2157日目・・・気持ち・・・ワリりキれないモノは「ブンスウ」にするって?・・・円周率 「π(パイ)」は「超越数=連続無限数=±∞」で、「超越数」も入れた「数直線全体」のことを実数「R」といい、実数「a」と「b」によって「z=a+biz=a+bi」と書かれるものを「複素数(i)」とされた・・・「i(アイ=愛・哀・逢・遇・姶・合・会・相)」は「複素諏得」なんだ・・・?・・・「アビぃ」・・・「円周」を「直径=2r」で割っても、割り切れない数の連続で「∞=8の横倒しの字」である。類字記号は「∽=Sの横倒し」・

 ↓↑
 π=(円周・l) ÷ (直径)=円周/直径=円周:直径=3.1415・・・
 π=(面積・S) ÷ (半径・r)²=3.1415・・・
 「サン、テン、イチ・ヨム・イチ・ゴ」である・・・
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 分数の割り算
 逆数をかける
 2÷2=1=2/2
 3÷3=1=3/3
 4÷4=1=4/4
 である
 1=2/2=3/3=4/4・・・
 2=4/2=8/4=6/3・・・
 3=3/1=6/2=9/3・・・
 2(1/3)=7/3
 分数の分子と分母に
 0以外の同じ数をかけても、
 分数の大きさは変わらない・・・
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 文数の和理の纂
 「逆(ギャク・さからう)=屰+辶」の
 「数・數(スウ・かず)=米+女+攵」を
 カケる
 弐(二)÷弐(二)=位地・位置・逸・佚・意知・壹・壱
 参(三)÷參(三)=位地・位置・逸・佚・意知・壹・壱
 肆(四)÷肆(四)=位地・位置・逸・佚・意知・壹・壱
 である
 イチは「二文の二」
   と「サン文のサン」
   と「ヨム文のヨム」・・・
  二は「ニ文のヨム」
   と「ヨム文のハチ」
   と「サン文のロク」・・・
 サンは「イチ文のサン」
   と「ニ文のロク」
   と「サン文のク」・・・
 ニ、カッコ、サン文のイチ、カッコは
   「シチとサン文のイチ」
 文数の文子と文母に
 ゼロ(零・例)以外の同じ文をカケても、
 ブンスウ(文素得)の大きさは変わらない・・・
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  ↓↑
 ・・・「ブンスウのガク」・・・
 「アイ(ai)」は
 「ム(mu)」の
 「ク(ku)・7(nana・シチ・シツ・seven→施文)」・・・
 「ム」→「ク(7)」→「マ」
 ム→む→25度→→70度→ク(7)←反転→→マ
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 「ム=よこしま=シ・私」
 「ク=く=苦」
 「7=なな=陀・斜・質・疾・失・嫉・漆・悉」
 「マ=ま=眞・魔・倍・萬」
 「予の異体字=舍(三体石経)」・・・予=マ+了(ア)
 「予=与(與)える」
  ↓↑
 「現代市民社会」の基本原則もこれに尽きる・・・
 「人間社会の共同体の論理学の帰結」も、この概念化された、抽象化された「コトバ」に事実として、その現実的な「生活形態」が合致せねばならないのは言うまでもないだろう・・・
 そして「盗むな」が「論理の要」で「盗むコト」が「他のコトバ=観念=観念」に置き換えられて、その意味がアイマイにボカされているのだ・・・
 そのサイたるモノが
 「私(ム)的所有=疎外された富の蓄積」、
 「資本=疎外された労働」
 「自由=疎外された選択」
 と言うコトバの肯定である。
 そして「騙す」も「殺す」も、
 生きている人間が「盗むため」の手段である・・・
 「新約聖書」に語られている「愛(アイ)」・・・
 「愛」と言う概念の歴史的発生とその論理性は、
 「殺すな、騙すな、盗むな」の共同体の原則破綻から発生した「コトバ」である。
 人間にとって「愛」と言うコトバが必要とされる「人間社会」は「論理学」からみれば「人間の疎外された社会」である。
 当然にも「愛」は「天国」と言う観念幻想に止揚されてしまうから・・・
 「愛」は、漢和辞典には、
 「愛=爪+冖+心+夂(夊)」の合字で、
 「爪」は「掴みとる・衛る」、
 「冖」は「覆う」、
 「心」は「こころ」、
 「夂・夊=すいにょう」は「夂=チ・ついていく」で、
 「夊=スイ・ゆっくりといく・やすらかにゆく」である。
 類字は「攵(たたく・ボク・ホク)=攴」で、
    「叩く、打つ」である・・・
 「愛」は、
 ・・・「キ=既(皀旡)+心」=感歎、悲喜
 ・・・「アイ=旡+心」=元気のない足取り
 が変形したモノとある。
 「皀」は食べ物で、
 「旡」は喉につまる、むせぶ、息が詰まるの意味である。
 「皀」の上下の文字交換したモノが
 「旨(うまい)」である。
 また「旡」は「たらふく食って後ろにのぞけっている象形」とある。食べるものが充分に確保されているコトだ。
 「愛」の本義は「食える・食わせる」と言うことらしい・・・なるほど、デートには食事に誘うのが常道で、親は子供に餌をやらねばならない・・・
 「旡」は
 「牙(ガ・ゲ・きば)」
 にも
 「无(ム・ブ・無い)」にも類字し、
 「牙」は「武器」であり、「象牙」であり、「歯牙(ことば)」、「毒牙」であり、
 「仲介料、手数料をとる者」であり、
 「植物発生時の芽生えるコト」であり、
 「牙籤(ガセン・書名分類の象牙の札)」である。
 「无妄(ムボウ)」は
 「真実でいつわりの無い象」である、と記されている。
 また、「愛」は、
 仏教では「異性や物をむさぼり求めるコト・十二因縁の一」で、
 キリストの「愛」は「神が人類に幸福を与えるコト。また、人類すべてを兄弟としていつくしむコト」
 とある。
 仏教では「愛」は「欲望・愛欲」と同義語であるが
 「理諏経」は「セックスの歓喜の方法理論のお経」である・・・
 キリスト教では幸福の場所は「天国」か、未来的な「千年王国の蘇生」に於いてである。そして「人類すべてを兄弟としていつくしむコト」の延長には「汝の敵を愛せ」と言うことだが・・・
 自分自身に対して「殺す、騙す、盗む」者として存在する「敵」を「愛」しては、やはり行き場所は「天国」しかないのは自明であるが・・・自分自身がダレかのタメに「殺す、騙す、盗む」は「アイ」の根源かも・・・「活殺」は相対としての事情によるカモ・・・兎に角、生きているモノは、「生きているモノ(動植物を含む)」を喰っている・・・「愛」は「爪を隠すワの心」の「攵(ボク)」なら打ちの
 そして「愛」は抽象観念であるから、人間諸関係の事象を基礎として、その「心的観念」、「心情的観念」として意味説明され、語らねばならない言葉である・・・
 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(新約聖書、マタイ福音書、5章44節)
 「敵(リバル)を愛するコト」は理解できる。
 その諸能力と知恵が優れているならば、「敵」であっても「学ぶためにその長所を愛する」だろう。
 「迫害する者のために祈れ」とは、「何を祈る」のか?・・・「祈れ」は「呪え」ではないよな・・・「迫害しない者」として「神への回心を祈るコト」なのか・・・当然である。
 だが、一般的に理解するならば「迫害する者」であっても、「祈れってヤレ」である。その現実的な「迫害」は「祈る者」に対してなされているハズである。「迫害されて祈る者」には救われて「死後の天国」があるからだ。「迫害した者」には「天国」はない。あるのは「死後の地獄」である。だが生きている両者にある「関係」は「迫害と被迫害の現実」があるだけである・・・死んで、生きカエッて天国、地獄を観たモノはイナイ・・・死者は蘇(甦)えるコトは無い・・・「臨死体験」は死者ではない生きている者の体験である。「幽霊」は死んだモノの「現象?」である。
 「愛=現実的に迫害を許す」と言う「被迫害者」の「観念」は、現実社会に於いては「諦め=死後の天国」と言う「観念」に止揚されるのだ・・・脳ミソだけが知っている・・・?
 ・・・パウロ(サウル・キリキア地方タルソスに生まれたユダヤギリシャ人?)は「キリストの教え」を人類の観念として改竄した・・・?・・・「愛(アイ)のブンスウ」・・・