2321日目・・・「英(エイ)」の漢字「重意(エイ)」、「英国」、「英王」、「英雄」・・・「英國=春秋時代の諸侯国」・・・「英吉利=𠸄咭唎=英吉利西」じゃぁないから混乱する・・・ボク的にはマッタク、音もスペルも「音愚留素の滑る、総べる、總(すべる)、綜(すべる)」の「寅具留蘇(イングルス)」である・・・「文字」に記されるからには、それらの「理由」があるのはアタリマエだろう・・・ましてや、「同じ漢字」なら、なんらかの「共通項」を有するのは尚更ではある、「同じ音の文字」も、そうカモと思うのだが・・・これって
ーー↓↑ーー↓↑ーー
英=艸+央=はな・はなぶさ
↓↑ ひいでる・ひで
エイ・エ・ヨウ・ケイ
「エイ=叡・穎の代用字」
↓↑ ↓↑ ↓↑
比叡山・叡智
・・・愛知・愛智・英知
philosophy
英彦山(ひこさん)は
福岡県-田川郡-添田町
と
大分県-中津市-山国町に
跨(またが)る山で
耶馬日田英彦山国定公園の一部
英山(はなぶさやま)は
九州・沖縄に存在し
英山=佐賀県西部
有田町に聳(そび)える
岩頭
↓↑ 英山号の鐘=アポイの鐘は
1979年10月20日
北海道様似町平宇沖で座礁し、
「呉漢虎」船長以下47名の乗組員が
全員救助された中国貨物船、
英山号(836トン)の警鐘及び時鐘
英山号の鐘
北海道-様似郡-様似町
日高山脈支稜線西南端に位置
一等三角点(点名「冬島」)の山
「アポイ山」の
地名由来はアイヌ語の
「アペ・オ・イ(火のあるところ)」
・・・阿倍(アベ)は「おい=甥・老い・負」?・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑
穎=匕+禾+頁
ほさき・すぐれる
かしこい
エイ
頴=匕+示+頁
匕+二+亅+八+頁
頁=一ノ目八
穎悟・穎才・穎哲
穎悟・穎脱
稲の穂先=穎果
錐 (きり)、筆など、
尖(とが)った物の先・尖端
穎脱・毛穎
才知が鋭い・穎悟・穎才
↓↑ 「英」を代用字にする場合がある
英=艸+央
英才・英断・英雄
育英・俊英
石英・落英
=首枷(かせ)を付けられた人?・・・政治犯?
=光り輝くの象形=真ん中
光=景=日+亠+口+亅+八
景行・景行天皇・・・日本建(小碓命)の父
景保・高橋景保・・・シーボルト事件に連座
傾向
経口
径行
携行
↓↑ 蛍光
英=艸+央
英國=春秋時代の諸侯国
↓↑ =周代に存在した諸侯国
皋陶(コウヨウ)=帝堯、帝舜の時、
公平な裁判をおこなった人物
司法官吏(司空・司寇)
の後裔によって樹立
春秋時代に
楚の付庸国
後、
楚の
成王(熊綠=ユウキ)
によって滅ぼされた
史記・十二諸侯年表
楚の成王
熊綠(ユウキ)=成王(?〜紀元前626年10月20日)
↓↑ ↓↑ 春秋時代の楚の王
姓は羋、氏は熊
諱は綠、or頵
紀元前672年
兄の荘敖に殺害殺害されそうになり
「隨」に亡命し、隨の国人の援助で
↓↑ 荘敖を襲撃して殺害し、楚王に即位
は
成王26年
楚国は
英国、及び
↓↑ 六国を滅ぼしたと記載・・・「六英を滅」
瑛=王+英
玉の光・水晶玉
美瑛・玉瑛
↓↑
英=艸+央
「はな(花)・実のならない花
英華」
「はなぶさ(花房)・藤(フジ)の花
花が群がり垂れて咲く花」
「はなしべ(蕊・蘂・蕋)
雄しべと雌しべ)」
・・・占部・志部・士別
「花びら(瓣・花弁・落英)
「美しい=英英」
「優れている・秀でている・優れた人物」
・・・英才・英雄
「ほまれ(名誉)・優れた評価」
・・・英華
「芽・芽生え」
「英吉利(イギリス)」
・・・英語・英国
・・・「和英。和英」辞典
「国君の姓、偃姓・国都は安徽省-六安西南湖北省-英山県・始の封國者は不詳」・・・じゃぁ、「韓国」は・・・
ーーーーー
韓室の祖先
春秋時代の
晋の公族
穆侯の子
桓叔の諸子の
韓万(韓武子)・・・韓萬(満・曼・瞞)
が
韓原の地(陝西省韓城市)
に封じられた
姫姓
を姓とする
韓武子・・・・・・「韓の武の子」?
の一族が
韓氏を称すのは
領地名に因んだもので
これ以前にも
同名の
「韓」という国があった
(周王朝系の韓 (西周))
こちらも
「韓原を地盤」としていた
↓↑
紀元前620年
韓万の
玄孫
韓厥(カンケツ)・・・簡潔な人物?
が司馬に登用
趙氏の再興に尽力し
紀元前573年
韓厥
が
正卿・中軍の将になった
↓↑
紀元前541年
子の
韓起も正卿となり
韓氏は政治を司る
六家(六卿)の一つとなった
春秋末期
韓虎(カンコ)が・・・韓のトラ(訳等)
趙氏・魏氏などと共に
智氏を
紀元前453年
に滅ぼし
魏・趙と共に
晋の領地を
三分割して独立・・・三分割の時代は朝鮮半島にもあった
三韓時代(馬韓・弁韓・辰韓)
「韓有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韩
・・・凡七十八国・・・皆古之-辰国也」
高句麗・百済・新羅
紀元前403年
周の王室から
正式に諸侯として認められた
↓↑
紀元前375年
鄭を滅ぼしたが
韓は
七雄の中では最弱で
西の
秦からの侵攻に怯えていた
↓↑
申不害(? - 紀元前337年)・・・申す(猿)、我意ではない?
を宰相に抜擢した
釐侯の治世は
国内も安定し、最盛期を築けた
次代
宣恵王が
紀元前323年
初めて王を名乗ったが
申不害
の死後は再び
秦の侵攻に悩まされた
公子の
韓非
は国を強くする方法を
『韓非子』・・・法家である韓非の著書
↓↑ 法治による権力の扱い方、保持
君主の権力を法によって
↓↑ 一元化、体系化する思想
に著述
韓非子の成語
矛盾
想像(群盲、象を撫でる)
功詐不如拙誠・・・巧詐は拙誠に如かず
コウサはセッセイにシカず
巧みに詐る(詐称)ことは
拙(まず)くとも
誠実であることには及ばない・・・?
守株・・・・・・・待ちぼうけ、コロリ転げた木の根っ子
逆鱗
箕子の憂い・・・小さな動向を見て大局を見ることができる
↓↑ 「象箸玉杯」
「キシのウレイ」は
「岸(吉師)の憂い」だったのか?
「岸舞い」は「阿倍」の管轄?
↓↑ ・・・吉志舞(キシまい)=大嘗祭などで
安倍氏の当主等が監督し、闕腋袍(ケッテキのホウ)等、
主に武官の服装で、踊られた舞楽
吉師舞、吉士舞等とも表記
舞い方自体は伝承されていない
↓↑ 楯節舞(たてふしまい・楯伏舞・楯臥舞)等とも表記
郢書燕説(エイショエンセツ)
↓↑ 「辻褄の合わないことに
もっともらしい理由をつけること」
という意
楚の国都である郢(エイ)の人が
燕国の大臣に宛てようと
手紙を口述筆記させていた最中
暗いので
「明かりを掲げよ」と書記に命じたところ
手紙の記述内容だと誤解し
「明かりを掲げよ(挙燭)」と誤記し
手紙を貰った「燕国の家臣」は
「挙燭=賢人の重用」と解釈
韓非は
「古典の中で分からないことが出てきた時
自分なりに解釈しようとするが
↓↑ それが作者の意に沿ったものとなるとは限らない」と
唯々諾々=いイだくダク→epigone=エピゴーネン
↓↑ =追従者・追随(隋)者
=逆らわずに他人の言いなりになるさま
主君の意向に先回りし
様子や顔色をうかがって
主君の心に先回りしようとする者たち
「忖度(ソンタク)」する者たち?
↓↑ 「ワルイ親」に「イイ子」として従うと・・・?
韓非の言説は
母国では受け入れられず
秦の始皇帝により実行され
韓は滅ぼされた
↓↑
韓は
鄭国(人物名)を送って
↓↑・・鄭=奠+阝
鄭(ねんごろ・テイ)
鄭重・丁寧・周代の国名
鄭声
鄭衛桑間=殷の紂王の淫靡な音楽?
鄭衛之音=鄭衛の音→鄭も衛もユダヤ人の音(立日)?
鄭衛之声=鄭衛の声→鄭も衛もユダヤ人の
歎きの声(十一巴→拾壱巴)?
殷=バビロン?・・・・・・・葉(罵)備賂務?
紂王=ネブカドネザル?・・・音部掛度音作留?
↓↑ ユダヤ=猶太の國?
猶=犭+八+酉
猶(なお)・猶子(ユウシ)・猶予(ユウヨ)
奠=酋+大(一人)→乞巧奠(キッコウデン)=七夕
尊=酋+寸→みこと
遵=酋+辶→遵法
酋=八+酉
↓↑ 酋長=シュウチョウ=周長
秦に灌漑事業を行わせ
秦の国力を疲弊させようとしたが
発覚
この工事で作られた水路が
鄭国渠と呼ばれ
中国古代3大水利施設の一つとなり
秦は疲弊ではなく豊かにさせた
紀元前230年
韓の
首都
新鄭を失陥
六国の中で最も早く滅亡
↓↑
秦は
潁川郡(エイセングン)・・・英撰具務(組)?
と呼び
改め統治下に置いた
↓↑
紀元前226年
旧都
新鄭で起きた
秦への反乱は鎮圧され
韓王安・・・桓恵王の子
は処刑
↓↑
劉邦の配下
張良は
韓の宰相の家柄・・・
生国である
韓を滅ぼされた恨みから
始皇帝暗殺を企て失敗
後に
秦末の動乱から
楚漢戦争期に
張良は
韓の旧王族から
韓王成
韓王信
を擁立
↓↑
武子(韓万)
賕伯
定伯(韓簡)
韓子輿(韓輿)
献子(韓厥)
宣子(韓起)
貞子(韓須)
簡子(韓不信)
荘子(韓庚)
康子(韓虎)
↓↑
武子(韓啓章)
(紀元前424年〜紀元前409年)
景侯(韓虔)
(紀元前408年〜紀元前400年)
烈侯(韓取)
(紀元前399年〜紀元前387年)
文侯(韓猷)
(紀元前386年〜紀元前377年)
哀侯(韓屯蒙)
(紀元前376年〜紀元前374年)
共侯(懿侯、韓若山)
(紀元前374年〜紀元前363年)
釐侯(昭侯、韓武)
(紀元前362年〜紀元前333年)
宣恵王(威侯、韓康)
(紀元前332年〜紀元前312年)
襄王(韓倉)
(紀元前311年〜紀元前296年)
釐王(韓咎)
(紀元前295年〜紀元前273年)
桓恵王(韓然)
(紀元前272年〜紀元前239年)
王安(韓安)
(紀元前238年〜紀元前230年)
ーー↓↑ーー
・・・突然ですが、「唐、武周」に跳ぶ・・・「Korea」でない「韓国夫人」の「韓国」とはナニか、を知りたいがため?の前文・・・モチロン、「the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」ではない「英国」も・・・
↓↑
武則天は
姪の
魏国夫人
が
高宗の寵愛を得ていること嫉妬し
高宗が泰山での封禅を終え
長安に戻ったことを利用し
武則天は
魏国夫人を毒殺
↓↑
690年
武后は
睿宗から
皇帝位を禅譲され
周王朝を起こした
「武周」革命・・・
↓↑
690年
干支=庚寅
日本
持統天皇四年
↓↑
中国
唐=載初元年
武周=天授元年
在位期間
690年10月16日〜705年2月22日
武則天が帝位
国号を周とし
聖神皇帝と称する
↓↑
日本
1月23日
持統天皇3年12月8日
持統天皇、双六を禁止
2月14日
持統天皇4年1月1日)
天武天皇の崩御後
鸕野皇女が即位し
第41代天皇
持統天皇となる
↓↑
中国
神龍元年(705年)二月
日本
慶雲二年
↓↑
遣新羅使帰還(大使は幡文通)・・・播磨の文通
新羅貢調使来朝(大使は金儒吉・・・金の儒教は吉
副使は金今古)・・金の古今(集)→金槐集?
金槐和歌集
源実朝の家集(歌集)
建暦三年(1213年)十二月十八日頃
令外官として中納言を新設
↓↑
武周
705年・神龍元年二月
病床に臥せがちであった
武則天に対して
宰相の
張柬之(チョウカンシ)・・・・鳥瞰視?
が退位を迫り
再び
李氏唐朝
になった
(神龍革命・705年2月22日)
705年12月16日?
(神龍元年11月26日)
武則天(則天武后) (624年2月17日)623年?〜
則天武后は
権力を奪われたが
殺されず
死後は
遺言通り
夫である
高宗の横に葬られた
↓↑
顕慶四年(660年)
皇帝を天皇
皇后を天后
とした
ーー↓↑ーー
太平公主(タイヘイコウシュ)
麟徳二年(665年?〜713年)
唐の皇帝
高宗の末の娘
母は武則天(則天武后)
↓↑
八歳
太平の号を授けられた
↓↑
681年
薛紹(城陽公主の息子で従兄弟)
に嫁して二男二女を生むが
夫が
李沖
の謀叛に連座し獄死
690年
武攸曁
に嫁いで
二男二女を生んだ
↓↑
太平公主は
母の武則天が
垂簾政治を執り始めると、
武則天政権の一翼を担う
690年
母の
則天武后
皇帝に即位
武周王朝を建国し
太平公主
も隠然たる勢力を持っ
母が病に倒れた後
その愛人であった
張易之
張昌宗
兄弟が専横していたが
705年
太平公主は
張兄弟を倒し
兄の
中宗を即位させた
宰相
張柬之
により
武則天は退位(705年2月22日)
唐王朝に復帰
張兄弟
と組んでいた従兄弟の
武三思
が
張柬之
を失脚させ
安楽公主(中宗と韋皇后の娘)
と結び
701年
不倫の暴露を恐れた
安楽公主
が
韋后
と組んで
中宗を毒殺
↓↑
韋后
が
温王
李重茂(殤帝)
を擁立し傀儡としたのを危ぶみ
太平公主は
甥の
李隆基(玄宗)と謀り
韋后
安楽公主
その一族を誅殺
隆基
の父の
相王李旦(睿宗、太平公主の同母兄)
を即位させた
↓↑
皇妹としての
太平公主
の権勢は
宰相の
姚崇
張説
を左遷させるなど専権
次第に
皇太子
隆基(玄宗)と対立
↓↑
712年
睿宗
が皇太子
隆基
に譲位
皇帝(玄宗)
と
太平公主の対立が激化
公主は
玄宗の廃立を図るが
陰謀が露顕
713年
皇帝自ら兵300余を率いて
太平公主一派を倒し
公主に死を賜った
以後
玄宗の独裁体制が確立
「開元の治」
と呼ばれる
唐朝の最盛期へ
ーー↓↑ーー↓↑ーー
韋皇后(イコウゴウ)
?〜唐隆元年六月二十日(710年7月21日)
唐の
中宗の皇后
韋玄貞の娘
京兆万年(陝西省西安)出身
韋后とも呼ばれる
↓↑
神龍元年(705年)
武則天より譲位され
中宗が復位
武三思
らと結託し、
従兄の
韋温
とともに朝政を掌握
景雲四年(710年)
自らの即位を意図し
娘の
安楽公主
とともに
中宗を毒殺
温王
李重茂(殤帝)
を皇帝に擁立したが
李隆基(玄宗)
が政変を起こし
彼の父である
相王
李旦(睿宗)
が復位
韋后は殺害され、
身分も庶人に落とされた
↓↑ ↓↑
韋后の
子女
男子
李重潤(太子)
女子
長寧公主
永寿公主
李仙螵(永泰公主)
李裹児(安楽公主)
ーー↓↑ーー↓↑ーー
韋貴妃(イキヒ)
597年〜665年9月28日
唐の太宗
李世民の妃
名は珪
字は沢
本貫は
京兆杜陵
紀王
李慎
や
臨川公主
を産み
紀国太妃・・・・紀国の太の妃?
に立てられた
↓↑
韋貴妃は
韋円成
の娘として生まれ
北周の
太傅
韋孝寛
の曾孫
前の夫は
李萊
良家の娘として選出され
李世民の妃
627年4月1日
貴妃に冊立
650年1月29日
紀国太妃
に立てられ
665年
河南の
敦行里
の邸で死亡
666年12月29日
昭陵に陪葬
↓↑
中宗
唐の
第4代・第6代皇帝
諱は顕
高宗の七男
周王に封じられ
後に
「英王」・・・・・・「英王」とは何か?
に改封
↓↑
同母兄である
李弘
の急死
李賢
の廃立の後、
代わって立太子され
高宗の崩御により即位
↓↑
即位後
生母の
武則天
に対抗すべく
韋皇后
の外戚
韋后の父である
韋玄貞(元貞)
を
侍中に任用するつもりが
武則天が信任する
裴炎
の反対に遭い
中宗
は怒りの余り、
希望すれば
韋元貞
に天下を与えることも可能であると発言
この発言で
即位後54日で廃位
湖北に流された
↓↑
代わって
同母弟の
李旦(睿宗)が即位
690年
睿宗を廃立し
母親の
武則天が自ら即位
武周時代となった
↓↑
699年
李顕は
武則天により
再び立太子され
705年
武則天は
李顕
に譲位
唐の国号を復活
↓↑
中宗(李顕)は
韋后を信任し
朝政に参加させ
その父を王に封じ
韋后との間にもうけた
安楽公主
も朝政に参加させ
安楽公主
は自ら
皇太女
皇帝
となることを狙い
韋后も
武則天に倣い
帝位を求めた・・・
↓↑
710年
韋后の淫乱な行為が告発され
韋后は追及を恐れ
安楽公主
と共に
中宗(李顕)を毒殺
末子
重茂(殤帝)
を擁立
↓↑
1ヵ月後
李旦(睿宗)の息子
李隆基(玄宗)
に
韋后
と
安楽公主
は殺害され
殤帝
は廃位
中宗は定陵に埋葬
↓↑ ↓↑
后妃
↓↑
和思趙皇后・・・和を思い、趙の皇后
韋皇后・・・・・韋(イ)→葦(あし・よし)=蘆?
↓↑
貴妃楊氏
淑妃于氏
徳妃于氏
昭容上官婉児
昭儀陳氏
充儀閻氏
充容陸氏
修儀崔氏
↓↑
男子
譙王 李重福
懿徳太子 李重潤・・・懿徳=日本の第四代天皇
和風諡号
大日本彦耜友・・・彦=亠八厂彡
(おおやまとひこすきとも)
大倭日子鉏友
節愍太子 李重俊・・・・・・愍=民攵心=あわれむ・ミン・ビン
北海王 李重茂(殤帝)・・・北海王・・・北海道?
↓↑
女子
新都公主
宜城公主
定安公主
長寧公主
永寿公主
永泰公主 李仙螵
安楽公主 李裹児
成安公主 李季姜
ーー↓↑ーー↓↑
韋貴妃
阿史那忠墓誌(阿史那貞公墓誌)・・・阿史那の忠?
突厥族(匈奴の別種)
によると
陳州
刺史
円成の娘
韋孝寛
の孫
隋の戸部尚書
李子雄
の子の
李萊
にとつぎ
娘ひとり
(定襄県主、阿史那忠の夫人)・・・阿史那の忠?
突厥族(匈奴の別種)
を産んでいる
韋貴妃は再婚者であった
ーー↓↑ーー
安楽公主
嗣聖元年(684年)
〜
唐
隆元年六月二十日
(710年7月21日)
唐の
中宗の娘
母は
韋皇后
本名
李裹児・・・李の裹(うら・リ)の児(こ・ジ)
↓↑ 出生時に
中宗が自らの衣服を脱いで
安楽公主を包んだことより
↓↑ 命名
聡明で美人
韋后より寵愛され
成年後
武三思・・・武の三の思?→武の纂(簒)を思考、思惟、思索
の子
武崇訓・・・武の崇の訓?→タケルをウヤマウ、タタル?
に下嫁
武崇訓
の死後
安楽公主
は
武延秀・・・武を延(のば)し秀(ひいでる・比意出留)?
と私通
後に
武延秀へと嫁ぐ
自らを
皇太女に封じようと計画
魏元忠・・・魏(ギ)の元(もと)に忠(ただし)=中+心
の諫言により中止
生活は奢侈
武崇訓
との間にもうけた息子を数歳にして
太常卿・・・太(おほの)常(ところ・つね)の卿
鎬国公・・・鎬(しのぎ・なべ・コウ)国の公
に封じ、
姉の
長寧公主
定安公主
と共に
民間の子女を攫(さら)い
奴婢にした
これを知った
左台侍御史
袁従一・・・袁(ながそで)に従(したが)う一(はじめ)
袁=長衣
は
安楽公主の逮捕を計画するが
中宗の詔勅に阻まれ、不問に付された
↓↑
安楽公主
は
韋后
と共謀し
中宗
の殺害と
唐朝の簒奪を計画
710年
中宗が両者により毒殺され
臨淄王
李隆基(玄宗)
が兵を挙げて
韋后を殺害
逃亡した
安楽公主も殺害
それぞれ
韋庶人、悖逆庶人
と
庶人に落とされた
↓↑
高祖 618–626・太宗 626–649
↓↑
高宗 650–683
韓国夫人
武順(武則天の姉妹)
魏国夫人
賀蘭氏(武順の娘)
↓↑
中宗 684・睿宗 684–690
中宗 (復辟) 705–710・殤帝 710
睿宗 (復辟) 710–712
↓↑
玄宗 712–756
蜀州司戸の
楊玄淡の娘たち
楊貴妃(玉環)の姉妹
韓国夫人
虢国夫人(二女)
秦国夫人(三女)
↓↑
粛宗 756–762
代宗 762–779
徳宗 780–805
順宗 805
憲宗 806–820
穆宗 821–824
敬宗 825–826
文宗 826–840
↓↑
武宗 840–846
↓↑
宣宗 846–859
懿宗 859–873
僖宗 873–888
昭宗 888–904
(徳王 900–901)
哀帝 904–907
↓↑ ↓↑
爵位
制度?
該当、類似
↓↑
婦(女性の爵位で巫女的な存在
最高位だったが周代では格下げ
士階層の配偶女性をさす言葉になった)=婦好
子(王族の王子の意・婦に次ぐ高位の都市の領主
周代には格下げ
都市共同体の大夫階層をさした)=微子啓・孔子
公(周代、侯の中の特別に格付けされた
公と侯の字は当時も発音が同じ)=周公旦・召公奭
侯(都市国家の首長)
伯(殷代、王権の親衛隊的存在だった
周では都市国家に従属する小都市の長)=西伯昌・伯邑考
叔(諸侯の兄弟の意
周代の都市国家に従属する小都市や村の長)=蔡叔度・唐叔虞
亜(亜の字は王を取り囲む者の意
殷王の親衛隊的存在・周王朝には無い)
男(殷の下層首長を管理する徴税官的存在
周では都市共同体の大夫階層)
田(殷代、下層の首長層・周王朝には存在せず)
方(邦の語源
殷代には
外国の王や異民族の首長
『周礼』における子爵)
の存在が知られている・・・
↓↑
秦・漢の爵位
秦では
商鞅の第一次変法
軍功褒賞制
と
爵位制
が設けられ、
二十等爵制として
軍功により
爵位を与えた
爵位により
土地の保有量
奴婢数
など生活水準が決められていた
↓↑
前漢
秦の軍功爵制を改め
軍功に限らず
身分に応じて
軍功爵の爵位を与えた
二十等爵の他に
王爵を設け
次第に皇族に限られることとなった
爵位を持つ者は
土地の保有を許可された
↓↑
二十等爵
第二十級の
徹侯(後に武帝の避諱から通侯・列侯と呼ばれた)
を筆頭に
第十九級の
関内侯
第十八級
の
大庶長
第十七級
の
駟車庶長
第十六級
の
大上造
と続き以下
少上造、右更、中更、左更、右庶長、左庶長、五大夫
と続いた
ここまでが
官爵であり
十二等爵ともいい
官吏に与えられた
第八級の公乗以下、
公大夫、官大夫、大夫、不更、簪裊、上造、公士
までを
民爵といい民に与えられた
これらの上に
諸侯王
天子が君臨することから実質的には
二十二等爵
↓↑
漢武帝
軍事費調達のために
売爵が行われ爵位の価値が低くなった
軍功による爵位として
別に
武功爵が設定
第十一級の軍衛を筆頭に
第十級の政戻庶長、
第九級の執戎、
第八級の楽卿と続き以下
千夫、秉鐸、官首、元戎士、良士、輭輿衛、造士
これらの武功爵も後に売爵の対象となった
↓↑
後漢代に入ると
爵位の価値は更に軽くなり
列侯、関内侯のみが爵とされ
列侯はさらに
県侯、郷侯、亭侯
などに細分された
↓↑
魏晋南北朝の爵位
曹魏に至ると
秦漢以来の十二等爵を廃止
儒教経典の
公・侯・伯・子・男
擬古的に復活
文帝の
黄初年間に
王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯
関内侯の九等の爵制
222年(黄初三年)
皇子を王に封じ
王子を郷公に封じ
王世子の子を郷侯に封じ
公子を亭伯に封じていた
224年(黄初五年)
諸王の爵位が皆
県王に改められ
明帝の
232年(太和六年)
再調整されて
郡王となった
以上の九等の外に
庶民や兵士に対しての賜爵もあり
関内侯の下には
名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯
が創立
↓↑
晋の
武帝の
275年(咸寧三年)
王・公・侯・伯・子・男
開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯
開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯
の爵制が定められた
皇子でない者には王は封じらず
宗室には
公・侯・伯・子・男
(郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)
があり
功臣には
開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯
開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯
等があり、亭侯以上には封邑が与えられた
五等爵の上に
「開国」の2字を加えるのは
西晋では少なかったが
東晋になると多く用いられ
常に古来からの五等爵と混称
魏晋時代以降は
民爵については有名無実化
皇帝を頂点とした皇族と功臣の
爵位制度となっていった
↓↑
南朝の梁
魏晋代に倣った爵制を定め
陳では
郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公
侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯
関中関外侯の十二等があった
↓↑
北魏の
道武帝の
396年(皇始元年)
五等爵が定められ
404年(天賜元年)に
五等から
王・公・侯・子
の四等に減らされ
王は大郡
公は小郡
侯は大県
子は小県
が与えられた
その後、再び
伯・男
の二等が加えられ
皇子と功臣には
王
が封ぜられた
500年(景明元年)
王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯
子・散子・男・散男
の十一等の爵制が定められた
↓↑
北斉では
王・公・侯・伯・子・男
の六等に分けられ
↓↑ ↓↑
隋・唐・宋・遼・金・元
の爵位
隋の
文帝の開皇年間に
国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男
の九等爵が設けられた
ただし
「国王」については
従属国・朝貢貿易
の相手国の君主に対して与える封号としてのみ用いられ
君主が臣下に与える爵位とは異なる
他文献には
郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡
県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯
郷侯・亭侯・関中・関外侯
なども見られる
↓↑
中国の爵位は隋代以降基本的には
王・公・侯・伯・子・男
唐・宋代に完成
金・元
を経て、徐々に簡素化し
明代には
殷や周のころのように
五等や三等であった
清代も基本的に
五等爵を基本とし
等級を設けていた
↓↑
外命婦の封号(女性の爵位)
女性に与えられる爵位に順ずる封号
基本的に
皇族女子や夫・子によって授けられた
↓↑
唐代
皇伯叔母に
大長公主
皇姉妹には
長公主
皇女には
公主
皇太子の娘には
郡主
王の娘には
県主
王の母や妻には
妃が授けられた
皇室以外では
夫や子の品階や爵位によって授けられた
一品
および
国公
の母・妻には
国夫人・・・・
三品以上
の母・妻には
郡夫人
四品以上
の母・妻には
郡君
五品以上
の母・妻には
県君
散官
や
同職事には
郷君
がそれぞれ封ぜられた
↓↑
宋代
当初は
唐とほぼ同様の制度
公主から帝姫に
一時期変更されていた
郡君を
淑人・碩人・令人・恭人
県君を
室人(後更に宜人)・安人・孺人
に分けるようになった
↓↑
明代
公の母・妻は
国夫人
侯の母・妻は
侯夫人
伯の母・妻は
伯夫人
が授けられた
一品は
夫人が授けられていたが
後には
一品夫人と呼ぶようになった
二品は夫人
三品は淑人
四品は恭人
五品は宜人
六品は安人
七品は孺人
がそれぞれ授けられた
↓↑
母・祖母
などには
「太」
の字が加えられた
国太夫人
郡太君
伯太夫人
など
皇太后・太皇太后
などの用例と同じもの・・・
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随分と検索して添付したが・・・だから、ナニかワカったかな・・・「韓非子」の「郢書燕説(エイショエンセツ)」・・・???・・・
・・・英書の袁(長袖)の説・・・袖手傍観・・・
・・・袁=エン=宛・怨・円・猿・園・・・