2191日目・・・ 2016年(丙申)10月(戊戌)30日(乙酉)日曜日、31日(丙戊)月曜日・・・「バラ(薔薇)の名前(Il Nome della Rosa)」の師匠の「玉葱(タマネギ・onion・オニオン)」の講釈は「食べ過ぎるのはイケナイ、性欲が旺盛になるから」だったが、ストイックな「ウィリアム修道士」には当然で老師で、老人?だが、弟子の「アドソ」は若(わか)かったので「?」だったろう・・・しかも、タマネギ(玉葱)で「大蒜(にんにく・葫・garlic・ガーリック)」ではなかった・・・「黄色の玉葱」

 「長葱(ながねぎ)→葱(ソウ)」=筒抜けのもの=「艹+匆(稹・公?)+心」・・・匆=稹=多忙・・・採ってもスグに芽を出して伸びる?・・・「根葱(ねぎ)」・・・「根」を食べる「根の葱」・・・
 「悤=怱=忩→匆・稹は略字」=「総(すべる・ソウ)」・・・
 「窓(まど・ソウ→偬・聡・愡・惣」・・・「物部(述べ)の心」・・・「勿(勿論・〜する勿れ・モチ・ブツ・刎頸)」
 「匁(もんめ)」
 「忽(ゆるがす・たちまち・忽焉 (コツエン) ・忽然(コツゼン)・おろそか(忽略・軽忽・粗忽)」・・・
 「愡(ソウ・ス)=憁・揔(すべる・ソウ)・偬(ソウ・ス)」
 「惚(ほれる・自惚れ=己惚れ)」・・・
 「惣→揔→悤」・・・
 「楤(タラの木・タラの芽)=新芽・タランボ)=たら=桵木」
 「緫=総」
 「牕(まど・てんまど・けむりだし・ソウ)=壁・屋根などに設けた開口部=窗・囱・牎・窻・䆫・㷓・囪」・・・
 「マドと書く罫線表で、普通重なり合っているロウソク足(?)が、突然、間隔があいた隙間・そら(空)ともいう」・・・
 「マドが三回続けて出現したのを三空(さんくう)といい相場の転換点?」・・・株式相場のグラフ表らしい・・・「ローソク足チャート(ローソクあしチャート)は、株価などの相場の値動きを時系列に沿って図表として表す手法の一つ。ローソクチャートともいう。単位期間を定め、単位期間中 に初めに付いた値段を始値、最後に付いた値段を終値、最も高い値段を高値、最も安いのを安値」・・・博打屋の用語らしい・・・蝋燭(蠟燭)の火はイズレ消える・・・
ーーーーー
 「バラ(薔薇)の名前」・・・小説
   ↓↑
 ラテン語で書かれ、
 フランス語に訳された
 メルク
 の
 アドソ
 の手記を
 「私」が手にし、
 その真偽を疑いながら
 イタリア語で出版したという
 物語形式・・・
   ↓↑
 アヴィニョン教皇庁の時代
 フリードリヒ美王の特使として
 バスカヴィルの
 ウィリアム修道士が
 北イタリアの
 ベネディクト会修道院を訪れ
 異端審問官としての判断が高く評価されていた
 物語の語り手は
 見習修道士メルクの
 アドソ
 父親は
 メルク男爵
 ウィリアムと一緒に旅をしている・・・
   ↓↑
 ウィリアムの本来の目的
 「清貧論争」と呼ばれた、
 フランシスコ会
 と
 アヴィニョン教皇庁
 の間の論争に決着を付ける
 会談を調停し、手配することだった
 妨害事件、
 修道院内で死者が相次ぐ
   ↓↑
 この論争は決着は付かず
 教皇使節と共に会談に訪れていた
 異端審問官
 ベルナール・ギー
 が、修道院で起こっている殺人事件は、
 異端者の仕業であるとして、
 異端審問を要求
   ↓↑
 物語は7日間にわたって進行
 「迷宮図書館」
 修道士たちの長老、
 盲目の師
 ブルゴスの
 ホルヘなどの登場
 (ホルヘ・ルイス・ボルヘス
  アルゼンチンの国立図書館の館長で、
  盲目となった人物)
   ↓↑
 物語の背景
 喜劇について論じたとされる
 アリストテレス
 『詩学』の第二部・・・現物は存在しない・・・
 当時の神学論争(普遍論争など)
 フランシスコ会における清貧論争と異端論議
 神聖ローマ皇帝
 と
 アヴィニョンに移った教皇の争い
 終末意識
 実在した異端審問官
 ベルナール・ギー(ドミニコ会士)
 実在したフランシスコ会
 カサーレの
 ウベルティー
 を登場させて
 聖書やキリスト教神学から引用
ーーーーー
   ↓↑ 
 ターバン(アラビア語=`imāma)
 中東諸国、インドで用いられる頭に巻く帯状の布
   ↓↑
 イスラーム
 アッバース朝期以降、
 宗教的敬虔さの象徴
 ウラマーイスラーム、インド
 などのシク教徒も日常的に用いる
   ↓↑
 ターバン
 現在では単に頭部の布巻きもの
 必ずしもイスラームなどと結びつけられるものではない
   ↓↑
 黄巾の乱(Yellow Turban Rebellion)
 布を巻いた形状の帽子も
 ターバンと呼ばれている・・・
 ペルシア語(دلبند Dulband)が
 トルコ語(Tülbent)
 を経て15世紀末頃から
 ヨーロッパ語で取り入れられた・・・
 ターバンの定義
 ドゥルバンドはそのうちの一つ
 イスラーム世界におけるターバン
 男性が用いるターバンを指す用語は
 非常に多彩で、
 形状を異にする
 アラビア語の「イマーマ」が
 日本語の「ターバン」
 の意味やイメージに近いが、直接一対応する語ではない・・・
 ターバンは通常、
 扁平で
 頭の形にそった
 丸い帽子をかぶり、
 そこに巻くもので、
 発汗の抑止や、
 布を巻くことで
 空気を含ませて
 頭部の暑さや寒さを抑える効果、
 砂漠地帯では砂よけの効果を持つ
 同時に
 装身具としての
 視覚的意味合いがある・・・
   ↓↑
 イスラム世界のターバン
 ターバンは
 扁平で
 頭の形にそった
 丸い帽子をかぶり
 そこに
 布を巻くもの・・・
 帽子
 と
 布巻きは別モノ・・・
 帽子
 円柱状の帽子は
 古代エジプト
 ハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)で用いられた
 ジャーヒリーヤ
 アラブにとって
 ペルシア人の象徴
 布を巻いた形状は
 アラブに特有のもの
 イスラーム
 布を巻くということが
 アラブの
 アイデンティティー・・・
   ↓↑
 身分表示機能
 歴史的には
 武官に対する
 文官
 ウラマーとしての身分表示
 特定の
 スーフィー・タリーカ
 への所属、
 宗教、出自などさまざまな意味を持った
 イランでは
 黒ターバンを巻いているのは
 預言者ムハンマドの子孫
 セイイェド(サイイド/シャリーフ)
 の
 ウラマー・・・
   ↓↑
 19世紀以降
 近代主義的改革が行われ
 ターバンを巻く者は
 これに反対する伝統主義者と見られた
 現在都市部では
 ウラマーイスラーム復興主義者でもない限り、
 ターバンを巻いた者はほとんどいない・・・
   ↓↑
 フェズ(トルコ語=fes)
 頭頂部から
 房の垂れ下がった、
 つば(鐔)のない
 円筒形の帽子
 色は
 赤や
 「臙脂(エンジ・濃い紅色、黒みを帯びた赤色)=燕脂」色
 「フェズ」
 モロッコの都市
 フェズ
 にちなみ、
 日本では
 トルコ帽と呼ばれる
 エジプトなどでは
 タルブーシュ(طربوش)と呼ばれる
 19世紀〜20世紀初頭にかけて
 オスマン帝国とその周辺地域で流行
 モロッコの辺りで用いられていた帽子
 オスマン帝国
 マフムト2世
 の近代化改革によって
 文官・武官共に洋装を取り入れ
 従来ムスリムイスラム教徒)が
 頭に巻いていた
 ターバンに代わるものとして導入
 フェズは近代化のシンボル的存在
 19世紀末ごろのオスマン帝国
 フェズにフロックコート
 という洋風のスタイルが流行
   ↓↑
 クーフィーヤ (アラビア語: كوفية, Kufiya)
 アラビア半島社会で男性が
 頭にかぶる装身具、頭巾
 地域によっては
 シュマーグ (شماغ,shemagh)
 グトラ(غُترَة,ghutrah)
 ハッタ(حَطّة,ḥaṭṭah)・・・・旗?・・・葉通多?
 マシャッダ(مَشَدة,mashaddah)
 などと呼ばれる
 クルド語=ジェメダニー(cemedanî)
 ペルシャ語チャフィイェ(چَفیِه,chafiye)
 英語=keffiyeh=kaffiyeh
 とローマ字表記され、
 カフィエ
 と呼ばれる場合もある・・・
   ↓↑
 ターバンが
 頭の上で固まっているのに対して
 クーフィーヤ
 首の後ろまで布が垂れさがって
 頭部全体を覆う
 模様は様々で
 男性用で、
 女性は
 アバヤ
 などを身につける
   ↓↑
 黄巾の乱(Yellow Turban Rebellion)
 黄色い(?)布を巻いた形状の帽子・・・黄色のターバン?
ーーーーー
 後漢書の記録
 大秦(ローマ帝国)国王の
 「安敦」は
 「カエサルマルクス・アウレリウス
  アントニヌス・アウグストゥス
  121年4月26日〜180年3月17日
  第16代ローマ皇帝(在位、161年〜180年)
  ネルウァ=アントニヌス朝の第五代皇帝
  第15代皇帝アントニヌス・ピウスの后妃
  ファウスティナ・マイヨル(大ファウスティナ)
  の甥
  大ファウスティナは
  ハドリアヌス
  と
  トラヤヌスの傍系血族
  外叔父アントニヌスの皇女で自身の従姉妹である
  ファウスティナ・ミノル(小ファウスティナ)
  と結婚して帝位を継承
  共同皇帝として
  ハドリアヌス重臣の子
  ルキウス・ウェルスが立てられていた
  アウレリウスは
  小ファウスティナとの長女
  ルキッラを嫁がせて
  両皇帝の結束を固めたが、
  169年にウェルスが死んで
  単独の皇帝となった・・・
  ストア哲学・・・・ゼノンの思想哲学で
   ↓↑      感情=破壊的な衝動は
              判断の誤りから生まれるが、
           理性=知者は
             「道徳的・知的に完全」な人は
              この種の(感情)衝動に
   ↓↑         苛まされることはない」
  などの学識に長け、
  ネルウァトラヤヌスハドリアヌス、アントニヌス
  に並ぶ皇帝(五賢帝)と評された
  対外政策
  パルティアとの戦争で勝利
  蛮族への予防戦争として
  マルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人
  などへの遠征(マルコマンニ戦争)は
  長期戦となり、
  国力を疲弊させ、
  自らも陣中で没した・・・
  軍事よりも学問を好んだ皇帝
  『自省録』は自著
  プラトンの時代から学識者にとって
  理想とされた
  「哲人君主」だった」・・・
   ↓↑
 「ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌス
 (Lucius Aurelius Commodus Antoninus,
  161年8月31日〜192年12月31日
  在位期間
  180年〜192年)
  第17代ローマ皇帝
  ネルウァ=アントニヌス朝の最後の皇帝
  たびたび
  改名を重ねた
  公文書などでは
  ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌス」
 「先帝マルクス・アウレリウスの嫡男
  第十一子で
  六男
  アウレリウス・コンモドゥス
  紫の皇子の渾名
  紫とはローマの皇帝権
  在位中の皇帝を父に生まれたという意味・・・
  184年
  元老院から
  「ブリタンニクス(Britannicus)」
  の称号を与えられた・・・
 ・・・184年の後漢の「黄布の乱」に重なるローマ皇帝・・・
 部下の「クレアンデルの専横」によて、汚職、食糧危機、内政が混乱・・・側近の粛清・・・「ある時、陛下は切り落とした獣の首を貴賓席に座る我々の方へ笑いながら差し向けてきた。その行動は「余の気を損ねれば、お前達もこうなる」という言外の意味を含んでいることは明らかだった。しかし我々は恐怖よりも、その芝居がかった行動が滑稽に思える気持ちの方が強く、思わず笑いが零れそうになった。
 我々は慌てて月桂樹の葉を口に噛んで笑いを堪えねばならなかった。もし笑えば本当にあの獣の如く殺されてしまうだろう」・・・
 彼は毒を盛られ、絞殺された・・・享年、31歳・・・
   ↓↑
 後漢の末期
 184年
 大農民反乱
 農民を扇動したのは
 張角
 の唱えた
 太平道という新興宗教
 張角
 「蒼天すでに死す、・・・・・蒼(艸+倉)の天?
  黄天まさに立つべし。
  歳は
  甲子にあり、
  天下大吉」
 をスローガンにし
 甲子の年(西暦184年)3月5日?・・・四月二日?
 黄巾を標識とした
 後漢朝、2世紀末
 外戚,宦官,官僚が権力争い
 地方では
 天災飢饉が続発
 農民の反乱
   ↓↑
 太平道への弾圧
 184年
 張角によって起こされた
 後漢
 火徳に代わる
 土徳の
 黄色の頭巾(ずきん)をつけた
   ↓↑
 後漢(25〜220)末の宗教反乱
 黄色の頭巾をつけて目印に
 黄巾(huáng jīn)とよばれた
 後漢中期
 豪族が大土地所有し
 村落社会を支配
 天災と飢饉が頻発
 農民は豪族に隷属し、流亡化し
 華北に没落農民・流民が発生
 抵抗した儒家・士大夫の運動も
 党錮の禁
 で挫折
 鉅鹿(河北省)の
 張角
 「太平道」を創唱
 罪の懺悔(ザンゲ)による
 療病と倫理的な生き方を説き
 疫病の蔓延、村落社会から疎外された
 没落農民・流民を救済し
 十数年間に
 数十万の信徒を得て各地に教団を組織
   ↓↑
 外戚、宦官(カンガン)、党人官僚
 が三つどもで政争
 地方で洪水や干魃(カンバツ)、流行病
 鉅鹿(キョロク・河北省南部)の人
 張角は、
 黄帝信仰
 道家(ドウカ)学説を含む
 道教の一派である
 太平道を創始
 大賢良師(タイケンリョウシ)と自称
 呪術と信徒本人の懺悔によって
 病気が治るという
 太平道の教えで
 黄河下流域の
 多数の貧困と病気に苦しむ農民たちを
 教団に組織化
 後漢
 霊帝(レイテイ)代・・・第12代皇帝
            在位期間
            168年2月17日〜189年5月13日
            解瀆亭侯劉萇(建)の子
            解瀆亭侯劉淑の孫
            河間王劉開の曾孫
            章帝の玄孫
            中平四年(188年)十月
           「皇帝直属の常備軍」の創設を構想
            無上将軍と名乗り、下に
            西園八校尉と呼ばれる8人の指揮官には
            曹操袁紹・淳于瓊がいた
 「184〜189年」
  霊帝時代の『後漢書東夷伝倭人条に
  この頃、
 「倭国に大乱」・・・・これは「黄巾の乱」に
 と、記録       連動していないか?・・・連動
 184年2月節分以降は、
 60年を1周期とする
 干支、甲子の最初の年
 「蒼天、既にに死せり。
  黄天まさに立つべし。
  歳は甲子に在(あ)り。
  天下大吉」
 というスローガンを掲げた
 この年2月
 目印として互いに
 黄色い頭巾
 を着用した
 30余万の信徒を率いて反乱
 後漢政府が党人官僚への弾圧を中止し
 黄巾討伐に全力をあげた
 張角が陣中において病死
 反乱の主流は年内に平定
 その余党は
 10年以上にわたって各地に蜂起(ほうき)し
 離合集散
 行政官や将軍たちの
 地方割拠と絡み合い
 黄巾の余党の活動は
 後漢帝国の統一政府に実質に打撃を与えた
   ↓↑
 後漢
 鉅鹿郡(河北省南部)の
 張角によって組織された
 中国最初の
 道教教団
 西方の巴蜀および漢中の地域に発展した
 五斗米道(ゴトベイドウ)
 と時期は同じ
 大賢良師と称した
 張角
 病人に罪の懺悔をもとめ
 お札や霊水を飲ませ
 呪文をとなえて
 神のゆるしを請う
 そのような方法で布教
 十数年の間に
 信者は
 中国東半部の広い地域にわたって
 数十万人に達し
 36の
 「方」とよばれる集団に組織化
   ↓↑
 河北
 山東
 の農民に多くの信徒を得た
 「五斗米道」とともに
 道教の源流・・・・道教道家の源流はキリスト教
          184年
          唐代は景教ネストリウス派
          431年の異端派)だが?
          唐の太宗の時代、
          635年に中国に伝わった
   ↓↑
 太平道
   ↓↑
 後漢末期におこった新宗教
 干吉(カンキツ)
 が神人から授けられた
 『太平清領書(たいへいせいりょうしょ)』
 170巻によって、
 張角がこの宗教を始めた・・・
 太平道教団は個人的信仰に基づく集団・・・?
 張角
 184年に
 「黄巾の乱」を起こした・・・
   ↓↑
 「蒼天已死 黄天當立」
 「四神」を崇めるもの・・・???
 青龍は川(青)
 白虎は道(白)
 朱雀は窪地(朱)
 玄武は冬の北風を防ぐ山(黒)
   ↓↑
 儒教
 「子、怪力乱神を語らず(孔子)」
 人知では推し量れないこと、
 理性では説明できないことがらについては語らない」
 新王朝を建国した
 王莽が前漢を簒奪する時に、正当化するため
 焚書坑儒を免れた教典を復刻
   ↓↑
 「青天の霹靂」・・・「晴天」ではない・・・だからナニ?
 青空に突然に起こる雷
 思い掛けず起こる突発的事変
 突然の大事件
 人を驚かす変動
   ↓↑
 「陸游」の
 「九月四日の鶏未鳴起作」・・・
       ニワトリ、未だ鳴かず時に起きて作す?
 ・・・筆の勢い(筆の運び、描写の動的な勢い?)らしい・・・が、ナゼ、「青天の霹靂」なのか・・・
   ↓↑
 「霹靂は雷・雷鳴」
 「霹(はためく・ヒャク・ヘキ)」・・・ハタめく、でアル・・・
 「霹靂神(はたたがみ)」=「霹靂藭」
 「かみ-とき=神-解き=霹靂」・・・?
 「かみ-とけ」に同じ(名義抄)
 「かみ-とけ=神-解け=霹靂」・・・?
   ↓↑
 「雷が落ちること・落雷・かみとき・かむとけ」
 「カムトケに当たりし、楠あり(霊異記・上)
 「かむ‐とけ=神-解け=霹靂」
 「かみとけ」に同じ
 「霹靂神してその磐をふみさいて」〈神功紀〉
 「はたた‐がみ=霹靂神」
 「はたたく神の意・激しい雷」
 「へき-れき(霹靂)=かみなり・いかずち・雷鳴
  雷が激しく鳴ること。落雷」
   ↓↑
 「霹靂=急而響的雷・
     唐、王維
     老將行=「漢兵奮迅如霹靂、
          虜騎奔騰畏蒺藜」
     紅樓夢第一回
    「士隱、意欲也跟了過去、方舉步時、
     忽聽一聲霹靂
     有若山崩地陷」
     亦稱為「落雷」
  ↓↑
 「霹隆(Перун・英语=Perun)
  又譯為、佩龍
  斯拉夫神話的神祇、
  為萬神殿(Pantheon)
  中位階最高的神明,掌管雷電
  就像日耳曼神話的托爾神、
  霹隆被形容為是一個有銅鬍子的暴躁男子
  他騎乘著由
  公羊拖著的戰車、
  帶著
  斧頭
  或是
  鐵槌」
  ↓↑
 黄巾の乱
 184年4月2日先勝・木曜日・4月1日=戊申・赤口・水曜日
 (ユリウス暦
 干支=甲子年丁卯月己酉日・・・4月2日=己酉・先勝・木曜日
                4月3日=庚戌・友引・金曜日
 日本
 成務天皇五十四年
 皇紀844年
 中国
 後漢  : 光和7年、中平元年
 張曼成 : 神上元年
 朝鮮
 高句麗 : 故国川王6年
 新羅  : 阿達羅王31年、伐休王元年
 百済  : 肖古王19年
 檀紀2517年
 仏滅紀元: 727年
 ↓↑
 黄巾の乱(コウキンのラン・黃巾之亂)
 小説『三国志演義』では反乱軍を
 「黄巾“賊”」と呼称
 している。後漢の衰退を招き、三国時代に移る
 ↓↑
 冀州
 鉅鹿の
 張角
 『太平清領書』に基づく
 道教的な悔過による治病を行った
 政治色を濃くしていった
 太平道は、数十万の信徒を
 三十六個に分け、
 一単位を「方」とし
 軍事組織化
 武装蜂起を計画した
 張角は、漢王朝の転覆を暗示した
 「蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉」
 (『後漢書』71巻 皇甫嵩朱儁列傳 第61 皇甫嵩
 というスローガンを流布し、役所の門などに
 「甲子」の
 二文字を書いて呼びかけた
 ↓↑
 184年(光和七年、干支年は甲子)
 先に
 荊・揚州で兵を集めさせていた
 馬元義
 を洛陽に送り込み、
 中常侍
 封諝、徐奉等
 を内応させ
 3月5日に内と外から蜂起するよう約束
 だが、
 張角の弟子の
 唐周
 が宦官達に密告
 蜂起計画が発覚し、
 馬元義は車裂きにされた
 霊帝
 は三公や司隸に命じ、
 宮中の衛兵や民衆を調べさせ
 千人余りを誅殺し
 張角の捕縛の命を下した
 ↓↑ 
 2月
 張角は予定より早く諸方に命じ一斉に蜂起し
 自らを
 天公将軍と称し、
 弟の
 張宝張梁
 をそれぞれ
 地公、人公将軍とした
 ↓↑
 3月
 霊帝
 何進
 を大将軍とし将兵
 都亭に駐屯
 八つの関に都尉を置き洛陽を守護
 皇甫嵩
 呂強
 等の進言によって
 「党錮の禁」を解き、
 官界から追放されていた
 清流知識人が
 黄巾賊に合流するのを防ぎ、
 且つこれを利用
 また
 宮中の倉の銭と
 西園の馬を出し人材を募り、
 盧植
 を張角がいる冀州方面へ、
 皇甫嵩
 朱儁
 を
 豫州潁川方面へと、
 黄巾の勢力が強い所へ派遣
 ↓↑
 豫州・潁川黄巾軍
 184年4月
 朱儁は潁川にて
 波才と激突し敗走
 ↓↑
 5月
 皇甫嵩
 朱儁
 は
 長社に篭城
 波才は大軍を持って包囲
 皇甫嵩は軍を鼓舞し
 火計を用いて
 波才軍を混乱させ
 長社を討ってでて波才軍を敗走させた
 援軍に来た
 曹操軍と合流し、打ち破り、追撃し
 陽翟において
 波才軍を、
 6月
 に西華にて
 彭脱軍をそれぞれ壊滅
 黄巾の別働隊を破った
 王允と共に豫州を平定
 ↓↑
 荊州南陽黄巾軍
 184年3月
 荊州南陽にて
 張曼成率いる南陽黄巾軍が蜂起
 太守・褚貢を攻め殺し
 自らを
 「神上使」を称し、
 宛に駐屯
 ↓↑
 6月
 南陽太守に任命された
 秦頡は
 張曼成を攻めこれを斬ったが、
 南陽黄巾軍は
 新たに
 趙弘を指揮官に立てて盛り返し、
 宛城に篭った
 豫州を平定し終えた
 朱儁
 荊州刺史
 徐璆
 秦頡
 と合流し宛城を包囲
 ↓↑
 8月
 宛城を包囲中に
 何者かが
 朱儁の更迭を進言という噂
 朱儁は急遽攻撃を開始し
 趙弘を斬った
 趙弘を失った黄巾軍は
 韓忠を代わりに立て再び宛城に篭ったが、
 朱儁揮下の
 孫堅の活躍で宛城は落城
 韓忠は脱出し降伏しようとするが
 朱儁が受け入れず、
 その後打ち破られた
 韓忠は秦頡に殺され
 南陽黄巾軍は新たに
 孫夏を立て抵抗
 ↓↑
 10月
 朱儁
 抵抗を続けた
 孫夏を破り
 南陽黄巾軍を壊滅
 ↓↑
 冀州張角
 184年6月
 冀州にて黄巾軍に連戦連勝した
 盧植軍は、
 張角が広宗に篭城するとそれを包囲し攻め落とそうとし
 盧植軍は終始優勢だったが
 派遣されてきた
 小黄門
 左豊に賄賂を贈らなかったため、
 恨まれ讒言され職を解かれ
 代わりに
 董卓が派遣されたが
 黄巾軍に敗れた
 ↓↑
 8月
 霊帝
 豫州を平定したあと
 兗州東郡において
 卜己軍を打ち破った
 皇甫嵩冀州に派遣
 ↓↑
 10月
 皇甫嵩
 広宗で黄巾軍を奇襲によって破り
 張梁を斬った
 張角は病死
 していたので
 遺体を引きずり出し晒した
 鉅鹿太守の
 郭典と共に、
 曲陽にて
 張宝を打ち破りこれを斬った
 ↓↑
 黄巾の乱、収束
 張角ら幹部が死去した後も
 乱の根本的原因である
 政治腐敗による
 民衆への苛政が改善されることはなく、
 黄巾軍の残党はこののちも
 広範な地域に跋扈し、
 反乱を繰り返したり、
 山賊行為や盗賊行為を行っていた・・・
 これらの中で
 楊奉、韓暹に率いられ
 白波谷に拠った残党は
 「白波賊」と称されたが、
 献帝の洛陽帰還の際に
 後漢に帰順し、
 皇帝奪還を目論む
 李傕、郭艴らと交戦
 後に
 盗賊のことを「白波」と称するのはこれによる
 青州は黄巾軍が大流行しており、
 青州の黄巾軍
 100万人が中国北部を大いに荒らし、
 公孫瓚に大敗
 ↓↑
 187年
 張純が反乱
 青州刺史は
 張純討伐を命じ
 討伐軍が平原を通過した時、
 劉子平は
 劉備が武勇に優れているとして従事に推薦
 劉備は従軍し、
 田野で敵軍と戦い負傷し、
 死んだ真似をして後から友人に助けられ脱出
 軍功で
 安熹県の尉になった
 (魚豢「典略」)・・・
 ↓↑
 192年
 兗州刺史
 劉岱が戦死
 黄巾軍の勢力が弱かった涼州のような地域でも
 後漢政府の統制が弱まったため、
 韓遂らが相次いで反乱、自立、抗争を繰り返し、
 異民族も辺境でしばしば略奪行為
 豪族を中心にして
 村落共同体規模で
 自衛・自警のための武装
 知識人を含む多くの民が
 荊州・揚州・益州・交州
 など
 江南や四川の辺境地域に移住
 黄巾の乱以後
 軍閥的な勢力が多数出現
 群雄割拠
 軍閥を支えていたのは
 黄巾の乱により武装化した豪族たちと
 広汎な地域に拡散した知識人・・・
ーーーーー
 ↓↑ ↓↑

 タマネギ(玉葱、学名:Allium cepa)
 ネギ属の多年草
 onion(英語)
 oignon(仏語)
 ↓↑ ↓↑
 玉葱(和)
 ↓↑
 一年草、もしくは二年草
 鱗茎、
 葉は野菜
 種小名はcepa(ラテン語でタマネギ)
 「頭」を意味する
 ケルト語に由来・・・
 戦前の日本では
 「葱頭」が正式な和名
 ↓↑
 タマネギ中毒(onion poisoning)
 タマネギなどの摂食で
 イヌ、ネコ、ウシ
 などの食中毒
 サルなども用量依存性の障害が生じる
 (過剰に摂食し過ぎると障害が起こる・人も同様)
 低用量ではタマネギ中毒にはならない
 ↓↑
 タマネギ、ニンニク、ニラ
 などのネギ属に含まれる
 アリルプロピルジスルファイド
 などが
 ヘモグロビンを酸化させ
 溶血性貧血を起こす
 血液塗抹標本では
 ハインツ小体が認められ
 摂取する食品を加熱しても毒性は消えない・・・
 摂取量と体重の相関関係は明確でない
 動物の種や個体差次第
 品種や個体によっては
 少量の摂取でも死亡する原因として、
 赤血球中の
 カリウム濃度が関係・・・
 HK型イヌ赤血球を持つ犬は
 赤血球内が高カリウム状態に保たれるため、
 タマネギ中毒起因の
 溶解性貧血が発生すると、
 赤血球内の
 カリウムが血液中に流出し
 高カリウム血症に伴う死亡の危険が高まる
 1975年に北海道大学の家畜病院で報告・・・
 北海道大学
 ザガジグ大学
 らの研究グループが、
 ヒツジのタマネギ中毒発症の研究
 ヒツジに於いては
 第一胃内の
 嫌気性細菌が発症に関与
 症状
 貧血、黄疸、可視粘膜蒼白、ヘモグロビン尿
 など。発症までに1〜数日かかる
 慢性症状は
 肝臓機能の低下・・・
 治療
 すぐに吐かせる
 ビタミン剤投与
 有効な治療方法
 解毒剤などはなく
 強心剤、利尿剤
 などの対症療法を行う
 重症の場合は輸血
ーーーーー
 ↓↑
 たまねぎ効能
 疲労回復、高血圧、糖尿病、不眠解消、精神安定
 と効果・・・
 ↓↑
 たまねぎの原産地
 中央アジアから地中海沿岸
 栽培は
 古代エジプト
 メソポタミア文明で始まった・・・
 16世紀頃には ヨーロッパ各地で広がった
 江戸時代に
 オランダ人が長崎に持ち込んだのが最初
 ↓↑
 品種
 鱗茎の辛味度
 辛タマネギ
 甘タマネギ
 に大別
 鱗茎の色により
 黄、赤、白色系
 に分けられる
 日本で栽培される品種
 辛タマネギの
 黄色系
 泉州黄(せんしゅうき)
 札幌黄
 ともに
 アメリカでの栽培品種を
 日本で改良してつくられた
 泉州はイエロー・フラット・ダンバース
 札幌黄はイエロー・グローブ・ダンバース
 が改良親
 泉州は北海道以外ではもっとも主要な品種
 泉州がもとになって
 奥州
 仙台黄
 貝塚早生(かいづかわせ)
 久留米黄(くるめき)
 など多くの品種が分化
 札幌黄
 北海道でもっとも主要な品種
 秋タマネギの代表種
 黄色系以外の
 辛タマネギの品種では
 愛知白
 札幌赤
 が栽培
 甘タマネギの品種
 黄魁(さきがけ)
 湘南(しょうなん)レッド
 がわずかに栽培
 (星川清親
 ↓↑
 起源地
 イラン、パキスタン
 および
 その北の山岳を含む地域と推定
 野生種らしい植物が
 19世紀に
 西アジアで発見された・・・
 バビロフによれば、
 第一次中心地は
 中央アジア
 第二次中心地は
 近東地区で、
 現在の栽培型より大きい
 大球型が地中海沿岸地域にある
 中近東、インドでは古くから栽培
 エジプトでは
 第1〜第2王朝時代(前3000〜前2700)
 の墓の壁画に描かれている
 ピラミッドを築く労働者の食用とされた
 ギリシアでは
 紀元前10〜前8世紀、
 ローマでは
 前5世紀から栽培
 ドイツでは
 15世紀
 タマネギ料理が普及
 ヨーロッパ一帯に広まったのは
 16世紀ころ・・・
 北・南両アメリカ大陸には
 16世紀に
 スペインから入り、
 アメリカ合衆国では
 17世紀から栽培が始まった
 西インド諸島へは
 17世紀に入った
 日本へは江戸時代(18世紀)に
 長崎に入ったが、
 現在の品種は主として
 1884〜85年(明治17〜18)に導入され、改良されたもの
 (田中正武)
 ↓↑
 日本
 食卓には
 明治時代以後
 和風料理は
 肉じゃが・すき焼き・牛丼・ハンバーグ・メンチカツ
 獣肉食が解禁されて生まれた料理が多
 「不許葷酒入山門」
 に引っかかるため、
 一部仏教宗派(臨済宗曹洞宗
 では食べることを禁じられている・・・
 ↓↑
 ナポレオン時代
 フランス軍
 『玉葱の歌(Chanson de l'Oignon)』(作詞・作曲、不詳)
 は童謡
 『クラリネットがこわれちゃった』
 の原曲・・・
ーーーーー
 1.
 俺は油で揚げた玉葱が好き。
 うまけりゃ俺は玉葱が好き。
 俺は油で揚げた玉葱が好き。
 玉葱が好き、玉葱が好き。
 (繰り返し)
 1.
 J'aime l'oignon frît à l'huile,
 J'aime l'oignon quand il est bon,
 J'aime l'oignon frît à l'huile,
 J'aime l'oignon, j'aime l'oignon.
 Refrain.
 (繰り返し)
 進もう戦友、行進の足取りで。
 進もう、進もう、行進の足取りで。
 Refrain:
 |: Au pas camarade, au pas camarade,
 Au pas, au pas, au pas. :|
 2.
 油で揚げた玉葱一玉だけでも、
 俺たちゃ獅子に変わるよ。
 油で揚げた玉葱一玉だけでも、
 俺たちゃ獅子に変わるよ。
 (繰り返し)
 2.
 Un seul oignon frît à l'huile,
 Un seul oignon nous change en lion,
 Un seul oignon frît à l'huile
 Un seul oignon nous change en lion.
 Refrain.
 ぼくの大すきな クラリネット
 パパからもらった クラリネット
 とっても大事に してたのに
 こわれて出ない 音がある
 どうしよう どうしよう
 オ パキャマラド
 パキャマラド パオパオ
 パンパンパン
 オ パキャマラド
 パキャマラド パオパオパ
 ドとレとミの音が出ない
 ドとレとミの音が出ない
 とっても大事にしてたのに
 こわれて出ない音がある
 どうしよう(コラ)
 どうしよう(コラ)
 オ パキャマラド
 パキャマラド パオパオ
 パンパンパン
 オ パキャマラド
 パキャマラド パオパオパ
 ドとレとミとファとソと
 ラとシの音が出ない
 ドとレとミとファとソと
 ラとシの音が出ない
 パパも大事にしてたのに
 見つけられたらおこられる
 どうしよう(オー)
 どうしよう(オー)
 オ パキャマラド
 パキャマラド パオパオ
 パンパンパン
 オ パキャマラド
 パキャマラド パオパオパ
 「クラリネットをこわしちゃった」
 が歌唱禁止に?・・・・???
 ↓↑
 18世紀末〜19世紀初頭のフランスでは、
 クラリネットには
 「召使い」という意味があった・・・
 「クラリネット(clarinet)をこわしちゃった」
  ↓↑
 ・・・「クラリネット」は、その「形状」だろう・・・もちろん、「名器」の意味も・・・「笛吹き((パイドパイパー)」とは「グリム童話の中世ドイツの北の町、ネズミ(鼠・鼡・子)退治してくれた『ハーメルン(Hameln)の笛吹き男』は1284年の6月26日にハーメルン(Hameln、German・独逸)で実際に起こったと云われる130人の子供たちが一夜にして街から消えた」、「古い記録は1430年から1450年頃のもの(リューネブルク写本)で、現在でもこの街は、「Rattenfängerstadt Hameln(ネズミ捕りの街ハーメルン)」・・・どっちにしても壊してしまっちゃぁネッ、「少子化」の原典(原点)かも・・・フランス、当時のナポレオンの敵はドイツ・・・ハーメルンは、当時のハノーファー選帝侯領最強の要塞都市で、難攻不落の「北のジブラルタル」とされたが、ナポレオン時代のフランス支配とプロイセン支配下が入れ替わる1806年、クリュート山の麓に第四砦(ルイーゼ砦)が造られた。イエナ・アウエルシュタットの戦いの後、ル・コック将軍が率いるハーメルンは1806年にサヴァリー将軍指揮下のフランス軍に、戦うことなく降伏し、1808年にナポレオンによって要塞は取り壊された・・・そして、最北方のロシア・・・
 日本での替え唄の詩はドイツを意識していたかも・・・?
 「ナポレオン戦争」・・・1796(1799?、1803?)年〜1815年まで・・・
  ↓↑
 の本来の意味は、
 領主である父親から
 女を譲られた息子が、
 性的暴力を働いたことを意味するらしく、
 女中や下女は主人に求められれば
 性的な仕事にも奉仕していたと
 歴史研究により明らかになった・・・
 全国の教育委は
 「小学生には早すぎる内容」として・・・
  ↓↑ 
 「オ・パッキャマラード」のフレーズが
  ↓↑
 「おっぱい、毛、マラ、
  おっぱい、毛、マラ、おっぱい、
  おっぱい、おっぱい、おっぱい」
 と聞こえるらしい・・・児童の性教育に悪影響?
 「オ・パッキャマラード」は訳すると、
 「ステップを踏むんだ」
 や
 「足並みそろえろ」
 という意味・・・
 ↓↑
 3.
 だけどオーストリア人に
 やる玉葱はない。
 その走狗どもに
 やる玉葱はないのだ。
 だけどオーストリア人に
 やる玉葱はない。
 奴らにやる玉葱はないのだ。
 (繰り返し)
 3.
 Mais pas d'oignons aux Autrichiens,
 Non pas d'oignons à tous ces chiens,
 Mais pas d'oignons aux Autrichiens,
 Non pas d'oignons, non pas d'oignons.
 Refrain.
 ↓↑
 4.
 油で揚げた玉葱を好きになろう。
 玉葱を好きになろう、うまいんだから。
 油で揚げた玉葱を好きになろう。
 玉葱を、玉葱を好きになろう。
 (繰り返し)
 4.
 Aimons l'oignon frît à l'huile,
 Aimons l'oignon car il est bon,
 Aimons l'oignon frît à l'huile,
 Aimons l'oignon, aimons l'oignon
 Refrain.
 ↓↑
 黄たまねぎ
 シャロット
 もっとも多く出回っている黄色種の辛たまねぎ
 イエローダンバース系の
 札幌黄泉州黄からの改良種が多く栽培されている
 たまねぎを小さく、やや細くした形。
 分球して数個の鱗茎をつくるたまねぎの親戚。
 フランス料理に欠かせない野菜
 ↓↑
 赤たまねぎ
 紫たまねぎともいう。
 皮も表層部も赤紫色。
 湘南レッドが代表的な品種で、
 辛みも刺激臭も少なく、
 みずみずしい。サラダに最適。
 ↓↑
 白たまねぎ
 日本では極早生種。
 端境期の3、4月に愛知白が出回る。
 水分が多く、辛みが少なく柔らかい。
 ↓↑
 原産地は中央アジア。地中海沿岸
 古代エジプトで栽培
 ギリシャでは紀元前10世紀
 ローマでは紀元前5世紀
 に栽培されていました。
 旧約聖書
 千夜一夜物語
 にも
 食べたり
 精力剤・・・・・・・・・・・
 にする話
 ヨーロッパ一帯に広まったのは
 16世紀から
 硫化アリルはビタミンB1の吸収をよくする
 米食中心で
 ビタミンB1の不足しがちが
 日本人には欠かせない野菜
 ↓↑
 食べているのは「葉」・・・
 葉の下の
 葉鞘とよばれるところが
 成長するにしたがって厚みを増し、
 重なり合って
 球体に太ったもの・・・
 1枚ずつはがすと魚のうろこ(鱗)のようになるので、
 鱗茎とよぶ
 英語のオニオンという名前は
 ラテン語
 ユニオンから転じたもので
 多くの「うろこ(鱗)状の葉の集合体」の意味・・・
 ↓↑
 古代エジプトを支えた
 たまねぎ
 古代
 エジプトに伝わり、
 紀元前33〜28世紀の
 第一王朝時代の墓の壁画にもたまねぎの絵が描かれている
 ピラミッドを築く労働者には
 にんにく
 たまねぎ
 を食べさせたという記録・・・ウィリアム修道士の研究?
 「たまねぎ」が
 彼らの給料の支払いにも使われた・・・という説・・・
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 ・・・「黄色=きいろ=規意賂」・・・「黄幢」と「玉葱」と、その「鱗(ウロコ)」・・・「タマネギのカワを剥くサル」でした・・・「鱗茎、即ち葉は野菜として食用に利用され、サルは好んで 食べることもある」らしいが・・・丙申年(2016年)の怒り涙と、歓喜の涙・・・あぁ、きみ、ミズや、感激のナミダにムセブ、我が選手・・・涙の出ない「タマネギ」、そして果物ように甘い「タマネギ」の発明、栽培、出荷・・・