏(ソウ・こと)
 十三弦
 奈良時代
 唐から
 伝来した
 十三本の弦を持つ楽器
 箏の胴の上に立てられた
 「柱(じ・はしら・チュウ)」という
 可動式のモノを動かし
 音の高低を決め、奏でる
 ↓↑
 柱(じ)が
 あるのが「箏・筝=竹の争い」
 ないのが「琴=王が二人ナラブ今」
ーー↓↑ーー
 「古事記神功皇后」が奏でたのは
 「琴(王+王+今)」だったのか、
 「箏(竹+争)=爭=爫(爪)+∃+亅」だったのかは、
 「和琴=わごと=和事=倭語訳」であったのは明白だが・・・
 コンピュータでの検索の
 「古事記」にも、
 「日本書紀」にも
 「箏」の漢字を発見できなかった・・・が・・・?
 「竹=筑紫」の「争い」は、
 「和=倭=やまと」の
 「琴=王+王+今=王が二人並ぶ今」ではあるが・・・
ーー↓↑ーー
 其大后
 息長帶日賣命者、
 當時、歸藭。
 故、
 天皇坐筑紫之
 訶志比宮、
 將
 擊
 熊曾國之時、
 天皇
 控
 御琴・・・・・琴・・・箏かも?
        ライアー(Leier=竪琴)
        ハープ・リラなど
        縦に張った弦を弾奏する楽器
 而、
 建內宿禰大臣
 居於
 沙庭、
 請
 藭之命。
 於是、
 大后
 歸藭、
 言教覺詔者
 「西方有國。
  金銀爲本、
  目之炎耀、
  種種珍寶、
  多在其國。
  吾
  今
  歸
  賜其國。」
 爾
 天皇答白
 「登高地、見西方者、
  不見國土、
  唯有大海。」
 謂
 爲
 詐藭而、
 押退
 御琴・・・琴
 不控、
 默坐。
 爾
 其藭
 大忿
 詔
 「凡茲天下者、・・・「茲(しげる・シ・ジ)=艹+𢆶」
  汝
  非應知國。・・・「応=應=䧹+心」→「鷹+心」
               オウジン・タカの心
       「應(まさ)に〜すべし=广+イ+隹+心」
       「鷹(たか)=广+イ+隹+鳥」
       「鷹(たか)≠雁(かり・ガン)=厂+イ+隹」
       「雁=かり・ガン・カモ科の鳥の総称」
       「膺(むないた)=䧹+肉」
  汝者
  向一道。」・・・一の道に向かえ
 於是、
 建內宿禰大臣
 白
 「恐我天皇
  猶
  阿蘇婆勢(あそばせ)・・・阿蘇の婆の勢=卑弥呼
  其
  大御琴。・・・琴・・・・・おほミゴト・おほおんごと
  (自阿至勢以音。)」   ダイゴキン(代後金)?
 爾
 稍
 取依
 其
 御琴而、・・・・琴・・・ミゴトのジ・音ごとの字
 那摩那摩邇・・・・・・・ナマナマに
 (此五字以音)
 控坐。
 故、
 未幾久・・・未(いまだ)幾(いく)久(ひさしく)からず
 而
 不聞
 御琴之音、・・・琴
 卽
 擧火見者、
 既
 崩訖。・・・訖=おわる・やむ・いたる・ついに・キツ
 爾驚懼而、
 坐殯宮、
 更
 取國
 之大奴佐・・・奴佐(ドサ・トサ)
 而
 奴佐(トサ・ドサ)・・・土佐・土佐?
 (二字以音)、
 種種
 求
 生剥・逆剥・阿離・溝埋
 屎戸・上通下通婚
 馬婚・牛婚・鷄婚之罪類、
 爲
 國之大祓而、
 亦
 建內宿禰
 居於沙庭(さにわ)、
 請藭之命。
ーー↓↑ーー
 日本書紀
 三月壬申朔、・・・三月(さんがつ)=彌生(やよい)
          壬申(ジンシン)の朔(ついたち)
          ミズノエのサル・みずのえをもうす
 皇后選吉日、
 入齋宮、
 親爲藭主。
 則命
 武內宿禰
 令
 撫琴、・・・撫(なぜる・ブ)琴(こと・キン)
 喚
 中臣
 烏賊津(いかつ・ウカイシン)
 使主
 爲
 審藭者。
 因以
 千虵高虵・・・センカイコウカイ・千科移行掛意?
 置
 琴頭尾、・・・琴頭尾=キントウビ=均等備
 而請曰
 「先日
  教
  天皇
  誰藭也、
  願欲知其名。」
 逮于
 七日七夜、
 乃答曰
 「藭風
  伊勢國
  之
  百傳度逢縣
  之
  拆鈴五十鈴
  宮所居藭、
  名
  撞賢木嚴之御魂
  天疎向津媛命焉。」
 亦問之
 「除是藭復有藭乎。」
 答曰
 「幡荻穗出吾也、
  於
  尾田吾田節
  之
  淡郡所居藭之有也。」
 問
 「亦有耶。」
 答曰
 「於
  天事代
  於
  虛事
  代玉
  籤入彥嚴
  之
  事代主藭有之也。」
 問
 「亦有耶。」
 答曰
 「有無之不知焉。」
ーー↓↑ーー
  ???
 「曲亭馬琴」・・・「くるわ(廓)でまこと(誠)」?
 ↓↑
 「瀧澤馬琴」・・・「馬(うま・め・バ)の琴(こと)」?
ーー↓↑ーー
 司馬 相如(シバショウジョ)・・・藺 相如(リンショウジョ)
 ↓↑          趙(恵文王)vs秦(昭襄王)
            「完璧帰趙」、「和氏の璧(辟+玉)」
            「刎頸の交わり」、「刎頸の友」
              廉頗vs藺 相如
              琴柱に膠して弾くようなもの
      「琴柱に膠す=琴柱を固定すると
             必ずしも弾く度に
             調律しなくてもよくなる代わりに
             転調できなくなることから
             融通が利かないことの喩え
      「相如=十+八+目+女+口」=小序・少女
       ↓↑          宗女・総序
 ↓↑    相如=相対の如く?
 紀元前179年〜紀元前117年・・・壱壱七・壱百壱拾七
 前漢の頃の文章家
 蜀郡成都の人
 字は「長卿(チョウケイ)」
 名は「犬子(ケンシ)」
 賦の名人
 武帝に仕えた
 妻は「卓文君」
 前漢の官僚体制
 「入貲」
 飢饉などの際に
 ある一定の穀物
 それに相当する金銭を納めることで
 「郎」となることができた
 司馬相如はこの方法で
 「郎」となり
 「景帝」に仕えた
 後
 武騎常侍
 になる
 ↓↑ 
 景帝の同母弟の
 梁の
 孝王
 は
 景帝を訪ねてきた際に
 鄒陽・枚乗・荘忌(『漢書』では劉荘の諱を避けて厳忌)
 などの文人・学者を連れて来てい
 司馬相如は彼等と出会い
 孝王の客になろうと思いたち
 病として官を辞し
 景帝のもとを去り
 梁へと向い
 司馬相如
 は梁で
 孝王の歓迎を受け
 孝王の援助を受けて
 文人などと共に住むことが許された
 梁にいた期間に
 司馬相如の代表作である
 「子虚の賦」が書かれた
 ↓↑
 景帝・・・「景・蛍雪」、「景行・天皇
 ↓↑   「景気」、「景星鳳凰
      「八景・風景・遠景・佳景・奇景」
      「景品=おまけ・オマケ」
      「(高橋)景保・景安(台湾)」
      「景康=長尾 景康(越後守護代長尾為景の子
          長尾晴景の弟
          長尾景房・長尾景虎上杉謙信)の兄」
      「景康=津田 景康(仙台藩重臣・津田氏第3代当主
          通称、津田玄蕃・伊達騒動の主要人物」
 ↓↑      「瀬上 景康」・・・「景」etc・・・
 前漢
 第六代皇帝
 孝景皇帝
 在位は
 前157年7月14日〜前141年3月9日
 姓・諱は劉啓
 諡号は孝景皇帝
 生年は前188年
 没年は前141年3月9日(旧暦1月28日)
 父は
 文帝
 ↓↑
 景初(ケイショ)・・・景初元年=237年?
 三国時代
 魏の
 明帝
 曹叡
 の治世の
 3番目の元号
 237年〜239年
 元年3月
 改元改暦して
 景初暦が施行
 3年1月
 明帝崩御
 斉王
 曹芳
 即位
 正史に本来は無い
 「景初四年」銘の・・・景初の四年の「?」
 三角縁神獣鏡が存在
 ↓↑
 その治世期間は、
 父、
 文帝と重ねて
 「文景の治」
 と賞賛
 後漢創始者
 光武帝
 劉秀
 と
 蜀漢創始者
 昭烈帝
 劉備
 は景帝の末裔・・・
ーー↓↑ーー
 卓文君
 紀元前144年
 孝王死亡
 司馬相如
 は故郷の成都に帰った
 司馬相如の友人
 臨邛県(四川省邛崍市)の県令
 王吉
 は、
 臨邛県に来るよう誘い
 司馬相如は赴いた
 王吉は
 大富豪である
 卓王孫・・・卓=ト+日+十
       卓(タク)の王(オウ)の孫(まご)
 の宴会に
 司馬相如
 を連れて行き
 王吉は
 司馬相如
 に
 琴・・・・・・・・・・琴(こと・キン)=王+王+今
 を披露するように頼んだ
 司馬相如
 は見事に琴を弾き
 宴会の人たちを魅了
 ↓↑ 
 卓王孫
 には夫に先立たれ
 実家に戻っていた
 卓文君・・・・・・・・卓の文の君(きみ・クン)
 という娘がいた
 卓文君は
 司馬相如の奏でる
 琴の音に魅了され
 司馬相如
 に惚れてしまった
 そこへ
 司馬相如
 からの
 恋文が届いた
 卓文君は
 家を抜け出し
 司馬相如
 と駆け落ち
 卓王孫は激怒し
 娘には一切財産を分けないと言った
 卓文君は
 自分の所有物を売り払い
 臨邛の街に
 酒場を開き
 卓文君は自ら女給として働き
 司馬相如は上半身裸で
 召使いのように働いた
 卓王孫は娘を恥じ
 卓文君に召使いを
 100人、100万銭
 前回の結婚の際の嫁入り道具を与え
 司馬相如との結婚を認めた
 2人は成都に移り住み
 土地を買い入れ
 地主となった・・・メデタシ、めでたし・・・?
 ↓↑
 景帝が死に
 武帝が皇帝の位につき
 武帝
 は文学を大変好み
 「子虚の賦」
 を読んで、大いに感動し
 「この賦の作者と
  同じ時代に生きられなかったのは残念だ」
 と
 武帝
 「子虚の賦」・・・・「子の虚の賦」
 が
 昔の人によって書かれたモノと誤解していた
 司馬相如と同郷である側近の
 楊得意
 という者が
 「子虚の賦」・・・「烏有」=烏(いづくんぞ)
               有らむや
          (どうして有ろうか、
           有ろうはずがない)の意
 の作者が今生きている
 司馬相如である
 と
 武帝に教えた
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 武帝
 司馬相如を召し
 そのとき
 司馬相如は
 「子虚の賦」が
 諸侯のことを書いた内容であり
 天子(皇帝)にたてまつるのには
 ふさわしくないと言った
 そして、
 司馬相如は天子にふさわしくなるように
 「子虚の賦」を改作して
 「天子游獵賦
 (『文選』では「子虚賦」と「上林賦」に分割
  「子虚・上林賦」と称されることが多い)」
 として
 武帝にたてまつった
 武帝は喜び
 司馬相如
 を
 觔に復職させた・・・
 ↓↑
 景初暦(ケイショレキ)
 魏の明帝
 景初元年(237年)から
 晋を経て
 劉宋の文帝
 元嘉二十一年(444年)まで
 また北朝
 北魏では
 道武帝
 天興元年(398年)から
 太武帝
 正平元年(451年)まで
 使用された
 太陰太陽暦暦法
 後漢・魏・西晋
 「楊偉(ヨウイ)」
 によって作られ
 晋王朝成立後の
 「泰始元年(265年)」に
 泰始暦が行われたとされているが
 実際は
 景初暦と同一のもの
 計算上の暦元は
 干支
 丁巳の
 景初元年〜4045年前の
 干支
 壬辰年の夜半
 甲子朔旦冬至(晋書・律暦下)
 月の運行の遅疾に関する計算が
 暦に取り入れられ
 天体暦として
 日月食の開始時刻などを
 推算する方法を確立
ーー↓↑ーー
 倭人の登場
ーー↓↑ーー
 論衡
 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
 (周の時、天下太平にして、
  倭人来たりて
  暢草を献ず)
 「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯(恢国篇・第五八)」
 (成王の時、
  越裳は雉を献じ、
  倭人は暢草を貢ず)
 ・・・「恢=カイ・クヮイ・広い・大きい
       ・・・かい国=甲斐国・魁刻(北斗七星)?
      =忄(心)+灰(厂火)
      「忄=立心偏→立身編」 
 ・・・心は灰色(ガンダレのヒ)?
       恢恢=盛んにする・大いに
       恢復=一度悪い状態になったものが
          元の状態に戻ること
          一度失ったものを取り戻すこと
 ↓↑
 「周時天下太平
  越裳獻白雉
  倭人貢鬯草
  食白雉服鬯草
  不能除凶(儒増篇第二六)」
 (周の時は天下太平
  越裳は白雉を献じ
  倭人は鬯草を貢す
  白雉を食し鬯草を服用するも
  凶を除くあたわず)
 ↓↑
 「暢草=酒に浸す薬草」
 ↓↑
 王充(オウジュウ)
 27年〜97年)の書
 王充は
 会稽(カイケイ)郡
 上虞(ジョウグ)県
 で生まれた
 江南人ではなく華北からの移住者
 王充は
 『漢書』の著者
 班固
 より5歳年長の先輩で、知人
 自由で合理的・実証的な精神によって時弊を痛論
 讖緯(シンイ)思想
 陰陽五行思想・・・五行思想のスベテが不合理ではない
 に対して強く批判
 迷信や不合理を斥け
 儒家道家、法家
 などの言説も批判・・・
ーー↓↑ーー
 山海経
 ↓↑
 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕(山海經 第十二 海内北經)」
 (蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。
  倭は燕に属す)・・・燕国=山東半島=「北燕=匽」
  ・・・地理的支配領域なら倭は朝鮮半島北部
  ・・・政治的従属関係領域なら倭は半島南部+日本列島
 ↓↑
 山海経の編纂時代
 倭は燕に朝貢していた・・・
 「架空の国・架空の産物」の記述・・・
 『山海経』第九 海外東經
 東方の海中に「黒歯国」があり
 その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国がある・・・
 「黒歯国・扶桑国」が架空の国ではないだろう・・・
 ↓↑
 『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝
 「去女王四千餘里
  又
  有
  裸國
  黒齒國
  復在其東南船行一年可」
 (女王=卑弥呼の国から
  4000余里に裸国と黒歯国がある
  東南に船で一年で着く
 ↓↑
 『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
 「其南
  有
  侏儒國
  人長三四尺
  又南
  鄢齒國 裸國
  去
  倭
  四千餘里
  船行可一年至」
 (南に身長三四尺の人の国があり
  その南に
  黒歯国と裸國がある
  倭から4000余里去って
  船で1年で着ける)
 ↓↑
 百越人(春秋時代の呉人)と倭人の関係
 『山海経
 古代中国では
 「倭(九州)」が
 「太陽が昇り扶桑の生える」
 「九夷」として憧れの地・・・
 ↓↑
 『宋書』の楽志、
 「白紵舞歌」
 その一節に
 「東造扶桑游紫庭
  西至崑崙戯曽城」
 (東、扶桑に造りて
  紫庭に游び
  西、昆崙(崑崙)に至りて
  曾城に戯る
  「(白)紵」というのは
  「呉(春秋時代)」に産する織物
  「香椎(カシ)」は
  「百越人」地帯としての「越(コシ)」の訛り
  春秋時代末期に
  「越」によって滅ぼされた
  「呉」の海岸沿いの住人たちが
  渡来、漂着した所が筑紫
 ↓↑
 『論語』子罕第九に「欲居九夷」
 「孔子、柔順な九夷に居すを欲す」
 「罕(まれ・カン)=長い柄のついた鳥をとる網・鳥あみ
           柄のついた旗
           まれに・たまに・すくない・めずらしい
           罕に=まれに・めったにない・珍しいさま
              「子は罕に利を言う」
  ↓↑
 『論語』公治長第五
 「子曰く、道行われず。海に浮かぶべし
 (子曰、道不行、乗桴浮于海)」
 (孔子が言った
  中国では道徳が受け入れられないから
  東の海にある
  九夷にいきたい)
  ↓↑
 『前漢書地理志』
 「然東夷天性柔順、異於三方之外
  故孔子悼道不行
  設浮於海欲居九夷、
  有以也夫。
  楽浪海中有倭人
  分為百余国
  以歳時来献見云」
 (然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる
  故に孔子、道の行はれざるを悼み
  設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す
  以(ゆゑ)有るかな。
  楽浪海中、倭人有り
  分かれて百余国を為す
  歳時を以て来たり献見すと云ふ)
  ↓↑
 『隋書』東夷傳の倭の条
 「・・・九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順・・・」
 (倭は・・・九夷の居るところ・・・その天性は柔順」
  ↓↑
 「漢書前漢書)」地理志
 「然東夷天性柔順
  異於三方之外
  故孔子悼道不行
  設浮於海
  欲居九夷
  有以也夫。
  樂浪海中有倭人
  分爲百餘國
  以歳時來獻見云」
 (然して東夷の天性柔順
  三方の外に異なる
  故に孔子、道の行われざるを悼み
  設(も)し海に浮かばば
  九夷に居らんと欲す
  以(ゆゑ)有るかな
  楽浪海中に倭人あり
  分ちて百余国と為し
  歳時をもつて来たりて献見すと云ふ
  ↓↑
 楽浪郡
 前漢(紀元前202年-8年)
 武帝
 紀元前108年
 衛氏朝鮮の故地に設置
 漢四郡の一つ
 平壌付近
 漢四郡
 真番郡玄菟郡楽浪郡・臨屯郡
 倭人国は
 『漢書』地理志が初発
 楽浪の海を越えた所に
 百余国に分かれた
 倭人の国
 弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)
 撰者
 班固
 が後漢の初め頃に編纂
 ↓↑
 「後漢書・東夷傳」
 「建武中元二年
  倭奴國奉貢朝賀
  使人自稱大夫
  倭國之極南界也
  光武賜以印綬
 (建武中元二年(57年)、
  倭奴国
  貢を奉じて朝賀
  使人自ら大夫と称す
  倭国の極南界なり
  光武賜うに印綬を以てす
 「安帝
  永初元年
  倭國王
  帥升
  等
  獻
  生口
  百六十人
  願請見」
 (安帝、
  永初元年(107年)
  倭国王
  帥升
  生口160人を献じ
  請見を願う)
 「金印(倭奴国王印)」は
  江戸時代、
  博多湾志賀島で発見掘り出された
 「漢委奴國王」と刻印されている
 「委奴=いと・ゐど(伊都国)」
 「漢の委奴(いと・ゐど)の国王」・・・
 ↓↑
 『北史』倭国
 「安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國」
 (安帝の時(106〜125年)
  また遣使が朝貢し、これを倭奴国という)
 ↓↑
 『隋書』倭国
 「安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國」
 (安帝の時(106−125年)
  また遣使が朝貢
  これを「倭奴国」という)
 ↓↑
 『旧唐書倭国・日本国伝
 「倭國者、古倭奴國也」
 (倭国とは、古の「倭奴国」なり)
 ↓↑
 『後漢書』の
 安帝紀
 永初元年(107年)の記事が
 初めてである
 「冬十月,
  倭國遣使奉獻。
  辛酉,
  新城山泉水大出」
 ↓↑
 「檀石槐伝」
 『後漢書』卷九十
  烏桓鮮卑列傳第八十の
  檀石槐伝
「光和元年冬
  又寇酒泉
  縁邊莫不被毒
  種衆日多
  田畜射獵不足給食
  檀石槐乃自徇行
  見烏侯秦水廣從數百里
  水停不流 其中有魚
  不能得之 聞倭人善網捕
  於是
  東擊
  倭人國   得千餘家
  徙置秦水上
  令捕魚以助糧食」
 ↓↑
 『三国志』より古い時代を書いているが
 成立は三国志より遅い
 五世紀に書かれた 范曄は
 『漢書』、『三国志』、『魏略』
 なども読むことができた・・・
 「倭の五王」の「上表文」
 も知っていた
 ↓↑
 范曄(ハンヨウ)
 398〜445
 魏志より2世紀近くも後に編纂された
 ↓↑
 「魏志倭人伝
 「倭人
  在
  帶方東南大海之中
  依山島爲國邑
  舊百餘國
  漢時有朝見者
  今使譯所通
  三十國」
 (『三国志』魏書巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」)
 (倭人帯方郡の東南の大海の中におり
  山の多い島のうえに
  国や邑(むら)をつくっている
  もとは百あまりの国があり
  その中には
  漢の時代に朝見に来たものもあった
  いまは使者や通訳が往来するのは
  三十国である
 ↓↑
 東夷伝
 夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓辰韓・弁辰・倭人
 の九条が含まれ
 東夷伝の九条とも
 大体三部から構成
 倭人
 第一部はその周辺との
 関係位置や内部の行政区画の記事、
 第二部はその経済生活や日常習俗の記事
 第三部はその政治外交上の大事件の記事
 ↓↑
 夷伝の韓伝冒頭
 「韓在帶方之南
  東西以海爲限
  南與倭接
  方可四千里」
 (『魏志』韓伝)
 (韓は帯方の南に在り
  東西は海をもって限りとなし
  南は倭と接する
  方4千里ばかり)
 ↓↑
 倭人伝の時代
 後漢の終わり頃から
 三国鼎立の時代
 同時代の 王沈の書
 『魏書』に東夷伝がなく
 『三国志』には
 中国の皇帝の歴史を書くべき史書であったが
 陳寿
 『魏志倭人伝だけが
 約二千字という
 膨大な文字を使って細かく
 邪馬台国のことを記録
 「倭人は鉄の鏃を使う」
 との記述・・・
 ↓↑
 『三国志
 『魏書』三十巻
 『呉書』二十巻
 『蜀書』十五巻
 通称は
 『魏志』『呉志』『蜀志』
 で
 魏の
 文帝の
 黄初元年から
 晋の
 武帝
 太康元年にいたる間
 (220年〜280年)
 の魏・蜀・呉の
 三国鼎立時代
 60年間の歴史を書いたもので
 正史二十四史
 第四番目に位置
 晋が天下を統一したころ
 太康年間(280〜289)
 全六十五巻を
 陳寿が撰述
 陳寿の死後
 『史記』『漢書』『後漢書
 の「前三史」に加え
 「前四史」と称される
 ↓↑
 華北に魏
 華中・華南に呉
 長江(揚子江)の上流
 四川を中心にして蜀
 南北に対立した
 魏の範囲と
 呉の範囲は
 のちの
 南北朝時代にもそれぞれ
 北朝南朝として地域的対立
 中国では中央に居住する
 華夏族漢民族)に対して、
 その周辺に居住するものを
 東は夷
 南は蛮
 西は戎(ジュウ)
 北は狄(テキ)
 と称した
 ↓↑
 晋書
 太康十年(289年)の条
 「東夷絶遠三十餘國
  西南二十餘國來獻」
 絶遠の国が日本である・・・
 ↓↑
 日本については
 東夷伝
 武帝紀に記録
 ↓↑
 邪馬台国の記述
 266年に倭人が来て
 円丘・方丘を南北郊に併せ
 二至の祀りを二郊に合わせた
 と述べられ
 「前方後円墳」のおこりを記したもの・・・
 ↓↑
 「宋書
 「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川
  不遑寧處
  東征毛人五十國
  西服衆夷六十六國
  渡平海北九十五國」
 (『宋書倭国伝)
 (昔から祖彌(ソデイ)躬(みずか)ら
  甲冑を環(つらぬ)き
  山川(サンセン)を
  跋渉(バッショウ)し
  寧処(ネイショ)に遑(いとま)あらず
  東は毛人を征すること、五十五国
  西は衆夷を服すること六十六国
  渡りて海北を平らぐること、九十五国
 ↓↑
 「詔除武使持節
  都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事
  安東大將軍、倭王
 (詔を以て武を使持節
  都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事
  安東大将軍、倭王に叙爵した)
 宋へ朝貢
 宋が倭王(武)へ朝鮮半島の支配を認めた
 ↓↑
 宋の
 文帝の命によって
 439年(元嘉十六年)
 から編纂が始まり
 何承天・山謙之
 琲裴之(ハイショウシ)
 徐爰(ジョカン)
 らの文人たちによって継続
 487年(永明五)
 南斉の
 武帝の命を受けた
 沈約(シンヤク)が
 翌年(元嘉十七) 本紀10巻
 列伝60巻
 を完成させ
 志30巻は
 502年(天監元)に完成
 『宋書』は宋王朝の官府に集積されていた史料を 実録的に記述
 ↓↑
 倭の五王の中の
 珍に関係する記述が
 列伝の
 倭国条だけでなく
 本紀の
 文帝紀にもある
 ↓↑
 沈約
 斉の著作郎(歴史編纂の長官)
 ↓↑
 「南斉書」
 日本関係は
 東南夷伝に記録
 冒頭は前正史の記述を妙略して引き
 中国から見た
 倭国の位置や女王の存在などを記録
 ↓↑
 479年
 倭国の遣使を記し
 倭王武
 使持節都督
 倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓 六国諸軍事
 安東大将軍
 と称号などが記録
 ↓↑
 「梁職貢図(新羅題記)」
 時期不明
 521年以前
 斯羅國本
 東夷
 辰韓之小國也
 魏時曰
 新羅
 宋時日
 斯羅其實一也
 或
 属韓
 或
 属
 倭國
 王
 不能自通使聘
 ↓↑
 「梁書
 唐の著作郎
 姚思廉(ヨウシレン
 が太宗の命を受けて編纂
 636年(貞観十)に完成
 ↓↑
 梁書巻五四の諸夷伝
 倭に関する記述
 倭の五王名や続柄が
 『宋書』と異なっている・・・
 ↓↑
 『北史』倭国
 漢
 「光武時、遣使入朝、自稱大夫」
 後漢
 光武帝の時(25〜57年)
 遣使が入朝
 大夫を自称
 「安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國」
 (安帝の時(106〜125年)
  また遣使が朝貢、これを倭奴国という)
 ↓↑
 「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に、
 「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」
 (男女多く臂(うで・ひじ)に
  黥(ゲイ)す
  黥面文身し
  水に没し魚を捕る)
 608年
 隋使裴清(裴世清)の
 一行の見聞や観察を基礎にしたもので
 7世紀初頭の倭人社会の資料である
 「新羅 百濟
  皆以
  俀爲大國
  多珎物
  並敬仰之
  恒通使往來」
 (新羅・百濟は
  みな俀を以て大国とし珍物多しとなす
  並びにこれを敬い仰ぎ
  恒に使いを通わせ往来す)
 ↓↑
 「倭人が鉄を使用」という記述・・・
 ↓↑
 「大業三年
  其王
  多利思北孤
  遣使朝貢
  使者曰
  聞海西菩薩
  天子重興佛法
  故遣朝拜
  兼
  沙門數十人來學佛法」
 (大業三年(607年)其の王
  多利思北孤
  使いを遣わして朝貢
  使者曰く
  『海西の菩薩天子
   重ねて仏法を興すと聞く
   故に遣わして朝拝せしめ
   兼ねて沙門数十人来りて
   仏法を学ぶ。』
  と。
 (俀の王からの使者が来て
  隋を訪問した目的を述べたことが記述)
 「海西の天子は
  重ねて(熱心に)
  仏法を起こしていると聞き
  そのため沙門(僧侶)を送って
  仏法を学ぶために来た」
 海西の菩薩天子とは
 海の西の方の天子
 開皇十一年(591年)
 菩薩戒により
 総持菩薩となった
 煬帝を指している
 直後に
 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
 の記述
 ↓↑
 『隋書』東夷傳
 「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」
 九夷(中国の東に住む諸民族)が居る所は
 中華から遠くにあり
 (九夷の)天性は柔順である
 ↓↑
 「旧唐書
 日本について
 『倭国
 と
 『日本国』の条がある
 ↓↑
 「倭國者古倭奴國也
  去京師一萬四千里
  在新羅東南大海中
  依山島而居
  東西五月行
  南北三月行
  世與中國〜
  日本國者
  倭國
  之
  別種也
  以其國
  在
  日邊・・・・火邊=阿蘇山
  故以
  日本爲名
  或曰
  倭國
  自惡
  其名
  不雅
   改爲
  日本
  或云
  日本
  舊小國
  併
  倭國之地
 ↓↑
 『舊唐書』 東夷伝 倭國
 (日本国は倭国の別種なり
  その国
  日辺にあるを以て
  故に
  日本を以て名とす
  或いはいう
  倭国
  自らその名の
  雅ならざるを悪み
  改めて日本となすと
  或いはいう
  日本は
  旧小国
  倭国の地を併せたり
  と)
 (倭国
  「自らその名の
   雅(みやび)ならざるを
   悪(にく)み」
  名を改めた)
 ↓↑
 北宋時代に再編纂された
 『新唐書
 にも同様の記述
 新唐書では
 「日本という小国を
  倭があわし(合併し)
  その号(日本の名)を
  冒す(名のる)」
 ↓↑
 「旧唐書(くとうじょ)」
 五代十国時代
 10世紀に
 劉昫(リュウク)
 らによって編纂された歴史書
 二十四史の一
 ↓↑
 倭国倭人
 『魏書』
 王沈(オウシン・?〜266年)
 の著を
 陳寿は参考にしている
 東夷伝はなし ↓↑
 『魏略』は
 魚豢(ギョケン)撰の著
 佚文(逸文)として
 『前漢書』、『翰苑』、『北戸録』
 『魏志』、『法苑珠林』
 に残る
 清代に
 張鵬一(チョウホウイツ)
 が諸書の逸文を集めて
 『魏略輯本』を編集
 裴松之(ハイショウシ・371年〜451年)
 は
 宋の文帝の命を受けて
 426年(元嘉六年)に
 『魏志』に関する「注」を実施
 裴松之注(註)
 あるいは 「裴注」という
 この注は
 陳寿の省略した
 諸事実や
 陳寿
 簡潔に述べている事柄などについて
 裴松之が入手しえた
 諸資料を関係箇所に「注」として補った
 『翰苑(カンエン)』
 は唐の
 張楚金(チョウソキン)編集の類書で
 蕃夷(バンイ)部のみが
 太宰府天満宮に唯一現存
 日本に唯一伝存している
 『翰苑』は9世紀に
 書写されたものであるが
 誤字や脱漏が多い
 『魏略』の引用が多い
 『史通(シツウ)』は
 唐の
 劉知幾(リュウチキ)撰
 『太平御覧』は
 北宋の太宗の勅を受けて
 李棒硃(リホウ)
 等が編纂した類書
 この書が類書の中では最も良書
 その引用には
 原文を簡略にした箇所も多
 後代の
 史書『晋書』、『梁書
 などが
 倭人の出自に関しては
 一致して
 「太伯之後」 という文言を記している
 「旧語を聞くに
  自ら太伯(タイハク)の後という」 の文章が両書にあって
 倭人伝にはない。
ーーーーー
 燕国
 その具体的な位置
 後の玄菟郡の「蓋馬」(西蓋馬県、蓋馬大山など)
 遼東半島の「蓋平」(遼寧省営口市)
 鉅燕を『史記』の「全燕」と同じとみて
 山東半島
 「蓋(ガイ)」(山東省淄博市沂源県)
 朝鮮半島江原道の
 「穢(カイ)」
 馬韓
 「乾馬」(全羅南道益山)
 推測される「倭の位置」も大きく違ってくる・・・
ーーーーー
 ・・・南国の「渡り鳥」である「つばめ(津波目・燕)」なら「新潟・越後」である・・・
 燕(紀元前1100年頃〜紀元前222年)
 中国に周代、春秋時代、戦国時代
 に存在した国
 春秋十二列国の一つ
 戦国七雄の一つ
 河南省の・・・「中国の八大古都の四つ
         (鄭州、洛陽、開封、安陽)は河南省に位置」
         北京=北緯39度54分20秒
         燕=つばめ=津波目=北緯37度4分
 「南燕国(豫州→首都は鄭州)」・・・鄭(酋大阝)の州?
 に対して
 「北燕
 ともいう・・・首都は「燕都・薊城」・・・
 当時
 「燕」ではなく
 「匽」と書いていた・・・「奄=匽=燕」
 山東半島の「奄」(魯の近隣)
ーーーーー
 ・・・