2342日目・・・「鴉史他(あした)」、「蘆妥(あした)」、「蛙詞多(あした)」、「阿示蛇(あした)」・・・「明日=あす=阿須」、「掛名等事(かならず→仮名等圖→金羅頭→金王朝→愛新覚羅 溥儀(アイシンカクラ フギ・アイシンギョロ・プーイー・1906年2月7日〜1967年10月17日)・大清国第12代にして最後の皇帝(在位は1908年12月2日〜1912年2月12日)、後に満州国執政、皇帝・康徳(コウトク)帝=年号-大同元年(1932年)〜康徳元年(1934年)〜康徳十二年(1945年)←徳川家康?」・
ーーーーー
愛新覚羅-溥儀
1906生年丙午(丙・ ・丁)
0002生月庚寅(己・丙・甲)偏印(正官・偏財・食神)
0007生日壬午(丙・ ・丁)申酉=空亡
↓↑
大運
61〜69歳丙申(己・壬・庚)偏財
↓↑
1967年丁未(丁・乙・己)正財・・・命式支合丙
0010月庚戌(辛・丁・戊)偏印・・・命式三合丙
0017日甲寅(己・丙・甲)食神・・・大運沖・命式三合丙
ーーーーー
「飛鳥(明日香)」、
「あすか→いかるが=斑鳩(ハンキュウ・まだらはと)
鵤(いかる・囀る声がイカルコキーと聴こえる)
=桑鳲(アトリ科の鳥
=集鳥(あとり)
別名で臘觜(ロウシ)鳥
獦子(カツシ)鳥
鵤(角+鳥)の漢字は国字)
=囀る声が月日星(つきひほし)と聴こえるので
三光鳥
別称は「まめまわし(豆回し)
まめわり(豆割り)
豆鳥(まめどり)」・・・
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仁徳天皇
神功皇后摂政五十七年
〜
仁徳天皇八十七年一月十六日)
第十六代天皇
在位は
仁徳天皇元年一月三日〜同八十七年一月十六日)
名は
大雀命(おほさざき の みこと・古事記)
おほすずめ
ダイジャク
大鷦鷯尊(おほさざき の みこと)
ショウリョウ
大鷦鷯天皇(おほさざき の すめらみこと・日本書紀)
御陵地名=「百舌鳥耳原」・・・もずのみみはら
ヒャクゼツチョウジゲン
百済絶朝字源(次元・示現・時限)?
もず=百舌鳥・鴃・鶪・鵙・万代・・・
=摸図・摸州・摸事・摸亠・摸豆
百足(むかで)
腿(もも)・股
桃の木・桃太郎
↓↑
「仁」の熟語で、スグ思いつく熟語で出てくるのは
「仁徳
円仁(エンニン)
延暦十三年(794年)
〜
貞観六年一月十四日(864年2月24日)
第三代天台座主
慈覚大師(ジカクダイシ)・・・字拡大詞?
入唐八家
(最澄・空海・常暁・円行・恵運・円珍・宗叡)の一人
下野国の生まれ
出自は壬生氏」
↓↑
「仁義・仁王
仁和寺(真言宗御室派総本山の寺
山号は大内山
本尊は阿弥陀如来
開基(創立者)は
光孝天皇の譲位、践祚、即位の
宇多天皇←阿衡(アコウ)事件
藤原基経とのトラブル
阿衡は位貴くも、職掌なし)」
↓↑
「仁侠=任侠」・・・?・・・
「子曰、巧言令色、鮮矣、仁」
↓↑ ↓↑
「矣=文末にそえる助字
断定・推量
疑問・反問
感嘆の意
推量・完了・断定・詠嘆」
「矣(イ)・焉(エン)・也(ヤ)」は
「置き字」で
「文末に置いて、文を強調する」
「文意を強めるだけで、それ以上の意味はない」
「而」「焉」「矣」「於」「于」「乎」の6字
「兮=兮(ケイ)」は文中のバランスを整えるのに使用
「焉・矣」=文末で意味を添える「終助詞」のような働き
「終助詞=種々の語に付き、文の終わりにあって
その文を完結させ
希望・禁止・詠嘆・感動・強意
などの意を添える助詞」
「巧言令色鮮ないかな仁
巧言令色-鮮矣(すくなし)-仁」・・・
「鮮=すくない=殆ど無い・否定形?」・・・
・・・「矣」が「文末にそえる助字」ならば、
「巧言-令色-鮮矣、仁」
「巧言令-色鮮矣、仁」→巧みな言葉の命令って
色鮮矣=色鮮(あざ)やかであるのかな・・・
「仁」としては・・・「疑問・反問」
「剛毅木訥 近仁」=剛毅 木訥、仁に近し
「巧言令色鮮矣仁」=巧言令色鮮、仁である矣(や・か)?
↓↑ 「矣」は「疑問・反問」
↓↑ 矣=なり・や・か・かな・のみ
↓↑ 「色鮮(いろあざやか)」は熟語?
↓↑ 「鮮」=技術・動作などがとても巧みである
↓↑ 「鮮やかな包丁捌(さば)き」
「朝鮮」・・・
「鮮=魚+羊=あざやか・すくない・セン
取りたてで生きがよい
生生しい・鮮魚・鮮血・新鮮・生鮮
色がくっきりしている・あざやか
鮮明・鮮緑・鮮烈」
すくない・・・?・・・スクナイとは訓まない?
「鮮少」・・・
数量詞=微少・少ない・僅少・纔か
少い・僅か・尠少
わずか量・程度が小さい
微量
「鮮少」=「其爲 人也、孝悌而好㆑犯㆑上者、鮮矣。」
(その人と爲りや、
昔は明王が孝を以て天下を治む
其れが之を継ぐこと或るは
鮮(すく)ないかな希(まれ)である
「被服光且鮮。」
(被服光ありて、かつ鮮あざやかなり)
(洛陽の若者の)服装は輝き、艶美である
(曹植『文選』「名都篇」)
「鮮明・鮮血・新鮮」
「鮮卑」、「朝鮮(あざやか)」の意味
「鮮少」=ほとんどない。すくない
「鮮少」
「其爲㆑人也、孝悌而好㆑犯㆑上者、鮮矣」
(その人と爲りや、孝悌にして上を犯すを好む者は、
鮮(すくなし))
「彼の人柄が、親にも兄にもよく仕え、
かつ目上の人に逆らうのを好む人は、
ほとんどいない(『論語』「學而第一」一之二)」
↓↑
(日本に伝来したテキストで
「悌=年長者に柔順に仕える
兄弟や長幼の間の情が厚いこと」
とするところ、
中国に普及するテキストでは
「弟」とする。意義は同一)・・・?
↓↑
「昔者明王以孝治天下,
其或繼之者鮮哉希矣」 (『晉書』卷55)
(昔は明王が孝を以て天下を治む、
其れが之を継ぐこと或るは
鮮(すく)ないかな希(まれ)である)
↓↑
「鮮卑=モンゴル高原での古代牧畜狩猟民族
五胡十六国の一
拓跋氏が有力となり4世紀末に
北魏を建国
439年、華北を統一」
「鮮=魚+羊」は「まな+ひつじ」の意味であるが、魚の種ではない?・・・
「蘚(こけ・セン)=艹+魚+羊=こけ=苔・虚仮・鱗(うろこ・リン)」・・・
「薊(あざみ・さく・とげ・ケイ・カイ・ケ・ケチ・ケツ)=艹+魚+刀」の「薊」・・・
「蘇我」の「蘇」に類字するが・・・?
↓↑
「羊のような魚」とは、ギリシャ神話の「山羊座の神話]で「山羊(やぎ)座の山羊(Capricornus・Capricorn)」は、ナイル川の岸辺の神々の宴会で「アイギパーン=パン(ドリュオペと、ヘルメスの子供・上半身人間、下半身山羊)」が笛を吹き、踊り、神々を楽しませていた時に突然、神々に襲い掛かってきたのが「テュフォン」で、100の頭、西から東の空を覆う巨大な身体、目と口からは火を吐きだす怪物だった。
驚いた「パン」は慌てて変身したが「上半身が山羊、下半身が魚」・・・シュメール神話では「上半身は牡山羊で、下半身は鯉(コイ)のエンキ(Enki・アッカド人による称号は水の家の主・知識、魔法を司る神・人類に文明生活をもたらすメー)」、「知識、魔法、藝術を司る神」は、そもそもギリシャ神話の「ヘルメス(Hermēs)」で、「頭は山羊」で「下半身が魚」である・・・ボクの記憶(?)では、慌てて変身したのは昔、読んだ本では「ヘルメス自身の不様な変身」だったような・・・
ヘルメスは「神々の伝令使、能弁、境界、体育技能、発明、策略、夢と眠りの神、死出の旅路の案内者」で「旅人、商人」の守護神、「朱鷺・雄鷄」が彼の聖鳥・・・
オマケに「狡知、詐術に長けた計略、謀略、早足、牧畜、盗人、賭博、商人、交易、交通、道路、市場、競技、体育などの神で、雄弁と音楽の神であり、竪琴、笛、数、アルファベット、天文学、度量衡などを発明した神」である・・・
英語では「鯉(コイ・carp)」は「泥の中の汚い魚・carpの動詞は五月蠅(うるさ・煩)く、咎(とがめ)だてをする、筋違いの文句を言う奴・アラ捜し」らしい・・・
中東なら「鯉(こい)=魚+里」ではなく、「電気鯰(なまず)」が「神」に相応しいカモ・・・
「鯰=魚+念」=「catfish」→「ナマズは猫のように長い口ひげを有しているから」?・・・じゃないだろう・・・
穀物を喰い荒らす「鼠(ネズミ)」の天敵が「猫」であり、「バステト(Bastet・猫)女神」である。そして「アポピス(Apophis)=毒蛇」の天敵が「猫女神」でもある・・・
「バステト(Bastet・牝猫)」は「テフヌト(Tefnut・牝ライオン)」。「セクメト (Sekhmet・牝ライオン) 」、「ハトホル(Hathor・牝牛・イチジクの女主)」、ギリシャでは「アプロディーテー(ウーラノスの精液の泡=アプロス・aphros から生まれた)」に習合された・・・
鯰(魚念)=「魚(まな→眞名=漢字)」を「念(今の心で思う)=二十・弐拾・弐足」・・・「仁足」・・・
「電気鯰(ナマズ・魸・鮀)科 (Malapteruridae)=淡水魚・アフリカ熱帯地方の河川、ナイル川に棲息する電気ナマズ (Malapterurus electricus)・300〜400Vの発電・ナイル川水系、アフリカ西部の川、チャド湖、トゥルカナ湖盆地、ザンベジ川のアフリカ熱帯域に広く分布」
「体に鱗(うろこ)がなく、鰭条(きじょう)のある背びれがなく、脂びれが体の後半部にある・夜行性・発電電圧は350ボルト以上」
「ジムナルカス (Gymnarchus niloticus)」・・・
「象鼻魚(Gnathonemus petersii)=エレファントノーズフィッシュ(象鼻魚)」・・・
↓↑
「森と羊と羊飼いの神、牧羊神パンの姿(守臥多?)」・・・「生後およそ12か月以下の子羊の肉はラム(muttonlamb)、それより も年をとった羊の肉は日本ではマトン(mutton)」・・・「羊頭狗肉」・・・「要等句似句」・・・
ーーーーー
御仁・仁愛・仁恩・仁義・仁君・仁恵・仁兄・仁賢・仁厚・仁孝
仁慈・仁者・仁寿・仁恤・仁術・仁恕・仁心・仁人・仁政・仁知
仁智・仁道・仁徳・仁風・仁王・仁安・仁侠・仁治・仁平・仁和
↓↑
一視同仁=差別することなく、全ての人を平等に慈しむこと
同仁一視=〃
以力仮仁=武力権を以て仁政に見せかける
寛仁大度=心が広くて、度量が大きく、慈悲深い
志士仁人=高潔な志を持つ人
志のある人で、学徳の立派な人
仁言利博=徳の言葉は多くの人々に利益をもたらす
仁者不憂=仁者の人は、悩むことがない
仁者無敵=仁者に、敵になる者はいない
仁者楽山=仁者は動じない山を楽しむ
吮疽之仁=「吮」は口で直接吸い出すこと
「疽」は悪性の腫物
戦国時代の楚の将軍の
呉起は
悪性の腫物で苦しんでいる
部下の血膿を吸い取ってやった故事
宋襄之仁=必要のない情けをかけ、敗北すること
ーーーーー
「仁義」って?
↓↑
「仁=イ+二」
↓↑
「他人に対する親愛の情、優しさ」
儒教における最重要な「五常の徳」の一
「仁+義」=「仁義」
↓↑
中国の伝統的な
社会秩序(礼)を支える精神、心のあり方
礼(レイ)=さまざまな行事のなかで
規定されている動作や言行
服装や道具などの総称
人間関係(儒家の身分制階級秩序)を
維持するための道徳的な規範
↓↑
孔子
君子は仁者であるべき
孟子
性善説に立つ孟子は
惻隠(ソクイン)の心が仁の端(はじめ)
惻隠の心とは同情心
「孝」や「悌」、「忠」なども仁のひとつ
↓↑
老子
「大道廃れて仁義あり」といって
仁義をそしり、これとは別の道徳を説いた
「私」の立場
「仁義」は「公」的
↓↑
万物一体の仁説
程明道
仁=「万物(万民)一体」
医書では手足の麻痺した症状を「不仁」と呼び
自己の心に対して
何らの作用も及ぼしえなくなってしまっているため
これを生の連帯の断絶とそれに対して
無自覚であることを意味するとし、
生意を回復せしめることが
仁であるとした
「万物一体の仁」の一つ
「知覚説」で
痛痒の知覚をもつことを
仁としている
義・礼・智・信が、皆、仁
であるとする立場で
仁を「体」とし
五常を「用(作用)」と見なしていた
「仁」は「生」・・・生き方なのか、生かされ方なのか?
ーー↓↑ーー
「礼=禮」
さまざまな行事のなかで規定されている
動作や言行
服装や道具などの総称
春秋戦国時代、
儒家によって観念的な意味が付与され
人間関係を円滑にすすめる方策とした・・・
ーー↓↑ーー
馬融(バユウ)
79年(建初四年)〜166年(延熹九年)
後漢中期の学者・政治家
右扶風・茂陵県(陝西省興平市)の人
字は季長
後漢の
伏波将軍
馬援の族孫
祖父は
馬余(馬援の次兄)
父は馬厳(後漢の将作大匠)
兄に
馬続
叔父に
馬敦
娘(馬倫)
は
袁隗の妻
従妹(馬敦の娘)
は
趙岐の妻
族子に
馬日磾
『後漢書』に伝がある
↓↑
後漢の名門
馬氏の一族
京兆の
摯恂という人物が仕官せずに
南山に隠れ住み学名が高かった
馬融は摯恂に師事し
広く儒学を学び、経典について研鑚
摯恂の娘を妻にした
↓↑
108年(永初二年)
安帝の外戚として権勢を振るっていた
大将軍の
蠟騭
に舎人に徴されたが応ぜず
涼州の
武都や漢陽に避難
乱に巻き込まれ生活は困窮
↓↑
110年(永初四年)
再び蠟騭に招かれ
これを受けて都に行き
校書郎となった
↓↑
同郷の先輩である
班昭・・・・・・・班(まだら)を昭(あきらか)にする?
に付いて
『漢書』を学んだ。
↓↑
蠟騭
と
安帝の生母の
蠟太后
が共同で政務にあたって
馬融は
蠟太后へ
『広成頌』と呼ばれる上奏をし
蠟太后の不興を買った・・・
↓↑
116年(元初三年)
兄の子の喪に服するため帰郷
これが
蠟太后の怒りを買い
免官、禁錮
↓↑
121年
蠟太后が死去し
安帝が親政
馬融は許され、再び召され
一度
河間王の家臣となったが
安帝の東巡に従い
その文才を認められ
再び郎中となった
↓↑
125年(延光四年)
北郷侯(少帝懿)即位・・・「懿」
官を辞し故郷に戻り
郡の功曹となった
順帝の時代となった
133年(陽嘉二年)
再び中央に戻って
議郎となった
↓↑
大将軍
梁商に取り立てられ
従事中郎
武都の令となった
西羌が反乱を起こすと
兵を率いてこれを討つことを申し出たが
受け入れられなかった
↓↑
梁商
の跡を継いだ
梁冀
が専横するようになると、
馬融
は
『西第頌』を作成するなど、
それに
阿(おもね)るような振る舞いをしたとして
清流派の士人から批判された
中でも
梁冀
が
太尉
李固を弾劾したとき
その上奏文を作成したのが
馬融であったことは
後々までの憎悪の種となった
↓↑
桓帝の時代
南郡太守
このころ
梁冀に憎まれるようになって
私欲が深いとして免職、徙刑に処された。
馬融は自殺を図ったが果たせなかった
↓↑
再々度 めされて
議郎となり
「東観」にあって著述を専としたが
病いによって職を辞し
88歳で死去
政治家としては
濁流に属し
親戚の
趙岐に面会を拒否されるなど
清流派の士人から軽蔑された
博覧強記で世の通儒と評された
講義の場に女人をはべらすなど
儒者の節に拘らないところもあった・・・
弟子に
盧植
鄭玄
ーー↓↑ーー↓↑
「仁」
社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)
を維持するための
道徳的な規範
↓↑
孔子
「克己復礼(自己に打ち克って礼に復帰する)」
仁を表現するうえで
礼と仁は不可分
孟子
仁・義を美的に整え
飾るのが礼であると説いた
↓↑
儒家の礼の基本精神は
供犠
「正しい」方法を
守るという倫理的な支持以外の見返りを期待しない贈与
孟子は
「礼にかなっていなければ、
どんなに飢えたひとであっても、
施しの食事を受け取ることはない」
と述べ、
礼は人間のあり方として
訓練されるべき規範
↓↑
礼は規範であるが、
法規範のように
客観的・普遍的なものではなく
感情を様式化した
主観的で特殊な規範
礼の具体的な適用場面は
王朝や時代に応じて
適切な形に見直され、変形
↓↑
孔子の礼制
既成の秩序維持は
周王朝期の礼制
春秋時代に国土を拡大した諸国が
これに従えば、
国によっては国土を縮小しなければならず
これを指摘し、合理的に批判したのが、
楚国の
子西であった
(以降、孔子は諸国の政治に
なぜ登用されなかったかの自覚をもつに至る)
孟子は礼を国家の行動規範として想定し
殷の
湯王
が
葛伯
を伐った
葛伯征伐について
礼を行わない葛伯に対する正義の戦争であった
と考察し正戦の論理を説いた
19世紀の思想家
章炳麟は、
礼が範例的な規範である以上
それを普遍化して押し付けることはできず
特定の礼を特権化して
それを拒むものを悪とする
孟子の正戦論理は
侵略戦争や
植民地戦争の論理に他ならないと批判
↓↑
礼の分類
『儀礼』
冠礼
婚礼
喪礼
祭礼
射礼
郷礼
朝礼
聘礼
↓↑
四礼
『礼記』
『漢書』
礼楽志には礼が四つに分類
↓↑
婚姻之礼=男女の情、妬忌の別が人の間にあるため
郷飲之礼=交接長幼の序が人の間にあるため
喪祭之礼=哀死思遠の情が人の間にあるため
朝覲之礼=尊尊敬上の心が人の間にあるため
後には
「冠礼・婚礼・葬礼・祭礼」
を四礼と呼んだ。
↓↑
五礼
『周礼』
大宗伯には礼が五つに分類
↓↑
吉礼=天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる)
凶礼=葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ)
軍礼=出陣・凱旋(邦国を同じくする)
賓礼=外交(邦国に親しむ)
嘉礼=冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ)
↓↑
礼学
礼は儒家によって観念化され
秩序原理にまで高められた
荀子によって
理論的整備がなされ
六経の一つとして挙げられると
礼を研究・実践する学問である
礼学が起こった
↓↑
秦代、焚書坑儒によって
礼に関する多くの書物が散佚
漢代に伝えられた
『礼』は
士礼17篇(現在の『儀礼』)のみ
高堂生がこれを伝え
后蒼が
武帝の時
博士となり
その弟子
戴徳(大戴)・戴聖(小戴)・慶普
の三家に分かれて
学官に立てられた
また
『礼』に対して注釈や補充説明をした
「記(礼記)」がある
『漢書』芸文志には
『記』131篇・『陰陽明堂記』・『王史氏記』
后蒼が著した
『后氏曲台記』
が記載
現在に伝わっている礼記は
戴徳が伝えた
『大戴礼記』
戴聖伝えた
『小戴礼記』(現行本『礼記』)
↓↑
後漢の
鄭玄
は古文経の
『周官』を中心として
『儀礼』と『小戴礼記』
を三礼として
総合的に解釈する
体系的な礼学を構築
↓↑
礼の格言
三顧の礼
劉備が諸葛亮を迎えたときの礼
礼に始まり礼に終わる=武道の基本
この言葉の初出は
1907年7月
『武徳誌』
に
内藤高治が発表した論文
「剣道初歩」
↓↑
礼は庶人に下らず
刑は大夫に上らず
『礼記』
ほか
ーーーーー
・・・