2136日目・・・モモちゃん、台風上陸だけれど、札幌ドームで20時20分、「大谷」が逆転ホームラン18号を撃ったョッ!・・・北海高校も勝った・・・「勝負の世界」を観戦するのは心臓にワルイ。TVの中継が終わったが球場での観戦中の子供達と共に日本ハムの勝利を期待して結果を待ちたいが、ドームの外は暴風雨、帰りは気をつけろ。卓球の「愛ちゃん」の泪(涙・涕)にも感激だけれど・・・TVは「ジプシ共和国」のドキュメンタリーで、「ザ!世界仰天ニュース・超暑いアフリカ最恐の土地へ…世界の危険地帯!仰天探検隊SP仰天探検隊

 この二十一世紀・・・「人類の知の根源」とはナニか?・・・日本地域に住んでいた縄文時代、そして弥生時代の人びと・・・「外国」と云うコトバは無かったハズだが・・・
 日本地域に住んでいた人びとも、「先住民」で、アフリカの何処からか、時間をかけてやってきて住み着いた「people」である・・・
 だが、「ひとびと」は「government of the people」なってしまったが、「government」の「the people」とは、「人民の政府」なのか、「政府の人民」なのか?、で、そもそも「人民」とはダレなのか?・・・
 「平民=the people」とは「貴族=aristocracy(アリストクラシー)」の対語である。既に階級序列社会(貴族vs人々)のコトバである。「貴族」とは古典ギリシア語の「aristo(最上の)+ cratia(支配)」で「優秀者=貴族」による支配階級であるらしいが、貴族とは「富豪(plutocracy)階級」であり、「aristo-cracy(アリスト-クラシー)」の「アリスト」とは、その共同体内階級の利害を衛る「兵士」で、「都市国家の皆兵を義務とした市民」でもあった。しかも、兵士の武具の装備は自前であった・・・
 ここでは「市民」とは元々が「階級序列」を形成する「兵士」になれる存在なのである。「兵士」とは「戦争」での「殺傷」、「掠奪」、「捕虜」、そして敵の「土地、領土」の分配にあづかる権利を有する者達である、と云うコトだ。
 だが、「市民皆兵」と云っても「兵役義務」には肉体的に敵と戦える者であるコトや、その義務期間があった・・・当然、都市国家自体が攻められ、防衛戦争となれば「市民全員が防衛戦争の兵士」である・・・
 兎に角、「敗戦」すれば敵の掠奪と捕虜となっての奴隷である。国家間の近代戦争、現代戦争もこの基本的なモノはお変わり無しである・・・戦争当事者双方の戦力、軍事力が均衡していれば、「停戦・休戦」の条約を結ぶか、それが無ければ直接的な武力衝突を控えた小競り合いの睨み合いの「冷戦」だろう・・・
 古代も、中世、近世、現代も「国家規模の全滅」は不可能であったし、あるが、「原水爆」は「人類規模の滅亡」である。
 「都市国家の兵士」は「他の都市国家」と戦争し、その勝利の結果として負けた都市国家から財産の掠奪、そして捕虜を奴隷とするコト、領土の支配が許されていた。
 だが、その掠奪した戦利品の分配にも階級序列的なモノがあったのは当然で、戦場で勇敢に手柄をたてた者が「順位の優先」だった。勲章とか景品ではない「戦利品」としての掠奪した物と者、そして占領した土地の支配権の分配順位である。その決定は「元老院の元老達」であったろう。
 兵士が勝利で凱旋した暁には「名誉」と「地位序列のランク上昇」もあっただろう・・・
 そして「戦場で兵士の指揮官で現役or退役」した者が「元老院に参加」できた。それは、戦争によって形成し、その門閥を相続してきた「貴族階級共同体」の中でも決定権を有する「特別な(知的に、武力に優秀な?)人々」だった。
 だが、戦争での財産形成でなくても、私有財産の蓄積、形成は「商売」で出来る「市民」も存在していた。「戦争」での「消耗品(兵站)の調達」、「戦利品の売買」、「色街経営」、「神殿経営」、「見世物興業」、「金貸し」は商売繁盛の条件である。戦争が無くても武力威喝を背景にすれば「交易商売」は有利にできる・・・儲かった蓄積財産をドウ運用するかは「自由市民の選択の自由」である。「商人市民」は「権力者」にカネを投資する・・・古代〜現代までコレラの原則に変化はない・・・「国家権力」を動かすのは「事業利権」としての「カネ」である・・・
 「市民」と「人民」は異なる概念である。「市民」とは「権力(独裁or共和or民主)」の政治体制を採ろうが「法の制約下での権利」を保障された「市民権を有する人々」である。そして「法の下」で「商売・事業」が保障され、財産的な借金を「自分自身(の資産or肉体)を担保」にしてカネを借りるコトが出来たが返済出来ない場合は「奴隷」に転落した。「法的な犯罪者」は「市民権」を剥奪された。
 「市民」とは「法的に私有財産権の選択の自由を許された人々」である。プラスアルファは「居住する場所の自由選択」と「移動の自由選択」を許された人々である。
 「人民」とは「独裁=専制法」、「共和=妥協法」、「自由=選択法」、「民主=選挙法」・・・コレラの法体制に拘束されるのは「人民」である・・・
 「市民」も「人民」も「他者への表現」さえなければ「空想・妄想・想像」は個々人の脳ミソの自由勝手のモノである。
 「平民=ヒトびと」とは「貴族」と対立し、差別されていた時代の「people」である。
 そして「共和(階級妥協)-国」と「民主(公平無階級)-国」は異なるだろう・・・
 「person の語源は、ラテン語の persona(ペルソナ=人格・役柄・物語の個々の演じるキャラクター=character)であるらしいが、個々人(personal person)とは演劇上、シナリヲ上に登場し、その役柄を演技表現する人々(people)ではないだろう・・・自分自身の「日常生活の生き方」そのものの立場である。
 「日本人の知の源泉」・・・「外国(foreign country land・foreignoverseas・other countries・out country)」、「外国人(alien people・ foreign people)」からの「情報」だけではないだろう。その生まれた場所、育った環境(自然・人々)が「知と認識、思惟思考」の源泉である。
 日本領域で先住した人々が文字を獲得したコトには確かに自前ではないらしいが・・・
 だが、自前の「情報、伝達」手段としての「文字」があったらしいコトは確かカモ・・・
 「日本領域内」での北海道、小樽手宮の岩に刻まれた「古代文字」がある。見に行ったけれど、ボクには岩の何処に文字があるのはナカナカ判断できなかったが、それらしきモノは確認した。
 余市にも「フゴッペ洞窟の文字」があるが、自分の目では確認したコトはない。洞窟壁面には図像が陰刻されていらしく、図は200以上、人物や動物、船などとみられ、列点があるそうである・・・だが、これは学者、研究者には疑問視されてもいる。云わば、その是非は曖昧である、と云うコトである・・・
 縄文時代の人びとは土器、土偶を造り、漆器ものを作り、大木を切り、巨大な高殿を建て、鯨を捕え、栗を栽培、採種し、天体を観測し、モチロン、数も数えていた・・・知識の源泉は自然そのものである。そして、口承と実技での伝承であったろう・・・
 これらは、文字通りの「文の明・文の化」ではない・・・
 「経験」と「智恵」である・・・
 ・・・台風惨禍の最中・・・他意・・・諷刺・諷喩・・・ソラんじるって?・・・諳(そら)んじる・・・