2173日目・・・昨夜(2016年10月07日 金)はTVで「ヒストリビア・日本語を切り開いた"マンネン"な人びと」を観た・・・ついに出てきたカナ、尋常小学校教科書(「イエ・スシ読本」・第1期「尋常小学読本(「イエスシ」読本8冊1904(明治37)年)、ナゼ「イ・エ・ス・シ」なのか、そして、怪しい詩文の「尋常小学唱歌(1911年〜1914年・文部省編纂の尋常小学校用の唱歌の教科書・尋常小学読本唱歌を引き継いだもの・第一学年用〜第六学年用までの全6冊」・・・現代日本語の肝であり、𦜝(へそ・臍・毘)である「

ーーーーー
 で、「井上あさひ」さんの「歴史ことはじめ」のブログを拝見してボク的な概要に勝手に改作して添付、ゴメンナサイ・・・原文は、以下です・・・
http://www.nhk.or.jp/osaka-blog/historia/254291.html
 ↓↑
 ヒストリビア“001”
 「・・・日本では
  江戸時代の終わりまで長らく
  “日本語”が無く、
  無数の
  “お国言葉”
  “階層・職業
  等で異なる言葉”がある状態でした。そこに、
  明治近代化の激流に押されながらとはいえ、
  短期間で
  全国共通のひとつの言葉―
  「標準語」をつくろうという試み、
  それはそれは大変なコトだった・・・」
 ↓↑
 言語学者
 上田万年(うえだかずとし・マンネン)先生
 徳川御三家
 尾張藩(名古屋)・・・・現存古事記尾張名古屋」デス
 武士の家に生まれ
 江戸詰め=東京常駐の藩士
 日本における
 「博言学=言語学」を確立すべく
 ヨーロッパに留学派遣
 帰国後は東京帝国大学教授
 文部省における
 国語政策の重職を歴任
 ↓↑
 アイヌ語・文学の研究の
 金田一京助は・・・・「キンダ」なのか、
           「かねだ」なのか?
 帝大言語学科でマンネン先生の生徒
 国語辞典
広辞苑」の編集者
 新村 出(しんむらいずる)も
 ↓↑ 新村(シンソン・にいむら)
 ↓↑     ・・・出=「で・だ
              シュツ(スイ)」
        出火・出荷・出願・出血・出港
        出世・出入・出発・出版・出力
        案出・外出・救出・支出・進出
        退出・脱出・提出・摘出・転出
        搬出・輸出・流出・出現・現出
        百出・頻出・露出・出自・出生
        出身・嫡出・出色・傑出・出演
        出勤・出社・出場・出席・出師
        出納 (スイトウ)・出口・出先
        出窓・家出・死出・早出・人出
        船出
        出雲 (いずも)
        出 (い) で座 (ま) し
        出来 (しゅったい)
        出会 (でくわ) す
 ↓↑     見出 (みいだ) す
 マンネン先生の弟子で
 高校生の頃マンネン先生の講演
 「言語学者としての
  新井白石」・・・・・・新井白石デス
 を聞いて言語学を志した
  ↓↑
 「〽折角たのしい此の世の中を
  堅い理屈で無が無にきざむ
  野暮ぢゃ先生
  ちょと振り向いて
  こちらの花をも見やしゃんせ」 
 マンネン先生がうなっていた
 都々逸(どどいつ)に
  ↓↑ ・・・・都(みやこ・ト)
  ↓↑     々(同)
         逸(いつ・イツ・イチ
           それる・はやる
           逸出・逸走・後逸
           逸脱・散逸・逸文=佚文
           逸事・逸聞・逸話)
           後免・御免の
           免(うさぎ)の類似は
           兔・兎・菟・莬・莵・寃
           悗(ぼんやりする・思い悩む
             バン・マン)
           晩(よる)
           挽(ひく)
  ↓↑       堍(ト)
 新村は強く印象を受けた・・・
  ↓↑
 ロシア語の
 八杉貞利(やすぎさだとし)
 中国語の
 後藤朝太郎(あさたろう)
 朝鮮語
 金沢庄三郎(かなざわしょうざぶろう)
 小倉進平おぐらしんぺい)
 満州語研究の
 藤岡勝二(かつじ)
 日本の
 古語、音韻(読み方)を追究した
 橋本進吉(しんきち)
 現代の当用漢字・現代かなづかい
 国語政策に尽力した
 保科孝一(ほしなこういいち)・・・
 ↓↑
 標準語に力を注いだ
 東京っ子マンネン先生
 その姿勢は
 他の言語を排除したり、
 黙殺したりするものではなかった・・・
 日本語研究のためには
 諸言語の研究が必要という持論のもと、
 若き才能を見出してそれを託した・・・
 ↓↑
 マンネン先生の
 2番目の娘さんである
 円地文子・・・円の地の文の子・・・なるほど示唆的
 戦後活躍した
 小説家・劇作家で
 「源氏物語」の訳者として
 与謝野晶子
 谷崎潤一郎とならぶ
 格調高い
 名訳を世に送った・・・
 ↓↑ 
 いちばん上の娘さんは
 宇野千代子・・・宇の野の千の代の子・・・なるほど示唆的
         鸕野讃良=持統天皇=菟野・沙羅羅
         は先代(天智)の子?
 「生きて行く私」の作家
 宇野千代
 と
 円地文子・・・太田皇女=大津皇子と大伯皇女の母?
 は姉妹だった
ーーーーー
 ・・・以下はスベテ、ブログ検索からの添付、特にウイッキペデアからの参考、参照・・・
http://www.search.ask.com/web?apn_dbr=cr_37.0.2062.94&apn_dtid=%5EOSJ000%5EYY%5EJP&apn_ptnrs=BBK&apn_uid=6E5B6E1E-3BAC-497C-9673-5697F9D111B9&crxv=124.14&doi=2014-08-29&gct=hp&itbv=12.15.5.30&o=APN11412&p2=%5EBBK%5EOSJ000%5EYY%5EJP&pf=V7&psv=&pt=tb&tbv=12.40.6.15&tpid=ORJ-SPE&trgb=CR&ts=1475894953198&tpr=10&q=%E4%B8%8A%E7%94%B0%E3%81%8B%E3%81%9A%E3%81%A8%E3%81%97&page=3&ots=1475895815587
 ↓↑
 上田 萬年(うえだ かずとし)
 1867年2月11日
 (慶応三年一月七日)
   〜
 1937年
 (昭和十二年十月二十六日)
 日本の国語学者言語学者
 東京帝国大学
 国語研究室の
 初代主任教授
 東京帝国大学文科大学長
 文学部長
 円地文子の父
 ↓↑
 B.チェンバレンにつき国語学を学ぶ
 1894〜1927年東京大学教授
 1890年ドイツ留学し
 西欧言語学の研究方法を紹介
 ↓↑
 江戸
 大久保出身・・・大久保デス
 西欧の
 言語学研究法を紹介し、
 国語政策に種々の提言
 財団法人
 原田積善会顧問、
 東洋文庫の創立期リーダーの一人で理事
 ↓↑
 教え子に
 新村出橋本進吉金田一京助亀田次郎
 文部省専門学務局長
 1908年に設置された
 臨時仮名遣調査委員会の委員
 1908年
 帝国学士院会員
 ↓↑
 江戸
 大久保(東京都新宿区)の
 尾張藩下屋敷で生まれる
 名は「かずとし」と読むのが正式
 本人は「まんねん」という読みも採用し
 ローマ字の Mannen というサインも残されている
 ↓↑
 東京府第一中学変則科(都立日比谷)
 の同期には、
 澤柳政太郎、狩野亨吉、岡田良平、幸田露伴尾崎紅葉
 教育令改正のため、
 のちに
 第一中学から新制大学予備門へ繰上げ入学
 1888年(明治二十一年)
 帝国大学和文科(東京帝国大学文科大学)卒業
 在学中は
 バジル・ホール・チェンバレン
 (Basil Hall Chamberlain)
 1850年10月18日〜1935年2 月15日
 イギリスの日本研究家
 東京帝国大学文学部名誉教師
 ↓↑ 明治時代の38年間(1873年〜1911年)日本に滞在
    チェンバレン
    ラフカディオ・ハーン小泉八雲)と親交したが
    チェンパレンの
   『日本事物誌』の音楽、神道、文学などの項目に批判
    日本の国歌を翻訳
    A thousand years of happy life be thine!
    Live on, my Lord, till what are pebbles now,
    By age united, to great rocks shall grow,
    Whose venerable sides the moss doth line.
 ↓↑  ↓↑
    汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
    われらが主よ、治めつづけたまえ、
    今は
    小石であるものが
    時代を経て、あつまりて
    大いなる岩となり
    神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
 ↓↑  ↓↑
    眼病のため、1911年に離日
    ・・・眼病デアル・・・
       目弱(眉輪)皇子?
       耳なし芳一
      (みみなしほういち)
      (見視名詞法位置?)
       小泉八雲の『怪談』
       一夕散人(いっせきさんじん)著
      『臥遊奇談』第二巻
      「琵琶秘曲泣幽霊
      (びわのひきょく
            ゆうれいをなかしむ)」
       柳田國男
      『一つ目小僧その他』
       の「耳切り団一」
       検校か座頭市
       鑑真=淳于?
       淳于意=齊の医者で太倉長を務め
                 太倉公
       塙己保一(はなきほいち)
 ↓↑  ↓↑  ↓↑  ↓↑
   (basil・hall、or whole、
                Chamberlain=式武官・侍従
    バシイル  ホウル   チエンバレン(ム)
    葉詞留・  保得留・  地円 場例務?)
    ・・・ナルホド、「円地文子」であるカナ・・・?
    『日本事物誌』
    『口語日本語ハンドブック』など著作、
    『古事記』などの英訳・・・「古事記」の英訳デス
    アイヌ琉球の研究者
    「王堂」と号し、
    署名には
 ↓↑ 「チャンブレン」と書いた・・・
 に師事し博言学(Philologyの訳)
 の講義を受けた
 大学院に進み、
 1890年(明治二十三年)
 国費でドイツに留学
 ライプツィヒ
 ベルリン
 で学び、
 パリにも立ち寄って
 1894年(明治二十七年)
 帰国
 留学中、
 東洋語学者の
 フォン・デル・ガーベレン
 に出会い薫陶
 ユンググラマティケル(青年文法学派)の中心人物、
 カール・ブルークマン
 エドゥアルド・ジーフェルス
 の授業を聞く
 サンスクリット語の講義も受講
 帰国後、
 東京帝国大学文科大学
 博語学講座教授に就任
 比較言語学
 音声学
 などの新しい分野を講じ、
 当時
 古文研究にかたよりがちであった
 日本の国語学界に、
 近代語の研究、科学的方法という新風をふきこんだ
 ↓↑ 
 1899年(明治三十二年)
 文学博士号取得
 東京帝国大文学部長等を経
 1919年(大正八年)
  〜
 1926年(大正十五年/昭和元年)
 まで
 神宮皇學館皇學館大学)館長兼務
 1926年(大正十五年/昭和元年)
  〜
 1932年(昭和七年)
 貴族院国学士院会員議員
 1927年(昭和二年)
 東京帝国大学東京大学)を定年退官
 1929年(昭和四年)まで
 國學院大學学長
 1937年(昭和十二年)
 直腸癌のため死去
 ↓↑
 国学の伝統を批判的に継承し、
 標準語
 や
 仮名遣い
 の統一化に尽力
 彼の強力な統一思想は
 明治後期から現代に至るまで
 150年以上に渡る
 方言廃絶主義を
 国家の教育として推し進める原点となり、
 沖縄の罰札制度に代表されるような
 非標準語地域の人々の心理的圧迫や、
 国家の言語の多様性を失わせる結果となった・・・
 ↓↑
 文部省著作の
 「尋常小学唱歌
 の歌詞校閲担当者の一人
 高野辰之よりも
 権限が大きい立場での校閲
 「尋常小学唱歌
 作曲主任であった東京音楽学校
 島崎赤太郎教授とは
 標準語のアクセント重視という点で
 気脈を通じていた・・・
 ↓↑
 言語研究の中での最大の功績
 1901年にドイツで行われた
 正書法を日本の言語政策に応用しようとした
 旧仮名遣いの混乱を質すために、
 明治維新以来
 「言文一致」
 への移行が必要だった
 1901年
 言語学会などを立ち上げ
 明治期にできる最新の方法で
 「言文一致」の表記を勘案
 長音記号の「−」の採用
 1903年発行の
 『仮名遣教科書』
 に見える
 新仮名遣い(「発音式」)
 この仮名遣いは、
 文部省内においても、
 初等教育での
 教科書にほとんど採用の予定であったが、
 岡田良平
 森鷗外
 など
 旧仮名遣いに固執する人々による運動の末、
 1907年
 貴族院
 発音式から
 歴史的仮名遣いに改正すべき建義案を
 文部大臣に提出
 1908年
 臨時仮名遣調査委員会
 第四回委員会での
 森鷗外による
 「仮名遣意見」
 によって完全に消滅
 ↓↑ 
 著書
 単著
 『国語論』金港堂 1895年
 『作文教授法』富山房 1895年
 『新国字論』1895年
 『日本語学の本源』1895年
 『国語のため』富山房 1897年から1903年間で
 『西洋名数 五十音引』富山房 1904年
 『男子成功談』金港堂 1905年
 『普通教育の危機』富山房 1905年
 『国語学叢話』木村定次郎編 博文館 1908年 学芸叢書
 『国語読本別記』訂正版 大日本図書 1909年
 『ローマ字びき國語辭典』冨山房 1915年
 『英雄史談』広文堂書店 1916年
 『国語学の十講』通俗大学会 1916年 通俗大学文庫
 『新井白石 興国の偉人』広文堂書店 1917年
 『言語学新村出筆録 柴田武校訂 教育出版 1975年
      シリーズ名講義ノート
 『国語学史』新村出筆録 古田東朔校訂 教育出版 1984
      シリーズ名講義ノート
 ↓↑
 上田万年
 国語学者
 現代の国語学の基礎を確立した人物
 帝国大学和文学科卒業後、
 ドイツ、フランスに留学し、言語学を修めた
 帰国後、
 それまでの国学者の研究に対し、
 西ヨーロッパの言語研究方法を紹介
 従来の研究を再検討し、
 新しく
 国語学史、国語音韻、国語史、系統論
 などの研究を開拓、
 他方、
 国語調査委員会の設置
 (1900。のちに国語審議会に改組〈1949〉)
 に尽力し、
 国語政策、
 国語調査にかかわるとともに、
 多くの優れた後進の育成に努めた
 東大教授
 文部省専門学務局長
 神宮皇学館長
 国学院大学
 などを歴任
 著書に
 『国語のため』全2巻(1895、1903)
 『国語学の十講』(1916)
 松井簡治(かんじ)との共著
 『大日本国語辞典』(1915〜19)
 などがある
 ↓↑ ↓↑ 
 「仮名遣い」より
 …たとえば,
 今日(きよう)を〈けふ〉と書き,
 葵(あおい)を〈あふひ〉と書き,
 ワ行に活用する動詞の活用語尾を
 ハ,ヒ,フ,ヘで書くなど,
 これらを正式な仮名用法として
 初等教育に課することは無理と考えられた。
 そこで
 1883年(明治十六)
 〈かなのくわい〉は
 仮名文字専用論とともに
 発音的仮名遣いにすべきことを唱え,
 東京文科大学の
 言語学国語学の教授
 上田万年(かずとし)も,
 ヨーロッパの
 綴字法(てつじほう)の変遷を見て
 発音式の仮名遣いを用いるべきであると考えた。
 1900年
 小学校においては
 表音的な
 字音仮名遣いを実施し,
 08年には
 すべて表音的な仮名遣いにしようとしたが,
 保守的な思想の人々はこぞって反対し,
 ついに
 契沖仮名遣いに復帰した。…
 (言文一致)より
 ↓↑ ↓↑
 …なかでも
 美妙は,実作ばかりでなく,
 《言文一致論概略》などによって
 その文体を鼓吹し,
 2〜3年にわたって賛否の論争が盛んで,
 〈言文一致〉はその主張,運動の名であるとともに,
 その文体の名ともなった。
 その後しばらく不振の時期をおいて,
 日清戦争後,
 標準語制定を急務とする
 上田万年の言文一致の主張をはじめ,
 四迷の翻訳,
 正岡子規の写生文
 などにより再び文壇に力を得,
 文語の〈普通文〉が一種の
 標準文体として固定しつつある一方で,
 新聞の論説も言文一致をとるものが現れた。
 文章の改善は
 国語国字問題の重要な一環と考えられ,
 1900年には
 帝国教育会内に
 言文一致会が成立して,一つの国民運動となった。…
 (大日本国語辞典)より
 ↓↑ ↓↑
 …上田万年松井簡治共著(実際は松井著)の国語辞書
 初版は本文4冊(1915‐19),著索引1冊(1928)。
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 「博士問題の成行」
     夏目漱石
 二月二十一日に学位を辞退してから、二カ月近くの今日きょうに至るまで、当局者と余よとは何らの交渉もなく打過ぎた。ところが四月十一日に至って、余は図はからずも上田万年うえだかずとし、芳賀矢一(はがやいち)二博士から好意的の訪問を受けた。二博士が余の意見を当局に伝えたる結果として、同日午後に、余はまた福原専門学務局長の来訪を受けた。局長は余に文部省の意志を告げ、余はまた局長に余の所見を繰返して、相互の見解の相互に異なるを遺憾とする旨を述べ合って別れた。
 翌十二日に至って、福原局長は文部省の意志を公けにするため、余に左の書翰を送った。実は二カ月前に、余が局長に差出した辞退の申し出に対する返事なのである。
「復啓二月二十一日付を以て学位授与の儀ぎ御辞退相成たき趣むきの御申出相成り候処、已(す)でに発令済みにつき今更、御辞退の途もこれなく候間(そうろうあいだ)御了知相成たく大臣の命により別紙学位記御返付けかたがたこの段申進候(そうろう)敬具」
 余もまた余の所見を公けにするため、翌十三日付を以て、下に掲ぐる書面を福原局長に致した。
 「拝啓学位辞退の儀は既に発令後の申出にかかる故、小生の希望通り取計らいかぬる旨の御返事を領し、再応の御答を致します。
 「小生は学位授与の御通知に接したる故に、辞退の儀を申し出でたのであります。それより以前に辞退する必要もなく、また辞退する能力もないものと御考えにならん事を希望致します。
 「学位令の解釈上、学位は辞退し得べしとの判断を下すべき余地あるにもかかわらず、毫(ごう)も小生の意志を眼中に置く事なく、一図に辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し小生は不快の念を抱くものなる事を茲(ここ)に言明致します。
 「文部大臣が文部大臣の意見として、小生を学位あるものと御認めになるのはやむをえぬ事とするも、小生は学位令の解釈上、小生の意思に逆って、御受をする義務を有せざる事を茲に言明致します。
 「最後に小生は目下我邦における学問文芸の両界に通ずる趨勢に鑒(かんがみ)て、現今の博士制度の功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲(ここ)に言明致します。
 「右大臣に御伝えを願います。学位記は再応御手許まで御返付致します。敬具」
 要するに文部大臣は授与を取り消さぬといい、余は辞退を取り消さぬというだけである。世間が余の辞退を認むるか、または文部大臣の授与を認むるかは、世間の常識と、世間が学位令に向って施す解釈に依って極るのである。ただし余は文部省の如何と、世間の如何とにかかわらず、余自身を余の思い通どおりに認むるの自由を有している。
 余が進んで文部省に取消を求めざる限り、また文部省が余に意志の屈従を強いざる限りは、この問題はこれより以上に纏(まとま)るはずがない。従って落ち付かざる所に落ち着いて、歳月をこのままに流れて行くかも知れない。解決の出来ぬように解釈された一種の事件として統一家、徹底家の心を悩ます例となるかも分らない。
 博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違いない。けれども一国の学者を挙げて悉(ことごと)く博士たらんがために学問をするというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。余は博士制度を破壊しなければならんとまでは考えない。しかし博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握(しょうあく)し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く一般から閑却されるの結果として、厭(いと)うべき弊害の続出せん事を余は切に憂うるものである。余はこの意味において仏蘭西(フランス)にアカデミーのある事すらも快よく思っておらぬ。
 従って余の博士を辞退したのは徹頭徹尾、主義の問題である。この事件の成行きを公けにすると共に、余はこの一句だけを最後に付け加えて置く。
   ――明治四四、四、一五『東京朝日新聞』――
   底本:「漱石文明論集」岩波文庫岩波書店
    1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
    1998(平成10)年7月24日第26刷発行
   入力:柴田卓治
   校正:しず
   1999年8月5日公開
   2003年10月9日修正
   青空文庫作成ファイル
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 上田万年(うえだかずとし)
 言語一般(日本語の構造)
 1867〜1937、国語学者
 1898 年、
 日本語の
 ハ行子音が、
 無声両唇破裂音[p]→両唇摩擦音
        [f]→声門摩擦音[h]
 という変化をしたという
 考証(「p音考」)を発表した。
 また、明治政府の設けた
 国語調査委員会の主査などを務め、
 国語研究・国語政策等の分野で広く活躍した。
 著書に『国語のため』『大日本国語辞典』(共著)等がある。
ーーーーー
 ・・・???・・・コジキ・・・乞字記・・・